『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『スチェパンチコヴォ村とその住人』P051ーP100(1回目の校正完了)


とに、こういう申し出をなし得る者は、おそらく叔父一人だろうと合点した。それと同時に、叔父の一言で取るものも取りあえずここまで駆けつけ、彼の申し出に夢中になったわたし自身も、大分ばかくさいものだということがわかって来た。わたしは不安な疑惑に心を奪われながら、急いで着替えをしていたので、初めのうちは、自分の世話をしてくれる侍僕にまるで気がつかなかったほどである。
「アデライーダ色のネクタイをお召しになりますか、それとも細かい格子のになさいますか?」なんだかやたらにしつっこいほど慇懃な調子で、侍僕はとつぜんわたしにこう問いかけた。
 わたしはそのほうへ目をやった。と、この男もやはり好奇心に値するやつだなと直感した。それは下男にしては立派な身なりをした青年で、下手な田舎のハイカラ紳士など追っつかないくらいだった。茶色の燕尾服、白いズボン、クリーム色のチョッキ、エナメルの編上げ靴、桃色のネクタイ、こういう物はすべて明らかに何か目当てがあって集めたものらしかった。そして、このハイカラ青年の優美な趣味に注意を促すべきはずのものであった。時計の鎖も同じ目的のためらしく、麗々しく剥き出しになっていた。顔はあお白く、緑色がかってさえ見える。大きいけれどもほっそりした段鼻は、並はずれて白く、まるで瀬戸物みたいだった。薄い唇に漂う薄笑いは何かある憂愁を帯びていたが、それはデリケートな憂愁なのである。まるでガラスで造ったような飛び出し気味の大きな目は、恐ろしく鈍な表情をしていたが、それでもやはりデリケートなところが、透いて見えるのであった。薄い柔らかい耳には、やはりデリケートな効果を期するために綿がつめてあった。長くて白っぽい疎らな髪は、うねうねと縮らせて、ポマードをつけてあった。手は白くて綺麗で、まるで薔薇水《そうびすい》で洗ったかと思われるばかり、指の先には洒落た長いばら色の爪が並んでいる。すべての点から推して、主人から甘やかされた洒落者の、のらくら者だということが、ありありと見えていた。彼は最新の流行にしたがって、Rを発音しなかった。そして、目玉を上げたり下げたり、溜め息をついたりして、話にならないほどにやけた真似をするのであった。体からは香水の匂いがぷんぷんしていた。背はあまり高くないほうで、ひょろひょろとひ弱そうに見えた。そして、歩く時、妙にひょこひょこと腰をかがめるようにしたが、たぶんその中に最高のデリケートな趣味があると思っているのだろう、――手短かにいうと、デリケートなにやけた趣味と、おまけにおれはえらいぞといったような心持ちが、全身に滲みわたっているのであった。この最後の点がどういうわけか、せっかちなわたしの気に入らなかった。
「じゃ、これがアデライーダ色のネクタイなんだね?」いかつい目つきで若い侍僕を見つめながら、わたしはこうたずねた。
「さようでございます」と、いささか動ずる気色もなく、依然たるデリケートな声で彼は答えた。
「じゃ、アグラフェーナ色というのはないのか?」
「ありません。そんな色のあるべきはずがございません」
「それはどういうわけだい?」
「アグラフェーナというのは、下品な名前でございますよ」
「どうして下品なんだね? どういうわけで?」
「それはわかりきったことでございますよ。アデライーダはなんといっても外国名前で、高尚でございますが、アグラフェーナなどという名は、どんな下等社会の女でもつけられますから」
「いったいお前は気でも狂ったのかね?」
「いいえ、どういたしまして、ちゃんと正気でございます。それはむろん、わたしをなんといってお呼びになろうと、あなたのご随意でございますが、将軍でも都の伯爵がたでも、わたしの話にはいつもご満足くださるので」
「いったいお前はなんというんだい?」
「ヴィドプリャーソフで」
「ああ! じゃあ、お前がヴィドプリャーソフなのかい?」
「さようでございます」
「ふうん、まあ、待ってくれ、お前ともやがて近づきになろ 『だが、ここはなんだかベドラム([#割り注]ロンドンにある瘋癲病院[#割り注終わり])に似てるぞ』下へ降りて行きながら、わたしは心の中で考えた。
[#3字下げ]4 茶の席で[#「4 茶の席で」は中見出し]
 茶の間は、さきほどガヴリーラに行き合った、あのテラスへ出る口になっている部屋だった。わたしを待ち設けている一同の態度について、叔父が秘密めかしく予告したことは、ひどくわたしを不安にした。青春は時とすると、度はずれに自尊心の強いものだが、若い自尊心は、いつでも臆病なものである。で、わたしは部屋へ入って、一座の人々を見るやいなや、不意に絨毯の端に足を引っ掛けてよろよろとし、重心を失うまいとして、思わず知らず部屋のまん中へとび出してしまった時、わたしはなんともいえない不快を感じた。まるで自分の一生も名誉も台なしにしたように、わたしは蝦みたいに真っ赤になり、無意味に一座を見廻しながら、すっかりてれてしまって、じっと身動きもせずに立っていた。それ自身としてはきわめて些細なこの出来事を述べるのは、ただそれがいちんちわたしの心持ちに、したがって、この物語中のある人物に対するわたしの態度に、なみなみならぬ影響を及ぼしたからである。わたしは会釈しようとしたが、途中でよしてしまい、なおいっそう赤くなった。そして、叔父のほうへ飛びかかって、その両手をつかまえた。
「ご機嫌よう、叔父さん」とわたしは息を切らしながらいった。何かもっと気の利いたことをいうつもりだったが、自分でもまったく思いがけなく、ただ『ご機嫌よう』とだけいってしまったのだ。
「ご機嫌よう、ご機嫌よう」わたしのために苦しい思いをしていた叔父は、こう答えた。「もうわたしたちは挨拶をすましたじゃないか。おい、そんなにてれてしまっちゃ駄目だよ」と彼は小さな声でいい足した。「あんなことはだれにでもあるんだよ、しかもあれくらいのことじゃない! そのまま穴があったら入りたいようなことだってあるからな!………ねえ、お母さん、ちょっと紹介さしていただきます。これは家の親類の若い者です。今ちょっとてれ気味ですが、きっとお気に入りますよ。わたしの甥のセルゲイ・アレクサンドロヴィチです」彼は一同に向かいながら、こうつけ足した。
 しかし、物語を続ける前に、この一座の人たちを一人一人紹介することを、愛すべき読者に許してもらいたい。それはむしろ話の順序からいっても、必要なくらいである。
 一座は、わたしと叔父を除けると、幾たりかの婦人に二人の男だけであった。わたしの見たいと思ったフォマー・フォミッチは、い合わせなかった。私はその時すぐ気がついたが、彼はこの家の全権を握った専制君主で、席にいないでも燦と輝いていた。で、さながらこの部屋の光りをみんな持って行かれてしまったように、一同は沈んだ心配そうな様子をしていた。それは一目で気づかずにいられなかった。わたしはそのときずいぶんまごついて気色を悪くしていたが、それでも叔父がわたしに劣らないくらい気分を悪くしているのを見てとった。彼はうわべだけいかにも磊落《らいらく》を粧って、心中の不安を一生懸命に隠そうとはしていたけれども、何やら重石のように彼の胸を押しているものがあるらしい。
 部屋の中にいた二人の男のうち、一人はまだごく年若で、二十五ぐらいにしか見えなかった。これは先ほど叔父が、頭脳と品行を賞揚した、例のオブノースキンであった。この男はすこぶるわたしの気にくわなかった。彼の身につけているものは、何から何まで下品なハイカラぶりを狙っている。その服はハイカラではあるけれども、なんだか大分すれて貧弱だった。顔にもやはりどこか擦りへらしたようなところがあった。白っぽい細い泥鰌《どじょう》ひげと、不成功に終わった一摘みの顎ひげは明らかに独立不羇の人間――ことによったら、自由思想さえ現わす任務を帯びているらしい。彼は絶え間なく目を細めたり、何かわざとらしい皮肉を帯びた微笑をしたり、椅子の上でもぞもぞ身動きしたりして、ひっきりなしに柄付き眼鏡でわたしを眺めていたが、わたしがそのほうへふり向くやいなや、すぐに眼鏡をおろして、おじ気づいたようなふうをするのであった。
 いま一人は二十八ぐらいの、やはり若い男だった。これがわたしの又従兄に当たるミジンチコフである。なるほど彼は恐ろしく無口で、茶を飲んでる間じゅうひと口もものをいわないし、みんなが笑っても笑おうとしなかった。けれど、わたしは叔父のいったような『いじけたところ』はいささかも発見できなかった。それどころか、その明るい茶色をした目つきは、毅然たる性格と決断力とを表明していた。ミジンチコフは浅黒い顔をした、髪の黒い、かなり美しい青年で、みなりもきちんとしていた(後で聞いたら、これは叔父が自腹を切ったとのことだ)。
 婦人たちの中ではペレペリーツィナ嬢が、その一通りならぬ意地悪そうな、血の気のない顔で、わたしの注意を惹いた、彼女は将軍夫人(この人のことは後で別にいおう)のそばに坐っていたが、礼儀を守ってすぐ傍には並ばないで、すこしうしろに下っていた。そして、しょっちゅう前のほうへ
かがみこんで、自分のパトロンに何やら耳うちするのであった。二人か三人の居候の女が、まったく無言のまま窓のそばに並んで坐りながら、うやうやしげにお茶が始まるのを待ち、目を丸くしてご母堂を見つめているのだった。それからまた、恐ろしくでぶでぶ肥った五十ばかりの婦人も、わたしの興味を惹いた。ひどく無趣味な服装をして、まざまざと頬紅をさした(らしい)老婦人で、歯のまるでない口には、なんだか黒くなった欠け残りが不規則に並んでいるばかりだった。とはいえ、それでも彼女は平然として、ぺちゃぺちゃしゃべったり、目を細めたり、変に気どったり、ほとんどしなさえつくりかねない勢いだった。彼女は何やらいろんな鎖を一杯ぶらさげて、オブノースキン氏と同じように、しきりとわたしのほうへ柄付き眼鏡をさし向ける。これは彼の母ご前である。
 従順な叔母のプラスコーヴィヤ・イリーニチナは、みんなに茶を注いで出していた。彼女は長い別離の後とて、わたしに抱きつきたそうな様子がありありと見えていたけれど、思いきってそれができないらしかった。ここではすべてが、どうやら禁制を受けているようである。彼女のそばには十五ばかりの黒い目をした、きわめてかわいい女の子が坐っていて、子供らしい好奇心を浮かべながら、じっとわたしを見つめていた、――これは従妹のサーシャである。
 最後に、いま一人きわめて不思議な女性が、だれよりも強くわたしの注意を惹いた。思いきってけばけばしく若づくりにしていたが、当人はけっして若くなかった、少なくとも三十五になっていた。顔は非常に痩せて、あお白くかさかさしていながら、恐ろしく活気づいていた。彼女がちょっと身を動かしたり、興奮したりするたびに、鮮やかなくれないが絶えずそのあおざめた頬にさして来る。しかも、彼女は無性に興奮するのであった。一分間もじっと静かにしていられないように、しじゅう椅子の上でもぞもぞしていた。彼女は貪るような好奇心をもって、わたしの顔に見入りながら、のべつ身をかがめて、サーシャかいま[#「サーシャかいま」はママ]一方の隣りの女に何やら耳うちするかと思うと、すぐにきわめて正直らしい、子供めいた、陽気そうな声をたてて、笑い出すのであった。けれど、驚いたことには、彼女のこういうとっぴな言動も、まるで一座の注意を喚び起こさなかった。ちょうどみんなが前から打合せでもしたようであった。わたしはこれが例の、叔父の言葉によると、何かとっぴなところのあるタチヤーナ・イヴァーノヴナだなと察した。例の、みんなで叔父の嫁に押しつけようとしている女、みんなからその財産のためにちやほやされている女なのである。とはいえわたしは、その碧いつつましげな目が気に入った。その目のあたりには、もう小皺が寄っていたけれど、目つきが実に単純で、快活で、善良なので、それと視線を合わせるのが、ことに快く感じられた。わたしの物語の主な『ヒロイン』の一人であるこのタチヤーナのことについては、あとでもっと詳しく話すつもりだが、その生涯は実に数奇を極めているのだった。
 わたしが茶の間へ現われてから五分ばかりたって、庭のほうから愛くるしい男の子が駆けこんだ。それは従弟のイリーシャ、明日の命名日の祝い主で、いま両方のかくしに一ぱい茸をつめ、手には独楽を持っていた。その後から、一人の若いすらりとした娘が入って来た。少しあおい顔をして、なんだか疲れたようだけれど、きわめて美しい女であった。彼女はためすような、疑い深い、むしろ臆病そうな目つきで、ちらと一座を見廻した後、じっとわたしの顔を見つめて、タチヤーナのそばに座をしめた。わたしは、急に心臓がどきんとしたのを覚えている。これが例の家庭教師なんだなと悟った。それからまた、叔父が彼女の出現と同時に、ちらとわたしのほうに素ばやく視線を投げて、真っ赤になったのも覚えている。叔父は急に下へかがみこんで、イリューシャを両手に抱き上げると、わたしのそばへ持って来て、接吻させた。オブノースキナ夫人は、はじめじっと叔父を見つめていたが、やがて皮肉な微笑を浮かべながら、自分の柄付き眼鏡を家庭教師へ向けた。叔父はすっかりてれてしまって、どうしていいかわからないらしく、サーシャを呼び出してわたしに紹介しようとしたが、こちらは無言のままちょっと腰を曲げ、恐ろしくまじめくさった様子をして、会釈したばかりだった。けれど、それがいかにも彼女にふさわしいので、わたしはすっかり気に入ってしまった。その時、人のいいプラスコーヴィヤ叔母が我慢しきれなくなり、お茶を注ぐのをうっちゃって、わたしに飛びかかりながら接吻したが、わたしがふた言と彼女にものをいう暇もないうちに、さっそくペレペリーツィナ嬢の黄いろい声が響き渡った。「大方ね、プラスコーヴィヤ・イリーニチナは、お母様(将軍夫人)をお忘れ遊ばしたのでしょうよ。お母様がね、お茶がほしいとおっしゃるのに、あなたはお注ぎにならないのでございますね。お母様が待っていらっしゃるじゃありませんか」プラスコーヴィヤ叔母はわたしをうっちゃって、一目散に自分の職務を果たしに飛んで行った。
 この一座の中で一番えらい人物で、みんながその前で戦々兢々としている将軍夫人は、全身に喪服をまとった、痩せぎすの、意地悪げな老婆だった。もっとも、その意地悪さは、年をとるにしたがって、前からそう豊かでなかった最後の脳力を失ったためなのである。もとはただの分らず屋だったが、将軍夫人という位置がいっそう彼女を分らず屋の、高慢ちきな女にしてしまったのである。彼女が怒った時には家じゅうが地獄のようになった。彼女の怒りかたに二色あった。第一はだんまりの手で、老婆は幾日も幾日も唇を開かないで、何を前へ出されても、ぽんぽんと突きとばしたり、ときには床《ゆか》へ投げつけたりして、しつっこく黙りこむのであった。いま一つはぜんぜん正反対な方法で、きわめて雄弁なものだった。まず最初の手初めとして、祖母は(じっさい彼女はわたしにとって祖母なのだ)度はずれな憂鬱に沈んで、世界の破滅を期待し、自分の家産の蕩尽を覚悟し、前途に貧困とかなんとか、ありとあらゆる悲しみを予覚するのだった。そして、自分で自分の予覚に感動して、将来の不幸を指を折って数えあげる。しかも、その際なにかしら一種の感興、一種の感奮に陥るのであった。もちろん、彼女はしじゅういっさいを見抜いていたのだが、『この家』で無理やりに力ずくで黙らされたから、それで黙っていたにすぎない、とこういうことになるのである。「もしわたしを敬って、前もってわたしのいうことを聞く気になったらばねえ、云々、云々」というのであった。もちろんそれはさっそく、居候の群れやペレペリーツィナ嬢の相槌を受け、そして最後に、フォマーの堂々たる折紙を頂戴するのであった。わたしが紹介された時、彼女は恐ろしく腹をたてていたが、それは第一の沈黙の方法、即ち最も恐ろしい方法らしかった。だれもかれもがおずおずとしてその顔色をうかがっていた。ただ一人、すべてのことを許されているタチヤーナだけは、ごくごくの上機嫌だった。叔父はわざといくぶん改まった態度で、わたしを祖母のところへ連れて行ったが、こちらは渋い顔をして、意地悪げに茶碗を押しのけた。
「これがあの|曲乗り屋《ヴォルティジュール》なのかえ?」と彼女はまるで歌でも唄うような調子で、ペレペリーツィナのほうへ向いて、歯の間から押し出すようにいった。
 この馬鹿げた問いに、わたしはすっかりまごついてしまった。どうしてわたしを曲乗り屋などといったのか、わけがわからない。しかし、こんな問いぐらい彼女には朝飯前だった。ペレペリーツィナはかがみこんで、何やら彼女に耳うちをしたが、老婆は意地悪そうに手を振った。わたしはぽかんと口をあけて、相談するように叔父を見やった。一同は目と目を見交わした。オブノースキンなどは白い歯さえ見せた。それがわたしには恐ろしく気に入らなかった。
「お母さんは、ときどき妙なことをいい出すんだよ」やはりいくぶんとほうに暮れた叔父が、こうささやいた。「しかし、そんなことはなんでもないよ。ただちょっといってみるだけなんだから、あれはお前、人のいい心から出たんだ。お前、何よりも心を見なきゃいけないよ」
「そう、心だわ、心だわ!」思いがけなく、タチヤーナのこういう甲高い声が聞こえた。彼女は今まで始終、わたしの顔から目を離さないで、どうしたわけか、じっと席に落ちついていられなかったのである。おそらく小さな声でささやいた『心』という言葉が、彼女の耳に届いたのだろう。
 しかし、彼女は何かいいたそうなふうだったにもかかわらず、しまいまでいい終わらなかった。きまりが悪くなったのか、それともほかに何か原因があったのか、とにかく彼女は急に口をつぐんで、恐ろしく真っ赤な顔をしながら、急いで家庭教師のほうへかがみこみ、なにやらひそひそささやくと、いきなりハンカチで口をおおい、安楽いすの背にもたれかかりながら、まるでヒステリーでも起こしたように、大きな声で笑い出した。わたしは極度に怪訝《かいが》の念をいだきながら、一同の顔を見廻した。けれども、驚いたことには、みんな恐ろしく真面目くさった顔をして、まるで何も格別なことは起こらなかったようなふうつきだった。わたしはとうとう、タチヤーナがどういう女であるかを悟った。ついにわたしの前へも茶が運ばれた。で、わたしもいくぶん取り繕うことができた。しかし、どういうわけか知らないが、わたしはとつぜん、婦人たちと何かうんと愛想のいい話を始める義務があるように思われて来た。
「ねえ、叔父さん」とわたしはきり出した。「さっきあなたが、まごついたってかまわないと、注意してくだすったのは、あれは本当でしたね。ぼくは正直に白状します、――なにも隠す必要なんかありゃしません!」とわたしは媚びるような微笑を浮かべつつ、オブノースキナ夫人に向かって言葉をつづけた。「ぼくは今まで一度も、ご婦人の集まった席へ出たことがないので、さっきまずい入り方をして、部屋のまん中へ立ったぼくの恰好は、ずいぶん滑稽なもので、いくぶん、蒲団じみたところがあったろうと思いますよ、――そうじゃありませんか? あなたは『蒲団』([#割り注]ビーセムスキイの小説、ぐうたらでお人好しの主人公の綽名[#割り注終わり])をお読みになりました?」わたしは自分で自分の卑屈な告白に顔をあかくして、いよいよとほうに暮れながら、オブノースキン氏を怖い目で睨めつけつつ言葉を結んだ。相手は白い歯をむきながら、依然としてわたしの姿を頭のてっぺんから足の爪先まで、じろじろ見廻すのであった。
「まったくだ、まったくそのとおりだ!」やっとどうやら話の糸口がついたのと、わたしがだんだん落ちついて来るのとで、しんから嬉しそうに非常な活気を示しながら、とつぜん叔父がこう叫んだ。「お前はまごついたってかまわないというが、そんなことはまだ、なんでもないさ。なに、まごついたらうまく尻尾を隠せばいいんだよ! わたしはね、お前、社交界の初舞台のとき、嘘をついたぜ、――どうだ、本当にできるかね? いや、まったくですよ、アンフィーサ・ペトローヴナ(オブノースキナ夫人)、じっさい面白い話なんです。わたしが初めて見習士官になった時、モスクワへやって来て、あるえらい奥さんのところへ紹介状を持って行ったわけです。それは恐ろしく高慢ちきな女でしたが、実際はその、ごくお人好しなんですよ、世間じゃいろんなことをいいますがね。わたしが訪ねて行くとすぐ通してくれました。客間はもういっぱいの人で、主に名士連なんです。わたしは一同に会釈して腰をおろしました。すると夫人はいきなりのっけから、『あなた、村をお持ちですか?』と問いかけるじゃありませんか。ところが、わたしは鶏一羽もっていなかったので、さあ、なんと返事したらいいかわからない。すっかりまごついて、へどもどしていると、みんなは、『ふん、なあんだ、この見習士官めが』というような顔をして、わたしのほうをじろじろ見るんです。いや、なんにも持っていませんと、率直にぶちまけてしまったってかまやしない、むしろそのほうが男らしかったくらいです。だって、それが本当なんですからね、ところが、わたしにはその強さがなかったのです! 『はい、百十七人ばかり百姓をかかえています』といってしまった。いったいなんだって、そんな十七なんて端数をくっつけたものか? いっそ嘘をつくくらいなら、ちゃんとまとまった数にすればよさそうなものを、――そうじゃありませんか? ところが、一分もたたないうちに、わたしの持って来た紹介状の文面で、わたしが一文なしの素寒貧だってことがわかって、おまけに、嘘つきということになってしまったんです! ねえ、そうなったら、どうにもしようがないじゃありませんか? わたしは尻に帆をあげて、そこを逃げ出すと、以後ふっつり足踏みもしなくなってしまいました。実際、わたしは当時まだ無一物だったんですよ。今でこそ、叔父さんのアファナーシイ・マトヴェーイチからもらった三百人と、その前に祖母のアクリーナ・パンフィーロヴナから譲り受けた、カピトーノフカ村の二百人と、合わせて五百人あまりの百姓をかかえて、けっこうな身分になりましたがね! しかし、その時以来、わたしは嘘をつくのに懲りてしまって、事実いまではもう嘘なんかつきません」
「なに、わたしだったら、そんなことに懲りやしませんよ。どんなことがまた起こるかしれませんからな」と嘲るようににたにた笑いながら、オブノースキンは口をいれた。
「いや、そう、そりゃまったくです、まったくです! どんなことが起こるか、さきのことは知れるもんじゃありません」と叔父は単純に相槌を打った。
 オブノースキンは無遠慮にからからと笑いながら、肘掛けいすの背に身をそり返らせた。母親もにたりと笑った。ペレペリーツィナ嬢も、なんだか格別いやらしい声で、ひひひと笑い出した。タチヤーナ・イヴァーノヴナも、なんのことやらわからないで、大きな声で笑いながら、手までぱちぱち叩くのであった。一口にいえば、叔父が現に自分の家でみんなから、ものの数とも思われていないのを、わたしははっきり見てとったのである。サーシェンカは毒々しく目を輝かしながら、きっとオブノースキンを見つめた。家庭教師は顔をあかくして、俯向いてしまった。叔父は驚いた様子で、
「どうしたんです? いったいなにごとが起こったんです?」と、合点のいかぬ様子で一同を見廻しながら、こうくり返した。
 従兄のミジンチコフは、この間ずっと離れたところに坐ったまま、みんなが笑い出した時にも、微笑さえ見せなかった。彼はしきりに茶を飲みながら、哲学者めいた態度で一座を眺めていたが、堪え難い倦怠の発作に襲われたとでもいうような具合に、幾度も口笛を吹きそうにしては(どうやら昔からの癖らしい)、すぐに気がついて、やめてしまった。しじゅう叔父をからかって、わたしにまで鉾先を向けようとしたオブノースキンも、ミジンチコフにはすっかり手も足も出ないで、その顔を見るのさえはばかるらしい様子だった。わたしはそれに気がついたが、それと同時に、この沈黙がちな従兄が、しょっちゅうわたしのほうにちらちら目を向けて、いったいわたしがどんな人間なのか、はっきり突きとめようとでもするように、まざまざと好奇の色さえ浮かべているのに、わたしはやはり気がついた。
「ああ、きっとそうに違いない」不意にオブノースキナ夫人が、細い黄いろな声でしゃべり出した。「もうきっとそうに違いない。M. Serge([#割り注]ムッシュ・セルジュ、セルゲイの仏語風の呼び方[#割り注終わり])――確かあなたの名前はそうでしたね?――あなたはきっとペテルブルグにいらっしゃる頃、あまり大して婦人崇拝家でいらっしゃらなかったのでしょう。わたしよくぞんじていますが、あちらでは婦人がたとの交際を頭から嫌っている若い人たちが、近ごろ大変、大変ふえて来たようです。けれど、わたしにいわせれば、それはみんな自由思想家なんですよ。それこそゆるすべからざる自由思想の弊害ですとも、わたしそれよりほかの見方はできません。で、正直に申しますがね、あなた、わたしはあきれ返っているのですよ、ただもうあきれるほかはありません!………」
「まったくぼくは、社交界に少しも出入りしたことがありません」と、わたしは度はずれに勢いづきながら答えた。「しかし、それは……少なくともぼくの考えでは、なんでもないことだと思います……ぼくは暮らして来ました、つまり、全体に、家を借りて……しかし、それはなんでもありません、まったくのところ。これからぼくもいろんな人と交際します。ただ、今までのところ、始終うちにばかり引っこんでいて……」
「学問の研究をやっていたのです」叔父はちょっとそり身になって口をいれた。
「ああ、叔父さん、あなたはまた学問をもち出しましたね! まあ、どうでしょう」とわたしは愛想よく白い歯を剥いて見せながら、またオブノースキナ夫人のほうへ振り向いて、恐ろしくうち解けた馴れなれしい口調で言葉をつづけた。「わが親愛なる叔父さんは、あまり学問に打ち込んでしまったものだから、とうとうどこかの街道でコローフキン氏と称する、奇跡の行者であり実践哲学者である人間を掘り出しちゃったんです。あんなに長年のあいだ別れていて、きょう久しぶりに会ったわたしをつかまえて、第一番にいい出した言葉はほかでもない、世にも珍しいこの奇跡の行者を、いわば心臓の痺れるような焦躁の念に悩まされながら、待ちかねているという話なんです……むろん、それは学問に対する愛情のためですがね……」
 わたしは、自分の機智を賞讃する一座の笑いを誘い出すつもりで、ひひひと笑った。
「そりゃいったいだれのことです? この人はだれのことをいってるの?」将軍夫人はペレペリーツィナのほうへ向きながら、鋭い語調でこうたずねた。
「エゴール・イリッチが、やたら無性にお客様をお呼びになった話ですよ、学者のお客様を。方々の街道を乗り廻して、学者を集めていらっしゃるんですって」と、老嬢はさもいい気持ちそうにさえずった。
 叔父はすっかりまごついてしまった。
「ああ、そうだ! わたしはすっかり忘れてた!」譴責のこもった視線をちらとわたしに投げながら、彼は叫んだ。「わたしはコローフキンを待っているのだった。学術の人です、後世に残る人物です……」
 彼は言葉につかえて、そのまま黙り込んだ。将軍夫人は片手をちょっとひと振りしたが、今度はそれがうまく茶碗に触ったので、茶碗はテーブルからけし飛んで、微塵に砕けてしまった。一座がざわざわとした。
「あのひとは怒るといつもああなんだよ。いきなり何か床へ投げつけるんだからね」と叔父は当惑した顔つきでわたしにささやいた。「しかし、それはただ腹をたてた時だけだよ……お前、気にかけないがいい。わきのほうを向いて、見ないようにしていなさい、――なんだってお前は、コローフキンのことなんかいい出したんだい?………」
 しかし、それでなくても、わたしはもうわきのほうを向いていた。このときわたしの目は、家庭教師の視線とぶっつかったのである。わたしに向けられたこの視線の中には、一種非難の表情、というより、むしろ侮辱の色がこもっているように感じられた。そのあお白い頬には、憤懣のくれないが燃えたっていた。わたしはその視線の意味を読みとることができた。少しでも自分の滑稽な立場を軽くするつもりで、叔父を笑い草にしようとした、その軽薄ないまわしい感情のために、わたしはこの娘の好意をかえって失うことになったのだ。わたしはそれを悟った。わたしがどんなに恥ずかしい思いをしたか、とても言葉で尽くせるものではない!
「わたしはやはり、あなたとペテルブルグの話がしたいもんですね」毀れた茶碗の騒ぎが鎮まった時、オブノースキナ夫人はまたぺらぺらとしゃべり出した。「あの懐かしい都の生活を思い出すと、わたしなんともいえないいい気持ちになるんですの……わたしたちはあの時分、さるご家庭と特別したしくしていましてね――覚えておいでかい、ポール?([#割り注]パーヴェルの仏語風の呼方[#割り注終わり])ポロヴィーツィン将軍さ……ああ、その奥様はなんという立派な、優しい方だったでしょう! まあ、一口にいえば、貴族的な趣味でしてね。上流社交界《ポーモンド》の入ってことがすぐわかるんですの! ……ねえ、あなたは多分ときどきお会いになったでしょう……わたし実のところ、あなたがここへいらっしゃるのを、頸を長くしてお待ちしていましたの、ペテルブルグにいるわたしのお友だちのことを、いろいろたくさん聞かしていただこうと思いましてね……」
「はなはだ遺憾ですけれど、それはお望みに添いかねます……失礼ですが……もう前にも申しましたとおり、ぼくはごくたまにしか社交界に出なかったので、ポロヴィーツィン将軍もぜんぜん知らないくらいです。名前を聞いたことさえありません」わたしは今までの愛想のいい態度にうって変わって、恐ろしくいらだたしい、いまいましい気持ちに襲われながら、じれったそうに答えた。
「これは鉱物学を勉強していましたのでね!」叔父はまた性懲りもなく、さも得意そうに引きとった。「それはお前、いろんな石を調べるんだね、その鉱物学というのは?」
「そうです、叔父さん、石を……」
「ふむ……学問もずいぶんいろいろあるもんだね、しかし、それがみんな役に立つものばかりなんだ! わたしはね、正直に白状するが、鉱物学というのはどんなものか、いっこうに知らなかったよ! ただよそのお寺の鐘が鳴ってる、というくらいな気持ちで聞き流していただけでな、ほかのことはまあ、ともかくとして、学問のこととなると、皆目もの知らずなんだ、――あけすけに懺悔してしまうよ!」
「あけすけに懺悔なさるんですって?」オブノースキンはにやにや薄笑いしながら、こう言葉尻を抑えた。
「お父様!」咎めるように父を見つめながら、サーシャは叫んだ。
「なんだね、サーシェンカ? あっ、とんだ失礼、わたしはのべつ、あなたのお話に口を出していましたね、アンフィーサ・ペトローヴナ」サーシェンカの叫んだ意味がよくわからないで、叔父ははっと気がついたように、こういった。「どうかひらにご容赦を願います!」
「いいえね、そんなご心配はいりませんよ!」とオブノースキナ夫人は、酸っぱいような微笑を浮かべながら答えた。「もっとも、わたしは甥ごさんにすっかりお話をしてしまったので、ただ話の括りだけつけようと思っていたところなんですの。ほかでもありませんが、M. Serge ――確かそうおっしゃいましたね?――あなたにはすっかり別人になっていただかなくちゃなりません。わたし、そう信じておりますの、学問でも芸術でも……例えば彫刻とか……まあ、ひと口にいえば、そういった高尚な思想的な仕事は、もちろん魅惑に富んだ一面を持っていますけれど、それでも、女性の代わりにはなりませんからね!……女、女こそあなたを仕上げてくれるものです。女がいなくちゃ駄目です、駄目ですとも、あなた、だ、め、ですとも!」
「そりゃ駄目ですとも、駄目ですとも!」やや甲高いタチヤーナ・イヴァーノヴナの声が、またもや響き渡った。「ねえ」と彼女は妙に子供らしくせきこみながらいい出した。顔を真っ赤にしたのは、もちろんである。「ねえ、わたし、あなたにおたずねしたいことがあるんですの……」
「どういうことですか?」じっと相手を注意ぶかく見つめながら、わたしは答えた。
「あなたは長く逗留のつもりでいらしたんでしょうか、それともわたし……それを伺おうと思って」
「そりゃどうともわかりませんね。用事次第で……」
「用事ですって! まあ、この人にどんな用事があるんでしょう?・……まるで気ちがいだわ……」
 タチヤーナ・イヴァーノヴナは、火のようにあかくなって、扇で顔を隠しながら、家庭教師のほうにかがみこみ、すぐさま何やら耳うちをはじめた。それから急にからからと笑い出しながら、両手をぱちぱち叩くのであった。
「ちょっと! ちょっと!」と彼女は秘密の話し相手から身を離して、まるでわたしが行ってしまいはせぬかと心配するように、またもやせかせかとわたしのほうへ振り向きながら、大きな声でいい出した。「ねえ、あなた、わたしいい話をしてあげますわ。あなたはね、ある若い人によく似ていらっしゃるのよ。すっきりした気持ちのいい若い人に、とても、よく似ていらっしゃるの!………サーシェンカ、ナスチェンカ、覚えてて! この人はあの向こう見ずな若い男に、とてもよく似てるでしょう――覚えてて、サーシェンカ! ほら、いつかわたしたちが馬車を乗り廻して遊んでた時、途中で出会ったじゃない……白いチョッキを着て、馬に乗ってさ……おまけに柄付き眼鏡をわたしのほうへ向けるんですもの、恥知らずったらないわ! 覚えてて? わたしはヴェールをおろして、顔を隠したけれど、ついに我慢しきれないで、幌馬車から体を乗り出しながら、『恥知らず』と怒鳴りつけたでしょう。そして、花束を道の上へ投げてやったわね……覚えてて、ナスチェンカ?」
 若い男とさえ見れば、すぐ夢中になる癖のあるかの女は、すっかり興奮してしまって、両手で顔を隠した。やがて不意に席から躍りあがって、一跳びに窓のほうへ飛んで行くと、鉢の薔薇を一輪つみとって、わたしのそば近い床へ投げつけるなり、いきなり部屋を駆け出してしまった。それはとっさの間のことだった! 将軍夫人は初めの時と同じように、落ちつき払ってはいたけれど、今度は一座にある動揺が認められた。オブノースキナ夫人などは、別に驚きはしなかったものの、何か急に気がかりなことができたらしく、悩ましげに息子のほうを見やった。若い婦人たちは顔をあからめた。ポール・オブノースキンは、その時のわたしとして合点のいかない、いまいましそうな表情で、不意に椅子から立ちあがると、そのまま窓のほうへ行ってしまった。叔父はわたしに何か合図をしかけたが、ちょうどこのとき部屋の中へ新顔の人が入って来て、一同の注意はそのほうへ惹きつけられた。
「ああ! エヴグラーフ・ラリオーヌイチも来た! 噂をすれば影だな!」と、叔父は心から嬉しそうに叫んだ。「なにかね、きみ、町から来だのかい?」
『ふん、みんな変人ぞろいだ! まるでわざとここへ集めたようだ!』わたしは目の前で演ぜられていることを、まだよく呑みこむことができないで、腹の中でこう考えた。そのくせ、自分がここへやって来たのは、この変人のコレクションを豊富にすることになったのだとは、夢にも考えなかった。
[#3字下げ]5 エジェヴィーキン[#「5 エジェヴィーキン」は中見出し]
 一人の小柄な男が部屋へ入って来た、というより、なんだか妙に窮屈そうな恰好で戸口をすり抜けて来た(そのくせ、戸口は非常にゆったりしていたのである)。彼はまだ入口の辺から身をかがめて、ぺこぺこお辞儀をしながら、お世辞笑いに白い歯を剥き出し、さもさももの珍しそうに、一座の人人を見廻すのであった。それは、頭の禿げた、あばた面の小柄な老人で、盗み見するように、小さな目をきょろつかせ、かなり厚い唇に曖昧な薄笑いを浮かべていた。彼はだれかのおさがりらしい、くたびれきった燕尾服を着ていたが、そのボタンはたった一つだけ、危く糸一本にぶら下っているきりで、あとの二つか三つは、すっかりとれてなかった。穴だらけの長靴と油じみた帽子は、そのみじめな服によく調和している。彼は鼻汁をかみ散らした格子縞の綿《めん》ハンカチを手に持っていたが、それで額やこめかみの汗をしきりにおし拭っていた。家庭教師はやや顔をあからめて、ちらとわたしのほうへ視線を投げた。その目つきには何かしら挑むような、傲慢な影がこもっているように思われた。
「町から真っすぐにまいりました! いきなりあちらから真 っすぐにまいりましたので! 何もかもすっかりお話ししますが、まず初めにご挨拶させていただきます」入ってきた老人はそういいながら、いきなり将軍夫人のほうへ歩いて行こうとしたが、途中で足を停めて、また叔父のほうへふり向いた。
「あなたはもうわたしの根性骨を、よくごぞんじでいらっしゃいますが、わたしはやくざ者でございます、本当のやくざ者でございますよ! だって、入るといきなり、すぐに家じゅうで一番おもなお方を見つけ出して、そのほうヘ一番に足を向けるんですからな。つまり、こうして来ると早々、ご厚情とご庇護を得ておこうという魂胆でしてな。やくざ者でございますよ、あなた、やくざ者でございますとも! 奥様、ご後室さま、どうかあなたのお召物に接吻させてくださいまし。その尊いお手を私風情の唇で穢すのは、恐れ多いことでござりますからな」
 驚いたことに、将軍夫人はかなり気持ちよく彼に手をさし伸べた。
 「それから村一番の美女、あなたにもご挨拶申し上げます」と彼はペレペリーツィナ嬢に向かいながら言葉をつづけた。「なにぶんこういうやくざ者のことですから、なんともいたし方がございません! もう一八四一年の年に、わたしが勤めのほうを免職になったその時から、やくざ者という折紙がついてしまいました。それは! ヴァレンチン・イグナーチッチ・チホンツェフが八等官をもらって、佐官相当官になられた時のことで、あの方は八等官になられるし、わたしはやくざ者に任官されたわけでございます。わたしという人間は、あけすけの底なしにできているので、なんでも白状せずにおられませんでな。なんともいたし方がございませんよ! 今までは正直に世を渡ろうと思って、一通りやってみましたけれど、これからなんとかほかの手を考えてみなければなりませんて。さて、アレクサンドラ・エゴーロヴナ、おいしい林檎のようなお嬢さん」テーブルのまわりを廻って、サーシェンカのほうへ近寄りながら、彼はまた言葉をつづけた。「どうかあなたのお召物に接吻させてくださいまし、お嬢様、あなたのお体からは林檎だとかなんだとか、いろんなおいしい物の匂いがいたしますよ。それから、今度は命名日のぬしにお祝いを申し上げます。ほら、坊っちゃまに弓と矢を持ってまいりましたよ。朝じゅうかかって自分で造りましたので、家の餓鬼どもも手伝ってくれましたよ。みんなで、これを射て遊びましょう。あなたが大きくなって、将校さんにおなりになったら、トルコ人の首を斬っておやんなさい。タチヤーナ・イヴァーノヴナ……あっ、あの方はここにいらっしゃらない! あの方にもお召物を接吻させてもらうつもりだったに。プラスコーヴィヤ・イリーニチナ、残念ながら、あなたのお傍まで皆様をおし分けてまいることができません。さもなければ、あなたのお手ばかりか、おみ足にまで接吻させていただくところでございます、――こんなふうにな! アンフィーサ・ペトローヴナ、心からの敬意をあなたに捧げます。つい今日も、あなたのことを神様にお祈りしましたよ、両膝ついて涙を流しながら、お祈りをいたしましたので。それから、ご子息のこともやはり祈っておきました。神様が官等や位や才能を、――ことに才能を授けてくださるようにってな! ついでながら、イヴァン・イヴァーヌイチ・ミジンチコフにも、うやうやしくご挨拶を申し上げます。どうか、あなたにお望みどおりのものを、神様が授けてくださいますように。だって、あなたはいつも黙りこくっておいでなので、何を望んでいらっしゃるやら、とんと見当がつきかねますでな……ナスチャ、ご機嫌よう! うちの雑魚《ざこ》どもがお前によろしくいってたよ。毎日お前の噂ばかりしておる始末だ。さあそこで今度は、ご主人にあらためて、うやうやしくご挨拶を申し上げます。町からやって来たのでございますよ、あなた、町から真っすぐにまいりましたので。ときに、これはあの大学で勉強しておいでになった、確か甥ごさんでいらっしゃいましょうな? 初めて御意を得ます、どうぞお手を」
 どっと笑い声が起こった。この老人がわれから好んで道化の役を演じているのは、想像するに難くなかった。彼の到来は一座をすっかり浮き立たせた。その当てこすりを感じなかった者も大分いたけれど、彼はとにかく一座の人にほとんどぜんぶ挨拶をして廻った。ただ家庭教師だけは(老人は彼女をただナスチャと呼び捨てにして、わたしを面食らわせた)、顔をあからめて、眉をひそめた。わたしは手を払いのけようとした。すると、老人はただそればかり待ちかまえていたようなふうで、
「なに、わたしはただあなたのお手を握らせていただこうと思っただけですよ。それも、もしお許しがあればというので、何も接吻しようと申すのじゃありませんよ。いったいあなたは接吻するかとお思いになりましたので? いや、とんでもない、今のとこ、ただ握手しようというだけのことでございますよ。あなたはきっとわたしをおかかえの道化だと思っておいででしょうな?」笑いを含んだ目つきでわたしを見つめながら、彼はこういった。
「い、いや、とんでもない、ぼくは……」
「そう、そう、そうでしょうとも! もしもわたしが道化だとすれば、そこら辺にまだもう一人だれかいるはずですて、まあ、あなたわたしを尊敬していただきたいものですな。わたしはまだあなたの考えていらっしゃるような、そんなやくざ者じゃありませんよ。そりゃ、ことによったら道化者かもしれません。わたしは奴隷だし、女房は女奴隷ですから、一にもおべっか、二にもおべっかというわけでさあ! そういうわけなんですよ! なんといっても、何やかや得《とく》になることがありますからな、餓鬼どもの牛乳代くらいにはなりまさあね。何ごとにつけても、せいぜいお砂糖を余計に入れて、うんと甘くしなくちゃなりませんよ、その方が体のためにもよろしいからな。これはな、あなた内証で申し上げるんですよ! いつかまた、お役に立つことがあるかもしれませんて。運命の神様にいじめられたので、それでわたしは道化者になったんで」
「ひひひひ! まあ、このお爺さんの剽軽《ひょうきん》なことといったら! いつもああしてみんなを笑わせるんですよ!」とアンフィーサ・ペトローヴナは黄いろい声でいった。
「でも、奥様、馬鹿者でいたほうが、世の中が暮らしようございますよ! これが、もっと早くわかっていたら、若い時から馬鹿者の仲間入りをして、今頃は賢い人間になれていたかもしれないのに、あまり早く悧巧者になりたがったせいで、今じゃこうして、老いぼれの馬鹿者になってしまいましたよ」
「ちょっとおたずねしますが」とオブノースキンが口をいれた。彼は「才能」云々の言い草が気に入らなかったらしく、わざと大ふうにゆったり肘掛けいすにもたれかかったまま、まるで虫でも調べて見るように、例の柄付き眼鏡で老人をじろじろ見廻していた。「ちょっとおたずねしますが……ええと、きみの名前はなんといったっけ?………」
「ああ! わたしの苗宇はまあ、エジェヴィーキンといったわけでございますが、そんな苗字なんかあってもしようがございませんよ。もうこれで足かけ九年、無職でぶらぶらしながら、自然の法則にまかせて暮らしているような有様なので。それに子供、子供ときたら、まるで、ホルムスキイの家族そのままでございますよ! ちょうどあの俗に申す、『金持ちには牛仔《べこ》が殖え、貧乏人には餓鬼が殖え』るというやつでな……」
「ふむ、そう……牛仔《べこ》……だが、そんなことはさておいて、 一つ聞かしてもらいたいことがある。ぼくは前から聞きたかったんだけれど、きみがいつも入って来る時に、すぐうしろをふり向いて見るのは、いったいどういうわけです? あれはどうも滑稽だね」
「なぜうしろをふり向くかですって? それはほかでもございません、わたしはいつもだれかうしろからやって来て、いきなり私《ひと》を蠅のように叩き潰しそうな気がしましてな、それでうしろをふり向いて見ますので。わたしはモノマニヤというやつにかかったのでございますよ」
 また、笑い声が起こった。家庭教師は立ちあがって、出て行きそうにしたけれど、また肘掛けいすに腰をおろした。その両の頬を染めているくれないの色にもかかわらず、その顔には何かしら苦しそうな、痛々しい影がさしていた。
「お前あれがだれかわかるかい?」と叔父はわたしにささやいた。「実はあの娘の父親なんだよ!」
 わたしは目を皿のようにして、叔父を見つめた。エジェヴィーキンという苗字が、すっかり頭から飛び出してしまっていたのだ。わたしはいっぱし小説の主人公気どりで、ここへ来る道々も、自分に擬せられている生涯の伴侶のことを絶えず空想しながら、彼女のために素晴らしい計画を立てていたくせに、その苗字をすっかり忘れていた、というより、初めからその点にまるっきり注意を払っていなかったのだ。
「え、父親ですって?」とわたしもやはり、小さな声で問い返した。「ぼくはあの人のことを、みなし児だとばかり思っていましたよ」
「父親なんだよ、お前、父親なんだよ。しかも、ごく正直な、潔白この上ない人間でね、酒だって飲みゃしないんだが、ただああして道化の真似をやっているんだ。ひどい貧乏で、子供が八人からいるんだよ! まあ、ナスチャの月給でやっと暮らしを立てているのさ。勤めのほうを馘になったのも、つまりあの舌のせいなんだ。毎週かならずやって来るけれど、なかなかどうして気位の高い男で、けっして金をとらないんだ。こっちからやろうと思ってね、何度もやろうとしたけれど、どうしても取ってくれない。えこじになってしまってるんだね!」
「ときに、きみ、エヴグラーフ・ラリオーヌイチ、何か珍しい話はないかね?」疑り深い老人が、もうさっそくわたしたちの話を盗み聞きしているのに気づいて、叔父はこう問いかけながら、その肩をぽんと一つ叩いた。
「珍しい話でございますって? 昨日ヴァレンチン・イグナーチッチが、トリーシンのことで声明書を発表しましたよ。というのは、やつの監督している製粉工場で、麦粉の斤目が足りなかったので。それはね、奥様、人の顔を見るのに、サモワールの火でも起こしているような膨れた面をしている、例のトリーシンでございますよ。覚えていらっしゃいますでしょうか? そこで、ヴァレンチン・イグナーチッチがその声明書の中に、このトリーシンのことをこんなふうにいっているのでございます。『前にしばしば述べたるトリーシンは、現在肉親の姪の貞操を保護し得ざりし以上、――実はこの姪というのが、去年さる将校と駆落ちしましたので、――いかにして国有財産の保護を全うするをえんや』まったく、このとおりに書いてあるのでございます。本当ですとも、嘘は申しません」
「まあ! あなたはなんて話をなさるんでしょう!」とアンフィーサ・ペトローヴナは叫んだ。
「そうとも、そうとも、そうとも! エヴグラーフ、きみは少し調子に乗りすぎたよ」と叔父は相槌を打った。「きみはその舌のために身を滅ぼしてしまうよ! きみは正直で、潔白な、一本気の人間だ、――それはわたしが立派に保証するけれど、ただどうも口が悪くって! どうしてみんなと折合いよく暮らしていけないのか、それが不思議でたまらない! みんな、ざっくばらんな、いい人ばかりのようだがなあ……」
「そうはおっしゃいますけれど、わたしはそのざっくばらんな人間が怖いんで!」と老人は何かとくべつ勢いづきながら叫んだ。
 その答えはわたしの気に入った。わたしは急ぎ足でエジェヴィーキンに近寄りながら、堅くその手を握りしめた。まったくのところ、わたしは一座の世論に反対して、公然と老人に同情を示してやりたかったのである。ことによったら、ナスチャの信用を回復したかったのかもしれない。しかし、わたしの動作はいっこうになんの効果ももたらさなかった。
「失礼ですが」と、いつもの癖であかくなってせきこみながら、わたしはいい出した。「あなたはジェスイット派のことを聞いたことがありますか?」
「いや、あなた、ぞんじませんな。そりゃ、まあ、多少は……いや、なんの、どうしてわれわれ風情に! それで、つまり、なんのお話でございます?」
「実は……ぼくちょうどいいついでだから、こんなお話がしたかったのです……もっとも、いつか折があったら、あなた方から催促してください。今はただぼくがあなたを理解して……そして十分に尊重しているということだけ、あなたに信じていただきたいのです……」
 わたしはすっかりまごついてしまって、もう一ど彼の手を握った。
「きっと覚えております、必ず覚えておりますとも! ちゃんと金文字で銘記しておきますよ。さあ、ごらんください、おれないように結び瘤をこしらえておきましょう」
 彼は本当に、煙草のような色をした汚らしいハンカチをとり出して、乾いた片隅を見つけ出すと、小さな結び瘤をつくった。
「エヴグラーフ・ラリオーヌイチ、お茶を召しあがれ」とプラスコーヴィヤ叔母がいった。
「ただ今、ただ今すぐにいただきます、奥様、いや、奥様じゃない、王女様! これはお茶のお礼に申し上げる言葉なので! ときに、わたしは途中でスチェパン・アレクセーイチ・バフチェエフにお会いしましたよ! どうも、いやはや、びっくりするくらい大はしゃぎで、これから嫁でももらおうとしていらっしゃるのかと、思われるほどでございましたよ。一にもお世辞、二にもお世辞!」と、茶碗を受け取ってわたしのそばを運んでいく拍子に、細めた目でわたしに合図をしながら、彼は小さな声でいった。「ところでいったいどうしたことでございます、おもな恩人のフォマー・フォミッチがお見えにならないのは? あの方はお茶に出ていらっしゃらないのでございますか?」
 叔父はまるで何かに刺されたように、ぴくりと身を慄わして、おずおず将軍夫人の顔色をうかがった。
「わたしにもよくわからないんだ」と彼は妙にへどもどしながら、思いきりの悪い調子で答えた。「迎えにやったんだけれど、あの人は……よくわからないけれど、気分でもよくないのかもしれない。ヴィドプリャーソフを迎えにやるにはやったんだが……もっとも、自分で行ってみるかな?」
「わたしは今ちょっと、あの方のところへお寄りしてみました」とエジェヴィーキンは秘密めかしい調子でこういった。
「へえ、これはどうも!」と叔父はびっくりして、叫び声をあげた。「それで、どうだったね」
「まず真っ先にあちらへお寄りして、敬意を表わしたわけなのでございます。すると、あの方のおっしゃるには、わしは一人で静かにお茶を飲む、わしはこつこつになったパンの皮だけでも生きていける、とこんな後句《あとく》もございました、はい」
 この言葉はしんから叔父をぞっとさせたらしい。
「きみ、エヴグラーフ・ラリオーヌイチ、きみがよく話をして、あの人をなだめてくれたらよかったのになあ」と叔父は責めるような、悩ましげな目つきで老人を見つめながら、とうとう口をきった。
「話しましたとも、よく話したのでございますよ」
「で?」
「あの方は長いあいだ、返事もしてくださいませんでした。何か数学の問題でも解いていらっしゃるふうで、一生懸命な様子でございました。お見受けしたところ、大変むずかしい問題らしく、わたしの見ている前で、ピタゴラスの定理の図形を引いていらっしゃいました、――それはちゃんとこの目で見ましたので。わたしは三度ばかり話しかけましたが、四度目にやっとおつむりをお上げになって、初めてわたしが目に入ったような具合でございました。『わしは行かない。あすこには今学者[#「学者」に傍点]が来ているから、わしなどがそんな偉い人の前に顔を出す柄でない』というわけで。本当に、そうおっし ゃったのでございます、――偉い人の前にって」
 こういいながら、老人は冷笑を含んだ目つきで、ちらとわたしを尻目にかけた。
「ああ、やっぱりわたしの心配していたとおりだ!」両手をぱちりと打ち鳴らしながら、叔父は叫んだ。「はたして、わたしの思ったとおりだ! これは、セルゲイ、お前のことなんだよ、その『学者』というのは。さあ、いったいどうしたものかな?」
「叔父さん、正直な話」とわたしはさも偉そうに肩をすくめてこう答えた。「ぼくにいわせれば、そんなことをいって断わるのは実に滑稽な沙汰で、一顧の価値もないくらいです。ぼくは、叔父さんがそうお困りになるのが、不思議でたまらない……」
「ああ、セルゲイ、お前はなんにも知らないんだよ!」と彼は力まかせに片手を一と振りしながら、叫んだ。
「もう今更くよくよしたって、仕方がありませんよ」と、不意にペレペリーツィナ嬢が、口をはさんだ。「だって、こんないやな話は、みんな元はといえば、あなたご自身から起こったことなんですもの、エゴール・イリッチ。首を斬られてしまったのに、髪の毛を惜しがったって始まらない道理ですからね。お母様のお言葉をちゃんと聞いてらっしゃれば、今頃こんな嘆きは見ないですんだものを」
「ですが、アンナ・ニーロヴナ、いったいわたしのどこが悪いんです! ちっとは神様の罰を恐れるもんですよ!」うるさい言い合いをみずから求めるように、叔父は哀願の調子でこういった。
「わたしは神様を恐れていますよ、エゴール・イリッチ。つまり、元をただせば、あなたが利己主義者で、お母様を愛していらっしゃらないからです」とペレペリーツィナ嬢はもったいぶった調子で答えた。「なぜあなたはそもそもの初めに、お母様の意志を尊重なさらなかったのです? だって、この方はあなたの産みの親じゃありませんか。わたしはけっして間違ったことは申しません。わたしは中佐の娘で、どこの馬の骨か知れない女とは違います」
 どうやらわたしの見たところでは、ペレペリーツィナがこの話に割りこんで来たのは、自分が中佐の娘で、どこの馬の骨か知れない女とは違うということを、一同の者、――ことに新参者のわたしに声明して聞かせるのが、唯一の目的だったらしい。
「つまり、あれが現在の母親を侮辱するからですよ」当の将軍夫人が、とうとう厳しい声で口をきった。
「お母さん、とんでもない! いつわたしがあなたを侮辱しました?」
「つまり、お前が陰気くさい、利己主義者だからですよ、エゴールシュカ」と将軍夫人はだんだん気色ばみながら、言葉をつづけた。
「お母さん、お母さん! どうしてわたしが陰気くさい利己主義者なんです?」ほとんど絶望したように叔父はこう叫んだ。「あなたは五日間も、まる五日間もわたしに腹をたてて、口をおききにならないんですからね! それはどういうわけです? いったいなんのためなんです? 一つみんなに裁いてもらいましょう! 全世界の人に裁いてもらいましょう。もういい加減、わたしの弁解も聞いてもらっていい時分です。お母さん、わたしは長いこと黙っていました。あなたがわたしのいうことを聞こうとなさらないんですものね。しかし、今こそわたしは皆さんに聞いていただきます。アンフィーサ・ペトローヴナ! パーヴェル・セミョーヌイチ、高潔無比なパーヴェル・セミョーヌイチ! それからセルゲイ! お前は局外漢だ、お前はいわば見物人だから、公平な判断ができるわけだ……」
「気をお鎮めなさい、エゴール・イリッチ、気をお鎮めなさい」オブノースキナ夫人が叫んだ。「あなたはお母様を殺しておしまいになりますよ!」
「わたしは何も、お母さんを殺しなんかしませんよ、アンフィーサ・ペトローヴナ。それどころか、さあ、このわたしの胸を突き刺してください!」叔父は極度に熱して、こう言葉をつづけた。それは弱い性格の人間が堪忍袋の緒を切らされた時に、えてあることなのだけれども、その興奮はまるで藁に火をつけたようなものなのである。「アンフィーサ・ペトローヴナ、わたしはけっしてだれも侮辱なんかしません、それをわたしはいいたいのです。まず第一に申しますが、フォマー・フォミッチは実に高潔な、この上もなく立派な人で、おまけに優れた才能の所有者です……がしかし、今度の場合は、あの人がわたしに間違った態度をとったのです」
「ふむ!」オブノースキンは、なおも叔父を苛々させようとするように、鼻の先であしらった。
「パーヴェル・セミョーヌイチ! 高潔無比なパーヴェル・セミョーヌイチ! いったいあなたは、本当にわたしのことを、なんの感情も持たない、いわば木石漢だと思っていられるんですか? そりゃわたしだって見ています、いわば、心で涙を流しながら感じています、――こうしたいろいろな気持ちのくい違いは、要するに、あの人[#「あの人」に傍点]がわたしをあまり愛しすぎるからだとは、自分でもよく承知しています。しかし、きみがなんといわれようと、実際のところ、今度の場合はあの人が間違ってるんです。もう何もかも、話してしまいましょう。アンフィーサ・ペトローヴナ、今こそわたしはこのいきさつを、はっきり詳しくお話しして、どうしてこんなことが起こったか、またわたしがフォマー・フォミッチの御意に逆らったといって、お母さんが腹をおたてになるのが無理か、無理でないか、皆さんに裁いてもらいたいのです。セリージャ、お前も聞いていておくれ」と彼はわたしのほうへふり向きながらいい足した。彼は話のつづいている間じゅう、絶えずこの動作をくり返したが、それはまるで、ほかの聞き手を恐れ、その同情を疑うようなあんばいだった。「お前もすっかりよく聞いて、わたしが間違っているかどうか決めておくれ。実は、ことの起こりはこういうわけなんだ。一週間ばかり前に、――そうだ、一週間以上はたっていない、――わたしの元の上官だったルサペートフ将軍が、奥さんと奥さんの妹をつれて、この町を通過したついでに、ちょっとしばらく足を停められることになった。わたしはこの報知にびっくりして、好機逸すべからずと、急いで飛んで行って挨拶をしたよ、食事にご招待したわけだ。すると将軍は、もし都合がついたらと、約束してくだすった。実に上品な立派な方で、まったくのところ、あらゆる美徳に輝いておられるといっていいくらいだし、おまけに第一流の名士なんだ! 同行の義妹のほうも親切に世話をしておられるし、ある一人のみなし児を、素晴らしい青年と結婚させなすったこともある(この男は今マリーノフで弁護士をしているが、まだ若い男だけれど、実に全宇宙的な教養を持っているんだ!)。一口にいえば、将軍中の将軍ともいうべき大物なんだ! そこで、家じゃ当然、大騒ぎが持ちあがって、やれコックだ、やれ焼鶏《フリカセイ》だ、やれオーケストラだと、歓迎の準備で夢中になってしまった。わたしはむろん嬉しいものだから、まるで命名日でも来たような様子をしていた。ところがね、それがフォマー・フォミッチの気に入らない。わたしが命名日の主のような、嬉しそうな顔をしているのが気に入らないんだ! じっとテーブルに向かったまま、――今でもまだ覚えているが、あの人の大好きなクリームをかけたゼリーが出たところだったっけ、――むっつりと黙りこくっているかと思うと、いきなり跳びあがって、『わたしは侮辱された、侮辱された!』というじゃないか。『いったいどうして侮辱されたんだね、フォマー・フォミッチ?』とたずねると、『あなたはいまわたしをないがしろにしている。あなたはいま将軍に夢中になってしまって、わたしより将軍のほうが大切なんです!』むろん、わたしはいま手短かに掻いつまんで話しているんで、ただほんの要点を伝えるにすぎないんだよ。しかし、そのほかにあの男がいったことをもしお前がすっかり知ったら……ひと口にいえば、わたしは魂の底まで揺すぶられたような気がした! いったいどうしたらいいんだろう? わたしは当然、意気沮喪してしまった。わたしはこのいきさつにすっかり気持ちをめちゃめちゃにされて、まるで濡れしょぼけた牝鶏みたいに、悄然となってしまったんだ。そのうちに、やがて晴れの当日がやって来た。ところが、将軍は使いをよこして、都合がつきかねるからと、辞退の挨拶だ、――つまり、お見えにならないことになった。わたしはフォマー・フォミッチに向かって、『さあ、フォマー、安心してくれたまえ、お見えにならんよ』というと、その返事はどうだったと思う? ゆるしてくれない、いやだいやだの一点ばりだ! 『あなたはわたしを侮辱した』で、どこまでも押して来るじゃないか。わたしはいろいろああもいい、こうもいってみた。『駄目です、勝手に自分の好きな将軍連のところへいらっしゃい。あなたはわたしなんかより将軍連のほうが大切たんだから。あなたは友情の絆を断ち切ってしまったんです』とこうなんだよ。なあ、セルゲイ! そりゃわたしだって、あの人がどうして腹をたてるのか、ちゃんとわかってはいるのだ。わたしはけっして無神経なでくの坊でもなければ、のらくらの穀潰しでもないんだから、つまり、あの人がわたしのことを思ってくれるために、その一心が過ぎて、ああいうふうにするのだということは、十分に察しているんだよ、――あの人は自分でもそういっているが、――あれはわたしのことで将軍にやき餅を焼いてるんだ。わたしの好意をなくするのが心配なものだから、わたしを試験しようとしているわけなんだ。わたしがあの男のために、どれだけ犠牲を払うことができるか、そこを突きとめようと思っているんだ。だが、あの男はどこまでもいい張って聞かないのさ。『駄目です、わたしはあなたにとって将軍も同じことですよ。わたし自身があなたにとって閣下の地位にいるんですからね! あなたはわたしに対する尊敬を証明してくださらない限り、断じて和睦をするわけにはいきません』『いったいどうしたら、きみにその敬意を証明することができるんだね、フォマー・フォミッチ?』『わたしをまるいちんち閣下と呼んでください。そうしたら、わたしに対する尊敬を証明したことになりますよ』わたしは雲の上から足を踏みはずしたような気がしたよ。わたしがどれくらい度胆を抜かれたか、よろしく察してもらいたいよ! 『そうです』とあの人はいうのだ。『これはあなたにとっていい教訓になるでしょう。ほかの人間だって、あなたの好きな将軍連を束にしたよりか、もっと気が利いてるかもしれないのに、むやみと将軍をありがたがるなんて、気をつけたらいいでしょう!』さあ、このときわたしもいよいよ堪忍袋の緒を切らしたんだ。これは今となって後悔するよ! みんなの前で立派に悔悟の意を表するよ! が、その時は我慢しきれなくなってこういった。『フォマー・フォミッチ、いったいそんなことができると思うのかね? え、どうしたってそんなことは無理だろうじゃないか。きみを将軍に昇進さすなんて、そんな権利がわたしにあると思うかね? いったいだれがそういう任命をするのか、考えてみるがいい。それに、どうしてきみのことを閣下なんて呼べるんだ? だって、それは人間の運命の厳粛さを蹂躙するようなものじゃないか! 将軍は国家の誇りともなるべきもので、戦場で命がけの戦いをして、名誉の血を流した人なんだからね! きみのことを閣下だなんて、そんなことはいえるわけがないよ!』ところが、あの人はいっかな後へ退こうとしない! そこで、わたしはこういった。『フォマー、わたしはきみの望みをなんでもかなえてあげる。現にきみは、わたしの頬ひげが愛国的精神に背くといって、無理やりに剃れ剃れといい張るものだから、わたしはこの通り剃り落としてしまった。顔をしかめながらも、とにかく剃り落としてしまった。そればかりじゃない、きみの望むことなら、なんでもそのとおりにするから、ただ将軍の位だけは思い切ってもらいたい!』『いや、わたしは閣下といってもらうまでは、けっして和睦しません! それは、あなたの道徳的修養のためにも、有益なことなんです。それはあなたの自尊心を和げることになりますからね!』とこう来る。そういうわけで、もうかれこれ一週間ばかり、いや、まる一週間もわたしと口をきこうとしないで、家へやって来る人ごとに腹をたてているんだ。お前のことにしても、学者だという話を聞くが早いか、――もっとも、これはわたしが悪いのだ、つい前後の考えもなく、口をすべらしてしまったのさ! すると、お前がこの家へ乗り込んで来たら、もうけっしてここの閾を跨がないといい出すじゃないか。『してみると、もうわたしはあなたにとって学者じゃないんですな』とこういうんだよ。やがて、今にコローフキンのことを聞き込んだら、それこそまた騒ぎだ! さあ、一つお願いだから裁いておくれ、――これについて、いったいわたしのどこが悪いんだろう? それとも、思いきってあの男に、『閣下』といったものだろうか? ねえ、いったいこんな有様でやっていけると思うかね? 第一、なんだってあの男は罪もないバフチェエフを、きょう食事なかばに追い出してしまったのだ? そりゃ、まあ、バフチェエフは天文学を考え出しはしなかったに相違ない。だが、そんなことをいえば、わたしたって天文学を考え出しやしなかったし、お前だってそんなものを考え出したわけじゃないだろう……え、これはなんのためだろう、いったいなんのためだろう?」
「それは、お前がやっかみ屋だからだよ、エゴールシュカ」またもや将軍夫人が、口をもぐもぐさした。
「お母さん!」と叔父はさも情けなさそうに叫んだ。「あなたはわたしを気ちがいにしておしまいになりますよ!………あなたのおっしゃるのは、ご自分の言葉じゃなくって、人の言葉の口移しですよ、お母さん! それじゃわたしは結局あなたの息子じゃなくて、でくの坊の、間抜けの、提灯男になってしまいますよ!」
「叔父さん、ぼくはこんな話を聞きましたよ」今の話で、ものもいえないほどあきれ返ったわたしは、とうとう口を出した。「ぼくはバフチェエフ氏から聞きましたが、――もっとも、本当かどうか知りませんけれど、――フォマー・フォミッチはイリューシャの命名日をやっかんで、おれも明日は命名日の祝いを受けるんだと、いい張ったそうですね。正直なところ、これはあの人の性格を完全に物語る事実で、ぼくすっかり驚いちまったんです。だもんだから……」
「誕生日だよ、お前、誕生日の祝いで、命名日の祝いじゃないんだ。誕生日なんだよ!」と叔父は早口にわたしをさえぎった。「あの男の言い方もちょっと間違ってはいたが、しかし実際はそのとおりなのさ、明日はあの人の誕生日なんだよ。もっとも、まず第一に……」
「誕生日でもなんでもありゃしかいわ!」とサーシェンカが叫んだ。
「どうして誕生日でないんだ!」叔父はぎょっとして声を筒抜けさした。
「誕生日でもなんでもないのよ、お父様! それは、お父様が出たらめをいってらっしゃるだけよ、――フォマー・フォミッチの機嫌をとろうと思って、自分で自分をだましてらっしゃるんだわ。だって、あの人の誕生日はもうこの三月にすんだんですもの、――ねえ、覚えてらっしゃるでしょう、あたしたちその前に修道院へお詣りに行ったところ、あの人は馬車の中でも、みんなをじっと落ちついて坐らせなかったじゃありませんか、――クッションで横っ腹をおし潰されてしまった[#「おし潰されてしまった」に傍点]って、のべつわめき通しにわめいて、おまけにみんなをつねりちらしたじゃありませんか。叔母さんなんか意地悪く二度もつねられたもんだわ! それから誕生日になって、あたしたちがあの人のところへお祝いに行ったら、あたしたちのあげた花束に椿の花がないといって、ぷりぷり腹をたてたじゃありませんか。『わたしの趣味は上流社会のものだから、椿が大好きなんです。それだのに、あなた方はわたしのために温室の花を剪るのを惜しがったんです』なんかって、まる一日ふくれっ面をして、駄々ばかりこねちらして、あたしたちと口もきかなかったくらいよ……」
 もし爆弾が部屋のまん中に落ちて来たとしても、このだれはばからぬ大っぴらな反抗ほどには一同を驚かせ、あきれさせはしなかったろうと思われる、――しかもそれはだれあろう、まだ祖母の前では大きな声で話も許されていない、年歯もゆかぬ小娘の仕業ではないか。将軍夫人は驚きと怒りのために口もきけなくなり、腰を持ち上げて身を反らしながら、われとわが目を疑うように、大胆不敵な孫娘をじっと見つめていた。叔父は恐怖のあまり麻痺したようになってしまった。
「なんという増長のさせ方だろう! お祖母さんをいじめ殺すつもりなんですね!」とペレペリーツィナは叫んだ。
「サーシャ、サーシャ、気をおつけ! お前いったいどうしたというのだね、サーシャ?」将軍夫人とサーシェンカのほうへかわるがわる飛んで行って、娘の口を止めようとあせりながら、叔父はこう叫んだ。
「あたしもう黙っていられませんわ、お父様!」不意に椅子から躍りあがって、じだんだを踏み、目を輝かしながらサーシャはわめきたてた。「もう黙っていられませんわ! あたしたちはみんな、フォマー・フォミッチのお蔭で、あのいやらしいやくざなフォマー・フォミッチのお蔭で、どんなに長い間つらい思いをしたか、知れないんですもの! だって、フォマー・フォミッチは、あたしたちをみんなめちゃめちゃにしてしまうんですもの。それというのも、はたの者がのべつあの人に向かって、あなたは賢い人だ、寛大で高潔な学識の深い人だ、ありとあらゆる徳行を一緒に合わせた集成曲《ポブリー》だ、なんていうものだから、フォマー・フォミッチは馬鹿みたいに単純に、それをすっかり本当にしてしまったのよ! ほかの人だったら気のさすようなご馳走を、後から後からあの人の前へ運んで行くと、フォマー・フォミッチは自分の前へ置いてもらったものを片っ端から平らげて、また後をねだるんですからね。今に見てらっしゃい、あの人はあたしたちをみんな食ってしまってよ。それはだれのせいかというと、みんなお父様が悪いのよ! フォマー・フォミッチは本当にいやないやな人間ったらありゃしない。あたし明けすけにいってしまうわ、だれだって怖かないんだから! あの人は馬鹿で、わがままで、薄汚い引きったれで、下品な人情のない暴君で、陰口屋で、嘘つきなのよ……ああ、あたしだったらきっと、きっと今すぐあの人を屋敷から追い出してやるんだけれど、お父様はあの人を崇拝して、あの人に夢中なんですもの!」
「ああ!………」と将軍夫人は一声さけぶと、ぐったり長いすに倒れてしまった。
「アガーフィヤ、いい子だから、後生だから、わたしの香水瓶を持って来ておくれ!」とオブノースキナ夫人は叫んだ。「水を、水を早く!」
「水だ、水だ!」と叔父は叫んだ。「お母さん、お母さん、落ちついてください! 膝を突いてお願いします、どうか落ちついてください!………」
「あなたのような人は、パンと水だけで暗い部屋へ押しこめて、外へ出さないようにしなくちゃ……あなたは本当に人殺しですよ!」ペレペリーツィナは憎悪に身を顫わせながら、声を殺してサーシェンカを叱りつけた。
「パンと水だけで押し籠められたってかまやしない。あたしなんにも怖くないわ!」これもやはり夢中になって、前後を忘れた様子で、サーシェンカはわめき返した。「あたしお父様を守ってあげるのよ。だって、お父様はご自分で守れないんですもの。あの男はいったい何者なの? あなたのフォマー・フォミッチなんか、お父様に対してどんな人間だと思って? お父様にパンをもらって食べてるくせに、しかもお父様を抑えようとするんだもの、あんな恩知らずってありゃしないわ! ほんとうにあたしはあいつを、あなた方のフォマー・フォミッチを、八裂きにしてやりたいくらいよ! あいつに決闘を申し込んで、二梃ピストルでいきなりその場にたおしてやりたい……」
「サーシャ、サーシャ!」と叔父は絶望の叫びをあげた。「お前がもうひと言いったら、わたしの身はもう破滅だ、それこそもう取り返しはつかないんだよ!」
「お父様!」いきなり矢のように父のそばへ駆け寄り、涙に泣き濡れながら、固く父の体を両手に抱きしめて、サーシャはこう叫んだ。「お父様! ねえ、いったいお父様のように優しい、立派な、陽気な、賢い人が、そんなことで自分の身を破滅させていいものですか、お父様が、あんな穢らわしい恩知らずのいうことを聞いて、あんな者の玩具になって、自分で自分を人の笑いぐさにするって法があるでしょうか? お父様、あたしの大事なお父様!………」
 彼女はしゃくり上げて泣きながら、両手で顔を隠すと、そのまま部屋を駆け出した。
 恐ろしい騒ぎが始まった。将軍夫人は気を失って倒れていた。叔父はその前に膝をついて、両の手に接吻していた。ペレペリーツィナ嬢は、二人のまわりをうろうろしながら、わたしたちのほうへ毒々しい、けれども勝ち誇ったような視線を投げるのであった。オブノースキナ夫人は、将軍夫人のこめかみを水で冷やしながら、例の香水瓶をいじくりまわしていた。プラスコーヴィヤ叔母は身を慄わして、さめざめと涙にくれていた。エジェヴィーキンはどこか身を隠すところはないかと、都合のよさそうな物陰をさがしていたし、家庭教師は恐怖のあまりとほうに暮れ、真っ青な顔をして立っていた。ただ一人、以前と変わらぬ様子をしていたのは、ミジンチコフだった。彼は立ちあがって窓のそばへ近寄り、この場の有様に一顧の注意も払わず、じっと窓外を眺め始めた。
 不意に将軍夫人は長いすの上に身を起こし、きっと身を反らして、もの凄い目つきでわたしをじろじろ見廻した。
「出て行け!」片足をとんと踏み鳴らして、彼女はこうわめいた。
 白状しなければならないが、これはわたしのまったく思い設けぬところだった。
「出て行け! この家から出て行け、とっとと行ってもらおう! なんだってあんな者がやって来たのだ? あいつの匂いがしても承知しないから! 出て行け!」
「お母さん! お母さん、何をおっしゃるんです! だって、あれはセリョージャですよ」恐ろしさに全身を慄わしながら、叔父はへどもどしてつぶやいた。「だって、お母さん、これは家へお客に来たんじゃありませんか」
「セリョージャってだれのことだえ? 馬鹿なことを! わたしはなんにも聞きたくない、出て行け! これはコローフキンです。きっとコローフキンに違いないと思う。わたしの勘に間違いはないから。この男はフォマー・フォミッチをいびり出そうと思ってやって来たのだ。そのためにわざわざ呼び寄せられた人間です。わたしはちゃんと虫の知らせがあります……出て行け、やくざ者!」
「叔父さん、そういうことなら」と、わたしは高潔な憤懣の情に息をつまらせながら、いい出した。「そういうことなら、ぼくは……失礼します……」とわたしは帽子に手をかけた。
「セルゲイ、セルゲイ、お前は何をするのだ?……やれやれ、今度はまたこれが……お母さん! これはセリョージャじゃありませんか!………セリョージャ、冗談じゃないよ!」わたしの後を追っかけて、わたしの手から帽子を引ったくろうとあせりながら、彼は叫んだ。「お前はわたしのお客さんだから、残ってくれなくちゃ駄目だ! なに、あれはただちょっとああいってみるだけなんだよ」と彼は小声につけ足した。「あれはただ怒った時にあんなふうなんでね……ただ初めちょっとの問だけ、どこかへ隠れていておくれ……しばらくどこかへ引っこんでたら、なんでもありゃしない、すぐ収まってしまうよ。お母さんはゆるしてくださるよ、――それはわたしが誓ってもいい! しんはいい人なんだけれど、ただあんなふうに口が過ぎるだけなんだよ……今も聞いていたとおり、お母さんはお前をコローフキンと取り違えたんだが、後できっとゆるしてくださる、請け合いだ……お前、何用だ?」ちょうど部屋へ入って来て、恐ろしさにわなわな慄えているガヴリーラに向かって、彼はこうどなりつけた。 ガヴリーラは一人きりではなかった。屋敷づとめの下男で、年頃十六ばかりの素晴らしく器量のいい少年が、彼といっしょに入って来た。後で聞いたところによると、その美しい顔だちのために、屋敷へ引き上げられたとのことである。名はファラレイといった。彼は何か特別の衣裳を身に着けていた。組紐で襟を縁どりした赤い絹のルバーシュカに、金モールの帯をしめ、黒いふらしてんの広ズボンを着け、赤い折返しのついた山羊革の長靴をはいていた。この衣裳は将軍夫人自身の道楽なのである。少年はさも悲しそうにおいおい泣いていた。涙の玉が後から後からと、大きな空色の目から転がり出すのであった。
「これはまた何ごとだ?」と叔父はどなった。「いったいなにごとが起こったのだ? 早くいわんか、この悪党!」
フォマー・フォミッチが、ここへ来いとお言いつけになりましたので、ご自分も後からついていらっしゃいます」ガヴリーラは悄然と答えた。「わたしは試験《エクザメント》に呼ばれたので、こっちの方は……」
「こっちの方は?」
「踊りをやっておりましたんで」とガヴリーラは情けなさそうな声で答えた。
「踊りをやった!」と叔父はぞっとして叫んだ。
「踊りを――やりましたんで!」とファラレイは啜り上げながらわめいた。
「コマーリンスキイをかい?」
「コマーリンスキイなので!」
「それをフォマー・フォミッチが見つけたのかね?」
「みーつーけました!」
「いよいよとどめを刺しやがった!」と叔父は叫んだ。「もうおれの首はないぞ!」と彼は両手で自分の頭をかかえた。
フォマー・フォミッチのおいでです!」ヴィドプリャーソフが、部屋へ入って来ながらこう披露した。
 扉がさっと開いて、度胆を抜かれている人々の前に、フォマー・フォミッチが自分の姿を現わした。
[#3字下げ]6 白い牡牛とコマーリンスキイの百姓の話[#「6 白い牡牛とコマーリンスキイの百姓の話」は中見出し]
 わたしはいま入って来たフォマー・フォミッチを、親しく読者に紹介するにさきだって、まずファラレイについて数言を費し、なぜ彼がコマーリンスキイを踊っていたのが悪いのか、またこの陽気な戯れをフォマー・フォミッチに見つけられたのが、なぜさほど悪いのか、それをどうしても説明しておかなければならないと思う。ファラレイは屋敷づとめの下男をしていたが、生まれ落ちるとからのみなし児で、叔父の先妻の名づけ児だった。叔父はこの少年を非常に愛していた。この一つの理由だけでも、フォマー・フォミッチがスチェパンチコヴォ村へ移って、叔父を自分の権力下に屈服させるやいなや、その気に入りのファラレイを目の仇にしたのは当然の話である。けれど、この少年はなぜかとくべつ将軍夫人の気に入ったので、フォマー・フォミッチがぷりぷり怒っていたのにもかかわらず、相変わらず、ご主人たちのそばで上《かみ》のご用を勤めていた。それは将軍夫人自身の主張だったので、フォマーは怨みを胸に秘めながら、仕方なしに譲歩したのである、――彼はなんでも怨みに思う人間だった、――そして、折さえあれば、なんの罪もない叔父をつかまえて、その怨みを晴らそうとした。ファラレイは実に見とれるほどの美しい少年で、顔は女のようだった。というより、美しい村乙女の顔といいたいくらいだった。将軍夫人はこの少年を磨き上げて、綺麗に着飾らせ、まるで珍しい綺麗な玩具の様に大事にしていた。彼女にとっては、むく毛の小犬のアミとファラレイと、どちらが余計にかわいいのか、ちょっと判じかねるほどだった。将軍夫人の考案になる彼の衣裳のことは、もはや前に述べておいた。婦人連は彼にポマードをやった。理髪師のクジマーは祭日ごとに、彼の髪をカールしてやらなければならなかった。この少年は何かしら妙な性質で、まるっきりの馬鹿とか、気ちがいとかいうわけにはいかなかったけれど、あまり無邪気で正直で単純だったので、どうかすると、本当に馬鹿と思われるくらいだった。何か夢でも見ると、すぐにご主人がたのところへ行ってその話をしたり、邪魔になりはせぬかというような斟酌なしに、ご主人がたの話に口をいれたり、下男として話せないようなことまでぺらぺらとしゃべるのであった。彼は将軍夫人が気絶したり、旦那様があまりひどく罵られたりすると、心底から熱い涙を流しで、さめざめと泣くのであった。彼はすべての不幸に同情した。どうかすると、将軍夫人のそばへ寄って、その手を接吻しながら、怒らないでくれと頼む、――すると将軍夫人も、この大胆な出過ぎた真似を、寛大にゆるしてやるのであった。彼は度はずれに感じやすく、まるで仔羊のように善良で悪気がなく、幸福な子供のように快活だった。ご主人たちの食事の時には、いつもいろんなものをもらって食べた。
 彼はいつも将軍夫人の椅子のうしろに立って、砂糖をもらうのを何より楽しみにしていた。砂糖の塊りをもらうと、彼はいきなりその場で、牛乳のように白い丈夫そうな歯でがりがり噛じった。そして、楽しげな空色の目にも、かわいい顔ぜんたいにも、たとえようのない満足の色が輝き渡るのであった。
 フォマー・フォミッチは、長いあいだ腹をたてていたが、怒ってみても、どうにもならぬと合点すると、彼は急にファラレイの保護者になろうと決心した。まず、下男どもの教育をまるで考えようともしないといって叔父をさんざんきめつけた後、彼はさっそくかわいそうな少年に、修身や、行儀作法や、フランス語などを教え始めた。『とんでもないことだ!』彼は自分の馬鹿げた考えを弁護しながら、よくこういいいいした(この考えはあながちフォマー・フォミッチ一人の頭に浮かんだわけでもない、それはこの文章の筆者が証明する)。『とんでもないことだ! あの子供はいつも二階で、将軍夫人のお傍についているのだから、もし夫人が出しぬけに、あの子がフランス語を知らないのを忘れて、ドンネ・モア・モン・ムーシュアール(わたしのハンカチを持って来ておくれ)とかなんとかおっしゃった時、すぐ機転を利かしてお役に立たなくちゃならないわけだ!』けれども、ファラレイにはフランス語を教えこむどころか、叔父にあたる料理人のアンドロンが甥にロシヤ語の読み書きを教えようと、欲得はなれて一生懸命に骨折ったけれど、すっかり匙を投げてしまって、もうずっと前から読本を棚の上へ突っこんでしまったくらいである。ファラレイは書物のほうにかけては恐ろしく頭が鈍くて、まったく何一つ呑みこむことができなかった。そればかりでなく、そのために一度、騒ぎが持ちあがったほどである。ほかでもない、下男どもがファラレイを「フランス人」といってからかった時、叔父のお付きをしている下男頭のガブリーラ老人が、フランス語学習の利益を公然と否定したのである。このことがフォマー・フォミッチの耳に入ったので、かんかんに怒ったフォマーは、当の敵手たるガヴリーラに罰としてフランス語の勉強を強制した。つまり、こういうことから、あれほどバフチェエフ氏を憤慨させたフランス語騒動が始まったのである。行儀作法のほうはもっといけなかった。フォマーはどうしても自分の思いどおりにファラレイを仕込むことができなかった。どんなにやかましく差し止めても、ファラレイは毎朝、かれのところへやって来て、自分の夢話をするのであった。フォマー・フォミッチは、それをこの上もなく馴れなれしい、不作法千万なことと考えていたが、ファラレイはどこまでもファラレイであった。こういったいろいろのことで、まず第一にとばっちりを食わされるのは、もちろん、叔父なのであった。
「どうでしょう、え、どうでしょう、あの子がきょう何をしたと思います?」できるだけ効果を多くするために、みんなの揃っている時を狙って、フォマーはこんなふうにどなるのであった。「ねえ、大佐、あなたのシステマチックな甘やかし主義は、実に際限がないですよ。あいつは食事の時に、あなたからもらった肉饅頭をぺろりと食べたばかりか、その後でどんなことをいったと思います? こっちへ来い、こっちへ来い、この馬鹿め、こっちへ来い、この赤い頬っぺたをした阿呆め!………」
 ファラレイは両手で目をこすりながら、泣き泣きそばへ寄って来た。
「貴様は肉饅頭を食べてからなんといった? みなさんの前でもう一度いってみろ!」
 ファラレイはそれに返事をしないで、ただおいおい泣くばかりであった。
「ふん、それじゃわしが代わりにいってやろう。貴様はぽんぽこに膨らんだ腹を不作法に叩きながら、『マルティンがシャボンを食らったように、肉饅頭をしこたま詰めこんだ!』といったじゃないか、どうです、大佐、いったい教育のある社会で、しかも上流の社会で、こんな言葉づかいをする者がありますか? 貴様そのとおりにいったかどうだ? 返事しろ!」
「いーいーました!………」とファラレイは、しゃくり上げながら答えた。
「よし、それじゃ今度は改めてたずねるが、いったいマルティンがシャボンを食うのか? ぜんたい貴様はどこでマルティンがシャボンを食うとこを見た? さあ、いわんか、その世にも不思議なマルティンに関する観念を与えてもらおうじゃないか!」
 沈黙。
「おれは貴様にきいてるんじゃないか」とフォマーは執念《しゅうね》く迫った。「そのマルティンというのは、いったい何者だ? おれはその男に会いたいよ。近づきになりたいものだ。さあ、いったい何者だ? 書記か、天文学者か、田舎者か、詩人か、下士官か、地主屋敷の下男か――とにかく何者かでなければならんはずだ。返事しろというのに!」
「下、下男です」いつまでも泣きつづけながら、ファラレイはやっとのことでこう答えた。
「じゃ、どこの下男だ? どこの地主に奉公してるのだ?」
 けれど、ファラレイは、どこの地主に奉公しているのか、返事のできるわけがなかった。とどのつまりはいうまでもなく、フォマーが侮辱されたと叫びながら、腹たちまぎれに部屋をとび出すので幕になった。将軍夫人はまた例の気絶を始めた。叔父は自分の生まれた時を呪いながら、みんなに詫びをいって、その日いちんち、自分の部屋を爪先だちで歩かねばならなかった。
 すると、わざと狙ったように、マルティンのシャボン事件のあったすぐ翌日、ファラレイはフォマー・フォミッチのところへ朝の茶を運んで来ると、マルティンも昨日のつらかったこともけろりと忘れてしまって、白い牡牛の夢を見たと報告した。これはコップの水を溢れさす最後の一滴だった! フォマー・フォミッチは言語に絶した狂憤に襲われ、さっそく叔父を呼び寄せて、『あなたのファラレイ』の見たぶしつけな夢のために、叔父の脂を絞りにかかった。そして、今度は厳重な処罰の方法が講ぜられ、ファラレイは片隅に長いこと膝をつかされた上、ああいうがさつな、百姓じみた夢を見てはならぬと、厳重にさし止められた。「わたしがなんのために腹をたてるか、おわかりですか」とフォマーはいった。「じっさいわたしのところへやって来て夢の話などする、――ことに白い牡牛の夢話などするのは、もってのほかの沙汰なんだが、しかしそればかりでなく、――あなたもわかってくださるでしょうが、ねえ、大佐、いったい白い牡牛とはなんでしょう? 要するに、あなたの野育ちなファラレイの無知、不作法、百姓根性を証明するものにほかならんです。夢というものは、考えていることをそのままに見るものですからね。元来、わたしは前からそういっておったじゃありませんか。あんなものはさきの見込みがないから、二階へ上げてご主人がたの傍へつけておくのは、間違ったやり方なんですよ。あの無意味な下層民の魂を鍛えて、何か詩的で高尚なものにするなんてことは、断じて、断じてできっこないですよ。いったい貴様は」彼はファラレイのほうへふり向きながら、こう言葉をつづけた。「いったい貴様は何か優美な、やさしい、高尚な夢を見るわけにいかんのか。立派な上流社会の場面、たとえば、紳士たちがカルタ遊びをしておるところとか、貴婦人が美しい庭を散歩しておるところとか、そんな夢を見ることはできんのか?」ファラレイは、翌晩かならず、美しい庭を散歩している紳士や、貴婦人を夢に見ようと約束した。
 ファラレイは床につきながら、涙ながらにこのことを神様に祈った。そして、どうしたらあのいまいましい白牛を見ないようにできるかと、長いあいだ思いめぐらしたのである。さわれ、人間の希望のはかなさよ! 翌朝、目をさましたとき思い出して見ると、またもや夜っぴてあの憎らしい白牛の夢ばかり見て、美しい庭を散歩している貴婦人など、一人も彼の眠りを訪れなかった。彼はぎょっとした。しかし、今度はまた特別な結果が現われたのである。フォマー・フォミッチは、そういうことがあり得ようとは信じられないと、きっぱりと声明した。そんな夢がくり返されるはずはない。つまり、ファラレイは家の中のだれかに、――おそらく、当の大佐に入知恵されて、フォマー・フォミッチに当てつけようという算段なのだ、こういい張って承知しなかった。そのために、一同はさんざんどなったり責め合ったり、泣いたりした。将軍夫人などは、夕方には病人になってしまった。家じゅうの者はすっかりしょげ返った。わずかに残っていた一縷の望みは、ファラレイが次の夜に間違いなく、上流社会の夢を見るだろうということだった。ところが、一同の驚きと憤懣とはどんなだったろう、――ファラレイは一週間ぶっ通して、毎晩毎晩のべつ白い牡牛を夢に見て、それよりほかの夢を見なかったのである! 上流社会などということは、てんから問題にならなかった。
 何よりも困ったことは、ファラレイには機転を利かして嘘をつくということが、どうしてもできないのであった。ただひと口、白い牡牛の夢でなく、たとえばフォマー・フォミッチが、貴婦人たちで一杯になった馬車に乗っている夢を見た、とそれだけのこともいえないのであった。こういうよくせきの場合には、嘘もそれほど大きな罪ではないのだけれども、ファラレイはあくまで正直一途なたちなので、たとえ自分からその気になったとしても、こんりんざいうそがつけないのであった。ほかの人もそんなことは彼に匂わせもしなかった。彼が最初の瞬間から尻尾を出して、いきなり、フォマー・フォミッチに真相を見破られるに相違ないということは、みんなちゃんと知り抜いていたのである。もうどうにもしようがなかった。叔父の立場はいよいよたまらないほど苦しくなって来た。ファラレイは相変わらず手がつけられなかった。不幸な少年は心配のあまり、痩せ細って来たほどである。女中頭のマラーニヤは、ファラレイにつきものがしているのだといって、物陰からまじないの水をふりかけてみた。この親切な治療には、心の優しいプラスコーヴィヤ叔母も加勢したけれど、それさえなんの験《げん》もなかった。もはや万策つきてしまった!
「本当にいまいましい畜生め、ひどい目に遭わしてくれるぞ!」とファラレイは物語るのであった。「毎晩毎晩、夢に出て来やがって! いつも夕方から神様にお祈りして、『白い牡牛の夢を見ませんように、白い牡牛の夢を見ませんように!』とお願いするんだけど、やつめ、もうちゃんとひとの前に立ってやがるんだ。いまいましい畜生め、角をふり立てて、まるっこい幅の広い口を突き出しながら、大きな図体をして立ってやがるんだ、ええ、癪にさわるう!」
 叔父はもう絶望のていであった。しかし幸い、フォマー・フォミッチは急に白い牡牛のことを忘れたようなあんばいだった。むろんだれ一人として、フォマー・フォミッチがこれほど重大な事柄を忘れるような人間だなどと信じる者はなかったので、彼がこの白牛を予備にとっておいて、折のあり次第それを道具に使うに違いないと、戦々兢々として待っていた。後でわかったことだが、フォマー・フォミッチはこの時分、白い牡牛どころではなかったのである。別の問題、別の心配が持ちあがっていたので、全然ちがった計画が、彼の思慮ぶかい有能な頭の中で熟していたのである。こういうわけで彼はファラレイに安心の溜め息をつかしたのだが、ファラレイといっしょに、ほかの者もほっと一息ついた次第である。少年は目に見えて快活になり、前のこともほとんど忘れかけた。白い牡牛は時にふれてその幻想的な存在を思い出させることもあったけれど、だんだん姿を現わすことが稀になって来た。一口にいえば、何もかも順調に行くところだったが、この世の中にコマーリンスキイなるものがあったために、いっさいをぶち毀してしまったのである。
 断わっておかなければならないが、ファラレイは踊りが上手だった。それは彼の最も秀でた才能で、ほとんど一種の使命ともいうべきものだった。彼は惓むことなく一生懸命にさも面白そうに踊ったが、ことに好きなのは『コマーリンスキイの百姓』だった。それはこの浮気な百姓の軽薄な、――といって悪ければ、とにかく不思議な行為そのものが、彼の気に入ってしまったというわけではない、――それは大変な間違いで、彼がコマーリンスキイを好んで踊るのは、ただコマーリンスキイを聞きながら、その音楽に合わせて踊らずにいるというのが、彼にとって絶対に不可能だったからにすぎない。ときどき晩になってから、二、三人の下男や馭者、それからヴァイオリンの弾ける植木職人、その上に幾人かの女中まで混ぜた連中が、なるべくフォマー・フォミッチの部屋から遠く離れた、地主屋敷の裏庭で、丸い輪をつくって勢揃いするのであった。音楽が始まり踊りが始まって、そのうちにやがてコマーリンスキイが堂々とその本領を発揮して来る。オーケストラは二梃のバラライカと、ギターと、ヴァイオリンと、馭者のミーチュシュカの得意にしているタンバリンと、これだけからできあがっていた。その時のファラレイの様子こそ見ものであった。彼は一同の叫びと笑いに励まされながら、何もかも忘れてしまって、最後の力の尽き果てるまで、夢中になって踊り抜くのであった。黄いろい金切り声を立てたり、わめいたり声高に笑ったり、手を叩いたりした。それは、何か不思議な力に曵きずられて、自分でも、それにあらがう力がないという様子で、大地を踵で蹴りたてながら、しだいに早まって行く景気のいい音楽のテンポに追いつこうと、一生懸命にあせるのであった。それは彼にとって心底から楽しい瞬間なのであった。で、すべては面白おかしく無事にすんだはずなのだが、とうとうこのコマーリンスキイの噂が、フォマー・フォミッチの耳に入ったのである。
 フォマー・フォミッチは気絶しないばかりに驚いて、すぐさま大佐を呼びにやった。
「わたしはただ一つだけあなたにおききしたいことがあるのですよ、大佐」とフォマーは口をきった。「あなたはあの不幸な白痴の少年を、完全に破滅させようと誓ったのですか、それとも、完全にとまではいかないのですか? 第一の仮定が正しいとすれば、わたしはすぐに身をひきますが、もし完全にというほどでもないとすれば、わたしは……」
「いったい何ごとだね? 何ごとが起こったんだね?」と叔父はびっくりして叫んだ。
「何ごとが起こったもないもんです! いったいあなたは、あの子供がコマーリンスキイを踊っているのを知らないんですか?」
「そう……それがいったいどうしたんです?」
「えっ、それがどうしたとは驚いた!」とフォマーは黄いろい声で叫んだ。「そんなことをあなたがいわれるんですか、彼らの主人であり、ある意味においては父親であるあなたが! それでは、いったいコマーリンスキイがどんなものかということについて、あなたは健全なる概念を持っておられるのですか? この唄の内容は、ある一人のいまわしい百姓が酔いに乗じて、不道徳きわまる行為をあえてしようとした顛末なのを、あなたはごぞんじないんですか? この淫蕩な百姓がいかなる犯罪をあえてしたか、いったいそれをご承知ですか? 彼は最も貴重な道徳の制縛を破ったんじゃありませんか。いわば、居酒屋の床ばかり踏みつけたその百姓靴で、それを泥土に踏み躙ってしまったのじゃありませんか? あなたはその答えでもって、わたしの高潔な道徳的感情を侮辱なすったのを、自分でもごぞんじないんでしょう? あなたはその答えで、わたしを個人的に侮辱したんですよ。それがあなたにわかりますか、どうです?」
「だけど、フォマー……だって、それはただ唄だけのことじゃないか、フォマー……」
「えっ、ただの唄ですと! あなたはあんな唄を知っていることを自白して、恬《てん》として恥じないんですね、――上流社会の一員であり、無邪気で上品な子供たちの父親であり、しかも大佐でもあるあなたが、ただの唄ですと! わたしは確信しておりますが、あの唄は実際の出来事からとったものに相違ない! それをただの唄だなんて! だれだって立派な教養のある人間なら、この唄を知っているとか、ただの一度でもこの唄を聞いたことがあるとか、そんなことを自白するのに、羞恥に燃ゆる思いをせずにおられませんぞ! どうです、どうです?」
「だが、それでも、フォマー、きみがたずねるくらいなら、自分でも承知しているわけじゃないか」叔父は単純な心持ちにまかせて、もじもじと答えた。
「なんですって! わたしが承知しているって?……わたしが、つまり……わたしが! わたしは侮辱された!」不意に椅子から跳りあがって、憤怒に息をつまらせながら、フォマーは叫んだ。
 彼はこうした頭ごなしの返事を、まるで予想していなかったのである。
 フォマー・フォミッチの怒りは、今さら書きたてるまでもあるまい。大佐は、その答えの不作法で気の利かない[#「気の利かない」に傍点]のを理由として、わが家の道徳監視者の目の前から、すごすご追い払われてしまったのである。けれども、この時以来フォマー・フォミッチはファラレイがコマーリンスキイを踊っている現場を押えようと、心中かたく誓ったのである。彼は毎晩、みんなに何か仕事をしていると思わせておいて、そっと庭のほうへ出て行くと、菜園をぐるっと廻って、大麻畑に身を潜め、そこからみんなの踊っている小広い庭を隙見していた。うまくいった場合には家じゅうの者、ことに大佐を、うんと思いきりどなりつけてやろうと、その時の光景を快く想像しながら、まるで猟師が小鳥を狙うように、不仕合わせなファラレイを見張っていたのである。ついに彼の不撓不屈の努力は、成功をもって酬いられた。彼はコマーリンスキイの現場を押えたのである。叔父がおいおい泣いているファラレイの姿を見、この面倒な時をわざと狙ったように、自分で足を運んで来たフォマー・フォミッチの出現を披露するヴィドプリャーソフの声を聞いた時、なぜわれとわが髪の毛を掻きむしらんばかりにしたか、これでなるほどと合点がいくわけである。
[#3字下げ]7 フォマー・フォミッチ[#「7 フォマー・フォミッチ」は中見出し]
 わたしは好奇心を緊張させながら、仔細にこの男を点検した。ガヴリーラが、彼のことを貧相な男といったのは、確かにぴったりはまっていた。フォマーは背が低くて、眉や睫毛は白っぽく、頭には白髪が混って、鼻は鉤鼻、顔じゅうに小皺がいっぱいよって、下顎には大きな疣があった。年頃は、五十に近いらしかった。彼は目を伏せたまま、規則ただしい足どりで静かに入って来た。が、思いきってずうずうしい自尊の表情が、彼の顔にも、ペダンチックな姿ぜんたいにも溢れていた。驚いたことには、彼はだぶだぶした部屋着を着て客間へ現われた。もっとも、それは舶来物とはいいながら、とにかく部屋着には相違ない。おまけにスリッパをはいていた。ネクタイをしめていないシャツの襟は、子供のように左右に開いていた。これがフォマー・フォミッチの様子を、思いきってばかばかしく見せるのであった。彼は空いている肘掛けいすに近づいて、それをテーブルのそばへ寄せると、ひと口もものをいわないで、腰をおろした。一分前まで一座を充たしていた混乱と動揺の空気は、たちまちどこかへ消えてしまった。あたりはひっそりと静まり返って、蠅の唸り声さえ聞こえるくらいだった。将軍夫人はまるで仔羊のようにおとなしくなってしまった。この哀れな低能婦人のフォマー・フォミッチに対する醜い卑屈な尊敬の程度が、今こそすっかり明瞭に現われたのである。彼女は、自分の偶像をいくら眺めても眺め足りないようなふうで、まるで吸いつくように両眼を彼にそそいでいた。ペレペリーツィナ嬢は、にやにや笑いながら揉み手をしているし、かわいそうなプラスコーヴィヤ叔母はさも恐ろしそうに、目に見えて身を慄わせていた。叔父はさっそく気を揉み始めた。
「お茶だ、お茶だ、プラスコーヴィヤ! だが少し甘めにするんだよ。フォマー・フォミッチは一寝入りした後で、甘い茶を飲むのが好きなんだから。――ねえ、フォマー、きみは少し甘めのほうがいいんだろう?」
「いまわたしはあなたのお茶なんかに用はありません!」何か気がかりなことがあるらしい様子で、威厳をつくりながら片手を振って、フォマーはゆっくりこういった。「あなたはなんでも少し甘めにしたいんでしょう!」
 こういったふうの言葉や、入って来る時のペダンチックな滑稽この上もない態度などが、ひどくわたしの興味を惹いた。この思いあがった小紳士の傲慢不遜が、どこまで礼儀を無視した傍若無人の振舞いをあえてさせるか、それが見きわめたくなって来た。
フォマー!」と叔父は叫んだ。「ひとつ紹介しよう。わたしの甥のセルゲイ・アレクサンドロヴィチ、いま着いたばかりだ」
 フォマー・フォミッチは、相手を頭のてっぺんから足の爪先までじろじろと見廻した。
「どうも驚きますな。あなたはいつもなんだかシステマチックにわたしの話に横槍を入れるのがお好きですな、大佐」かなり長い沈黙の後に、わたしのほうへは一顧の注意も払わず、彼は口を切った。「人が用事の話をしてるのに、あなたはとんでもないことを……問題にされるんですからな[#「問題にされるんですからな」に傍点]……ファラレイを見ましたか?」
「見たよ、フォマー……」
「ははあ、見ましたか! いや、それにしても、わたしはもう一度あいつをお目にかけましょう。とっくりとご自分の作品を眺めたらいいでしょう……これは精神的な意味でいってるんですよ。さあ、こっちへ来い、阿呆! こっちへ来い、こののっぺりづらめ! さあ、来いといったら来るんだ! びくびくすることはない!」
 ファラレイは、口をぽかんと開けて、涙を飲みこみ飲みこみ、しゃくり上げながら傍へ寄った。フォマーはさも心地よげにその姿を見やった。
「わたしが、こいつをのっぺりづらといったのは、わけあってのことなんですぞ、パーヴェル・セミョーヌイチ」肘掛けいすに反っくり返りながら、そばに腰かけているオブノースキンのほうへ軽く体を捻じ曲げて、彼は説明した。「それに、概して、わたしはいかなる場合にも、婉曲な言い廻しをする必要を認めないです。真実は当然真実であるべきだし、汚物は何で蓋をしたからって、要するに汚物に相違ないんですからな。なんのために骨折って、婉曲な言葉づかいなんかする必要があります? 人をも自分をも欺くにすぎません! そんな意味のないお上品ぶりを要求する気持ちは、ただ愚かな社交人の頭に生まれるばかりです。ところで、――一つあなたを審判者にしますが、――あなたはこの面に何か美しいところがあると思いますか? わたしがいうのは、高尚で上品な美しさを意味するのであって、ただの赤い頬っぺたのことじゃありません」
 フォマーは一種荘重な無関心を響かせながら、静かな規則正しい声でこういった。
「あの中に美しいところがあるかって?」とオブノースキンは人を喰った無造作な調子で答えた。「あれはただ気の利いたローストビーフの切れというだけのものですよ、――それっきりでさ……」
「きょう鏡に向かって自分の姿を眺めました」気どった調子でわたし[#「わたし」に傍点]という代名詞を抜かしながら、フォマーは言葉をつづけた。「けっして自分を好男子だなどとは思わないけれども、自然とこういう結論に到着しましたよ。――この灰色の目には、ファラレイなどと全然ちがったあるものが存在しています。それは思想です、それは生命です、この目の中には知恵がこもっているのです! これはとくに自分自身を誇っているのではなく、われわれの階級一般についていってるんです。さて、そこでどうお考えになります、――この生きたビーフステーキの中に、たとえほんの切れっぱしでも、ほんの欠けらでも、霊魂というものがあり得るでしょうか? いや、パーヴェル・セミョーヌイチ、まあ、気をつけてごらんなさい、こうした連中[#「連中」に傍点]は、思想とか理想とかいうものがぜんぜん欠如して、ただ牛肉ばかり食っているような連中は、必ずいつも胸のわるくなるような生き生きした顔色をしています。粗野な愚かしい色艶なのです! こいつの思考能力の程度を一つお目にかけましょうか? おい、やっこさん! もっとそばへ寄って、その顔を眺めさしてくれ! なんだって口をぽかんと開けてるんだ? 鯨でも呑みこむつもりなのか? お前は美しいかい? おい、返事しろ、お前は美しいかときいてるんだ!」
「うーつーくしい!」とファラレイは、しゃくり泣きを圧し殺しながら答えた。
 オブノースキンは腹をかかえて笑った。わたしは憤慨のあまり、体が顫えて来るのを感じた。
「お聞きになりましたか?」得々としてオブノースキンのほうへ振り向きながら、フォマーは言葉をつづけた。「まだまだこれどころじゃない、面白いことが聞かれますよ! わたしはやつを試験してやろうと思って来たんです。実はですな、パーヴェル・セミョーヌイチ、このみじめな阿呆を堕落させて、一生を台なしにしてしまおうと望んでいる人があるんですよ。ことによったら、わたしの考えは厳に失して、間違っておるかもしれませんが、これというのも、人類に対する愛のためなんですぞ。こいつはたったいま、最も猥雑な踊りを踊ったんですが、ここの人はだれ一人、そんなことを問題にしようとしないんです。しかし、今すぐご自分の耳でお聞きになりますよ……いったい貴様はいま何をしておった、返答しろ。返答しろというのに、ぐずぐずせんで、すぐ返答するんだ、いいか?」
「踊って――いました……」なおも激しくしゃくり上げながら、ファラレイは答えた。
「何か踊っていたのだ? どんな踊りだ? 早くいわんか!」
「コマーリンスキイ……」
「コマーリンスキイ! そのコマーリンスキイとはいったいなにものだ? コマーリンスキイとはなんのこった? そんな返事でわしに何かわかると思う? さあ、わたしたちにはっきりした観念を持たしてくれ。そのコマーリンスキイとはどういう人間だ?」
「百姓で……」
「百姓! ただ百姓なのかい? 驚き入ったな! じゃ、有名な百姓なのかい? 唄や踊りに作られるくらいなら、定めし何か有名な百姓なんだろう? さあ、返答しろ!」
 人の脂を搾るということはフォマーにとって、やむにやまれぬ要求だった。彼は猫が鼠をおもちゃにするように、自分の犠牲《いけにえ》をじりじりと苦しめるのである。けれども、ファラレイは無言のまましくしくと泣くばかりであった。問いの意味がわからなかったので。
「返答しないか!」とフォマーはしっこく追究した。「どんな百姓かときいてるんじゃないか。早くいえ!………地主のおかかえか、国有地の百姓か、自由をもらった百姓か、義務奉仕つきの百姓([#割り注]一八四二年の法令で一定の奉仕義務を条件に解放された旧地主領農民[#割り注終わり])か、旧教会領の百姓か、百姓にもいろいろあるからな……」
「旧教……会……領の……」
「ははあ、旧教会領のだって! あれを聞きましたが、パーヴェル・セミョーヌイチ、新しい歴史的事実ですぞ。コマーリンスキイが旧教会領の百姓だって、ふむ!………そこで、この旧教会領の百姓がいったいどんなことをしたのだ? どんな手柄があって唄や……踊りにつくられたんだ?」
 この質問は元来、くすぐったい性質のものだったが、ファラレイに向けられているだけに、なお危険なものでさえあった。
「が……あなた……はそれにしても……」長いすの上で妙にもぞもぞし始めた母を見やりながら、オブノースキンはこういいかけた。
 しかし、いかんとも仕方がなかった。フォマー・フォミッチの気まぐれは、法律と同じになっていたのだ。
「冗談じゃない、叔父さん! あなたがあの馬鹿を抑えなかったら、あいつは……ねえ、あいつは、どんなことをやり出すかわかりませんよ――ファラレイは何かとんでもないことをしゃべってしまいますよ、本当に……」とわたしは叔父にささやいたが、こちらはとほうに暮れてしまって、なんとも決心がつきかねていた。
「しかし、フォマー、それよりも……」と彼はいい出した。「ひとつ紹介しよう、これはね、フォマー、わたしの甥で、鉱物学をやっている前途有望な青年なんだ……」
「大佐、お願いですから、鉱物学だのなんだのって、わたしの話の腰を折らないでください。わたしの知っているかぎりでは、あなたは鉱物学なんか、まるで何もごぞんじないんでしょう、ひょっとしたら、ほかの連中[#「ほかの連中」に傍点]だってご同様かもしれない。わたしは赤ん坊じゃありませんからな。ところで、こいつはわたしの問いに対して、その百姓が家族の幸福のために働こうとしないで、ぐでんぐでんに酔いくらった上、居酒屋で半外套を酒代にぶんだくられ、酔っぱらって往来を駆け出した、という顛末を話して聞かせるでしょう。これがご承知のとおり、飲酒を讃美した詩の全内容です。ご心配は要りません。今こそ[#「今こそ」に傍点]こいつも返答の仕方がわかったわけですよ。――さあ、返答しろ。その百姓は何をしたのだ? わしがいま教えてやったじゃないか、口の中へおし込むようにしてやったじゃないか。わしはほかならぬお前の口から聞きたいのだ。その百姓は何をして有名になったのだ? 吟遊詩人にまで唄われるような不滅の光栄を獲得したのは、いったいどういうわけなのだ? おい?」
 不運なファラレイは悩ましげにあたりを見廻して、水から砂の上へ引き上げられた鮒のように、口をぱくぱくさせながら、なんといおうかと思い惑っていた。
「そんなこというのは恥ずかしい!」絶望のどん底へ突き落とされたように、彼はとうとう呻くようにいった。
「へえ! いうのが恥ずかしい!」とフォマーは勝ち誇ったように唸った。「つまり、この答えを聞きたかったのですよ、大佐! いうのは恥ずかしいくせに、するのは恥ずかしくないんですかな? これがあなたの播いた道徳の種で、それがいま芽を出して、あなたはそれに……水をかけてやっているのです。しかし、今さらとやかくいったところで仕方がない! ファラレイ、もう台所へ行ってよろしい。もうわしは、お前に何もいうまい。聞いている皆さんに遠慮しなくちゃならんからな。しかし、今日という今日こそ、貴様は容赦なしに、うんとひどい仕置きに遭うんだぞ。もしそうでなくて、今度もわしがお前に見かえられるようだったら、お前はここに残って、コマーリンスキイでご主人がたのご機嫌をとり結ぶがいい。わしは今日にもすぐ、この家を出てしまうから! もうたくさんだ! わしはいうだけのことをいった。さがってよろしい!」
「ですが、あなたはどうもあまり厳重すぎるようですね……」とオブノースキンは曖昧な声でいった。
「そうです、そうです、まったくそのとおりです!………」と叔父は勢いこんで叫んだが、急にぷつりと言葉を切って、黙ってしまった。フォマーは陰鬱な表情で、じろりと彼を尻目にかけた。
「パーヴェル・セミョーヌイチ」と彼は言葉をつづけた。「この現状を目睹しながら、現代の文学者や、詩人や、学者や、思想家などは、いったいなにをしておるのか、ただ唖然とするよりほかはありません。ロシヤの国民がいかなる唄を歌い、いかなる唄に合わせて踊りを踊っているかということに、どうして彼らは注意を払わんのでしょう? あんなプーシキンとか、レールモントフとか、ボロズドナ([#割り注]当時の三流詩人で、ほとんど無名に近かった[#割り注終わり])とかいう連中は、今まで何をしておったのでしょう、驚くに堪えたことです。国民はコマーリンスキイなどという泥酔の讃美の唄を歌っておるのに、彼らは忘れな草やなんか歌ってすましておるのですからな! なぜ彼らは、自分の忘れな草を放擲して、民衆の愛誦用として、もっと道徳的な歌をつくらないのか? これはまさに社会的問題です! 彼らが百姓を描くなら描くでいいが、しかしそれは向上した上品な農夫であるべきで、百姓《ムジーク》じゃ駄目です。たとえ外見は単純でも、木の皮靴をはいておっても、――それにはわたしもあえて異存がない、――しかし、あらゆる美徳に充ちた、有名なマケドニヤのアレクサンダー大王でさえも羨望を感ずるような、村の賢者を描いてもらいたい。わたしはロシヤを知っておるし、ロシヤもわたしを知っておるので、それでこんなことをいうのです。たとい、家庭の重荷を負い、かしらに老いの霜をいただき、息苦しい小屋の中に住まい、しかも饑餓に責められておるにもせよ、自足して不平をいわず、貧乏であることに感謝して富者の黄金に恬然たる農民を描いてもらいたい。そうすれば、やがては富める人々も感激に駆られて、自分の黄金を農民に与えるようになり、かくのごとくして、農民の美徳と貴族たる地主の美徳が融合一致する、こういうことになるかもしれんです。社会的段階においてかくも疎絶している農夫と貴族が、ついに美徳の点に一致するというのは、実に高遠なる思想じゃありませんか! ところが、現在の状態はどうでしょう? 一方においては忘れな草、いま一方においては居酒屋から駆け出して、とり乱した姿で往来を走る百姓! え、いったいどこに詩的な分子があるか? 何をわれわれは鑑賞したらよろしいか? どこに叡智があるか? どこに美があるか? どこに道徳性があるか? 実に合点がいかん!」
フォマー・フォミッチ、そういうお言葉を聞くと、わたしは百ルーブリも借金したことになりますよ!」感きわまった様子をして、エジェヴィーキンがこういった。
「あんなやつ、糞でも食らえだ」と彼は小声でわたしにささやいた。「一にもお世辞、二にもお世辞ですからな!」
「いや、さよう……なかなかうまくおっしゃった」とオブノースキンはいった。
「そうです、そうです、まったくそのとおりです!」と、注意ぶかく耳を傾けながら、得意そうにわたしの顔を見ていた叔父は、心から叫んだ。
「なんという素敵な話が始まったものだ!」と彼は揉み手をしながら、ささやいた。「なかなか多方面にわたった話じゃないか、実に素敵だ! フォマー・フォミッチ、これはわたしの甥だよ」と彼は感情の溢れるままにいい足した。「この男もやはり文学をやっていたのでね、――ちょっと紹介しておくよ」
 フォマーは相変わらず、叔父の紹介などにはてんで注意を向けなかった。
「後生だから、もうぼくを紹介しないでください! まじめにお願いしますよ」とわたしは断固たる表情で叔父にささやいた。
「イヴァン・イヴァーヌイチ!」フォマーは突然ミジンチコフのほうへふり向いて、じっとその顔を見つめながら、こう口を切った。「今われわれはお聞きのような話をしましたが、あなたのご意見はどうですな?」
「ぼくですか? あなたはぼくにおたずねになったんですか?」とミジンチコフはびっくりして問い返した。彼はたったいま呼びさまされたような顔つきをしていた。
「そうです、あなたです。わたしがあなたにおたずねするのは、真に賢明な人々の意見を尊重するからです。のべつ[#「のべつ」に傍点]賢い人だとか、学者[#「学者」に傍点]だとかいって紹介される[#「紹介される」に傍点]だけの理由で、やっと賢明な人間になりすまし、どうかすると掛小屋で見物に見せるために、わざわざ呼び出されて来るような、そんな計画的な賢人なんかの価値を認めんです」
 このあてこすりは疑いもなく、わたしに向けられているのであった。とはいうものの、わたしに一顧の注意も払わないフォマーが、ことさらこの文学談を始めたのは、疑いもなくわたしのためだったのである。つまり、ペテルブルグから来た賢い学者に、劈頭第一、目つぶしを食らわせ、跡かたもないほど粉砕してやろうという腹なのであった。少なくもわたし自身はそれを疑わなかった。
「もしぼくの意見を聞きたいとおっしゃるのでしたら、ぼくは……お説に賛成です」とミジンチコフは気のない、だるそうな調子で答えた。
「あなたはいつもいつもわたしに賛成なんですな! いやな気がするくらいですよ」とフォマーはいった。
「わたしは率直にいいますがね、パーヴェル・セミョーヌイチ」ややしばらく沈黙の後、彼はまたオブノースキンに向かって言葉をつづけた。「わたしがかの不滅なるカラムジンを尊敬するとすれば、それは『ロシヤ帝国史』のためでもなければ、『マルファ・ポサードニツァ』のためでもなく、『古きロシヤと新しきロシヤ』のためでもありません。わたしは『フロール・シーリン』の作者として彼を尊敬するのです。あれは高尚な叙事詩です! あれは純国民的な作品で、永遠に滅びることはない! 高尚無比の叙事詩です!」
「そうだ、そうだ、実にそのとおりだ! 高尚な抒情詩[#「抒情詩」に傍点]だ! フロール・シーリンは実に徳の高い人間だ! 今でも覚えているが、わたしもあれを読んだものだよ。二人の農奴の娘を身請けしてやって、その後で天を仰ぎながら泣く、実に高潮した場面だ」叔父は満足のあまりに顔を笑み輝かしながら、こう相槌を打った。
 かわいそうな叔父! 彼はどうしても学問のある[#「学問のある」に傍点]会話に口をいれるのを、我慢して控えていることができなかったのだ。フォマーは毒々しくにやりと笑ったが、それでもなんともいわなかった。
「ですけど、今だって面白いものを書いていますよ」と、オブノースキナ夫人が用心ぶかく言葉をはさんだ。「たとえば、あの『ブリュッセルの秘密』なんかね」
「それはご同意しかねますな」とフォマーは憐れむような調子で答えた。「この間も、ある詩を読んでみましたが……どうもしようのないもので、要するに『忘れな草』ですよ! もししいてわたしの好みをいえとおっしゃるなら、最近の作者でいちばんわたしの気に入ったのは、『筆耕家』([#割り注]小説家・劇作家のクーコリニクの雑誌記事用の筆名[#割り注終わり])ですな、――軽妙な筆ですよ!」
「『筆耕家』!」とオブノースキナ夫人は叫んだ。「それは雑誌に手紙を載せているあれでしょう? まあ、本当に素敵ですね! まるで言葉の音楽ですよ!」
「さよう、本当に言葉の音楽です。いわばペンで演奏しておるので、稀に見る軽妙な筆致ですて!」
「そう、しかしあれはペダントですよ」とオブノースキンが無造作にいってのけた。
「ペダントです。ペダントです、――それはあえて争いません。しかし愛すべきペダントです、優美なペダントです! もちろん、彼の思想は一つとして、厳格な批評に堪えるものはないけれど、しかしあの軽妙さには釣りこまれてしまいますな! つまり、饒舌家です、――それには異存ないが、しかし愛すべき饒舌家だ、優美な饒舌家だ! 覚えておいでですか、たとえばあの男はある文章の中で、自分の領地を持っているなどと吹聴しておるでしょう?」
「領地だって?」と叔父がひきとった。「それはいい! 何県だね?」
 フォマーは言葉をとめて、じっと叔父の顔を見つめた後、また同じ調子で話しつづけた。
「まあ、常識で考えてもみてください。読者たるわたしにとって、あの男に領地があることを知ったからって、それがなんの役に立つんです? 領地がある、――それはおめでとう、というだけのことですからな! しかし、それが実に面白い洒落た書き方でしてな、機智に輝いておるんです! 機智のしぶきを飛ばしておる、沸騰しておる! あれはまるで機智の炭酸水《ケルザン》だ! さよう、まったくああいうふうに書かなけりゃなりませんて! わたしも雑誌に執筆を引受けるとしたら、あんなふうに書きたいものだと思いますよ……」
「それよりもっとお上手かもしれませんよ」とエジェヴィーキンがうやうやしく口を入れた。
「なんだか文章にメロディックなものさえあるよ!」と叔父が相槌を打った。
 フォマーはとうとう我慢しきれなくなった。
「大佐」と彼はいった。「一つお願いですから、――もちろん礼儀をつくして、慇懃にお願いするんですがね、――わたしたちの邪魔をせんで、静かに話のくくりをつけさしてくれませんか。あなたはわれわれの話がおわかりにならないんだから。わかりっこないですとも! どうかわれわれの愉快な文学談を掻き廻さんでいただきたいものですな。まあ、領地の監督でもして、お茶を飲んでおられたらいい……ただ文学にはかまわんでください。そんなことをしたって、文学にいわせれば、なんの損にも得にもならんことですからな、――実際!」
 これはもはや、聞き捨てにならない傲慢の極みである! わたしはもうなんと考えていいかわからないほどだった。
「だって、フォマー、きみが自分でメロディックだといったじゃないか」と叔父はまごつきながら、悩ましげにいった。
「そうです。しかし、わたしは事柄をわきまえていうのだから、わたしのいうのはちゃんと壺にはまっておるが、あなたは……」
「さようで、わたくしどもは、考えてものをいっとりますので」とエジェヴィーキンが、フォマーのまわりにへばりつくようにしながら、言葉尻を抑えた。「わたしどもはほんのぽっちりしか知恵がないので、人から借りて来なければならないくらい、まあ、せいぜいお役所の二つくらい切り廻してゆければけっこうなのですが、なに、わたしどもはもう一つくらい、引き受けてしまいますよ、――まあ、こういったふうな有様でございますよ!」
「ふむ、してみると、また出たらめをいったかな!」と叔父は自分で結論して、またにっこりと例の人のいい微笑を浮かべた。
「少なくとも、自覚されればよろしい」とフォマーがいった。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ、フォマー、わたしは怒っちゃいないから。きみが親友として、身内の者として、兄弟として、わたしに注意してくれるのは、ちゃんと承知しているからね。わたしは自分できみにそれを許したんだ。それどころか、かえってきみにそれを頼んだくらいだよ! これは筋道の通ったことだ、まったく筋道の通ったことだ! つまり、わたしのためになるんだから、感謝して活用するよ!」
 わたしはもう我慢しきれなくなった。今までフォマーについて噂に聞いていたことは、いくぶん大袈裟のように思われていたが、いま自分で実際に見聞きしてみると、わたしの驚きは、筆にも口にも尽くせないほどであった。わたしは自分で自分を信じることができなかった。一方のああした傲慢無礼なずうずうしいわがままと、いま一方の軽々しいほど善良で、しかもみずから好んで奴隷的な屈従に甘んじている不思議な関係が、どうしても理解できなかったのである。とはいえ、叔父でさえも、今の傲慢な態度には困惑を感じたらしい。それはよそ目にも見えていた……わたしはどうかしてフォマーに言いがかりをつけ、彼と一戦まじえて、後は野となれ山となれ、できるだけ小っぴどく悪態をついてやりたいという気持ちで、全身燃えたつばかりだった! わたしはこう思い立つと、すっかり勢いづいてしまい、ひたすらその機会を狙っていた。わたしは待ち遠しさに、帽子の鍔をすっかり、揉みくたにしてしまった。けれども、好機はなかなか現われなかった。フォマーはまるでわたしなどを、眼中におこうとしなかったのである。
「実際だ、きみのいうことは実際だよ。フォマー」どうかして気持ちをとり直し、いまの話の不快さを揉み潰そうとあせりながら、叔父は言葉をつづけた。「きみは、真実をはばからず直言してくれたわけたんだよ。フォマー、ありがとう。まず事柄をよく承知しておいて、それから議論するならする、という順序でなくちゃならないんだ。確かにわたしが悪かった! わたしがこんな立場になったのは、もう一度や二度のことじゃないんだよ。どうだろう、セルゲイ、わたしは一ど試験までしたことがあるんだからね……みなさん笑っておいでですね! ところが、あに図らんや、まったくのところ試験をしたんですよ。というのは、ある学校から試験官に招聘されて、ほかのお歴々といっしょに並んで坐った。席が一つ空いていたので、まあ名誉試験官ということにされたんですね。ところで、わたしは白状しますが、たんだかおじ気づいてしまって、恐ろしくてたまらなくなった。学問なんてものは、それこそ、何一つ知らないんですからね! どうしたらいいだろう? 今にもこっちが黒板の前へ引っぱり出されそうな気がしてたまらない! が、しばらくするうちに落ちついて、まあ、無事にすみましたよ。自分から質問を出したりしてね、ノアとはどういう人間か、などとたずねたもんです。全体になかなかうまく答えたっけ。後で会食があって、文化の隆盛のためにシャンパンを抜いたりしましてね、立派な学校でしたよ!」
 フォマーとオブノースキンは、腹をかかえて笑った。
「いや、わたしも後で、自分ながらおかしくなっちまいましたよ」みんなが浮き浮きして来たので嬉しくなり、この上もなく人のいい笑みをたたえながら、叔父はこう叫んだ。「そうだ、フォマー! こうなったら、もう破れかぶれだ! 一つみんなをうんと笑わしてあげましょう……一どわたしが大しくじりをやった話をしましょう……どうだろう、セルゲイ、われわれの隊がクラスノゴールスクに駐屯していた時……」
「失礼ですが、大佐、あなたの話は長くかかりますか?」とフォマーがさえぎった。
「ああ、フォマー! これは実に素敵な話なんだよ。腹の皮が張り裂けそうなほど、滑稽な話なんだから、まあ、黙って聞いていてくれたまえ。面白いんだ、実に面白いんだよ。わたしはこれから自分の失敗談をやります……」
「わたしはいつもあなたの話を、喜んで拝聴していますよ、そいった種類のお話ならばね」とオブノースキンは欠伸まじりにいった。
「どうもしようがない。聞かなければすまんでしょう」とフォマーが最後の決を与えた。
「なに、まったく面白い話なんだよ、フォマー。わたしはね、アンフィーサ・ペトローヴナ、以前の失策談をしてお聞かせしますよ。セルゲイ、お前も聞いておいで。それは教訓になるくらいなんだから。ある時、われわれの隊がクラスノゴールスクに駐屯していたことがある(叔父は満足のあまり満面えみ輝きながら、せきこんで早口に話し出した。彼の物語には無数に挿入句がついていたが、それはみんなの機嫌とりに何かの話をはじめる時、いつも出て来る彼の癖なのであった)。隊がその町へ到着すると、その晩、われわれはすぐ芝居へ出かけた。そこにはクロパートキナといって、素晴らしい女優がいたが、その後ズヴェルコフ二等大尉と駆落ちしちゃったよ。しかも、それが開演中の出来事だったので、とうとう途中で幕をおろしたような始末さ。ところで、そのズヴェルコフというのは、したたかものだったよ。酒は飲む、カルタはやる……もっとも、大して手のつけられないほどの飲み助でもない、ただ友だちのお付合いにやるだけのことだったが、しかしいったん本式に飲み出したら、もうそれこそ何もかも忘れてしまって、自分がどこに住んでいるのか、どういう国の人間なのか、自分の名前をなんというのか、――つまり、一口にいえば、何もかも前後不覚になってしまうのさ。だが、心底は実に愛すべき好漢なのさ……さて、わたしは芝居に行ってじっと見物していたが、幕あいに廊下へ出てみると、偶然コルノウーホフという昔馴染みに出くわした……これはわたしにとって唯一無二の親友なんだが、もう六年も会わないでいたのだ。先生実戦に参加して、勲章を幾つも胸にぶらさげていたものだが、最近、噂に聞いたところでは、今もう四等官で納まっているそうだ。文官勤務に転じて、高位高官に昇ったわけさ……そこで、二人はむろん大喜びで、積もる話がいろいろ出て来る。ところが、われわれのすぐ隣りの桟敷に、三人の婦人が陣どっていてね、その中で左の端に坐っていたのが、世にも珍しい不器量ものなんだ……後で聞いてみると、立派な婦人で、大勢の子供の母親として、夫にも気に入っていたんだそうだが……わたしは馬鹿みたいに、なんの気もなく、コルノウーホフに向かって、『きみ、あれはだれか知らないかね、あの案山子のお化けみたいなやつは?』と、いきなりやっつけたものだ。『そりゃだれのことだ?』『ほら、あれさ』『ああ、あれならぼくの従妹だよ』いまいましい、とんでもないことになってしまった! わたしのばつの悪さは、よろしくご賢察を乞う次第さ! わたしはその場をとりつくろおうと思って、『いや、あれじゃない。ちょっ、きみはどこに目玉をつけてるんだい! ほら、こっち側に坐っているあの女さ。ありゃいったいだれだい?』『あれはぼくの妹さ』さあ、しまった! この妹というのは、まるでわざと当てつけたように、花はずかしい美人なのだ。素晴らしい衣裳を着て、ブローチ、手袋、腕環、――もうなんのことはない、天女そのままだ。その後プイフチンという立派な男といっしょになったよ。もっとも、二人は駆落ちして、親の許しを得ないで結婚してしまったがね、今では何もかもまるく納まって、裕福に暮らしていてね、両親もほくほくものでいるよ!………そこでわたしは、『いや、違うよ!』と自分でもどうなることやら無我夢中で、こうわめいたものだ。『それじゃないよ! ほら、あのまん中に坐っているのさ、ありゃだれだい?』『ああ、まん中に坐ってるの、なに、きみありゃぼくの家内だよ』これは内証の話だけど、その女は人間というよりも、まるでお菓子なんだよ! つまり、かわいくって、かわいくって、いきなり、頭から食べてしまいたいくらいなんだ……『ああ、きみ、よくよくの大馬鹿者ってやつを見たことがあるかい? その大馬鹿者は、いまきみの前にいるんだ。さあ、これが首だ、遠慮なくばっさりやってくれ!』というと、先生、大笑いなのさ。芝居がすんだ後で、その婦人たちに紹介してくれたが、やつ悪戯者だから、きっと話してしまったに相違ない。三人ともなんだかしきりに笑ってたっけ! 正直な話、あれほど愉快に時を過ごしたことは、後にも先にもなかったほどだよ。ねえ、フォマー、どうかすると、こんな失策をやることがあるもんだよ! ははははは」
 けれど、この不幸な叔父の笑いは、なんの効果もなかった。彼は楽しげな善良らしい視線で一座を見廻したが、彼の愉快な物語に対する答えは、死のような沈黙ばかりだった。フォマーは陰気くさい顔をして、無言のままじっと控えていた。ほかの者もそれにならった。ただオブノースキンだけは、叔父の受難を予想して、軽い薄笑いをたたえていた。叔父は当惑して、真っ赤になった。つまり、これぞフォマーの望むところだったのである。
「もうしまいですか?」当惑している話し手のほうへふり向きながら、彼はとうとうもったいらしい調子でこうたずねた。
「しまいだよ、フォマー」
「そして、嬉しいですか?」
「嬉しいかとは、つまり、どういうことなんだね、フォマー?」と、不幸な叔父は悩ましげに問い返した。
「それであなたは気が軽くなりましたか? 友人たちの愉快な文学談をぶち毀して、自分のちっぽけな虚栄心を満足さしたので、あなたはさぞ気がすんだことでしょうな?」
「何をいうのだ、フォマー、とんでもない! わたしはみんなを面白がらせようと思って話したのに、きみは……」
「面白がらすんですって!」不意に恐ろしく熱しながら、フォマーはこう叫んだ。「面白がらすどころか、くさくささせるだけの能しかありません。面白がらすだって! あなたの話はほとんど不道徳なものでしたよ、それがわかりませんか? 不作法な点などはあえて申しますまい、――そんなことはわかりきっておりますからな……ただ顔が自分の気に入らないというだけの理由で、無垢で高潔な貴婦人を嘲弄した顛末を得々として吹聴しながら、蕪雑きわまる感情を暴露しなすった。しかも、その話でわれわれを笑わせようというんですからな。いい換えれば、あなたの粗暴で不作法な行為に、相槌を打たせようとされたのです。しかも、あなたがこの家の主人だからという理由によるのです! 大佐、あなたは自分のご勝手に追従者や、居候や、手下をさがし出されたらいいでしょう。そういう手合いで自分の一味徒党を殖やして、高潔な人間の正直で率直な言行を牽制されるがよろしい。しかし、フォマー・オピースキンは、あなたのご機嫌とりをこれこととする居候には、けっしてなり下りませんよ! ほかのことはいざ知らず、この点ばかりは立派に断言できます!………」
「駄目だよ、フォマー! きみはわたしの気持ちを誤解してるんだよ、フォマー!」
「いや、大佐、わたしはもう前からちゃんと、あなたという人間を見抜いて、腹の底まで承知しておりますよ。あなたは際限のない自尊心にさいなまれておられる。他人の及ばない機智の所有者を気どりたいのだが、機智の鋭さは、虚栄心にぶっつかって鈍るものだということを忘れておいでになる。あなたは……」
「もうたくさんだよ、フォマー、お願いだからよしてくれたまえ! せめて、人の手前だけでも恥ずかしいと思うがいい!………」
「いや、こういうことを見ておるのは、実に情けない話ですが、しかし大佐、見ながら黙っておるわけにいきません。わたしは貧しい人間で、ご母堂のところに食客《かかりうど》となっているから、わたしが沈黙を守っていると、あなたに諂《へつら》うためだと、世間の人は思うかもしれません。わたしはどこかの青二才[#「青二才」に傍点]に、あなたのご機嫌とりに置かれている居候だなどと、思われたくないです! ひょっとしたら、わたしは先程ここへ入って来る時、わざと自分の歯に衣《きぬ》きせぬ率直な態度を強調して、ほとんど不作法に陥るような振舞いをしたかもしれません。が、それはあなたご自身、わたしをそういう立場におかれたんです。あなたはわたしに対してあまり傲慢すぎますよ、大佐。わたしはあなたの奴隷と見られ、あなたの家の居候と思われる恐れがあります。あなたは未知の人[#「未知の人」に傍点]の目の前でわたしを卑下さすのが面白いのでしょう。しかし、わたしはあなたと同等の人間です。いいですか、――あらゆる点において同等の人間ですぞ。もしかしたら、かえってわたしのほうが、あなたの家に暮らしていることによって、あなたに恩義をかけているので、あなたがわたしに恩をきせているのじゃないかもしれませんよ。わたしは軽蔑されてばかりいるから、少々自讃をせずにはおられません、――それは自然な話です! わたしはいわずにおれません、どうしてもいわなけりゃなりません。いますぐ抗議を申し込まなければなりません。だから、率直に面と向かって言明しますが、あなたは世にも珍しい嫉妬心の強い人ですぞ! 早い話が、あなたは人が友だち相手の世間話のあいだに、知らず知らず自分の知識や、博覧強記や、洗煉された趣味を示すと、あなたはもう癪にさわって、じっとしておられないのです、『よし、おれも自分の知識や趣味を見せてやろう!』という気持ちを起こされる。ところが、失礼ながら、あなたにいったいどんな趣味があります? あなたの芸術に対する理解の程度は、――こういっちゃ失礼ですが、大佐、――まあ、牡牛が牛肉を理解するのと、似たりよったりだ! これは少々いい過ぎで乱暴です、――それは自分でも認めますが、少なくも正直で公平です。こういう言葉は、あなたのお好きな追従者の口からは、けっして聞かれませんぞ、大佐」
「おい、フォマー!………」
「それそれ、『おい、フォマー』とおいでなすった。どうやら本当のことというものは、羽根蒲団と違って寝心地がよくないと見えますな。いや、よろしい。このことはまた後で話すとして、今さし向き、少々ばかり皆さんを浮き立たしてさし上げましょう。始終あなた一人が人気役者でいるわけにはいきませんからな。パーヴェル・セミョーヌイチ! あなたはこの人間の形をした海の怪物を見ましたか? わたしはもう以前から、こいつを観察しておるのですよ。まあ、よく見てごらんなさい。あいつはわたしをいきなりとって食いそうな恰好をしとるじゃありませんか? 生きたまま頭からまるのみにしそうな勢いだ」
 それはガヴリーラのことだった。じっさい老僕は戸口に立って、主人が脂を搾られている有様を、さももの悲しげに眺めているのであった。
「わたしも一つ見世物をごらんに入れて、お慰みに供したいと思いますよ、パーヴェル・セミョーヌイチ。――おい、鴉じじい、こっちへ来い! まあ、どうぞ傍へお寄りを願いたいものですね、ガヴリーラ・イグナーチッチ! え、パーヴェル・セミョーヌイチ、ごらんのとおり、これがガヴリーラです。この男は不作法の罰としてフランス語を勉強しておるので、わたしはあのオルフォイスのように、この土地の気風を和らげることに尽力しておるのですが、ただその道具は唄でなくて、フランス語なのです。おい、フランス人、ムッシュウ・シェマトン([#割り注]ならず者というほどの意味[#割り注終わり])――この男はムッシュウ・シェマトンといわれるのが、いやでたまらんのですよ、――おい、宿題を覚えたか?」
「覚えました」とガヴリーラは首を垂れて答えた。
「パルレ・ヴゥ・フランセ?(あなたはフランス語を話しますか?)」
「ウイ・ムッシュウ・ジュ・ル・パルル・アン・プゥ(はい、少し話します)……」
 フランス語の句を発音する時のガヴリーラのしょんぼりした恰好が原因となったのか、それとも、みんなに笑ってもらいたいというフォマーの希望を一座の者が察したためなのか、その辺はよくわからないけれども、ガヴリーラが舌を動かすが早いか、一同はどっと笑い崩れた。将軍夫人でさえ笑顔を見せた。オブノースキナ夫人は、長いすの背に倒れかかって、扇子で顔を隠しながら、きゃっきゃっと黄いろい声をたてた。ガヴリーラが、この試験の目的を見てとって、たまりかねたようにぷっと唾を吐きながら、「よい年をしてから、こんな恥を見なけりゃならんのか!」と情けなさそうにいった時、一座の笑いは絶頂に達した。
 フォマーはぴくっと身を顫わした。
「なんだ? 貴様なんといった? 悪態なんかつこうというのか?」
「いえ、フォマー・フォミッチ」ガヴリーラはきっとなって答えた。「わたくしの申しましたのは、けっして悪態ではござりません。またわたしみたいな水呑み百姓が、あなたのように生まれながらの旦那衆の前で、悪態などつくような柄でござりますか。けれど、どんな人間だって神様に似せてつくられたもので、神様の面影を宿しているのでござります。わたくしはもう数え年の六十三になりまする。親父はあの謀叛人のプガチョーフを覚えておりますし、じじいは先々代の旦那様、マトヴェイ・ニキーチッチといっしょに、――ああ、なにとぞ天国に安らわせたまえ、――プガチョーフのために同じ楊の木にかけられて、しぼり首になってしまいましたが、そのために親父は先代の旦那様、アファナーシイ・マトヴェーイッチから、朋輩をさしおいて特別のおとり立てをいただき、下男頭を勤めることになったばかりか、亡くなる時は家令にまで出世いたしました。ところで、わたくしはな、フォマー・フォミッチ、旦那様の召使とはいい条、このような恥さらしは、生まれてこの方したことがござりません!」
 この最後の言葉とともに、ガヴリーラは両手を広げて首を垂れた。叔父は心配そうにその様子を見守っていた。
「いや、もうたくさんだよ、ガヴリーラ、たくさんだよ!」と彼は叫んだ「何も[#「叫んだ「何も」はママ]そうくどくどいうことはない! よしなさい!」
「かまいませんよ、かまいませんよ」フォマーはやや顔を蒼白にしながら、苦しそうな微笑を浮かべて、こういった。「いわせてお置きなさい。これというのも、みんなあなたのわざなんですから……」
「何もかもいってしまいますとも」とガヴリーラはひどく勢い込みながら言葉をつづけた。「もう何一つ隠しだてはいたしません! よしんば手は縛られても、舌を縛ることはできませんからな! フォマー・フォミッチ、わたくしなどは、あなたの目から見たら穢らわしい人間で、一口にいえば奴隷百姓かもしれませんが、それでもわたくしは、口惜しゅうござります! いろんなご用を勤めて一生懸命に働くのは、そりゃわたくしも、けっしていなやはございません。もともと奴隷百姓に生まれた人間のことゆえ、どんなお勤めでも一生懸命に、ご奉公大事にいたさねばなりません。あなた様が書きものをしていらっしゃれば、邪魔な人間がお部屋に入らないようにする、――そういうことは、わたくしの本当の勤めでござります。ご用事で働くことなら、そりゃもう喜んでなんでもいたしましょう。ところが、この年になって異国の言葉を猿の物真似して、人前でよい恥を掻かされたりするのは、なんぼなんでも、あんまりでござります! もう今では、男部屋へ顔出すこともできなくなってしまいました。みんなが、『やい、フランス人、お前はフランス人だ!』と囃したてますのでな。いいえ、旦那様、フォマー・フォミッチ、わたし一人が馬鹿なために、そう申すのではござりません、だれでも世間の立派な人たちが、口を揃えてそういっておられます、――あなた様はまたと類のない悪人になってしまわれて、家の旦那様などはあなた様の前に出ると、まるで小さな子供同然になってしまわれたってな。それから、こんなことも取沙汰しておりまする。あなた様は生まれは将軍様のご子息かもしれぬ、そしてご自分もいま少しで将軍様になられるはずだったかもしれないけれど、まことにどうも意地の悪いお人で、あれこそ本当の怒り神様の生まれ変わりに相違ないって、もっぱら評判でござりますよ」
 ガヴリーラは口をつぐんだ。わたしは小気味よさに、思わず夢中になるくらいだった。フォマー・フォミッチは、一座のざわざわと気色ばんだ空気に包まれながら、憤怒のあまり真っ青な顔をして、じっと坐っていた。ガヴリーラの思いがけない攻撃に荒胆を拉《ひし》がれて、いまだに我に返れないというようなふうだった。彼はこの瞬間、どの程度まで腹をたてたらいいものかと、思案をめぐらしているらしかった。けれども、やがて爆発を見ずにはすまなかった。
「なんだと! あんな人間がよくもこのわしに悪態がつけたな、――わしをだれだと思っとる! これはもう謀叛というものだ!」とフォマーは金切り声をたてながら、椅子から跳びあがった。
 つづいて、将軍夫人も撥《はじ》かれたように席を立ち、両手をぱちりと打ち鳴らした。一座は混乱に陥ってしまった。叔父はいきなり飛んで行って、不埒予万なガヴリーラを突き出そうとあせった。
「あんな者には足枷でもかけてやっておくれ、足枷でも!」将軍夫人は叫んだ。「エゴールシュカ、今すぐにあれを町へ送って、兵隊にやってしまっておくれ! それを聞かなければ、お前を勘当してしまうから、これからすぐあの男に足枷をはめて、兵隊にやっておしまい!」
「本当になんということだ」とフォマーはわめいた。「この下司男めが! 奴隷の分際で、よくもこのわしにそんな悪口雑言がつかれたな! こいつめが、こんなやつなんか、わしの靴を拭くぼろきれ同様な人間のくせに、ひとを怒り神の生まれ変わりとは、なんという生意気干万な言葉だ!」
 わたしは容易ならぬ決心をもって、つかつかと前へ進み出た。
「ぼくは忌憚なくいいますが、この場合としては、ぼくもガヴリーラの意見に徹頭徹尾同意ですよ」フォマーの顔をまともに見つめ、興奮に身を顫わせながら、わたしはこういい切った。
 フォマーは、この思いがけない横槍に面食らって、初めちょっとの間は自分の耳を信じかねる様子だった。「これはまたなんということだ?」とうとう前後を忘れてわたしに食ってかかったフォマーは、充血した小さな目で、吸いつくようにわたしの顔を見つめながら、いきなりどなりつけた。「第一、貴様はいったいなにものだ?」
フォマー・フォミッチ……」もうほとんどとほうに暮れてしまった叔父は、おろおろしながらいいかけた。「これはセリョージヤだよ、わたしの甥だよ……」
「ああ、学者か!」フォマーは金切り声をあげた。「なるほ                ど、これが学者なのか? 自由《リベルテ》、平等《エガリテ》、友愛《フラテルニテ》! 時論雑誌《ジュルナール・ド・デバ》! 冗談いうな、そんな出たらめはやめてもらおう! きみなんかまだまだお若いよ! ここはペテルブルグじゃないから、貴様のごまかしなんか利きゃせんよ! 貴様の議論《デバ》なんか屁とも思やせんぞ! 貴様は議論のつもりかもしらんが、われわれにいわせりゃ、そんなものは、出っ歯ほどの値打ちもありゃせんのだ! 学者だって! ふん、貴様の知っとることといったら、何もかも忘れてしまいました、というくらいが落ちなんだろう、貴様の学問はまあこれくらいのもんだ!」
 もし傍から抑える者がなかったら、彼は拳固をふり廻して、わたしに跳びかかったに相違ない。
「どうもあの男は酔っぱらっているようだな」いかにもけげんそうにあたりを見廻しながら、わたしはこういった。
「だれが? わしがか?」フォマーは上ずった声でわめいた。
「そうです、きみですよ!」
「酔っぱらってる?」
「酔っぱらっていますね」
 これにはもうフォマーも我慢しきれなかった。彼はまるで斬り殺されてでもいるように、一声きゃっと叫んだかと思うと、そのまま部屋を跳び出してしまった。将軍夫人は気絶でもしようと思ったらしかったが、すぐに考え直して、フォマーの後を追いながら駆け出した。つづいて一同も飛んで行くし、叔父もみんなの後からついて行った。わたしがわれに返ってあたりを見廻した時、エジェヴィーキンがたった独り部屋に残っているのが目についた。彼はにやにや笑いながら揉み手をしていた。
「先ほどジェスイット派のことをお約束なさいましたな」と彼は忍び入るような声でいい出した。
「なんですって?」わたしは合点がいかないので、こう問い返した。
「先ほどジェスイット派のことを話して聞かせると、お約束になったじゃありませんか……何か面白い話のようでしたっけが……」
 わたしはテラスに駆け出すと、そこからさらに庭へ出た。頭がぐらぐらして、今にも倒れそうだった……
[#3字下げ]8 恋のうち明け[#「8 恋のうち明け」は中見出し]
 わたしは十五分ばかり庭をうろうろしていた。さて、これからどうしたものかと考えると、気持ちがいらいらして、自分ながら自分が不満でたまらなかった。それはちょうど日の沈みかかっている時刻だった。すると思いがけなく、とある薄暗い並木道へ曲る角のところで、わたしはぱったりナスチェンカに出会った。彼女は目に涙を浮かべながら、手に持ったハンカチでしきりにそれを押し拭っていた。
「わたしあなたをさがしていましたの」と彼女はいった。
「ぼくもあなたをさがしていたのです」とわたしは答えた。「ねえ、一つ聞かしてください、ぼくはいったい瘋癲病院に来てるんでしょうか、あなたはどう思います?」
「ここはけっして、瘋癲病院なんかじゃありません」じっとわたしを見つめながら、彼女はむっとしたようにいった。
「しかし、もしそうだとすれば、これはいったい、どうしたということです? 後生一生のお願いですから、ぼくに何か忠言を与えてください! 叔父は今どこへ行ったんでしょう? ぼくもやはりそっちへ行っていいでしょうか? ぼくはあなたにお会いして嬉しくてたまらないのですよ。もしかしたら、何か参考になるようなことを聞かせてくださるかも知れないと思って」
「いえ、今あちらへいらっしゃらないほうがようございますわ。わたしなんか、かえって逃げて来たくらいなんですもの」
「それにしても、みんなどこにいるんです?」
「どこだか知れたものじゃありませんわ。また菜園のほうへ駆け出して行ったくらいのことでしょうよ」と彼女はいらいらしたような調子でいった。
「菜園ってなんのことです?」
「それはね、先週フォマー・フォミッチが、もうこの邸にいるのはいやだ、とわめき散らしてね、だしぬけに菜園へとんで行って、番小屋からシャベルをとり出したかと思うと、いきなり畦を掘りにかかったんですの。わたしたちはみんなあきれてしまって、気でもちがったのじゃないかと思いましたわ。ところがあの人は、『わたしはのらくらしながら、ただでパンを食べたなどといって、後で人にうしろ指さされるのがいやだから、畠を耕して、この家で食べたパンを稼ぎ出したうえ、邸を出て行くんだ。わたしはこれほどまでの目に遭わされたんだ!』とこういうんですの。すると、みんながおいおい泣き出して、ほとんどあの人の前に膝を突かないばかりにしながら、シャベルをもぎ取ろうと骨を折ったんですの。ところが、あの人はどこまでも強情に掘りつづけて、とうとう植えてあった蕪をすっかり掘り返してしまいましたの。一度そんな馬鹿げたことをしたんですから、今度もまた同じようなことをしてるかもしれませんわ。あの人ならありそうなことなんですもの」
「しかし、あなたまで……あなたまでが、そんなことを平然と、落ちつきはらって話していらっしゃるんですね!」極度の憤慨に駆られて、わたしはこう叫んだ。
 彼女はぎらぎら目を輝かしながら、わたしの顔をちらと眺めた。
「ごめんなさい。ぼくは何をいってるのか、自分でもわからないんです! ところで、ぼくが何しにここへ来たか、あなたはごぞんじですか?」
「い、いいえ」と、彼女は顔をあからめながら答えた。その愛くるしい顔には、一種なやましげな表情が浮かんで来た。
「どうか失礼はごめんください」とわたしは言葉をつづけた。「ぼくはいま気が顛倒してしまってるので、ついこんなふうに話の口をきりましたが、それは間違っていたと感じます……ことにあなたをつかまえて、こんな話ぶりはよくなかった……しかし、どうだって同じです! こういう場合には、ざっくばらんな態度が、一番いいと思いますよ。率直に申しますが……つまり、ぼくのいいたいと思ったのは……あなたは叔父の意向をごぞんじですか? 叔父はぼくに手紙をよこして、あなたに結婚の申込みをしろといいつけたんです……」
「まあ、なんてばかばかしい、そんな話はしないでください、お願いですから!」真っ赤になって、急いでわたしの言葉をさえぎりながら、彼女はそういった。
 わたしは度胆を抜かれてしまった。
「え、ばかばかしいんですって? でも、叔父はちゃんとぼくのところへ手紙をよこしたんですよ」
「本当に、真正面からそんなことが書いてあったんですの?」と、彼女は活気を帯びた声で問い返した。「まあ、なんて人でしょう? そんな手紙は出さないって、あんなに約束しておきながら! ばかばかしい! 本当にばかばかしいったらありゃしないわ!」
「失礼ですが」わたしはなんといっていいかわからないで、へどもどしながら口をきった。「或いは、ぼくの行為は慎重を欠いた、粗暴なものだったかもしれませんが……しかしなにしろこんな場合なんですからね! ぼくたちは今どんな状況にとり巻かれているか、それを考えてくだすったら……」
「いいえ、後生ですから、言いわけなんかしないでください! 正直なお話、わたしはそれでなくてさえ、こんなお話を伺うのは苦しいのですから。でも、察していただきたいのですけど、わたしは自分のほうからあなたにお話をしかけて、何やかや伺おうと思っていたんですの……まあ、本当にいやんなっちまいますわ! じゃ、あの人はいきなり、そんな手紙をあなたに出したんですの? わたしもつまり、そのことを何より一ばん心配していたんですの! まあ、本当になんて人でしょう! ところで、あなたはそれを本当にして、取るものも取りあえず飛んでいらしたわけなんですね? まあ、ご苦労な話!」
 彼女はいまいましさの念を隠そうともしなかった。わたしの立場ははなはだ面白からぬことになって来た。
「正直なところ、ぼくは思いもよりませんでしたよ……こんな話になろうとは……」わたしはもうすっかり照れてしまって、こういい出した。「それどころか、ぼくが考えていたのは……」
「あーら、あなたそんなことを考えてらしったの?」と彼女は軽く唇を噛みしめながら、やや皮肉がかった調子でいった。「ときに、あの人の出したその手紙をわたしに見せてくださいません?」
「そりゃいいですとも」
「でもね、お願いですから、わたしに腹をたてないでくださいな、気を悪くしてくだすっちゃ困りますわ。でなくって