『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや10 M軍

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1926年
朝鮮半島京城(現・ソウル市)生まれ
1932年
父親の仕事で満州へ移住
1944年
満州国軍 軍官学校入校
1945年
8月、日本の陸軍士官学校に留学中、終戦を迎える
 
その後、朝鮮半島に帰る
1947年
韓国海士官学校を卒業
1950年
朝鮮戦争に参加
 
海軍中将で退役
[1] 一家で満州へ 06:50
[2] 軍官(将校)を目指す 07:10
[3] 「五族協和」の旗の下に 04:13
[4] 焼け野原の東京 06:13
[5] 喜びを隠した終戦 05:43
[6] 朝鮮半島へ 05:44
[7] 家族を迎えに 06:13
[8] それぞれの歳月 09:25

[1] チャプター1 一家で満州へ 再生中06:50
満州国ができて、関東州にいた、遼東半島にいた日本軍が満州に入ったでしょう。それで日本軍が馬賊を討伐して、もう山の中へ追っ払って、それですぐ警察を 作って、都市の治安は警察が担当するし、日本軍は山の中へ入って、特に長白山(白頭山)、そちらの中にいた匪賊(ひぞく)を全部追い払ったんですよ。それ で、平和が維持できて、中国人も韓国人もみな馬賊の襲撃を心配しなくてもいいから、まあ喜んだんですよ。

Q:先ほどのその馬賊が出たのはどの地域ですか?

満州鉄道沿線の外側ですよ。いや、満州鉄道の付属地は土地と、鉄道から2キロ、3キロの地域が南満州鉄道の沿線というわけですよ。で、新京(現・長春)、 奉天(現・瀋陽)とか、鞍山(あんざん)とか遼陽とか鉄嶺、こういう町は全部守備隊が警備していますから、馬賊が襲撃できないんですよ。

関 東軍が入ってきて、その満州国建設するまでは混乱時期ですから、満州国ができてからは、もう匪賊がなくなったから、中国人も韓国人も大喜びですよ。政治的 にもう日本軍がどう非難されるかどうか、それは問題じゃなくて、そこで住んでいる人たちは馬賊の襲撃を受ける心配ない、なくなったから喜びますよ、それ は。

安全になったから、平和になったから。その農産物も秋に収穫してそれを都市へ持って行って、それを売ることができるんですよ。主に日 本が買って行きましたけど。だから産業が、その発展するし、産業が発展すると経済が安定してきて、みんな喜びますよ。もう教育施設も作ったし、病院も作っ たし、道路も作ったし、それはそれは、もう満州国ができてみんな喜びましたね。

張作霖の軍隊、張学良の軍隊は満州を占領すると・・日本が 満州を占領すると、関東軍満州に侵入すると、張学良の軍隊は、中国へ移ったわけですよ。移動して。残った人たちは満州国軍を作りながら、その将校は全部 新しく養成して作ったけど、あの、兵隊はその人たちを全部吸収して満州国軍を作ったわけですよ。それで、その人たちは毎月、月給が出るし、生活はよくなる し、不満を持つはずがありませんよ。しかし反日感情は持っている人も多かったと思いますね。


[2] チャプター2 軍官(将校)を目指す 07:10
わたしの中学校は瀋陽奉天にありました。で、寄宿舎、5年間寄宿舎で生活しながら、中学校5年をやったわけですよ。で、夏休みとか冬の休みの間は、新京 に親父がいましたから、家がありましたから、新京へ行って休暇を過ごして、それで学校へまたやってくる。それで新京に軍官学校、4年制の軍官学校できた (ことを)知らなかったわけですよ。

そのハルビンに軍医学校ができているという、そのあれがありまして、それで志願してみようというわけ で、その志願書をもらいに、当時は治安部といいました、治安部、満州国政府の治安部のところへ行って、その志願書をもらいに来ましたと言ったら、満州国軍 の日本人軍官(将校)ですね、少尉か中尉の人が、「おまえ、軍医学校よりもよい軍官学校ができているんだぞ」。「あ、そうですか。わたし知りませんでし た」「志願書を、軍医学校の志願書と軍官学校の志願書を両方持って行け」、よく考えて選択しろというわけで、もらってきて、軍医よりは軍官がいいだろうと うわけで、軍官学校の志願書を出したわけですよ。

当時は5年生、中学ですね。中学を卒業すると、まもなく徴兵されるんですよ。日本軍に。 で、中学5年になってから、“さあどうしようか。ん、日本軍に徴兵されるよりも満州軍官学校に入って、将校になる方がいい”と。それまで満州国はまだ建設 段階ですから、服装も古いしすべてが悪い状態なんですよ。で、それでも満州軍に入って、将校になるほうが日本軍の兵隊になるよりもましじゃないかと。とい うわけで、志願をして、合格して、満州軍の軍官学校に入ったわけです。

それで、志願する人は多い。それで競争で入るという自体が非常な特権になるし、そこに入った人はプライドを持つことになりますよ。それで、その教育の内容がどうかということは問題ではありませんでしたね。

その当時満州の人口が3,000万だと言っていましたね。それで、ハルビンに大学が一つ、新京に建国大学、工科大学、奉天満州医科大学、それだけですよ。その学生数の中で、日本人が半分を占めたんですよね。そして、中国人と韓国人というわけですよ。

Q:キムさんのお父さんは、軍官学校にキムさんが行かれるようになったときに喜ばれましたか?

喜 びましたね。どうせ大学へ入るということ自体が難しいですよ。それで、軍官学校に入れということは日本軍への徴兵を免れることになるし、4年間、将校にな る教育を受けて、卒業したら就職の心配もないしというわけですよ。満州国軍は、その当時、日本軍の補助隊として治安維持を担当したというわけですよ。


[3] チャプター3 「五族協和」の旗の下に 04:13
はじめは日系の中隊、満系(満州在住の漢族・満州族などの中国人)の中隊、私の期ですよ。日系の中隊が二個中隊、満系の中隊が三個中隊、一個中隊が約 120名ですよ。で、鮮系(朝鮮族)は、初めは満系と一緒に教育を受けました。半年か経つと、鮮系は日系の中隊に移すんですよ。それで日系の中隊に入りま した。軍官学校の教育は、午前中は大学の予科のように教養科目の教育を受けるんですよ。午後は教練ですよ、軍隊の訓練を。午前の教養科目の水準が、日本の 水準と満州の水準とはだいぶ差がありましたね。一緒に教育ができないんですよ、水準が違うから。私も満州で教育を受けましたから、中国人と一緒に教育を受 けるときは私の水準が高い方ですよ。日系と一緒に教育されると、今度は私が、教育を受けた水準が低いんですよ。それが困りましたね。

Q:水準というのは例えばどういうところに差が出るんですか?

例 えば、数学で日本の方は微分積分微分の(課程)が終わっているんですよ。満州では、微分は聞いたこともありません。その程度ですよね。その代わり、満 州国の地理という科目はこっちが上ですけど。まあ、そういった差がありましたね。で、全部日本語で教育しますから、満系の人も優秀な人もいましたけど、一 般の人はやっぱり難しかったと思いますね。


[4] チャプター4 焼け野原の東京 06:13
北朝鮮の羅津(現・羅先)と言う港まで汽車で行って、そこで貨物船に乗せられて、フンドシを、3メートルの長さの白いフンドシを着けろというわけですよ。 アメリカの潜水艦にやられて海に落とされたら、サメにかまれるから、フンドシを長く流すとサメは自分より大きいものはかみつかないという、そういう説明で したね。それで、貨物船に乗って3日間ジグザグ航行で、貨物船が4隻、日本の駆逐艦に護衛されながら新潟へ行きまして、新潟で一泊して、新潟の小学校の講 堂で眠りましたね。そうしたら新潟に着陸したら、空襲のサイレンが鳴るんですよ。「B29は今東京を爆撃しています」という。それで一晩寝て、そこから汽 車で東京へ行って、東京で神奈川県行きの電車に乗り換えて座間(士官学校の所在地)へ行ったわけですよ。
そのとき初めて東京を見ました。汽車の窓から、電車の窓から。東京はもう焼け野原ですよ。3月10日、1945年の3月10日、焼夷弾(しょういだん)の爆撃で全部焼け野原になってましたね。

初めて見ました。初めて。それで、座間へ到着して1週間は学校にいましたね。1週間は。それで各兵科別に歩兵、砲兵、戦車兵全部分割して、全部山の中に入れて疎開したわけですよ、爆撃にやられると困るから。

Q:東京の焼け野原の様子ですね、戦災のあった場所は初めてご覧になったんですか?

初めて見ました。新潟はそんな爆撃はなかったようですね。

Q:そんな焼け野原の状況を見たときにはどういうことをお感じになったんですか?

これほど爆撃っていう空襲による被害が、これほど大きいとは知らなかったんですね。米軍の爆撃というのは大変なもんだねと思いましたね。

日 本の本科で中隊を新しく編成して、それで浅間山の訓練所に入ったわけですよ。で、寝台戦友じゃないですけれど、隣の隣だったかね、もうしょんぼりしている 人がいたんですよ。あれはどうしたわけかね、しょんぼりしていて。聞いたら、彼の家族が東京に住んでいたんだけど、3月10日の爆撃で全部死んだそうです よ。家族がもう全部死んでしまいましたからね。独り士官学校に来ていて助かったわけですよ。そのような人もいましたね。


[5] チャプター5 喜びを隠した終戦 05:43
8月14日に、「明日は重大放送がある、12時に」との予告がありましたね。8月15日になりますと、訓練を休んで12時になりますと、全部制服を着て。 その当時はラッパみたいな拡声器があるでしょう、それを高い木の上に設置してその前に全部整列したわけですよ。8月15日ですよ。暑いですよ、山の中で も。日は照るし、太陽はカンカンしているし、整列して玉音放送を聞いたんですけど、雑音が多いから、ソ連に対する宣戦布告だろうとみんなそう思いました。 こうやって聞いているうちに、クスクスと泣く人がいるんですよ。感極まって、天皇陛下の玉音を聞くんだから、感極まって泣いていると思いました。雑音が多 いから聞いている途中にもう面倒くさくなってね、聞かなかったわけですよ。

ところが私だけではない。終わって中隊の兵舎に帰ってから、 「あれは敗戦の無条件降伏を、日本が受け入れた終戦の話だ」「いや、あれはソ連に対する宣戦布告だ」。それで中隊の人たちが集まってね、聞いた人たちは 「これは戦争が終わった」「いや、宣戦布告だ」というわけで、1人が「中隊長のところに行って聞いてこい」っていうわけで、1人が中隊長に行って帰ってき たわけです。「ばか野郎! 日本は負けたぞ!」というわけですよ。そうしたら、もう中隊全体が泣き始めるんですよ。「日本が負けた」って。私は困る。私は 生きて帰れるから、生きて帰れるから、大喜びですよ。そうでしょう。みんな泣いているのに、俺だけ喜ぶわけにはいかないし、困りましたね。

そ れはもう大喜びですよ。戦争は日本の戦争ですよ。朝鮮の戦争じゃなくて。そうでしょう。朝鮮はもう植民地にされて、それでまた徴兵されて。惜しいことしま したね、満州だけやっていたら、満州国だけやっていたらよかったのに、中国まで入って。中国はもう広いところですからね。そこを、中国は12億ですか13 億ですか、日本の1億でどう占領するんですか。無茶なことをやりましたよね。



[6] チャプター6 朝鮮半島へ 05:44
Q:キムさんは戦後日本からこちらに帰られたんですね。

ええ。下関で船に乗れなくて、北の仙崎(長門市仙崎港)とかという漁港で連絡船に 乗ってフザン(釜山・プサン)に帰った。南に故郷がある人はフザンから故郷へ直行しましたけど、軍官学校出身はたいてい満州とかが故郷ですから、そっちへ 行くためにソウルへ来て、ソウルで一泊して汽車を乗り換えて、38度線を越えて帰らなければならなかったんですね。それで、ソウル駅前の旅館で一晩宿泊し て、次の朝これから汽車に乗って北へいくと、今の延辺(エンペン・吉林省朝鮮族自治州)、カントウへ行く人は元山(ゲンザン)の方の汽車に乗らなければ いけないし、満州に行く人は平壌(現・ピョンヤン)経由の汽車に乗らなければならないから、別に別れるわけですよ。で、準備をしているとき、同期のカンウ ンボン、キョウブンポウという先輩が満州に住んでいたけど、敗戦前にソウルに移住していたんですよ。

『おい、先輩たちがいるところがわ かったから、先輩たちがいるところへ行こう』ということで行ったら、治安隊・・日本軍、日本の警察がもうなくなりましたから、阿部総督(旧朝鮮総督府・阿 部信行総督)が治安隊を組織して治安を維持してくれというわけで、治安隊ができたんですよ。日本軍と満軍の将校たちが集まって治安隊を作ったわけですよ。 そこへ行ったら(軍官)候補生出身は兵隊さんになって、治安隊になって。治安隊と言ってもやることはないんですね。それで、日本軍の兵站(へいたん)倉庫 にまだ食糧が残っていましたから、それをもらってきて、陸軍士官学校では食べられなくて骨と皮になっていましたから、その食糧でみんなたらふく食うて、 やっと太ってきたら米軍が上陸してきて、「治安隊は全部解散しろ。治安は米軍がする、私設治安隊は全部解散しろ」というわけで、全部解散になになりまし た。だいたい小学校とか中学校とか校舎を占領して治安隊をやっていたわけですから、校舎から全部出ていけという米軍軍政長の命令で、治安隊が解散になった んです。


[7] チャプター7 家族を迎えに 06:13
じゃあ満州に帰ろうというわけで、開城(ケソン)まで行って。38度線をソ連軍が警備していますから、そこの許可を得て北へ入らなければならないけど、そ こに行ったらソ連兵が2人来て、38度線を越えるために待っている人たちを集めて、略奪されてしまいました。時計とかお金とか取られてしまいましたね。そ れで、待っている人に今夜12時に通過させると言う。12時になったらまた兵隊がまた交代するでしょ。警備兵が。そしたら通過させてくれるかわからない。 それで山を越えて行く人があるというので、それについて、山を越え谷を越え38度線を越えて新義州まで行ったら、奉天近くのソガトン(蘇家屯)というとこ ろに住んでいた姉さんの家族が満州から避難してきたんですよ。それを教会で会った。姉さんの夫はまだ満州に残っていて、姉さんが5人の子供を連れて鴨緑江 を越えてきたわけですから。「おい、おまえ、ソウルまで案内してくれ」というわけで、姉さんの家族をソウルまで案内して、それからまた38度線を越えて満 州まで行ったわけですよ。

奉天で親父と会ったわけですよ。私が心配で、ソウルに行くために奉天へ来て、汽車を乗り換えて行くために奉天へ 来た。私は奉天へ行って、奉天に行く汽車に乗り換えればなりませんからね、そこでまた教会に行って、それで消息が分かって、親父と会って、親父と一緒に新 京へ帰ったわけですよ。

新京では11月中旬でしょうね、韓国居留民団で金を集めて、ソ連軍の司令部へ交渉して、交渉というのはお金をたっ ぷり上げたら列車を出してくれるんですよ。それで20両の旅客車を一列車にして、居留民、避難民がいっぱい乗って奉天を通過して安東まで、今の丹東まで来 て、そこで降りて。鴨緑江の鉄橋は閉鎖してますから、密船に乗って新義州へ来て、新義州で、北朝鮮はそのときまで旅客列車が運行していますから、38度線 まで来て、38度線は歩いて、リュックサックをかかえて歩いて38度線を越えて、開城(ケソン)からはまだ列車がありますから、ソウルに来たのは11月末 でしたね。


[8] チャプター8 それぞれの歳月 09:25
1988年に長春へ行ったことがある、新京へ。新京へいく途中、瀋陽奉天へ行きましたら軍官学校出身が7、8名集まって歓迎してくれました。全部6期生 ですけど、1期生が一人いました。私のそばに座って握手しながら、手のひらを触っていたんですけど、私の足の裏みたいに厚いんですよ。「先輩、これどうし たんですか?」と聞いたら、「ひどい目にあったよ」と言うんですよ。1945年8月敗戦になって、はじめは蒋介石国府軍中国国民党軍)が入ってきて、 それで中共軍(中国共産党軍)が入ってきて国府軍は撤収したでしょう。中共、共産世界になると「お前は親日派だ」というわけで、捕らえられて。初めは、 『日本に協力して高等官以上をしたんだから、お前は死刑だ』なんて言われて、死刑になったけど、(彼の場合は)農村に追放で監禁されて、農村で10年間、 農村で畑の仕事をされてこれになったそうですよ。
10年間やって、ようやく解放されて都市へ帰ってきて、それで4、5年すると今度は文化大革命。 これでまた10年間田舎に追放されて、田舎で畑の仕事を10年間やって、ようやく今都市へ帰ってきたと言うんですよ。農民と同じく手のひらが厚くなったと いう話で。「先輩、人生は60からですよ。がんばりなさい」、慰労をする言葉がないから、そう言って慰労しましたね。

Q:ご自身の人生を振り返って、軍官学校に在籍したことがプラスになったと思われますか?

軍官学校行ったために、韓国軍を作るために国防警備隊と海岸警備隊を米軍軍政庁で作ったでしょう。そしてそこの幹部を養成するために軍事英語学校を作って、それが陸軍士官学校になり、海軍では鎮海(現・チャンウォン市チネ)で海軍士官学校を始めたわけですよ。

私 は軍事英語学校へ入って、また日本の満軍の候補生出身ですから、満軍の将校をやった人、日本軍の将校をやった人が先に任官して国防警備隊に入るのを見なが ら、1946年2月、軍事英語学校の運動場で国防警備隊の隊員を募集していたんですよ。それが終わると、今度は海軍警備隊の隊員を募集するのを見ることに なりました。それを見ていながらキンコウショク(金光植/キム・クァンシク)後輩と2人で、我々は海軍になろうではないかというわけで、海軍募集に志願し て鎮海へ行ったわけですよ。鎮海へ行ったら、海軍士官学校のできる前に幹部養成のために、学校を作っているので、そこへ志願して海軍士官学校の一期生に なったわけですよ。海軍で艇長までやりました、警備艇の。警備艇と言っても米軍の掃海艇、日本軍の掃海艇の、軍政庁で提供してくれたので、その掃海艇で警 備艇艇長までしましたが、暴風雨の中で、艇長が操艇を誤って暗礁に座礁させてしまって、船を、警備艇を。海軍は終わったなと思ったら、その時、海軍の中に 海兵隊を創設することになったんですよ。それで、「お前は陸軍の経験があるから海兵隊だ」というわけで海兵隊になりました。軍官学校で教育を受けたという ことが、私の人生を方向づけるのに大きな役割をしたと思います。