『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」1-11~1-15(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 レーヴィンは盃を飲み干した。二人はしばらく黙っていた。
「もう一つ、君にいっておかなきゃならんことがある。君はヴロンスキイを知ってるかい?」とオブロンスキイは、レーヴィンに問いかけた。
「いや、知らない。なんだってそんなことをきくんだね?」
「もう一びんもってきてくれ」ちょうどそんな必要のないときに、二人の盃に注ぎたしなどして、そばをちょこちょこしているダッタン人に向いて、オブロンスキイはいった。
「君がヴロンスキイのことを知らなくちゃならないというわけは、その男が君の競争者の一人だからさ」
「そのヴロンスキイって、いったいなにものだね?」とレーヴィンはきいたが、つい今しがたオブロンスキイの見とれていた彼の子供らしい有頂天な顔つきは、とつぜん意地のわるそうな、不快らしい表情になった。
「ヴロンスキイか――それはキリール・イヴァーノヴィッチ・ヴロンスキイ伯爵の息子の一人で、ペテルブルグの上流社会でも最もはなばなしい、模範的な青年の一人なんだ。僕はトヴェーリで勤務している時分、その男を知ったんだ。先生、新兵募集のためにそこへやってきてね。たいした資産家で、美男で、ひきも沢山あって、侍従武官なのだ。しかも同時に、実に愛すべき善良な青年なんだ。いや、ただ善良といっただけでは足りないくらいだよ。ここでまた旧交を温めたときわかったんだが、教養もあるし、実に聡明なんだ。あの男いまにえらくなるよ」
 レーヴィンは眉をひそめて、黙っていた。
「そこでだ、彼は君が発ってまもなくここへ姿を現わしたが、僕のにらんだところでは、先生キチイに首ったけなんだ。それに、君もわかるだろうが、母親も……」
「失敬だが、僕はなんにもわからない」気むずかしげに眉をひそめながら、レーヴィンはこういった。するとたちまち、兄ニコライのことを思い出し、この兄のことを忘れうるなんて、自分はけがらわしい人間だ、と考えた。
「君、ちょっとまってくれ、ちょっと」とオブロンスキイはにこにこ笑って、彼の手にさわりながらいった。
「僕はただ自分の知ってることを話しただけだ。そして、くりかえしていうが、この微妙かつ繊細な事柄でだね、僕の推察しうるかぎりでは、勝ちみは君のほうにあるように思う」
 レーヴィンは椅子の背にもたれていたが、その顔は蒼ざめていた。
「しかし、できるだけ早く、事を決めてしまうように忠告するな」とオブロンスキイは、相手の盃に注ぎたしながらいった。
「いや、ありがとう、僕はもう飲めない」と自分の盃をおしのけながら、レーヴィンはいった。「酔っぱらってしまう……ときに、君のほうはどうだね?」と、いかにも話題を変えたいようすで、彼はつづけた。
「もうひと言。いずれにしても、なるべく早くこの問題を解決するようにすすめるが、今夜は切り出さないほうがいいぜ」とオブロンスキイはいった。「あすの朝出かけていって、公式に結婚の申しこみをするんだ、そうすれば神さまが君を祝福して下さるよ……」
「どうしてだね、君は僕のとこへ猟をしに来たい来たいといってたくせに? この春やってこないかね」レーヴィンはいった。
 今となって、彼はオブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オヴロンスキイ」]を相手に、こんな話をはじめたのを、心底から後悔した。彼の特殊な[#「特殊な」に傍点]感情は、だれかしらペテルブルグの将校の競争|云々《うんぬん》の話や、オブロンスキイの想像や忠言で、すっかりけがされてしまった。
 オブロンスキイはにっと笑った。彼はレーヴィンの心中を察したのである。
「そのうちに行くよ」と彼はいった。「いや、君、女ってやつは、いっさいを操る発条《ばね》だね。現に僕のとこも形勢不穏だ、大いに不穏なんだよ。それもこれも、みんな女がもとなのさ。君ひとつ歯に衣《きぬ》きせずにいってくれないか」片手でシガーをとりだし、片手で盃をおさえたまま、彼は言葉をつづけた。「君の忠言が聞きたいんだから」
「いったいどういうことだね?」
「こういうことなんだよ。まあ、かりに君が結婚していて、細君を愛しているくせに、ほかの女と浮気したとする……」
「失敬だが、僕そんなことはとんとわからないよ。それはちょうど、僕が腹いっぱいたべたすぐあとで、パン屋のそばを通りかかって、パンを一つ盜む、それと同じような話で、わかりようがないじゃないか」
 オブロンスキイの眼は、いつにも増してぎらぎら光った。
「どうして? パンはどうかすると、矢も楯《たて》もたまらんほどいい匂いがするじゃないか」

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Himmlisch ist's wenn ich bezwungen
Meine irdische Begier;
Aber doch wenn's nicht gelungen,
〔Hatt'ich auch recht hu:bsch Plaisir!〕
もしわれ地上の望みに打ち克たば
そは天のごと清きわざなれ
されどよし我つたなくして破るるとも
なお直ぐにして美しき喜びはあり
[#ここで字下げ終わり]

 こういいながら、オブロンスキイは微妙なほほえみを浮べた。レーヴィンも同様、ほほえまずにはいられなかった。
「そう、しかし冗談はさておいて」とオブロンスキイはつづけた。「君わかってくれるだろう――その女は優しく、つつましい、愛情にみちた女で、しかも貧しい孤独な身の上なのに、なにもかも犠牲にしたんだよ。もうできてしまった今となってさ、ねえ、おっぽり出しちまっていいものだろうか? まあ、かりにだ、家庭生活を破壊しないために別れるとしても、その女をかわいそうに思ってはならんだろうか、なんとか方法を立てて、罪ほろぼしをしてはならんだろうか?」
「いや、もう勘弁してくれたまえ。君も知ってのとおり、僕にとっては、女はすべて二つの種類に分れてるんだ……いや、そうじゃない……より正確にいえば、一方には女があり、いま一方には……僕は堕落したりっぱな女なんて見たこともなければ、また見ることもないだろう。ところで、あの帳場に坐っていた、髪をくるくるカールした紅白粉《べにおしろい》だらけのフランス女、あんなのは僕にとって蛇同様だ。そして、堕落した女はみんなああいうふうなんだよ」
「じゃ、福音書に書かれている女は?」
「ああ、よしてくれ! もし後世みんながこれほど濫用すると知っていたら、キリストも決してあの言葉を口にしなかったろうよ。福音書一巻の中で、みんなが覚えているのは、ただあの言葉ばかりなんだからなあ。もっとも、僕は頭の中で考えてることをいってるんじゃなくて、ただ感じたことをしゃべっただけだよ。僕は堕落した女にたいして、嫌悪の念をいだいてるんでね。君は蜘蛛《くも》を恐れているが、僕はこの種の蛇を恐れる。ねえ、君だって蜘蛛を研究したこともなければ、その習性も知らないだろう、僕もそのとおりなんだ」
「君はそんな太平楽を並べてりゃよかろうさ。それは、あの左手で右の肩ごしに、いっさいの難問をぽんぽんとほうり投げてしまう、ディッケンスの描いた先生と同じこったよ。事実の否定は答えにならないからね。どうしたらいいのか、それをいってくれたまえ、いったいどうしたらいいんだね? 女房は年をとっていくのに、こっちは生命でいっぱいなんだ。あとをふり返って見るまもないうちに、もう女房をほんとうの感情で愛することはできない、としみじみ感じさせられる。どんなに女房を尊敬していたってだめなんだ。そこへ突然、かわいいのが手もとにぶつかると、もうおしまいだ。それこそおしまいだ!」とオブロンスキイは力のない絶望の調子でいった。
 レーヴィンは薄笑いした。
「そうなんだ、おしまいなんだ」とオブロンスキイはつづけた。「そこで、いったいどうしたらいいんだい?」
「パンを盗まないことだね」
 オブロンスキイは笑いだした。
「おお、道徳家先生! しかし、ここのところをよく合点してくれよ。まず二人の女がいて、一人はただ自分の権利のみを主張している。その権利は君の愛情なんだが、君はそれを与えることができない。ところが、もう一人のほうは君のためにすべてを犠牲にして、しかも何一つ要求しない。そのとき君はどうする? どういう行動をとる? そこに恐ろしいドラマがあるわけだよ」
「もしその問題について、僕の率直な言葉を聞きたいというのなら、いうけれど、僕はそこにドラマがあるなんて信じないね。それはこういうわけだ。僕にいわせれば、愛は……ね、覚えてるだろう、あのプラトンが『饗宴《きょうえん》』の中で定義している二種の愛さ――その愛は二つながら、人間の試金石となるものだよ。ある種類の人間は、一つの愛しか理解しないし、またある種類の人間は、もう一つの愛しか理解しない。ところで、非プラトニックの愛しか理解しない人間は、いくらドラマを云々《うんぬん》したってだめなんだよ。そういう愛には、いかなるドラマも生じえないからさ。おもしろい目をさしてもらってどうもありがとう、――さよなら、それがドラマの全部なんだ。またプラトニックな愛にとっても、ドラマはありえない、というわけは、この種の愛にあっては、すべてが明朗で清浄だからさ、そしてまた……」
 その瞬間、レーヴィンは自分の罪悪と、かつて経験した内部闘争を思い出したので、ふいにこうつけたした。
「もっとも、君のいうこともほんとうかもしれないよ。大きにそうかもしれない……わからない、まるっきりわからない」
「ねえ、君」オブロンスキイはいいだした。「君は非常に純粋な人間だ。それは君の特質であると同時に、また欠点でもあるのだ。君は自分が純粋な性格だもんだから、全人生が純粋な現象から成り立つようにと望んでいるが、事実そんなことはありゃしない。現に、君は行為が目的と一致するようにと望んでいるものだから、社会的活動や勤務生活を軽蔑しているけれども、そんなことはありえないよ。また君は、一人の人間の行動がつねに目的をもっていることを望み、愛と結婚生活が常に同一であることを望んでいるが、それもありえないことだ。人生の変化も、美も、魅惑も、すべて光と影でできてるんだからな」
 レーヴィンはほっとため息をついて、なんとも答えなかった。彼は自分のことを考えて、オブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オブロンスキー」]のいうことを聞いていなかったのである。
 とふいに、彼らは二人ともこういうことを感じた――自分たちは親友であって、いっしょに食事をし、酒を飲んだ。それは、二人をいっそうしたしく接近させなければならぬはずであるが、めいめい自分のことを考えていて、おたがいに相手のことなんかどうでもいいのであった。オブロンスキイはすでに一度、食事のあとで接近のかわりに、こういう極端な分離を経験していたので、この場合どういうふうにしたらいいか、ちゃんと心得ていた。
「勘定!」と叫んで、彼は隣の広間へ出て行った。すると、たちまち知り合いの副官に出会ったので、ある女優とその旦那の話をはじめた。副官と話をはじめると、オブロンスキイはとたんにほっとしたような気分になり、いつも過度な頭脳と精神の緊張を感じさせるレーヴィンとの対話の、疲れなおしができたような思いであった。
 ダッタン人が二十六ルーブリ何コペイカと、それにウォートカの追加をつけた勘定を持ってきたとき、レーヴィンは田舎の住人としてほかのときなら、自分の割前勘定になる十四ルーブリという額にぞっとするところであったが、いまはそんなことには気もとめず、払いをすまして帰途についた。着替えをして、自分の運命の決せられるシチェルバーツキイ家へ赴《おもむ》くためであった。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 シチェルバーツキイ公爵の令嬢キチイは当年とって十八であった。彼女はこの冬はじめて、社交界へ出たのだけれども、その成功は二人の姉以上であり、母夫人の予想をはるかに越えたほどである。のみならず、モスクワの各舞踏会で踊った青年たちは、ほとんど洩れなくキチイに恋してしまい、はじめてのシーズンだというのに、もう二人までまじめな花婿の候補者ができた。それはレーヴィンと、その帰郷後あらわれたヴロンスキイ伯爵である。
 冬の初めレーヴィンが姿を現わし、ひんぴんと訪問するようになり、明らかにキチイを恋しているらしいようすは、キチイの将来について、両親のあいだにはじめてまじめな相談をさせることになり、また公爵と公爵夫人のいさかいの種ともなった。公爵はレーヴィンの味方で、キチイにとってあれ以上の良縁はないといったが、公爵夫人のほうは問題を回避する女性独特の癖で、キチイはまだ若いうえに、レーヴィンもいっこう真剣な意図があるという証拠を見せないし、キチイも彼に心ひかれているようすがない、等々の論拠を述べたのであるが、かんじんなことは口に出さなかった。――彼女は娘のために最もいい縁談を待っていたので、レーヴィンは彼女にとって虫が好かず、彼女はレーヴィンを理解できなかったのである。レーヴィンが突然モスクワを去った時、夫人は得々として、「ほらごらんなさい、わたしのいったとおりでしょう」と良人にいったものである。ヴロンスキイが出現した時、彼女はなおいっそうほくほくもので、キチイには単に良縁というだけでなく、三国一の良縁を結ばせなければならない、という意見を固めてしまった。
 母親にとっては、レーヴィンとヴロンスキイの間には、いかなる比較もありえなかった。レーヴィンが母夫人の気に入らなかったのは、彼の奇妙な驕激《きょうげき》なものの考え方であり、社交界で見せる無器用な態度であり(それは彼女にいわせると、高慢からきたものであった)、また牛馬や百姓相手に田舎で送っている(彼女の見解によると)、野蛮な彼の性格であった。それから、彼が娘に恋をして、一月半もせっせと通いながら、自分のほうから申しこみをしたら、相手かたにあまり大きな光栄を授けることになりはしないかと恐れでもするように、何かを待ち受け、ようすをうかがってばかりいて、年ごろの娘のいる家へ出入りする以上、はっきり話し合いをしなければならぬという作法をわきまえない、それもひどく公爵夫人の気に食わなかった。しかも、とつぜん、なんの話し合いもしないで、田舎へ帰ってしまったではないか。『まあ、あの人があんなすっきりしない男まえなので、キチイがほれこまなくてよかった』と母は肚《はら》のなかで思った。
 ヴロンスキイは、母夫人のあらゆる注文にはまっていた。たいへんな金持で、賢くて、家柄がよく、侍従武官としてはなばなしい栄達の途上にあり、うっとりするほどの美男子である。これ以上は望むことができないくらいである。
 ヴロンスキイは舞踏会でも、明らさまにキチイのあとを追いまわして、彼女といっしょに踊り、邸へもしげしげ出入りをしている、してみると、彼の意図の真剣さを疑うわけにはいかない。にもかかわらず、母夫人はこの冬じゅう恐ろしい不安と、動揺を感じさせられていた。
 当の公爵夫人は三十年前、伯母の仲人《なこうど》で結婚したのである。もう前からなにもかもわかりぬいている花婿候補が邸へやってきて、花嫁候補を見、自分でも相手がたに見られた。仲人役の伯母は双方の印象を聞いて、それぞれ相手がたに伝えた。印象は悪くなかった。その後、一定の日を定めて、予期された求婚が両親に申し入れられ、受納された。すべてがきわめてやすやすと簡単にいった。少なくとも、公爵夫人にはそう思われた。ところが、自分の娘たちで経験して、この一見して平凡なこと――娘を嫁にやるということが、いかに容易でなく、簡単でないかを思い知った。上の二人の娘ダーリヤとナタリヤを嫁にやるについて、どれほど心配したことか、どれほど思案に思案を重ねたことか、どれほど金を費《つか》ったことか、どれほど良人と衝突したことか! ところが今度、末娘を社交界へ出すについて、やはり同じ心配、同じ疑惑を経験し、上の二人のときよりさらにはげしい争論をくりかえした。老公爵は、すべての父親と同様に、娘の世評や純潔について、特別神経質であった。彼は無分別なほど娘のことをやきもきするたちであったが、秘蔵っ子のキチイについてはなおさらで、一歩ごとに夫人に向って、娘の世評を落すようなことをするといって、悶着を起すのであった。夫人はもう上の二人のときからそれには慣れっこになっていたが、今度はさすがの彼女も良人の神経質は多少もっとものところがあると感じた。最近、社会一般のやりかたがいろいろ変って、母親の義務がますます困難になったことを見てとった。キチイと同年の娘たちが何かの会をつくって、何とかの講義を聞きにいき、男性にたいして自由な態度をとり、一人で市中を歩きまわり、あいさつのとき小腰をかがめないものさえ多くなった。が、それより重大なのは、だれもかれも婿選みは自分たちのことであって、両親の知ったことではないと、固く信じきっていることである。
『このごろの結婚は以前のようではないわ』と、どの娘もどの娘も考えているばかりか、口にすら出している。おまけに、老人たちまでがみんなそうなのだ。それかといって、今ではどんなぐあいに娘を嫁にやるのか、公爵夫人はだれにきいても答えがえられなかった。子供の運命は両親が決めるというフランスふうのしきたりは、もはや用いられなくなり、誹議《ひぎ》されている。娘に完全な自由を与えるイギリスふうも、やはり採用されていない。ロシヤの社会では不可能なのである。ロシヤふうの仲介結婚の習慣はなにかしら醜態なように思われ、当の公爵夫人もみなといっしょにそれを冷笑している。しかし、どんなふうに結婚し、嫁入らせるかということは、だれにもわからないのである。このことで夫人の話しあう人はだれでもかれでも、異口同音に、
「とんでもない、今はもうそんな昔ふうは棄てなけりゃならない時ですよ。だって、結婚するのは子供たちで、両親じゃありませんからね。してみると、子供たちの考えるように、身のふりかたをつけさせなくちゃなりませんよ」というのであった。
 しかし、娘をもたぬ人は、そんなふうにいっているけれども、公爵夫人にはわかっていた――異性と交際しているうちに、娘は結婚の意志のない男や、良人としての資格のない男に恋するおそれがあった。夫人はいくら人から、現代では若い人たちが自分で自分の運命を処理するのが当然だ、といい聞かされても、そんなこと本当にしなかった[#「しなかった」は底本では「ならなかった」]。それは、たとえいかなる時代であろうとも、五つになる子供の一番いい玩具は弾丸をこめたピストルだ、などということがほんとうにならないのと同じである。そういったわけで、夫人は上の二人のとき以上に、キチイのことで心配なのであった。
 今は、ヴロンスキイが娘を追いまわすだけでやめてしまいはせぬかと、それが夫人は心配であった。彼女は、娘が早くもヴロンスキイを思っているのを見てとったが、あの人は正直な男だから、そんなふまじめなことはすまい、そう思ってみずから慰めていた。が、それと同時に、彼女はこういうことも承知していた――今のような自由交際の時代では、若い娘を夢中にさせるのは朝飯前の仕事であり、それに概して、男はそれくらいのことをなんとも思ってはいない。先週、キチイはヴロンスキイとマズルカを踊っているときの話を、母親にして聞かせた。その話はあるていど、母夫人を慰めてくれたけれども、すっかり安心というわけにはいかなかった。ヴロンスキイはキチイに向って、自分たちは兄弟二人とも母親に服従するのが習慣になっているから、母に相談しないでは何一つ重大なことは決行しない、といったのである。
「ですから、今も特別な幸福を待つような思いで、ペテルブルグから母が出てくるのを待ちかねているのです」
 キチイは、この言葉になんの意味もつけないで話したが、母親はそれを別様に解した。息子が老母の到着を一日千秋の思いで待っていることが、彼女にはちゃんとわかっていた。また老母がわが子の選択を喜ぶことも承知していた。で、ヴロンスキイが母の立腹を恐れて申しこみをしないでいるのが、ふしぎに思われるほどであった。とはいえ、夫人は結婚そのものはもとより、とりわけこうしたいろいろの心配から、ほっと重荷をおろしたかったので、すっかりそれを信じきる気持ちになっていた。長女のドリイが夫婦わかれしようとしている不幸な成りゆきは夫人にとってずいぶんつらいことではあったけれども、いま縁談のきまろうとしているキチイのことでやきもきしているために、そのほうにすっかり気をとられているのであった。今日はレーヴィンが姿を現わしたので、また新しい心配がふえた。キチイは母夫人の見たところでは、一時レーヴィンに好意をよせていたらしいから、よけいな義理立てをして、ヴロンスキイを断らなければいいが、それにだいたいレーヴィンの上京のために、もう大団円《だいだんえん》に近くなった話がごたごたして、延期になったりしなければいいがと、それが彼女は心配だったのである。
「どうなの、あの人は前から来てるの?」毋娘《おやこ》が家へ帰った時、公爵夫人はこうレーヴィンのことをたずねた。
「今日なのよ、ママ」
「わたしは、一つだけいっておきたいんだけれど」と夫人はいいだした。そのまじめな、しかも生きいきした顔つきで、キチイはなんの話かということを察した。
「ママ」と彼女はかっとなって、すばやく母の方へふりむきながらいった。「どうか後生だから、そのことはなんにもおっしゃらないで。あたし承知していますから、なにもかも承知していますから」
 彼女も母と同じことを望んでいたが、母のそれを望む動機が、彼女の気に食わないのであった。
「ただわたしがいいたいのはね、一方に気をもたせて……」
「ママ、後生だからおっしゃらないで。そのお話をするのはとても怖くて」
「しません、しません」娘が目に涙を浮べているのを見て、母はこういった。「でも、たった一つだけ、ねえ、キチイ、おまえはわたしに何一つ隠しだてしないと約束おしだったね。しないね?」
「決して、ママ、何一つ」とキチイはさっと赤くなって、母の顔をまともに見つめながら答えた。「でも、あたし今なにもお話することがないんですもの。あたし……あたし……かりにいいたいことがあったにしても、どういっていいかわからないわ……全くわからないわ……」
『いや、あの目つきじゃ嘘はいえない』娘の興奮と幸福にほほえみかけながら、母はそう考えた。公爵夫人が微笑したのは、かわいそうに、今キチイの心の中で進行していることが、どんなに偉大で意味ぶかいことかと考えたからである。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 食事が終って夜の集りが始まるまでの間、キチイは戦闘の前の若人が感じるような気持を経験した。心臓ははげしく鼓動して、考えは何一つにも集中できなかった。二人の男がはじめて顔を合わす今晩は、自分の運命を決する時だと感じたのである。彼女はたえず二人を、ときには一人ずつ別々に、ときにはいっしょに想像してみるのであった。過去を考えると、彼女は優しい満足の気持で、レーヴィンに関する追憶に没頭した。少女時代の回想、亡くなった兄との交遊の追憶は、彼女と彼との関係に、何か特殊な詩美を添えるのであった。彼女は彼が自分を恋していることを確信していたが、その恋は彼女の心に媚《こ》び、喜ばしかった。で、レーヴィンのことを思い起すと、彼女は心が軽くなった。ところが、ヴロンスキイの追憶には、何か気まりのわるいところがあった。もっとも、彼はこのうえもなくりっぱな社交人で、おちついた人間であったが、それにもかかわらず、何かほんとうでないようなところがあった。それも彼のほうではなく――彼はごくさっぱりした愛すべき青年だった――彼女自身にあるのであった。ところが、レーヴィンに対しているときには、自分があくまで明朗な、さっぱりした女のような気がする。そのかわり、ヴロンスキイといっしょになった未来を考えるやいなや、彼女の目の前にははなばなしく幸福な展望が現われるけれども、レーヴィンとの将来はぼんやりとしか映らないのである。
 着替えのために二階へ上がり、姿見をちらと見た時、彼女は今日こそ生涯のよき日の一つであり、ありたけの力を完全に領有しているのを感じて、喜びを禁じえなかった。それは目前に控えていることのために、きわめて必要なのであった。彼女はおのれの中に表面的な静けさと、自由の動作の美を認めた。
 七時半に、彼女が下の客間へおりるやいなや、従僕が、「コンスタンチン・ドミートリッチ・レーヴィンさま」と取り次いだ。夫人はまだ居間にいたし、公爵は出てこなかった。『やっぱりそうだ』と思うと、体じゅう[#「体じゅう」は底本では「体じゆう」]の血が心臓へ流れよった。鏡をちらりと見て、彼女は自分の蒼白な顔にぎょっとした。
 いま彼女はたしかにわかっていた、彼がこんなに早く来たのは、自分ひとりだけの時をねらって、申しこみをするためなのである。と、この時はじめて彼女の目には、いっさいが別の新しい面から照らし出された。この時はじめて彼女は、これは自分一人に関係した問題ではない――自分がだれと結婚して幸福になるか、自分はだれを愛しているか、という問題ばかりでない、いま自分は現在愛している人間を侮辱しなければならないのだ、ということを悟ったのである。しかも、むごたらしく侮辱しなければならない……なんのためだろう? 彼が気持のいい男で、自分を愛してい、自分に恋しているためである。でも、しかたがない、そうしなければならない、そうならなければならないのだ。
『ああ、いったいあたしは自分でいわなくちゃならないのかしら?』と彼女は考えた。『あたしはあなたを愛しておりませんと、自分の口からいわなくちゃならないのかしら? そんなこと嘘だわ。では、ほかの人を愛していますっていおうかしら? いえ、そんなことはできない。あたし行ってしまおう、行ってしまうわ』
 彼女がドアのそばまで行った時、もう彼の足音が聞えた。
『いえ、これは卑怯《ひきょう》だわ。何をあたしは恐れなければならないだろう? あたし何も悪いことなんかしないんだもの。まあ、なるようにしかならないんだわ! ほんとうのことをいってしまおう。あの人だったら、きまりなんか悪いはずがないから、ああ、もう入ってらした。』男のたくましい、しかも臆病げな姿ぜんたいと、ひたと自分に注がれたぎらぎら光る眼を見た時、彼女はそうひとりごちた。彼女はさながら赦しでも乞うように、まともに男の顔を見て、手をさし伸べた。
「僕はどうやら時ならん時刻に伺ったようですね、あんまり早く」がらんとした客間を見まわして、彼はこういった。自分の見込みがあたって、だれも打明け話のじゃまをするものはないと見てとると、彼の顔つきは陰気そうになった。
「いいえ、そんなことございませんわ」といって、キチイはテーブルの前に腰をおろした。
「しかし、僕はあなたお一人だけのところへぶっつかろうと思って、それで伺ったんです」勇気を失わないために、腰をかけようともせず、相手の顔も見ないで、彼は口を切った。
「ママがただいま出てまいります。ママは昨晩たいへん疲れまして。昨晩は……」
 彼女は、自分の唇が何をしゃべっているかも知らずに、こういったが、祈るような愛撫するような眼を相手から放さなかった。
 レーヴィンはちらと彼女を見た。彼女は顔を赤らめて、黙っていた。
「僕は今日、長く逗留するかどうかわからない……それはあなたしだいだと、そういったでしょう」
 しだいに近づいてくるものにたいして、どう答えたらいいか自分でもわからず、彼女はだんだんと低くうなだれていった。
「あなたしだいだ、と」彼はくりかえした。「僕がいいたかったのは……僕がいいたかったのは……僕はそのために上京したんです……その……僕の妻になっていただこうと思って!」自分でも何をいったかわからずに、彼はこういいきった。が、最も恐ろしいことは口に出してしまったと感じて、ちょっと言葉を止め、彼女を見やった。
 彼女は男を見ないで、重々しく息をついていた。彼女の感じたのは歓喜の情であった。彼女の心は幸福に満ち溢れた。彼の愛の告白がこれほど強い感銘を与えようとは、夢にも思いがけなかったのである。けれども、それはほんの一|刹那《せつな》のことであった。彼女はヴロンスキイのことを思い起した。キチイはその明るい真実みのこもった眼をレーヴィンに上げた。その絶望したような顔を見ると、せきこんで答えた。
「そういうわけにはいりませんの……お赦しあそばして」
 ほんの一瞬間支えまでは、いかにキチイは彼に近く、彼の生活にとっていかに重要な存在であったか! ところが、今はなんと無縁のはるか離れた存在になったことか!
「それよりほかには、あるべきはずがなかったのです」と彼は相手の顔を見ないでいった。
 彼は一礼して、そのまま出て行こうとした。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 ちょうどその時、公爵夫人が入ってきた。娘とレーヴィンが差し向かいになっているのを見、二人の苦しそうな表情に気がつくと、夫人の顔には恐怖の色があらわれた。レーヴィンはちょっと会釈《えしゃく》しただけで、なんにもいわなかった。キチイは眼を上げないで、黙っていた。『いい按配《あんばい》に断ってくれた』と母夫人は考えた、とその顔は、いつも木曜日ごとに客を迎えるときと同じ微笑に輝きわたった。彼女は腰をおろして、レーヴィンに田舎の生活のことをききはじめた。レーヴィンもまた坐りなおして、気づかれないうちに帰ってしまおうと、客の集まるのを待っていた。
 五分ばかりすると、キチイの友だちで去年の冬結婚したノルドストン伯爵夫人が入って来た。
 それは黒いぎらぎら光る眼をした、乾いた感じのする、顔の黄色い、病的に神経質な女であった。彼女はキチイが好きだったが、その愛情は既婚の婦人の処女に対する愛情の例にたがわず、自分のいだいている幸福の理想に従って、キチイを縁づけたいという希望となって現われた。彼女はキチイをヴロンスキイに世話しようと思っていたのである。レーヴィンにはこの冬のシーズンの初めころ、シチェルバーツキイ家でよく出会ったが、彼女の目にはいつも不快な人間に思われた。で、彼女はレーヴィンに会うたびに、この男をからかうのを仕事にしていた。
「わたしはね、あの男がさもえらそうにわたしを高みから見おろしたり、さもなければ、わたしがばかなもんだから、理屈っぽい話を途中でぷつりと切ってしまうか、でなければ、まあしかたがないから相手になってやろう、といったふうな態度をとるでしょう。それが好きなんですの。とても気に入ったわ。しかたがないから相手になってやろう、というのがね! あの人はわたしがいやでたまらない、それがわたしうれしいのよ!」彼女はレーヴィンのことをこんなふうにいった。
 それは考え違いではなかった。全くレーヴィンは彼女がいやでたまらず、心ひそかに軽蔑していたのである。それは彼女が自分の長所として誇っていたもの、つまり神経質なところや、すべて日常茶飯的ながさつなものに対する侮辱や無関心が、がまんできなかったからである。
 ノルドストン夫人とレーヴィンの間には、社交界でよく見うけられる関係が固定していた。それは二人の人間が表現上したしくつきあいながら、たがいに極端なまで軽蔑しあって、はてはまじめな応対もできなければ、しんから腹を立てる気にもならないほどにたちいたったのである。
 ノルドストン伯爵夫人は、さっそくレーヴィンにむかって攻勢をとった。
「まあ! コンスタンチン・ドミートリッチ! またわたしたちの堕落したバビロンへ出てらしったのねえ」いつか冬の初めに、モスクワはバビロンだといった彼の言葉を思い出しながら、小さな黄色い手をさし伸べて口をきった。「どうなんですの、バビロンが矯正《きょうせい》されたのか、それとも、あなたのほうが堕落なすったのか?」とつけたして、彼女は冷笑を浮べながらキチイをふりかえった。
「あなたが僕のいったことをそんなに憶えていて下さるとは、光栄の至りです、伯爵夫人」早くも体勢を取りなおしたレーヴィンは、いつものノルドストン夫人に対する時きまりの、習慣的な、冗談半分の敵対関係という立場をとった。
「さぞかし、そいつがあなたに強烈な印象を与えたことでしょうね」
「えええ、それはもう! わたしなんでも帳面に書きとめておくんですもの。ときに、どう、キチイ、あんたまたスケートをしてきたの?」
 こういって、彼女はキチイと話をはじめた。レーヴィンとしては、今この場を立ち去るのはずいぶんまずいやりかたには相違なかったが、それでもこのまずいことを思い切ってしてしまうほうが、一晩中ここに踏みとどまって、ときどきこちらをぬすみ見しては、自分の視線を避けるようにしているキチイを見るよりは、まだしもであった。レーヴィンは立ちあがろうとしたが、彼の沈黙に気のついた公爵夫人が話しかけてきた。
「あなたモスクワヘはしばらくご逗留のおつもりですの? だって、あなたはたしか地方自治会のほうにお勤めだったでしょう。だから、長逗留はおできにならないわけね」
「いえ、奥さん、僕はもう地方自治会には勤めておりません」と彼は答えた。「僕は四五日の予定で出てきたのです」
『この人は何か変ったことがある』彼のいかついまじめな顔に見入りながら、ノルドストン伯爵夫人はこう考えた。『どうしたのか、いつものお談義をはじめないんだもの。でも、わたし必ず釣り出してやるわ。キチイの前でこのおばかさんをけしかけるのが、わたしおもしろくってたまらない。ええ、釣り出してみせるわ』
「コンスタンチン・ドミートリッチ」と彼女はいった。「お願いですから、いったいどういうわけか、わたしの腑《ふ》に落ちるように話して下さいません――だって、あなたはなんでもごぞんじなんですもの――カルーガ県にあるわたくしどもの領地の百姓たちが、男も女もありったけのものをすっかり飲んでしまって、いま一文なしで年貢《ねんぐ》が払えないんですのよ。いったいこれはどういうことでしょう? あなたはいつも百姓をほめちぎってらっしゃるでしょう……」
 この時もう一人の婦人が部屋へ入ってきた。レーヴィンは席を立った。
「失礼ですが、伯爵夫人、僕は全くそういうことを何一つ知らないので、なんともご返事ができかねます」といって、婦人につづいて入ってきた軍人をふりかえって見た。
『これがきっとヴロンスキイに相違ない』とレーヴィンは考え、自分の推測をたしかめるために、ちらとキチイを見た。彼女は早くもヴロンスキイを見やって、レーヴィンのほうをふりかえった。われともなしに輝きをおびてきた彼女のまなざしを見ただけで、彼女がこの男を愛していることを悟った。彼女が口に出していったのと同じくらい、はっきりわかったのである。それにしても、これはそもそもどういう人物なのだろう?
 今となっては、結果がよかろうと悪かろうと――レーヴィンは踏みとどまらざるをえなかった。彼としては、彼女の愛している男が何ものであるかを、知らなければならなかった。
 世には何事にまれ幸運な競争者にぶつかるたびに、すぐさま相手のもっているいっさいの美点に面《おもて》をそむけて、ただ悪いところばかり見ようとする人がある。しかし、また反対に、その幸運な競争者の中に、勝利の原因となった資質を発見することを何よりの望みとし、うずくような心の痛みを覚えながら、ただ相手の善いところばかり探す、そういう人間もいるのである。レーヴィンはそうした種類の人間に属していた。しかし、ヴロンスキイの中のよいところ、好ましいところを発見するのは、ぞうさもないことであった。それはおのずと眼に入ってくるのだ。ヴロンスキイは、背のあまり高くない、肉づきのいい体格をしたブリュネットで、美しい顔は善良らしく、悠々とおちついた、しかもがっちりとした感じであった。その顔、体つき、短く刈りこんだ黒い頭髪《あたま》、剃り立ての青々した頤《あご》から、仕立おろしのゆったりした軍服にいたるまで、すべてがさっぱりしていて、同時に優美であった。入って行く婦人に道をゆずって、ヴロンスキイははじめ公爵夫人、それからキチイのそばへ行った。
 キチイのそばへ近よって行くとき、彼の美しい眼は格別やさしい輝きをおびた。
 ようやくそれと気づかれるほどの幸福そうな、つつましやかなとくとくたる微笑(レーヴィンにはそんなふうに感じられた)を浮べて、うやうやしく、用心ぶかく彼女のほうへ身をかがめながら、彼は小さな、しかし幅のある手をさし伸べた。
 みんなにあいさつして、二つ三つ言葉をかわすと、彼は腰をおろしたが、自分から眼をはなさずにいるレーヴィンのほうへは、一度もふりむかなかった。
「ご紹介させていただきます」と公爵夫人はレーヴィンを指しながらいった。「コンスタンチン・ドミートリッチ・レーヴィンさん。アレクセイ・キリーロヴィッチ・ヴロンスキイ伯爵」
 ヴロンスキイは立ちあがって、親しげにレーヴィンの眼を見ながら握手した。
「僕はたしかこの冬の初めごろ、あなたとごいっしょに食事をするはずになってたんですね」持ち前のさっぱりした開けっぱなしの微笑を浮べて、彼はこういった。「ところが、あなたがとつぜん田舎《いなか》へお帰りになったので」
「コンスタンチン・ドミートリッチは都会を軽蔑して、わたしたち都会のものを憎んでらっしゃるんですの」とノルドストン伯爵夫人は口を入れた。
「そんなに覚えていられるところをみると、きっと私の言葉があなたに非常な印象を与えたのでしょうね」といったが、もう前に一度おなじことをいったのだと思い出すと、レーヴィンは顔を真赤にした。
 ヴロンスキイはレーヴィンと、ノルドストン伯爵夫人の顔をちらと見て、にっと笑った。
「あなたはいつも田舎にいらっしゃるんですか?」と彼はきいた。「冬は退屈だろうと思いますが」
「退屈なことはありません、もし仕事があれば。それに、自分を相手にしてると退屈しませんね」とレーヴィンははげしい語気で答えた。「僕も田舎は好きです」レーヴィンの語調に気がついて、つかぬふりをしながら、ヴロンスキイはこういった。
「でも、伯爵、まさかあなたはしじゅう田舎住いをする、なんておっしゃらないでしょうね」とノルドストン伯爵夫人はたずねた。
「わかりませんね、長くすまってみたことがないですから。僕は妙な気持を経験しましたよ」と彼はつづけた。「ひと冬、母と二人でニイスで暮したことがありますが、あの時ほど田舎を懐《なつか》しく思ったことはないですよ、ロシヤの田舎、木の皮靴をはいた百姓《ムジック》のいるね。ニイスというところは、ご承知のとおり、それ自体退屈なところでしてね。それに、ナポリもソレントも、いいのはほんのちょっとの間だけですよ。全くああいうところへ行くと、特にひしひしとロシヤが、それも田舎が思い出されますね。それはちょうど……」
 彼はキチイとレーヴィンと両方にむかって話しながら、おちついた親しみのあるまなざしを、二人の上にかわるがわる移すのであった。明らかに、頭に浮んでくることをそのまま口に出しているらしかった。
 ふとノルドストン伯爵夫人が何かいいそうにしたのに気がついて、いいさしたことをそのままに口をつぐみ、注意ぶかく聞きはじめた。
 会話はいっときのやみまもなかった。で、いつも話題の切れた時に、古典教育と実務教育の比較論と、国民皆兵制度の是非という二門の重砲を準備している老公爵夫人は、それを戦線にくりだすおりがなかったし、ノルドストン夫人もレーヴィンをからかう隙がなかった。
 レーヴィンは一座の会話に仲間入りしたいと思ったけれど、それができなかった。『今こそ帰ろう』とのべつ肚《はら》の中でそういいながら、彼はなにやら待ち受けるような気持で、立ちかねていた。
 会話は廻転するテーブルとか、精霊とかいう問題に移っていった。降神術を信じていたノルドストン夫人は、自分の見たかずかずのふしぎを話しはじめた。
「ああ、伯爵夫人、ぜひ僕をつれていって下さい、お願いですから、一度つれていって下さい。僕は何一つ異常なことって見たことがないんですよ、いたるところそいつをさがしてるんですがね」とヴロンスキイは微笑を含みながらいった。
「よろしゅうございます、この次の土曜日にね」とノルドストン伯爵夫人は答えた。「でも、コンスタンチン・ドミートリッチ、あなたはお信じにならないのでしょうね?」と彼女はレーヴィンに問いかけた。
「なんだって僕にそんなことをおききになるんです?僕がなんというかごぞんじのくせに」
「でも、わたしあなたのご意見が伺いたいんですもの」
「僕の意見はただこれだけです」とレーヴィンは答えた。「その廻転するテーブルなんてものは、いわゆる教養階級が百姓以上でないってことを証明するばかりです。百姓らは眼の魔力だのまじないだの、妖術《ようじゅつ》だのを信じていますが、われわれは……」
「なんですの、あなたお信じにならない?」
「信じるわけにいきませんよ、伯爵夫人」
「でも、わたしが自分で見たとしましたら」
「百姓の女房だって、自分で家魔を見たっていってます」
「では、わたしが嘘をいってるとお思いですの?」
 そういって、彼女はうつろな笑い方をした。
「そうじゃないのよ、マーシャ、コンスタンチン・ドミートリッチは信じられないっておっしゃるだけなのよ」とキチイは、レーヴィンのために赤面しながらそういった。レーヴィンもそれを悟って、なおさらいらいらしながら答えようとした。が、ヴロンスキイはすかさず、例の開けっぱなしの愉快そうな微笑を浮べながら、一座を白けさせそうな会話に助け船を出した。
「あなたは、絶対に可能性をお認めにならないんですか?」と彼はたずねた。「それはなぜです? だって、われわれは自分の知らない電気の存在を認めてるじゃありませんか。それなら、なぜわれわれにとって未知の新しい力がありえないのでしょう、それは……」
「電気が発見されたときには」とレーヴィンは急いでさえぎった。「ただ現象が発見されただけで、どこからくるのか、どういう作用をするかってことはわからなかったのです。で、その応用ということを考えるまでには、長い長い世紀を要しました。ところが、降神術信者はその反対に、まずテーブルが字を書くだの、精霊がやってくるだのということからはじめて、これが未知の力だってことはそのあとからいいだしたんですからね」
 ヴロンスキイは、いつも人の話を聞くときの癖で、注意ぶかくレーヴィンの言葉を傾聴していた。どうやらその説に興味をいだいたらしい。
「さよう、しかし今では降神術信者もこんなふうにいっておりますよ――われわれはこれがどういう力か知らないけれども、とにかく力は存在する、そしてかくかくの条件のもとに働く、とね。だから、その力がなんであるかは、学者に闡明《せんめい》さしたらいいんですよ。いや、僕はそれが新しい力ではありえないという理由を認めません。もしそれが……」
「その理由は、ほかでもありません」とレーヴィンはふたたびさえぎった。「電気の場合では、樹脂で毛糸をこするたびに一定の現象が生じますが、降神術にいたっては、そのつどというわけにはいきません。したがって、これは自然現象ではない、ということになります」
 会話が客間としてはあまり固くるしい性質をおびてくる、とおそらくそう感じたのであろう、ヴロンスキイはもう反駁しないで、話題を変えようとつとめながら、愉快そうな微笑を浮べて、婦人連のほうへふりむいた。
「どうです、これから一つやってみようじゃありませんか、伯爵夫人」と彼はいいだした。けれど、レーヴィンは自分の考えをすっかりいってしまいたかった。
「僕の思うのには」と彼は言葉をつづけた。「あの降神術信者が自分の奇蹟を何かの新しい力で説明しようとする試みは、きわめて拙劣なものです。彼らはまっこうから精神的な力という点を強調しながら、それを物質的な実験によって証明しようとしてるんですからね」
 みんなは彼の議論がすむのを待ちかねていた。彼もそれを直感した。
「あなたはりっぱな霊媒《れいばい》におなりになると思いますわ」
 ノルドストン伯爵夫人はいった。「あなたには何か感激性がありますもの」
 レーヴィンは口を開けて、何かいおうとしたが、顔を赤らめて、なんにもいわなかった。
「ねえ、公爵令嬢、今すぐテーブルを出して、験《ため》してみようじゃありませんか」とヴロンスキイはいいだした。「奥さん、お許しくださいますでしょうか?」
 そういって、ヴロンスキイは目で小テーブルをさがしながら、立ちあがった。
 キチイは小テーブルをとりに立って行った。ふと通りすがりに、レーヴィンと視線が出合った。彼女は心の底からこの人が気の毒であった。まして、自分がもとで不幸に陥《おとしい》れたのであってみれば、なおさらである。『もしあたしを赦すことがおできでしたら、どうぞ赦して下さいまし』とその眼がいっていた。『あたしこんなに幸福なんですもの』
『だれもかれも憎みます、あなたも、自分も』と彼のまなざしは答えた。彼は帽子に手をかけた。しかし、彼はまだ帰っていけない廻《めぐ》り合わせになっていた。みんなが小テーブルのまわりに席を定め、レーヴィンが出て行こうとした瞬間に、老公爵が入ってきたのである。婦人たちにあいさつすると、彼はレーヴィンのほうへふりむいた。
「やあ!」と彼はうれしそうにいいだした。「もう前から? 君がここへきてるとは、わしも知らなんだよ。久しぶりに会えて大いに愉快だ」
 老公爵はレーヴィンのことを、時には『君』といったり、時には『あなた』といったりした。彼はレーヴィンを抱きしめて、ヴロンスキイにも気のつかぬまま話をはじめた。こちらは席を立って、老公爵が自分のほうを向くまで、おちついてじっと待っていた。
 キチイは、ああいうことがあったあとで、父から愛想のいい態度を見せられるのは、レーヴィンとしてさぞつらかろうと感じた。それからまた彼女は、父がヴロンスキイの会釈に対して、しぶしぶ冷やかな返礼をしたのにも気がつけば、ヴロンスキイが人なつっこい怪訝《かいが》の色を浮べて父を見つめながら、どうして自分に対してこんな無愛想な態度をとることができるのだろうと、その原因を理解しようとつとめたが、けっきょく理解できないでいるようすを見てとった。彼女は思わず赤くなった。
「公爵、コンスタンチン・ドミートリッチをこちらへよこして下さいましな」とノルドストン伯爵夫人がいった。「わたしたち実験がしてみたいんですから」
「実験てなんです? テーブルをまわすんですかな? いや、失礼ながら、皆さん、わしなんか指輪遊びでもしたほうがまだおもしろいですよ」ヴロンスキイをじっと見て、これが張本人だなと察しながら、老公はこういった。「指輪遊びのほうがまだしも意味がありますよ」
 ヴロンスキイはそのしっかりした眼を見張って、びっくりしたように老公をながめ、ようやくそれと見えるほどにやりと笑って、すぐノルドストン伯爵夫人に、来週催される盛大な舞踏会のことを話しかけた。
「あなたもきっとおいでになりますね?」と彼はキチイのほうへふりむいた。
 老公爵がむこうをふりむくが早いか、レーヴィンは見つからぬように客間を出た。この晩、彼がいだいて帰った最後の印象は、舞踏会のことをヴロンスキイにきかれたとき、それに答えたキチイの幸福そうな笑顔であった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 夜会が終った時、キチイはレーヴィンとの話を母親に伝えた。レーヴィンに対しては憐愍《れんびん》の情をいだいているにもかかわらず、申しこみ[#「申しこみ」に傍点]をされたと思うと心うれしかった。彼女は自分のとった態度の正しさをいささかも疑わなかった。けれども、床へ入ってから、長いあいだ寝つくことができなかった。一つの印象がしつこく彼女につきまとうのであった、それは、レーヴィンがじっと立って父の話を聞きながら、彼女とヴロンスキイのほうを見ていたときの顔である。眉をひそめて、その陰から沈んだ力のない善良な眼をのぞかしている顔。キチイはこの人が気の毒でたまらなくなって、思わず涙が眼に浮んだほどである。けれども、彼女はすぐそのレーヴィンに見変えた男のことを考えた。あの男らしいしっかりした顔、あの上品なおちつきぶり、だれに対したときでも全身に輝く善良さを、彼女はまざまざと思い起した。それから、いとしい人が自分にそそいでくれる愛を思い起して、彼女はまたもや喜ばしい気持になった。で、幸福の微笑を浮べながら枕に身を横たえた。『お気の毒だわ、ほんとにお気の毒だわ、でもしかたがないじゃないの、あたしが悪いんじゃないから』と彼女はひとりごちたが、内部の声は別のことをいっていた。彼女が後悔したのは、レーヴィンに思わせぶりをしたことか、それとも彼の求婚を断ったことか――自分でもよくわからなかった。しかし、いずれにしても、彼女の幸福は疑惑の念に毒されたのである。『神よ憐《あわれ》みたまえ、神よ憐みたまえ、神よ憐みたまえ!』と彼女は寝つくまで口の中で唱えつづけた。
 そのとき下の公爵の書斎では、秘蔵娘のことで両親のあいだにしばしばくりかえされる衝突が、またもや演じられていた。
「なんだって? わからなきゃいって聞かせてやろう!」と公爵は両手をふりまわしては、すぐさま白いガウンの前をぱっと合わしながら、大声でわめくのであった。「ほかでもない、おまえには誇りがないのだ、品位というものがないのだ、おまえたちはあのげすなばかばかしい縁談で、娘の顔に泥を塗っているのだ、一生を台なしにしているのだ!」
「まあ、とんでもない、後生ですからよして下さい、いったいわたしが何をしたとおっしゃるんですの?」と公爵夫人はほとんど泣きださないばかりにいった。
 彼女は娘と話したのち、幸福と満足のあまり、いつものとおり公爵のところへ夜のあいさつに行った。そして、レーヴィンの求婚とキチイの拒絶については、別に話をするつもりはなかったけれども、ヴロンスキイのほうはすっかり片がついたらしいということ、母親が到着すると同時に話が決まるに相違ないということだけ、良人にほのめかしたのである。そのときである、妻のこういう言葉を聞くとひとしく、公爵はふいにかっとなって、はしたないことをわめき散らしはじめたのである。
「おまえが何をしたかって? ほかでもない、第一にだ、おまえは花婿をおびきよせているから、今にモスクワ中の人に陰口きかれるに相違ない、またきかれても一言もないのだ。もし夜会を開くのなら、選り好みをしないでみんな呼ぶがいい。あの若造ども(公爵はいつもモスクワの青年たちをこういっていた)を残らず呼ぶがいい。ピアノひきでも呼んで、ダンスか何かするなら別だが、今夜みたいに花婿の候補者だけ呼んで、くっつけようとするなんかもってのほかだ。わしは見ておっても胸が悪い、じつに胸糞が悪いわい。ところが、おまえはまんまと目的を達して、娘をのぼせあがらしてしまったじゃないか。レーヴィンのほうが千倍もりっぱな人間だ。ところで、あのペテルブルグの、はいから[#「はいから」に傍点]男なんか、あんなものは機械ででも作れるくらいだ、あんな連中はどれもこれも似たりよったりで、揃いも揃ってやくざ者だ。よしんばあの男が王子さまのお血筋だろうと、わしの娘は何一つ不自由のない身の上なんだからな」
「だから、わたしが何をしたんですよ?」
「何をって……」と公爵は憤怒の声でどなった。
「わかってますわ」と公爵夫人はさえぎった。「あなたのいうことばかり聞いていたら、いつになったって娘を結婚さすことはできやしませんから。そういうことなら、田舎へひっこんでしまわなくちゃなりませんわ」
「ひっこんでしまったほうがましだよ」
「まあ、待って下さい。いったいわたしが強《し》いてとり入ろうとしてるとでも、おっしゃるんですの? そんなことなぞ、これっぱかりもありませんわ。ただあの人がとてもいい青年で、しかもあの子に夢中になっていますし、あの子のほうもどうやら……」
「そうよ、そのどうやらよ! ところで、もしほんとうにほれこんじまって、しかもあの男は結婚のことなんか、ろくすっぽ考えておらんとしたらどうする、え?……やれやれ、そんな憂《う》き目を見たくないもんだて!……『まあ、降神術! まあ、ニイス、まあ、舞踏会で……』」といいながら、公爵は夫人の身ぶりをまねているつもりで、ひと口ごとに小腰をかがめるのであった。「もしカーチェンカ([#割り注]キチイのこと[#割り注終わり])が本当にそうと思いこんだら、それこそあの子をふしあわせにしてしまうぞ……」
「まあ、どうしてそうお思いになりますの?」
「わしは思うのじゃなくって、ちゃんとわかっておるんだ。それを見ぬく目はおまえたち女じゃなくって、われわれのほうにあるんだからな。わしには真剣な気持をもっている人間はちゃんと見えておる。それはレーヴィンだ。ところで、あのおっちょこちょいの鶉《うずら》野郎なんか、ただちょっとご愉快がしてみたいだけなんだ、見え透いとるわ」
「まあ、あなたこそもう妙なことを思いこんでしまって……」
「いや、今に目がさめるだろうが、その時はもう遅いよ、ダーシェンカ([#割り注]ドリイ[#割り注終わり])と同じようにな」
「ああ、よござんす、よござんす、もうこの話はよしましょう」ふしあわせなドリイのことを思い出して、夫人は良人をおしとどめた。
「いや、けっこう、じゃ、さよなら!」
 おたがいに十字を切りあい、接吻をかわしながらも、めいめい自分の意見を固執《こしゅう》しているという感じをいだいて、夫婦は別れわかれになった。
 公爵夫人は、今晩こそキチイの運命は決せられたので、ヴロンスキイの意向は疑いの余地がないものと、はじめのうちは固く思いこんでいたが、良人の言葉は彼女の気持を濁《にご》してしまった。で、自分の寝室へ帰ると、キチイと同じように、測り知ることのできぬ未来にたいする恐怖を胸にいだきながら、『神よ憐みたまえ!』といくどか心にくりかえした。