『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

沖縄県伊江島 その01 略あり

1936年生まれる
 壕内で日本兵が青年義勇隊の青年に弟を殺すよう命じたが拒否したため、母が弟を殺した。日本軍が手りゅう弾を配る場面や集団自決の現場も目撃。

[1] のどかだった戦前の暮らし 02:29
[2] やってきた日本軍 06:02
[3] 十・十空襲 06:31
[4] 米軍上陸 01:37
[5] 軍民混在の避難壕 05:59
[6] 渡された手りゅう弾 15:58
[7] ひょう変した日本兵 02:34
[8] 追いつめられた「母」 06:09
[9] 人の心を変えてしまう「戦争」 07:52


[1] のどかだった戦前の暮らし 02:29
わりと戦前のうちも、なんかうちの父は戦前の家に凝っていまして、あのままを作るんだというような感じで、だからこの家も釘(くぎ)1本も使わずに作られた家なんですよ。だからわりと、下男も2人ずっと雇っておられて、だからわりといい暮らしだったかもわかりませんね。

Q:なんか楽しい思い出ってありますか、戦前。

ええ、楽しい思い出は、トミコと私はいつも遊んでいた。

Q:友だちですね。

はい。亡くなっちゃったんですけどね。あれも心が痛くて大変なんですよ。

いや、とっても楽しかったですよ。遊びに行くのも、親たちと一緒にお弁当を持って畑仕事に行く時はたくさんあったんですよ。馬車で行きますので、お弁当を作って行きますので、そこで、畑で花を摘んだり、チョウチョを追っかけてみたりとか、また野イチゴなんか摘んだり、とても楽しい思い出がいっぱいあります。

Q:じゃあ、本当に平和な暮らしだったんですね。

平和な暮らしだったです。生活レベル文化が進んで、それはわかりませんでしょう。だからなんと言うか、とても、あれには戻れないけど、もう一度ああいうのをなってみたいなとは思うんですけどね。


[2] やってきた日本軍 06:02
日本軍が来たっていうことで、日本軍が行進したりということは見たことないですけど、島に入り込んできて、ずっと道を歩くと兵隊さんとよく会って。でもあちらのほうがとっても、やっぱりあれは、田村部隊は中国あたりのどこからか来たんですよね。そうしましたら、やっぱりあちらのほうから話しかけてくるんですね、兵隊さんが。

Q:なんと言って話しかけてくるんですか。

「こんにちは」とか言って、「年はいくつか」とか、「学校へ行っているの」とかね。そして、あのころは方言ですから通じない場合もあったりして。

Q:じゃあ、いわゆる怖いっていうイメージは…。

いや、なかったですよ、最初は。

Q:あ、怖くなかった。

うん。日本の兵隊さんって、とっても。とにかくですね、上陸して戦争になってからが人間が変わるんですよ。

Q:じゃあ、まさに来てすぐの日本軍の人たちの印象ってどういう印象でしたか。

印象って、来たときには、ゴウシ軍医がすぐここに来るから片付けてっていう役場からの指示があって、大急ぎで向こうは、ここでは母が機織りしていたんですよ、それを全部片付けて掃除して、お迎えすることをしました。そしてすぐ来られて、「よろしくお願いします」ということでしたのでね。そういうあれで、とても良かったですよ。

優しいんですもの。やっぱり家族と言うか、住民と話せる、あちらも恋しかったんじゃないでしょうかね。

気持ちが楽になるんじゃないですか。あれではあるけど家族がいるわけで、その中に入ってこられたような感じですからね。当番兵がひとりついてて、女房みたいにお世話する方がおられましてね。そういうことでしたから。

Q:並里さんたちにとって日本軍の人たちっていうのは、まだそのころは、やっぱり自分たちを守ってくれる人たちだって。

そうです。

Q:どう思っていたんですか。

守ってくれる。そして住民も協力しないといけないっていうことなんですよね。

だって、日本国が負けたらあれでしょう。まあ、負けるということは全然。神風が吹いたりとかね、天皇陛下神の国天皇陛下のために負けてはいけないというあれだったと思いますので、皇民化教育、私たちもいろいろと、やっぱりそういうふうになっていくわけなんですよね。

そうなんですよね。だから伊江島の場合は、地上戦の中でも、飛行場がありますので、沖縄地上戦を予想したんでしょう、日本軍は、それで住民、できるだけ本島のほうに疎開するようにということでしたけど、うちはもうちょっと病気したおじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、みんな子どもで、お母さんは赤ちゃんができたばっかりでしたから。

Q:とても疎開できるような状態じゃなかった。

はい。できる状態じゃない。船もたくさんあるわけじゃなくて、これも交渉しないと…。だからそういうのもあって、行けなかったんですよ。もうやっぱりどうしようもなかったですね。

Q:島に取り残されちゃったっていう感覚はありましたか、そのとき。

ありました。

私は子どもでしたから、友だち、学校のクラスの友だちなんかもみんな疎開して、誰も疎開した、誰も疎開したっていうことになっちゃって、取り残されたっていう寂しさって言うかな、そういうのがありました。


[3] 十・十空襲 06:31
ちょうど、あれは10月だから、その日は学校に、普通と同じように学校に行ったんですよね。どこらへんでしたかね、向こうにちょっとお店がありますよね、あちらへんに来たときに、飛行機が飛んできたんですね。3機ぐらい飛んできたら、とても朝日にキラキラしていてきれいだったんですよね。もう真っ青な青空でしたから。飛行機がちょっと高く飛んでいたんですよ。「あ、飛行機だ。きれいだね」とか言って見て、1、2、3って数えたりして。そして日本の飛行機だと思っていましてね、みんな手を振って「万歳」とか言って手を振って、ちょっと通り過ぎたような感じがあったんです。突然低空してきて、機銃、パラパラっとやったんですよ。そしたら誰か「空襲だー」って言ったんです。5、6名でしたかね、一緒に、できるだけ登校する時には揃って登校するようにということがありましたので、たぶんお兄さんだったと思うんですけど、「空襲だー」と言ったから、もうすぐうちに、みんな駆けだしてうちに帰ったんですよ。そうすると母がここの門に、心配して立っていたんですね。
   そしたらこの豚小屋、馬小屋のここ、ここはもう壁なんですけど、うちのあれを掘ったらみんな石が出てきたんですね、簡易壕(ごう)を作るって。みんな簡易壕を作れっていうあれがありまして、屋敷に。うちはちょっと石ころがありまして、こちらへんに作ろうとしたんだけどダメでしたので、ここに、お隣さんに許可をもらって簡易壕を作ったんです。

Q:そこに隠れて。

すぐそのときはそこにすぐ入って。でも、ちょっと掘って、おじさんがいたので、母のお兄さんが作ってくれて、私たちもみんな加勢はしましたけど、土を出したりはしましたけど、作って。上のほうは、フクギとか周囲の木がいっぱいありましたのでこれを倒して横に置いて、そして雨戸をまたどこかから引き抜いて、それをこの木の上に置いて、土を盛ってですね。

(略)