『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」1-26~1-30(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 翌朝、コンスタンチン・レーヴィンはモスクワを発《た》って、夕刻、自分の村へ帰り着いた。道々、汽車の中で、隣席の人々と、政治のことだの、新しい鉄道のことだのを話しあったが、またしてもモスクワにいた時と同じように、観念の混乱と、自分自身にたいする不満と、何ものかにたいする羞恥に悩まされた。けれども、目的地の駅へおりて、外套の襟を立てた目っかちの馭者イグナートの姿を見た時――停車場の窓ごしに射してくるどんよりした光の中に、絨毯《じゅうたん》を張った自分の橇と、輪や房を飾った馬具をつけて、尻尾を縛られた自分の馬を見た時――彼が橇に乗り込もうとしていると、馭者のイグナートが村の新しい出来事を知らせ、請負師が来たことや、牝牛のパーヴァが子を生んだことなど話した時――彼はしだいに混沌が晴れていき、羞恥心も自己不満も薄らいでいくのを感じた。それは馭者と馬を見た瞬間から感じたことなのである。しかし、持ってきてくれた裘《かわごろも》をまとい、膝掛にくるまって橇におちついて、これから村でなすべき処置を考え、もと乗用だったのが、脚を痛めたため輓馬《ひきうま》になったものの、今でもなかなかの逸物であるドン産の脇馬を眺めながら乗り出した時、彼は自分の身に起ったことを、ぜんぜん別様に解釈しはじめた。彼は自分を自分として感じ、それ以外のものになりたい気がしなかった。ただ彼は今、前よりもっといい人間になりたかった。第一に、今からのち、結婚によって得られる飛び離れた幸福など、断じて期待すまい、したがって、自分の現在をおろそかにすまい、と決心した。第二に、今後は二度とあのけがらわしい情欲に溺れるようなことはしない(彼は結婚を申しこもうと考えた時、その追憶にひどく苦しめられたものである)。それから、兄ニコライのことを思い起しながら、もう決してあの兄のことを忘れなどしない、いつもその動静に気をつけて、兄が困った時いつでも救助の手がさしのべられるよう、行方《ゆくえ》を見失わぬようにしようと、われとわが心に誓った。またその時はまもなくやってくる、それを彼は感じた。それから、兄のいった共産主義の話、彼はあの時きわめて軽くあしらっていたが、今はそれが彼を考えこますのであった。彼は経済条件の改革などばかげたことのように思っていた。にもかかわらず、彼はいつも民衆の貧困に比べて、自分のありあまった生活を不正と感じていたので、今や彼は心ひそかに、完全に自分の正しさを確信するため、これまでもずいぶんよく働き、ぜいたくを慎んではいたけれど、今後はもっと働き、もっとぜいたくを慎もうと決心した。そんなことはみな易々《いい》たるわざのように思われて、彼は道々この上もなく快い空想のうちにすごした。よりよき新生活を期待する勇ましい気持で、彼は夜の八時すぎ、わが家へ帰りついた。
 彼の家で家政婦の役目を勤めている年とった保姆《ばあや》のアガーフィヤ・ミハイロヴナの部屋の窓から洩《も》れる光が、邸の前にあるちょっとした広場の雪に落ちていた。彼女はまだ寝ないでいたのである。アガーフィヤに起されたクジマーは、寝ぼけ眼で跣足《はだし》のまま、入口階段へ駆け出した。牝の猟犬のラスカは、危くクジマーの足を払わんばかりの勢いで、同じように飛び出して、彼の膝に身をすりよせ、あと脚で立っては、主人の胸に前脚をかけようとして、かけかねていた。
「ずいぶんお早いお帰りでございましたね、旦那さま」とアガーフィヤはいった。
「里心がついたんだよ、アガーフィヤ。お客さまに行ってるのも悪くはないが、やっぱりわが家のほうがいいからね」と答えて、彼は自分の居間へ通った。
 さっそく持ってこられた蝋燭で、居間は徐々に照らし出され、なじみの深いこまごましたものが、闇の中から浮き出してきた。鹿の角《つの》、書棚、鏡、暖炉(この暖炉の空気穴はもう前から修繕しなければならなかったのだ)父譲り[#「のだ)父譲り」はママ]の長椅子、大きなテーブル、そのテーブルの上に開いたままの本、こわれた灰皿、彼の手で書きこんである帳面、こういう品々を見たとき、道々空想した新生活がはたして可能かどうかという疑念が、瞬間かれの心に忍びこんだ。こうした過去の痕跡《こんせき》が、あたかも一時に彼をとり囲んで、こういうように思われた。『だめだよ、のがすものか、おまえは別人のようになれっこない、やっぱり前と同じだろうよ、懐疑も、永久の自己不満も、自己|匡正《きょうせい》の空しい試みも、堕落も、かつて与えられたことのない、また与えられるはずのない幸福にたいする永遠の期待も』
 しかし、それをいったのは品物であって、内心の声はこうささやいた――過去に屈服してはいけない、自己はどんなふうにでもすることができる、と。この声に従いながら、彼は一対《いっつい》の四貫目|唖鈴《あれい》の置いてある片すみへ行って、気持を引き立てようとつとめながら、体操をはじめた。戸の外でぎしぎしという靴音が聞えた。彼は急いで唖鈴を置いた。
 支配人が入ってきて、おかげで万事つつがなくすんだけれども、新しい乾燥機で蕎麦《そば》が焦げたむねを報告した。この報知はレーヴィンをいらいらさせた。新しい乾燥機はある程度、レーヴィンの考案で組み立てられたものであった。支配人はつねづねこの乾燥機に反対だったので、今や内心得々としながら、蕎麦が焦げたと報告したわけである。ところがレーヴィンは、蕎麦が焦げたとしたら、それは口の酸っぱくなるほどいいつけておいた方法をとらなかったからだ、ただそれだけだ、と固く信じきっていた。彼はいまいましくなって、支配人に小言をいった。しかし一つ重大な喜ばしい出来事があった。共進会で買った高い優秀な牡牛のパーヴァが子を生んだことである。
「クジマー、裘《かわごろも》を出してくれ。そして、君は提灯《ランタン》を持ってくるようにいいつけてくれたまえ。ひとつ行ってみるから」と彼は支配人にいった。
 大事な牛を入れてある家畜場は、邸のすぐうしろにあった。ライラックの根もとにうず高く掃きよせた雪のそばを通って、彼は内庭を横切り、家畜場へ近づいた。凍りついた戸が開いた時、牛糞の臭いのする暖かい蒸気が鼻をうった。そして、慣れない提灯《ランタン》の灯《あか》りにびっくりした牛どもは、新しい敷わらの上でもぞもぞ身動きした。黒ぶちのオランダ牛のすべすべした広い背中が、ちらりと目にうつった。鼻に環《かん》を通した牡牛のベルクートは、じっと横になっていたが、人がそばを通ったとき、起きあがろうとしたけれど、また考えなおして、ただ二度ばかり鼻を鳴らしただけで済ました。河馬《かば》のように大きい赤毛の美女パーヴァは、尻をくるりと向け変えて、入ってきた人々からわが子をかばうようにし、ふんふん嗅ぎまわすのであった。
 レーヴィンは柵《さく》の中へ入って、パーヴァを眺めまわし、赤ぶちの子牛を起して、ひょろひょろした長い脚で立たせた。パーヴァは興奮して唸《うな》りかけたが、レーヴィンが子牛をおしやると安心して、一つ重々しく吐息をつくと、ざらざらした舌でわが子を舐《な》めはじめた。子牛は乳房をさがしながら、鼻っ面で母親の股根《ももね》を突きあげ、尻尾を振っていた。
「ひとつこっちへ灯りを見せてくれ、フョードル、提灯をこっちへ」とレーヴィンは子牛を見まわしながらいった。「母親そっくりだ! ただ毛色だけは父親似だが。なかなかいい。脚も長いし、股もしっかりしてる。ね、ヴァシーリイ・フョードロヴィッチ、いいだろう?」子牛の生れた喜びにまぎれて、蕎麦《そば》の一件はすっかり妥協しながら、彼は支配人に話しかけた。
「どちらに似たって、悪かろうはずがございません。ときに、請負師のセミョーンが、おたちになったあくる日やってまいりまして。ひとつあれと相談をきめなけりゃなりません、コンスタンチン・ドミートリッチ」と支配人はいった。「先ほど機械のことをご報告いたしましたが」
 このたった一つの問題が、大規模で複雑な領地経営のこまごました世界へ、レーヴィンをひきずりこんでしまった。彼は牛小屋からまっすぐに事務所へおもむき、支配人と請負師のセミョーンとしばらく話をしたあと、邸へひっ返して、いきなり二階の応接間へいった。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

 それは大きな古い邸であった。レーヴィンは一人ぐらしではあったけれども、暖房をして家じゅう占領していた。それがばかばかしいことは、彼も承知していたし、またそれがよくないやりかたで、今度の新しい計画に反することも心得ていたが、この家はレーヴィンにとって全世界にひとしかった。それは、父母の生活し死んで行った世界であった。彼らの生きていた世界は、あらゆる完成の理想であって、彼はそれを自分の妻、自分の家族とともに復活させようと空想していたのである。
 レーヴィンはほとんど母親を覚えていなかった。母に関する観念は、彼にとって神聖な追憶であり、彼の空想に描いている未来の妻は、美しい神聖な女性の理想のくりかえしでなければならなかった。それは彼の母であった。
 女性に対する愛というものを、彼は結婚以外に想像することができなかったのみならず、まず最初に家族を想像したのち、それから家族を与えてくれるかを思い描くのであった。彼の結婚観は、それ故、知人の大多数のそれとは似ても似つかなかった。彼らにとっては、結婚は数多い社会生活上の一事件にすぎなかったが、レーヴィンにとっては、彼の全幸福を左右する重要な生活の事柄であった。ところが、今はそれを断念しなければならないのであった。
 彼がいつも茶を飲む小さい客間へ入って、本を手に自分の肘《ひじ》椅子に腰を据え、アガーフィヤが茶を持ってきて、例の「わたくしも坐らしていただきますよ、旦那さま」といいながら、窓ぎわの椅子に腰をおろした時、彼はこんなことを感じた。これがいかにふしぎであろうとも、自分は例の空想と袂《たもと》をわかったわけではない、この空想がなくては生きて行かれない、彼女といっしょになるか、またはほかの女と結婚するか、いずれにしてもこの空想は実現する。彼は本を読み、読んだことを考え、アガーフィヤの話を聞くために、時おり読みやめた。老婆はのべつまくなしにしゃべりつづけたが、それと同時に、領地の経営や未来の家庭生活のさまざまな光景が、なんの連絡もなく彼の想像に浮んでくるのであった。彼は、心の中で何かが固定し、調節し、片づいていくのを感じた。
 彼は、プローホルが神さまを忘れて、馬を買えといってレーヴィンからもらった金で、夜昼なしに飲みくらい、女房を死ぬほどなぐったという、アガーフィヤの話を聞いていた。聞きながら本を読んでいるうちに、読書に呼びさまされた思想の流れを、残りなく思い起した。それはチンダルの熱力論であった。彼は、チンダルが自分の実験の巧みさに自己満足しているのと、哲学的見解が不十分なのを、非難していたことを思い出した。と、ふいに喜ばしい想念が浮んできた。
『もう二年たったら、おれの牛小屋にはオランダ産の牝牛が二匹になる。当のパーヴァもまだ生きてるだろうし、ベルクートのうました若い十二匹の牝牛がいるから、あの三匹を見てくれのいいとこへまぜたら――すてきだ』彼はまた本を読み出した。『まあ、よかった、電気も熱も同じことなんだから。しかし、問題の解決のために、一つの量を別のものに置き代えることが、はたして可能だろうか? そりゃだめだ。だが、それがどうしたっていうのだ? 自然界のあらゆる力の関連は、それでなくっても、本能で感じられるんだもの……わけても、パーヴァの娘がもう赤ぶちの牝牛になって、全体の中にあの三匹をまぜるのだと思うと、実に愉快だ!………すばらしい! そこで、家内や客人たちといっしょに、牛の群を出迎えに行く……そこで家内は、「わたしコスチャ([#割り注]コンスタンチン[#割り注終わり])と二人でこの牝牛を、まるで赤ちゃんみたいに世話しましたのよ」という。「それがどうしてあなたには、そんなに興味がおありなのでしょう?」と客がたずねる。「たく[#「たく」に傍点]の興味をもつことは、なんでもわたしおもしろいんですもの」しかし、その家内はいったいだれだろう?』と、彼はモスクワの出来事を思い出した……『いや、どうもしかたがない……何もおれが悪いんじゃない。しかし、今度はなにもかも新規まきなおしだ。生活が許さない、過去が許さないなんていうのは、ばかげた話だ。もっとよく、ずっとよく生きるために、努力しなくちゃならないて……』
 彼はちょっと頭をもちあげて、考えこんだ。主人の帰宅をまだよく消化《こな》しきれないで、も少しほえるために内庭を駆けまわっていた老犬ラスカは、尻尾をふりふり、冷たい空気の匂いを身につけて帰ってくると、彼のそばへよって、手の下へ首をつっこみ、哀れっぽくかぼそい声を立てながら、愛撫を要求するのであった。
「ほんとに、ものをいわないばかりでございますよ」とアガーフィヤがいった。「犬とはいい条……ご主人が、お帰りになって、くよくよしていらっしゃることが、ちゃんとわかるんですからねえ」
「何をくよくよしてるんだい?」
「だって、旦那さま、わたくしにそれが見えないとお思いでございますか? もうそろそろ旦那さまがたのお気持がわかってよいころでございますよ。小さい時分から、旦那さまがたの中で大きくなったんでございますもの。大丈夫でございますよ。旦那さま。ただお達者で、お心にやましいことさえなければ」
 老婆が自分の腹を見ぬいたのに驚きながら、レーヴィンはじっと彼女を見つめた。
「いかがでございます、お茶をもう一杯もってまいりましょうか?」といい、茶碗を持って、アガーフィヤは出て行った。
 ラスカは相変らず、彼の手の下へ鼻面をつっこんでいる。レーヴィンがちょっと撫《な》でると、ラスカは突き出たあと脚の上に頭をのせて、すぐ彼の足もとにくるりと円くなった。そして、今はなにもかもけっこうでつつがなしというしるしに、こころもち口を開け、唇をちゅっと鳴らし、古い歯の上にねばっこい唇をいっそうぐあいよくのせ、極楽極楽というように安心して、静まりかえった。レーヴィンはこの最後の動作を注意ぶかく見まもっていた。
『おれもあのとおりだ!』と彼はひとりごちた。『おれもあのとおりだ! なあに、大丈夫、なにもかもけっこうだ』

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 舞踏会のあとで、アンナ・アルカージエヴナは早朝、良人に電報を打って、当日モスクワを出発するといってやった。
「だめよ、わたしたたなくちゃならないの、どうしても」まるで数え切れないほどの用事を思い出したというような語調で、彼女は予定の変更を嫂《あによめ》に説明した。「いいえ、もう今日のほうがいいの!」
 オブロンスキイは自宅で食事はしなかったが、七時には妹の見送りに帰ってくると約束した。
 キチイも、頭痛がするからという手紙をよこして、やはりやってこなかった。ドリイとアンナは、子供たちとイギリス婦人を相手に、淋しく食事をした。子供たちは気まぐれなせいか、それとも敏感なためか、この日のアンナ叔母さんは、あれほど好きになった到着の日と打って変って、もう子供などにかまっていられないと直覚したのか、いずれにもせよ、彼らは急に叔母さんといっしょに遊ぶのも、叔母さんを愛するのもやめてしまい、叔母さんが帰って行くということも、彼らにとってなんの興味もなくなった。この朝、アンナは出発の準備に忙殺されていた。モスクワの知人に手紙を書いたり、勘定をつけたり、荷ごしらえをしたりしていたのである。概してドリイの目には、アンナがおちついた気持になれず、自分でもよく知っているあくせくした気分でいるように思われた。それは何か理由がなくては襲ってこないもので、多くの場合、自分自身にたいする不満を隠すためであった。食後、アンナは着替えに自分の居間へ行った。ドリイもそのあとから入っていった。
「あんたは今日なんて妙なんでしょう!」とドリイはいった。
「わたし? あんたそう思って? わたし妙なのじゃなくって、いけない女なのよ。これはよくあることなの。わたし泣きたくってしようがないわ。こんなことほんとうにばかげてるけど、今にすんでしまうわ」とアンナは早口にいって、ナイト・キャップや精麻《バチスト》のハンカチをつめていた玩具のような袋に、赤くなった顔をかがめた。その眼はぎらぎら光って、たえず涙が浮んでくるのであった。「わたしペテルブルグをたつときも気が進まなかったけど、今もここからたって行きたくないわ」
「あんたはここへ来て、いいことをして下すったんだわ」とドリイは注意ぶかく彼女をながめながら、そういった。
 アンナは涙に濡れた眼で、嫂を見やった。
「それはいわないでちょうだい、ドリイ。わたしなんにもしやしなかったし、それにできもしなかったんですもの。わたしね、どうして人はわたしを悪くしようと申しあわせてるのかと思って、よくふしぎに思うのよ。いったい、わたし何をしたのでしょう、また何をすることができるでしょう? あんたはその胸の中に愛情の持ち合わせがあったから、赦すことができたのに……」
「もしあんたって人がなかったら、それこそどんなことになったか知れなくってよ! アンナ、あんたはなんてしあわせな人なんでしょう」とドリイはいった。「あんたの胸の中は、何から何まで晴ればれとしてけっこうずくめなんですもの」
「人はだれでもそれぞれの心の中に、イギリス人のいう skeltons《スケルトン》(骨組み)を持ってるものよ」
「あんたにどんな skeltons があるの? あんたはどこからどこまで、とても明るいじゃないの」
「ところが、あるのよ!」ふいにアンナはこういった。と、涙のあとでは思いがけないずるそうな、笑い上戸《じょうご》らしい微笑が唇を歪《ゆが》めた。
「おやおや、してみると、あんたの skeltons は陰気なものじゃなくて、こっけいなものと見えるわね」とドリイはほほえみながらいった。
「いいえ、陰気なものよ。なぜわたしが明日でなしに今日たつか、あんたそれがわかって? これはわたしの胸につかえていた告白なのよ、わたしあんたにそれをしたいの」思い切ったようすで肘椅子の背に身を投げかけ、ひたとドリイの顔を見つめながら、アンナはこういった。
 ドリイは、アンナが耳の付け根から、黒い編髪のうねっている頸筋まで、まっ赤になっているのを見て、びっくりしてしまった。
「そうなの」とアンナはつづけた。「あんたはなぜキチイが食事に来なかったか、そのわけをごぞんじ? あのひとはわたしに嫉妬してるのよ。わたしぶちこわしをしたの……あの舞踏会があのひとのために喜びでなくって、苦しみになったのは、わたしがもとなんですもの。でも、全く、全くのところ、わたしが悪いんじゃないのよ。それとも、ほんのぽっちり悪いだけなのよ」ぽっちりという言葉をひっぱりながら、彼女はかぼそい声でそういった。
「まあ、あんたのいいかたったら、スチーヴァそっくりよ」とドリイは笑い笑いいった。
 アンナはむっとして、
「あら、違いますわ、違いますわよ! わたしはスチーヴァじゃありませんよ」と眉をひそめながらいった。「わたしがこういうのはね、わたし一刻だって、自分で自分を疑うようなことがしたくないからですわ」とアンナはいった。
 けれども、そういった刹那《せつな》、彼女はそれが真実でないことを感じた。彼女は自分で自分を疑っていたばかりでなく、ヴロンスキイのことを考えると、心の動揺を感じずにはいられなかった。現に予定よりも早くたとうとしているのは、もはや彼と顔をあわさないためなのであった。
「ああ、スチーヴァが話していたわ、あんたがあの人とマズルカを踊って、あの人が……」
「それがどんなにおかしなことになったか、あんたとても想像がつかないくらいよ。わたしはね、ただ縁談のお取持ちをしようとしただけなの、思いがけなくまるっきり別なふうになってしまって。もしかしたら、わたし自分の心にもなく……」
 彼女は顔を赤らめて、言葉を止めた。
「ああ、あの人たちもすぐそれに感づいたのよ!」とドリイはいった。
「でも、もしあの人に何か真剣なものがあるとしたら、わたし、どうしたらいいかわからないわ」とアンナはさえぎった。「こんなことはなにもかも忘れられてしまって、キチイもわたしを憎んだりしないようになりますわ、わたしもそう信じていますわ」
「もっともね、アンナ、ほんとうのことをいうと、わたしキチイのために、この縁談はたいして望ましくないと思うのよ。もしあの人が、ヴロンスキイが、たった一日であんたに恋してしまうようだったら、こんな話なんかこわれたほうがいいわ」
「ああ、ほんとうにまあ、こんなばかげたことってありませんわ!」とアンナはいったが、自分の心を占めていた想念が言葉で語られたのを聞くと、またもや濃い満足の紅《くれない》がその顔を染めるのであった。「こうしてわたしは、あれほど好きだったキチイを自分の敵にして、このままたって行ってしまうんだわ。ああ、ほんとうにかわいいひとなのにねえ、ドリイ、あんたなんとかしてうまくとりつくろって下さるわね? よくって?」
 ドリイはやっとのことで、笑いをおしこらえていた。彼女はアンナを愛してはいたけれども、この義妹にも弱点があるのだと思うと、ドリイはなんとなく快かったのである。
「敵ですって? そんなことありっこないわ」
「わたしだって、自分があなたがたを愛しているのと同じように、あなたがたみんなから愛してもらいたいわ。しかも、今度は前よりもっとあなたがたが好きになったんですもの」とアンナは眼に涙を浮べながらいった。「ああ、今日はわたしなんておばかさんになったんでしょう」
 彼女はハンカチで顔をおしぬぐい、着替えにかかった。
 もういよいよ出かけるというまぎわに、遅くなったオブロンスキイが、楽しそうな赤い顔をして、酒と葉巻の匂いをぷんぷんさせながら帰ってきた。
 アンナの感傷はドリイにも感染した。で、お別れに義妹を抱きしめたとき、彼女はこうささやいた。
「ねえ、アンナ、あんたがわたしのためにしてくれたことを、いつまでも覚えててね。わたしも一生わすれないから。そして、わたしがあんたを一番の親友として、前にも愛していたし、これからも永久に愛しつづけるってことを、しっかり覚えていてちょうだいね!」
「どうしてそんなに愛して下さるのか、わたしわかりませんわ」嫂を接吻して涙をかくしながら、アンナはそういった。
「あんたはわたしの気持をわかって下すったんですもの、今だってわかってらっしゃるのよ。さよなら、大事なアンナ!」

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

『ああ、これでなにもかもお終いだ、ありがたいことに!』第三ベルが鳴るまで車の中の通路に立って、みんなの邪魔をしていた兄と最後の別れをつげた時、まずアンナ・アルカージエヴナの頭に浮んだ想念はこれであった。彼女はアンヌシカと並んで自分の席に腰をおろし、寝台車の薄明りの中を見まわした。『ありがたいことに、明日はセリョージャとアレクセイ・アレクサンドロヴィッチに会える。そして、昔ながらの慣れたいい生活が始まるんだわ』
 この日いちんちつづいていた気持、万事に気配りしないではいられないような気持のまま、アンナは一種の満足感をいだきながら、几帳面に道中の用意をした。例の小さなはしっこい手で、赤いハンド・バッグを開けてまた閉めたあと、クッションをとりだして膝にのせ、ていねいに両脚をくるんで、ゆったりと腰をおちつけた。病身らしい一人の婦人は、もう寝支度をしていた。ほかの二人づれの婦人はアンナに話しかけた。太っちょの老婦人は脚をくるみながら、暖房のことを何かいった。アンナはこれらの婦人たちに、二言三言返事をしたが、たいしておもしろい話もなさそうだと見切りをつけ、アンヌシカに灯《あか》りを出すように命じ、それを肘椅子の腕木に縛りつけて、ハンド・バッグの中から紙切りナイフと英語の小説をとりだした。はじめのうちは読んでも頭に入らなかった。まず最初はあたりの混雑と、人の足音が邪魔になったし、それから汽車が動き出してからは、その響きに耳をかさないわけにいかなかった。その後は、左側の窓を打ってはガラスにこびりつく雪や、外套にくるまってそばを通りすぎていく車掌の、一方から雪に吹きつけられた姿や、いま外はものすごい吹雪だといったような、あたりの人々の話し声に気を散らされた。それから先はずっと同じことばかりで、依然たる震動と車のごとんごとんという音、依然として窓に吹きつける雪、熱くなったり冷たくなったりする依然として変りのないスチームの急激な転換、薄明りの中にちらつく依然変りのない人々の顔、依然たる話し声――で、アンナは読書にかかり、読んだものが頭に入りだした。アンヌシカは手袋をはめた(もっとも、片方は破れていたが)幅の広い手で膝の上に赤いハンド・バッグをかかえたまま、もうこっくりこっくり居眠りをしていた。アンナは読みかつ理解はしたけれども、読むのが不快であった。つまり、他人の生活の反映を跡づけていくのが、おもしろくなかったのである。彼女は、自分で生活したい思いがいっぱいなのであった。小説の女主人が病人の看護をしているところを読むと、彼女も足音を忍んで病室を歩きまわりたくなるし、国会の議員が演説をすると、彼女もその演説がしたくなった。メリイ夫人が騎馬で鳥を射ちに行きながら、弟の嫁をからかって、その大胆なふるまいで一同を驚かすくだりを読むと、彼女もそれと同じことがしたくなるのであった。しかし、何もすることがなかったので、小さな手で滑っこい紙切りナイフをまさぐりながら、つとめて読書に没頭しようとした。
 小説の主人公はすでに男爵の位と領地という、英国人として理想的の幸福を獲得せんとし、アンナも彼とともにその領地へ乗りこみたくなったそのせつな、小説の主人公はきっとそれが恥ずかしいに相違ないだろうと感じ、彼女自身も同様にそれが恥ずかしいような気がした。しかし、小説の主人公はそもそもなにが恥ずかしいのだろう?
『わたしはいったいなにが恥ずかしいのかしら?』侮辱されたような驚愕の念を抱きながら、彼女はこう自問して本をはなし、紙切りナイフを固く両手に握りしめたまま、椅子の背に身を投げた。恥ずかしいことなど何もなかった。彼女はモスクワの記憶を一々点検してみたが、なにもかも快い記憶で、悪いことは何もなかった。舞踏会を思い起し、ヴロンスキイとその惚れぼれとしたような従順な顔つきを思い起し、この男との交渉を残らず思い起したが、恥ずかしいことは少しもなかった。けれども、それと同時に、追想がちょうどここまでくると、羞恥の念はさらに募ってくるのであった。それはさながら、彼女がヴロンスキイのことを思い起したとか、何かしら内部の声が、『温かいわ、とても温かいわ、燃えるようにあついわ』といっているようであった。
『まあ、それがいったいどうしたんだろう!』と彼女は椅子の上に坐りなおして、きっぱりと自分で自分にこういった。『これはそもそもどういう意味なのかしら? いったいわたしはこれをまともに見るのが怖いのかしら? まあ、どうしたってことだろう? あの若造の将校とわたしの間に、普通の知人同士と違った何かほかの関係があるのかしら、いえ、ありうるのかしら?』
 彼女はさげすむように、にやりと笑って、また本をとりあげた。が、もう何を読んでいるのか、まるっきりわからなかった。彼女は紙切りナイフで窓ガラスをこすり、それから冷たいつるつるした刃を頬におしあてた。と、ふいになんの原因もなくこみあげてくる喜びに、思わず声を立てて笑いそうになった。彼女は自分の神経が捻《ねじ》に巻かれる楽器の絃《いと》のようにしだいに強く張っていくのを感じた。眼はいよいよ大きく見開かれ、手足の指は神経的に動き、胸の中では何ものかが息をせばめ、揺れ動く薄闇の中にありながら、すべての形象や響きがなみなみならぬあざやかさで、はっとするような印象を呼びさます、それを彼女は感じた。彼女はふっと瞬間的に、汽車が前へ走ってるのか、うしろへ行ってるのか、それともまるで動かないのか、のべつ思い惑うのであった。そばにいるのはアンヌシカだろうか、それとも見ず知らずの女なのか? 『あれはなんだろう、あの腕木にかかっているのは? 毛皮外套かしら、それとも獣かしら? それに、ここにいるのはわたしかしら、わたし自身か、それともほかの人か?』彼女はこうした自己忘却に身をゆだねるのが恐ろしかったけれども、何ものかが彼女をその中へひきずりこむのであった。それに身をゆだねるのも、おのれを抑制するのも、彼女の心のままであった。彼女はわれに返るために立ちあがり、膝掛を棄てて、暖かい服の肩襟をはずした。束《つか》の間《ま》、彼女はわれに返った。おりから入ってきた、ボタンの一つ足りない南京木綿の外套を着た、やせた百姓風の男が暖炉たきであって、寒暖計を見にやってきたのだということもわかれば、そのうしろの戸口から風と雪がどっと吹きこんだのにも気がついた。けれど、すぐまたなにもかもがいっしょくたになってしまった……胴の長いその百姓男は、壁の中で何かがりがりがり齧《かじ》りはじめるし、老婦人は車の長さいっぱいに脚をのばして、車の中じゅう黒い雲にみたしてしまった。それから、まるでだれかが八つ裂きにでもなったように、恐ろしい軋《きし》み声が起り、なにやらごとごと音がしはじめた。やがてそのうちに、まっ赤な火が目つぶしを食わせたと思うと、なにもかも一面の壁に隠れてしまった。アンナは、自分の体がどこかへ堕《お》ちていくような気がした。しかし、それらはすべて恐ろしいどころか、かえって楽しいのであった。雪だらけの外套にくるまった男の声が、彼女の耳のすぐそばで何かどなった。彼女は立ちあがって、われに返った。そして、汽車が停車場に近づいたこと、どなった男が車掌だったことを悟った。彼女はアンヌシカに命じて、はずした肩襟と頭にかぶる布《きれ》を出させ、それを身につけると、戸口のほうへおもむいた。
「外へお出になりますか?」とアンヌシカはきいた。
「ああ、ちょっと風にあたりたくって、中はひどく暑いんだもの」
 そういって、彼女は戸を開けた。吹雪と風がどっとまともに吹きつけて、彼女と扉の奪いあいをはじめたが、それさえ彼女には愉快に思われた。彼女は戸を開けて、外へ出た。風はただただ彼女が出るのを待っていたかのように、さもうれしげに口笛を吹きながら、彼女をひっつかんで連れていこうとした。けれども、彼女は冷たい鉄の柱につかまって、頭の布をおさえたままプラットフォームヘ降り、車の陰に入った。風はステップの上でこそ強かったが、列車の陰になったプラットフォームは静かだった。彼女はさも快よさそうに、雪に凍《い》てた空気を胸いっぱいに吸いこんで、車のそばに立ちながら、プラットフォームや灯《あか》りのついた停車場などを見まわしていた。

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

 すさまじい雪嵐は停車場のすみずみから起って、列車の車輪の間や、柱のまわりを荒れくるい、ひゅうひゅうとほえ猛《たけ》った。汽車の車輪、柱、人間、すべて見える限りのものは、一方の側から雪を被《かぶ》って、その雪はしだいしだいに厚くなっていく。風は時どき、ほんの瞬間だけ静まったが、すぐにまた恐ろしい勢いでどっと襲ってくるので、とても面と向って立っていられそうもないほどであったが、その間にも、人はだれやら愉快そうに話しあったり、プラットフォームの板をぎしぎし踏み糺《きし》らせたり、たえず大きな戸を開けたり閉めたりしながら、ちょこちょこ駆けまわっていた。前かがみになった人間の影が、彼女の足もとをすべり通ったと思うと、鉄を打つ金鎚《かなづち》の音が聞えた。「電報をよこせ!」という腹だたしげな声が、向こう側の荒れ狂う闘の中から響き渡った。「こちらへどうぞ! 二十八号車です!」というまちまちな叫び声がした。雪を吹きつけられてまっ白になった頬かむりの人が、幾人か駆けぬけた。火のついたタバコをくわえたどこかの紳士が二人、彼女のそばを通りすぎた。彼女は十分空気を吸いこむために、もう一度ほっと大きな吐息をついた。そして、車の鉄柱につかまって車内に入ろうと、もうマッフの中から手を出した。と、その瞬間に、軍人風の外套を着た男が、彼女のすぐそばに現われて、揺らぎ動く角燈の光をさえぎった。彼女はなにげなくふり返ると同時に、ヴロンスキイの顔に見分けがついた。彼は帽子の庇《ひさし》へ手をあてて、彼女に会釈し、何か用はないか、何か役に立つことはないか、とたずねた。彼女はかなり長い間、なんとも返事をしないで、じっと男の顔に見入っていた。そして、彼が暗い影に立っていたにもかかわらず、その顔と眼の表情を見てとった。いや、見てとったように思われたのである。それはまたしても、昨日ああまで強い刺激を彼女に与えた、あのうやうやしげな歓喜の表情である。彼女はこの二三日、一度や二度でなく、現についたった今も、ヴロンスキイは自分などにとって、いたるところざらにごろごろしている永久に同じような青年の一人にすぎない、あんな男のことなど考えるのも不見識だと、心の中でひとりごちていたのであるが、いま会ってみると、いきなり最初の瞬間から、たちまち彼女は喜ばしい誇りの念に、全存在を包まれてしまった。彼がどうしてこんなところへ来ているのか、彼女はもうそんなことをたずねる必要がなかった。まるでヴロンスキイが彼女に向って、自分がここにいるのは、ただ彼女のいるところにいたいからだと、口に出していったのと同じくらい正確に、彼女はそれを知っていたのである。
「あなたが乗ってらっしゃるの、わたし少しもぞんじませんでしたわ。どうしてお帰りになるんですの?」鉄柱につかまろうとした手をさげて、彼女はこういった。おさえきれない喜びと生きいきとした色が、彼女の顔に輝いていた。
「どうして僕が帰るかですって?」彼はひたと女の眼を見つめながら、鸚鵡《おうむ》返しにこういった。「あなただってご承知でしょう、僕はあなたのいらっしゃるところにいたいから、ここまできたんです」と彼はいった。「僕はもうほかにどうもしかたがないのです」
 ちょうどこのとき、風は障碍物でも征服したかのように、列車の屋根屋根からさっと雪を吹きはらって、どこやらで剥《はが》れかかったブリキ板をばたばたいわせはじめた。すると前の方では、厚みのある機関車の汽笛が、泣くような陰気くさい調子で吼《ほ》えはじめた。こうした吹雪のものすごい光景が、今や彼女の眼にはなにもかも、ひとしお悲壮の美をおびてくるのであった。彼女が心で願いながら、理性で恐れていたのと同じことを、彼は口に出していったのである。彼女はひと言も答えなかった。彼はその顔に内部の戦いを見てとった。
「もし僕のいったことがお気に障《さわ》ったら、どうかお赦し下さい」と彼はすなおにいった。
 彼の語調はいんぎんでうやうやしくはあったけれども、しっかりと力づよく執拗に響いたので、彼女は長いあいだなんにも答えることができなかった。
「あなたのおっしゃることは、それはよくないことですわ。お願いですから、もしあなたがいいかたでしたら、どうか今おっしゃったことを、お忘れになって下さいまし、わたしも忘れてしまいますから」ついに彼女はこういった。
「僕はあなたのおっしゃったひと言ひと言、あなたの動作の一つ一つを、永久に決して忘れやしません。また忘れることもできません」
「たくさんです、たくさんです!」男が貪《むさぼる》るように見入っている自分の顔に、いかつい表情を浮べようと空しい努力をしながら、彼女はこう叫び、冷たい鉄柱に手をかけると、ステップにひらりとあがって、すばやく車の昇降口へ入っていった。けれど、その狭い昇降口のところで、彼女は今のことを心の中で考えなおしながら、ちょっと足を止めた。別に自分の言葉も、相手の言葉も思い返したわけではなかったけれど、彼女はこの束《つか》の間の会話が二人を恐ろしく接近させたのを、直覚によって悟った。で、彼女は思わずぎょっとしたが、またそれを幸福にも感じた。彼女は幾秒かの間そこにたたずんでいたが、やがて車の中へ入って、自分の座席へ腰をおろした。すると、はじめ彼女を悩ましていたあの緊張した心の状態が、ふたたびよみがえってきたばかりでなく、さらにその度を増していって、ついには胸の中で張りつめていた何かが、ぷつりと切れてしまいはせぬかと、そら恐ろしく感じられるほどになった。彼女は夜っぴてまんじりともしなかった。けれど、そうした緊張感や、心を満たしていたとりとめのない幻想のなかには、不快なところや陰鬱なところは露ほどもなかった。それどころか、なんとなく心を浮きうきさせるような、焼けつくような刺激性のものがあった。明けがた近くなって、アンナは肘椅子に腰掛けたまま、うとうとまどろみはじめた。そして、目をさました時には、もう明るくなっていて、汽車はペテルブルグに近づいていた。と、すぐに家のことや、良人のことや、子供のことや、今日から始めてここ数日間にしなければならぬことどもを思う心づかいが、彼女をとりまいてしまった。
 ペテルブルグで汽車が停って、プラットフォームに降りた時、いきなり彼女の注意をひいた最初の顔は、良人の顔であった。『ああ、どうしよう! なんだってあの人の耳はあんなになったんだろう?』良人の冷やかな堂堂たる風采を見、わけてもいま彼女に驚異の目を見はらした耳――丸い帽子の鍔《つば》をつっぱっている耳の軟骨部を見ながら、彼女は心の中でこう思った。妻を見つけると、彼はいつも癖になった嘲るような微笑に唇を歪めて、その大きな疲れたような眼で、まともに妻を見つめながら、彼女の方へ歩いて来た。その執拗な疲れたようなまなざしを迎えた時、なにかしら不愉快な感情が、彼女の心をちくりと刺した。まるで彼女が予期していたのは、もっと違った人かなんぞのように。ことに彼女をぎょっとさせたのは、夫を見た瞬間に感じた、自分自身にたいする不満の情であった。この感情は、彼女が夫にたいしていつも経験していた家庭的感情であって、自己|欺瞞《ぎまん》ともいうべきものであった。けれど、以前は自分でこの感情に気がつかなかったのに、今ははっきりと痛いほどに意識されたのである。
「え、ごらんのとおり、優しい良人じゃないか。結婚二年目といいたいほど優しい良人じゃないか。早くおまえに会いたい一念に燃えていたんだからね」と彼は持ち前のゆっくりした細い声でいった。それは、彼がほとんど常に彼女にたいして用いる調子で、もし本気でこんなことをいうやつがあったらさぞこっけいだろう、といったようなふうである。
「セリョージャは丈夫ですの?」と彼女はきいた。
「おや、それが私の熱情にたいする報酬のすべてかね?」と彼はいった。「丈夫だよ、丈夫だよ……」