1915年新潟県に生まれる
1931年東京陸軍幼年学校入学 その後、士官学校入学
1943年陸軍大学卒業 東部ニューギニア赴任、第51師団参謀を経て第18軍参謀
1944年アイタペ作戦当時、陸軍少佐
1945年終戦
1946年神奈川・浦賀にて復員
復員後は、陸上自衛隊に勤務、西部方面総監などを歴任
[1] 「ニューギニアの戦い」とは 03:59
[2] 繰り返された転進 04:38
[3] アイタペ作戦 03:54
[4] 攻撃の出遅れ 04:06
[5] 終戦 10:12
[6] 捕虜になるということ 06:46
[7] 集団投降で捕虜になった部隊 03:47
[8] 「ニューギニアの戦い」とその後の人生 03:35
[6] 捕虜になるということ 06:46
まぁ言うまでもありませんけれども、「わたしたちは捕虜になることが、いかなる事態においても、捕虜になることだけは、いちばんの恥である」という気持ちが強かったわけですね。それが身にしみていたわけですね。その人に対して本当に同情しながら、やっぱりあれですね、もう戦争終わったし、「そんなことは、もう、まったく懸念しないで帰って、国に帰りなさい」とは言い切らなかったということはね、今でも、時々、思い出して胸を打たれてます。
Q:当時の「捕虜になってはいけない」という気持ちはどれぐらい強かった?
捕虜になったら。捕虜はもう最大の恥辱だ。ニューギニアでもね、本当にね人事不省で、捕虜になった人がたくさんおります。終戦後、わたしは帰ってからしばらくの間、残務整理をやってるときに、豪州から東部ニューギニアで捕虜になった人が帰ってくると。そうすると、1人ずつ面接をしたことがあります。そのときも、本当に、1人ずつかわいそうですよね。本人の全く意思じゃなくて、ほとんどの人が捕虜になってるんですから。もうそのときにおいては、もうわたしも気持がだいぶ変わってましてね、戦争直後とは違いますからね。内地の土を踏んでしばらくたってますから。そういう人と接することができましたけれどもね。ウエワクで接したその将校に対する思いはねぇ、今でもねぇ本当にわたしの心の中に傷を残してますねぇ。もう、顔ももちろん名前も聞きませんでした。向こうも言いませんでした。出生も何も言いませんでしたし、わたしもあえて聞きませんでした。ですからそのまま何も知りません。どうなってるかも知りませんですけれども。心の中では、そこまで言いませんでしたよ、もちろん言いませんでしたが、心の中では、どんな状況であっても捕虜になって、将校として、生きて帰れるかと。そういう思いがありましたからね。わたしは。
Q:そういう思いとはどこから生まれてくるものなんですか?
どこから・・・それはもう軍人として当たり前だと思ってましたからねぇ。そんなの。「捕虜になるほど恥辱はない。」と思ってましたね。「捕虜になるならもちろん自分で自決する」と。そう思ってましたから。それは、ほとんどの当時の日本人に共通した思いだったと思いますよ。
わたし自身はね、あのときにね「はっきり胸を張ってね、ちゃんともう戦争は終わったんだから、それであとは、人事不省のところをそういう不幸にあったんだから、胸を張って国に帰りなさい」と、はっきりそこまで言い切らなかったっていうことに対してね、わたしはやはり。一方においてねぇ、当時の軍人、一般の考え方からいえばねぇ、当たり前といえば当たり前なんですよね。それは当時。けど、今にして思うとね、酷だったな。本当に。
Q:その終戦後の残務処理のときに、お話された何人かの人たちは、どんな状況であったんですか?
ぼくが会って話したのは、たとえば、いちばん最近は当時の最近はアイタペ作戦の坂東川(ドリニュモール河)Sでね、そのままで、重傷でおって、そのところを豪州軍に収容されたってのがあったんですね。それからそうですね、やっぱりあれですね、行軍中に落伍(らくご)して、それでそこで何と言いますかね、倒れているところを土民軍に収容されてそういうのが多かったですね。ニューギニアに関する限りではわたしは、自ら進んで捕虜になったというのは聞いていませんから。だからね、わたしはね、あれだけの苦しい戦場でですよ、あれだけの苦しい戦場でそれがいなかったことについてはわたしは誇りに思ってるんですよ。軍人として。当時の軍人として。
[7] 集団投降で捕虜になった部隊 03:47
Q:お尋ねしづらいのですが、41師団の戦後の記録にアイタペ作戦の後、山南邀(よう)撃作戦に移ってから、大隊長ごと戦場逃避事件というのが記載されているのですが。
僕はあまり聞いていないですけど。
Q:竹永中佐っていう人のことなんですが。
僕は聞いてませんそれは。もしそれが本当だっつーと僕が、僕の思いは違っとった、裏切られてる。僕の思いが裏切られてる。ということになると思いますけれどね。
Q:戦史叢書の中にも、名前は伏せられているんですが記載があるのですが。
そうですか。じゃあそうかもしれません。そうならば。わたしは「今までおらなかった」と信じてましたからね。
やっぱり当時の軍人の気持ちから言ってですね、捕虜になることはもう、絶対にでも恥ですから。自ら捕虜になることはですから。人事不省でなる。これはやっぱり不幸。本人にとっては運命。不幸な運命を負わされた。というふうに思ってますからわたしは。当時、思ってましたから。今も当時のことを考えるとね、そういう進んでね、そのしかるべき指揮官がですね、投降したということ。本当に残念ですね。わたしは残念です。東部ニューギニアの13万人の亡くなった人たちの思いを考えると本当に残念です。
みんな生きたいですよ。苦しみから逃れたいですよ。しかし軍人として、そういう環境に置かれて、そういう使命を帯びてやっとったならば、あるときは、心を鬼にして、やっぱり大義に生きなきゃいけないと僕は思いますね。
だから、情に厚い人だったんでしょ。というか、まぁ何て言うか、情に負けたんだと思いますね僕は。部下の苦しみに、耐えかねた。まぁ、自分自身の苦しみに耐えかねた、とは思いたくありませんけどね。みんな頑張ったんです。
[8] 「ニューギニアの戦い」とその後の人生 03:35
ニューギニアの作戦は60年前の戦いですけれども、同時に、現在の戦いだとわたし自身は思ってるんです、というのは、先ほどから言います、やっぱり亡くなった13万名の人たちに対する思いですよね。軍司令官も、そういう強い思いを持ちながら、ニューギニアの土に自ら進んでなられた。みんなもう、わたしの周辺の人たちも、亡くなってしまった。本当に13万名亡くなった将兵のことを残った一人として強く深く思わざるを得ない、ですからわたしは、靖国神社の問題、それから慰霊、遺骨収集、まぁ最後のご奉公と思ってやってるわけですけれどね。
遺骨収集は政府の手で44年から始まって、12回行ってますけど、まだ我々の手で戦後収集した遺骨が2万体になっていないわけです。現在でもまだ、原住民が畑を作ろうと思ってクワを入れるとそこから、遺骨が出てくるというような状況がございます。
「遺骨は何とか内地に持ってきてあげたい」と。こういう思いは恐らく死の床につくまで消えないんじゃないですかね。わたしなんかは、それと同時に、先ほど言いましたけど、本当にニューギニアの原住民の人たちはよくやってくれます。わたし共から見るとね、「(原住民の人たちは)原始的だけど、その、静かな生活をしとったのが、我々が行ったために、戦場になって、本当に、巻き添えをくって生活は乱される、それから、物資は吸い上げられる、それから、場所によってはですね、そこにおりました兵隊がね、赤痢になっちゃってね、それが伝ぱしちゃってね、で村が全部他の所に移るとかね、いろんな状況になったわけですけれどもね、本当によく尽くしてくれました」ですね。