『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや08 M軍 略あり


1921年
中華民国奉天省(現・中国遼寧省)に生まれる
1940年
満州国軍 軍官学校入校
1944年
満州国軍富錦36団に配属される
1945年
軍官学校で終戦を迎える
 
戦後、中国国民党に合流
1948年
中国共産党50軍50師となる
1949年
中華人民共和国建国
 
その後は、鉄鋼コンビナートに勤務

[1] 強まる反日感情 09:58
[2] 満州国軍 軍官学校へ 03:21(略)
[3] 抗日組織 03:38(略)
[4] 愛国精神 04:06(略)
[5] 政治犯を解放 01:36
[6] “行動の基準は良心だった” 03:37




[1] 強まる反日感情 09:58
私が子どものときや青年のときの話がたくさんあります。政治に関する話を3つお話ししましょう。

1つ目は、ある日私はおじに絵を見せられました。人の体に蛇が何本か巻きついている絵です。おじは私に蛇が何匹いるか調べるように言いました。私は何回も数えましたが分かりませんでした。そこで蛇を一匹数えるごとに、紙に針を刺しました。全部を数え終わって紙を見ると、21個の穴が開いていて21匹と分かりました。この絵は日本が中国を侵略して、21か条の不平等条約に署名させたこと、つまり国の恥を示した絵でした。私は“中国人が決して日本人に屈するものか”と思いました。1つ目の話です。

2つ目は、日本軍がわが故郷を占領した話です。他の村の住民を集めて、私の村に移住させました。そして、村の周囲に壁を築き、私たちをその中に閉じ込めたのです。そして村の建物を壊しました。日本人と売国奴はわが家の庭の壁を倒しました。それから家までも壊しにかかったのです。私の祖父は怒りのあまり、屋根に上って、「家を壊すなら私を殺せ」と叫びました。日本人と売国奴は激怒し、祖父を捕まえて殴りました。それを見て私は涙が止まりませんでした。何の理由もなく祖父を殴る日本人と売国奴をはじめて憎みました。これが2つ目の話です。

3つ目は私が学校に通っていたころの話です。先生からアヘン戦争や(義和団事件の際の)八か国連合軍が北京を侵略したことなどを教わりました。私たちはまだ子どもでしたが、アヘン戦争について知りました。当時学校の近くに畑があり、そこでは一面アヘンが栽培されていました。その畑を見て、私と友達は「アヘンのせいで国が侵略された。中国の土地にアヘンを植えたのは誰だ!」とアヘンを引き抜きました。中国人の土地に植えられたアヘンを抜いたのです。それを見ても畑の主人は怒ることはありませんでした。これは私が小さいころやったことです。ほかの話もいっぱいありますが、今回はこの3つをお話ししました。私の考え方の基礎になっているからです。

Q:この3つの話はあなたが10歳前の話ですか?

10歳のころです。

Q:日本軍が村に来て、あなたの家を壊したこと以外で覚えていることがあったら教えてください。

あのころとう(登におおざと)鉄梅という抗日英雄の人物がいました。その人は私の村の周りに潜んでいました。ある日、そのとう鉄梅が近くの川辺で日本軍と遭遇しました。その川は比較的大きな川でした。何十人もの日本兵が川を渡ろうとしていました。そこでとう鉄梅は日本軍を襲撃しました。多数の日本兵を殺しました。日本兵たちは逃げ出しました。けが人や壊れた車などを残したまま逃げました。日本兵は2台の壊れた装甲車を置いていきました。当時、私たちは小さかったのですが、この話を聞いて、「この人はすごい人だ」と思いました。私たちは壊れた2台の装甲車を見物に行きました。戦車ではなくて装甲車です。このときことはとても印象に残りました。これがきっかけで、私も大きくなったら銃を持ち、軍隊に入ろうと思ったのです。


またあるとき、高という自衛軍の団長が村に来て、たまたまうちに泊まりました。この団長はすごくいい人で、特に私たち子どもにも親切な人でした。私たちは彼のそばで遊んだりしました。彼は「お前たち、早く大きくなって、日本軍と戦おう」と言いました。うれしかったです。ところがある夜のこと、売国奴に案内された日本軍が村の近くの山を占拠して、村を包囲しました。私たちはまったく知りませんでした。夜明けに銃声が聞こえました。日本軍との撃ち合いが始まったのです。村は包囲され一部の村民が逃げ出しました。やがて高団長が捕まりました。日本軍は彼を縛りつけ散々殴りました、私たちはそれを見て本当に悲しくなりました。最後に彼は軍犬にかまれて、亡くなったそうです。この話を聞き、私たちは涙を流しました。日本兵への憎しみが深くなりました。私は必ず軍隊に入る決意をしたのです。


(略)

[6] “行動の基準は良心だった” 03:37
当時の私たちの方針では、(戦争の)責任は戦犯にあり、一般人にはありません。しかしそのとき、長春(当時・新京)では市民が日本人を見つけたら殺していました。私たちは彼らに「だめだ」と説明しました。「殺すかどうか決めるのはあなたたちではない。これは政府が決めるべき問題だ」と言ったのです。こうして、長春は落ち着きました。さもなくば多くの日本人が殺されたでしょう。そのとき私たちは高レベルの政策は知りませんでした。しかし私たちは勝利者としてのあるべき姿は知っていました。戦争を起こしたのは戦犯で、一般人に責任はないと考えていたのです。
(軍官学校の)日本人同級生が病気になったら看病したり、米を持って行ったりしました。同級生は驚いていました。「どうして?」って。私が「君たちは単なる実行者で、戦争の責任はない」と言うと、彼らは感動していました。

Q:軍官学校に入ったことについて、振り返ってどう思いますか?

軍官学校に入ったのは大正解だったと思います。共に学んだ仲間は皆、卒業後に活躍しています。今も生きている人は少ないですが、軍や官庁など、その他いろいろな分野で功績を残しました。

Q:軍官学校で学んだことで、最も意義のあったことは何ですか?

最初は反満抗日思想、その後反国民党の思想を学んだことで、それから進むべき道が見つかりました。

学校の経験を通し、私は“徳”を守ってきました。この字にすべてが凝縮されました。

良心が行動の基準でした。今でいうと徳になります。何をするにも徳を欠いたことをしてはならない、そう思っています。