『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや05 山西省 略あり

1925年大阪府大阪市に生まれる
 徴用され山口県海軍工廠で旋盤工として働く
1944年11月、岡山歩兵10連隊に入隊後、独立歩兵第14旅団独立歩兵第246大隊へ
1945年中国山西省屯留県で終戦 残留して八路軍と戦う
1946年6月復員 浪速精錬に勤務

[1] 魚雷の部品づくり 07:05
山口県の)光に海軍工廠っていって、海軍工場がありましてね。そこへ連れて行かれて。鉄工所でちょっとぐらい旋盤ってもんを触って経験があったんで、割合苦労せんとそこでは仕事、仕上げるものをあれですわな、もうやっぱり大分ひっ迫してたんか、僕らが行ったとこは、航空魚雷っていって飛行機に積んでいく魚形水雷(魚雷)って、こんな筒でスクリューがついてる、前に爆薬つけてね。それの僕らはエアタンクを造ってたんです。今考えたら、なんであんな不細工なことしよったんかなと思って。今やったら鉄板をね、溶接するなり、リベットでかせぎよったら簡単にできるのに、こんな分厚い鍛造もんのね、筒をこしらえて、それをボーリングでガーッと削って、このぐらいに薄くしてね。それでエアタンクこしらえて。僕らはエアタンク造る工場やったから、それ以外のはもう全然。他のがあんまり立ち入りさせてもらえないし。そんな知ろうとも思わないしね。それでまあ、そこで2年時以降は働いてたと思います。そこで徴兵検査を受けないかんなって、徴兵検査受けて。甲種合格だったんで、いずれ兵隊に行かないかんことなっとったら、19歳で1年やっぱり繰り上げで入ると検査受けるもんですかな。それで現役召集っていうんか、なんかあの、普通召集で来る人は赤い紙です。僕らはピンク色みたいな感じでね。それで何月何日に岡山なら「岡山の連隊に集合せえ」っていう命令書みたいなんが来てね。それでそこで11月1日入るのに、10日間ぐらいなったら家帰りたいなって思ってたら、その時分になってから、工廠の方から「3日前に帰らす」って。そんなもん兵隊に行ったら死んでまうのにから、家帰るのに3日前まで帰らしてくれんような、そんなもん、「わし帰るぞ」言うて。それでもう手続きも何もせんと、一つ山越えして、他の駅から汽車に乗ってね、帰ってきたんです。憲兵隊に捕まらないでね。山の中の家帰りついて、河原へ出て、10日ほど気楽に。母親も、何もないながらのまま、その当時にしては御馳走食べさせてね、腹いっぱい食べさせてくれて。暇やったら軍人勅語でも習っとこ思って、軍人勅語習ったり。その当時の僕らの生活はそんなもんでしたからね。

Q:でも普通だったら20歳で入隊するのが1年早くなっちゃったんですよね。どう思いましたか?そのころは。

しょうがないなと思ってましたよ。僕らはだいたい子どもの時分から軍国少年だったからね、

僕の父親も昭和13年くらいのバイアス湾上陸作戦(広東攻略作戦)、南シナの方でバイアス湾上陸作戦っていうのがあって、そのときに39歳で召集がかかって、子どもがあの当時僕がいちばん上で4人おって、そして母親の腹の中に5番目の子が、大きな腹しとったから5か月くらいの子置いて、戦地行ったんです。そやから、それでもそんだけに僕らもつらいことはつらかったし、不安やったけども、母親は女やからね、「名誉なこっちゃ」って。

こんなこともありました。姫島(阪神電鉄の駅)いうとこ、この千船(阪神電鉄の駅)の一つ梅田に近いんですけど、あそこにおったときに、出征する兵隊さんを青年団が送るわけですわ、ラッパ吹いたりして。それから今度は戦死した人の遺骨抱えてきだしたんです、段々ね。何年兵だったかはっきり覚えてないんですけど、遺骨帰ってきたら駅まで迎え行きます。母親が「お前、家のことも手伝わんと、ようもう青年団もあるで、遺骨迎えに行くな」って言って。「そりゃお母さん、わし今迎えに行っといたら、わしが征って死んだらまたみな迎えに来てくれるから。だからわし迎え行くの当然じゃないか」言ったら、そしたら母親が「帰るかい」って怒ってね。「なんちゅうこと言うんだ」って言ってね。「もう親父が戦争行ったときに大概もう心配さしたのに、また子どもがお前、戦死でもするようなこと言わんといて」って母親が。それ世間では普通タブーですが、あの当時はね。それが親の気持ちになってみたら、母親の気持ちも分かるわなって思ってね。


[2] 19歳で戦地へ 08:36
Q:則本さんが軍隊に入隊したのはいつぐらい?

19歳で。1年繰り上げで、19歳。11月30日生まれだからどないなるのかな、11月1日に入ったんです。19歳の、だから満19歳のちょっと前ですね。30日になったら19歳だから。19歳ですわな。

Q:そうなんですか。

それが1年繰り上げで。普通で、さっき言ったように20歳で徴兵なるのが、兵隊が足らないからだか知らないけど、19歳で、僕らは1年繰り上げで行ったんです。

Q:それは何年くらいの話なんですか?

昭和19年、11月1日に岡山の48部隊へ。昔の10連隊っていうんですかね、そこへ入隊して。それでそこで1週間おったんです。だけど兵器の何にも、そこでは支給されんと、帯剣をもらったんかな。帯剣といって歩兵らの短い剣をここにぶら下げてますけど、あれと、軍服はラシャ服の真っさらのを着せてもらったんだけど、あまり靴がなかったのか知らないけど地下足袋でね。それで巻脚絆といって足にヒモみたいにぐるぐる巻いて。1週間おって、11月6日だったと思います、岡山を出発して。そんで下関から関釜連絡船で釜山へ渡ったんです。

Q:なんか昭和19年って言うと、今振り返るとずいぶん負けるのはそろそろ分かってそうな。

もうね。そやけど僕が乗ったときは、まだ内地の空襲があまりなかったんですよ。僕がまだ内地におったときは。だから僕らはうまいこと空襲を逃れて山西省の方へ渡らなきゃ。空襲逃れていったもんで、空襲なんか全然知らないんです。

Q:じゃあそのころは、まだそんな負け戦になるなんて思っていなかったんですか?

上の方は分かっとったんだろうけどね。庶民はちょっと調子悪そうやなって思っても、負けるとはみな思ってなかったし、20年の8月のときでもみな負けるつもりはなかった。中国では、割合に、優勢にしてたんじゃないかな。全滅した部隊もたまにあったらしいけど、僕らのおったとこではまあそれほど損害を受けなかったし。

Q:行く前は、行先は聞いてたんですか?

全然。兵隊は分からん。各隊から1人ずつ下士官が岡山まで引き取りに来とって、僕らのときは、去年か一昨年亡くなりましたけど、サオトメ軍曹といって軍曹でした。その人が引率して、船で朝鮮半島渡って夜中に着いて、公会堂みたいなところで朝までそこで夜明かしして、それから朝鮮半島を列車で新義州北朝鮮・中国国境)までずっと。何日かかったか覚えてないけど、6日の日に岡山出てから、中隊にたどり着いたのが19日か20日ごろやったと思うから、それでその間に船と歩きが2日あったから14、5日は列車です。内地の客車と違って、大陸渡ったら朝鮮半島のも満鉄も広軌で、車内広いから割合ゆったり。そんで、楡次(山西省・太原の南)まで客車で行ったんです。それで楡次から今度は貨車に乗り換えさせられて。有蓋車。中に藁が敷いてあってね、兵器も何にもないんやから、帯剣と水筒と飯ごうだけで。それで軍曹がご飯をバケツに入れたのを、駅駅で国防婦人会が炊き出ししたのを積んでくるんです。その軍曹が100人分ぐらい、100人ぐらい一個中隊いたんでね、100人分を軍曹が握り飯作ってね、配って食べさせてくれて。漬物と握り飯ぐらいで。あれも軍曹もえらかったと思うわ。5年兵か6年兵ぐらいやったかね、あの人は。

Q:みなさん小銃も持ってなかったんですか?

小銃もなし。それで楡次ではなくて路安(ロアン)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)(山西省南東部)まで着いて、路安であと中隊まで歩きになって。そのときに現地製の、北支一九式と言って、騎兵銃とと一緒で短いんです。北支一九式短小銃て言ってたけど、その現地でこしらえた小銃を、普通の三八(三八式歩兵銃)の弾が使える銃口の太さにしたんですけど、それをみな支給されて。それ持って中隊着いたら、内務班長が「これいっぺん試射してみようか」と言って、「こんなもん持っとったって、戦争ならんで。弾どこ行きよるか分からへん」と言って、ええ加減な鉄砲だったみたいです。

Q:もう兵器が足りなかったってことなんですかね?

それがね、向こうに行ったら中隊に三八いうのが、普通の歩兵が持つ銃なんですけど、三八式歩兵銃を1人ずつあてがわれて、飯ごうも背のうも、行きしな背のうもなかったからね。外套だけはあったんです。あのコートね。コートと帯剣と、足は地下足袋。普通の土方の人がはくような、指の切れたものでなしに、靴になってるような地下足袋です。向こう着いたら編み上げ靴と、それから飯ごうも、背のうも。襦袢・袴下という下着ですね。それからこっちから着て行った、さらのラシャ服は全部取り上げて、ボロボロの練習用の服を。


[3] 初年兵教育中も実戦出動 07:12
僕らの中隊っていうは、割合、教育班長なんかでも初年兵のときに教えてくれた人が、「お前らな、名誉の戦死や名誉の負傷や言うなよ。死んだらなんにもならないんだから。死んだら負けだから。やから訓練厳しくてもわしらが教える通りちゃんとよく守っとったら、弾にも当たらへんから。死んだら何も名誉な戦死じゃないねんで」言うて、よう仕込まれましたけでな。

あれね、やっぱり僕ら3か月の教育受けたんですよ。高平いう所に中隊本部があって、そこへ路安(ロアン)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)(山西省南東部)から2日行程。途中で1泊して高平いうところに。路安いうとこから地図見てもらえば分かりますけど、南へ行って高平いう所で。鉄道が路安までしかなかったから、歩いて。そこから入ってから3か月は、一応ね、分列行進とかそういうのも一応。やっぱりちゃんと日程表があるんでしょうね、一応やった記憶はあります。ほとんどが戦闘訓練。それで僕らは軽機関銃の教育を受けたわけですね。それで城外へ出て、城内に駐屯しとるけど、演習なんかは城外でするわけです。そしたら城外へ出て行ったら、いつ襲撃されるか分からんから、みな訓練中でも実弾は120発持って。訓練中に襲撃されたことはなかったけど、訓練中に情況が入ったいうんで、夜中に非常(呼集)がかかって、討伐に引っ張り出されたことは、まだあの3か月に、一期の検閲までも何回かありました。

上の方で決めたことを「こうせい」。今日はどこに行くとも言わないからね。「整列」って言ったらダーッて。その前に今日は米を持つとか背のうを持って行くとか、雑のうの中に乾パンを持って行くとか、そういう指示はあるけども、どこへ行くとか、どこへいつまで行くとか、出て行ったらどこへ連れて行くやら。だから夜中でもたたき起こされて「非常」言うたら、そのままバーっと。ぐずぐずしてたらどつかれますから。ニタッと笑ったり白い歯見せたら、どつかれる。そりゃ、平手やなしに拳でね、ビンタくらうんです。ビンタが怖いからみんな一生懸命。

Q:その実際に戦場について最初のころの印象って何かありますか?

いちばん最初、討伐に出て行ったときに、パンパーンと弾の音して、みなパーッと。訓練でしてるから、一応散開するんですわ。地形に合わせてパーッと散って。そりゃそばにいないから変になる。心細いですよ。そしたら頭の上を弾がピュッピュッと飛んできだしたらね、もうみな後からみな言うとった。みな鉄かぶと、あれ、かぶってたヘルメット、地べたにこういうふうに隠れて、その縁をちょっとでもこないして入るかなって気持ちがね。そんなもん、どうしていいやら分からないし。そしたらいっぺん、中隊長が初年兵に度胸つけさせさかいに、いっぺん、後から聞いた話だけど、「突撃させるから」って言ったらしいんです。そして中隊長が軍刀抜いて、班長分隊長が、「これから突入するからな。突っ込め言ったらお前出てきなやで」って言われとって、刀抜いて「突撃」って言ったら、バババババーと撃ってきた。みな、「ああー」って。帰ってからどつかれて、「お前ら、中隊長1人殺す気か」。自分かて、班長かて出て行けへんからね。自分ひとりで出て行ったらやられるや。そういうこともありました。

Q:やっぱ怖いわけですね?実際戦場に出ると。

そりゃあんた、どこから飛んできてるのやら、どないなってるのやら。ペペペン、ペペペンと頭の上音してるときは、慣れたら堪えないんだけどね。ピュン、ピュン、ピュンって音がし出したら、もう腹の中気持ち悪くなって。小便ちびるような気になりますよ。それが何か月かたって慣れてきたら、弾の音でこれはやばいというのが分かりますね。自分のそば来たらバシッ、パシッと鞭でたたくような、ああいうパチンっていうような音がしだしたら、これやばいと思って、そこからこそこそっと這(は)ったり転がったりして場所変えて。そこにじっとおったらやられるからね。そやけどピュン、ピュンっていうような音がしてるときには・・そやけどあんた、初めて出て行って、そんなんピュンピュン音がしだしたら、とてもじゃないけど。「出ろ」言って、中隊長来よったけど。中隊長もおそらく、自分も行くつもりなかったんちゃいます。


(略)