『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」1-31~1-34(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 ヴロンスキイはその夜、夜っぴて眠ろうともしなかった。彼は自分の席に腰かけたまま、時にはじっと前方に眼をそそいだり、出入りする人を見まわしたりしていた。前から彼は、泰然|自若《じじゃく》とおちつきすましたようすで、未知の人々に強い印象を与え、ある動揺を感じさせたものだが、今はそれよりもさらに傲然《ごうぜん》として、自分で自分に満足しきった人のように見えた。彼は他人を品物かなんぞのように眺めていた。真向かいに坐っていた神経質な青年は、地方裁判所に勤めていたが、そうしたようすのために彼に憎悪を感じたほどである。この青年は、自分が品物でなく人間であることを思い知らせるために、彼にタバコの火を貸してもらったり、話しかけたり、一歩すすんで突っつきまでしたけれど、ヴロンスキイは相変らず、灯りでも見るように彼を眺めていた。自分を人間と認めてくれぬこの男にけおされて、しだいに自制心を失っていくのを感じながら、青年は渋い顔をしていた。
 ヴロンスキイの目には、なにひとつ、だれひとり入らなかった。彼は自分を、王者のごとく感じた。が、それは自分がアンナに感銘を与えたと信じていたからではなく――彼はまだそううぬぼれていなかった――彼女から受けた感銘が幸福と、誇りの念をもたらしたからである。
 これらすべてがどういう結果になるか、そんなことは彼にはわかりもしなかったし、また考えようともしなかった。ただ、今まででたらめに散逸《さんいつ》していた自分の力が、残らず一つに集中され、すさまじいエネルギイで一つの幸福な目的に向ってほとばしりはじめた、それを感じたばかりである。そのために彼は幸福であった。彼は彼女に向って、私はあなたのいるところへ行く、いま私は人生におけるいっさいの幸福も、生活の唯一の意義も、ただあなたを見、あなたの声を聞くことにしか認めない、といったが、その言葉が真実であるということが、彼にわかっているばかりであった。ソーダ水を飲もうと思って、ヴォロゴヴォ駅で車から降り、アンナの姿を見かけた時、最初口をついて出た言葉は、まさしく彼の思うところをアンナに告げたのである。で、その言葉を彼女に語り、彼女も今はそれを知り、それを考えていると思うと、彼はうれしかった。彼は夜っぴて眠らなかった。自分の車へ帰ると、彼はアンナを見た時のいっさいの状況と、彼女のいったすべての言葉を、たえず記憶の中から探り出していた。そして、ありうべき未来のさまざまな光景が、空想の中を去来しては、彼の心臓《むね》をしびれさすのであった。
 ペテルブルグで汽車から降りた時、彼は不眠の一夜をすごしたにもかかわらず、まるで冷水浴でもしたあとのように、生きいきとしてすがすがしい気持であった。彼はアンナの出てくるのを待ち受けながら、自分の車のそばにたたずんだ。『もういちど見てやろう』われともなしにほくそえみながら、彼はこうひとりごちた。『あの歩きぶり、あの顔を見てやろう。何かいうかもしれんぞ』しかし、彼はアンナよりも先に、群衆を分けて駅長にうやうやしく案内されてくるその良人を見つけた。『ああ、そうだ! ご亭主だ』その時ヴロンスキイはやっとはじめて、良人が彼女に結びつけられた人間であることを悟った。彼女に良人のあることは彼も知っていたが、その存在を信じなかった。が、頭、肩、黒いズボンに包まれた脚、こういうものを備えた姿を見た時、わけても、この良人がわがものだといわんばかりに、悠々として彼女の手をとった時、彼もいやおうなくその存在を信じさせられたのである。
 ペテルブルグ人らしいさっぱりした顔をした、円い帽子をかぶり、やや猫背気味ながら、いかめしく自信ありげな姿をしたカレーニンを見ると、彼はその存在をはっきりと信じて、いやな気持がした。それは、渇きに悩まされた人が、ようやく泉にたどりついてみると、そこには犬か、羊か、豚かがいて、清水を飲みつくし、どろどろに濁している、といったような感じであった。腰ぜんたいと鈍い雨脚をひねるようなカレーニンの足どりは、ことにヴロンスキイに侮辱感を与えた。彼は彼女を愛しうるまぎれもない権利を、ただ自分一人だけに認めたのである。けれども、彼女は依然として変りなく、その顔や姿は依然として彼に働きかけて、肉体的に活気づかせ、興奮させ、その心を幸福にみたすのであった。彼は、二等車から駆け出してきたドイツ人の従僕に、荷物を持って先へ行くように命じて、アンナの方へ近づいて行った。彼は夫妻の最初の出会いを目撃したが、彼女が良人に話しかける語調に、やや窮屈そうな萌《きざ》しがあるのを、恋する男の直覚で早くも見てとった。『いや、あのひとはご亭主を愛してはいない、また愛することなんかできやしない』と彼はかってにきめてしまった。
 まだ彼がうしろのほうからアンナのほうへ向っている時、彼女は男の接近を感じて、そのほうへふりむこうとしたが、また良人のほうへ向きなおったのに気がついて、彼はうれしくてたまらなかった。
「昨晩はよくおやすみになりましたか?」夫婦にむかっていっしょに会釈しながら、彼はこういった。それは、カレーニンがこの会釈を自分に向けられたものと取ろうが、また自分に気がつこうがつくまいが、どうともご随意に、というようであった。
「ありがとうございます、とてもよくやすみました」と彼女は答えた。
 その顔は疲れたというようであった。時には微笑に、時には眼もとに溢れ出たがる、あの生きいきした表情の戯《たわむ》れは見られなかった。けれども、彼を一目みたその束《つか》の間《ま》、彼女の眼には何やらちらりとひらめいた。その焔《ほのお》はたちまち消えてしまったけれども、彼はこの束の間で幸福を感じさせられた。彼女はちらと良人を見やった。ヴロンスキイを知っているかどうか、確かめるためであった。カレーニンは、これはだれだったと、ぼんやり思い出そうとしながら、不満げにヴロンスキイを一瞥《いちべつ》した。ヴロンスキイのおちつきぶりと自信満々たる態度が、さながら鎌《かま》の刃にあたった石のように、カレーニンの冷たい自信にぶっつかった。
「ヴロンスキイ伯爵でございますの」とアンナはいった。
「ああ! もうお近づきでしたっけな」とカレーニンは手をさしだしながら、気のない声でいった。「行きにはお母さんとごいっしょだったが、帰りにはご子息さんとご同道だったわけだね」まるでひと言ごとに一ルーブリずつ恵みでもするように、彼は歯切れのいい調子でこういった。「あなたはきっと賜暇のお帰りでしょうな?」といって、返事も待たずに妻に向かい、例のふざけたような調子で、「どうだね、モスクワではお別れのとき、さぞかし涙が流れたことだろうね?」
 妻に向けていわれたこの言葉で、水入らずになりたいという気持を、ヴロンスキイに思い知らせたわけである。それからヴロンスキイの方へふりむいて、帽子にちょっと手をかけた。けれども、ヴロンスキイはアンナに向いて、「お宅へ訪問の栄を許していただけるものと存じますが」といった。
 カレーニンは疲れたような眼で、ヴロンスキイを見やった。
「どうぞ、どうぞ」と彼は冷たい調子でいった。「たくでは月曜が面会日になっておりますから」それから、ヴロンスキイに別れを告げて、彼は妻に話しかけた。「ちょうど三十分だけ時間があいておって、じつにいい都合だったよ。おまえを迎えに来て、おまえに優しい心を見せることができたからね」と彼は相変らずふざけた調子でいった。
「あなたはご自分の優しい心を、あんまりおおぎょうに吹聴なさり過ぎますわ。わたしにうんとありがたがらせようとお思いになって」自分たちのあとからついてくるヴロンスキイの足音に、われともなく耳を傾けながら、アンナも同じようなふざけた調子で答えた。『だけど、何もわたしの構ったことじゃありゃしないわ』と彼女は考えて、自分の留守にセリョージャがどんなふうに暮したかを、良人にたずねはじめた。
「いや、申し分なし! マリエットの話では、非常におとなしくって、それに……それに、おまえをがっかりさせなくちゃならんが、おまえの良人ほどにはおまえを恋しがらなかったそうだよ。しかし、もう一度|ありがとう《メルシー》、一日早く帰って来てくれて。わが愛すべき|湯沸し《サモアール》夫人がさぞ有頂天になって喜ぶことだろうよ。(湯沸し夫人というのは有名な伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのことで年じゅう何事につけても気をもんだり、熱くなったりするので、カレーニンがそう綽名《あだな》をつけたのである)。おまえのことをしきりにたずねていたよ。ねえ、私はあえて勧めるが、おまえきょうにもあのひとを訪ねたほうがいいよ。なにしろ、ありとあらゆることに心を痛めてる女《ひと》なんだからね。目下のところ、いろんな心配ごとのほかに、オブロンスキイ夫婦を仲直りさせようと、一生懸命になっているよ」
 伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、アンナの良人の親友で、ペテルブルグの社交界の中心の一つであり、アンナは良人とのつながりで、このサークルに最も親しい関係をもっていた。
「でも、わたしあのかたにお手紙を出しておきましたわ」
「ところが、あのひとはなんでも詳しいことを聞かなければ、承知しないんだからね。おまえ、もし疲れていなかったら、ちょっと行っておいで。さて、おまえの馬車は、コンドラーチイがすぐまわしてくれるよ。ところで、私は委員会へ顔出ししなけりゃならんから。ああ、今日からまた一人で食事をしなくてすむなあ」とカレーニンは言葉をつづけたが、もう、ふざけた調子ではなかった。「私がどんなにおまえというものに慣れてしまったか、おまえほんとうにできないくらいだよ……」
 こういって、彼は長いこと妻の手を握りしめたのち、一種特別な微笑を浮べながら、彼女を馬車へ乗せた。

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 わが家で、はじめてアンナを出迎えたものは、息子であった。彼は家庭教師の叫び声には耳をもかさず、階段づたいに彼女の方へ駆けおりると、有頂天な喜びにかられて「ママ、ママ!」と叫んだ。母のそばまで駆けつけると、その頸っ玉にぶらさがった。
「僕そういったでしょう、ママだって!」と彼は女の家庭教師に向って叫んだ。「僕にはちゃんとわかってたんだ!」
 息子も良人と同じように、何か幻滅に似た感じをアンナの心に呼び起した。彼女はわが子を、実際よりもっといいように想像していたのである。わが子をあるがままに享楽するためには、彼女は現実の世界までおりていかなければならなかった。しかし、あるがままの息子も、白っぽい髪をふさふさと渦巻かせ、空色の眼をして、きっちりあった長靴下をはいた足はすらりとして、むっちり肥って、すばらしくかわいかった。アンナはわが子を身近に見、その愛撫を身に感じるとともに、ほとんど肉体的の享楽を覚えた。そして、単純な、信じやすい、愛情にみちたわが子のまなざしを見、その無邪気な質問を聞くと、精神的なおちつきを感じるのであった。アンナはドリイの子供たちのことづけた贈り物をとり出して、モスクワにターニャという女の子があって、そのターニャはもう本が読め、ほかの子供たちに教えることさえできる、というような話をして聞かせた。
「じゃ、どうなの、僕よかターニャのほうがいいの?」とセリョージャはきいた。
「わたしにとってはね、世界中で一番いい子は坊やなの」
「そうだろうと思ってた」とセリョージャは、にこにこしながらいった。
 アンナがまだコーヒーも飲み終らないうちに、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナの来訪が報じられた。伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、背の高い、肥りじしの女で、不健康そうな黄色い顔をしていたが、物思わしげな黒い眼は美しかった。アンナはこのひとが好きであったが、今日はなんだかはじめて、欠点という欠点を残らずさらけ出しているところを見るような気がした。
「え、どうでした、あなた、無事に橄欖《かんらん》の枝を持っていらしった?」と伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、部屋へ入るが早いかこうきいた。
「ええ、あのことはもうすっかり片づきましたわ。でも、あれは、わたしたちが考えていたほどの大事件ではありませんでしたのよ」とアンナは答えた。「いったいにわたしの 〔belle-soe&ur〕(嫂《あによめ》)は、あんまり気が早すぎましてね」
 けれども、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、自分に関係のないことに、なんでも興味をもちながら、自分に興味のあることを決して聞こうとしない癖があった。で、彼女はアンナの言葉をさえぎった。
「ああ、この世には悲しいこと、不正なことが、なんて多いのでしょう。わたし今日は、ほんとうにへとへとになってしまいましたわ」
「どうなすったんですの?」とアンナは、微笑をおさえようとつとめながら、たずねた。
「わたし、真理のためのむなしい闘《たたか》いに、そろそろ疲れてきました。どうかすると、すっかり意気|汎喪《そそう》してしまうほどですの。姉妹協会(それは博愛的、かつ愛国的な宗教団体であった)なんか、出発はすばらしかったんですけど、あんな人たちといっしょでは、何をすることもできやしません」嘲笑をおびた諦《あきら》めの声で、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナはつけ加えた。「あの人たちは会の趣旨に飛びかかって、ひっぱりあって、すっかり片輪にしてしまったんですものね。しかも、その議論の浅薄で馬鹿げていること。あの仕事の意味をすっかり理解しているのは、ほんの二、三人で(こちらのご主人もその一人ですが)、あとの人たちはただ掻《か》きまわすだけですわ。昨日もプラヴジンさんからの手紙に……」
 プラヴジンは、外国にいる有名な汎《はん》スラブ主義者である。伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、その手紙の内容を話した。
 伯爵夫人は、なおさまざまなおもしろくない出来事や、教会連合の事業にたいして企《たくら》まれている奸計《かんけい》などの話をした後、今日はまだある団体との会合と、スラブ協会の委員会に出席しなければならぬからといって、そうそうに帰って行った。
『だって、あれは前だってあのとおりだったんだわ。それなのに、どうして前にはあれに気がつかなかったんだろう?』とアンナはひとりごちた。『それとも、今日はあのひと、特別いらいらしていたのかしら? だって、ほんとうにこっけいだわ。あのひとの目的は善行で、あのひとはクリスチャンなのに、のべつ腹をたててばかりいるんだもの。あのひとにとってはだれもかれも敵ばかり、しかもそれがキリスト教と善行関係の敵なんだからねえ』
 伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナが帰ったあとへ、親友の局長夫人がやってきて、市中のニュースをありったけ話して聞かせた。三時になると、晩餐にくると約束して、この夫人も帰って行った。カレーニンは役所であった。一人きりになると、アンナは晩餐までの時間をつぶすために、子供の食事するそばについていてやったり(セリョージャは別に食事をすることになっていたのである)自分の品物を整理したり、テーブルの上にたまっている手紙を読んだり、その返事を書いたりした。
 道々経験した故《ゆえ》もない羞恥《しゅうち》の情と、心の動乱はすっかり消えてしまった。慣れた生活条件の中へ入ると、彼女はふたたび自分が非の打ちどころのない、堅固な女であるように感じた。
 彼女は昨日の心の状態を思い出して、驚きあきれる思いであった。『いったいどうしたというのだろう? なんにもありゃしない。ヴロンスキイがばかなことをいっただけで、あんなことは造作なくけりをつけてしまえる。それに、わたしだって、必要なだけの返事をしたまでじゃないの。あんなことは良人《おっと》に話す必要もないし、また話すわけにもいかないわ。そんな話をするのは、つまり意味もないことに重大な意味をつけることになるんだもの』
 彼女はふと思い出した。いつかペテルブルグで良人の部下にあたる青年が、彼女にむかってほとんど恋の打ち明けをしたことがある。その話を妻の口から聞いたカレーニンは、どんな婦人でも世間に生きている以上、そういう場合に遭遇することはありがちのことだが、自分は妻の良識を絶対に信頼しているから、嫉妬など起して妻をも自分をも貶《おと》しめるようなことはしない、と答えたものである。
『だから、何も話す必要なんかありゃしないんだ。それに、しあわせと、何も話すようなことはありゃしないし』と彼女はひとりごちた。

[#5字下げ]三三[#「三三」は中見出し]

 カレーニンは四時に役所から帰って来た。しかし、よくあることだが、すぐ妻のとこへ行くわけにいかなかった。彼はまず書斎へ入って、待ちかまえている請願人に面会したり、事務主任の持ってきたいくつかの書類に署名しなければならなかった。晩餐に集ってきたのは(カレーニン家ではいつでも三、四人の人が食事にくるのであった)、主人の従妹《いとこ》にあたる老嬢と、局長夫婦と、カレーニンの役所へ推薦されてきた青年であった。アンナはその人たちのお相手をするために、客間へ入っていった。かっきり五時に、ピョートル一世と呼ばれている青銅の時計が、まだ五つ目を打ち終らない間に、カレーニンが入って来た。白ネクタイをして、燕尾服には勲章を二つ吊《つ》るしていた。食後、すぐ出かけなければならなかったからである。カレーニンの生活は、一分一分ちゃんと割り当てられ、予定されているのであった。毎日、すべきことを落ちなくやっていくために、彼は厳格このうえない規律を守っていた。『急がず、休まず』というのが、彼のモットーであった。彼は広間へ入ると、一同に会釈《えしゃく》して、妻にほほえみかけながら、せかせかと腰をおろした。
「ああ、いよいよ私の独身生活もおしまいになった。おまえほんとにしないだろうが、一人で食事をするのは、じつにぐあいの悪いもんだよ(彼はぐあいの悪いという言葉に、ことさら力を入れた)」
 食事の間に、彼は妻を相手にモスクワのことを話したり、あざけるような薄笑いを浮べてオブロンスキイのことをたずねたりしたが、会話は主として一同に共通の話題、ペテルブルグの役所に関係したことや、一般社会上の出来事に終始した。食後、彼は三十分ばかりを客といっしょにすごした後、ふたたび微笑とともに妻の手を握って部屋を出ると、会議に列するために出かけた。その晩アンナは、自分の帰京を知って招待してくれたベッチイ・トヴェルスカヤ公爵夫人を訪問もしなければ、ボックスのとってある芝居へも行かなかった。彼女が外出しなかったおもな理由は、あてにしていた着物ができていなかったからである。概して彼女は、客が帰ったあとで身じまいにかかった時、ひどくふきげんだったのである。もともと、あまり金をかけないで衣装道楽をすることの上手なアンナは、モスクワへ発《た》つ前に、三枚の着物を仕立てなおしに、女裁縫師に渡しておいた。それは、見ちがえるほど新奇に仕立てなおされて、三日も前にちゃんと届いているはずであった。ところが、二枚はまるっきりできていず、一枚は仕立てなおされはしていたものの、アンナの思っていたようなものとはちがっていた。女裁縫師はいいわけに来て、このほうがずっとよろしゅうございますと主張したので、アンナはかっとしてしまい、あとで思い出しても気がさすほど怒りつけた。すっかり気分をおちつけるために、彼女は子供部屋へ行って、その晩ずっとわが子とともにすごし、自分で寝かしつけて、十字を切ってやり、ちゃんと蒲団にくるんでやった。彼女はどこへも出かけないで、気持よく一晩すごしたのを喜んだ。彼女はなんともいえないほど心が軽くおちついて、汽車の中ではあれほど重大に思われたことが、ありふれたつまらない社交界の一|些事《さじ》にすぎず、他人に対しても、自分自身に対しても、何一つ恥じるところはないということを、はっきりと見ぬいたのである。アンナは英語の小説を手に、壁炉《カミン》のそばへ腰をおろし、良人の帰りを待っていた。かっきり九時半に、良人の鳴らすベルの音が聞え、当人が部屋へ入って来た。
「ああ、やっとのことで!」と彼女は手をさしのべながらいった。
 彼はその手を接吻して、妻と並んで腰をおろした。
「見たところ、おまえの旅行はだいたい、成功だったらしいね」と彼はいった。
「ええ、とても」と答えて、彼女は良人にいっさいの顛末《てんまつ》を初めから話しだした。ヴロンスカヤ夫人との汽車旅、到着、停車場での偶発事件、それから最初兄に対して、その後ドリイに対して感じた憐憫《れんびん》の情、などを物語った。
「私はどうも、ああいう男を赦《ゆる》していいとは考えられんね、もっともおまえの兄さんではあるが」とカレーニンはきびしい調子でいった。
 アンナはにっこり笑った。彼女にはちゃんとわかっていた。良人がこういったのは、縁戚《えんせき》とかなんとかいう考え方も、自分の真率な意見の表白を阻止することはできない。という気持ちを承知して、それを愛していた。
「まあ、なにもかも無事にすんで、おまえが帰ってきたので、私はうれしいよ」と彼は続けた。「ときに、私が議会で通過させた新しい制度のことを、むこうではどんなにいってるかね」
 アンナはこの制度のことを、なんにも聞いていなかった。で、良人にとってこれほど重大なことを、やすやすと忘れてしまった自分が申し訳ないように思われた。
「ところが、こっちじゃなかなかたいへんな騒ぎを巻き起こしてね」ひとりで満足そうな微笑を浮かべながら、彼はいった。
 カレーニンがこの問題について、なにか自分として気持のいい話をしたがっているのを見てとったので、彼女はいろいろと問いかけながら、話をそのほうへもっていった。彼は依然として満足げな微笑を浮べ、この決議が通過したとき彼のために催された祝賀会の話をはじめた。
「私は大いに喜んでおるよ。それはつまり、いよいよわが国でもこの問題に対して理知的な、確乎たる見解が形成されるようになったのを、証明しているわけ、だからね」
 二杯目のお茶をクリームつきのパンといっしょに飲み終ると、カレーニンは立ちあがって、自分の書斎へおもむいた。
「おまえどこへも行かなかったのかね? きっと退屈したろうね?」と彼はいった。
「いいえ、どういたしまして!」つづいて席を立ち、広間を横切って書斎まで良人を見送りながら、アンナはそう答えた。「今あなた何を読んでらっしゃるの?」と彼女はきいた。
「私はね、今ド・リーム公爵の 〔Poe'sie des enfers〕(地獄の詩)を読んでおるよ」と彼は答えた。「なかなかすばらしい本だよ」
 アンナは、よく人が愛するものの弱点に対して示すような笑い方で、にっこりと笑った。そして、良人と腕を組んで、書斎の戸口まで送っていった。良人にとって、今では必要と化した晩の読書の習慣を、彼女はちゃんと心得ていたのである。彼女はまた、こういうことも知っていた。勤務上の仕事で、ほとんど全部の時間をとられているにもかかわらず、彼は知識的領域に出現する目ぼしいいっさいのものに注意を怠らぬことを、自分の義務と心得ていた。彼は実際、政治、哲学、神学の本に興味をもっていたが、芸術は彼の性格からいって全く無縁のものであった。が、それにもかかわらず、いな、むしろその結果であろう、カレーニンはこの方面で世評を喚起した書物は、一つとして見のがさず、なんでもかでも読破するのを、おのれの義務と心得ているのであった。それも彼女は同様に承知していた。カレーニンは政治、哲学、神学の領域においては、疑惑をいだいたり、摸索したりすることがあったけれども、芸術や詩、ことに音楽の問題となると、全然そのほうの理解力を欠いているくせに、このうえなくきっぱりした確乎不抜《かっこふばつ》の意見を有しているのであった。彼女はそれも知りぬいていた。彼は好んでシェークスピア、ラファエル、ベートーヴェン、詩や音楽の新しい流派の意義などを口にしたが、それらは彼の頭の中で明晰《めいせき》無比の論理によって、きちんと分類されているのであった。
「じゃ、ごきげんよう」書斎の戸口で、彼女はこういった。部屋の中には、もう彼のために笠をかぶせた蝋燭《ろうそく》と、水の入ったフラスコが、肘椅子のそばに用意してあった。「わたしモスクワへ手紙を書きますから」
 彼は妻の手を握りしめて、またそれに接吻した。
『なんといっても、あの人はいい人だわ、正直で、親切だし、自分の専門のほうではたいした紳士だし』とアンナは自分の部屋へ引っ返しながらひとりごちたが、それはまるでだれかが良人を非難して、あんな男を愛するわけにいかぬ、といったのに対して、弁護でもしているようなぐあいであった。『でも、あの人の耳はどうしてあんなに突っ立ってるんだろう! それとも、散髪したてのせいかしら?………』
 正十二時、アンナがドリイあての手紙を書き終ろうとして、まだテーブルにむかっているとき、規則ただしい上靴の足音がして、顔を洗い、髪を梳《と》きつけたカレーニンが、本を小腋《こわき》にはさんで近よって来た。
「さあ、時間だよ、時間だよ」と一種特別な笑いを浮べながらいって、寝室の方へ通りぬけた。
『いったいどんな権利があってあの男は、あんなふうにあの人を見たんだろう?』カレーニンをながめたヴロンスキイの目つきを思い起しながら、アンナはこんなことを考えた。
 着替えをして寝室へ入った。けれども、彼女の顔には、モスクワにいるあいだその眼からも微笑からもほとばしり出ていた生気が、あとかたもなくなくなっていたばかりでなく、今ではかえって、生命の火が消えてしまったか、それとも、どこか遠いところに隠されたような感じであった。

[#5字下げ]三四[#「三四」は中見出し]

 ペテルブルグを発《た》つとき、ヴロンスキイはモルスカヤ街にある自分の大きな住居を、親友でもあり、同僚でもあるペトリーツキイに預けていった。
 ペトリーツキイは若い中尉で、たいした門閥《もんばつ》でもなければ、金持でもないどころか、借金で首が廻らぬような態《てい》たらくであった。夜になると、いつも酔っぱらって帰るし、おまけに、さまざまなこっけいかつ不潔な事件のために、よく営倉へ入れられるという男であったが、同僚にも上官にもかわいがられていた。十一時すぎ、停車場から自分の住居へ乗りつけたヴロンスキイは、車寄せのところに、見覚えある辻馬車が待っているのが目に入った。ベルを鳴らすと、戸の中から男連中の高笑いと、女の甘ったるい声と、『もしだれか悪党野郎だったら、通すことはならんぞ!』とどなるペトリーツキイの声が聞えた。ヴロンスキイは取りつぎをさせないで、そっととっつきの部屋へ入った。ペトリーツキイの女友だちのシルトン男爵夫人が、藤色|繻子《しゅす》の着物と、眉の白っぽいバラ色の顔を輝かせ、パリー式のフランス語を、カナリヤのように部屋いっぱいに響かせながら、円テーブルの前に坐って、コーヒーを沸かしていた。外套を着たままのペトリーツキイと、おそらく勤務からの帰り道であろう、正装のままのカメロフスキイ大尉が、そのそばに腰かけていた。
「よう! ヴロンスキイ!」椅子をがたがたいわせて跳《おど》りあがりながら、ペトリーツキイは叫んだ。「ご主人公のご帰館だ! 男爵夫人、一つこの人に、新しいコーヒー沸しでコーヒーをこしらえてやって下さい。どうも意外だったね! だが、君の書斎のこの新しい装飾には、満足してもらえると思うがね」と彼は男爵夫人を指さしながらいった。「君たちはたしか知り合いだったね?」
「知れたことさ!」愉快そうに微笑して、男爵夫人の小さな手を握りしめながら、ヴロンスキイはこう答えた。
「どうして、古いなじみだよ!」
「あなた旅先からお帰りになったんですの」と男爵夫人はいった。「じゃ、あたし逃げ出しますわ。ええ、さっそくもうお暇しますわ、もしおじゃまのようでしたら」
「あなたはどこでも、いらっしゃるところがご自分のお宅ですよ、男爵夫人」とヴロンスキイはいった。「しばらく、カメロフスキイと彼はつけ加えて、そっけなくカメロフスキイに握手した。
「ほらごらんなさい、あなたには金輪際《こんりんざい》、あんな気のきいたことがいえないんですわ」と男爵夫人は、ペトリーツキイの方を向いていった。
「いや、どうして? 食事のあとだったら、僕だってあれに負けないくらい、うまいことをいいますよ」
「あら、食事のあとじゃ手柄になりませんよ! さてと、それでは、あたしコーヒーをさしあげますから、そのあいだに行って、顔を洗ったり、荷物を片づけたりなさいまし」と男爵夫人はいって、また椅子に腰をおろし、しさいらしく新しいコーヒー沸しのねじをまわしはじめた。「ピエール、コーヒーをちょうだい」と彼女はペトリーツキイに声をかけた。それは、ペトリーツキイという姓からもじったものであるが、彼女はピエールと呼ぶことによって、二人の関係を隠そうともしなかったわけである。「も少し足《た》すわ」
「だめにしちまいますよ!」
「大丈夫、だめになんかしやしないから! ときに、あなたの奥さんは?」ふいにヴロンスキイとペトリーツキイの会話をさえぎりながら、男爵夫人はこんなことをいいだした。「あたしたちここで、あなたを結婚させてあげたんですのよ。奥さんを連れていらっしゃいまして?」
「いや、男爵夫人、僕はジプシイとして生れたんですから、ジプシイとして死にますよ」
「それならけっこう、なほさら[#「なほさら」はママ]けっこうですわ。さあ、お手を下さいな」
 そういって男爵夫人は、ヴロンスキイを放そうともせず、冗談《じょうだん》をふりまき、自分の最近の生活プランを話したり、彼の忠言を求めなどしはじめた。
「彼氏はいまだに、あたしを離縁してくれないんですの! ねえ、いったいあたしどうしたらいいんでしょう? (彼氏というのは彼女の良人であった)。あたし今度こそ、訴訟を起そうと思うんですけど、あなた、どうしたらいいとお思いになりまして? カメロフスキイさん、コーヒーを見て下さいよ――噴《ふ》きこぼれてよ。ごらんのとおり、あたし用事で忙しいんだから! あたしね、訴訟を起そうと思ってますのよ、だって、自分の財産が要るんですもの。あたしが彼氏にたいして不貞を働いたんですって、そんなばからしいこと、あなたにおわかりになって?」と彼女は軽蔑の語調でいった。「それを口実にして、彼氏はあたしの財産を、わがものにしようとかかってるんですのよ」
 ヴロンスキイは、この美人の快活なおしゃべりを、いい気持で聞きながら、いいかげんな相槌《あいづち》を打ったり、冗談半分の忠言を呈しなどした。要するに、この種の女性を相手にする時の慣れきった調子を、彼はたちまちのうちにとり戻したのである。ペテルブルグに於ける彼の世界は、全く相反する二つの部類に分割されていた。一つは下等な部類であって、これには俗悪、愚劣、ことにこっけいな連中が属していた。彼らは、良人たるものはいったん結婚したら、妻一人のみ守らねばならぬとか、処女は純潔でなければならぬとか、女はしとやかであり、男は男らしく節操を持《じ》して堅固でなければならぬとか、子女を養育し、おのれの労働によってパンを獲《え》、負債を弁償しなければならぬとか、そういったようなばかげたことを信じきっている。それは旧式でこっけいな人種に属するのである。ところが、いま一つの部類はほんとうの人間であって、彼ら自身すべてこれに属している。この部類の人々は、主として優美であることを必要とし、寛濶《かんかつ》で、大胆で、快活でなければならず、顔も赤らめずあらゆる情欲に身をゆだね、その他のいっさいを笑いぐさにすることが肝要である。
 ヴロンスキイはただ最初の一瞬だけ、モスクワから全然ちがった世界の印象をもって帰ったあとだけに、度胆《どぎも》をぬかれる思いをしたが、すぐさま古い上靴に足をつっこんだように、以前の愉快な気持のいい世界へ入っていった。
 コーヒーははたしてうまくできなかった。みんなにとばっちりをかけてこぼれてしまって、まさしく期待されていた効果を奏した。つまり、高価なカーペットと男爵夫人の着物を汚して、一同の騒ぎと笑いにきっかけを与えたのである。
「じゃ、いよいよさよならですわ。さもないと、あなたはいつまでたっても、顔をお洗いにならないでしょう。そうなると、あたしの良心には、れっきとした人にとって一番おもい罪、不潔という罪をひきうけることになりますからね。では、いよいよ、喉《のど》へ刀をつきつけろとおっしゃるんですね?」
「ぜひとも。しかも、あなたの手が、なるべく彼氏の唇に近いようにね。すると彼氏はあなたの手に接吻して、なにもかも円満無事におさまりますよ」とヴロンスキイは答えた。
「では、今夜、フランス劇場でね!」こういって、彼女は衣《きぬ》ずれの音を立てながら、姿を消した。
 カメロフスキイも同様におみこしを上げた。ヴロンスキイは、この男の出て行くのを待ちかねて、別れに手をさしのべた後、化粧室へひっこんだ。彼が顔を洗っているあいだにペトリーツキイは手短かに、自分の状況を描写して、ヴロンスキイの出発後、どれだけ状況が変ったかを話して聞かせた。金は一文もない。父親は金なんかやらないし、借金も払わないといった。仕立屋は彼を監獄へぶちこもうとしているし、もう一軒のほうは、必ずぶちこんでみせると脅迫している。連隊長は、もしこういう醜聞がやまなければ、隊を出てもらわんければ[#「出てもらわんければ」はママ]ならん、と彼に申しわたした。男爵夫人は、やりきれないほど鼻についてしまった、わけても、やたらに金をやろうやろうというのがたまらない。ところで、一人いい女があるから、ヴロンスキイ、ひとつ君に見せてやろう、それこそすてきだ、正に奇蹟だ、東洋的な厳粛なスタイルで、『奴隷レベッカの型《ジャンル》なんだ、わかるかい』それから、ベルコショーフとも喧嘩をして、やつは決闘の介添人をよこすといったが、もちろん、なんのこともなしにすむにきまっている。概していえば、なにもかも上首尾で、いたって愉快にいっているのであった。それから、ペトリーツキイは、相手に自分の状況を細かく話す余裕を与えず、ありったけのおもしろいニュースを話しはじめた。もう三年も住んでいる自分の住居の、どこからどこまでもなじみの深い道具だての中で、これは何から何までなじみの深いペトリーツキイの話を聞いているうちに、ヴロンスキイは、慣れたのんきなペテルブルグ生活に帰ってきたという快い感じを、しみじみと味わったのである。
「そんなことがあってたまるものか!」洗面台のペダルを踏んで、健康そうな赤い色をした頸筋に水を浴びせながら、彼はこう叫んだ。「そんなことがあってたまるものか!」ローラがミレーエフとくっついて、フェルチンホフを棄てたという報に接して、彼はこう叫んだ。「で、やつは相変らずのまぬけで、のほほんとしているのかい? ところで、ブズルーコフはどうだい?」
「ああ、ブズルーコフにもひと騒動もちあがったんだ――すてきな話なんだよ!」とペトリーツキイは叫んだ。「ほら、先生ダンスが飯より好きだろう、だから宮中の舞踏会といったら、一度だって抜かしたことはありゃしない。さて、先生、新型の軍帽を手に持って、晴の舞踏会へ出かけたと思いたまえ。君、新しい軍帽を見たかい? とても、軽くって。ところが、先生が立っていると……おい、だめだよ、聞けよ」
「ちゃんと聞いてるじゃないか」とヴロンスキイは、タオルで体を拭《ふ》きながら答えた。
「そこへ大公妃が、どこかの大使といっしょに通りかかったのだが、先生にとって運わるくも、談たまたま新しい軍帽のことに及んだわけさ。大公妃は、大使に新しい軍帽を見せようと思って……ふと見ると、やっこさんそこに立ってるじゃないか(ペトリーツキイは、彼が軍帽をかぶって立っているようすを仕方で見せた)。大公妃は、ちょっと軍帽を貸してくれとおっしゃったが――先生わたそうとしない。いったいどうしたんだろうというので、みんな目くばせしたり、腮《あご》をしゃくったり、顔をしかめて見せたりしたが、さし出そうとしない。棒のように固くなっちまってるんだ。まあその恰好《かっこう》を想像してみてくれ!………とうとう、あの男……なんといったっけな……が、やっこさんの軍帽をとろうとしたけれども……渡さない!……むりやりにひったくって、大公妃にさし出したわけさ。これが新しい軍帽でございますといって、大公妃がそいつをくるりと向け変えると、まあ、どうだい――その中から梨《なし》だの菓子だのが、ばらばらこぼれて出たじゃないか、二|斤《きん》からの菓子なんだよ! テーブルからかっぱらってきたわけさ、やっこさんがよ!」
 ヴロンスキイは腹をかかえて笑った。それからあとも長いあいだ、もうほかの話に移ったときでも、その軍帽のことを思い出すたびに、彼はびっしり並んだ丈夫そうな歯を見せながら、持ち前の健康そうな笑い方で、からからと笑うのであった。
 ありたけのニュースを聞いてしまうと、ヴロンスキイは従僕に手伝わせて軍服に着替え、連隊へ出頭のために馬車を乗り出した。出頭をすましたあとで、彼は兄のとこやべッチイの家へ寄り、そのほか二、三の訪問を試みようと思っていた。それは、カレーニナに出会う可能性のある社交界入りをする魂胆なのであった。ペテルブルグでは、いつものことながら、彼はいったんうちから出ると、もう夜おそくまで帰らないことを自分でも知っていた。
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