前もって自分の立場を書いておくが、筆者は徐京植氏のほうに賛成の立場である。しかしそれは自分のもてるものをつくして納得した上での賛成であることを明記しておく。
また、徐氏の著作は5冊ほど読んでいるが、花崎氏の本は今回がはじめてであることを付記しておく。以下の記述の間違いについては、筆者が責任を取ることにする。
徐氏と同じことを筆者がまた指摘してもあまり意味があるとも思えないし、この記事の読者の理解を深めるとも思えないので、別のことを指摘する。
花崎氏の記述で一瞬考え込んだ後にはやりおかしいと思うのは、次の部分である。
「私が徐京植の論理に批判的に反応せざるをえなかったのは、二〇世紀の社会主義・共産主義運動、近くは一九七〇年代以後の新左翼運動の総括とかかわる問題を含んでいたからである」(P106)
筆者の知っている論者で、このような指摘を「くだらない言い訳」と切って捨てる(捨てがちである)人を知っているが、そのことについてはおいておく。ここでは別の指摘をしたい。
ではなぜ、地球の西側であるドイツでは、”過去清算”が一応進んでいるのだろうか? ドイツだけではなく、フランスやイタリアなどでも、ファシズト政権支配下の被害者に対する謝罪・補償・記憶事業・歴史修正主義扇動行為の鎮圧は一応の進展をしていると見聞きしている。そのときにいわゆる”テロリズム”を中心とした運動が行われたという事例は筆者は知らない。
花崎氏はこの問題に答えていない。このことについては、真実和解委員会を設置した各国・地域についてもあてはまる。
いわゆる、「正義の暴走」をもちだせば論争は決着するというのは、(少なくとも)日本ではよく見られるレトリックだが、それはリアリズムのふりをした開き直りであることがほとんどである(全部、と言い切ってもかなり筆者側に分がある)。それと同じような問題に花崎氏がはまりこんでしまった(ように見える)のはおおいに問題である。
ここで筆者自身を省みて注意しないといけないことは、花崎氏は「マジョリティとしての日本人の責任」自体ははっきり認めているのである。その次の、「ではどうすべきか」に具体的に答えられていない。運動の目的は具体的であるべきのはずである。それなのに、”誰に抵抗して””何”を「真摯に受けとめ、誠実に実践する(徐氏の発言)」のかということが欠けているのである。というよりも、花崎氏がこの”何”が欠けていることに気がついているのかいないのか、文章から明確にわからないのである。
ここで仮定の話になるが、「一体何をして欲しいんだ!」「それをあなたが考えろ!」というやりとりでもって決裂していたら、そちらのほうが意味があったのではないか、そう思った。
筆者が昔ある数学者から聞いたことだが、「フェルマーの最終定理で、フェルマーとワイルズどっちがすごいか。フェルマーは問題を考え出しただけでも大変な功績だ」といっていた。それに通じる問題である。
※本記事は「s3731127306の資料室」2017年10月15日作成記事を転載したものです。