『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

沖縄県伊江島 その02 略あり

1928年生まれる
 青年義勇隊に所属
 指揮班と呼ばれる中枢部隊に配属される
 米軍への切り込み・最後の総攻撃に参加

[1] 静かだった戦前の島の暮らし 02:12
[2] 帰郷 04:49
[3] 飛行場造り 02:48
[4] 十・十空襲 02:41
[5] 昭和20年 03:49
[6] 壕堀りの日々 02:39
[7] 米軍上陸 01:42
[8] 夜襲 03:36
[9] 最後の突撃 03:31
[10] 本部半島への脱出 03:16
[11] 家族との別れ 08:01




[1] 静かだった戦前の島の暮らし 02:12
振り返って考えてみますと、当時は伊江島の場合は米っていうのはないんですよ、稲は。イモだけですよね、主食は。そのイモを食べてお汁と食べて、野菜を作って、野菜を作った、お父さん、お母さん作ったものを、米というのはなにか風邪をひいたりするとようやくおかゆを食べたような状態の島の生活でしたね。これは金持ちの家はいざ知らず、うちなんかは貧乏だったもんで、あまりぜいたくな食事っていうのはなかったですね。

Q:何か当時の楽しい思い出っていうのはありますか。

そうですね。あのころは子どもですから、家にいるわけですからあまりそういったことは思い出せないですね。

Q:でも平和な暮らしではあったわけですね。

そうです。本当にのんきな島でした。あのころは今のような電気はないでしょう。ランプ生活ですからね、今のような電気のある世の中だったら勉強もできよったけど、夜なんか勉強もあまりできなかったですわね。家庭によっては変わると思うんですが、うちの場合はそういう生活でしたね。

Q:町の人たちは仲良かったですか。

もうあのころの人はみんな仲が良くて、ここのお家がなにかあったらみんな集まって。


[2] 帰郷 04:49
志願したのも、当時はもううちは貧乏だったものですから、兄さん2人はみんな兵隊に行って、家族は、お父さんも亡くなって、あ、お父さんはまだ亡くなっていない、あのときは。うちを助けるためになんとかやろうという気持ちがあったもんで、産業報国隊というのに志願したんですよ。そして行って、1か年ならないうちにおやじが亡くなって、そのときに島に帰ってきて、向こうからしょっちゅう催促来たんですが。

当時は僕も将来はぜひ兵隊さんになるんだという気持ちですから、内地の神戸では既に青年学校。向こうでは1週間は学校、1週間は工業の働きだったんですよ。そうして、ちょうどそうしてやっているあいだにおやじが亡くなったと言ってきたもんですから、帰ってきて、焼香して、1か月休暇をもらって帰るつもりだったんです。ところがお母さんは、おやじもいない、兄さんたちはみんな兵隊ですから、いないもんですから「君さえいなければ大変だ」と、もう大変だということで言われたもんですから、それをお母さんの言うことを聞いていたら、たまたまその学校から、「青年学校から独立して、ぜひ青年学校から入らんか」と、あるいはまた兵隊に志願しないかという特例があったんですよ。そうしている間に戦に、伊江島が戦にあったということですね。

Q:沖縄の伊江島の青年学校でどういう教育を受けましたか。

あれは今は恥ずかしいぐらいです、本当に。竹やり訓練ですよ、竹やり。訓練はしょっちゅう竹やり訓練。

Q:どんな竹やり訓練ですか。

あのときは竹やりでもういちばんでしたね。今考えるとバカな訓練だったなとしか思えないですね。

Q:竹やりは、どんなあれにどういうふうに向かっていくんですか。

伊江島にはあのときは竹はなかったんですよ。本島から来ている竹を、先を全部削って、立派に、それで火を焚(た)いて油で焼くんですよ。その油というのも豚の脂ですね、豚油、あれを塗ってそれで炙(あぶ)って、その先を強くするわけですよ、硬くして。それが持っている竹やりなんですよ。

Q:それで突くんですか。

そうですね。この竹やり訓練は、今の中学校の校庭にルーズベルトチャーチルのワラ人形があるんですよ。これに向かって「突っ込めー」と言って、向こうへ行ったら「やー」「やー」でやるんです。あの訓練ですね。それで当時の訓練はこれだけじゃなくて、急造爆雷を投げる練習を、戦車のほうに、ちょっと模型の箱をこさえて急造爆雷を戦車の8メーターのところまで行って、下のほうに投げると。そして引っ込んでいくと。そのさく裂は約40度ですかな、このさく裂で死ぬ心配ないと、だからこれで伏せってやったらいいというふうな教育だったですね。これがだいたい1週間、1、2回はしょっちゅう訓練があったですね。


[3] 飛行場造り 02:48
僕はちょうど19年の3月に、4月ごろに伊江島に、おやじが亡くなって来たもんですから、ちょうどあのころ、内地にいるときはよく手紙がきよったんですよ。手紙の中には「○○工事」ってあったものですから、何かな、○○工事って、あのころ内地ではそう思ったわけ。ところが島に帰ってきたら、やっぱり飛行場造りなんですよ。この当時の工事との関係は秘密で、漏らしたら大変だって。そうして帰ってきて飛行場造りも、島の若い者はほとんどやっていますから、僕もたまたま行ったことがあります。そして行っている間に十・十空襲やなんかあって、もう青年学校に入って、先ほど申し上げた訓練なんかもいたしたんです。

Q:びっくりしませんでしたか。島へ帰ってきて大きな飛行場が。

そうですね。もううちらが飛行場つくるって、今で考えると本当にオモチャみたいな仕事なんですよ。2人でモッコを担いで伏せて、あのときトルっていうのもあったんですね。

石。ガンが出ます。それを発破、爆破して、こうしてやっていたんですね。

Q:きつかったですか、当時の飛行場建設は。

そうですね、今考えるとあのときはトラックもないですからね、ユンボもないし、人手、ツルハシで耕して、鍬(くわ)で、そして運搬してやっているからもう大変。今考えても本当に子どもの。子どもがあんな考えないですね。こんなことを申し上げて失礼かも知れませんが、あの当時の日本の偉い方々は何を考えていたのかと思うくらいですね。

日本軍が入ってきたらもう歓迎ですよ、もうやっぱり伊江島を日本軍が守ってくれるんだという気持ちで。それは僕の考えですよ。ああ、やっぱり兵隊さんが来ていいなとしか考えてなかったですね。歓迎ですよ。


[4] 十・十空襲 02:41
十・十空襲はですね、ちょうど朝なんですね。もう時間的にははっきり覚えていないんですが、7時過ぎだと思うんですが、8時かな、ずうっと上空で飛行機が旋回しているんですよ。いやあもう、うちには少尉もうちの家に宿していますから、うちの少尉も「いや、日本軍が演習しているな」と、全然兵隊さんだって演習って言っているんですよ、日本軍のね。それで、ああそうかって空を見て喜んでいる間に、(略)