『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや04 山西省 略あり

1925年兵庫県有馬郡(現・三田市)に生まれる
1939年鉄道省大阪駅に就職
1944年11月姫路中部第46部隊に入営後、中国山西省の独立歩兵第14旅団独立歩兵第243大隊に配属
1945年衛生兵となり、5月、旅団司令部軍医班へ転属。中国山西省路安(ロアン)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)で終戦山西省に残留し、山西軍(閻錫山軍)へ参加
1946年5月復員 大阪駅に復職、後に国鉄職員に

[1] 19歳で徴兵検査 07:40
で、あの鉄道入りまして。身分社会ですからね、当時は。中学も出ておりませんし、高等小学校の卒業生は試験を受けなければ上には上がれないんですけど、最初は傭人という職種ですね。人偏に雇う。その次は雇員。雇う雇員ね、それは判任官(下級官吏)ていうね、それによって給料も違うんですけどね。14歳の11月に大阪駅に就職したんですけど、18歳になりますと車掌の受ける資格が出来ますんでね、18歳のときにその試験を受けまして。それで学園(鉄道教習所)が鷹取(兵庫県神戸市)にありましたので、そこで4か月間勉強をしまして、それが終わってから今度は大阪の車掌区へ車掌として勤務しました。兵隊行くまでにね。18歳でね。それで軍事輸送であるとかね、それから防空演習もしましたね。電車を停めて防空演習。それは19年に入ってからなんですけどね。前も言いましたように、日本は負けてきて男が足りないものだから、徴兵検査というものが20歳から19歳に1年早くしまして、19歳にこちらがなりましたから、徴兵検査をうけなさいということで昭和19年の5月に徴兵検査を受けまして、合格をして、11月に姫路の中部第46部隊に入営をしました。19歳でね。
Q:そのころはじゃあもう鉄道省で訓練みたいなのをやってたんですか?
やってました。車掌なんですけど、そうなりますと女の子が、女性の車掌を採用しましたので、だから男は、若干余裕が出来たから、兵隊の召集令が来ても行きなさいと。当時SLですんでね、友達も大勢鉄道入ったんですけどね、機関区の方に入ってね、20歳までに機関士になってましたからね。その人たちは兵隊にあんまり行ってないと思います。あと女の子はできませんからね。だから機関士もなった友達も行ってないと思います。
Q:そういう状態で、しかも1年早く行くことになって、そのときどういうふうにお感じになられましたか?
もうしかたがないというかね。で親は、私の一つ上の兄は4歳上なんですけど、それも現役で軍隊入ってました。それは航空隊におりまして整備兵をやってましたんで、だから外地行かないで内地でおりました。で、弟はその農林学校行ったんですけど、農林学校から早く兵隊に行けと言われてね、志願をして予科練に行きました。私より前に。私が19年の11月に入って、すぐに、外地へ出るっていうのは分かってましたので、親は出るときに姫路まで面会に来ました。出る月の、営門から駅までの間で親と出会いましたからね。当時は特に母親はね、お国のためやお国のためやと言うんやけども、何一つしてもらってないと。国からの援助はね。ようやく一人前になればね、兵隊に取られてこんなつまらんことはないと。生きて帰ってくればいいけど、死んで帰ってきたらね、何のために子どもを大きくしたのか、その苦労が報われないと。そういう言い方をよく言ってましたね。世間話でね。
Q:そういうことを聞いてどう思いますか?
時代背景が悪いと言いますかね、生まれた時代は悪いなと思いますね。それは言ってましたね。私よりまだ2、3年先の人の方が、まだ生まれた時代は悪いと思いますけどね。
[2] 中国山西省へ 08:38
そうですね。どこへ行くか分からないんですよね。姫路を出るんですけど、汽車に乗って西へ行くんですけどね、どこへ行くか全然行き先が分からない、教えてくれない。ようやく分かりましたのが、博多から船に乗って釜山に着いたときぐらいに、ようやく中国らしいという程度だったんですね。そのときにね、軍事郵便じゃないと手紙出せないんですけどね、私普通のはがき持って行ってましてね、どうも話聞いたら、「中国のこういう所だ」と、迎えに来た兵隊がおりまして、その兵隊に教えてもらいました。路安(ロアン)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)(山西省南東部)とか路城(ロジョウ)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)とかいう名前をね。それでそれをはがきに書いてね、釜山から下りて駅に行くまでの間にね、ポストがあるんですね、それにポイと放り込んだです。それが家に着いてました。復員してから聞いたんですけどね。着いてました。親もそこら辺だと大体分かったと言ってました。
Q:検閲なんか受けなかったんですか?
うん、それも私用のはがきでね、入れたものだから。本当はいけないんですけどね。
Q:中国行くって聞いたときにはどう思いましたか?
満州の方がいいかなと思ったんですけどね。満州関東軍で精鋭がおったんですけどね、19年の末ごろは全部南方へ、兵器から兵隊からみんな持って行ってましたからね。もう年寄りの補充兵が残って後の守備をしてたという時代ですからね。私は当時はあまり知りませんけど、まだ中国だったらまだいいかなっていう気がしましたね。南方へ行くのであれば、途中でみんな魚雷でやられてしまう。台湾海峡まで行けたらいい方で、アメリカが制海権も制空権も持ってましたからね。もう行けないんです。途中でみんなやられてしまってね。だからまだ、大陸で汽車で行けるというのは、そういう輸送中の事故はないだろうという安心はありましたね。
Q:そういう輸送船がやられたというのは当時でも知ってた?
聞いてました。もう友達何人か行ったんだけど、もうどこそこでやられたからと親の方に香典が入りますのでね。知り合いも何人か行きましたけども、途中で皆やられてました。親がそう言いますんで。
Q:多分河合さんなんかは、どっちかっていうと、あまり危険な場所に行くんじゃないっていう感覚だったと思うんですけど。
それもありましたね、はい。だけどね、占領したと言いながら地図で見たら、太原(山西省省都)という点と、鉄道の路安(山西省)という点と、その線と点だけしか占領してないんですよね。その線のちょっと離れたとこみんな敵ですからね。だからその線路のところに、みんな望楼ってトーチカが立っておってね、日本の兵隊が7、8人でそこを警戒しとったんです。いつその鉄道の爆破があるかもわからないから。もういたるところにそのトーチカがあるんです。向こうに最初に行くときに「これなんや?」って思ったのはそれなんです。占領した占領したって言いながら、その太原なら太原っていう城壁の中は日本の兵隊が治安をしているけれど、一歩汽車に乗って移動しようと思えば、途中に、そういう警戒する兵隊を置かないことには移動は出来ない。向こうの点まで行けないという、そういう印象先に受けましたね。
Q:もう安全な場所じゃなかった?
そう。その線をちょっと外れるとね、八路軍中国共産党の軍隊)がおるか、山西軍(閻錫山率いる国民党系軍隊)がおるかね。
向こうに着くまでの間にね、民家の壁を見ますと「抗日反戦」って書いてあるんですよ。いたるところに。同じ漢字ですので意味一緒なんですよね、手へんの抗、日本の日ね、抗日。反戦。もういたるところに書いてあるんですよ。「こらなんや」と。日本の国は大東亜共栄圏を作ろうということで、聖戦だという教育を私は受けてますね。だから全部仲良くするんだという意味かと思ったら、そうじゃないんですね。民族が違うんですからね、日本のものになるわけじゃないですけど、皆さん仲良くしましょうということかと思ったら、そうじゃなしに、こっちに従えということが目的じゃなかったんでしょうかね。
あれはびっくりしましたね。いたる所にありました。
Q:向こうの人は戦争に反対してたってことですかね?それは。
そう。もちろんそうでしょう。そら日本軍帰ってくれっていうのはね。
Q:それを見たときっていうのは、どういうふうに感じたんですかね?
だから日本で教えてもらったのと全然違うなっていう印象でしたね。私の場合は。それは日本人が東洋平和のためにこういうことやるんだという、「聖戦」っていう教育を受けてますからね。侵略なんていう教育じゃなしに、聖戦。だからその一翼を担ったのは日本の兵隊だと、そういう気持ち持ってましたからね。
[3] 現地での訓練(一) 10:22
私は背が大きいものだから、機関銃か何か、そういう力のある仕事に配属されるんじゃないかという気がしてたんですけど、おかげさまで配属されましたのは、普通の鉄砲を持ってパチパチと撃つ、その方に配属されましたのでね。だからその三八式歩兵銃といいますけど、その鉄砲の打ち方の訓練を、その路城(ロジョウ)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)で2か月間訓練を受けました。
大隊の入隊式をしたのが11月の20日です。14旅団の第4中隊の第2班という鉄砲の班に配属されました。1つの班が14名から15名、その初年兵ばかりがね。古兵が1人と兵長が1人、いつもお世話をしてくれるのが2人おります。班長という伍長か軍曹は別の部屋でおりました。その11月はね、寒かったんです。私ら関西の生活ですんで、寒いと言ってもそう思わないんですけど、緯度的には、路城は北緯40度ぐらいなんですけど、内陸ですのでね、特に現地の人にも聞いたんですけど、この冬は寒いというのを聞きました。実際寒かったです。だから鉄砲持って演習するんですけど現地の百姓さんが作ってる麦畑のなかでね。そこら荒らしまわりながら訓練するんですけどね、15分ぐらい訓練しておりましたらね、小隊長の少尉が指導して訓練するんですけど、その方が「演習やめ」と言って、「手擦れ、耳擦れ」って言う。そうしないと凍傷になるんです。そういうこと言ってもらったんでね、ほっとする時間がありました。「手擦れ耳擦れ」という隊長さんと敗戦後、昭和50年代に戦友会をしたときに、その隊長さんも来てくれまして、話をしたんですけど、「あんたよう演習やめて手擦れ耳擦れって言ってくれましたね」って話しましたら、「いや、あれは僕が寒かったんだよ」と言って、そう言ってましたね。当時は分かりませんけどね。
私の班は鉄砲の訓練だけでね、1班と2班が小銃班ていう、三八式歩兵銃の鉄砲の練習をする。3班が機関銃で、4班がてき弾筒ていう、ボーンとあんまり飛ばないんだけど、その練習をするというふうに分かれました。
Q:そのときの生活はどんな感じの、初めて軍隊に入って体験するわけですよね。
普通の民家を接収してますんでね。中国の普通の民家を利用しておりますから、ちょっと大きめの部屋で、縦に15、6人寝るといっぱいになるぐらいの部屋でね、下はアンペラ(中国のゴザ)。その下は土ですからね、オンドル風になってるんですけど。オンドルは使いますけど、アンペラの上に布団を敷いて隣と隙間ないぐらいで14人ぐらい寝ました。消灯は9時、起床は6時。で、不寝番という1時間おきに順番に不寝番で、敵がいつこないか、見張るための望楼といいますけどトーチカみたいなのがありまして、そこへ上がって1時間おりまして、次に交代して寝ると。それが何回か当たりますからね、60人順番ですからね。入ってまだすぐのときにね。その鉄砲の訓練が済んで、自分の内務班というんですけど、寝るところに帰りますと、鉄砲の掃除それから剣の掃除ね。それから自分の被服の洗濯。風呂はもう2日に1回か3日に1回、入れたらいい方だったと思います。その鉄砲の掃除が誰かが悪いと、後で検査するんですけど、古い兵隊が、その銃身の中に埃が入っておりましたら、10数人の中に1人でもおりましたら、連帯責任で、「全員並べ」となって上等兵兵長が全員殴ります。「お前らたるんどる」ということで。私的制裁はほとんど毎日ぐらい。手でどつかれるのはいい方で、編上靴の古いやつで、それでもたまにありましたけど。そしたら今度は自分たちが殴るの痛いもんだから、「対面でやれ」と。14人を半分に分けてね、お互いに同僚同士に殴りあわさせる。それを見ておりまして、同年兵ですから顔は分かってるし、きつくされたらかわいそうと思いまして、ちょこっとやりましたら、「そんなん違う」と言われてバチンとまた来るんですよ。そんなことがその2か月間結構ありました。
Q:毎日殴るような理由はないと思いますけどね。そんなにあったんですか。
もう見つけます、向こうが。でも1人じゃないわけで、自分が100パー出来てても誰か隣でミスすると全体が責任ということで。それはもう慣れっこになってましたからね。けれども殴る前には必ず歯をくいしばれって。折れますからねほんとにね。それでケガをします。だからぐっと歯を食いしばって、ゲンコツでやられてもどうもないようにね。ほんとひどいときは目からパッと火が出ます。ほんとに出ます、あれ。「あ、痛」と思う。


(略)