1925年中国民国奉天省(現・中国遼寧省本渓市)に生まれる
1943年満州国軍 軍官学校に入校
1945年ソ連軍が満州国に侵攻する直前、軍官学校を脱走
1949年共産党に入党
1950年朝鮮戦争勃発に際し、対米援朝委員会の秘書長を務める
その後、長春市衛生局副局長などを歴任
[1] 満州国軍 軍官学校へ 04:16(略)
[2] 「満江紅」 01:56(略)
[3] 軍官学校からの脱走 04:35(略)
[4] 国民党に逮捕される 02:59
[5] “後悔はない” 01:35
(略)
[4] 国民党に逮捕される 02:59
ちょうどこの時期に瀋陽の東北大学が復校となり、校長に名誉校長として張学良が就任しました。そこで、私は歴史学科の2年生として、編入しました。当時は軍官学校が復校していなかったので、歴史についていろいろと勉強し始めました。自分の物事の考え方に大きな変化がありました。国内の内戦も同時に始まり、共産党と(国民党と)の内戦が始まったのです。国民党内の汚職事件がとても多くて、非常に嫌になりました。
そのとき(学校で)、同級生3人と一緒に「三人行」という壁新聞を作りました。「三人行」と名づけました。「三人行えば必ず我が師有り」(論語の言葉・三人で行動すれば他の二人の言動には必ず学ぶべきものがあるという意味)という意味のタイトルで、国民党内部の汚職事件などを暴露する目的でした。そのため、国民党の特務(スパイ)に捕まってしまいました。「八路軍(中国共産党軍)だ」という罪でした。同級生たちはとても心配して、いろんな手段を使って私を救い出してくれました。そうなると国民党が支配するエリアでは安心していられなくなるので、八路軍に参加することに決めました。
こうして、再び瀋陽からハルビンに戻って、東北軍青工部に行って呂天さん(軍官学校の先輩)を訪ねました。この人は、前にも言いましたが、反旗を翻した人です。呂天さんは私のことをとても歓迎してくれて、ちょうど人手が足りないところなので、長春大学で学生として学生の運動をリードしてほしいと頼んできました。
「好(OK)」、これは私の性格に合うことだと快諾しました。そしてすぐ長春に行き、東北大学(現・東北師範大学)に、李香云という名前で入学することになりました。専攻は外国語学科です。こうして、(中国共産党)東北軍の青工部の一員となって、仕事をスタートすることになりました。
[5] “後悔はない” 01:35
私が軍官学校に参加したことについて、今も特に後悔するようなことはないと思っています。参加してまずかったというような思いはありません。なぜかと言うと、人生というのは、何かのチャンスに出会ったらそれをとらえるべきであって、あとからやり直して、変えようとすることは不可能だからです。
軍官学校に入って、いちばん良かったことは、愛国心が強くなったということです。国を愛する思想がより強固になりました。
第二には、(訓練を受けたために)健康状況はどちらかというと良好だということです。
私のような人はまだ生きて、社会の変化を見ることができます。多少ですが社会のために何かできることがあるので、心の中ではとてもうれしく思っています。特に、中国が今後どのような方向に向かい、どこまで発展し、最終的に日本に対してどんな貢献ができるのかを見てみたいと思います。なので、後悔することありません。