『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「特別掲載 自己反省的主体の隘路――花崎皋平と徐京植の「論争」をめぐって」(中野敏男、現代思想2002年6月号)

 以下の記事で書いたが、この論考の筆者の中野敏男先生から、「この論文は悩みながら書いたものだからていねいにあつかってほしい」という返信メールを受け取っている。
 この紹介記事を読む方はそのことを念頭において読んでほしい。
 筆者は花崎氏の本は1冊しか読んでいない。しかし、その真面目さは疑えないと判断する。だからこそ、ここでわざわざ記事を書いたわけである。不真面目で、論ずるに値しないような論者ならば、そもそも記事を書いたりはしない。
 また、2010年代の「過去の責任」に対する議論は2000年代より少なくとも3段以上は後退している(だからこそ以下の引用は誤解を避けるために、かなり長くなっている)が、だからこそ現状を批判する側が先の先まで考えておく必要がある、そのときにこの論文は参考になるはずだと判断した。


http://d.hatena.ne.jp/s3731127306/20170928/1506599908

冒頭。

(略)
 この花崎―徐論争については、おそらくそれが、日本語圈の言論界にあって相共に「批判的良心」の在処を示し続けてきたはずの二人のことであり、しかもその思想のポジションそのものを問うものであっただけに、少ながらぬ人々が心を痛めあるいは当惑しつつ事態の成り行きに注目していたことだろうと思われる。わたし自身にしても、これまで彼らの思想と行動から直接に大きな影響を受けてきたという経緯があり、また、すでに長年にわたる個人的な親交もあったことから、この論争は、文字通り身の引き裂かれる思いのする事件となった。さればこそわたしは、二人の間になんとか直接の対話を実現したいと願い、そのための場を設定する努力もしてきている。そのような論争の「結末」が、いま当事者双方の著書のかなり奇妙なズレとして表現されるに至って、あらためてその意味の深刻さを痛切に思わずにいられない。
 論争が始まってすでに二年半あまりが経ち、わたしが関知している限りでも、ふたつの著書が成立する以前に、当事者やその周辺でいくつかの具体的なやり取りがあったことは事実である。だが、紙幅の限られているここでは、その詳細な検証には立ち入れない。しかしそのプロセスでわたしは、この花崎―徐論争が、単に個人間の一時的あるいは部分的な見解の衝突なのではなく、戦前から戦後にわたる現代日本の社会と思想の状況に特に深く規定され、それゆえ広い思想史的な視野から考え直されねばならない基本問題を含むものと考えるようになってきている。そこで、ふたつの著書が出たのを機会にそれに即してわたしの考えを述べ、今後に向けた問題提起としたい。




「自己反省する主体という壁」の段落より。
3回読み直したが、省略できないと判断して、特に長く引用した。

 さて、以上のような意味で、脱植民地主義をめざすコミュニケーションのおり方という問題意識をもちつつ、ここに与えられたふたつの新著に接すると、この両著の間にとても奇妙なズレが存在するということにただちに気づかせられる。そしてわたしは、そのことに、この論争の注目すべき特質と事態の深刻さがとても端的に示されているのではないかと感じている。そこで、その点から少し立ち入って検討してみよう。
(略)
 まず、徐の方の新著『半難民の位置から』を見ると、そこでは、彼が書いた最初の花崎への反批判である「あなたはどの場所に座っているのか?」が当初の形のまま収録され、それへの「補注」の形で彼の立場からまとめられた論争の経緯が記されて、しかも、この反批判が対象にする花崎論文の当該箇所がそのままかなり長い形で引用されている。これに対して、花崎の新著『〈共生〉への触発』の方では、徐が批判の対象にした当の論文「『脱植民地化』と『共生』の課題」そのものは消えて、むしろそれを「大幅に書き直し」た修正版が収録され、花崎が「苦い思いを味わいつつ」そう書き直した経緯が「あとがき」で説明されている。つまり、徐の著書は、花崎論文の原形とそれに対する徐自身の「抗弁」を収録して花崎の再反論を促す形になっているのだが、花崎の著書が提示するのは、原形論文でも徐の「抗弁」への再反論でもなく、花崎の自己反省によって批判をクリアーしヴァージョンアップしたと主張される改訂版なのである。ここで徐の批判は、花崎の自己反省プロセスに回収されている。
 その「あとがき」を見る限り、論争に臨む態度として、あくまで原形論文への自己反省と書き直しにこだわる花崎のこのような対応は偶然のものではない。花崎は徐からの「抗弁」が寄せられたその時から、「それに答えるべく、最初の文章を点検し、考えが至らなかった点は反省し、お詫びして訂正すべき所は訂正するようにし、当初予定されたとおり、単行本として発表する形で答えるつもりであった」と述べている。そして確かに、論争のプロセスにおける花崎のこの対応は終始一貫したものであった。だが、事態を論争として見た場合には、このような態度はやはり「とても奇妙」と言わねばならないだろう。例えばわれわれが論文などを書くとき、それを発表する以前の段階でなら、確かに、指導教員や友人たちの助言を得てさまざまな修正を加えるということがありうる。だが、事が既発表論文をめぐる論争になった場合には、それを勝手にただ修正だけしてしまうのではなく、当初の論文は論争の前提として維持し(そうでなければ何か争点なのか分からなくなる)、それに対する他者からの批判の主旨を受けて、考えを改めるか反論するかいずれかの立場から批判に応答する論文を新たに書くということになるはずだ。少なくとも、花崎は徐から「あなたはどの場所に座っているのか?」と問い返されたのだから、論争であるのなら、これに真正面から応答すること[#「論争であるのなら、これに真正面から応答すること」に傍点]が期待されるのである。ところが実際に花崎がしてきたことは、それではなく、自著出版に向けて当初の論文をひたすら自己反省し書き直すということなのであった。
 その真面目な人柄を思えば、このような花崎の対応が、ただ自著の改善だけのために他者知識や意見を利用しようという意図から出たものでないということは疑いえない。だがそうだとしても、このような花崎の対応は、徐を論争相手[#「論争相手」に傍点]とは認めていない[#「認めていない」に傍点]ということにはなるのではないか。少なくとも花崎は、ここで、徐と応答する形で出会ってはいない[#「出会ってはいない」に傍点]。そして、わたしが特に深刻な問題だと思うのは、花崎が、そのように徐に対する自分の態度を、むしろあるべきもの[#「あるべきもの」に傍点]と自認しているらしいということである。だからこそ花崎は「あとがき」で、「苦い思いを味わいつつ」も「発表したものをなんども書き直した」とわざわざ強調しているのである。明らかに花崎はここで、苛立たしい書き直し作業にまさに「苦い思いを味わいつつ」、それでも思想家としての自己矜持を維持してあくまでもしっかり事に対そうと努めている。
 と思ってみると、自己反省に徹する花崎のこのような思想態度は、実は、この論争においてだけの特別なものだとは言えない。花崎が「誠実な思想家」としてずっと認められてきているのも、振り返れば、徹底した主体的自己反省[#「主体的自己反省」に傍点]という彼のこの思想の形によっているのであった。だが、考えてもみよう。この論争が、脱植民地主義という課題を特別に意識し、加害と被害という関係の歴史、そして、マジョリティマイノリティの関係の現在をしっかり踏まえながら、そこであるべきコミュニケーションのあり方を求めて出発したのであれば、ここでも維持されている花崎のこの思想態度が重大なネックとなるのは明らかではなかろうか。コミュニケーション・モードの批判に始まったこの論争は、皮肉なことに批判者の側のコミュニケーション・モードゆえに、出会いそのものが困難となるような大きな壁に直面してしまっているのである。
 すると、花崎のこのような思想態度は、なにかの思想的根拠をもっているのだろうか。





「自己決定する主体の暴力」の段落から

(略)
 もちろん、自己決定権あるいは自己定義権という理念は、ある言説空間が例えば「男性」というマジョリティに占拠され、その言説の仕組みによって定義される「主体」のみが成員権を認められるような状況下で、そこから排除されているマイノリティが「他なる声」をあげ、「わたし固有のわたし」を主張できるように求める論拠としてそれを持ち出すときに、ひとつの概念構成として一定の意義をもちうることは明らかである。だが、そこからさらに進んで、それが普遍妥当的に優先されるべき権利概念として[#「普遍妥当的に優先されるべき権利概念として」に傍点]有効かと考えると、そこにはさまざまな限界があることが理解されなければならない。とりわけ花崎-徐論争の文脈では、花崎の持ち出す自己決定する主体の思想が、マジョリティの側の[#「マジョリティの側の」に傍点]権利主張として押し出されているという点に注意しよう。この構図の下では、自己決定する主体の思想は、さまざまな暴力にまで直ちに結びついていってしまうことにもなるからだ。
 そもそも植民地主義という課題意識を共有しているはずなのだから、ここでは帝国主義植民地主義のことを考えてみよう。歴史的に見れば、この帝国主義植民地主義が、「国家理性」という国家の自己決定の論理をもって正当化され発動されていったということは明らかである。そして、この帝国主義植民地主義の担い手である主体は、それもまた、自発性能動性をもって自己決定する主体とし、動員されたということが理解されなければならない。このような論点の詳細は拙著『大塚久雄丸山眞男――動員、主体戦争責任』(青土社)で論じたからそれを参照していただきたいが、ともあれここで想起しておきたいのは、自己決定する主体が、帝国主義の支配的なマジョリティとして登場し残虐な植民地主義の暴力の担い手ともなったという歴史的事実である。
 「脱植民地化」を副題に掲げる花崎の新著が、このような植民地主義の歴史に概して無自覚に振る舞うのは驚くべきことである。(略)





主体の分裂可能性という希望」の段落から

(略)
 だが、花崎-徐論争を通じて、花崎によって歩み通された戦後思想の限界を最終的に知ったということであれば、それは悪いばかりの体験ではなかったとわたしは思う。というのも、これによって、その核にある自己決定する主体という理念に見切りをつける最終的なきっかけを与えられたと考えることもできるからである。思えば、帝国主義植民地主義の歴史を踏まえて、その加害と被害を直視しつつマジョリティマイノリティと出会うということは、そもそも自己決定する主体そのものを震撼させる出来事であるに違いないのだ。
(略)



 書くべきことがいくつかあると思うが、簡単に4つ。
・「主体」が「分裂」したあとにどうなるのか、先回りしてかんがえておく必要がある。
・”日本人”こそ、明治維新とは別の歴史を”捜索”しないといけない。歴史はただの過去では絶対にない。発想の反対軸がない。
・西のヨーロッパが東の日本を引き合いに出して、”過去の克服”をサボタージュできるだろうか? それはヨーロッパキリスト教上の普遍性をになっているというよりも、いってみれば「年上の責任」というものにすぎないのではないだろうか? これは筆者の単なる思いつきではあるが、そうでなければ、ヨーロッパ(ここで理由あってアメリカロシアは一応のぞく)において植民地支配の過去清算問題があまり進んでいないことが説明できないのではないだろうか?
・これは筆者の尊敬する梶村秀樹氏も、はっきり明言したわけではないのだが、共産主義運動、もっと正確に言えばプロレタリア国際主義運動がいわゆる「アジア主義」と同じ”ような”問題、つまり他者理解上の決定的な認識不足だったという問題があまり意識されていないらしいということを指摘しておかねばならない。しかも、問題は強圧うんぬんではなかったからより問題は深刻である。どうやら花崎氏はこの問題を持ち出していない。

 

※本記事は「s3731127306の資料室」2017年10月15日作成記事を転載したものです。