『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」1-06~1-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 オブロンスキイに、いったいなんの用で来たかときかれた時、レーヴィンは顔を真赤にし、その顔を赤くしたことに対して自分で自分に腹を立てたが、それはほかでもない、『僕は君の義妹に結婚を申しこみに来たのだ』とはっきり答えることができなかったからである。しかも、彼の上京の目的はただそれだけだったのである。
 レーヴィン家もシチェルバーツキイ家も、古いモスクワの貴族の家柄で、いつも親しい交友関係をつづけていた。この結びつきは、レーヴィンの大学在籍中さらに固められた。彼はドリイとキチイの兄にあたるシチェルバーツキイ若公爵と、大学の受験準備も入学も、ともにしたのである。そのころレーヴィンはよくシチェルバーツキイ家へ出入りして、シチェルバーツキイの家にほれこんでしまった。それはずいぶんへんな話ではあったが、レーヴィンは全く家に、家族にほれたのである。ことにシチェルバーツキイ家の婦人たちに、ぞっこん打ちこんでしまった。レーヴィン自身は母親というものの味を知らず、たった一人の姉は年が上だったので、彼はシチェルバーツキイ家へきて初めて、父母の死のために知らずにいた、教養もあり潔白さも備えた古い貴族の環境を見たのである。この家族の人々はだれもかれも、ことに婦人たちが、何かしら神秘で詩的な帷《とばり》で蔽《おおわ》われているように思われた。彼はこの家の人々に何一つ欠点を見出さなかったのみならず、彼らを蔽っている詩的な帷の陰に、きわめて高尚な感情とすべての完成された資質を想像していた。なんのためにこの三人の令嬢が一日おきに、フランス語と英語で話さなければならないのか、なぜ彼女らは一定の時間に、代りばんこピアノを弾《ひ》かなければならないのか(その響きは学生たちが集って勉強している二階の兄の部屋まで聞えた)、なんのためにあんなフランス文学とか、音楽とか、画とか、ダンスとかの先生たちがやってくるのか、なぜきまった時間に三人の令嬢が、マドモアゼル・リノンといっしょに、幌馬車でトヴェルスコイの並木街《ブルヴァール》へ出かけるのか(そのとき三人とも繻子《しゅす》仕立の毛皮外套を着ていたが、ドリイのは長く、ナタリイのはやや長めで、キチイのは赤い靴下をぴっちりはいたすらっとした足が、すっかりまる見えなほど短かかった)、なぜ彼女らは金の紋章つきの帽子をかぶった従僕を供にして、トヴェルスコイ並木街《ブルヴァール》を歩かなければならないのか――こういったようなことや、なおそのほか彼らの神秘な世界で行われる多くのことは、彼にはとんと合点がいかなかったけれども、この家で行われるいっさいのことは美しいと頭からきめてしまって、その行事のほかならぬ神秘性にほれこんだのである。
 大学時代に、彼は長女のドリイに危く恋しないばかりであったが、これはまもなくオブロンスキイに縁づいてしまった。その後、彼は二番目のナタリイに恋しはじめた。彼はなぜか姉妹《きょうだい》の一人に恋しなければならぬように感じていたが、いったいどれに恋していいのか、判断がつかなかったのである。しかし、ナタリイも社交界に顔を出すが早いか、すぐ外交官のリヴォフと結婚してしまった。キチイは、レーヴィンが大学を出た時には、まだ孩児《ねんねえ》であった。シチェルバーツキイの若公爵は海軍に入ったが、バルト海で水死してしまったので、レーヴィンとシチェルバーツキイ家の関係は、オブロンスキイとの交遊があるにもかかわらず、しだいに遠くなっていった。ところが、今年の冬のはじめ、一年間田舎ぐらしをしたあとでモスクワに出てきたレーヴィンが、シチェルバーツキイ家の人々に会った時、彼は三人の令嬢のうちだれに恋すべき運命《さだめ》であったかを、忽然《こつぜん》として悟ったのである。
 はた目から見ると、生れはよし、貧乏人と違って財産家の三十二になる男が、シチェルバーツキイ公爵令嬢に求婚するのは、いともたやすいことのように思われたであろう。あらゆる点から見て、彼は即座に好配偶と認められたに相違ない。けれど、レーヴィンは恋する男の常として、キチイがすべての点で非のうちどころのない、地上のいっさいを超絶した完成の極致のように思われた。しかるに、彼は卑しい地上的な存在であるから、他人から見ても当のキチイの目からも、彼女に値する人間と認められようなどとは、考えも及ばないことであった。
 ほとんど毎日キチイと会って(彼はキチイと出会うため、社交界へ出入りするようになったのである)、二ヵ月を夢うつつにモスクワで暮した彼は、突然こんなことはできない相談だと決めてしまって、田舎へひっこんだのである。
 レーヴィンがこれはできない相談だと確信した根拠は、次のようなことであった――彼はキチイの肉親の人々の目から見て、あでやかな彼女にとっては不利不相応なのであり、当のキチイも彼を愛することなどはできようはずがない。肉親の人々から見ると、彼はこれというはっきりした、つねづね見慣れているような仕事もしていないし、社会上の地位というものもなかった。ところが、彼が三十二になった今日では、友だちはもうそれぞれ、あるいは大佐で侍従武官に、あるいは大学の教授に、あるいは銀行の頭取または鉄道の社長に、あるいはオブロンスキイのように役所の局長になっている。しかるに彼は(彼は他人の目に映っていろはずの自分というものを、よく知りぬいていた)、一介の地主であって、牛を殖《ふ》やしたり、田鷸《たしぎ》を射ったり、普請に凝《こ》ったりするのが仕事にすぎず、要するに、何一つしでかさなかった無能の輩《やから》であって、社会の目から見ると、なんの役にも立たない連中と同じことをやっている人間なのである。
 また当の神秘な美しいキチイにしても、こんな醜い男を(彼は自分でそう思いこんでいた)、愛することなどできはしない――それにだいいち、自分は何一つすぐれたところのない平凡な人間ではないか。のみならず、以前の彼とキチイの関係――彼と兄との交遊から生じた大人と子供の関係も、愛情にとって新しい障碍《しょうがい》であるように思われた。彼が自分でそうと思いこんでいるような醜い善良な男は、友人としてこそ愛することができるけれども、自分がキチイを愛しているような、そうした愛し方で愛されるには、しょせん美男子にならなければならない、わけても非凡な人間にならなければならない――そう彼は思ったのである。
 もっとも、女が醜い平凡な男を愛することもよくある、という話は彼も聞いていたけれど、そんなことはほんとうにしなかった。なぜなら、自分を標準にして考えても、ただ美しい、神秘的な、なみはずれた女しか愛せないからである。
 しかし二ヵ月の間たった一人で田舎に暮したあと、彼ははっきり確信した。これはごく若いころに経験したような浮気沙汰でなく、この恋ごころは彼に一刻の安静をも与えず、彼女を妻となしうるか否かの問題を解決しないうちは、生きていくことができない。ところで、彼の絶望は自分の独《ひと》り考えにすぎないのであって、必ず拒絶されるという証拠は何一つないではないか。で、こんど彼は断乎たる決意をいだいて、モスクワへ出てきたのである――とにかく求婚してみて、容れられたら結婚する、もし……拒絶されたらどうなるか、彼はそこまで考えることができなかった。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 朝の汽車でモスクワへ着くと、レーヴィンは同腹の兄コズヌイシェフのもとにおちついた。着替えをすましてから、さっそく上京の目的を兄に話し、忠言も聞こうと思って、書斎へ入っていった。けれども、兄は一人きりではなかった。そこには有名な哲学の教授が坐りこんでいた。これはきわめて重大な哲学上の問題について、二人のあいだに生じた疑義を闡明《せんめい》するために、わざわざハリコフからやって来たのである。教授は唯物論者を相手どって熱烈な論争をつづけていた。セルゲイ・コズヌイシェフは興味をいだきながら、たえずその論争の跡を追っていたが、最近教授の書いた論文を読んで手紙を送り、駁論《ばくろん》を述べてやった。つまり、教授があまり唯物論者に譲歩しすぎる、といって非難したのである。教授は会って直接話しあうために上京したのである。二人の話は、人間活動の心理的現象と生理的現象のあいだに境界があるものか、あるとすればどこにあるか? という当節流行の問題であった。
 コズヌイシェフは、どんな人にも見せる愛想のいい冷たい微笑で義弟を迎え、教授に紹介して、話をつづけた。
 額の狭い、眼鏡をかけた小柄な男は、あいさつのためにちょっと話をとぎらしただけで、すぐレーヴィンには一顧の注意も払わず、議論をつづけた。レーヴィンは腰をおろして、教授が帰るのを待っていたが、まもなく話の題名に興味を感じはじめた。
 レーヴィンは、いま問題になっている諸論文で雑誌で読んで、自分にとってなじみの深い自然科学の根底の――彼は大学で博物学科に籍を置いていたのである――発展という意味で興味をいだいたものであるが、しかしこういった動物としての人間の発生とか、反射作用とか、生物学とか、社会学とかに関する科学上の論結を、彼自身にとって重大な生死の問題と結び合わそうとはしなかった。この問題は最近、頻繁に彼の心を訪れるようになったのである。
 兄と教授の会話を聞いているうちに、彼はこういうことに気がついた。二人は科学上の問題を精神的な問題に結びつけ、幾度もそこへ近づきながら、いつも最も肝要な点へ近づくたびに、すぐ急いでそこから離れていき、また細かい分類や、留保や、引用や、暗示や、オーソリティの借用や、そういった領域へ深入りするように思われた。で、彼はいったいなんの話をしているのやら、理解するのに骨が折れた。
「私はそういうことを許容するわけにいきません」とコズヌイシェフは、持ち前の明晰《めいせき》な表現と優美な発音を発揮しながらいった。「私はケイスの説には断じて同意できません、外界に関する私の全観念が印象から生じたものだなんて。存在[#「存在」に傍点]に関する私の最も根本的な概念は、感覚から受けたのではありません。なぜなら、この概念を伝える特殊な機関[#「機関」はママ]がないからです」
「さよう、しかし彼ら――ヴールスト、クナウスト、プリパーソフなどは、こう答えるでしょう、あなたの意識は全感覚の総合から生じたものであって、この存在の意識こそ感覚の結果である、と。ヴールストはさらに一歩すすんで、もし感覚がなければ、存在の概念もないだろう、とさえいっております」
「私はその反対を主張しますね」とコズヌイシェフはいいだした。
 しかし、そのときもまたレーヴィンは、彼らが最も肝要な点に近づきながら、またぞろ離れていこうとするように思われたので、思い切って、教授に質問を発してみることにした。
「してみると、もし私の感覚が滅却したら、もし私の肉体が死滅したら、もはや、いかなる存在もありえないのですね?」と彼はきいた。
 話の腰を折られた教授はいまいましそうに、一種肉体的な苦痛を浮べながら、哲人というより、曵舟《ひきふね》人足といいたいような奇怪な質問者をじろりと見て、『これでいったい何がいえます?』とききたげな顔つきで、コズヌイシェフに目を転じた。しかし、コズヌイシェフは教授ほどむきになって、一面的な議論をしていず、教授に応答しながらも、同時にこの質問を発した単純かつ自然な観点を理解するだけの余裕が頭にあったので、にこりと笑ってこういった。
「われわれはまだその問題を解く権利を持っていないのでね……」
「材料がないというわけです」と教授は相槌《あいづち》を打って、自分の論証をつづけた。「いや」と彼はいうのであった。「私は次の点を指摘しておきましょう、もしプリパーソフがまっこうからいっておるように、感覚が印象を基礎とするならば、われわれはこの二つの概念を厳格に区別しなければなりません」
 レーヴィンはもはや聞こうとしないで、教授の帰るのを待っていた。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 教授が立ち去ると、コズヌイシェフは弟に話しかけた。
「よく来てくれたね。しばらく滞在かね? 領地のほうはどう?」
 領地の経営など兄にとってたいした興味はなく、ただ義弟の顔を立てるためにきいただけだと承知しているので、レーヴィンはただ小麦を売ったこと、金のことを話したばかりであった。
 レーヴィンは結婚の意思を兄に打ち明け、その忠言すら求めようと思い、そのことを固く決心さえしていたにもかかわらず、いま兄の顔を見、教授との会話を聞き、農地経営のことをたずねたときの無意識な、保護者めいた調子を耳にしたとき(母の領地は分割されなかったので、レーヴィンは二人の分を管理していた)レーヴィンはなぜかしら、兄に結婚の決心を切り出すわけにいかないと感じた。兄はこの件について、自分の望むような見方をしないだろう、という気がしたのである。
「ときにどうだね、おまえのほうの地方自治体は、どんなふうだい?」地方自治体にひどく興味をもって、これに多大の意義を賦与《ふよ》しているコズヌイシェフはこうたずねた。
「どうも、よくわかりませんよ……」
「え? だって、おまえは郡会議員じゃないか?」
「いや、もう議員じゃありません、僕はやめちまいました」レーヴィンは答えた。「だから、もう会議に出ませんよ」
「惜しいことをしたね」とコズヌイシェフは眉をひそめていった。
 レーヴィンはその言いわけに、郡会がどんなふうになっているかを話しだした。
「それはいつものとおりなんだ!」と兄はさえぎった。「われわれロシヤ人はいつもそうなんだよ。もしかしたら、それはわれわれの美点かもしれないよ――自分の欠点を省みるという美点さ。しかし、これは薬がききすぎる。われわれはいつでも舌の先にぶらさがっている皮肉で、自己慰安をやってるんだからな。僕のいいたいことはただこれだけだ――もしもだね、わが国の地方自治体のごとき権利を西欧の国民に与えたら、ドイツ人でもイギリス人でも、それから自由をつくり出しただろうが、われわれはこのとおり皮肉をいうばかりさ」
「でも、どうしたらいいんです?」とレーヴィンはすまなそうにいった。「これは僕として最後の試練だったんですからね。僕は一生懸命に努力してみたんですが、だめです、その能力がありません」
「能力がない」とコズヌイシェフはいった。「おまえはそんなふうに問題を見ていないはずだが」
「かもしれません」とレーヴィンは悄然《しょうぜん》と答えた。
「ところで、おまえ知ってるかい、ニコライがここに来てるんだよ」
 ニコライはコンスタンチン・レーヴィンの肉親の兄で、コズヌイシェフの異父弟であったが、かなりたくさんな遺産の分け前を蕩尽《とうじん》して、兄弟と喧嘩をしたあげく、じつにふしぎな与太者仲間を転々としている、手のつけられぬ人間であった。
「え、なんですって?」とレーヴィンはぎょっとして叫んだ。「どうしてそれを知ってるんです?」
「プロコーフィが往来で見かけたのさ」
「ここに、モスクワに? いったいどこにいるんです? 知ってますか?」まるで今すぐ出かけそうなかっこうをして、レーヴィンは椅子から立ちあがった。
「僕はおまえにその話をしたのを後悔するね」とコズヌイシェフは、弟の興奮を見て、首をひねりながらいった。「僕はあれの宿所をつきとめにやって、あれが振り出して、僕の払ったトルビンあての小切手を送ったのさ。ところが、その返事がこうなのさ」
 こういって、コズヌイシェフは文鎮の下から、一通の手紙をとり出し、弟に渡した。
 レーヴィンは奇妙な、とはいえ懐しい手跡で書かれた文言を読んだ。
『どうかお願いですから、僕のことはかまわないで下さい。僕は親愛なる兄弟諸君にこれを要求します。ニコライ・レーヴィン』
 彼の内心では、もはや不幸な兄のことを忘れたいという希望と、それはよくないことだという意識が相戦った。
「あれは明瞭に僕を侮辱しようと思っているのだ」とコズヌイシェフはつづけた。「しかし、あれに僕を侮辱することはできないよ。僕は心底からあれを助けてやりたいと思ってるんだが、それが不可能なのは自分でも承知しているよ」
「そうです、そうです」とレーヴィンはくりかえした。「僕は、兄さんの態度はよくわかります、そしてありがたく思っています。が、それでも僕は行ってみます」
「もし行きたいのなら、行ってくるがいい。しかし僕は不賛成なんだがなあ」とコズヌイシェフはいった。「といって、自分に関する限り、僕は別に恐れはしない。あれは君と僕を不和になんかさせることはできないからね。しかしね、君のために忠告するんだが、行かないほうがいいぜ。助けることなんかできないんだから。もっとも、したいようにするがいいさ」
「そりゃ、助けることはできないかもしれませんが、僕はそういう気がするんです、ことに今この際は――いや、これは別の問題です――僕はじっとしていられない気がするんです」
「ふん、そいつはわからんね」とコズヌイシェフはいった。「ただ一つわかっているのは」と彼はつけ足した。「これが謙抑《けんよく》の課業だってことだ。ニコライが現在のごとき人間になってからこのかた、僕は陋劣《ろうれつ》と呼ばれているものにたいして、今までとは違って、もっと寛大な見方をするようになったからね……あれがどういうことをしたか、おまえは知ってるだろう」
「ああ、なんて恐ろしいことだ、なんて恐ろしいことだ!」とレーヴィンはくりかえした。
 コズヌイシェフの従僕から兄の住所を聞いて、レーヴィンはすぐさま出かけることにしたが、また考えなおして、晩まで延ばすことにした。まず何よりも、心の平静を獲得するためには、上京の目的である事柄を解決しなければならなかった。レーヴィンは義兄の家からオブロンスキイの役所へ出向いて、シチェルバーツキイのことをたしかめたのち、たぶん会えるだろうと教えられた場所へ橇《そり》を走らせた。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

 正四時にレーヴィンは、心臓の鼓動を感じながら、動物園の前で辻待ち橇をおり、径《こみち》づたいに手橇すべりの山とスケート場のある方へ歩いて行った。そこでは、確かに彼女に会えることがわかっていた。というのは、車寄せのところで、シチェルバーツキイ家の箱馬車を見うけたからである。
 それはよく晴れた、凍《い》ての厳しい日であった。車寄せには馬車、橇、辻馬車、そして憲兵が、列をなして並んでいた。小ざっぱりした身なりの群衆が、輝かしい太陽に帽子を光らせながら、入口のところや、きれいに雪掃除のできた径々《みちみち》に沿って並んでいる、木彫の飾りのあるロシヤ式の小家の間でひしめきあっていた。雪の重みで巻き毛のような枝という枝をたらした古い白樺は、新しい荘重な袈裟《けさ》に飾り立てられているようであった。
 彼は経《こみち》づたいにスケート場の方へ歩みながら、ひとりごつのであった。
『わくわくしちゃいけない、おちつかなくちゃ。おまえはどうしたのだ? 何をびくびくしてるんだ? だまれ、このばかもの』と自分の心臓に話しかけていた。
 しかし、彼が自分でおちつこうとすればするほど、事態はますます悪くなって、息がつまるのであった。だれか知人が向うからやってきて、声をかけたけれども、レーヴィンはそれがだれやら見分けさえつかなかった。彼は手橇すべりの丘へ近づいた。そこでは手橇をおろしたりひっぱりあげたりする鎖ががらがらと鳴り、すべり落ちる手橇の音や、陽気そうな人声がひびいていた。彼は幾歩かあるいて行った。と、目の前にスケート場がひらけ、そこですべっている多くの人々の間に、すぐさま彼女の姿が見分けられた。
 彼は、心臓を緊めつけた歓喜と恐怖の情から、彼女がそこにいることを知った。彼女はスケート場のむこうはしに立って、一人の婦人と話をしていた。その服装にしても、姿勢にしても、これといって格別のことはなかった。しかし、レーヴィンにとって、彼女をこの群衆の中に見分けるのは、蕁麻《いらくさ》の間にバラの花を見分けるくらいたやすかった。なにもかもが彼女に照らされているのであった。彼女は周囲を照らすほほえみであった。
『おれはあの氷の上へ降りていって、彼女のそばへよってもいいだろうか?』と彼は考えた。彼女のいる場所は、近づくべからざる聖地のように感じられて、一瞬、彼はほとんど帰ってしまおうかとさえ思った。彼は自分自身にたいして努力をしたあげく、彼女のまわりにも、ありとあらゆる種類の人が歩きまわっているのだから、自分だってスケート靴をはいて、あすこへすべりにいくこともできるのだ、と分別するのであった。さながら彼女が太陽ででもあるかのごとく、長いこと見るのを避けるようにしながら、彼は池へ降りていったが、しかし太陽と同じに、見ないでも彼女がちゃんと見えていた。
 一週間のうちでも、この日この時刻には、同じサークルの人たちが氷の上に集まるので、みんなおたがい同士に知りあっていた。そこには技を誇るスケートの名人もあれば、椅子の背につかまって、臆病そうに無器用らしく動いている初心者もあった。子供もいれば、運動のためにすべっている老年の人もいた。だれもかれもレーヴィンの目から見れば、選ばれたる幸福者のように思われた。なぜなら、彼らはそこに、彼女のそばにいるからであった。スケートをしている人は一人残らず、まったく平気らしい顔つきで彼女に追いついたり、追い越したりしているばかりか、彼女と話さえしている。人々はすばらしい氷と上々の天気を楽しみながら、彼女とはぜんぜん無関係に浮かれていた。
 キチイと従兄《いとこ》のニコライ・シチェルバーツキイは、短いジャケツに狭いズボンを着けて、足にスケートをはいたまま、ベンチに腰かけていたが、レーヴィンを見ると声をかけた。
「やあ、ロシヤ一番のスケーター! 前から来てるんですか? すばらしい氷ですよ、早くスケートをおつけなさい」
「僕はスケートも持っていないんでね」彼女がいるところで、かくも大胆にざっくばらんな態度をとるニコライにあきれながら、レーヴィンはこう答えた。彼女の方を眺めていなかったけれど、一刻もその姿を見失わなかった、彼は太陽がしだいに近づくのを感じた。彼女は片すみに立って、編上靴《あみあげぐつ》をはいた細い足をややひろげめにして、見るからにおっかなびっくりで、彼の方へすべってきた。ロシヤ風の服装をした男の子が、やけに両手をふり、上半身を低くかがめて、彼女を追い越していった。彼女のすべりかたはあぶなっかしかった。紐で吊るしたマッフから両手をぬきだして、万一の場合に備えてひろげ気味にしていたが、レーヴィンを見てそれと気がつき、にっこり笑ったが、それは相手に向けると同時に、自分の臆病さを笑う意味でもあった。カーヴが終ったとき、彼女は弾力にみちた片足でひと蹴りすると、まっすぐにニコライの方へすべってきて、その腕にしがみつくと、微笑を浮べながらレーヴィンにうなずいてみせた。彼女は、彼が考えていた以上にあでやかであった。
 彼女のことを思うとき、彼はすぐさま、まざまざと彼女の姿ぜんたい、ことにあの子供のように朗らかで善良な表情を浮べて、形のいい娘らしい肩の上に自然にのっている、小さな、ブロンドの首の美しさを思い浮べることができた。その顔の表情の子供らしさは、姿ぜんたいの微妙な美しさといっしょになって、彼女の特殊な美を形づくっているので、彼もそれをよく了解していた。しかし、いつも何か思いもかけないことのように彼を驚かすのは、つつましい、おちついた、正直らしい眼の表情と、わけてもその微笑であった。それはいつも、レーヴィンをまどわしの世界へつれていき、まだごく小さい時分ほんの時たま経験したような、感激と和らぎにみちた気持を感じるのであった。
「もうだいぶまえに出ていらっしゃいましたの?」と彼女は手をさし伸べながらいった。「ありがとうございます」マッフから落ちたハンカチを拾って渡した時、彼女はこうつけたした。
「僕ですか? 僕はついさっき、昨日……いや、今日……ついたばかりです」相手の質問が急には合点いかないで、レーヴィンは答えた。「僕お宅へ伺いたいと思って」といいかけたが、どういうつもりで彼女をさがしたかを思い出すと、もじもじして顔を赤らめた。「あなたがスケートをなさるってことは知りませんでした、なかなかお上手ですね」
 彼女は、相手のもじもじした原因を知ろうとでもするように、注意ぶかくレーヴィンの顔を見つめた。
「あなたに褒《ほ》めていただいて光栄ですわ。ここではね、あなたがスケートの名人だって言い伝えが、いまだに残っているんですもの」黒い手袋をはめた小さな手で、マッフに落ちた霜の針を払いながら、彼女はそういった。
「ええ、僕も昔は夢中になってすべったものです。完璧《かんぺき》の域に達したいと思いましてね」
「あなたはどうやら、なんでも夢中でなさるたちらしゅうございますね」と彼女はほほえみながらいった。「あたし、あなたのおすべりになるところを、ぜひ拝見しとうございますわ。ね、スケートをおつけになって。ごいっしょにすべりましょうよ」
『いっしょにすべる! いったいそんなことができるんだろうか?』とレーヴィンは彼女の顔を見ながら、腹の中で考えた。
「すぐつけます」と彼は答えた。
 レーヴィンはスケートをつけに、そこを離れた。
「旦那さま、ずいぶんしばらくお見えになりませんでしたね」とスケート場の主人は片足をもって、踵《かかと》のネジを締めながらいった。「あなたさまのあとにつづくような名人は、旦那がたの中にございませんですよ。これでよろしゅうございますか?」と彼はバンドを締めながらきいた。
「よろしい、よろしい、後生《ごしょう》だから早くして」われともなしに顔にひろがる幸福の微笑を、やっとのことでこらえながら、レーヴィンは答えた。
『そうだ』と彼は考えた。『これが生活なのだ、これが幸福なのだ! ごいっしょ[#「ごいっしょ」に傍点]に、ってあのひとはいったっけ。ごいっしょにすべりましょうよ[#「ごいっしょにすべりましょうよ」に傍点]って。いま打ち明けたものだろうか? しかし、いまいいだすのはこわい、というのは、いまおれが幸福だからだ[#「幸福だからだ」は底本では「幸福なからだ」]、たとえ希望だけででも幸福だからだ[#「幸福だからだ」は底本では「幸福なからだ」]……いってしまって、もしそのとき?………でも、いわなくちゃならない! いわなくちゃならない、いわなくちゃ! 弱気は棄ててしまえ!』
 レーヴィンは立ちあがり、外套を脱ぎ、小屋のそばのがさがさした氷の上を勢いよく走って、滑らかな氷の上へ出た。そして、なんの努力もなく、さながら自分の意志一つで速度を早めたり、ゆるめたり、方向を変えたりすることができるように、自由にすべりはじめた。彼はびくびくものでキチイのそばへ近よったが、その微笑はふたたび彼の心をおちつかした。
 彼女は手をさしのべた。で、二人は少しずつ歩みを速めながら、並んですべり出したが、速度が早くなればなるほど、彼女はいよいよ強く男の腕を締めるのであった。
「あなたもいっしょにすべったら、早く上達しそうな気がしますわ。あなたなら、なぜか信頼できますのよ」と彼女はいった。
「僕もあなたがよりかかってらっしゃると、自信が出てきます」と彼はいったが、すぐ自分のいったことにぎょっとして、顔を赤らめた。また事実、彼がこの言葉を口から出すやいなや、とつじょ太陽が雲にかくれたように、彼女の顔はすっかり今までの優《やさ》しみをなくしてしまった。レーヴィンはかねて見覚えのある、思想の努力を示す表情の動きを、彼女の顔に認めた。その滑らかな額には、ひと筋の皺が浮んだ。
「あなた、何か不快なことでもおありになりませんか? もっとも、そんなことをおたずねする権利はありませんがね」と彼は早口にいった。
「なぜですの?………いいえ、あたしなんにも不快なことなんかありませんわ」とそっけなく答えて、彼女はすぐつけたした。「あなた、マドモアゼル・リノンにお会いになって?」
「いえ、まだです」
「じゃ、行ってあげて下さいな、あのひとはあなたが大好きなんですから」
『これはどうしたのだろう? 僕がいやな思いをさせたのかしらん? ああ、神さま、たすけて下さい!』とレーヴィンは考え、ベンチに腰かけている白髪のフランス女のところへ走って行った。彼女は入れ歯をむき出して、にこにこ笑いながら、レーヴィンを旧友として迎えた。
「ええ、こうして大きくなる人もあれば」と目でキチイをさしながら、彼女はそういった。「年とっていくものもありますよ。Tiny bear(子熊)が大熊になりましたからね!」とフランス女は言葉をつづけた。レーヴィンが三人の令嬢をイギリスの童話に出てくる三匹の子熊になぞらえた、古い冗談《じょうだん》を思い出させたのである。「覚えていらっしゃる? よくそういってらしたじゃありませんか」
 彼はまるっきり覚えていなかったが、彼女のほうはもう十年間、この冗談をもちだしては笑っていた、すっかり気に入ったのである。
「さあ、いっておすべりなさいまし。ときに、うちのキチイはよくすべれるようになりましたでしょう、そうじゃございません?」
 レーヴィンがキチイのそばへ駆けつけた時には、彼女の顔はもういかつさがなくなって、目つきは前のとおり正直そうで優しかったが、レーヴィンから見ると、その優しさの中には何か特別な、わざとらしくおちついた調子が感じられた。彼は憂鬱になった。自分の年とった家庭教師とその奇癖について語ったあと、彼女はレーヴィンの生活ぶりをたずねた。
「あなた田舎にいらしってお退屈じゃございません?」
「いや、退屈なんかしません、僕は非常に忙しいんですから」相手が自分のおちついた調子に従わせようとしているのを感じながら、レーヴィンはこう答えた。彼はこの冬の初めと同じように、この調子からぬけ出ることができないのであった。
「長らくご逗留《とうりゅう》ですの?」とキチイはたずねた。
「わかりません」自分でも何をいってるかわからず、彼はこう答えた。もし相手のおちついた友情の調子にひきこまれたら、今度も何一つ決めることができないで、田舎へ帰っていかなければならぬのだ、こういう考えがふと頭に浮んだので、彼は思い切ってこの調子に逆らおうと決めたのである。
「どうしておわかりになりませんの?」
「わかりません。それはあなたしだいなのですから」と彼はいって、すぐさまわれとわが言葉にぎょっとした。
 それが聞えなかったのか、それとも聞きたくなかったのか、彼女はつまずきでもしたように、二度ばかり片足でとんとんやると、急いで彼のそばを離れてしまった。かれはマドモアゼル・リノンのそばへすべって行き、何やらいったあと、小屋の方へ足を向けた。そこでは、彼女たちがスケートを脱いでいた。
『ああ、おれはなんてことをしたんだろう! ああ、神さま! どうかお助け下さい、どうしたらいいか教えて下さい!』とレーヴィンは祈りながら口走ったが、それと同時に、はげしい運動の要求を感じて、さっとすべり出したと思うと、外まわり内まわりの輪を描きはじめた。
 その時、新しいスケートの名手とされている若者の一人が、口にタバコをくわえ、足にスケートをつけたまま喫茶店から出て来て、勢いよく走り出したと思うと、鉄《かね》をがちゃがちゃ鳴らし、ひょいひょい躍りあがりながら、スケートのままで石段を降りはじめた。下まで降りきると、自由な手の位置さえ変えずそのままで、氷の上をすべり出した。
『ああ、あれが新しい手なんだな!』レーヴィンはひとりごち、すぐさま駆けあがって、その新手をやろうとした。
「転んだらおしまいですよ、慣れが要《い》りますからね!」とニコライ・シチェルバーツキイが叫んだ。レーヴィンは石段の上へあがって、できるだけ勢いよく走り出すと、慣れない動作なのでようやく両手でバランスをとりながら、下へ降りていった。最後の一段でちょっとひっかかったが、片手がわずかに地面にさわっただけで、うんとはげしい動作をすると、重心を取り返し、笑いながら氷の上をすべり出した。
『気持のいいりっぱな人だわ』この時、マドモアゼル・リノンといっしょに小屋を出たキチイは、静かな愛撫の微笑を浮べて、好きな兄でも見るように彼をながめながら、心の中でそう思った。『でも、いったいあたしが悪いのかしら? あたし何かよくないことでもしたのかしら! 人はふまじめな媚態だっていうけれど。自分の愛しているのはあの人でないってことを承知してるけど、でもあたしあの人といっしょにいると楽しいんだもの。それに、あの人はあんないいかただし。だけど、なぜあんなことをおっしゃるんだろう?』と彼女は考えるのであった。
 キチイが、石段のところで会った母親といっしょに帰ろうとしているのを見て、レーヴィンはちょっと立ち止って、考えこんだ。彼はスケートを脱いで、動物園の出口で母娘《おやこ》に追いついた。
「あなたにお目にかかれて、うれしゅうございますこと」公爵夫人はいった。「相変らず木曜日が宅の面会日でございますから」
「というと、今日ですね」
「どうぞいらして下さいまし」と公爵夫人はそっけなくいった。
 このそっけなさは、キチイにとってつらかったので、母の冷たい態度のつぐないをしたいという気持を、おさえることができなかった。彼女は頭《こうべ》をめぐらして、微笑を浮べながらいった。
「さよなら」
 この時オブロンスキイが、帽子を横っちょにかぶり、眼はいうに及ばず、顔まで輝かしながら、陽気な征服者然として動物園へ入ってきた。が、公爵夫人のそばへよると、沈んだ申しわけなさそうなようすをして、ドリイの健康をたずねる姑《しゅうとめ》の問いに答えた。小さな元気のない声で姑との話を終ると、彼はぐっと胸を張って、レーヴィンの腕をとった。
「さあ、どうだい、出かけようじゃないか?」と彼はいった。「僕はしじゅう君のことを考えていたもんだから、こうして出てきたのが実に、実にうれしいよ」と意味ありげなようすで友の目を見ながら、彼はこういった。
「行こう、行こう」さよならといった声を聞き、それをいったときの微笑を見つづけている幸福なレーヴィンは、こう答えた。
「『イギリス亭』か、それとも『エルミタージュ』か?
「僕はどっちでもいいよ」
「じゃ、『イギリス亭』だ」とオブロンスキイはいった。彼が『イギリス亭』を選んだのは、『エルミタージュ』よりそこのほうに借りが多かったからで、そのために『エルミタージュ』にしては悪いと思ったのである。「君、辻馬車を待たしてるかい? いや、けっこう、僕は箱馬車を帰したのでね」
 道々ずっと二人の友は黙っていた。レーヴィンは、いったいキチイの表情の変化はどういう意味だろうかと考え、時には望みがあると信じてみたり、絶望に陥ったりした。そして結局、望みをかけるなんて狂気の沙汰だということを、明瞭に見てとった。にもかかわらず、彼女の微笑を見、『さよなら』という言葉を聞くまでの自分とは、全く別人になったような気がした。
 オブロンスキイは道々メニューを考えていた。
「君、ひらめは好きかい?」
「なんだって?」とレーヴィンは問い返した。「ひらめ? ああ、僕はひらめがとっても[#「とっても」に傍点]好きだよ」

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 レーヴィンがオブロンスキイといっしょにホテルへ入った時、彼は友の顔に表われた控えめな輝きや、からだ全体に何か特殊なところがあるのに気がついた。オブロンスキイは外套をぬぎ、帽子をアミダにかぶって、食堂へ通り、燕尾服を着、ナプキンを持って四方八方からたかるダッタン人に命令を下した。いつものごとく、ここにも居合わせて、うれしそうに会釈する知人に向って、左右におじぎをしながら、ブフェーに近づき、小魚でウォートカを一杯のみ、帳場のむこうに坐っている、リボン、レース、カールで飾り立てている女に何かいった。すると、そのフランス女でさえ、腹の底から笑い出した。
 レーヴィンがウォートカを飲まなかったのは、このフランス女が癪《しゃく》にさわったからである。この女は入れ毛と、poudre de riz(米粉)と、vinaigre de toilette(化粧酸)でできているように思われた。彼は、まるでけがらわしい場所ででもあるように、この女のそばを離れた。彼の心はキチイの追憶にみち、その眼には勝利と幸福の微笑が輝いていた。
「御前《ごぜん》さま、こちらへどうぞ、ここでは御前さまにうるさくするものはございません」特別くっついてきた年寄りのダッタン人が、こういった。幅広の骨盤をして、その上に燕尾の裾をひろげている。「どうぞ、御前」オブロンスキイに敬意を表して、その客人にもサービスしながら、彼はレーヴィンにそういった。
 たちまちのうちに、青銅の壁燭台の下の円卓の上に設けてあるテーブル・クロースの上に、さらに新しいテーブル・クロースをひろげて、老ボーイはビロード張りの椅子を引きよせ、手にナプキンとメニューを持って、オブロンスキイの前に立ち、命《めい》を待っていた。
「御前さま、もし別室がご所望でございましたら、ただいますぐあきますで。ゴリーツィン公爵さまがご婦人とごいっしょにいらっしゃいますので。牡蠣《かき》は新しいのが入りましてございます」
「ああ! 牡蠣か」
 オブロンスキイは考えこんだ。
「ひとつプランを変えるかな、レーヴィン?」メニューの上に指をのせたまま、彼はそういった。その顔は真剣に迷っているような表情になった。「牡蠣は上等かい? おい、大丈夫か?」
「フレンスブルグのでございます、御前さま、オステンドのはございません」
「フレンスブルグはフレンスブルグにしても、新しいかい?」
「昨日はいりましたので」
「じゃ、どうだね、牡蠣からはじめて、そのあとでもうすっかりプランを変えるかな、え?」
「僕はどうだって同じだよ。僕は玉菜汁《シチイ》と粥《カーシャ》が一番いいのだが、ここには、そんなものないだろう」
「粥《カーシャ》なら、ア・ラ・リュス([#割り注]ロシヤ風[#割り注終わり])はいかがでございます?」まるで赤ん坊にむかう保姆《うば》のように、レーヴィンの上にかがみこみながら、ダッタン人はこういった。
「いや、冗談はさておいて、君の選ぶものでいいよ。僕はスケートで駆けまわったので、腹がへっちゃった。どうか思い違いをしないでくれ」オブロンスキイの顔に不満げな表情を認めて、彼はこうつけたした。「僕は君の選択に敬愛を表《ひょう》さないわけじゃないんだから。僕は喜んで、なんでもよく食べるよ」
「もちろんさ! なんといったって、これは人生の快楽の一つだからな」とオブロンスキイはいった。「じゃ、おまえ、牡蠣を二十もってきてくれ、いや、それとも少ないかな――三十だ。それから野菜入りスープと」
「プランタニエールでございますな」とダッタン人はひきとった。しかし、どうやらオブロンスキイは、彼にフランス語で料理の名前をいう満足を許したくないらしかった。
「野菜の根入りだぞ、わかった? そのあとは濃いソースのかかったひらめ、それから……ローストビーフ。だが、いいか、上等のだぞ。それから去勢※[#「奚+隹」、第 3水準 1-93-66]《カブルン》にするかな、そして罐詰のくだもの」
 ダッタン人は、フランス語で料理の名前をいわないオブロンスキイのやりかたを思い出して、あとからついていわなかったが、その代り注文の品を全部くりかえすことで満足した。
「スープ・プランタニエール、ボーマルシェ・ソースのひらめ、プラルド、ア・レストラゴン、マセドアヌ、ド・フリュイ……」といって、すぐさまバネ仕掛けのように、綴《と》じたメニューを置くと、今度は別なワイン・メニューを取って、オブロンスキイにさし出した。
「何を飲もう?」
「僕はなんでもいい、ただし、ほんの少しだ………シャンパン」とレーヴィンは答えた。
「えっ? はじめから? もっとも、成程それもよかろう。君は白封のほうが好きかい?」
「カシェ・ブラン」とダッタン人がひき取った。
「じゃ、それを牡蠣のときに出してくれ、そのあとはそのときしだいだ」
「かしこまりました。テーブル・ワインはなんになさいます?」
「ニュイを持ってきてくれ。いや、いっそ定例のシャブリにしよう」
「かしこまりました。御前さま[#「御前さま」に傍点]のチーズはいかがでございます?」
「そうだな、パルメザンだ。それとも、君は何かほかのが好きかい?」
「いや、僕はなんだっていいんだよ」微笑をおさえる力がなくて、レーヴィンはそういった。
 ダッタン人は、燕尾の裾を翻しながら駆け出していったが、五分ばかりたつと、玉虫色に光る貝の上に載せた牡蠣料理と、酒のびんを指の間にはさんで飛びこんできた。
 オブロンスキイは、糊のきいたナプキンを揉みほぐして、チョッキの間に差しこみ、両手をゆったりとテーブルの上において、牡蠣にとりかかった。
「うん、わるくないわい」銀のフォークで、玉虫色に光る貝殻から汁気の多い身を剥《は》がし、あとからあとから口へ持っていきながら、彼はこういった、「わるくない」うるみをおびて光る眼を、レーヴィンとダッタン人の方へ、かわるがわるふりむけながら、またこう繰り返すのであった。
 レーヴィンは牡蠣も食べたが、チーズをつけた白パンのほうが気持がよかった。それよりむしろ、彼はオブロンスキイに見とれていた。ダッタン人でさえも、コルクを抜いて、漏斗形《じょうごがた》の薄い盃に泡立つ酒を注ぎ分けると、目に見えて満足の微笑を浮べ、白いネクタイをなおしなおし、オブロンスキイをながめていた。
「君はあまり牡蠣が好きじゃないのかい?」とオブロンスキイは盃を干しながらいった。「それとも、何か気にかかることでもあるのかね? え?」
 彼は、レーヴィンに快活にしてほしかったのである。しかし、レーヴィンは快活でなかったというのではないが、何か窮屈な感じがした。いま心にいだいているようなものをもって、みんなが婦人同伴で食事をしている部屋部屋にはさまれながら、こんなレストランに坐りこんで、人々の走りまわったり、ざわざわしたりする足音を聞くのは、妙に気づまりで、おちつかないのであった。こうしたブロンズ、姿見、ガス燈、ダッタン人、といったような環境は、彼にとって侮辱のように思われた。心をみたしているものをけがしはしないかと、それが心配だったのである。
「僕? そう、気にかかることがあるんだ。が、そればかりでなく、僕はこういうものが何もかも、窮屈でしょうがないんだ」と彼はいった。「君には想像もつかないだろうが、僕みたいな田舎《いなか》ものにとっては、こんなのが何もかも奇怪千万に思われるんだ、ちょうど君のとこで会ったあの紳士の爪のようにね……」
「ああ、僕も気がついていたよ、君はあの不運なグリネーヴィッチの爪に、ひどく興味を感じたようだね」とオブロンスキイは笑いながらいった。
「やりきれないんだ」とレーヴィンは答えた。「君ひとつ努力して、僕の立場になってみてくれたまえ、田舎に住んでいる人間の立場にさ。われわれ田舎に住んでいるものは、できるだけ働きいいように、自分の手を処理しているので、そのために爪も切るし、ときには袖もたくしあげる。ところが、ここではみんながわざと、のばせるだけ爪をのばして、小皿みたいな飾りボタンをつけて、手では何一つできないようにしてるんだからなあ」
 オブロンスキイはおもしろそうに笑い出した。
「それは要するに、荒仕事などは必要がないというしるしさ。あの男は頭を働かしてるんだから……」
「かも知れない。が、それにしても、やっぱり僕の目には奇怪千万なんだ。それはね、われわれ田舎の人間が早く仕事にかかれるように、急いで腹へつめこもうとするのに、ここではなるべく長く腹を脹《ふく》らさないように苦心して、そのために牡蠣なんか食べているのだろう、それが奇怪千万に思われるのと同じことなのさ……」
「いや、もちろんさ」とオブロンスキイは受けた。「しかし、それが教養というものの目的なんだよ、いっさいを化して快楽にするということがね」
「ふん、それが目的だとしたら、僕は野蛮人でいたいよ」
「君はそれでなくっても野蛮人だよ。君たちレーヴィン一統はみんな野蛮人だよ」
 レーヴィンはため息をついた。彼は兄ニコライのことを思い出した。と、彼は気がとがめ胸が痛くなって、眉をひそめた。けれども、すぐに気がまぎれてしまった。というのは、オブロンスキイがこんなことをいいだしたからである。
「ときに、どうだね、今日われわれのところへ、つまりシチェルバーツキイ家へやってくるかね?」からになったがさがさの牡蠣殻をわきのほうへおしやり、チーズをひきよせながら、彼は意味ありげに眼を光らせていいだした。
「ああ、必ず行く」とレーヴィンは答えた。「もっとも、公爵夫人の招待のしかたはしぶしぶみたいに思われたけれどね」
「君は何をいってるんだ! ばかばかしい! あれはあのひとの癖だよ……おい、スープを出さんか!………あれはあのひとの癖だよ、grande dame(貴婦人)だからね」とオブロンスキイはいった。「僕も行くけれど、僕はその前にボーニナ公爵夫人のとこへ、合唱の練習に行かなくちゃならないのでね。さてと、君は実際、野蛮じゃないか。現に、去年とつぜんモスクワから姿を消してしまった一件などは、なんといって説明したらいいんだ? シチェルバーツキイの人たちは、のべつ僕にそのわけをきいたもんだよ、まるで僕が知ってるのがあたりまえみたいにさ。ところが、僕の知っているのはたった一つ、君がいつも人のしないようなことをする、ということだけさ」
「そう」レーヴィンはゆっくりと、しかも興奮のていでいった。「全く君のいうとおり、僕は野蛮人だ。しかしね、僕が野蛮なのは、あの時ここを発《た》ったことじゃなくて、今度また出てきたってことなんだ。こんど僕が出てきたのは――」
「ああ、君はなんという幸福な男だ!」とオブロンスキイはレーヴィンの眼を見つめながら、すかさずこういった。
「どうして?」
「駿馬《しゅんめ》は烙印《らくいん》により、恋せる若人はその眼によりて見分けられるよ」とオブロンスキイは朗読口調でいった。「君はいっさいが前途にあるんだからなあ」
「じゃ、いったい君はもう過去の人になったのかい?」
「いや、過去の人というわけじゃないが、とにかく君には未来があるけれど、僕には現在しかない。しかも、その現在がちょぼちょぼなんだからね」
「どうしたんだね?」
「とにかく芳《かんば》しくないんだよ。いや、まあ、僕は自分のことは話したくない、それに、なにもかもすっかり説明するなんて、不可能だからね」とオブロンスキイはいった。「そこで、君はなんのためにモスクワへ出てきたんだい?……おい、片づけろ!」と彼はダッタン人に叫んだ。
「君、察してるだろう?」深い底のほうに輝いている眼を友の顔から放さないで、レーヴィンは答えた。
「察してるよ。が、自分からその話を切り出すわけにはいかない。だから、もうそれだけで僕の推察が正しいかどうか、君にはわかるはずだよ」微妙なほほえみを浮べてレーヴィンを見ながら、オブロンスキイはこういった。
「じゃ、君の意見はどうだね?」とレーヴィンはふるえ声でいったが、自分の顔の筋肉が一つ一つ痙攣《けいれん》するのを感じた。「君はどう思う?」
 オブロンスキイはレーヴィンから眼をはなさないで、ゆっくりとシャブリの盃を飲み干した。
「僕かね?………」とオブロンスキイはいった。「これ以上の願わしいことはないよ! これこそ何よりもけっこうなことだ」
「しかし、君、考え違いをしてやしない? 僕がなんの話をしてるか、君わかるかい?」相手の顔を食い入るように見つめながら、レーヴィンはこういった。「君はそれをできることと思う?」
「できることと思うさ。どうしてできないんだい?」
「いや、君ほんとにこれができることと思うんだね? いや、君こころに思っていることを、そっくり残らずいってくれたまえ! だが、もしも僕を待ち受けているのが拒絶だとすれば!………それどころか、僕はそれを確信している……」
「どうしてそんなことを考えるんだね?」相手の興奮を微笑でながめながら、オブロンスキイはこういった。
「どうかすると、そんな気がするんだよ。なんにしても、それは恐ろしいことだからね、僕にとっても、彼女にとっても」
「いや、なんにしても娘のほうにとっては、何も恐ろしいことはありゃしないよ。どんな娘だって、求婚されるのを誇りとしてるからね」
「ああ、どんな娘だってそうだが、あのひとだけは違う」
 オブロンスキイはほほえんだ。彼はレーヴィンのそういった気持を、よく承知していたのである。レーヴィンにとっては、世界じゅうの娘が二つの部類に大別されていた。一つは彼女を除いた世界じゅうの娘ぜんぶであって、これらの娘たちはあらゆる人間的な弱点をもっており、きわめてありふれた女にすぎない。ところが、いま一つの部類は彼女ただ一人であって、これは何一つ弱点などもたず、いっさいの人間的なものを超越しているのだ。
「ま、ちょっと、ソースをとりたまえ」ソースをおしのけようとするレーヴィンの手をおさえ、彼はこういった。
 レーヴィンはおとなしくソースをかけたが、相手に食べる暇を与えなかった。
「いや、君、ちょっと、ちょっと」と彼はいった。「察してもくれたまえ、これは僕にとって、生死の問題なんだからね。僕は今までかつて、だれともこの話をしたことがない。君以外にはだれともこの話をすることができないんだ。ねえ、君と僕とは、あらゆる点において縁のない人間で、趣味から、見解から、なにもかも違っている。しかし、君は僕を愛し、理解してくれることがわかっているので、僕は君が大好きなんだ。しかし、お願いだから、ほんとうに腹蔵なく打ち明けてくれたまえ」
「僕は腹に思っているとおりをいってるよ」とオブロンスキイは、ほほえみながら答えた。「しかしね、僕はそれ以上のことをいうよ。僕の家内はじつに驚くべき女でね……」オブロンスキイは妻と自分との関係を思い出すと、ほっと一つため息をついて、ややしばらく無言ののち、言葉をつづけた。「あれは予見の才能をもっていて、人の心を見透《みすか》すんだが、なおそのほかに、未来のことまでわかるんだ、ことに結婚のほうにかけてはね。たとえば、あれは、シャホフスカヤがブレンテルンのとこへ行くと予言したもんだ。だれ一人として、それを本当にするものがなかったけれど、そのとおりになったからね。ところで、家内は君の味方なんだよ」
「といって、どうなんだね?」
「こうなんだ、あれは君が好きなばかりでなく、キチイは必ず君の奥さんになる、といってるんだよ」
 この言葉とともに、レーヴィンの顔はとつぜん微笑に輝いた。それは感動の涙に近い微笑であった。
「あのひとがそういってるのかい!」とレーヴィンは叫んだ。「僕はいつもそういってたんだよ、あのひとは、君の奥さんは、すてきな人だって。だが、もうたくさん、この話はたくさんだ」と彼は席を離れながらいった。
「よしよし、だが、まあ掛けたまえ」
 しかし、レーヴィンはじっと坐っていられなかった。彼は持ち前のしっかりした足どりで、鳥籠のような小部屋を二度ばかりぐるぐるまわって、涙を見られないようにしきりに瞬《まばた》きしていたが、そのうちにやっと元の席についた。
「君、察してくれたまえ」と彼はいった。「これは恋じゃないんだよ。僕も恋をしたことがあるが、これはあんなものじゃない。これは僕自身の感情じゃなくて、何かしら外部の力が僕をつかんだんだ。僕がここを発《た》って行ったのはね、それはありえないことだと決めてしまったからだ。ね、わかるだろう、地上にありえない幸福みたいな気がしたんだ。自分自身と闘ったあげく、これなしには生活もないということがわかったんだ。で、なんとか決めなくちゃならない……」
「いったいなんのために発ってしまったんだい?」
「ああ、ちょっと! いやはや、どうもいろんな考えが浮んできて! ききたいことも山ほどある! 君は今いったことで、僕にどれだけのことをしてくれたか、想像もつかないだろう。僕はすっかり幸福な気分になって、われとわが身がいやらしくなったくらいだ。なにもかも忘れてしまってさ。僕はね、今日兄のニコライのことを聞いたんだが……君、知ってる、兄はここにいるんだよ……その兄のことさえ、僕は忘れてしまったんだからね。兄貴までが幸福でいるような気がしてさ。これは一種の狂気状態だ。しかし、一つ恐ろしいことがある……君は結婚しているから、この気持はわかっているだろうが……恐ろしいというのはほかでもない、われわれはもう相当の年配で、すでに過失をもっている、しかも恋愛でなしに、ただ罪悪にすぎない関係なのだ……それが突然、清浄無垢《しょうじょうむく》な処女に接近する、これは唾棄すべきことじゃないか。だから、自分は処女に値しない人間だと、感ぜざるを得ないのさ」
「なあに、君の罪悪なんか、たいしたことはありゃしない」
「いや、それにしたってさ」とレーヴィンはいった。「とにかく、僕は嫌悪の念をもって、過去の生活を読み返しながら、ふるえおののき、呪詛《じゅそ》し、悲痛な訴えを口走っている……そうなんだよ」
「どうもしかたないさ、世界がそんなふうにできてるんだから」とオブロンスキイはいった。
「ただ一つの慰藉《いしゃ》は、ちょうどあの僕の好きなお祈りにあるとおり、われを赦したまえ、わが功績のために非《あら》ず、なんじのおん慈悲によりて赦したまえ、だ。ただそういう意味で、彼女は僕を赦すことができるだろう」