『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『スチェパンチコヴォ村とその住人』P003ーP050(1回目の校正完了)

スチェパンチコヴォ村とその住人
――無名氏の手記より
フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキー
米川正夫

                                                                                                            • -

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)方舟《はこぶね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|あかんべ《モルゲンフリー》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)試す[#「試す」に傍点]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

                                                                                                            • -


[#1字下げ]第一部[#「第一部」は大見出し]



[#3字下げ]1 発端[#「1 発端」は中見出し]
 わたしの叔父エゴール・イリッチ・ロスターネフ大佐は、予備になるとすぐ、遺産相続でわがものとなったスチェパンチコヴォ村に引き移った。そして、まるで一生、領地を離れずに暮らしている生えぬきの地主のように、村の生活に馴染んでしまった。世間には、それこそいっさいのことに満足しきって、なんにでもすぐ慣れてしまうたちの人がよくあるが、この予備大佐の性質がちょうどそんなふうだった。こんなにおとなしい、こんなに何もかも心やすく引き受ける人は、ほかには、めったにあるものではない。もしだれか物好きに彼に向かって、二露里ばかり肩車に乗せて連れてってくれと、少しまじめくさって頼んだら、本当にそのとおりにするかもしれない。彼は実に人のいいたちなので、どうかすると、ちょっとだれかに頼まれただけで、何もかも投げ出してしまったり、なけなしのシャツまで二つ返事でわけてやったり、そんなことさえしかねないくらいだった。外貌は堂々たるもので、背が高くすらりとして、ばら色の頬、象牙のように白い歯、鳶色の長い鼻ひげ、甲高い朗らかな声、開けっ放しな高笑い――そして話しぶりは突発的で、きれぎれな早口だった。年はそのころ四十ばかりだったが、ほとんど十六くらいの年からずっと軽騎兵隊に勤めたのである。ごく若い時分に結婚して、その妻を夢中になるほど愛したものだが、妻は生涯きゆることなき美しい記憶を彼の心に残して、この世を去ってしまった。その後、前に述べたように、スチェパンチコヴォ村を遺産として相続したために、財産が農奴六百人まで殖えたのをしおに、彼は軍務を去って、子供たちといっしょに田舎へ移り住んだのである。子供は今年八つになる男子のイリューシャと(この子のお産が母の命を奪ったのだ)、母の死後モスクワのある塾で人となった今年十五くらいになる姉娘のサーシャであった。けれど間もなく、叔父の家はノアの方舟《はこぶね》のようになってしまった。それはこういうわけなのである。
 彼が遺産を相続して予備になった頃、十六年ほど前クラホートキンという将軍に再縁していた母が、とつぜん寡婦になった。母が再縁したのは、叔父がまだほんの一少尉補にすぎないくせに、もう結婚しようと考えていた矢先であった。母は長いあいだその結婚を承知しないで、苦い涙を流しながら、息子のエゴイズム、恩知らず、親不孝を責めていた。そして、二百五十人の農奴しかない家の領地は、それでなくてさえ、家族の扶養に不十分なのだと説いて聞かせた(家族といっても母親のほかには、お付きの居候や、狆や、スピッツや、支那猫や、そんなものの一隊なのである)。ところが、こうして詰問するやら、意見するやら、泣くやらわめくやらしている最中に、彼女はとつぜん、まったく思いがけなく息子を出し抜いて、もう四十二といういい年をしながら、自分がさきに縁づきしてしまった。しかし、それでも彼女は、憐れな叔父を責める口実を見つけ出した。つまり、親不孝なエゴイストの息子が、自分で家庭をつくろうなどというゆるすべからざる僭越な考えを起こして、母の老後の避難所を奪おうとするから、ただその避難所をこしらえるために、自分は嫁入りするのだというのであった。
 亡くなったクラホートキン将軍は、見たところなかなか分別のありそうな人だが、そんな人がどうして四十二の後家さんと結婚する気になったのか、わたしにはどうしてもその本当の原因がわからなかった。まあ、彼女に金があると思ったのだ、とでも想像しなくてはなるまい。しかし、ある人たちは、彼はもうその時分から、自分の晩年を襲う種々さまざまな病気を予感していたので、ただなんのことはない、保母の必要を感じたのだ、とこんなふうに考えていた。ただ一つ確かなのは、この将軍が結婚生活の間じゅう、妻にいささかの尊敬も払わないで、事ごとに毒々しい冷笑をあびせていたことである。彼は奇妙な人間だった。十分な教育は受けなかったが、なかなか目はしの利く人で、あらゆる人を馬鹿にしきって、なんの操持もなく、すべての物すべての人を冷笑していた。そして、晩年には、あまりふしだらな生活を送って来た結果、さまざまな病気が出て、そのために意地のわるい、癇癪もちの、残忍な人間になってしまった。勤務のほうはうまいったが、しかしある『不快な事件』のために、軍法会議だけはやっと免れたものの、年金を剥奪されて、非常に不体裁なやめ方をさせられた。これがすっかり彼の心を荒したのだった。ほとんど少しの財産もないのに(彼の手にあったのは、百人ばかりの貧しい農奴だけであった)、彼は呑気に手を束ねたまま、自分はいったいなんで食べていってるのやら、いったいだれが自分を養っているのやら、死ぬまでまる十二年間というもの、一度としてきいたことがなかった。そして、さまざまな生活上の便宜を要求して、費用を節約しようなどとは考えもせず、馬車まで家にかかえていた。間もなく足が立たなくなって、死ぬ前の十年間は舟底いすに坐りっきりで、必要な時には、つきっきりになっている二人の従僕に、それを揺すらせるのだった。従僕はありたけの変化を尽くした罵詈のほか、何一つ彼の口から聞くことがなかった。馬車や従僕や安楽いすの維持費は、親不孝な息子が負担していたのである。叔父は領地を抵当に入れ、再抵当に入れ、自分はなくてかなわぬものさえがまんして、当時の彼の身分としては返済の見込みもないような負債をしながら、なけなしの金を母に送っていたけれど、エゴイスト、恩知らずの息子という名前は、依然として彼について廻っていた。で、叔父は性分柄、ついに自分でも自分のことをエゴイストだと信じるようになり、自分に対する罰として、エゴイストにならないために、ますます余計に金を送り始めた。将軍夫人は夫を崇め奉っていた。もっとも、何より彼女の気に入ったのは、夫が将官であって、したがって自分も将軍夫人だという点なのだ。
 家の中には夫人専用の部屋が幾つかあった。夫の影の薄い存生の間じゅう、彼女はここで居候連中や、町の情報持参係や、自分の股肱《ここう》の忠臣や、そういったふうの女を相手に威張っていたものである。その田舎町では、とにかく夫人は名流の一人だった。いろんな世間の噂話、名づけ親や仮親の依頼、一コペイカ賭けのカルタ勝負、全体として将軍夫人という名に払われる尊敬、それらは夫人が家の中で受ける圧迫を償って余りあるくらいであった。彼女のところへは、しじゅう町のおしゃべり連中がやって来て、よろずの相談ごとをするし、どこへ行っても、いつでも、彼女には一番の上席が用意せられた、――要するに彼女は、将軍夫人という自分の位置から、できるだけのものを絞り取ったのである。
 将軍はそんなことにはいっさい干渉しなかった。が、その代わり彼は人のいる前で、恥ずかしげもなく妻を冷笑し、なぜ自分は、『こんなおさんどん』と結婚したのだろう、というような質問を発するのであったが、だれ一人、それに言葉を返そうとする者がなかった。だんだんと知人がみんな彼を離れるようになったが、しかし話し相手は彼にとって必要かくべからざるものだった。彼はおしゃべりをしたり、議論したりするのが好きで、いつでも自分の前に聞き手がいなければ気に入らなかった。彼は旧式の自由思想家で無神論者だった。それで、高遠な問題を論ずるのが道楽だったのである。
 しかし、N町の聞き手は高遠な問題を好まなかったので、しだいに足が遠くなっていった。で、家の者同士がホイストやプレフェランス([#割り注]共にカルタ遊びの名[#割り注終わり])をやることになった。しかし、勝負はいつも将軍の恐ろしい発作で終わりを告げた。将軍夫人や食客の女たちは恐ろしさのあまり、蝋燭を立てたり、お祈りをしたり、豆やカルタで占いをたててみたり、監獄の囚人にパンを布施したりして、戦々兢々としながら、食後の時が来るのを待っていた。食事がすむと、またもや一勝負を始めねばならなかった。そして、些細な間違いのために、どなったり、わめいたり、罵ったりするのを聞かされ、時にはほとんどうち打擲《ちょうちゃく》さえ受けるのであった。将軍は自分の気に入らない時には、だれの前でも遠慮をしなかった。女の腐ったみたいに黄いろい声をたてたり、馭者のように口ぎたなく罵ったり、時とすると、カルタを引っさいて床へまき散らし、自分のそばから相手の者を追い退けた上、口惜しさ腹だたしさに泣きだすこともあった。しかも、ことのおこりは、ただほんのジャックを九点の代わりに捨てた、というだけのことなのである。とうとう彼は視力が鈍ったために、読み手が要ることとなった。そこヘフォマー・フォミッチ・オピースキンが現われたのである。
 実のところ、わたしはこの新しい人物を幾分ものものしい調子で披露した。彼はいうまでもなくわたしの物語の最も重要な人物の一人である。いかなる程度まで彼が読者の注意を要請する権利があるか、――それは説明しないでおこう。こういう問題は読者自身にまかせたほうが、穏当でもあれば楽でもあるのだ。
 フォマー・フォミッチが将軍のもとへ現われたのは、食うに困っての居候という資格である、――まったくそれっきりなのだ。どこから彼が現われたかは、未知の闇に包まれている。もっとも、わたしはわざわざ調べてみて、この注目すべき人物の前半生について二、三聞き知ったことがある。人の話では、第一、彼はいつどこでか知らないけれど勤めをしていたが、その後どこかで苦難に遭遇した。それはむろんいうまでもなく「真理」のためなのである。また彼はかつてモスクワで文学に携っていたという噂もある。しかし、何も不思議なことはない。フォマー・フォミッチのあきれ返った無知無識も、文学的野心を追う妨げとはならなかったに相違ない。しかし、正確に知れている点は、ただ彼がいたるところで失敗したあげく、ついに朗読者、兼受難者として、将軍家入りを余儀なくされた一事である。彼は将軍から受ける一片のパンのために、ありとあらゆる屈辱を忍んだのである。もっとも、その後、将軍が死んでから、思いがけなくフォマーが突然なみなみならぬ重要な人物になりおおせたとき、彼自身わたしたち一同に向かって、一度ならずこんなことをいった、――自分が将軍の道化になることを甘んじたのは、要するに、寛大な心持ちから、友誼のために自己を犠牲にしたのである。将軍は自分の恩人であった。彼は世に解せられざる偉人で、自分フォマー一人にだけ、心の奥ふかく秘めている思想をうち明けてくれた。それから、自分フォマーが将軍の要求によって、さまざまな獣の真似をしたり、活人画をやったりして見せたのは、ただただ病いに虐げられた苦患者の友を紛らせ、楽しませようがためにすぎない、と。しかし、フォマーの説明や断言は、この場合大いに眉唾ものなのである。ところが、同じフォマー・フォミッチは道化であると同時に、将軍家の婦人連の間で全然ちがった役廻りを演じていた。どうしてそんな細工ができたかというと、――そうした事がらの専門家以外には、しょせん想像のつくものではない。将軍夫人は彼に対して、何か神秘的ともいうべき尊敬を捧げていた――なんのためかといわれても、それはわからない。しだいに彼は将軍家の婦人たち全部に対して、驚くべき勢力を握ってしまった。それは、物好きな奥さんたちがよく癲狂院などへ訪ねて行く、イヴッン・ヤーコヴレヴィチとかなんとかいうような変人や予言者などの感化力に、いくぶん似たところがあったのである。彼はいろいろな霊魂救済の本を読んで聞かせたり、雄弁な涙を流しながらキリスト教徒の徳行を説明したり、自分の経歴や苦行を物語ったり、教会の祈祷式に朝晩出かけて行ったり、ちょっとした未来の予言をしたり、恐ろしく巧みに夢判断をしたり、口上手に人の悪態をついたりした。将軍は奥の部屋でしていることを悟ったので、いっそう容赦なく自分の食客に暴威を揮った。しかし、フォマー・フォミッチの受難者の位置は、将軍夫人やその部下に立つ家のものが彼にいだいている尊敬の念を、なおひとしお増すばかりだった。
 ついに、すべての事情が一変した、将軍が死んだのである。彼の死はかなり奇抜なものだった。以前、自由思想家であり無神論者であった男が、本当とは思われないくらいおじ気《け》こんでしまった。彼は泣いて悔悟の意を表わしながら、聖像をおし戴いたり、僧侶を呼んで来たりした。祈祷式や聖餐式が行なわれた。哀れな病人は死にたくないと叫びながら、フォマーにゆるしを乞うのであった。この事実が後になって、フォマーになみなみならぬ権威を与えたのである。もっとも、将軍の魂が将軍の体から離れるちょっと前に、次のような出来事があった。将軍夫人には、先夫との間にできたプラスコーヴィヤ・イリーニチナという、わたしには叔母に当たる娘があった。嫁に行きはぐれて、いつも将軍の家で暮らしていたが、これが将軍にとってこの上もないいい人身御供で、彼の足が立たなくなってから十年問というもの、そばを離れぬ看病人として、なくてはならないものにされていた。彼女はそのぼんやりした、口数の少ないつつましい性質のために、家中でたった一人、将軍のお気に入りとなっていたが、臨終の時、苦い涙を流しながら病床に近づいて、苦しんでいる病人の枕を直そうとした。ところが、病人は覚束ない手つきで彼女の髪を引っつかみ、憤怒のあまり口から泡さえ吹きながら、三度ばかりぐいぐいと引っぱった。それから、十分ほどの後に彼は死んでしまったのである。大佐のところへも通知が発せられた、もっとも、将軍夫人はあんな者の顔は見たくない、こういう場合にあれを目通りへ通すくらいなら死んだほうがましだ、というにはいったけれど。葬式は立派にとり行なわれたが、それはむろん、目通りへ通すのもいやな親不孝の息子が、費用万端を負担したのである。
 荒れたクニャジョフカ村には(それは幾人かの地主の所有になっていて、将軍はその中で百人ばかりの百姓を自分のものにしていたのである)、白い大理石で造った立派な墓標がある。それには故人の知性、才能、高潔な品性、それから勲章、将軍という官位などに対する頌文を彫り込んであった。この碑銘の撰文にはフォマーが大いに尽力したのである。
 将軍夫人は長いあいだ、親の言葉に従わぬ息子をゆるすのを拒んで、しきりに駄々をこねた。彼女は居候の女や狆の群れにとり巻かれながら、泣いたりわめいたりした。そして、不孝者の乞いをいれてスチェパンチコヴォヘ引き移るくらいなら、いっそこつこつのパンを、「われとわが涙で濡らし」ながら、食べたほうがましだ、杖一本に従って、よその窓下で合力を乞うたほうがましだ、わたしの足はけっして、けっしてあれの家の閾を跨がない! というのであった。全体として、こういう場合に使われる「足」という言葉は、ある種の奥さん連の口から出ると、非常な力を帯びて来るものだ。将軍夫人は名人の巧みさで、芸術的にその言葉を発音した……手短かにいえば、測り知れぬほどの雄弁がこの問題に費やされたのである。ここに注意すべきは、こうした呪いの叫びの最中に、スチェパンチコヴォヘ引っ越す用意のために、家の中が少しずつ片づけられていたことである。大佐は毎日スチェパンチコヴォから町へ四十露里の道をかよって、ありたけの乗馬をすっかり台なしにしてしまった。こうして将軍の葬式から二週間たった時、初めて侮辱された女親の目通りを許されたのである。フォマー・フォミッチは談判の衝に当たった。この二週間というもの、彼はこの親不孝者の「不人情な」仕打ちを責めて、さんざんに辱しめ、ついには、相手が心から涙を流して、絶望に陥ってしまうまでにいじめ抜いた。この不仕合わせな叔父に対するフォマーの理解を絶した、残酷な、専制君主的な勢力は、実にこの時からはじまったのである。フォマーは、相手がどんな人間であるかを見抜いてしまって、道化としての自分の役廻りは終わりを告げた、人物のいないところではフォマーも貴族だ、と直感したのである。で、彼はここぞとばかりとうとうとお説教を始めた。
「あなたはまあどんな気持ちがするでしょう?」とフォマーはいった。「もしあなたの生みのお母様が、つまりあなたの生命の源たる人が杖をとって、飢えに萎びてぶるぶる顫える手でそれに縋りながら、本当に合力を求めるようになられたら、いったいどんなものでしょう? 奇っ怪千万な話じゃありませんか? なぜといって、第一、お母様は将軍夫人という身分ですぞ、第二に、あんな有徳のお方じゃありませんか。もし突然お母様があなたの窓の下へ来られて(もちろんそれはものの間違いですが、実際そういうこともないとは限りませんからな)、お手をさし伸ばされるとしたら、あなたの心持ちはどうでしょう? しかも、あなたはその時、どこか家の中で羽根蒲団の中に埋まっておいでになる、……いや、まあ、全体として、奢侈に浸っておいでになる! 恐ろしいことだ、恐ろしいことだ! しかし、何より恐ろしいのは、――失礼ながら、大佐、どうか露骨にいわしてください。何より恐ろしいのは、今あなたがわたしの前に無感覚な棒のように突っ立ったまま、口をぽかんと開けて、目をぱちくりさしておられることです。これなぞはもう不体裁ですぞ。ほんとうなら、あなたはそういうふうな場合を想像してみただけで、自分の頭から髪を根こそぎ引きむしって、涙の小川を……わたしはまあ何をいっているのだろう! 川を、いや、湖を、いや、海を、いや、大洋を……流さんければならないはずじゃありませんか?」
 つまり、フォマーは感激の溢れるままに、少しはめをはずしたのである。けれども、彼の雄弁の結末はいつでもこんなふうであった。むろんとどのつまり将軍夫人は、部下の居候たちや、狆や、フォマー・フォミッチや、夫人の一番のお気に入りのペレペリーツィナ嬢などを引き具して、ついにスチェパンチコヴォヘ移転の光栄を授けたのである。彼女は、当分のうち彼の孝行ぶりを試す[#「試す」に傍点]ために、ちょっと試験的に息子のところで暮らしてみるのだ、といった。当分のうち自分の孝行ぶりを試験される大佐の位置は、想像するに難くない。初め将軍夫人は新しい未亡人というところから、一週間に二度か三度くらい、逝いて帰らぬ将軍のことを想うて、絶望の状態に陥るのを義務のように心得ていた。が、いつもそのたびにきまって、なんのためかわからないけれど、大佐がひどい目に遭うのであった。時とすると、ことにだれか来客でもあった時など、彼女は幼い孫のイリューシャと、十五になる孫娘のサーシェンカをそば近く呼びよせて、ああいう父親[#「ああいう父親」に傍点]のそばで台なしにされる子供を憐れむように、沈んだ殉難者のような目つきで、長く長くその顔を見つめて、深い溜息をつくかと思うと、ついに声にたてぬ神秘な涙を流して泣きだすのであった。これが少なくとも丸一時間つづいた。もし大佐がこの涙の価値を理解できなかったら、それこそ禍いなるかな、である! ところが、彼は困ったことに、ほとんど一度もそれを理解できなかった。そして、持ち前の無邪気な性質のために、いつも狙ったように、そうした涙の瞬間に行き合わせて、いやでも応でも試験を受けなければならなかったのである。けれど、彼の恭順は毫も減ずることなく、ついにはぎりぎりの絶頂に達してしまった。将軍夫人もフォマーも二人ながら、あの長い年月の間クラホートキン将軍のお蔭で、彼らの頭上に鳴りはためいていた雷がもはや通り過ぎてしまった、通り過ぎて二度とかえることがないのを、十分に感じたのである。よく将軍夫人はなんという原因もなく気絶して、長いすの上へひっくり返ることがあった。すると家じゅう大騒ぎである。その時、大佐はもうかたなしで、ポプラの葉のように慄えるばかりだった。
「むごい息子だ!」と将軍夫人は正気づいて叫ぶ。「お前はわたしの内臓を掻きむしってしまった…… mes entrailles, mes entrames!(わたしの内臓を、わたしの内臓を!)」
「お母さん、どうしてわたしがあなたの内臓を掻きむしったのですか?」と大佐は恐る恐る言葉を返す。
「掻きむしった! 掻きむしった! それだのに、あれはまだ言いわけなぞしている! 無作法なことをいっている。むごたらしい息子だ! ああ、死にそうだ!………」
 大佐はむろん、かたなしである。
 けれども、どういうものか、夫人はいつでも無事に生きかえるのだった。三十分の後、大佐はだれかをつかまえて、その上着のボタンをいじくりながら、こんなことをいっているのだ。
「いや、しかしね、きみ、母は grande dame (貴婦人)だからね、将軍夫人だからね! 実に優しいお婆さんなんだけれど、なにしろ、きみ、いろんな、その、優美なことに慣れてるもんだから、……わたしのようなぶ骨男のお相手じゃないよ! いま母はわたしのことを怒ってるが、それはもちろん、こっちが悪いのさ。わたしはね、きみ、自分がどんな悪いことをしたのかまだ知らないけれど、しかしもちろん、わたしが悪いにきまってるさ……」
 また、時とすると、ペレペリーツィナ嬢、――これは眉のない、禿隠しをくっ付けた、小さな貪婪な目つきをした、唇が糸のように細い、胡瓜の水で手を洗い上げた、世間全体を白眼視している、薹《とう》のたった代物だったが、これが同じように叔父に向かって、一場のお説教をするのを、義務のように心得ていた。
「それはつまり、あなたが親を敬わないからです。それはつまり、あなたが利己主義者だからです。あなたがお母様を侮辱なさるからです。あの方はそういうことに慣れていらっしゃいません。あの方は将軍夫人ですよ。それだのに、あなたはまだただの大佐じゃありませんか?」
「あのね、きみ、あのペレペリーツィナ嬢はね」と大佐は自分の聞き手をつかまえて、こういうのであった。「実は、立派な娘さんだよ。身をもって母をかばってるんだからね! 珍しい娘さんだよ! きみ、あのひとを居候かなんぞのように思っちゃいけない。あの人は、きみ、中佐のお嬢さんなんだからね。実際そうなんだよ!」
 しかし、これなどはほんの前置きである。こういうさまざまな手品をして見せる腕のある将軍夫人が、以前の自分の居候のフォマーの前へ出ると、まるで二十日鼠のように小さくなって慄えるのであった。フォマー・フォミッチはすっかり彼女をまるめ込んでいた。夫人は彼の前では、息をするのさえはばかった。そして、万事彼の耳で聞き、彼の目でものを見た。わたしの又従兄弟の中に、やはり退職の軽騎兵があった。まだ若かったけれども、お話にならないほど財産を磨り耗らしてしまって、一時叔父のところで厄介になっていたが、わたしに向かって単刀直入ざっくばらんな言い廻しで、自分の深く信ずるところでは、将軍夫人はフォマーと許すべからざる関係をつけている、と断言したものである。もちろん、わたしはその時すぐ憤然として、あまりにも下劣で単純なこの想像をしりぞけた。いや、実際そこには何か別なものがあった。ところで、この別なあるものは、あらかじめフォマー・フォミッチの性格を、読者に説明しておかなければ、どうしても十分はっきりさせるわけにいかない。わたし自身も彼の性格は後になってようやく理解したような始末である。
 試みに一個の人間を想像してみたまえ。それは、思いきってやくざな思いきって了見の小さい、だれにも必要のない社会のあぶれ者で、てんでものの役に立たない、きわめて醜悪な、しかも方図の知れないほど自尊心の強い男なのである。が、その病的に苛々した自尊心を、幾分なりとも弁護してくれるような才能を、毛筋ほども持ち合わせていないのだ。前もって断わっておくが、フォマーは実際、方図の知れない自尊心の権化だが、その自尊心は一種特別なものである。つまり、世間によくあるやつで、思いきってやくざな人間の持っている自尊心である。昔の手痛い失敗に辱しめられ圧迫されて、古くから内部で膿をもち、それからというものはだれか人に会うたびに、他人の成功を見るたびに、羨望と憎悪を絞り出す、そういった種類の自尊心である。これがまたきわめて醜悪な怒りっぽい性質、思いきって気ちがいめいた猜疑心に調味されていることは、今さら改めていうまでもない。あるいはこうきく人があるかもしれない。いったいどこからそんな自尊心が出て来るのだろう? 社会上の身分からいっても、身のほどを知らなければならないような、思いきってやくざな、思いきってみじめな人間の心に、どうしてそんなものが生まれるのだろう? こういった疑問に対しては、なんと答えたらいいかわからない。
 しかし、世の中には例外というものがあるから、わたしの小説の主人公もその一人かもしれない。これは後でわかることだが、彼はじっさい一般法則の除外例なのであった。けれど、ちょっとたずねたいことがある。いったい諸君はどう思っていられるか? もうすっかり世の中のことを諦めてしまって、他人の家の道化者、食客として暮らすのを幸福と心得、光栄のように考えている連中が、きれいにいっさいの幸福を諦めきっている、と諸君は信じていられるか? では、彼らの羨望や、陰口や、讒訴や、告げ口はどうしたのだろう? 諸君の家のどこか隅っこのほうか、それでなければ食卓の小陰などに聞こえる秘密の毒舌はどうしたのだろう? こうして運命に虐げられた放浪者、他人の家の道化や乞食巡礼の中には、屈辱のために、自尊心が消えてしまうどころか、かえってその屈辱のために、その道化や乞食や食客の境遇のために、永久に強制される屈従や自己没却のために、ますます自尊心を煽られるようなのがいるかもしれないのだ。こうして、日一日と成長して行く醜い自尊心は、これら未来の放浪者のまだ子供時分から、両親が外界の圧迫、貧困、醜汚などに苦しんでいるのをまのあたり見て、自分の品格を傷つけられ辱しめられるように思った、そのねじくれた偽りの感情にほかならぬかもしれない。
 しかし、わたしはまだその上に、フォマー・フォミッチのことを、一般法則の除外例だといったが、それはまったくなのである。彼はかつて文学者だったが、ついに認められずして失意に終わった。実際、文学のために身を亡したのは、単にフォマー一人にとどまらない。もっとも、わたしは認められざる文学のことをいっているのである。よくは知らないが、フォマーは文学をやる以前にも不遇つづきで、どの方面へ出ても俸給の代わりに嘲罵の声ばかり聞いたものに相違ない。或いはそれよりもっと悪かったかもしれない。もっとも、これはよくわかっていないけれど、わたしが後で調べて、つきとめたことがある。ほかでもない、フォマーは実際、モスクワでいつだか小説を書いたそうだ、それは一時ブラムペウス男爵([#割り注]本名センコーフスキイ、批評家、小説家[#割り注終わり])の機智の為に快い食餌となった『モスクワの解放』とか、『領袖ブーリャ』とか、『愛の子、一名、千百四年のロシヤ人』とかいうような、三十年代あたりに毎年幾十となく製造せられていた小説類に似たり寄ったりのものであった。もちろん、それは遠い昔のことだ。しかし、文学上の自尊心の蛇は、どうかすると一生癒らぬほど深く、人を刺すものである。つまらない、少々間のぬけたような人間には、それがことにはなはだしい。フォマー・フォミッチは文壇の第一歩から苦い失望を嘗めさせられて、さっそく失意の人々のお仲間に入ってしまった。この仲間に入ったが最後、出る時にはもうみんな乞食巡礼か、のらくら者か、放浪者になってしまうのだ。
 わたしの考えでは、そのとき以来彼の心中にこのいまわしい高慢癖が、――賞讃、感嘆、崇拝、驚異の渇望が、増長し始めたに相違ない。彼は道化を勤めていながらも、自分の前へ敬虔にひざまずく馬鹿者の群れを集めることに成功した。どうでもいい、ただどこかでなんとかして人の頭に立って、もったいらしく予言したり、えらそうなことをいってみたり、自慢したりしたい、――それが彼のおもな心の要求なのである! ところが、だれも賞めてくれる者がないものだから、彼は自分で自分を賞め始めたのだ。わたしは、フォマーがスチェパンチコヴォ村の叔父の家へ来て、そこで絶対の主権者となり、予言者になりすましていたとき、彼自身の口から、こういうことを聞いた。「わたしはあなた方の家に住まうべき人間ではない」ときどき、彼は妙に秘密らしいもったいぶった調子で、こんなことをいい出すのであった。「わたしはここに住まうべき人間ではない! しばらくここの様子を見て、あなた方をうまく落ちつかして、いろんなことを指示し、教導したら、もうその時はさよならです。わたしはモスクワへ行って、雑誌を発行します! 毎月三万ぐらいの人が、わたしの講義を聴きに集まって来るだろう。そのうちには、ついにわたしの名も天下に轟くだろうから、その時こそはわたしの敵はひどい目に遭うんだ!」しかし、天才も今のところまだ名声を天下にしく準備時代にすぎない。ところが、彼は今すぐ報酬を要求しているのだ。全体として、前金をもらうのは気持ちのいいものだが、この場合はまた格別である。わたしはよく知っているが、彼は大まじめで叔父にこんなことをいったそうだ、――自分フォマーは、偉大なる功業を控えている。自分がこの世へ招かれたのもほかならぬこの功業のためで、だれか背中に翼の生えた人が毎晩夢に現われて、早くそれを成就するようにと激励している。その功業というのは、霊魂救済といったような性質を帯びた、きわめて深遠なる著述であって、それが一たび世に現われたら、ロシヤ全国が大地震でも起こったように震撼するはずなのだった。さていよいよロシヤが震撼したならば、彼は自分の名声などは弊履のごとく棄てて、修道院へ入ってしまう、キーエフの洞窟の中にこもって、朝晩たゆみなく祖国の福祉を祈る、というのだ。それがすっかり叔父の気に入ったのである。
 ところで、今度はこのフォマーが、どういうものになったか、一つ想像してみてもらいたい。生涯しいたげられ圧迫されて来た(本当に殴られたことがあるかもしれない)フォマー、ひそかに好色の思いにふけり、自尊心をつのらせているフォマー、失意の文学者であるフォマー、食うに困って道化になりさがったフォマー、今までつまらない意気地のない境遇にいたにもかかわらず内心暴君の素質を持ったフォマー、自慢屋(うまくいった場合には威張り屋)のフォマー、低能児の将軍夫人と、うまくまるめこまれてなんでもよしよしといってくれる保護者のお蔭で、長い漂泊の後一つ家にじっと落ちついて、とつぜん尊敬と光栄のただ中に飛びこんで、ちやほやされるようになったフォマーが、どんなふうになったかは察するに難くない。もっとも、叔父の性格についても、わたしはもっと詳しい説明をする義務がある。そうしなかったら、フォマーの成功はとうてい不可解である。しかし、今ちょっとこれだけのことをいっておこう。「テーブルの前へ坐らせると、足までテーブルの上へのせる」という諺があるが、フォマーがちょうどそれと同じことになったのである。彼は自分の過去を相殺したのだ! 下劣な魂は圧迫から免れるやいなや、自分で人を圧迫したがるものだ。フォマーは圧迫された、――で、今度はすぐ自分から圧迫したいという要求を感じたに相違ない。今まで人に威張られたから、今度は人に威張ってやろう。今まで道化だったから、今度は自分の道化をつくってやろう、という要求を感じたに相違ない。彼はばかばかしいほど自慢をし、鼻もちのならぬほど威張り返り、口から出放題の無理をいい、方図の知れないほど専横を極めた。で、ついには、まだこういう醜態を見ないで、単に滑稽な噂話として聞いただけの善人たちは、こういうことをすべて奇跡かなんぞのように見做し、あれは魔に魅入られたのだといって十字を切り、ぺっと横のほうへ唾を吐くのであった。
 わたしは叔父のことをいった。もちろんこの驚くべき性格者(わたしはこれをくり返していう)の説明なしでは、他人の家におけるフォマー・フォミッチの、ああした図々しいのさばりようもわからなければ、道化から偉人へのとっぴな変容も理解できるものでない。叔父は極端なくらいの好人物だったばかりでなく、いくぶん粗暴らしい外貌にも似合わず、たとえようのないほど優しい、最上級に潔白な心を持っている、鍛え抜いた、男らしい男であった。わたしはあえて『男らしい』という。なぜならば、彼は自分の義務の前にはけっして狐疑逡巡せず、いかなる障害をもものともしないのである。彼の心は子供のように綺麗だった。実際、彼は四十になる子供であった。恐ろしく話好きで、いつも快活で、すべての人を天使のように思いなし、他人の欠点のためにおのれを責め、他人の美点を極度にまで誇大して、全然そんなもののあろうはずのないところにまで美徳の存在を仮想しているような人だった。よく世間には、他人の心中に悪を想像するのを恥じて、自分の周囲のものに性急なほどありとあらゆる徳性をおおいかぶせ、他人の成功をよろこびながら、常に理想世界の中に住んで、もし失敗があった場合には真っ先に自分を責める、こういう潔白純真な心を持った人がある。叔父はつまりその一人なのであった。他人の利益のためにおのれを犠牲にすることは彼の使命であった。或いは彼のことを気の小さい、意気地のない、弱い人間という者があるかもしれない。もちろん、彼は弱くもあった、あまりに意気地がなさすぎるのも事実だった。しかし、それは強味の欠けているためではなく、残酷な行為をしたり、他人を侮辱したりすまいという心遣いのためだった。他人、いや、人間全体に対する過度の尊敬のためだった。もっとも、彼が意気地なく小胆になるのは、自分自身の利益問題に関する時だけである。彼はおのれの利益など極度に蔑視していたので、そのために一生涯人のもの笑いになっていた。彼に利益を犠牲にしてもらった人までが、いっしょになって彼を冷笑するようなことも稀ではなかった。もっとも、彼は自分に敵があるなどとは、夢にも想像しなかった。事実、敵はあったけれど、彼はどういうものかそれに気がつかなかった。家の中でわめき声や騒動が起こるのを、まるで火事のように恐れていたので、すぐだれにでも譲歩して、折れてしまう。一種つつましやかな人のいい性質のために、つつましやかな優しい心のために、譲歩するのであった。「どうでもいい、とにかく……」寛大にすぎるとか、気が弱いとかいう他の非難を、大急ぎでわきのほうへ押しのけるようにしながら、彼は早口にこういうのであった。「どうでもいい、とにかく……とにかく、みんな満足で、幸福でさえあればいいのだ!………」
 こういうふうだから、好い性質のものであれば、すべてどんな影響にでも屈服しやすいことなどは、あらためていうまでもなく、そればかりか、どんな人間でも少し悪知恵のあるやつなら、すっかり彼を手の中へまるめてしまって、何か悪い事にさえひっぱり込むことができたに相違ない。もっとも、その悪事に善行の仮面をかぶせるのはもちろんである。叔父は非常に人を信じやすかったので、なかなか眼鏡ちがいなしではすまなかった。そして、いろいろ苦しんだあげくやっとのことで、自分をだました男は不正直なやつだと信じるだけの決心がついた時は、まずだれよりも自分を責めるのであった。それもたいてい自分一人だけなのだ。さて、今度は彼の静かな家庭へ君臨した、気まぐれな、老ぼれた低能な女を想像してみたまえ。しかも、この女にはいま一人別な低能児、――自分の偶像が影のごとくつき添っているのだ。彼女は今まで夫の将軍一人を恐れていたが、今もう何も恐ろしいものがいなくなると、今度は自分の過去に対する穴埋めをしたい、という要求を感じ始めたのだ。ところが、叔父はこの低能児を、単に自分の母というだけの理由で、神のごとく崇めるのを義務と心得ていたのである。まず第一着手として、彼らは叔父に向かって、お前はがさつ者だ、せっかちだ、無教育だ、そして何よりも思いきって利己的だ、と説教した。面白いことには、この低能な婆さんは自分で自分のお説教を、すっかり本当にしきっていた。それにわたしの考えでは、フォマーにもやはり幾分そういう傾きがあった。それからまた、叔父はこういうことも聞かされた、――フォマーは、彼の霊魂を救い、かつ彼の放恣なる情欲を抑制するために、天帝より降したまわった人である。しかるに、彼は倣慢でおのれの富を誇り、自分の与える一片のパンのためにフォマーを侮辱する、というのであった。不幸な叔父は間もなく、自分の堕落の根ざし深いのを信じて、頭の毛を掻きむしりながら、ゆるしを乞いもしかねないふうであった。「それはきみ、わたしが自分で悪いのだよ」と、よく彼はだれか自分の話し相手をつかまえて、こういいいいした。「何もかもわたしが悪いのだ! 自分の恩をきせた人間には一倍やさしくしなければならん……いや、わたしはまあ何をいっているのだろう!………恩をきせるとはなんだ! また出たらめをいってる! けっして恩なんかきせやしない。それどころか、あの人こそわたしの家に住んでくれて、わたしに恩をきせてるのだ。けっしてわたしがあの人に恩をきせるのじゃない!………ところが、わたしは一片のパンのためにあの人を侮辱した!………いや、実際、わたしは少しも侮辱なんかしないのだが、どうも何か口がすべったらしい、わたしはよく口をすべらすからね……それにまた、あの人は苦労して来たんだ、なかなか立派なことをしたんだよ。十年間というもの、ありとあらゆる侮辱を忍んで、病める友の看病をしたんだから、それは当然報酬を受けるべきだ! それにまた学問がある……文学者なんだよ! 立派な教育のある人だし、品性も優れたものだし、……一口にいえば……」
 気まぐれで残酷な貴族のもとで道化の役を勤めている不幸な学者フォマーの姿は、美しい叔父の心を同情と憤懣で掻きむしったものである。フォマーの奇癖も、その下劣な言行も、叔父はすぐにみんな彼の苦痛と、屈辱と、憎悪のせいにしてしまった……彼はすぐさまその高潔な優しい心の中で、こう決心した、――苦しめる人から普通人と同じことを求めるわけにはいかない、こういう人は、ゆるすことが必要なばかりでなく、そのうえ謙譲によってその傷を癒し、再びその気力を回復させて、人類と和解させなければならない。こういう目的をたてて以来、彼は極端なほどそれに熱中してしまい、この新しい親友が単に肉欲のさかんな気まぐれなやくざ者で、エゴイストで、なまけ者ののらくら者にすぎない、ということを見抜くいっさいの能力を失ってしまった。フォマーの学識と天才にいたっては、叔父は頭から無条件に信じて疑わなかった。わたしは前にいい忘れたが、叔父は「学問」とか「文学」とかいう言葉に対しては無邪気に、真正直に頭を下げていたのである。もっとも、彼自身は、今まで何一つ勉強したことがなかったので。
 これは彼の持っている奇妙な性質の中で、もっとも重大な、しかも無邪気なものだった。
「著述をやってるんだよ!」フォマーの書斎までまだ二部屋も隔てている処から、爪先だちで歩きながら、彼はよくこういった。「もっとも、どんなものかわからないがな」と彼は誇らしげな、神秘めいた顔つきでいい足した。「しかし、きみ、きっと何かちんぷんかんだよ……といって、つまり、いい意味のちんぷんかんなのだ。そりゃ、わかる人もあるけれど、きみやわたしなぞにとっては、なんのことはない、とんぼ返りの芸当みたいなもんだよ……なんでも、生産力とかいうもののことを書いてるそうだ、――自分でそういっていたよ。それは、きっと政治のことかなにかだろう。ああ、いまにあの人の名も天下に轟くよ! その時はわたしでもきみでも、あの人のお蔭で名を出すわけだ。それは、きみ、あの人が自分でそういったさ……」
 わたしは確かに知っているが、叔父はフォマーの命令によって、見ごとな黒みがかった頬ひげを剃りおとしてしまった。フォマーの考えによると、叔父は髯を生やしているとフランス人
に似て来る、それだから彼は愛国心がない、とこういうのである。しだいにフォマーは領地の管理にも立ち入って、賢明な忠言を与えるようになった。ところが、この賢明な忠言が恐るべきものだった。百姓たちは間もなく事情を悟り、だれが本当の主人なのか見抜いてしまって、ひどく当惑したものである。わたしはその後あるとき、フォマーと百姓との対話を聴いた。実のところ、立ち聞きしたものである。フォマーは以前から、賢いロシヤの百姓と話をするのが好きだと吹聴していた。で、あるとき彼は打穀場《こなしば》へ行った。自分では燕麦と小麦の区別もつかないくせに、百姓をつかまえて仕事の話をしたり、地主に対する農夫の神聖な義務を甘ったるい調子で説教したり、電気だの分業だのというものにもちょっと触れてみたり(そんなことなぞ、これっから先もわかりゃしないのだ)、どんなふうに地球が太陽のまわりを巡っているかということも、自分の聴衆に講釈して聞かせたりしたあげく、自分で自分の雄弁に感激してしまって、とうとう大臣のことまでしゃべり出した。わたしには、その心持ちがよくわかった。実際、プーシキンもこんなことを話しているではないか。ある一人の父親が、四つになる息子をつかまえて、「お父さんは本当にえらいんだから、天子様にもかわいがってもらってるんだよ……」といい聞かせたとのことである。この「お父さん」は僅か四歳の聞き手さえ必要としたではないか!
 百姓たちはいつもうやうやしげにフォマーの話を聞いていた。
「なんでござりますかね、旦那、あんた様は、陛下様に月給をたくさんもらっておらっしゃりましたかね?」綽名を背っぴくのアルヒープという胡麻塩の百姓が、突然ほかの百姓の群れの中からこう問いかけた。明らかにご機嫌をとろうというつもりらしかった。が、フォマーはこの問いを馴れ馴れし過ぎると思った。彼は馴れ馴れしくされるのがいやでたまらなかったのである。
「そんなことを聞いて、なんになるんだい、唐変木!」哀れな百姓を侮辱しきった目つきでみつめながら、彼はこう答えた。「いったいなんだってそんな面を突き出すんだい、唾でもひっかけてくれというのか?」
 フォマー・フォミッチはいつもこういう調子で、「賢いロシヤの百姓」と話をするのであった。
「旦那様」といま一人の百姓が引きとった。「なにぶんわしらあ何もわがらん人間じゃでなあ。あんた様が少佐であらっしゃるやら、それとも大佐であらっしゃるやら、それともご前様やら、――なんといってお呼びしたもんか、わかりかねるでなあ」
唐変木!」とフォマーはくり返したが、それでも少し機嫌が直った。「月給といったところで、いろいろあるわい、この間抜け野郎! 中には将軍だなんていってるくせに、ちっとも月給をもらっておらん人がある、――つまり、それだけの値《あたい》がないわけだ。陛下様のお役に立たんからだ。ところが、おれは大臣のそばで勤めておった時など、二万ルーブリずつもらっておったが、しかしおれはそれを取らんかった。なぜといって、おれは名誉のために勤めておったので、自分の収入が別にあったからだ。月給はみんな国の文化事業や、カザンの火事で家を焼かれた人たちに寄付してしまったよ」
「へえ! なら、あなた様はカザンの建て直しなされましたかね、はあ?」と百姓は度胆を抜かれて語を継いだ。
 総じて、百姓たちはフォマーに度胆を抜かれていたのである……
「うん、まあ、あそこにはおれの出した分もあるさ」とフォマーは大儀らしく答えた。それはちょうどどうしてこんな[#「こんな」に傍点]人間にこんな[#「こんな」に傍点]話をしかけたのだろうと、自分で自分をいまいましがるようなふうつきだった。
 叔父を相手の時には、会話はまた別種なものになった。
「以前あなたはどんな人間だったと思います?」豊富な食事の後、安楽いすにぐったりと身を投げ出しながら、フォマーはこんなことをいい出すのであった。こういう時、だれか下男の一人が新しい菩提樹の枝をもって、彼のために蠅を追ってやらなければならなかった。「わたしが来るまで、あなたはまあ、どんなふうだったと思います? ところが今度、わたしは一点の天の火を落とした。それが今あなたの胸のなかで燃えておるのです。え、わたしは本当にあなたの心に天の火を落としたか、落とさないか、返事をしてください、天の火を落としましたか、落としませんか?」
 フォマー・フォミッチはまったくのところ、なんのためにこんな質問を発したのか、自分でも知らなかったのである。しかし、叔父の沈黙と当惑はさっそく彼を苛立たせた。以前は恐ろしく辛抱づよくて、意気地なくいじけ込んでいた彼が、今はちょっとでも反対に遇うと、すぐ火薬のように爆発するのであった。叔父の沈黙が侮辱のように感じられたので、今も彼は執拗に返事を求めた。
「返事をなさいというのに。あなたのお心の中で天の火が燃えておりますか、おりませんか?」
 叔父は当惑してもじもじしながら、どういっていいかわからなかった。
「どうか気をつけてください、わたしは待っておるのですぞ」とフォマーはむっとしたような声で注意した。「Mais repondez donc(ねえ、返事をおしってば)、エゴールシュカ!」と将軍夫人は肩をすくめながら口を入れた。
「え、あなたの心の中で天の火が燃えてるか、燃えていないか、きいておるんですよ!」菓子鉢から菓子を一つつかみながら、フォマーは少し調子を下げてくり返した。この菓子鉢は、いつでも彼の前のテーブルにおかれることになっていた。これは将軍夫人の指図なのである。
「まったく正直わからないよ、フォマー」顔に絶望の色を浮かべながら、とうとう叔父はこう答えた。「なにかそんなふうのことがあるんだろうが……本当にきみ、お願いだから、もうきかないでくれたまえ。でないと、また何かくだらん口をすべらすから……」
「よろしい! じゃ、あなたのご意見によると、わたしは返事をしてもらう価値もないほど、つまらん人間なんですな、――あなたはそういいたかったのでしょう? まあ、それでもよろしい、わたしをつまらん人間としておきましょう」
「いや、そんなことはないさ、フォマー、きみは何をいうんだろう! いったいいつわたしがそんなことをいおうとしたね?」
「いや、あなたはそういいたかったんです」
「いや、そんなことは誓ってないよ!」
「よろしい! それじゃ、わたしは嘘つきとしておきましょう! あなたのお考えによると、わたしはわざと喧嘩の口実をさがしておるんですな。まあ、今までのさまざまな侮辱に、これをもう一つ加えることにしましょう――わたしはなんでも忍びますよ……」
「Mais mon fils!(ああ、わが息子よ!)……」と将軍夫人はびっくりして叫んだ。
フォマー・フォミッチ! お母さん!」と叔父は前後を忘れて叫んだ。「まったくわたしが悪いのじゃないんです! ただその、ふいと口がすべっただけなんで!………フォマー、そんなにわたしを睨まないでくれたまえ。実際、わたしは馬鹿なんだよ。自分でも馬鹿だと感じてるよ、自分でも腹の中で、なんだか具合が悪いぞと気がついてるんだ……わたしは知ってるよ、フォマー、みんな知ってるよ、いわないでおいてくれ!」と彼は手を振りながらいいつづけた。「今まで四十年もこの世で暮らして来たが、きみという人を知るその時まで、いつも自分のことを人間として……まあ、その、概して非のない男だと思っていた。それまでというものは、まるで気がつかないでいたんだが、わたしは山羊のように罪の深い恐ろしいエゴイストで、これでどうして地球が崩れないかと不思議なくらい、たくさんな悪事を重ねているんだね!」
「そうです、あなたはまったくエゴイストですよ!」自分の言葉を確かめられて、フォマーはそういった。
「ああ、わたしも今は自分でエゴイストだと自覚したよ! いやもう、たくさんだ! わたしは自己を匡正して、もっといい人間になるよ!」
「どうかそうありたいものですな!」とフォマーはいい、つつましく吐息をつきながら安楽いすから立ちあがり、食後の睡眠におもむくのであった。彼はいつでも食後に休息することになっていた。
 この章を結ぶにあたって、わたしと叔父との個人的な関係を述べ、どういうわけでわたしが突然フォマー・フォミッチと顔を合わせ、かつてこの祝福されたスチェパンチコヴォ村で起こったあらゆる出来事のうち最も重大な事件の渦巻きに思いがけなく巻きこまれることになったか、それについて一言させてもらいたい。こうして、わたしはこのはし書を結んで、いきなり物語に移ろうと思う。
 幼年時代にわたしがみなし児となって、広い世界にただ一人とり残されたとき、叔父はわたしのために親代わりとなり、自腹を切ってわたしを養育してくれたのである。それは生みの親でさえ、だれでもはしてくれないような行き届き方だった。わたしは叔父の家へひき取られたその日から、しんそこ彼に愛着を感じた。そのときわたしは十だったが、二人は間もなく仲よしになって、互いの心持ちを完全に理解し合ったのを、今だに覚えている。わたしたちはいっしょに独楽《こま》を廻したり、二人の親類にあたる恐ろしく意地悪な老夫人の室内帽子をそっと盗んだりした。わたしはすぐその帽子を紙鳶《たこ》の尻尾へ結えつけて、雲の下まで飛ばしたものだった。それから幾年かの後、わたしはペテルブルグでちょっと叔父に会った。その頃、わたしは叔父に学資を出してもらって、大学の課程を卒えようとしていた。この時、わたしは青春の熱情を傾けて、叔父に愛慕の情を寄せたものである。彼の性格の中にある一種高潔で謙仰な、正直で快活な、そして極度にまで無邪気なあるものが、わたしの心を打ったのだが、それは同時に、あらゆる人を惹きつけねばやまぬ底のものであった。
 大学を出ると、わたしはしばらく何もしないでペテルブルグに暮らしていた。そして、生意気ざかりの若い者によくあることで、ごく僅かな間に何かしら目ざましいこと、あわよくば偉大な仕事を、うんとして見せるぞ、と意気ごんでいたのである。わたしはペテルブルグを見棄てる気がしなかった。叔父とはごく時たまにしか手紙の往復をしなかった。しかも、それは金の要る時ばかりだったが、彼は一度もそれを拒絶したことがなかった。ところが、そのうちに何かの用事でペテルブルグへ来た一人の下男から、今スチェパンチコヴォ村ではあきれ返ったことが持ちあがっているという話を聞きこんだ。この最初の情報は、わたしの興味を喚びさますと同時に、あきれさせた。わたしはせっせと叔父へ手紙を出し始めた。が、叔父の返事はいつも曖昧で奇妙で、どの手紙にもどの手紙にも、ただ学者としてのお前の前途に多大の望みをかけ、お前の未来の成功を誇りとしているなどと、そんな学問のことばかり書いてよこすのであった。ところが突然、かなり長い無沙汰の後、わたしは彼から一通の手紙を受けとった。それは以前の手紙とはまるで違った、驚くべきものであった。それは実に変てこな暗示めいた言葉の連続で、矛盾撞着に充ちていたので、初めのうちはほとんど何一つ合点がいかなかった。察するところ、彼は並々ならぬ不安に襲われていたものらしい。しかし、この手紙の中で、たった一つ明瞭なことがあった。ほかでもない、叔父はまじめに、一心に、ほとんど祈らないばかりの調子で、以前の自分の養い児と少しも早く結婚するように、と勧めているのであった。それは、苗字をエジェヴィーキンという、きわめて貧しいある田舎官吏の娘であるが、叔父に学資を出してもらって、さるモスクワの学校で立派な教育を受けた後、今では叔父の子供たちの家庭教師をしているのであった。叔父の手紙によると、彼女は不幸な身の上だけれど、わたしとの結婚は彼女に幸福を授けることになる。この結婚によって、わたしは任侠な行ないをすることにさえなる、――こういって、彼はわたしの高潔心に訴え、彼女に相当な持参金をつけることも約束していた。もっとも、持参金のことは妙に秘密めいた、臆病な調子で書いてあって、手紙の終わりには、このことは極々の秘密にしてくれと、書き添えてあった。この手紙は強くわたしを打った。とうとう、わたしは眩暈《めまい》さえ感じたくらいである。実際、だれだってわたしのような焼きたてのほやほや書生で、こんな提言に心をひしがれない者はあるまい、単にそのロマンチックな方面だけからいっても十分ではないか。それに、この家庭教師がきわめて美しい娘だということも、かねて聞き知っていた。わたしは、すぐさまスチェパンチコヴォ村へ出発すると、叔父に返事を出してはおいたものの、どうしていいか決心がつかなかった。叔父はその手紙に旅費を封入して送ってくれたが、それにもかかわらず、わたしはいろいろな疑惑と不安のうちに、三週間ばかりペテルブルグでぐずぐずしていた。
 ところが突然、わたしは叔父の以前の同僚に出会った。彼はコーカサスからペテルブルグへ帰る途中、スチェパンチコヴォ村へ寄ったのである。もう大分な年輩で、分別もあるし、昔から独身者でおし通している人だった。彼は憤慨に堪えぬ調子で、わたしにフォマーのことを話して聞かせたが、その際わたしのまだ夢にも知らないでいた一つの事情を伝えてくれた。ほかでもない、将軍夫人とフォマー・フォミッチが、叔父をある奇妙な女と結婚させようと思いつき、その手筈をきめているのだった。それは嫁《ゆ》き遅れた老嬢で、何かしら突拍子な経歴を持った、半気ちがいのような女だったが、ほとんど五十万ルーブリからの持参金を持っているので、将軍夫人はもうさっそくこの女に、自分たちは親類同士の間柄だからといって、自分の家へ招き寄せたのであった。叔父はもちろん、いても立ってもいられないほど苦しんでいるが、結局、この五十万ルーブリの持参金と結婚するに相違ないらしかった。ところで、将軍夫人とフォマーの知恵者両人は、哀れな頼りない家庭教師に恐ろしい迫害を加え始め、一生懸命に彼女を家の中からいびり出そうとしている。それはたぶん、大佐が彼女に恋するようなことはないかと心配したがため、いや、ことによったら、すでに恋しているがためかもしれない。この最後の言葉はわたしを仰天させた。もっとも、叔父はじっさい恋しているのでないか、というわたしの問いに対して、その人は正確な返事ができなかった。或いは、することを欲しなかったのかもしれない。全体として、彼の話は口数が少なく、大儀そうで、詳しい説明を避けているのがありありと見えすいていた。わたしは考えこんでしまった。この報知は不思議にも、叔父の手紙とその申入れに矛盾しているではないか!……しかし、もうぐずぐずしている場合ではなかった。わたしはすぐスチェパンチコヴォ村へ出発しようと決心した。そして、単に叔父を諭して慰めるばかりでなく、できるだけ彼を救うように努力しよう、つまりフォマーを追い出して、いまわしい老嬢との結婚をぶち壊してしまおう。それに、叔父の恋云々はフォマーの言いがかりにすぎない、とわたしは腹の中で固くきめていたので、あの不幸なとはいえ興味のある娘に結婚を申し込んで、彼女を幸福にしてやろう、などというようなことを考えたのである。しだいに、わたしは感激に駆られて、すっかりいい気持ちになってしまった。なにぶん年は若いし、これといってすることもないので、疑惑の心境から一躍して、反対の極に飛び移ってしまった。少しも早くいろいろな奇跡や功業を現わそうという、烈しい希望に燃えたのである。わたしは無垢な美しい処女を幸福にするために、いさぎよく自分を犠牲に供することによって、並々ならぬ任侠を示すようにさえ感じられた――とにかく、わたしは旅行の間じゅう、すっかり自分で自分に満足しきっていた。それは七月で、太陽はさんさんと輝き、熟しかかった麦の野が際涯もなく広がっている……わたしは長いことペテルブルグに蟄居していたので、今はじめて本当に神の世界を覗いたような気がしたのである。
[#3字下げ]2 バフチェエフ氏[#「2 バフチェエフ氏」は中見出し]
 わたしはもう旅行の目的地に近づきつつあった。スチェパンチコヴォ村までもう十露里しかないBという小さな町を通り抜ける時、馬車の前輪が破損したために、町の入口に近い鍛冶屋へ寄らねばならなかった。あと十露里の旅行のためだから、いい加減に車輪を付けておくのは、そう手間ひまかからない。で、鍛冶屋が仕事を終えるまで、どこへも行かないで待っていることにして、馬車から出た時、わたしは一人の太った紳士に気がついた。それはやはりわたしと同じように、馬車の修繕にひき止められているのであった。彼はもうまる一時間、堪え難い酷暑の中に立たされたので、どなったりわめいたりしながら、美しい幌馬車のまわりで忙しそうに仕事をしている職人たちを、腹立たしげな性急な調子で、せき立てているのであった。わたしは一目見るなり、この太った紳士が一通りならぬ喧《やかま》し屋に相違ないと思った。年のころ四十ばかりらしい中背の男で、恐ろしく肥満して、しかもあばた面たった。肥えた体、のど団子、ぶくぶくと垂れ下った頬などは、気楽な地主生活を証明していた。彼の様子にはどことなく女らしいところがあって、それがすぐ人の目に映るのであった。みなりはゆったりして具合よさそうでもあり、さっぱりもしていたが、けっして流行ふうとはいわれなかった。
 いったいどういうわけでこの人がわたしに腹を立てたのか、とんと合点がいかない。ことに、わたしとは初めて会ったばかりで、まだひと口もものをいったことがないのだ。わたしは馬車から降りると、その並々ならぬ腹だたしげな目つきで、すぐにそれと悟ったけれども、なぜかこの人と近づきになりたくてたまらなかった。彼の従僕たちのおしゃべりによって、彼が今スチェパンチコヴォ村の叔父の家から帰って来たところだと察したので、いろいろ様子をきくのにはもっけの機会だったからである。わたしは帽子をちょっと挙げて、できるだけ愛想のいい顔つきをしながら、時々こうして道中に故障が起こるので、実に不愉快千万だと話しかけた。けれども、この肥えた紳士は不満そうな、気むずかしげな目つきで、なんだか大儀そうにわたしを頭から足の先まで見おろすと、何やら口の中でぶつぶついいながら、重々しそうに体ぜんたいをわたしのほうへ捩じ向けた。正面から見た彼の姿は、きわめて面白い観察の対象ではあったが、もちろん愉快な会話を期待するわけにはいかなかった。
「グリーシュカ、口の中でぶつぶついうんじゃない、ひっぱたくぞ!」わたしが道中の故障の話をしたことなぞは、まるで耳へも入らないように、彼はとつぜん自分の従僕頭に向かってこうわめいた。
 この「グリーシュカ」は胡麻塩頭をした老僕で、裾の長いフロックコートを着こみ、素晴らしく大きな頬ひげを生やしていた。いろいろの徴候から察するところ、彼もやはり向かっ腹をたてながら、気むずかしそうに口の中でぶつぶついっていたらしい。主人と従僕の間にも、さっそく談判が始まった。
「ひっぱたく! もっとわめくがいい!」とグリーシュカは独り言のようにいったが、その声はみんなに聞こえるほど大きかった。そして、くるりと向こうを向いて、何やら馬車にとりつけ始めた。
「なに? 貴様なんといった?『もっとわめくがいい』? 貴様は主人に対して雑言する気だな!」と太った紳士は紫色になってどなった。
「まあ、あなたはいったいなんだって、そう人に食ってかかりなさるんだろう? うっかりものもいわれやしない!」
「なんだって食ってかかる? まあ、みんな聞いたか? あいつはわしに向かってぶつぶついっておきながら、わしには食ってかかっちゃいかんというのだ!」
「なんのためにわたしがぶつぶついうのでござります?」
「なんのために……いったいなにもぶつぶついうわけがないと思っとるのか? なんのために貴様がぶつぶついうのか、わしはちゃんと知っている。ほかじゃない、わしが食事を断わって帰ったからだ、――そうなんだ!」
「わたしはそんなことなぞなんでもありませんよ! わたしなんか、食事なぞまるっきりしないでもよろしゅうござります。わたしがぶつぶついってるのは、あなたのことじゃありません。ただ鍛冶屋にちょっといっただけでござります」
「鍛冶屋に、なんだって鍛冶屋にぶつぶついうのだ?」
「鍛冶屋でいけなければ、馬車にいったのでござります」
「なんだって馬車にぶつぶついうのだ?」
「なんだって毀れたのだ! これからは毀れちゃいかんぞ、無瑕でいろよ、とこう申しましたので」
「馬車に……いや、貴様はおれにぶつぶついうのだ、馬車じゃない。自分が悪いくせに人のことを雑言しとるんだ!」
「まあ、いったいなんだって、旦那様、あなたはそうわたしにうるさく付きまといなさるんですね? お願いだから、もういい加減にやめてくださいまし」
「じゃ、貴様はどういうわけで、途中すこしもものをいわないで、梟《ふくろう》のように坐っておった、うん? いつもよく話をするくせに!」
「蠅が口の中へ入ったので、それでものをいわずに梟のように坐っておりましたよ。いったいわたしはあなたに昔噺でもしなけりゃならんのでござりますか? そんなに昔噺がお好きなら、お話役のマラーニヤでもおつれなさりませ」
 太った紳士は、言葉を返そうとして口を開いたが、うまい言葉が思いつかなかったらしく、それきり黙ってしまった。老僕は、人のいる所で自分の弁証術と主人に対する勢力を示し得たのにさも満足した様子で、一倍ものものしい態度を示しながら、職人たちに向かって、何やら指図を始めた。
 近づきになろうとするわたしの試みは徒労に終わった。わたしの世慣れないのがことに悪かったのだ。しかし、思いがけない出来事が助け舟を出してくれた。いつ頃からとも知れぬ昔から、鍛冶屋のそばに立って、毎日毎日ぼんやり修繕を待っている車輪のない一台の箱馬車の窓から、顔も洗わなければ頭も梳かさない寝呆けた男のつらがひょっこり覗いた。この顔の出現と同時に、職人たちの中にどっと笑い声が起こった。それはこういうわけである。馬車の窓から顔を出した男は、車台の中へぴったり閉めこまれて、外へ出られなくて困っているのであった。今ふつかよい気分で目をさました男は、空しく自由を求めていた。とうとう彼はだれかに向かって、自分の大工道具を取りに行ってくれと頼み始めた。これらのことが何から何まで、一方ならず一同を浮き立たせたのである。
 世間には、よろこんだりはしゃいだりするのに、かなり奇妙な癖を持った人間がいる。酔っぱらった百姓のしかめっ面だの、往来でつまずいて倒れた人間だの、二人の女房のいがみ合いだの、その他これに類した事柄が、どういうわけかわからないが、ある種の人々の心に、時としてなんともいえない人のいい歓喜を喚び起こすのである。この太った地主も、こうした種類の人間に属していた。恐ろしい気むずかしげな彼の顔は、しだいに満足そうな優しい表情に変わっていき、ついにはすっかり晴ればれとなってしまった。
「ああ、あれはヴァシーリエフじゃないか?」と彼は釣りこまれたような調子でたずねた。「どうしてあんな所へ入ったんだ?」
「ヴァシーリエフでござります、旦那様、スチェパン・アレクセーイチ、ヴァシーリエフでござります!」という声が四方から響いた。
「遊んだのでござります、旦那様」職人の中でもだいぶ年輩らしい、背の高い、痩せた男がこういった。その顔は衒学的なしかつめらしい表情を帯びて、仲間の頭分でも気取っているようなあんばいだった。「遊んだのでござります、旦那様。おとつい主人のところを出たきり、わっしどものところに隠れて、厄介をかけやがるので! いま鑿を持って来てくれと頼むんでござります。おい、お前いま鑿なんぞどうするつもりだ、間抜け野郎! たった一つ残った道具を曲げこむつもりなのか!」
「おい、アルヒープシカ! 金ってやつは鳩と同じでな、飛んで来るかと思うと、すぐ飛んで行っちまうよ! よう後生だから出してくんな」ヴァシーリエフは車台の中から首を突き出しながら、ひびの入ったような細い声で頼んだ。
「まあ、お前はそこにそうしてるがいいや、うまい所へ入ったじゃないか!」とアルヒープは峻厳な調子で答えた。「もう一昨日からへべれけに酔い食らいやがって。今朝あけ方、往来から引っ張りこんでやったんだ。ありがたく思うがええ、隠してやったんだぞ。マトヴェイ・イリッチにゃ病気だといっといた。『このごろ村にちくちく痛む病気が出て来まして』とこういっといたよ」
 再び笑い声がどっと起こった。
「だが、鑿はいったいどこにあるんだ?」
「ズーイんとこにあるよ! しつこいなあ、一つことばかりいってやがる! 旦那様、ごらんのとおりの酒飲みでござります、スチェパン・アレクセーイチ」
「ヘヘヘ! 本当にしようのないやつだなあ! じゃあ、貴様は町へ出てそんなことを仕事にしとるのか、商売道具まで曲げこんどるのか!」と太った地主はむせかえるように笑いながら、しゃがれた声でいった。彼は突然この上もない上機嫌になって、さも満足そうなふうつきだった。
「腕前からいったら、モスクワでも見あたらないような指物師だが、いつでもあんな真似をして、評判を悪くしてるんだよ。しようのないやつだ」思いがけなくわたしのほうへ向いて、彼はこうつけ足した。「アルヒープ、出してやれよ。あいつも何か、その、用があるかもしれんからな」
 人々は旦那の命に従った。ヴァシーリエフが目をさました時に、からかって楽しんでやろうと、みんなで馬車に打ちつけた釘は、すぐさま引き抜かれた。で、ヴァシーリエフは泥だらけの、ぼろぼろになった、だらしのない恰好で、「神の世界」へ現われた。彼は太陽の光に目を瞬きながら、はくしょんと一つくしゃみをして、よろよろとよろめいた。それから、手を目の上にかざしてあたりを見廻した。
「よう、なんちゅう大勢の人だ!」と彼は顔を振りながらいった。「そして、みんなどうやらしらーふらしいなあ」なんとなく沈んだ、もの思わしげな声で言葉尻をひいたが、それは自分で自分を責めるような調子だった。「いや、お早う、夜が明けましておめでとう」
 またもや笑い声が起こった。
「夜が明けて? まあ、お前よく見るがいい、夜が明けてもうどのくらいになるんだ、見境いのねえ男だあ!」
「馬鹿こけ、今日はてめえの法楽《ほうらく》だ!」
「おらもそう思うだよ。ちょっとの間でもいい、勝手な真似をしたほうがとくだあ!」
「へへへ! どうだ、なかなか雄弁家じゃないか!」もう一ど体を揺すって笑いながら、またしてもちらと愛想よくわたしの顔を見て、太った紳士は叫んだ。「本当に貴様、恥ずかしくないのか、おい、ヴァシーリエフ!」
「気がくさくさするからでござりますよ、スチェパン・アレクセーイチ、気がくさくさするからで」ヴァシーリエフは手を振りながら、生まじめな顔で答えた。もう一ど自分の気のふさぎを口にする機会が来たので、いかにも満足そうな様子だった。
「なんだって気がくさくさするんだ、馬鹿!」
「今まで聞いたこともねえような話でござります。わっしたちはフォマー・フォミッチのお抱えになりますので」
「だれが? いつ?」急にせかせかと体を動かしながら、太った地主はこう叫んだ。
 わたしはやはり一歩ふみ出した。事件は意外にも、わたし自身に触れて来たのである。
「カピトーノフカ村の者みんなでござります。わたしたちの旦那の大佐様は(どうかご息災でいられますように!)お家代々のカピトーノフカ村を、フォマーに譲ってやろうとしておられるのでござります。七十人の百姓をあの男に頒けてやろうとおっしゃりますので。『さあ、フォマー、これをやろう! 今お前は本当の裸一貫、地主とはいい条、哀れなもんで、年貢といったら、ラドガの湖水を泳いでる白魚二匹ぐれえのものだ。親譲りの財産は、役場の帳面にだけ載ってる百姓きりだ。なぜって、お前の親父さんは……』」フォマーのことになると、しきりに皮肉をまき散らしながら、ヴァシーリエフは、一種の意地悪いよろこびを感じる様子で、自分の物語をつづけるのであった。
「『……なぜって、お前の親父さんはれっきとした華族様で、どこから来たとも何者とも知れぬ人で、やはりお前と同じように旦那衆の所を食い歩いて、お台所でお情けをいただいて口すぎをしておったからだ。ところが、今度お前にカピトーノフカをくれてやるから、お前もこれからはれっきとした華族様の地主になって、かかえの百姓というものを持つことになるのだ。そして、華族様らしく呑気に煖炉の上でねてるがいい……』」
 しかし、スチェパン・アレクセーイチはもう聞いていなかった。ヴァシーリエフの半分酔っぱらったようなこの物語は、彼に並々ならぬ印象を与えた。太った紳士は、顔が紫色になるほど激して来た。のどの下に垂れた肉団子がぶるぶる顫えて、小さな目はさっと血ばしった。わたしは、今にも発作を起こしはしないか、とさえ思った。
「あの上に、まだそんなことまで!」と彼は息を切らしながらいった。「あのフォマーの悪党が、あの居候が地主になる! ちょっ! だれもかれもみんなくたばってしまえ! ええ、どうとも勝手に早く片づけるがいい! さあ、帰るんだ!」
「失礼ですが、ちょっと伺います」とわたしは思いきり悪く前へ進み出た。「今あなたは、フォマー・フォミッチのことをお話しになりましたが、その人の苗字は、もしかしたら、オピースキンというのじゃありませんか。実は、ぼくは……つまり、ぼくはその人物に興味をいだくわけがありますので、自分としても、その善良な男の話が……つまり、その男の主人のエゴール・イリッチ・ロスターネフ大佐が、持ち村の一つをフォマーに譲ろうとしているという話が、はたしてどの程度まで信を置くに足るか、それを明らかにしたいと思うのです。ぼくはこの点が非常に気になるので、それで……」
「ところが、わしのほうからも聞かしてもらおう」と、太った地主がさえぎった。「どういうわけであんたは『その人物』に興味を持たれるんだね、あんたは『その人物』なぞといわれるが、わしにいわせれば、あんなやつはごろつきの悪党だ、そういうふうに呼んでやるのが本当だよ。人物なんていうことがあるものか! あんな穢らわしい畜生が、どんな人物なんだ! ただの恥っさらしだ、人物なんかじゃありゃしない!」
 わたしはそれに答えて、人物の点については、今のところ自分はまだ何も知らないけれど、エゴール・イリッチは自分の叔父にあたるので、自分はセルゲイ・アレクサンドロヴィチなにがしという者だ、と説明した。
「それじゃ、あの学者さんかな? これはこれは、あそこではあんたを待ちかねてるんだよ!」偽りならぬよろこびを表わしながら、太った地主は叫んだ。「わしは今ちょうど、スチェパンチコヴォ村から帰ってきたところなのだ。まだ食事のすまんうちに、プディングが出たところで飛び出したのだ。フォマーといっしょに坐っておれなかったのさ! あのいまいましいフォマーのお蔭でみんなと喧嘩をしてしまったよ……いや、まったく珍しい人に会ったものだ! あんたまあ、勘弁しなさい。わしはスチェパン・アレクセーイチ・バフチェエフという者で、あんたがまだこれっくらいの時分から知っとるよ……まったく思いがけない……ちょっとあんたを一つ……」
 といいながら、彼はわたしを接吻した。
 わたしは、初めしばらく興奮を感じたが、やがていろいろ根掘り葉掘りし始めた。実際それは絶好の機会だった。
「しかし、どうしてそのフォマーが……」とわたしはたずねた。「どうしてあの男が、家内じゅうを征服してしまったのでしょう? どうしてそんな人間を邸から叩き出さないのでしょう? 実は……」
「あいつを叩き出すって? いったいあんたは血迷ったんじゃないかな? 現在エゴール・イリッチなどは、あの男の前をこそこそと足音を盗んで歩いとるじゃないか! それに、いったんフォマーが水曜を木曜の代わりにするといい出したら、あすこの家ではみんな一人残らず、木曜を水曜と思うようになるんだからなあ。『おれは木曜はいやだ、水曜でなくちゃあならん!』というと、もうそれで一週間に水曜日が二日出来るわけなんだ。あんた、わしが何か出たらめでもいうと思われるかね? ところが、ほんのこれっから先も嘘をついとらんのだよ! もうなんのことはない、あいた口もふさがらんような話なのさ!」
「ぼくもその話を聞きましたが、実は……」
「実は実は、ばっかりいってるじゃないか! 一つことばかり阿呆みたいに! 何が、実はなんだい! まあ、それよりわしのいうことをよく聞きなさい。いったいわしがどんな恐ろしい所から出て来たか、あんたごぞんじかね? ロスターネフ大佐のお母さんはもちろん、立派な貴婦人に相違ないし、また将軍夫人にも違いないけれども、わしにいわせりゃ、もうすっかり耄碌《もうろく》してしまっとるのだ。いまいましいフォームカのやつに、まるで目がないんだからなあ。まったく何もかもあの女が悪いのだ、あの女があいつを家へひっぱりこんだのだ。すっかりあいつの口車に乗せられて、もう今じゃあまるで、借りて来た猫のようになりきっとるよ、将軍夫人というのは名ばかりさ――なにしろ五十面さげて、クラホートキン将軍のところへ嫁入りしたんだからなあ! エゴール・イリッチの妹、四十になるまで嫁入りもせずにいるプラスコーヴィヤ・イリーニチナのことは、今さら何もいうがものはありゃせん。いまも溜息ばかりついて、忙しそうにてんてこ舞をしておる、――わしはもう、倦き倦きしてしまった。しかし、あんな女のことはどうでもよい! が、あの女の中にも女性というやつがある。いっこうなに一つ取柄のない人だけれど、ただ女性だというだけのことで尊敬しなけりゃなるまいて! ふっ! こんな話をするのもいかがわしいことだ。あの女はあんたの叔母さんにあたるんだね。ただ一人アレクサンドラ・エゴーロヴナ、――大佐のお嬢さんは、まだやっと十六の子供だが、わしにいわせれば、これが一ばん賢いよ。ちっともフォマーを尊敬しないのだ。そりゃ見とっても愉快だよ。実にかわいいお嬢さんだ、まったく! それに、あんなやつをだれが尊敬するものか! だって、あの男は亡くなったクラホートキン将軍のところで、道化役をつとめておったのじゃないか! 将軍様のご機嫌をとるために、いろんな獣の真似をしておったじゃないか! ところが、『以前ヴァーニャは肥たご担《にな》っておりました、今じゃヴァーニャは将軍様』というようなことさ。そして、大佐は、あんたの叔父さんは、道化の古手を産みの親のようにうやまって、あの畜生の絵像を額に仕立て、現在わが家の居候の足もとに膝をついてるのだからな、――ちょっ、なんという話だ!」
「しかし、貧は罪にあらずといいますからね、それに……実のところ……ひとつおたずねしますが、フォマーはいったい美しい男ですか、悧巧な男ですか?」
フォマーか、まるで画に描いたような好男子さ!」と恐ろしい憤懣に声を顫わせながら、バフチェエフは答えた(わたしの質問は彼を苛立たせたらしく、彼はもうわたしまで一種猜疑の目をもって眺め始めた)。「画に描いたような好男子さ! まあ、みんな聞いてくれ、とんだ好男子を見つけ出したもんだ! いや、本当のことが知りたけりゃ教えたげるが、あいつはありとあらゆる獣に似とるんだ。せめて頓智でもあればまだしもだが、――あの畜生に少しでも頓智めいたものがあったら、それならわしも目を瞑って我慢するんだが、その頓智がまた少しもないのだ! あいつきっと、何か馬鹿になるような薬をみんなに飲ましたに相違ない。とんでもない薬剤師だ! ふっ! 口がだるくなって来た。まったくもう唾でもぺっと吐いて、だんまりをきめてるよりほか仕方がないよ。ああ、あんたと話をしたお蔭で気分が悪くなって来た! おーい! できたかどうだ?」
「まだ心棒を直さにゃなりませんよ」とグリゴーリイ([#割り注]グリーシュカ[#割り注終わり])が沈んだ声で答えた。
「心棒? 一つ貴様にいい心棒をお見舞い申すぞ!………なあ、一つあんたにいい話を聞かせてあげよう。そうしたら、あんたはただもう口をぽかんと開けたきり、キリストのご再誕までその開いた口がふさがるまいて。わしも以前やはりあいつを敬っておったんだ。あんた、どう思いなさる? いや、じっさい後悔しとる、立派に皆の前で懺侮しますよ。わしも馬鹿だったのさ! あいつにごまかされおったのさ。なんでも知っとるえらい人だ、ものごとの底の底を見極めた人だ、学問という学問をしつくした人だ! とこう思ってな。一度、あいつに薬をもろうたことがある。わしはな、これで病身な人間なんだよ、水肥りに太っておるのさ。あんたは本当にしなさらんかもしれんが、わしは病身な人間なんだ。ところが、あいつの薬のお蔭で、もう宙がえりを打たんばかりの目にあったよ。あんたは黙って聴いていなさるがいい。今に自分で行って見たらわかるから。今にあの男は大佐に血の涙を流さすだろうよ。実際、大佐はあの男のために血の涙を流させられることだろうが、しかしもうその時は遅いんだ。なぜって、近所の人がみんな、あのいまいましいフォームカのお蔭で、あの家と絶交してしまったんだからなあ。まったく、来る人も来る人も、あいつのために腹をたてるんだ。わしのことなんかいうがものはない。位の高い身分のある人だって容赦はないんだからなあ! 人の顔さえ見れば、お説教をするんだ。あの畜生、きっと何か道徳病にとっつかれたんだよ。わしは賢者だ、だれよりも賢い、だからわしのいうことさえ聞いておればいいのだぞ、とこういった調子よ。そして、わしは学者だ、が口癖なんだ。学者がいったいどうしたというんだ! 自分が学者だったら、そのためにぜひ学問のない者を取って食わなきゃならん、とでもいうのかい?……あいつがその学者ぶった言葉でしゃべり出したら、ぺらぺら、ぺらぺらと際限なしよ。まったくのところ、舌の達者なことといったら、切ってとって堆肥《つみごえ》の上へほうり出しておいても、鴉が来て食ってしまうまでは、そこでいつまでもしゃべってるに相違ない。すっかり自惚れちまって、のべつ腹を立てている、まるで二十日鼠が碾割麦でも前に据えたようだ! あいつはいま柄にもない大望をおこしてるんだよ。まあ、そんなことはどうでもいいが、やつは下女や下男にフランス語を教えようと、考えついたのさ! 本当になさらなけりゃ、本当にしなさらんでもええ! それはためになることだとさ! 下司によ! 百姓によ! ふっ! いい恥っさらしだ――それっきりだ! いったい水のみ百姓がフランス語を知って、何になるんだ、一つお伺いしたいもんですよ! ロシヤの百姓がフランス語を習ってどうするんだ、何になるんだ? お嬢さんたちとマズルカを踊りながら、甘ったるい話をしたり、よその奥さんといちゃついたりするのにいるのかい? 堕落だよ、それだけのことだ! わしにいわせりゃ、なに、ウォートカを一びん飲みさえすれば、それでどんな国の言葉でもぺらぺら話せるようになるのさ。わしはあんたらの騒ぐフランス語を、これくらいにしきゃ思うておらんのだ! たぶんあんたもフランス語でぺらぺらぺらぺらと、まるで牝猫が牡猫のところへ嫁入りしたようにやるんだろう!」とバフチェエフは、妙に軽蔑したような憤懣の色を浮かべてわたしを見つめながら、こうつけ足した。「あんたもやはり学者だろう、――え? 学問のほうをやって来たんだね?」
「ええ……ぼくも幾分そのほうに興味を持ってるのです……」
「やはり学問という学問を、みんなやって来たんだね?」
「そう、いや、そういうわけでもない……実はぼく、今のところむしろ、観察のほうによけい興味を持ってるんです。ぼくは今までずっと、ペテルブルグにばかりかじりついてたものですから。いま叔父さんのところへ急いでるわけなんです……」
「いったいだれがあんたを叔父さんのところへなぞ呼び寄せたんだ? 居どころさえあったら、どこか自分のところでじっとしてたほうがよかったのになあ。いや、わしは前もってあんたにいうとくが、あすこではいくら学問があったって、駄目だよ。叔父さんがいくら※[#「足へん+宛」、第 3水準 1-92-36]《もが》いても、あんたの助けにゃならんて。なんのことはない、罠へかかりに行くようなもんだ! まったくわしもあの家で一晩のうちに痩せてしまったよ。あんたは本当にしないかもしれんが、わしはあの家へ行って痩せてしまったよ! いや、どうも見たところ、あんたは本当にしなさらんようだ。どうも仕方がない、それも無理はないて。本当にせんなら、勝手にしなさい」
「いや、とんでもない。ぼくは本当にしてるんですとも。ただどうも、合点のいかないところがあるので」だんだん余計にまごつきながら、わたしはこう答えた。
「本当にしてるって? ところが、わしはあんたのいうことを本当にせんよ! あんたのような、いわゆる学問のある人は、みんなおっちょこちょいだ。あんたなどはみんな片足でぴょんぴょん踊って、それを人に見せびらかしたいのだ! わしは学問というやつが大嫌いだ。学問というやつが胸につかえて仕方がないのだ! わしもよくあんたのような、ペテルブルグの教育のある人たちに行きあたってみたが、あんな連中はまっぴらごめんだ! だれもかれもみんな過激思想を持った人間で、不信心を世界に広めているのだ。そのくせ、ウォートカといったら、まるで咬みつきでもするかなんぞのように恐れて、一口も飲まないんだからなあ、――ふう! あんたはすっかりわしに腹をたてさせなすった。もう何一つあんたに話をする気にならんよ! 実際わしは何も、あんたにお伽噺をする約束で、雇われて来たわけじゃないからなあ。それに口がだるくなって来た。みんな一人残さず罵倒するなんてできんことだし、第一、罪だよ……ただ一ついっとくが、あいつは大佐の家の下男でヴィドプリャーソフという男を大方きちがいにしてしまったよ、あの学者先生がね! ヴィドプリャーソフはフォマーのお蔭で気が狂ってしまったんだよ……」
「わたしはあのヴィドプリャーソフのやつを……」今まできちんと畏まって、謹厳な顔つきで会話に注意していたグリゴーリイが、口をいれた。「わたしはあのヴィドプリャーソフのやつを、いつか笞の下へ坐らせたきり放してやらなきゃいいと思いますよ。あいつ、おれにでも食ってかかってみるがいい、あのドイツじこみの馬鹿な考えを叩き出してくれるんだがなあ! 本当に、数える暇のないくらいぶちのめしてやりたいなあ!」
「黙れ!」と主人はどなった。「舌を控えろ、貴様と話をしとるんじゃない!」
「ヴィドプリャーソフ……」すっかりまごついてしまって、何をいっていいかわからずに、わたしはこういった。「ヴィドプリャーソフ……へえ、なんという妙な苗字でしょう?」
「どこが妙なんだね? あんたもやはり同じようなことをいいなさるね! ああ、学者、学者!」
 わたしは我慢しきれなくなった。
「どうも失礼しました」とわたしはいった。「しかし、あなたはなんだってそうぼくに腹をたてるんです? いったいぼくがどう悪いんですか。実は、ぼくはもう三十分からあなたの話を聴いていますが、いったいなんの話やら、それさえわからないんですよ……」
「まあ、あんた、何を怒ってなさる?」と太っちょは答えた。「あんたは何も怒ることはないじゃないか! わしはあんたが好きだからこそ、話をしとるんじゃないか。わしがこういうやかまし屋で、つい今しがたも自分の付添いをどなりつけたからって、そんなことを気にしなさんなよ。このグリゴーリイは生まれつきの悪党だが、かえってそれがためにわしはあいつが、あの畜生がかわいいのだ。つまり、わしの感じやすい性分がたたってるのだ、――それは正直にいってしまうよ。とにかく、何もかもあのフォームカ一人がわるいのさ! あいつはわしを破滅さしてしまう、本当に誓っていっとくが、きっと破滅させるに相違ない! 現に今も、あいつのお蔭で二時間ばかりも、かんかん日で焙られてるんだからな。実は、この馬鹿どもが馬車の修繕でまごまごしてる間に、お坊さんの所へでも寄ろうかと思ったのさ。ここのお坊さんはたいそういい人なんでな。ところが、あのフォームカのお蔭で、すっかり気がくさくさするもんだから、お坊さんの顔を見る気にもならなんだ。まあ、あんなやつなんか、みんなどうともなるがいい! ここにゃろくな居酒屋一つないんだからなあ。みんな、そうだ、みんな一人のこらず悪党だ! 本当にあいつ、何か官位でも大したものがあれば、まだしもなんだが」とまたしてもフォマー・フォミッチのほうへ話頭を転じながら、バフチェエフは言葉をつづけた。どうしてもこの男のことが忘れられないらしかった。「まあ、その時は、その官位に対しても承知できるが、実際やくざな官等一つ持っていないのだからなあ。それはもうわしがよく知っとる、持っちゃおらんのだ。なんでも四十何年(千八百四十何年)とかに、どこかで真理のために苦しんだのだから、おれの足もとへ頭をつけて拝め、とこういうのだ! なんのことやらわけがわかりゃしない! ちょっとでも自分の気にくわんことがあると、すぐ跳びあがってわめきだすのだ。『わたしを侮辱する、わたしが貧乏なものだから、皆が侮辱する。尊敬をいだいてくれない!』とかいってな。フォマーが来ないうちは、食卓にも坐れないんだ。ところが、先生なかなか出て来ない。『わたしは侮辱された。わたしは貧しい放浪者だから、黒パンでもかじっていればいいのだ』といったわけさ。ところが、みんなが腰をおろすやいなや、先生すぐにやって来て、ヴァイオリンをこするような声できいきいやり出すのだ。『どういうわけでわたしを待たずに坐ったのです。してみると、わたしなんぞは木の端くれほどにも思っておられんのですね』まあ、手っとり早くいうと、もうなんでも我が儘のいい放題なのさ。わしはな、長いあいだ黙っておった。あいつめ、わしが来るまで小犬《ちんころ》みたいに、あいつの前でちんちんでもするように思って、ほうら、いいか、お食べといって、骨でも投げてくれる気だったのさ。ところが、そうはいかん、こちらの方が少し上手《うわて》なんだ! エゴール・イリッチとわしは同じ連隊に勤めとったんだからな。わしは見習士官の時に退役したが、エゴール・イリッチは去年大佐で予備になって、領地へ帰って来たんだ。わしはいつもあの人にそういうのだ。『え、そんなことをしてたら自分を台なしにしてしまうよ。フォマーを甘やかしちゃ駄目だよ! 今にひどい目にあうんだから!』するとあの人は、『いや、あれは実に立派な男だ(フォームカのことをそういうんだよ)。あれはわたしの親友だ。あれはわたしに倫理を教えてくれるのだ』とこうなんだ、いやもう倫理に逆らうわけにゃいかんよ! 倫理の講釈というところまで行ったのなら、つまりもうおしまいなんだ、とわしも考えたのさ。ところで、今日はまた、どんなことで騒動が起こったと思いなさる? 明日は予言者イリヤー([#割り注]旧約『列王紀略』にある予言者エリヤのロシヤ名[#割り注終わり])の命名日で(バフチェエフ氏は十字を切った)、大佐の一人息子のイリューシャ([#割り注]イリヤーの愛称[#割り注終わり])のお祝いなんだ。そこでわしは、あすこで一日遊んで食事でもいっしょにしようと思ってな、ペテルブルグから玩具まで取り寄せたんだ。ぜんまい仕掛けのドイツ人が花嫁さんの手を接吻してると、こちらはハンカチで涙を拭いてるところでな、――実によくできとるのだ! (が、もうやりゃしない、モルゲン・フリー([#割り注]ドイツ語の訛り、明日早朝の意味、「あかんべ」というほどのこと。[#割り注終わり])だ! そら、あの馬車の中に転がってるだろう。おまけに、ドイツ人の鼻も落ちてしまったよ。また家へ持って帰っとるのさ。)エゴール・イリッチも、そんな日にお祝いなどして騒ぐのは、けっしてきらいじゃないのだが、フォームカのやつが反対するのだ。『なんだって、そうイリューシャのことばかり心配するのです? してみると、わたしのことなぞは、いまだれも気にする者がないのだ!』まったくなんというやくざ野郎だろう! 八つの子供の命名日に焼き餅をやくんだからなあ! そこで、『いや、そうじゃない、明日はわたしの命名日だ!』といい出したもんだ。ところが、実際あすはイリヤーの日で、フォマーの祝い日じゃないじゃないかというと、『いや、わたしもやはりこの日を祝ってもらうのだ!』と頑張っとる。わしはじっと虫を殺して見ておった。ところで、どうだと思いなさる? みんな爪先だちで歩きながら、どうしたものかとひそひそ話をしとるじゃないか。いったいあれをイリヤーの日に祝ったものか、どうだろう? 祝わなかったら怒るだろうし、祝えばきっとからかったのだ、というに相違ない。どうもやりきれやせん! そこで、わしらは食事についたものだ……ところで、あんたはいったい聞いているのか、聞いていないのか?」
「とんでもない、聞いていますとも、よろこんで聞いてますよ。だって、今あなたのお蔭で、いろいろ知ることができたんですから……それに実は……」
「そ、そ、そうだろうよ、よろこんでな! あんたの『よろこび』なんか、ちゃんと承知してるよ……いったいあんたがよろこんでなぞといったのは、ありゃ皮肉じゃないのかね?」
「とんでもない、皮肉なんて、そんなことが! それどころじゃありませんよ。それに、あなたの話しっぷりが……なかなか奇抜なものですから、あなたの言葉を書き留めようかと思ってるくらいなんです」
「といって、つまり、どう書き留めなさるんだね?」とバフチェエフ氏はうさん臭そうにわたしを見つめながら、おびえたような調子でたずねた。
「いや、じっさい書き留めはしないかもしれません……ただちょっといっただけたんですよ」
「あんたはきっと、わしを罠にかけようと思ったのだろう?」
「といって、どう罠にかけるんです?」とわたしはあっけにとられてたずねた。
「ただそうなんだよ。今にあんたはわしをまるめこんで、まるで馬鹿のように何もかもしゃべらせといて、後でそれをたねに、何か小説にでも書きなさるんだろう」
 わたしはあわてて、自分はけっしてそんな人間でないと釈明したが、バフチェエフ氏はやはり、うさん臭そうにわたしを眺めていた。
「な、なるほど、そんな人間ではなかろう! そんなことはわかるものじゃない! ことによったら、もっと上手かもしれんて、現在フォマーも、わしのことを書いて、雑誌へ送るといって脅かしたからなあ」
「ちょっとおたずねしますが」わたしは話題を変えようという下心もあって、こうさえぎった。「あの、叔父が結婚するつもりだってのは、本当でしょうか?」
「結婚するつもりなら、どうだというのだ? それはまだ大したことじゃない。惚れたら結婚するがいい。悪いのはそれじゃない、もっと別なことなんだ……」とバフチェエフ氏はもの案じげにつけ足した。「ふむ! しかしなあ、このことはわしもはっきり返事ができないんだ。今あそこには、まるで蠅がジャムに集まったように、いろんな女たちがうようよしてるので、いったいどれが嫁に行きたがっとるのやら、わけがわからんよ! わしはな、心安だてにいうのだが、女というやつが好かんよ! 人間というのはただ名ばかりで、正味を洗えばただほんの恥っさらしで、おまけに魂の救いの邪魔になるばかりだ。ところで、叔父さんがシベリヤ猫のようにまいっとるのは、それはわしが保証するよ。しかし、このことはいま黙っとる、あんた自分で行ってみなさるがいい。ただああぐずぐずやっちゃいかん。結婚するなら、してしまえばいいじゃないか。ところが、フォームカにもいいにくい、お袋にも話しにくい、で黙っとるのだ。実際、お婆さんにそんなことをいったら、村じゅうがびりびりいうほどわめき散らして、暴れ廻るに相違ないからなあ。フォームカの肩ばかり持つんだ。お婆さんのいうにゃ、奥さんが家の中へ入って来ると、フォマー・フォミッチが悲観する。なぜって、奥さんができたら、フォマーは二時間と家の中にいたたまれやせん。奥さんが自分で手を下して、フォマーの頸筋をつかんで追い出してしまうか、それとももし馬鹿でなかったら、なんとか別な手で、郡内一円あれの居場所がないような狂言を書くに相違ない、とこういうわけなんだ! そこで、今やつはお袋といっしょになってだだをこねながら、怪しい女を押しつけようとしてるのさ……だが、どうしてあんたはわしの話に横槍を入れなさる? わしはいま一ばん大切なところを話して上げようと思ってたのに、あんたは横槍を入れなさった! わしはあんたより年上なんだからな、年長者に横槍を入れるのは不都合だよ……」
 わたしは詫びをいった。
「いや、何も詫びなどいうことはありゃせんよ! わしはあんたを学者だと思うから、今日あいつがどれだけわしを侮辱したか、それを一つ話して、あんたに裁判してもらいたかったんだ。まあ、本当にあんたがよい人間なら、一つ判断してもらいましょう。さて、わしらはテーブルに向かって坐ったと思いなさい。ところが、あいつは食事の間じゅう、まるでわしをとって食いそうにしとるのだ。いや、本当のことだよ。わしは初めっからじっと見ておったが、あいつはむっとして坐ったまま、まるで腹の中できしきし軋むくらい業を煮やしとるんだ。できるものなら、匙の中にわしを沈めたいほどに思ってるんだからな、毒蛇め! まったく自尊心がとほうもなく大きくなって、体一つに盛りきれないくらいなんだ! ところで、やつめわしにも突っかかって来て、やはり倫理の講釈をする気になったのさ。どうだろう、なぜわしがこんなに太ってるか、というじゃないか、なあ、あんたどう思いなさる。いったいまあ、なんという質問だろう? え、少しは頓智らしいところでもありますかい? そこで、わしは慎重な態度で、こう答えてやった。『これはもう神様のお計らい、ですよ、フォマー・フォミッチ。太ったものもあれば、また痩せた者もある。はかない人間の身で、天帝様に逆らうわけにゃいきませんて』なあ、もっともな言い分だろう、――なんと思うね? ところが、あいつめ、こうぬかすのだ。『いいや、あんたは五百人の百姓をかかえながら、万事据え膳の暮らしをして、国家になんの奉公もしないからだ。どこにも勤めないで、しじゅう家で手風琴など弾いているからだ』実際、わしは気分が沈んで来ると、手風琴を弾くのが好きなんだ。わしはまた、落ちついた態度でこういった。『まあ、わしにどんな勤めができます、フォマー・フォミッチ? この太った体にどんな制服が着られます? 制服をこの体にどうにか引っぱりつけたところで、ちょっとくしゃみの仕方が悪いと、それこそボタンというボタンが、みんなちぎれてしまう。しかも、それを長官の前でやるまいものでもない。そうすると、当てつけのようにとられて、とんでもないことになるかもしれん、――その時はどうしなさる?』なあ、あんたどう思いなさる。別にこれはおかしないい方じゃないだろう? ところがあいつ、あははは、ひひひと、わしの面を見て笑いこけるじゃないか……まったくのところ、あいつには慎しみというものが少しもないんだ。おまけに、フランス語の訛りでわしに悪態をつこうという了見を起こしてな、『コション(豚)』といいおった。なに、コションが何かちゅうくらいのことは、わしでも知っとる。『このやくざ医者め!』とわしは腹の中で思った。『いいお人よしを見つけたと考えとるんだろう』わしは我慢をしたが、とうとう我慢しきれないで、ぷいとテーブルから立ちあがって、みんなの目の前で面と向かってぶっつけてやった。『わしはあんたに対して悪いことをしましたよ、わしの恩人のフォマー・フォミッチ。わしは今まであんたのことを、教育のある立派な人だと思うておったが、案外お前さんもわしと同じような豚だったんだね』こういい捨てて、テーブルを離れた。ちょうどプディングを配っておるところだった。『ふん、みんなそのプディングといっしょにどこへなと失せてしまうがいい!………』」
「失礼ですが」バフチェエフ氏の話をすっかり聞き終わってから、わたしはこういった。「ぼくはもちろん、すべての点において、あなたに同意するのを躊躇しませんが、ぼくはまだ何一つはっきり知らないのですから……しかし、実はねえ、このことについてある考えが浮かんだのですが」
「どんな考えが浮かんだのかね?」とバフチェエフ氏はうさん臭そうにたずねた。「実はですね」わたしは幾分まごつきながら、こういいだした。「こんなことは時宜を得ていないかもしれませんが、しかしいってしまいましょう。ぼくはこんなふうに思うんですよ。ことによったら、ぼくにしてもあなたにしても、フォマーを誤解してるんじゃないでしょうか? もしかしたら、そうした奇怪な言行の中には一種特殊な、天才的な本性が隠れてるのかもしれませんよ、――それはなんともいえませんからね。ことによったら、苦痛のために圧倒され、ひねくれさせられて、人類に復讐している人かもしれませんよ。ぼくの聞いたところによると、あの人は以前なにか道化みたいな役を勤めていたそうですが、或いはそれが彼を虐げ、辱しめ、打ちのめしたのかもしれません……あなただってわかるでしょう。立派な……自覚のある人間が……道化の役を勤めるんですからね! こういうわけで、あの人は全人類に対して猜疑の念をいだくようになったのです。だから、だから……もしあの人を人類……つまり、ほかの人たちと和睦させたら、或いは特殊な、立派な人物ができあがるかもしれませんよ。それに……それに……それに、この人間だって、何か持っていそうなはずじゃありませんか! 実際みんながそんなに崇拝するのには、それだけの理由があろうじゃありませんか?」
 手短かにいうと、わたしは調子に乗って、思いきり生意気なことをいったのだ。自分でもそれと感じられた。しかし、若い者のことだから、ゆるしてもいいわけだ。しかし、バフチェエフ氏はゆるさなかった。彼は真面目ないかつい顔をして、じっとわたしを見つめていたが、とつぜん七面鳥のように紫色になった。
「あんたはフォマーを、そんなにえらい人間だといいなさるのか?」と彼は引きちぎるような調子でいった。
「まあ、待ってください。ぼくはいまも自分のいったことを、自分でもまるで信じちゃいないのです、ぼくはただ想像としてちょっと……」
「ちょっとあんたおたずねするがね、あんたは哲学を習いなさったかね?」
「といって、つまりどういう意味ですか?」とわたしはけげんそうにたずねた。「いいや、意味じゃない。意味なんかすっかり抜きにして返答しなさい。あんたは哲学を習いなさったかね、どうだね?」
「実は、習うつもりでいますが、しかし……」
「案のじょう、そのとおりだ!」憤怒の情を一時に吐き出しながら、バフチェエフ氏はこう叫んだ。「わしはな、まだあんたが口を開けないさきから、あんたが哲学をやったちゅうことを悟ったよ! わしをごまかそうたって駄目だ! |あかんべ《モルゲンフリー》だ! わしはな、三露里もさきのほうから、哲学者の匂いを嗅ぎつけるのだ! あんたはフォマー・フォミッチと接吻でもするがいい! けっこうな特殊な人を見つけたものだ! ふっ! 何もかも世界中のものが、みんな腐ってしまうがいい! わしはな、あんたはまあ話せる人だと思ったのに、案外……さあ、馬車を出せ!」もう修繕のできた馬車の馭者台に上っている馭者に向かって、彼はこう叫んだ。「家へ帰るのだ!」
 わたしは無理やり、やっとのことで彼をなだめた。彼もしまいにはどうやら機嫌を直したが、それでも長い間その怒りを笑顔に変えようとしなかった。そのうちに、グリゴーリイとアルヒープ(例のヴァシーリエフにお説教をした職人である)に助けられて馬車に乗った。
「ちょっとおたずねしますが」と、わたしは馬車に近寄りながらいった。「あなたはもう、叔父さんのところへいらっしゃいませんか?」
「叔父さんのところへ? ふん、あんたにそんなことをいわしたやつに、唾でもひっかけてやるがいい! いったいあんたは、わしが意志の固い男で、しまいまで我慢が張り通せると思ってなさるかね? そこがわしのつらいとこたんだよ。わしはぼろ屑で、男じゃないのだ! 一週間もたたぬうちに、またあそこへ飛んで行くよ。なんのためだって? びっくりしちゃいけない。自分でもなんのためかわからんのだ。それでもやはり出かけて行く。そして、またフォマーと戦争するんだ。これはもう、あんた、わしの病気なんだよ! わしの罪を罰するために、神様があのフォマーを送ってくだすったんだ。わしは女の腐ったみたいな男で、意地というものがからっきしないのだ! わしはな、金箔つきの意気地なしだよ……」
 とはいえ、わたしたちは仲よく別れた。彼はわたしを食事に招待したほどである。「わしの家へおいでよ、あんた、本当にやっておいでよ、いっしょに飯でも食おうじゃないか、家のウォートカはキーエフからてくてく歩いて来たもんだ。それに料理人はパリにおったことのある男だよ。サラダの腕前といい、肉饅頭の具合といい、実にただもう指を嘗め廻しながら、あいつの足もとに額を摺りつけたいばかりだ。なかなか教育のある男だよ。わしはもう長い間あいつに鞭を食らわさんので、このごろ少し増長しやがった……まあ、いいあんばいにいま想い出した……来たまえな! わしは本当のところ、今すぐあんたを連れて帰りたいのだが、なんだかどうも、すっかり意気銷沈してしまってな、気がくさくさして元気がない。まったくわしは水ばれに腫れた病身な人間なんでな。あんたは本当にしておられんようだな……じゃ、さよなら! そろそろわしの船も動き出していい時分だ。そら、あんたの馬車も直ったよ。それからフォームカに会ったら、なるべくわしの目にかからんようにしろといってやってください。でないと、うんとあいつの身に沁みるような対面の幕をやってみせるから……」
 しかし、しまいのほうは聞こえなかった。四頭のたくましい馬に力を揃えて牽かれる幌馬車は、たちまち埃の雲の中に隠れてしまった。わたしの馬車も修繕が出来たので、わたしはその上に座を占めた。そして、瞬く間にこの小さな村を通り抜けてしまった。
『もちろん、あの人は少々法螺を吹いてるのだ』とわたしは考えた。『あんな癇癪の強い人間だから、公平な判断はできやしない。が、それにしても、叔父さんのことであの人のいった話は、大いに考えねばならん。叔父さんがあの娘を愛してるという点で、もう二人まで意見が一致してるんだからなあ……ふむ! いったいぼくは結婚するのか、どうなんだろう?』今度はわたしもひどく考えこんでしまった。
[#3字下げ]3 叔父[#「3 叔父」は中見出し]
 白状するが、わたしはいくらか気おくれさえして来た。スチェパンチコヴォ村へ入ると同時に、わたしのロマンチックな空想はきわめて奇怪な、しかも幾分ばかげたもののようにすら思われ始めた。もう夕方の五時頃だった。道は邸のそばを通っていたので、わたしはまた久しぶりで、この広い庭をまのあたりに見ることができた。この庭こそわたしの幼年時代に、数々の楽しい日が過ぎていったところだ。この庭こそは、その後わたしが教育を受けたいろいろの学校の共同寝室で、幾度となく夢に浮かんだところである。わたしは馬車をとび降りて、いきなり庭を横ぎって邸のほうへ行った。なるべくそっと家へ入って、いろいろ聞きただして様子を知りたい、まず何よりも叔父と腹いっぱい話がしたいと、こう心の中で願っていたが、その願いどおりにいった。わたしは、百年の星霜を経た菩提樹の並木道を通って、テラスの上へ昇って行った。そこのガラス戸を開くと、すぐ家の中へ入れるのだった。このテラスは花壇でとり囲まれて、高価な植木の鉢が一面に並べられていた。ここでわたしは一人の村の知人に出会った。以前わたしのもり役、今は叔父の侍僕という名誉ある役を勤めている男で、名をガヴリーラといった。老人は眼鏡などかけて、手に持った手帳を一生懸命に読んでいるところだった。わたしたちは二年前にも会っていた。それは、彼が叔父のお伴をしてペテルブルグへやって来た時だった。そういうわけで、今も彼はすぐわたしに気がついた。彼は嬉し涙をこぼしながら飛んで来て、いきなりわたしの手を接吻した。眼鏡は彼の鼻からすべって、床の上へ落ちた。老人のこうした愛情はわたしを感動させたけれども、先ほどバフチェエフ氏との会話で興奮したわたしは、まず一番に、ガヴリーラの手に持っている怪しげな手帳に注意を向けた。
「それはなんだね、ガヴリーラ、いったい、お前もフランス語を習いだしたのかい?」とわたしは老人にたずねた。
「習うとるのでござります、この年になって、九官鳥の真似をしておりまする」とガヴリーラは悲しげに答えた。
フォマーが自分で教えるのかい?」
「へえ、あの方でござります、きっと賢いお方なんでござりましょう」
「そりゃもちろんさ、賢い人にきまってる! 話で教えてるのかい!」
「いいえ、手帳でござりますよ」
「お前が手に持ってるのはいったいなんだい? ああ! フランス語をロシヤ字で書いたんだね、――考えたなあ! しかし、あんな低能な、正真正銘の馬鹿者に自由にされるなんて、お前は恥ずかしくないか、ガヴリーラ?」先ほどバフチェエフ氏から癇癪玉を頂戴する原因となった、フォマーに関する自分の寛大な想像を一遍で忘れてしまって、わたしはこう叫んだ。
「どうして、あなた」と老人は答えた。「どうしてあの方が馬鹿でござりましょう。あの人は家の旦那さえ、自由に動かしていなさるではござりませぬか?」
「ふむ! 或いはお前のいうとおりかもしれないね、ガヴリーラ」相手の言葉に腰を折られて、わたしはこうつぶやいた。「一つ、叔父さんのところへ案内してくれないか」
「若旦那様! わたしは、お目通りへ出ることができないのでござります。ご遠慮申しておりますので。わたしは旦那様まで恐れるようになりました。こうしてじっとここに坐って、くよくよしておるのでござります。旦那様がお出ましの時には花壇の陰へ隠れますので」
「いったいなんだってそう怖がるのだ?」
「先ほど宿題ができなかったので、フォマー様が膝を突いとれ([#割り注]小学生などに対する処罰の方法[#割り注終わり])とおっしゃりましたが、わたしはそれをせなんだのでござります。若旦那様、もうそんなふざけたことをするにゃ、わたしはあまり年をとりすぎておりまする! 旦那様はたいそうご立腹なされまして、『どうしてフォマーのいうことをきかないのだ、この耄碌爺め、あの人はお前の教育で気をもんで、発音を教えてくださるのじゃないか』と、お叱りを受けました。それでこうして歩きながら、単語を暗記しとるのでござります。フォマー様が、晩にまた試験をすると、いい渡されましたので」
 わたしは、そこに何かはっきりしないところがあるように感ぜられた。『このフランス語については、爺さんもおれに説明することのできないような、こみ入った事件があるに相違ない』とわたしは考えた。
「もう一つ聞きたいことがあるんだ、ガヴリーラ、いったいフォマーはどんな様子をした男だね? 立派な押し出しをしてるのかい、背が高くって?」
フォマー様が? どういたしまして、見っともない小男でござりますよ」
「ふむ! まあ、お待ち、ガヴリーラ。これはたぶんすっかりまるく納まるだろう。いや、きっと納まるに相違ない、それはお前に約束しておく! だが……叔父さんはどこにいらっしゃるんだね?」
「馬小屋のうしろで、百姓たちに会っておいででござります。カピトーノフカ村から、年寄りたちがご挨拶にまいりましたので。なんでもあの村の者をフォマー様の名前に書き換えなさるちゅうことを聞きつけましたので、哀訴に来たものでござりましょう」
「しかし、なんだって馬小屋のうしろなんかで?」
「恐れていらっしゃるのでござりますよ。若旦那様……」
 はたして叔父は厩のうしろにいた。そこの小広いところで、彼は百姓の一群を前にして立っていた。百姓たちがしきりに頭をさげながら、何やら一生懸命に嘆願していると、叔父はまた熱心に彼らに説いて聞かせていた。わたしがそばに近寄って声をかけると、彼は振り返った。と、わたしたちは互いに跳びかかって、抱き合ったのである。
 彼はわたしの到着を非常によろこんだ。彼のよろこびは、ほとんど歓喜に近いくらいだった。彼はわたしを抱いて、両手を握りしめた。その様子は、瀕死の危険に陥っていたわが子が助けられて、自分の手もとへ帰って来たようだった。それと同時に、彼自身もわたしの到着によって、瀕死の危地から救い出されたかのようであった。まるでわたしが、彼のあらゆる疑惑を解く鍵を持って来たばかりか、彼および彼の愛するすべての人々の、生涯かわらぬ幸福とよろこびをもたらしたかのようであった。事実、彼は自分一人だけ幸福になるのを肯んじなかったに相違ない。最初の歓喜の発作が落ちついて来ると、彼は急にせかせかし始め、ついにはすっかりまごついてしまった。さまざまな質問をわたしに浴せかけた末、さっそく家族のほうへ連れて行こうとした。わたしたちは少し歩き出したが、叔父はわたしをカピトーノフカの百姓たちに会わせたいからといって、また引っ返した。それから急に、どういう話の筋だったか覚えていないが、出し抜けにコローフキンとかいう人の話を持ち出した。それは、三日ばかり前に街道で出会った非常にえらい人だが、きょう客に来るはずになっているので、頸を長くして待っているとのことだった。それから、彼はすぐコローフキン氏のこともうっちゃって、また何か、ほかのことをいい出した。わたしは快く叔父の顔を眺めていた。彼の気ぜわしそうな問いに対して、わたしはしばらく勤めにつかないで学問の研究がしたいむねを答えた。学問の話になるやいなや、叔父は急に眉をしかめて、並々ならぬものものしい顔つきをした。わたしが最近鉱物学の研究をしていると聞くと、彼は昂然と頭を持ち上げて、誇らしげにあたりを見廻した。それはちょうど、自分一人でだれの助けもかりずに、鉱物学というものを創設し、述作でもしたようなふうだった。前にもちょっといっておいたが、彼は「学問」という言葉に対して、ぜんぜん私欲を超越した純な尊崇の念をいだいていた。その尊崇は、彼自身なに一つ知らなかっただけに、なおさら純な美しいものであった。「なあ、お前、世間には物ごとを奥の奥まで、すっかり知り抜いた人があるもんだね!」あるとき彼は感動のあまり目を輝かしながら、わたしに向かってこういったことがある。「そういう人たちの間に坐って話を聴いていると、自分じゃなんにもわからないと承知していながら、なんとなくいい気持ちがするのだ。それはどういうわけだろう。ほかでもない、それは有益な仕事だから、偉大な知識だからだ、人類一般の幸福だからだ! それはわたしにもわかるよ。現に、わたしは鉄道で旅行しているけれど、うちのイリューシャは空を飛び廻るようになるかもしれないよ……それに、商業とか工業とかいって、――実にいわゆる風潮というか……いや、その、なんだ、人がなんといおうと、実に有益なことだからな……ね、有益なことだろう、そうじゃないか?」
 しかし、わたしは今度の対面のことに移ろう。
「もう少し待ってごらん、お前ちょっと待ってごらん」と、彼は両手を揉みながら、早口にいい出した。「今にいい人に会えるから! お前にいっとくが、それは本当に珍しい人で、学問のある人だ、科学者なんだ。あれは永久に残る人なんだ。ね、いい言葉じゃないか、『永久に残る』って、これはフォマーがわたしに説明してくれたのだ、待ってごらん、わたしがお前に紹介して上げるから」
「それはフォマー・フォミッチのことですか、叔父さん?」
「いや、いや、そうじゃない、それはコローフキンのことなんだ。しかし、フォマーもやっぱりそうだ、あの人も……だが、今はただコローフキンのことをいっただけなんだ」話がフォマーのことに触れるが早いか、彼はどういうわけかあかくなってまごつきながら、こういい足した。
「いったいその人はどういう科学を研究してるんです、叔父さん?」
「学問だよ、お前、全体に学問なんだよ。ただわたしは、なんという学問だか、名をさしていえないけれど、とにかく学問なんだよ。鉄道のことなど話すと、そりゃ素敵だよ! それに」と意味ありそうに右の目を細めながら、叔父は半ばささやくようにいった。「ちょっと、その、自由思想といったようなところがあるんだ! その人が家庭の幸福ということを説いた時に、わたしはことにそれを感じたよ……ただ自分でよくわからないのが残念だよ(ゆっくり話してる暇がなかったのでね)。でなかったら、わたしは筋道をたててお前に話して聞かすんだがなあ。それに、実に高潔な性情の人なんだ! わたしはその人を家へ招待したんだよ。それで、今か今かと待ちかねてるところなのさ」
 この間、百姓たちは口をぽかんと開けて、目をむき出しながら、まるで奇跡かなんぞのように、わたしたちを見つめていた。
「ときに、叔父さん」とわたしはさえぎった。「ぼくは百姓たちの邪魔をしているようですね。あの連中きっと用があって来たんでしょう。いったいなにを頼んでるんです? 実は、ちょっと思いあたることがあるので、その話を聞かしてもらいたいのですが」
 叔父は急にせかせかとあわて出した。
「ああ、そうそう! わたしも忘れていた! いや、実はね……いったいあの連中をどうしたらいいかと思って。とんでもないことを考え出したものだ、――だれが一番にそんなことを考え出したのか、それが知りたいよ、――わたしがカピトーノフカの村をすっかりフォマーにやってしまう、なんて考え出したんだよ。お前カピトーノフカを覚えてるだろう? まだカーチャ(先妻)の生きてる時分、みんなでよく毎晩散歩に出かけたものじゃないか、――あのカピトーノフカを、六十八人の百姓をそっくりつけてやるというんだ! それで百姓たちは『わっしらはお前様のとこから離れたくありましねえ』の一点ばりでね! その頼みに来てるんだ」
「じゃ、あれは嘘なんですか、叔父さん? フォマーにカピトーノフカをやるというのは!」わたしはほとんどうちょうてんになってこう叫んだ。
「そんなことは考えもしなかったよ。まるで頭にないことなんだ! だが、お前はだれからそんなことを聞いたんだね? わたしがちょっと舌をすべらしたもんだから、すっかり嘘が広まってしまった。それにしても、どうしてあの連中はフォマーがいやなんだろう? まあ、少し待ってごらん、セルゲイ、わしがひき合わせてやるから」わたしがやはりフォマーの敵であることを察したように、おずおずとわたしの目色をうかがいながら、彼はつけ足した。「いや、実になんともいえない人物だよ……」
「いやでござります、お前さまのほかにゃ、だれもみんないやでござります!」とつぜん百姓たちがいっせいに口を揃えてこう叫んだ。「お前さまはわっしらの親で、わっしらはお前さまの子でござります!」
「ねえ、叔父さん」とわたしは答えた。「ぼくはまだフォマー・フオミッチに会ったことはないですが、しかし……実は……ちょっと小耳に挟んだこともあります。実はね、ぼくは今日バフチェエフ氏に会ったのですよ。もっとも、この点に関しては、ぼくは自分の考えを持っているのです。とにかく、叔父さん、まず百姓たちを帰したらどうです。二人きり、そばに人のいないとこで話しましょうよ。実のところ、ぼくはそのためにわざわざやって来たんですから……」
「そうだとも、そうだとも」叔父は相槌を打った。「そのとおりだよ! まず百姓を帰して、それから話をしようよ。つまり、うち解けて、隔てなしに、洗いざらい話すんだな! じゃ」と彼は百姓のほうを向いて、早口にいった。「今日はこれで帰るがいい。このさきも何か用のある時には、いつでもわたしのとこへやって来るがいい。いつでも遠慮なしに、ずんずんわたしのとこへやって来るがいい」
「旦那様! お前さまは親で、わっしらは子でござります! どうか、フォマーの手に渡して、いじめさせねえでくださりませ! 小前の者みんなのおねげえでござります!」と百姓らはもう一度こうわめいた。
「馬鹿なやつらだ! 渡しゃしないといってるじゃないか!」
「でねえとまた、あの人がわっしらに教えるにちげえごぜえません! この村の者も教えられるちゅう話でござりますのう」
「じゃ、何かね、お前たちまでフランス語を習ってるのかい?」とわたしはほとんどびっくりして叫んだ。
「いんにゃ、旦那様、まだ今のところ神様のお恵みで助かっとりますだ」と話好きらしい一人の百姓が答えた。赤毛の頭のうしろに大きな禿があって、顎にはうすい長い山羊ひげが垂れていたが、口をきくたびに、まるで生きもののように縦横に動き廻るのであった。「まだ今のところ神様のお蔭で助かっておりまするよ」
「いったいあの人がお前たちに何を教えるんだい?」
「あの人は教えるのでござります、旦那様。まあ、なんのことはない、わっしらのいう『金の手箱を買《こ》うて、銅銭一つ入れる』ようなものでござりますよ」
「いったい銅銭とはなんのことだい?」
「セリョージャ! お前は思い違いをしてるよ、それは言いがかりだ!」と、叔父は顔を真っ赤にして、恐ろしくまごつきながら叫んだ。「それは、この連中が馬鹿なもんだから、あの人のいったことを勘違いしたのだ。あの人はただその……銅銭なんてことはありゃしないよ……お前なんぞに、そんなことがすっかりわかってたまるものかね。何もそんなことをいって、のどを痛くすることはいりゃしないよ」と彼はなじるような調子で、百姓にいった。「馬鹿、お前のためを思ってくれたものを、よくわからないくせに大声でわめくなんて!」
「何をいうんです、じゃフランス語は?」
「それは発音のためだよ、セリョージャ、ただ発音のためなんだよ」と、叔父は何か哀願するような声でいった。「あの男も自分で発音のためだといってたよ……それにね、これにはちょっと特別な事情があるのだが、お前はそれを知らないのだ。だから、その判断ができないんだよ。まず初めよく理解して、それから後で責めなくちゃならんよ。責めるのはいつでもできるから!」
「いったいお前たちはどうしたんだ!」彼はかっとして、再び百姓のほうへ向きながらこう叫んだ。「お前たちはあの人に向かって、何もかもすっかりいったらよさそうなもんじゃないか。『それはいけません、フォマー・フオミッチ、それはこうこういうわけです』といってさ! だって、お前たちだって舌を持ってるじゃないか」
「旦那様、猫の頸に鈴を吊すことのできる鼠が、どこにおるでござりましょうか? あの方のおっしゃるにゃ、わしは貴様のような不潔な百姓に清潔ちゅうことを教えてやるのだ。いったいどういうわけで貴様のシャツは汚いのだ? ってね。けんど、旦那様、わし等は汗の中で暮らしてるんですもん、きたねえはずでござりますよ。毎日着替えるわけにゃめえりませんからね。綺麗にしたからって、生まれ変わるわけのものじゃねえ、きたねえからって、それが身の破滅になる理屈はござりますめえ」
「つい二、三日前にも打穀場《こなしば》へお見えになってね」ともう一人の百姓がいい出した。見たところ、背の高い痩せぎすの男で、つぎ当てだらけの着物をまとい、思いきってひどい木の皮靴をはいていた。これは大方いつも何か不平をいだいて、胸の中に毒々しい皮肉な言葉を蓄えている、といったふうな種類の人間らしい。彼は今までほかの百姓のうしろに隠れて、陰気らしく沈黙を守りながら、皆の話を聞いていたが、その顔からは、しじゅう一種曖昧な、苦々しげな、悪ごすそうな薄笑いが去らなかった。「打穀場《こなしば》へお見えになりまして、『お前たちは、太陽まで何露里あるか知っとるか?』ときかれるでござります。そんなことだれが知りますもんで。そりゃ旦那衆のなさる学問で、わしらの知ったことじゃごぜえません。『いや、貴様らは馬鹿だ、自分のためになることを知らん。でも、おれは天文学者だ! 天の星をすっかり知っとるぞ!』とおっしゃりましてな」
「ふん、いったい太陽まで何露里あるといったかね?」とつぜん叔父は活気づいて口を入れた。そして、『さあ、なんというか見ていな!』というような顔つきで、わたしに瞬きして見せるのだった。
「へえ、なんでもたいそう遠いようにいわれました」こんな質問を予期していなかった百姓は、気のない調子で答えた。
「でも、何露里といったのだ、いったい何露里だ?」
「そりゃ旦那様こそよくごぞんじでいらっしゃりましょう、わしら無学な人間でごぜえますから」
「うん、そりゃおれは知っているけれど、お前だっておぼえてるだろう?」
「へえ、何百露里とか何千露里とか、なんでも大層な数をいわれましたよ、馬車三台でも運びきれねえくらいで」
「そ、それだよ、それをおぼえなきゃいかんよ、お前! たぶんお前はまあ一露里ぐらいなもので、手でも届くように思ってたんだろう? ところが大違い、地球というやつはね、いいか、まるで丸い玉のようなものだ、わかったか?」両手で空に玉の形を描いて見せながら。叔父[#「ながら。叔父」はママ]は語りつづけた。
 百姓たちは苦笑いした。
「そうだ、まるで玉のようなものだ! それが宙にひとりでに懸っていて、太陽のまわりを歩いてるんだ。太陽は一つ所にじっとしてるので、動くように見えるのは、ただお前たちにそう思われるだけなんだ。こういう理屈なんだよ! これを発見したのは、カピタン・クックという船乗りなんだ……いや、だれが発見したのかなあ」と叔父はわたしのほうへ向きながら、半ばつぶやくようにいい足した。「実はね、わたしも自分では何一つ知らんのだよ! お前、太陽まで何露里あるか知ってるかい?」
「知ってますよ、叔父さん」これらすべての光景に驚きの目を見はりながら、わたしはこう答えた。「ただね、ぼくはこう思うんですよ。むろん無知というやつは、やはりだらしのないことですけれど、しかし一方から見て……百姓に天文学を教えるというのも……」
「そうだ、そうだ、本当にだらしのないことだ!」叔父はわたしの表現が非常に適切に思われたので、うちょうてんになってこう引き取った。「立派な思想だよ! まったく、だらしがないのだ! わたしはいつもそういってたんだ……いや、わたしは一度もそういったことはないけれど、心のなかで感じていたんだよ。お前たちも聞いたか?」と彼は百姓らに向かって叫んだ。「無教育ということは、やっぱりだらしのないことなんだ、汚いことなんだ! それだからこそフォマー・フォミッチも、お前たちに教えようとしたんだよ。あの人はお前たちにいいことを教えようと思ったのだ、――それはけっこうなことだよ。それは、お前、もう勤めるのと同じことで、どの位でも授ける価値があるんだよ。学問というやつは、それほど、ありがたいものなんだ! いや、よろしい、よろしい、機嫌よく帰ったがいい。わしは嬉しい、本当に嬉しいよ……安心するがいい、わしはお前たちを見捨てやしないから!」
「どうか守ってくださりませ、お前さまは生みの親でござらっしゃるから!」
「どうかわしらの世を闇にしねえでくださりませ」
 こういって、百姓らは足もとに身を投げた。
「ま、ま、そんなことは馬鹿げてるじゃないか! 神様や陛下さまを拝むのはいいが、わたしにそんなことをしてくれちゃ困る……さあ、もう行きなさい。身持ちをよくしていれば、自然と人にかわいがられるようになるよ……そのほかのことは、なんでもその……なあ、お前」百姓たちが行ってしまったとき、急にわたしのほうへ振り向いて、満面によろこびの色を輝かせながら、彼は話しかけた。「百姓というものは、優しい言葉をかけてもらうのが好きなんだよ。しかし、何か土産をやっても悪いことはあるまいなあ。あれらに何かやろうと思うんだが、どうだろう? お前どう考えるね? お前の来たお祝いに……何かやったものかどうかしらんて?」
「叔父さん、ぼくこうして見ると、あなたはまるでフロール・シーリンそこのけの、慈悲深い人なんですね」
「いや、そんなことをいっちゃいけない、そんなことをいっちゃあ……あれはなんでもないことなんだよ。わたしは前からあれたちに何かやりたいと思ってたんだ」と彼は言いわけでもするようにつけ足した。「だが、わたしが百姓どもに学問のことを教えるのが、どうして、お前おかしいんだね? なに、あれはね、お前、お前に会った嬉しさにああいったんだよ、セリョージャ。わたしはただほんのちょっと、あれらが、百姓どもが、太陽までどれくらいあるか知って、ぽかんと口をあけるのが見たかったのさ。百姓が口をぽかんとあけるのを見るのは、お前、なかなか愉快なもんだよ……なんだか、こう、あれたちのために喜んでやりたいような気がするんだ。ただね、お前、わたしがここで百姓と話をしたということを、客間のほうへ行ってしゃべっちゃいけないよ。わたしはわざと見られないように、あれらを厩のうしろへ廻らしたんだ。どうもあちらじゃ具合が悪いんだよ。ちょっと尻擽ったいような話なんでね。それに、あれたちも内証でやって来たのだから、わたしはどっちかというと、あれたちのためにああしたんだよ……」
「ところで、叔父さん、ぼくいよいよやって来ました!」少しも早く本題に入りたかったので、わたしは話題を変えながら、こう切り出した。「実はね、あなたの手紙を見てすっかりびっくりしちゃったので、ぼくは……」
「お前そのことは一口もいわんでくれ」と急におびえたように声まで潜めながら、叔父はさえぎった。「後で、後ですっかりわかって来るよ。わたしはもしかしたら、お前にすまんことをしてるかもしれない。ことによったら、非常にすまんことを……」
「ぼくにすまんことですって、叔父さん?」
「後で、後で、お前、後にしてくれ! 何もかもすっかりわかって来るから。だが、まあ、お前は立派な若い者になったな! 実に嬉しいよ! どんなにお前を待つたか知れやしないぜ! わたしはいわゆる、その、胸中を吐露したくって……お前は学者だからなあ……わたしの身内や友だちの中で、お前一人きりだ……お前とコローフキンだ。ちょっとお前の耳に入れとくがね、この家ではみんな、お前のことで腹をたててるんだよ。気をつけて、へまをしないようにしてくれ!」
「ぼくのことで?」とわたしはびっくりして叔父を見つめながら、こうたずねた。まだ面識もない人たちをどうして怒らせたものか、いっこうに合点がいかなかった。「ぼくのことを?」
「おお、お前のことだよ。どうも仕方がない! フォマーが少々……その尾についてお母さんもやはり。まあ、お前、万事につけて用心ぶかく、うやうやしく、逆らわないようにしなきゃならんよ。何よりもまずうやうやしくするんだ……」
「それはフォマーにですか、叔父さん?」
「どうも仕方がないよ、お前。わたしも別にあの男を弁護しやしない。実際、あの男も欠点のある人間かもしれない。今、この瞬間でさえ……ああ、セリョージャ、どうしてこう何もかも心配の種になるんだろう! どうしたら万事まるく納まるだろう、どうしたらみんなが幸福で満足なようになるんだろう……しかし、だれだって欠点のない者はない、われわれは黄金時代の人間じゃないからね!」
「何をいうんです、叔父さん! あの人間がどんなことをしてるか、まあ、よく見てごらんなさいよ……」
「なあに、お前、そんなことはみんな詰まらないこったよ、それっきりさ! まあ、お聞き、たとえていうと、今あの男はわたしに腹をたてている。しかも、それがいったいなんのためだと思う?………そりゃわたしだって悪いのかもしれない。まあ、後で話したほうがよかろう……」
「もっともね、叔父さん、このことについては、ぼく自身で自分の解釈がついてるんですよ」自分の考えをいってしまおうとあせりながら、わたしはこうさえぎった。わたしたちは二人とも妙にあせっていたのである。「第一、あの男は道化だったでしょう。それがあの男をすっかり悲観させたのです、打ちのめしてしまったのです、あの男の理想を侮辱したのです、それがためにああした憎悪に充ちた、病的な、いわば全人類に復讐しよう、というような性格が生まれたのです……けれど、もしあの男を人間と和解させたら、あの男を自分自身に返してやったら……」
「そうだとも、そうだとも」と叔父はうちょうてんになって叫んだ。「まったくそのとおりだ! 実に立派な考えだ! だから、あの男を非難するのはお互いに恥ずべきことなんだ、卑劣なことなんだ! まったくそのとおりだ!………ああ、お前はわたしを理解してくれる! お前はわたしによろこびを持って来てくれたんだ! だが、あちらで何ごともなければいいがなあ! 実はね、わたしは今あちらへ顔を出すのが恐ろしいんだよ。こうして、お前がやって来たしする[#「来たしする」はママ]から、きっとわたしにあたり散らすに相違ないよ!」
「叔父さん、もしそういうわけなら……」こういう自白を聞いて一種まの悪さを感じながら、わたしはいいかけた。
「いけない、いけない! どんなことがあっても、いっちゃいけない!」と叔父はわたしの両手をつかみながら叫んだ。「お前はわたしのお客さんだから、それでわたしはこうしたいんだ!」
 こういうことがいちいちわたしを驚かせた。
「叔父さん、どうか今すぐいってください」とわたしは強硬に切り出した。「いったいなんのためにぼくを呼んだのです? ぼくから何をあてにしてるんです? それに第一、どういうわけでぼくにすまないことがあるんです?」
「それはどうかきかないでくれ! 後だ、後だ! みんな後でわかって来るよ。わたしはいろんな点で、すまんことをしているかもしれないけれど、とにかく、潔白な人間らしく振舞いたかったんだ。だから……だから、結婚しておくれね! もしお前に一雫でも高潔な心があったら、結婚しておくれ!」とつぜん襲って来た或る感情のために顔を真っ赤に染め、うちょうてんになってわたしの手をしっかと握りしめながら、彼はこういい足した。「が、もうたくさんだ、もうこのうえ一口もいっちゃいけない、今に自分で何もかもわかって来るよ。とにかく、万事お前次第なんだからね……が、何よりもお前が皆の気に入るといいがなあ、どうか皆を感心させてくれ。何よりも気おくれしないのが一番だ」
「ですが、叔父さん、あちらにいったいだれがいるんです? 実はね、ぼくあまり人中に出たことがないものですから、どうも……」
「だから、少しばかり気おくれがするというのかね?」と叔父はほほ笑みながらさえぎった。「なあに、大丈夫だよ! みんな内輪の者ばかりだ。元気を出せよ! 元気が一ばん肝腎だ、恐れちゃいかん。わたしはいつもお前のことが気にかかるんだよ。だれがあちらにいるかときくんだね? だれが家にいるもんかね……まず一番にお母さんだ」と彼は忙しげに数え始めた。
「お前、お母さんをおぼえてるかね、それとも忘れたか? 実にこの上ない優しい、心のきれいな人だよ。少しも欲のない人だ、それは立派に断言できる。少々旧弊だけれど、かえってそのほうがいいくらいだ。ただね、その、時々とてつもないことをいい出すことがあるんだよ。いまわたしに腹をたてているが、それはわたしが自分で悪いのだ。自分が悪いということは、承知してるよ! それに、お母さんはいわゆるグランダームだからね、将軍夫人だからね……あの人のつれあいは立派な人だったよ。第一に、将軍で、最高の教育を受けた人だ。財産は遺さなかったけれど、その代わり体じゅうに名誉の負傷を受けて……まあ手っとり早くいうと、努力によって尊敬をかち得た人さ! それからペレペリーツィナ嬢、さあ、このひとはなんといっていいか……この頃どうかしたのか、その……特別な性格なんだからね……しかし、みんなのことをいちいち悪くいうわけにはいかないて……まあ、あのひとはあのひとで勝手にさせとくさ……お前、あのひとのことを居候かなんぞのように思っちゃいけないよ。あのひとはお前、中佐のお嬢さんなんだからね。お母さんの腹心なんだ、無二の親友なんだ! それから妹のプラスゴーヴィヤ。あの女についてはそう話すほどのこともない。正直な、いい女だ。少々世話やきだが、その代わりまあ、なんという優しい心だろう! お前、何よりも心を見なくちゃ、――もうだいぶ薹の立った娘だけれど、実はね、あの変人のバフチェエフが、どうやらしきりにご機嫌をとって、嫁にもらいたがってるらしいんだが、しかし、お前だまってなきゃ駄目だよ、口をすべらしたら、それこそ大変、秘密なんだからなあ! さあ、それからどんな人がいたっけなあ。子供らのことはいわないよ。今にお前、自分で見るんだからね。明日はイリューシャの命名日だ……あっ、そうだ! あやうく忘れるところだった。実はね、もうまる一月もイヴァン・イヴァーヌイチ・ミジンチコフが家に泊ってるんだよ。お前にはたぶん又従兄にあたるらしいな。そうだ、まったく又従兄だ。あれはついこの頃、軽騎兵隊を中尉で出てしまったんだよ。まだ若い男で、心の綺麗な人だけれど、いやはや恐ろしく費《つか》ったもんだよ。どこであんなに費ったのか、不思議なくらいだ。もっとも、あれは初めから、ほとんど何一つ持っていなかったのだが、それでもさんざんつかいこんで、うんと借財をこしらえちゃったのさ……いま、家に泊ってるんだ。わたしは今までまるで知らなかったんだが、向こうから自分でやって来て、名乗りを上げたわけだ。優しくって、親切で、おとなしくって、礼儀ただしい青年だよ。ここでだれ一人として、その男がものをいったのを聞いたことがないんだ! いつもいつも黙ってばかりいるもんだから、フォマーが冷やかし半分にその男のことを『無口な見知らぬ人』という綽名をつけたがね、平気、怒りなんかしない。フォマーは満足してるんだ。そして、ミジンチコフのことを少し足りないといってるよ。もっとも、こちらは何ごともいっさい言葉を返さないで、万事ふんふんと相槌を打ってるのさ。ふむ! なんだかいじけたようなところがある……いやまあ、あの男のことなんかどうでもいい! お前自分で見たらわかるからね。それから、町からお客さんもあるんだ。パーヴェル・セミョーヌイチ・オブノースキンが、お母さんといっしょに来てるのだ。若い人だけれど、実に頭のできた人でね、どことなしに成熟したような、その、しっかりしたところがあるんだよ……わたしはどうもうまくいえないがね。それに、立派な精神を持った人で、なかなか厳格な道徳観をいだいてるんだ! それからもう一人、タチヤーナ・イヴァーノヴナという婦人が家に泊ってるんだ。ことによったら、遠い親戚にあたるかもしれない、――お前は知らないだろうが、――娘さんなのだ、もう若いとはいえない、それは認めなきゃならんが、しかし……なかなか気持ちのいい性質の娘さんだよ。非常な金持ちでね、スチェパンチコヴォ村を二つ買えるくらいの金があるんだよ。つい近ごろ遺産を手に入れたばかりで、それまでは苦労したものなんだ。セリョージャ、お前どうか気をつけておくれ、どうも病的な婦人でね……その、何かしらとっぴな性格なんだ。お前は高尚な心を持ってるからわかるだろうが、あの婦人はいろいろその、不幸な目にあって来たんだからね。不幸な目にあってきた人には特に気をつかってやらなければならない! しかし、お前、何か変なことを考えちゃいけないよ。もちろんいろいろ弱点はあるさ、どうかすると少し急《せき》こんで、無考えにものをいうものだから、時時用もないことをいうけれど……つまり、嘘をつかないんだよ、お前、へんにとったら困るよ……それはみんなその、なんだね、美しい潔白な心から出て来るんだよ。もし何か嘘をついたとしても、それはただただあり余るほどの高潔心から出ることたんだ!」
 叔父は恐ろしくまごまごしてるように思われた。
「ねえ、叔父さん」とわたしはいった。「ぼくは本当に叔父さんを愛してるんです……だから、ぶしつけな質問を許してください。ねえ、あなたはここのだれかと結婚するんですか、どうです?」
「いったいお前はだれから聞いたんだ?」と彼は子供のようにあかくなって答えた。「実はこういうわけだ、すっかりお前にうち明けてしまおう。まず第一にいうが、わたしは結婚しないよ。お母さんと(それから妹も幾分その仲間だ)、そしてお母さんの尊敬しているフォマー・フォミッチが、――それにはちゃんと相当な理由があるんだよ。あの男はお母さんのためにいろいろ尽くしたんだからね、――みんなわたしにそのタチヤーナ・イヴァーノヴナと結婚しろというのだ。それは賢い分別から出たことで、つまり家のために勧めるんだ。もちろん、わたしのためよかれと思ってくれるのは、そりゃようくわかっているが、わたしはけっして結婚しない、そういう誓いを自分にたてたんだから。それにもかかわらず、わたしはうんともすんとも返事ができないでいるのさ。それはね、お前、いつものわたしの癖なんだよ。で、みんなはわたしが承知したものと思って、あす命名日の祝いを機会に、ぜひ申込みをしろ、というのだ……だから、明日はいろいろ心配ごとがあって、もうどうしたらいいかわからないくらいなんだよ! それに、フォマーはどういうわけか知らんが、わたしに腹をたてているし、お母さんまでがそうなんだ。わたしはね、お前、うち明けたところ、お前ばかりを待ちかねてたのさ、お前とコローフキンとね……胸のもやもやをすっかり、そのうち明けて……」
「いったいコローフキンがこの場合なんの役にたつんです、叔父さん?」
「役にたったんだよ、お前、役にたつんだよ――あれはお前、なかなか立派な人物なんだよ、一口にいえば、科学者なんだ! わたしはあの人を杖とも柱とも頼んでるんだよ。人を征服する人物だ! 家庭の幸福のことなんかいわしたら素敵だよ! 実のところ、わたしはお前も当てにしてたんだよ。お前なら、あの人たちを説き伏せてくれるだろうと思ってね。まあ、お前、考えてみてくれ。仮りにわたしが悪いとしたところで、――いや、わたしは本当に悪いんだ、それは自分にもよくわかっている。わたしだって無神経な男じゃない、――それにしても、いつかはわたしをゆるしてくれてもよさそうなものだ! そうしたら、みんなじつに楽しく暮らせるんだがなあ!………ところで、お前、うちのサシュールカ([#割り注]サーシャ[#割り注終わり])の大きくなったことは、素晴らしいもんだよ。今すぐにも、嫁入りができるくらいだ! イリューシュカもかわいくなったよ! 明日はその命名日なんだ。わたしはサシュールカのことが心配でね。まったく!………」
「叔父さん、ぼくのカバンはどこにあるんです? ぼく着替えをしてすぐきます、その上で……」
「中二階だよ、お前、中二階だよ。わたしはもう前から、お前が来たら、すぐだれにも見つからんように中二階へ案内しろといっといたんだ。そうだ、まったく、着替えをしておいで! それがいい、けっこうだ、けっこうだ! その間に、わたしはあちらでみんなにうまく話しておこう。じゃ、さよなら! いいかいお前、こすくやらなきゃ駄目だよ。どうも自然とタレイランになってしまうよ。いや、なに、大丈夫だ。あちらでは今みんなお茶を飲んでるよ。家ではお茶が少し早いんだ。フォマーは目をさますと、すぐお茶を飲むのが好きでね……そのほうがいいんだよ。じゃ、わたしは行くぜ、お前も早く後から来てくれ。わたしを一人ぼっちにしちゃいけないよ。どうも一人きりだと、ばつが悪くってね……そうだ! 待ってくれ! お前にもう一つ頼みがあるんだ。ほかじゃないが、お前さっきのようにわたしにどなりつけちゃいけないぜ。もし何か注意したいことがあったら、後でさし向かいになっていうんだ。それまでは胸をさすって我慢してくれ、待ってくれ。わたしはね、お前、あちらでさんざん馬鹿なことをしたので、みんなが怒ってるんだよ……」
「ねえ、叔父さん、ぼくの見たり聞いたりしたことから考えると、どうもあなたは……」
「ぐうたらだとでもいうのかね? 遠慮なしにすっかりいうがいい!」と彼はまったく思いがけなくさえぎった。「どうも仕方がないよ! 自分でもそれをよく承知してるのだ。じゃ、お前やって来るね? できるだけ早く来ておくれ、お願いだから!」
 二階へあがると、わたしは大急ぎでカバンを開けた、すこしでも早く降りて来いという叔父の言いつけをおぼえていたので。着替えをしているうちに、ふとこんな考えが浮かんだ、――もう一時間から叔父と話をしたにもかかわらず、自分の知りたいと思っていたことを、まだほとんど何一つ知ることができないでいるのだ。これにはわたしも今さら驚いた。ただ一つ幾らかはっきりしていることは、叔父が依然として一生懸命わたしに向かって、ぜひ結婚してもらいたいといったことである。してみると、叔父が自分でその婦人に恋しているという正反対の風説は、どうも本当らしく思われない。今でもおぼえているが、わたしは恐ろしくそわそわしていた。その間に、ふとこういうことを考えついた。ほかでもない、自分はここへ来たことによって、また叔父の言葉に対して沈黙を守ったことによって、ほとんど承諾を与えたと等しいことになったのではないか、永久に自分の体を縛ってしまったのではないか。
『実際、人はみんな苦もなく』とわたしは考えた。『永久に自分の手足を束縛するような言葉を、不用意に吐いてしまうものだからなあ。しかも、おれはまだ相手の娘を見たこともないじゃないか!』
 それにまた、この家族全体のわたしに対する敵視というのは、いったいどうしたものだろう? どうしてあの人たちは、叔父さんのいうように、わたしの帰省をそれほど敵意をもって眺めなければならないのだろう? そして、叔父はまた自分自身の家で、なんという奇妙な役割を演じているのだろう? あの秘密めかしい態度は何から出たことだろう? それに、すべてああした恐怖や苦痛は、どういうわけだろう? 実際のところ、わたしはこれらすべてのことが、急に何かしらまるで無意味な、ばかばかしいことに思われ出した。わたしのロマンチックでヒロイックな空想は、現実と接触するが早いか、頭の中からけし飛んでしまった。わたしはいま叔父との会話の後で初めて、彼の立場の間抜けさ加減、とっぴさ加減がはっきりとわかって来た。こういう状態のも