1926年中華民国奉天省(現・中国遼寧省丹東市)に生まれる
1943年満州国軍 軍官学校入校
1945年在学中に終戦を迎える
1947年中国人民抗日軍事政治大学で学ぶ
大躍進政策後、山東省に下放される
その後、文化大革命で批判の対象となる
[1] 日本軍の占領 04:37(略)
[2] 軍国主義の影響 04:56(略)
[3] 中国の将来のために 04:46
[4] “信頼できる日本人もいた” 04:45
[5] 中国東北部(旧満州)の解放 02:51(略)
[6] 文化大革命 01:46(略)
[7] 交流は続く 04:14
(略)
[3] 中国の将来のために 04:46
私を含め、大体30~40%ぐらいの学生は、軍事知識を学んで祖国に尽力したいという動機で軍官学校に入りました。私もそう思っていました。軍官学校では、先輩が後輩の指導委員を任命します。私は指導委員の一人になりました。日常の態度や学課、体育、技術など、すべての面で向上するように努力しました。
日本人は、裏で取り引きすることを許さないので、本当に優秀だと思われる人が指導委員に選ばれました。私たちは指導委員を目指して努力しました。指導委員の役割はというと、後輩を指導することです。「しっかり勉強しなさい」と。「将来、日本人と日本の帝国主義を打ち倒すためだ」と教えました。
(軍官学校で)1期生から5期生までは、日本人とは別のクラスでした。毎日、東の方に向いておじぎをし、「天皇陛下万歳、満州国皇帝万歳」と叫びました。やりたくなくても、やらねばならない、お決まりのお勤めだったのです。私は夜、こっそり中国人の学生を率いて、日中戦争の前線・重慶政府のある西の方を向いて礼をしながら、「祖国万歳。一日も早い復興を切望します」と祈りました。
当時、軍官学校では日本人が決めたルールがありました。上官の命令に従うことです。中国人は上官と出会ったときは、必ず敬礼をしなければなりません。日本人と出会ったときも同じです。敬礼しなければビンタを食らいます。逆の場合、後輩の日本人の学生が私と出会っても、そのまま通り過ぎて敬礼はありません。どうしようもありませんでした。見て見ぬふりをする同期生もいたけれど、諦めない同期生もたくさんいました。同期生に王永群という男がいました。彼はもう亡くなったと聞いています。奥さんは今台湾に住んでいます。彼は諦めませんでした。彼は、「止まれ。なぜ敬礼しない」と言って、ビンタを張りました。日本人の学生は納得できず上官に訴えました。上官は、連隊長だったか何か、覚えていませんが、私たちを集めて尋問しました。王さんは何期生かと聞かれて、5期生だと答えました。日本人は何期かというと6期生でした。1学年下の後輩です。事情を聞かれて、その日本人は「敬礼したのに、気づいてもらえなかった」と言いました。敬礼しなかったと思われたと言い訳し、「これは横暴だ」と主張しました。王さんは、「うそつくな。こんなに多くの人がいて見えないわけがないだろう」言いました。日本人の教官の対応はすばらしかった。日本人の学生をひっぱたき、「ルールに従わなかった。記録に残す」と言いました。意味が分かりますか? このルールは日本人が定めたもので、彼ら自身の学校統治に役立ちます。軍官学校の伝統で、上級生は下級生を統制し、下級生は上級生に服従する。こうして、日本人の学生も中国の学生も統制できるわけです。
[4] “信頼できる日本人もいた” 04:45
すべての日本人が、みんな悪いかと言うとそうでもありません。一つ例をあげましょう。ある日本人、私たちの物理学の教授、彼は授業中、日本帝国主義を批判したのです。
日本人すべてが悪いと言うわけではありません。日本帝国主義者が悪いのです。日本の国民、日本の知識人、私の隣人の日本人たちはみんないい人です。ですから私は、すべての日本人に対して憎しみを持っているわけではありません。これは区別しなければなりません。
彼はもともと東京帝国大学の教授でした。日本による侵華(中国大陸侵攻)、侵略戦争に対して批判をしたのです。今の言い方で言えば思想犯です。教授は、日本の戦争に対し否定的な意見を述べたので追放されました。
彼は印象深い人です。彼の年齢は、私の見たところ30ちょっとかな、30代前半くらいでした。私は当時20歳でした。
彼は物理を教えていました。授業中、頭をかきながら言いました。「日本が戦争するのはよくない」と。「満州国? 満州国?」と言って、問題視していました。だから、私たちは彼によい印象を持っていました。彼は中国人学生にとても優しく接しました。授業中、教壇から降りてきて問題を解くのを見ながら、私たちの頭をなでて「将来 国家建設に役に立つから、よく勉強しなさい」と励ましてくれました。だから、非常に印象深い人です。
ある日本の教官は学生をよく殴りました。中国の学生だけでなく、日本人の学生もたたかれました。日本の武士道精神というものです。この教官はちょっと私たちより年上でした。彼は徴兵されて兵隊になった人ですが、あまり熱心な兵隊ではありませんでした。彼は区隊長(指導する役割)になりました。当時は貧しい時代だったので、毎回の食事はご飯一杯にまんじゅう一個、少しのおかずしかありませんでした。彼は私たちに同情して食べ物を分けてくれました。ですから、日本人にも本当にいい人がいます。
私のクラスは30人ほどでしたが、区隊長はときどき私たちを、自分の家の食事に招いてくれました。
彼の奥さんもとても優しい人でした。彼女は私たちのために、料理を作ったり、おにぎりを作ったりしてくれました。みんなを腹一杯食べさせてくれました。私としては、日本の国民はいい人たちでしたが、帝国主義者が悪かったという見方をしています。
(略)
[7] 交流は続く 04:14
Q:軍官学校に入ったことはよかったと思いますか?
はい。人とのつながりが生まれました。戦友たちとは数十年間ずっと連絡をとってきました。例えば、あなたたちも会った李(李天成)さんなどです。同じクラスではありませんでしたが、同じ理想を持って、互いに助け合いました。
だから、我々は革命に忠誠を尽くし、かけがいのない友情を育みました。私は去年、家内を亡くして丹東の故郷に帰ったとき、李さんは奥さんを連れて私を慰めに来てくれました。彼らは家に何泊かしてくれました。「落ち込まないで、長生きしなさい」と励ましてくれました。私よりも年上なのに。こんなふうに友情を分かち合えるのは、苦労をともにした友人だからです。
日本人の学友は、日本に戻って、今は、皆お金持ちです。家庭は裕福です。日本は今、経済発展により豊かになりました。彼らは毎回同窓会に来てくれました。私たちは1993年に同窓会を開きました。最後は2000年の同窓会でした。
日本の学友が来て、中国の学友と抱き合って友好的でした。歴史はどうであれ、日本帝国主義は悪いが、日本人すべてが悪いとは言えません。分かりますよね。まあ、そういうことです。
日本人の学友は会ったら、まず、「すみません、すみません」と謝ってくれます。実は、彼らの過ちではないのですが、彼らが謝ると私は抱き締めます。もし、彼らが、「当時私たちがやったことは全部正しい。中国人を殺したのは当然なことだ」と主張するなら、もう付き合いませんよ。
私たちは孫の世代に、いつもこういうふうな話をしています。「いい加減なことを言ってはいけない。日本は悪い面があるが、そんなふうに悪い面だけを見ていたら、将来、日本との関係はどうする? すべての日本人が悪いわけではない」。あなたたちも、日本の皆さんも日本に戻ったら、日本の子どもたちを、青少年一人ひとりを教え導くべきです。中国人にも長所があると教えるべきでしょう。
「日本は東北地方を14年間支配下に置き、また中国と8年間も交戦を続けました。(日本人は)東京、奈良また京都に住んでいるのに、どうして重慶へ行ったのですか! どうして四川へ行ったのですか! どうして雲南へ行ったのですか! どうして北京へ行ったのですか! どうして天津へ行ったのですか! どうして上海へ行ったのですか! どうして広州へ行ったのですか!」「食糧のため? 衣服を求めてですか?」
つまり日本の学生に「侵略」の意味を教えるのです。