『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

M軍 その17 略あり

1923年熊本市に生まれる
1940年満州国軍 軍官学校入校
1942年陸軍士官学校を卒業。満州国軍 第4高射砲隊に配属
 その後、航空科に転科、奉天文官屯第2飛行隊に配属
1945年終戦後、居留民の保護、引き揚げ業務に従事
1946年帰国
 その後は農業機械メーカーなどに勤務

[1] 満州国軍 軍官学校へ 02:59
[2] 他民族との生活 04:49
[3] 高射砲から戦闘機へ 04:19
[4] 出撃間際の終戦 05:07
[5] 部隊の解散 07:12
[6] “青春をかけた”満州国 06:16

[1] 満州国軍 軍官学校へ 02:59
Q:実際そのね、行ってみて、最初に満州に着いたときの印象って覚えていますか?

うん、何しろ寒かったね、1月なもんだから。それで着いたすぐにね、大連だったと思うがね、着いたところがね。で、あの、苦力(クーリー・単純労働者)なんかおったもんだから、私らはビックリしたんだけどもね、日本にね、あんな苦力なんかおらんもんだから。だけど、あとはもう、雪の広野を新京(現・長春)まで、そのまま行ったからね。

Q:軍官学校って、そのときもう完成していたんですか?

うん、建物自体は、まだ完成していなかったですよ。2期生のときに本部なんか完成したんですよ。だからあの、本部が完成してからね、満州国の皇帝陛下(溥儀)が来られて開校式をやった。私たちのときは、まだそこまでは、いっとらんだった。

Q:そのね、満州、軍官学校って、その日系、日本人、満系鮮系って、他の民族の方もいるわけですよね?

そうそうそうそう、うん。

そうですね、やっぱりあの五族っていうかね、で、私たちがあのなんていうか、そういう満系の人たち(満州在住の漢族・満州族などの中国人)とかを、ええと、なんていうかね、芯から付き合うたのは、やっぱり私が部隊に行ってからです。

Q:学校にいるときは、そんなに。

そんなにはもう、うん。もう同期生でだけがね、しっかり親睦を深めたけども、満系とはそういう風にあんまりはなんていうか、親睦はなかったですね。


[2] 他民族との生活 04:49
Q:一緒に生活するようになってから、満系の人って、やっぱり日本人と色々違うところもあるんですか?

人間的にはそう変わりゃせんよ、ね。

満系についてはね、そうあんまりないけどね、ようついてきてくれたことは感謝しとったですよ。もう一緒になってね、朝夕一緒になって訓練なんかにも、やったもんだから。だから私の通訳なんかしてくれた下士官てね、そういう人たちはよう覚えてとるけども、特にその、印象ということはないですな。

まあ、お互いね、情かければ、それだけ向こうもね、赤裸々に色々相談なんかもしてくるしね。もう、お互いやっぱり親身になってやったですよ、そのころはね。

Q:よくついてきてくれたなっていう感謝の気持ちっておっしゃいましたけど、ついてきてくれないかもしれないっていう気持ちもあったんですか?

そらね、なんていうか、私と同じね、中尉だったかな、満系の中尉の人がおったもん、部隊にね。だけども、その人とはあんまり話をしたことがなかですよ。だから、難しいなと思った。

Q:なかなかこう心が通わない。

うん、通わないというかな、そういうような気持ちがあったですね。

Q:そのね、なかなか話をする機会がないっていうのは、例えば、本松さんから話しかけたりすることもあるんですか?

うん、もちろん同じ部隊だけどもね、やっぱりそのなんていうか、遠慮というかそういう・・その人は部隊でもね、もう結婚しておられて、時々家に帰られたりなんかするもんだからね。もう私らは独身でなんていうか、もう兵隊と一緒にね、おるっていう・・そういう人たちは、やっぱ兵隊ともあんまり、なんか付き合いがなかごた感じのしてですね、なかなか難しかったね。

Q:ホントは、理想は日満一徳一心ですね。

うん、そうですけどね、なかなか。

や、どうかな、難しいな。やっぱり、「おい、貴様」っていうふうな仲には、どうしてもなれんだったですね。

なんかね、日本人だったらもう、「おいっ」て、言いたいくらいの気持ちだけれども、そりゃなかなか。満系の人たちだったら、こっちがなかなかね、そういうことはできんかった、普段、雰囲気だったと思います。


[3] 高射砲から戦闘機へ 04:19
高射砲隊もね、なんていうか、ほとんどの部隊がね、新京とか奉天(現・瀋陽)とか鞍山(あんざん)とか本渓湖とか、軍事基地とかね、その、重要なところにも全部集まってしまったんですよ。だから、我々の昴々渓(こうこうけい)なんかは北のほうにおったんですけども、ハルビンの部隊も昴々渓も牡丹江も全部もう南満の方に集まってしまって、そして、戦闘に参加したんですよ。

鞍山の鉄工所とかね、撫順(ぶじゅん)の炭坑とかね、いろいろ。本渓湖とかね、そういう重要施設の防空に当たってきたんですよ。

Q:アメリカ軍が空襲に来ているんですもんね。

うん、そうそうそう。

Q:空襲も経験されているわけですよね、高射砲隊にいらっしゃったときに。

いやいや、私はね、豊満ダムにおったもんだから、奉天に来たことは知らんとですよ、うん。だから、そういう南満の重要拠点に全部、ほとんど全部の高射部隊がおって、私たちは豊満ダム。

ただ、惜しむらくね、その、武器が旧式だったんですよ、満軍は。

旧式っていうか、7サンチ砲だったんだ。7サンチ高射砲だったんですよ。

Q:日軍(日本軍)は違うんですか?

日軍はね、12サンチ砲とかね。なんていうか、日軍の25センチ砲ができたのは、もう終戦ちょっと前。だから、12サンチ砲が日本軍のあれだったでしょうね。7サンチ砲では1万メートルを来る敵機に対しては、どうしようもなかった。

Q:どれぐらいですか? 弾の大きさが。

7サンチです。7サンチ半。だから高射砲もですね、もう、なんていうか、日本軍も同じですけども、もう、4門が一所帯ですもんね、1個中隊だけど、1所帯。で、もう弾幕射撃ですて。当たればよしで。だから、高度をかいて、こう弾幕射撃。ね、そうすと、敵が入るかもしれんていうかね。前は1機、1殺ね。1発必殺で、その敵に対してね、1発でやりおったけども、もう、あとはもう弾幕射撃、ダーッと。

Q:ひっかかれば。

ひっかかればよし。敵ももう、高度1万以上の高度で来て、爆弾落としていたからどうしようもなか。じゃけん、春日君(春日園生中尉)たちがよくもまあ、1万メートルのとこで(米軍機に)体当たりしたなと思う・・そうとうな技術がいるですよ、うん。

(略)