『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

沖縄県伊江島 その03 略あり

1927年生まれる
 女子救護班に所属
 壕内の集団自決によって、妹と父が死亡
 自身も救護班として日本軍と共に行動

[1] 戦争が近付いてきた 02:56
[2] 近付いてきた米軍の上陸 03:35
[3] 救護班 03:36
[4] 壕を去った兵士たち 04:02
[5] さく裂した手りゅう弾 08:26
[6] 戦争を振り返って 01:48
[7] ウートートー 03:12


[1] 戦争が近付いてきた 02:56
島の暮らしはみんな畑したりであった。17歳かね、青年学校ってあったよ。1週間に1回ずつ訓練しよった。軍曹がよ。訓練受けさせよった。

Q:どんな訓練でした。

回ってよ、「右へならえ」と言われたらまたこんなにして、こんなしよった。またそうして工事始まったから。

Q:タケさん、他にはどんな訓練しました、学校では。

今度はまた朝5時ぐらい、朝起きショウライといって回りよった、伊江島1周しよった。

Q:これは何のために伊江島1周していたんですか。

これは朝のしっかりするあれだったはず。乱れないようにみんな、しっかりさせる訓練だった。

Q:毎朝ですか。

いえ、1週間に1回、毎朝ではなかった。

ただ天長節、向こうには「君が代」を歌ってよ、敬礼してしよった。このときは校長先生が開けられるときに、みなさん、敬礼して厳しかったよ。

Q:何に向かって敬礼しなさいと。

写真、天皇陛下の。学校の2階にあったから、学校の。みんな開けられるときに最敬礼して、「君が代」を歌って卒業式なんかしよった。天長節とだったはず。うちは6年まで歩いたから。


[2] 近付いてきた米軍の上陸 03:35
これたちは行っていた。またビラよ、アメリカたちが飛行機から落としたわけ。「わたしたちは住民との戦ではないから、住民は隠れておきなさい、兵隊との戦争、戦だから」といってビラ書いてあったよ。書いて落としてあったわけ、アメリカ達が。これまたわたしはまた持ってきたから叱(しか)られてよ。「これ捨てなさい」って。

日本兵に。「これはウソです、捨てなさい」って言われた。本当に叱られて。外にみんな落としてあったからよ、これもってきたわけ。見せたから、「これ捨てなさい」と言われた。住民に見せに持ってきたわけ、落ちているのを拾って。捨てた。あとからおかしい、思い出したらおかしい。

あのときは何もできない人が家にいた。みんな飛行場つくりに出よったから、作業。1週間、1週間交代して。

Q:ほとんどの人が。

はい、ほとんどの方が。うちはまたうちのお父さんの兄弟のおじさんが飛行場の2工区の班長であったわけ。だから朝5時にうちの馬に草やって、早く起きなさい、もう時間だよと言われて、一緒に連れて行かれよった。朝5時。歩いていきよったんだから。

Q:飛行場まで。

遠いさ。1里くらい。何里くらいあるかね。遠い。朝5時にすぐいっぱい、道のいっぱい。そこについて、弁当持ってよ。

5時までやった。だからまたこの後から、うちはニセーの公民館で兵隊さんたちが井川隊炊事よ、炊事するから米つきやらないねといったから、飛行場に行くよりはといってこっちに入ったわけよ。こっちから家通って歩かれるさ。遠くないさ、あんまり、公民館、こっちの。今アパートあるところ。向こうだから米つきに行きよった。5名女、5名頼まれてよ。このうちからうち1人生きている。みんな亡くなられている。

戦争でみんな亡くなって。うち1人が生きている。そしてあの城山の、今うちあるさ、お店。向こうで衛兵5名立ちよったよ。敵機見るもの、空襲くるといってこの望遠鏡で見るわけ。また来たら「敵来たぞ」してよ、ラッパで。そしたらみんな壕に入ったわけ。わたしたちは5名の弁当作ったら、向こうの兵隊さんたち持っていきよった。あげてまた帰ってくる。


[3] 救護班 03:36
これあんたたちが来たら、また思い出す。忘れようとしても忘れられないさ。忘れられないよ。あのことは。大変。そうやってまた壕(ごう)に入ったから救護班よ、17歳からだった。うち18歳だったわけよ。救護班とられたわけよ。1分隊2分隊といって分かれてよ。うちとマサコさんとサヨさんいたかな。ハツエさんも一緒だったわけよ。それで准尉と言いよったかね、兵隊さんの救護班。あの人が全部教えよった、壕の中で。「ケガしてきたらこんなにしなさい」と言って、教えられたわけ。

Q:壕の中で。

救護班。カバンみんな渡されていたわけ。消毒も薬も。

上陸しないうちはご飯なんか隣りの家でやりおったよ。やって持ってきよったが。

Q:壕の中に。

はい。人の家でやって。壕の中ではできない。火燃やされないさね。これぐらいあったのに。あったからよ、できない。隣りの家で借りてよ、やりよったわけ。あの壕のときも発破で掘りよったはず。みんな石さ、掘っていくさ、100メートルぐらいないかね。

Q:長さが。

うん、そんだったからずっと西まで掘っていきよったからよ。このぐらい、幅はこのぐらいだったはず。だいたい横にランプつけるの、座らすの、穴掘って、座らせて。小さいランプよ。大変だった。

うん、わたしは炊事。炊事してよ。城山に持っていったり、弁当持っていったり、またご飯炊き、米つきしたり。玄米だったから。玄米すぐもう大きなあの2人でよ、つついて交代交代して、5名いたから。また配給よ。野菜なんかつくってまた持っていきよった、兵隊さんたちに。徴用されよった。そうやってうちなんかは粉醤油(しょうゆ)もみんな内地からきよった。食料よ。シイタケなんかよ。あれみんな初めて見た。


[4] 壕を去った兵士たち 04:02
家族の写真持っていらっしゃる人は写真もっていて、うちたちに見せられよった。「うちの家族だよ」と言って。ここまで生きてくると思ったら、いい兵隊さんの名刺なんかとればよかったねと思って。したらお礼しに探しよったかねと思う。ジョウ軍曹のことは忘れられない。

Q:その写真見せたときは自分の家族のことを話していたんですか、その人は。

はい、家族を話されていた。

Q:なんて言っていたか覚えていますか。

もうみんなもう戦争だから、もうみんな別々に頑張ってねと言って、写真の頭なでられていた。もう頑張りなさいとね、わたしたちも頑張るからと言われていた。言われる人もいた。あのときはもういっぱいで涙も出なかった。

Q:どういうことですか。

(略)