『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『賭博者』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P321-370(二回目の校正完了)

被災者のみなさまへ、精神的に不安定なときに賭博は絶対にしてはいけません。絶対に負けます。

賭博者
――一青年の手記より――
フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキー
米川正夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)焉《えん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)もし|お祖母さん《バブーレンカ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1-8-77]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)野蛮人だから、〔que je suis he're'tique et barbare〕、僧正だろうが、
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

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[#4字下げ]第1章[#「第1章」は中見出し]
 とうとう、わたしは二週間の旅から帰って来た。一行がルレッテンブルグに移ってから、もう三日たっていた。わたしは、みんなが一日千秋の思いで待っていてくれるものとうぬぼれていたが、とんだまちがいだった。将軍はわれ関せず焉《えん》といったような態度を示し、高飛車な調子でふたことみこといったのち、わたしを妹の部屋へさがらせた。彼らがどこかで金を手に入れたのは明白である。それどころか、将軍は私の顔を見るのにいくらか気がとがめるのではないか、とさえも思われたくらいである。マリヤ・フィリッポヴナは恐ろしくそわそわしていて、わたしと話をするのにもあまり実が入らぬ様子であった。それでも金は受け取って、きちんと勘定し、わたしの報告も一部始終聞き終った。彼らはメゼンツォフと、例のフランス人と、それからもうひとり、なんとかいうイギリス人が食事に来るのを待ち受けていた。例の癖で、金ができると、さっそく人を食事に招くのだ。モスクワ流の癖である。ポリーナ・アレクサンドロヴナはわたしの顔を見ると、どうしてああ長くかかったのかときいた。が、返事も待たないで、どこかへ行ってしまった。もちろん、彼女はわざとそうしたのだ。いずれにしても、よく話合いをつけなければならない。随分いろんなわだかまりができたのだから。
 わたしはホテルの四階に小さな部屋を当てがわれた。ここではわたしは、将軍の取巻連中[#「将軍の取巻連中」に傍点]のひとりということに相場を決められているのだ。あらゆる点から見て、彼らは早くも自己宣伝に成功したらしい。ここの人たちはみんな将軍のことを、ロシヤでも指折りの富裕な大貴族だと思い込んでいる。食事の時間になる前に、彼はいろいろな用事といっしょに、千フラン紙幣を二枚両替するようにと、わたしに命じたものである。わたしはホテルの帳場でその紙幣をこまかくした。これで、われわれは百万長者あつかいにされることだろう、少なくとも、まる一週間は確かだ。わたしがミーシャとナージャをつれて、散歩に出かけようとしたところ、階段の上で、将軍のお召しですと呼ばれた。彼は、わたしが子供をどこへつれて行くのか、一応問いただしておくのが至当であると分別したのだ。先生、わたしの顔をまともに見ることが、どうしてもできないのである。実はそれをしたいのだけれども、こちらがいつもじっと穴のあくほど、というのはつまり、相手をくった目付で見返してやるものだから、先生どうやらまごつくらしいのだ。もったいらしい言葉つきで、後から後からご大層な文句を並べながら、結局、すっかりしどろもどろになってしまって、どこかなるべく停車場から離れた公園あたりで、子供たちを散歩させるようにという意味を、わたしに匂わせるのであった。が、とどのつまり、彼はほんとうに腹を立ててしまって、ぶっきら棒につけくわえたものである。
「どうもうっかりすると、きみは子供らを連れて停車場へ行って、ルレットヘ入らないとも限らないからね、失敬だが」と彼はつけくわえた。「きみはまだかなり軽はずみで、どうも勝負事くらいやりそうなのは、ちゃんとわかっているからね。いずれにしても、わたしはきみの監督者でもなければ、またそういう役目を引き受けようという気もないけれど、少なくとも、ひとの顔にかかわるようなことをしてもらいたくない、と希望する権利は持っているわけだからな……」
「いや、しかし、ぼくは金を持っていないんですもの」とわたしは落ち着き払って答えた。「勝負に負けるためには、まず金を持っていなければなりませんからね」
「その金は今すぐあげるよ」と将軍はいささか赤面してそう答えると、自分の仕事づくえの中をひっかきまわし、帳面を調べてみた。すると、私の貰い分がかれこれ百二十ルーブリほど残っていた。「どんなふうに勘定したものかな」と彼は口を切った。「ターレル貨幣に換算しなければならんが。いや、まあ、百ターレルだけ取っといてくれたまえ、はしたは別として、――残金は、もちろん、猫ばばにしやしないさ」
 わたしは無言のまま金を受け取った。
「きみ、どうかわたしのいったことに、腹を立てんでくれたまえ、きみはどうも怒りんぼだからな……わたしがああいうことをいったのは、いわばきみに警告を発したのであって、もちろん、多少はその権利も持っているわけだから……」
 食事の前に、わたしが子供たちを連れて帰っていると、かなりな人数の騎馬の一行に出会った。うちの連中がどこかの城址を見物に行くところであった。美々しい幌馬車が二台に、素晴らしい駿馬の数々! ブランシュ嬢は、マリヤ・フィリッポヴナとポリーナと一つ馬車に乗っているし、フランス人とイギリス人とわが将軍は馬にまたがっている。通行の人々はわざわざ足をとめて、見物している始末、まさに効果は上げられたのだ。ただし将軍は、結局ろくな目を見やしないだろう。わたしの胸算用では、わたしの持って帰った四千フランに、それに将軍が手に入れたらしい金を加えると、いま彼らの懐ろには七八千フランというものがあるわけだが、それだけではブランシュ嬢にとってあまりにも少額なのである。
 ブランシュ嬢も母親といっしょに、やはり、わたしたちと同じホテルに泊まっている。例のフランス人も同様、おなじホテルのどこかに巣くっているのだ。ボーイたちは彼を M-r le comte と呼び、ブランシュ嬢の母親 M-m la comtesse といっている。いや、なに、ほんとうに彼らは伯爵《コント》であり、伯爵夫人《コンテス》であるのかもしれない。
 M-m la comtesse は食事のときいっしょになっても、わたしがだれだか知らないふりをするだろうとは、わたしもちゃんと承知していた。将軍にいたっては、いうまでもなく、わたしたちを引き合せようとは考えもすまい、どころか、わたしの名を紹介しようとさえもしないだろう。M-m la comtesse も自身、ロシヤヘ行ったことがあるから、彼らのいわゆる、outchitel([#割り注]ロシヤ語で「教師」を仏語風に発音したもの、ここでは特に家庭教師を意味する[#割り注終わり])なるものがたいしたしろ物でないことを、知りぬいているのだ。その癖、彼はわたしをよく知っている。もっとも、白状すると、わたしも食事の席へ、まねかれざる客としてはいって行ったのである。どうやら将軍はこの点について、指図をしておくのを忘れたらしい。それでなかったら、わたしを定食《ターブル・ドード》のほうへやったに相違ないのだ。で、わたしがかってにはいって行ったものだから、将軍は不満げにわたしをながめた。人のいいマリヤ・フィリッポヴナは、すぐさまわたしに席をすすめた。しかし、ミスター・アストレイと顔をあわせたことは、わたしを窮境からすくい出した。わたしはおのずから、彼らの仲間に属しているような形になったのである。
 わたしが初めて、この風変りなイギリス人に会ったのは、プロシャであった。それは、わたしが将軍一家の人々に追いつこうとして汽車に乗ったとき、偶然おなじ車中に向かい合ってすわったのである。その次に彼とめぐりあったのは、わたしがいよいよフランスへ乗り込もうという時で、スイスの国境であった。こうして、二週間のあいだに二度も出会ったのだが、――今度は最後に思いがけなくも、ルレッテンブルグでぶっつかったわけである。わたしは今まで、およそこのくらいはにかみやの男に出会ったことがない。まったくばかばかしいほどのはにかみやで、もちろん、当人もそのことを承知しているに相違ない。なぜといって、彼はけっしてばかな人間ではないからである。とはいうものの、彼はなかなか愛すべき男で、もの静かなたちである。初めてプロシャで出会った時、わたしはうまく水を向けて、彼に口をわらせた。その話によると、彼はその夏ノルドカープに行っていたとのことで、そのうちに、ニジニ・ノブゴロドの定期市へ行ってみたくてたまらないのだそうである。この男がどうして将軍と知り合いになったのか知らないが、わたしのにらんだところでは、ポリーナにぞっこんほれ込んでいるらしい。彼女がはいって来た時、彼は夕焼空のようにまっかになったものである。食卓でわたしと並んですわったのが嬉しくてたまらない様子で、もうさっそく、わたしを莫逆の友あつかいにしているふうだった。
 食事の間じゅう、フランス人の先生は鼻持ちがならぬほど容態ぶった。彼はだれに向かっても無造作な態度をとり、いやにもったいぶるのであった。モスクワでも、わたしは彼が駄ぼらを吹きまくったのをおぼえている。彼は財政問題だの、ロシヤの外交政策だのと、やたら無性にしゃべり散らした。将軍は時々、勇をこして異論を挟んだが、――しかし内輪な調子で、単に自分の尊厳を完全に失いつくすまい、という程度にすぎなかった。
 わたしは妙な気分になっていた。食事の半ばころまでに、早くも例によって例のごとき疑問をみずから発したのはいうまでもない。
「なんだっておれはこんな将軍などを相手に、ぶらぶらしているのだ、どうしてさっさとやつらにおさらばをしないのた?」わたしは時おり、ポリーナ・アレクサンドロヴナのほうへ視線をやった。が、彼女はいっこうわたしには気もつかぬ様子である。とどのつまり、わたしはかんしゃくを起こして、八つ当りをしてやろうとはらを決めた。
 まず手始めとして、わたしは何のきっかけもないのにしゃしゃり出て、大きな声で人の話に口をいれた。おもにフランス人の先生とやり合いたかったのである。わたしは将軍のほうへ振り向いて、とつぜん大きな声で、一語一語明瞭に、――しかも相手の話の腰を折ったらしい、――この夏、ロシヤ人はどこのホテルでも定食《ターブル・ドート》に有りつくことがほとんど不可能だといい出した。将軍はびっくりしたような視線をわたしにそそいだ。
「だれだって自己を尊敬する人間だったら」とわたしはさらにしゃべりつづけた。「まちがいなく罵詈雑言を浴せられた上に、ひどい侮辱まで受けなければならないはめになりますよ。パリでも、ラインでも、スイスでさえも、定食《ターブル・ドート》の食堂だというと、ポーランド人とそれに同情するフランス人のやっこさんたちがうようよしているので、もしこっちがロシヤ人だったら、ひとことだって口を出せっこありゃしない」
 わたしはこれだけのことをフランス語でやっつけたのである。将軍は、わたしがこんなにまで前後を忘れたのを怒ったものか、それともただあきれたものかわからないで、当惑したようにわたしをながめていた。
「してみると、あなたはどこかでだれかにお行儀をされたんですな」とフランス人の先生は無造作な、ばかにした調手でいった。
「ぼくはパリでまず最初、ひとりのポーランド人と喧嘩をしましてね」とわたしは答えた。「つぎにはそのポーランド人の尻押しをしたフランスの将校を相手どったものです。ところが、その後で、ぼくがある僧正のコーヒーの中に唾を吐こうとした顛末を話したところ、フランス人の一部は僕のほうの味方につきましたっけ」
「唾を吐こうとしたって?」と将軍はもったいぶったけげんな様子で問い返し、あたりをながめまわしさえしたものである。フランスの先生は腑に落ちぬ顔をして、わたしをじろじろ見まわした。
「正にそうなんです」とわたしは答えた。「ぼくはまる二日間というもの、ひょっとしたら家の用件で、ちょっとローマへ行かなければならぬかもしれないと思い込んでいたので、旅券に査証をしてもらおうと思って、パリに在るローマ法王の駐箚官の事務所へ出かけました。そのとき出て来たのは、年のころ五十そこそこの、しみだらけの顔をした、そっけない安手の坊主でした。くそていねいにぼくのいうことを聴き取ったのはいいが、しかしひどくそっけない様子で、結局すこし待ってくれというのです。ぼくはさきを急いではいたものの、もちろん、待つ覚悟で腰を下ろし『輿論雑誌《オピニヨン・ナシオナール》』を取り出して、ロシヤをくそみそにこきおろした論文を読みにかかりました。とかくしている間に、だれかが隣りの部屋を抜けて、猊下のところへ通って行く足音が耳に入りました。見ると、安手の坊主は、ぺこぺこお辞儀をしているじゃありませんか。ぼくはもう一度、さっきの依頼をくりかえしましたが、相手はさっきよりもっとそっけない調子で、も少しお待ちくださいという。しばらくすると、まただれか知らない男が入って来ました、――むろん、用があって来たのです、――どうやらオーストリヤ人らしかった。用件を聞くと、すぐさま二階へ通しました。それを見ると、ぼくはいまいましくてたまらなくなったものですから、席を立って、坊主のそばへ寄って、猊下は現に接見をしていられる以上、ぼくの用件も片づけたってよさそうなものだ、と断乎たる調子でいってやりました。すると、とつぜんその坊主は、さもさもあきれかえったというように、一歩うしろへすさりました。いったいぜんたいこのやくざなロシヤ人は、どうして自分を猊下のお客様と同列に扱うなんて、生意気な考えが持てるのか、てんから合点がいかなかったのです。で、ぼくを侮辱する機会が与えられたのを快しとするような、思いきって厚かましい態度で、ぼくを頭から足の爪先までじろじろ見まわした後、こうどなりつけるのです。『じゃ、いったいあなたは、猊下があなたのためにコーヒーを飲みさしでおやめになる、とでもおもっておられるのですか?』そのときぼくもどなりつけてやりました。しかも相手よりもっと大きな声でね。『いいですか、ぼくはあんたのありがたがる猊下のコーヒーなんか、唾を吐きかけてやりたいくらいなんだから! もしあんたが今すぐぼくの用件を片づけてくれなけりゃ、ぼくはじき猊下のところへ押しかけて行きますぞ』『えっ! いま法王枢機員《カルジナル》が来ていらっしゃるのに!』坊主は愕然として、ぼくのそばから身をよけながらこう叫んで、戸口のほうへ走って行ったかと思うと、大手を広げて、ぼくを中へ入れるくらいなら、むしろ死んだがましだ、といったそぶりを見せたものです。
「その時、ぼくは答えてやりました。ぼくは異教徒で野蛮人だから、〔que je suis he're'tique et barbare〕、僧正だろうが、法王枢機員だろうが、猊下だろうが、なんだろうがかんだろうが同じことだ。ひと口にいえば、わたしはてこでも動かないという気組を見せたのです。坊主は言葉につくせぬ憤怒の面持ちでぼくをにらみつけたものの、とど旅券を引ったくって二階へ持って行きました。それから間もなく、査証はちゃんとできてしまいました。これです。ご覧になりませんか?」
 ぼくは旅券を取り出して、ローマ法王の査証を見せた。
「きみそれは、しかし……」と将軍はいいかけた。
「あなたは自分から野蛮人だ、異教徒だと名乗ったので、それで助かったんですよ」とフランスの先生はにたにた笑いながら口を出した。「〔Cela n’ e'tait pas si be^te〕(それはさほどばかげてもいませんな)」
「いったいわれわれロシヤ人をそんなふうに見ていいものですか? そのロシヤ人たちは現にここに控えていて、ぐうの音も出ないでいるんです。おそらくみんな、自分たちがロシヤ人だってことを否定しかねないいきおいでしょうよ。少なくともパリでは、ぼくの泊まっているホテルでは、ぼくがその坊主と喧嘩した顛末を話した時、ぼくにたいするみんなの態度がずっと注意深くなりましたよ。定食《ターブル・ドート》の席でぼくを目のかたきにする筆頭第一の男だったふとっちょのポーランドの紳士は、影が薄くなって、ワキ役に引きさがってしまいました。フランス人の連中ときたら、十二年([#割り注]一八一二年、ナポレオンのロシヤ侵入をさす[#割り注終わり])の役に、あるフランス猟兵が、ただ装填した弾丸を片づけてしまいたいばっかりに、ひとりのロシヤ人に鉄砲をぶっぱなしたが、その撃たれた男をぼくが二年前に見たという話をした時にも、黙って聞き流したくらいです。その男というのは、当時やっと十二の子供でした。家族がモスクワを引き上げる暇がなくて、まごまごしていたのでね」
「そんなことはあり得ない」とフランスの先生はかんかんになっていった。「フランスの兵隊が子供に向かって、鉄砲をうつはずがない!」
「ところが、そうだったんですよ。この話はね、れっきとした退職大尉がぼくにして聞かせたので、その人のほおにその時の弾丸の傷痕が残っているのを、ぼくはちゃんと見ましたからね」
 フランスの先生は早口に、ぺらぺらまくし立て始めた。将軍はその肩を持ったが、わたしは彼に向かって、まあ、せめて、例えば、ベローフスキイ将軍の手記の断片でもお読みになるがよろしい、と勧告しておいた。それは、十二年の役でフランス軍の捕虜になった人である。とどのつまり、マリヤ夫人が論争をもみ消すために、何かほかの話をはじめた。わたしがフランス人を相手に、もう大きな声でどなり合わんばかりだったので、将軍はわたしに対して大いに不満な様子であった。しかし、ミスター・アストレイは、わたしとフランス人との論争がはなはだお気に召したらしく、食卓を立つとき、一杯やりに行こうじゃないかと、わたしに誘いをかけた。
 その晩方、やっと期待したとおり、わたしはポリーナ・アレクサンドロヴナと、十五分ばかり話をすることができた。ふたりの会話は、散歩の途上で交されたのである。みんなで『停車場を指して、公園へはいって行った。ポリーナは噴水の前のベンチに腰をおろし、ナージャはあまり遠くないところで、ほかの子供たちといっしょに遊ばせた。わたしも、ミーシャを噴水のほうへやった。こうして、わたしたちはようやく差し向かいになれたのである。
 まず口切りとなったのは、実際問題だったことはいうまでもない。わたしはポリーナにたった七百グルデンしか渡さなかったので、彼女は頭から腹を立ててしまった。わたしに託したダイヤモンドを抵当にしたら、パリから少なくとも二千グルデンか、あるいはそれ以上持って来てもらえるものと、彼女は当て込んでいたのだ。
「あたし何がなんでもお金が入り用なのよ」と彼女はいった。「だから、それを手に入れなくちゃならない。さもないと、あたしの身は破滅よ」
 わたしは、自分の留守中にどんなことが起ったかを、あれこれとたずねはじめた。
「ペテルブルグから二つのたよりが届いた、ただそれっきりだわ。初めはお祖母さんがたいへん悪いという手紙でね、それから二日たって、もうなくなんなすったという知らせが来たらしいの。それはね、チモフェイ・ペトローヴィッチが知らせてくだすったのよ」とポリーナはつけ加えた。「あの方はきちんとした人だから。みんないよいよの確報を待っているところなの」
「じゃ、ここではみんな期待を持っているわけですね?」とわたしはたずねた。
「もちろんよ、みんな、だれも彼も。まる半年の間、ただこれ一つだけを当てにしていたんじゃありませんか」
「で、あなたも当てにしています?」とわたしはたずねた。
「だって、あたしはあのひとの親戚でもなんでもないじゃありませんか。あたしはただ将軍の継娘っていうだけよ。でも、あたしはね、お祖母さんが遺言状に、あたしのことをもらしてはいらっしゃるまいと、確信しているんですの」
「ぼくは、あなたの貰い分もずいぶんたくさんあるような気がしますよ」とわたしは相手の言葉を確かめるようにいった。
「そう、お祖母さんはとてもあたしをかわいがってくだすったもんですわ。でも、どうしてあなた[#「あなた」に傍点]そんな気がなさるんでしょうね?
「ねえ、一つうかがいますが」とわたしは問いをもって答えた。「例の侯爵もやっぱり、お宅の家庭の秘密をすっかりうち明けられているように思われるんですが?」
「ところで、あなたはなんだって、そんなことに興味をお持ちになるんでしょう?」とポリーナは厳しい、そっけない目つきで、わたしをじろりと見てたずねた。
「興味を持たないでなんとしますか。ぼくのにらんだところがまちがっていないとすれば、将軍はもうさっそくあの侯爵から金を借りたに相違ない」
「あなたのにらみはなかなか正確ですこと」
「さあ、そこで、もし|お祖母さん《バブーレンカ》のことを知らないとすれば、あの男だって、なんの、金なんか貸すものですか。あなた、気がおつきになりましたか。侯爵は食事のときお祖母さんの話をしながら、三度もバブーレンカといいましたよ、la baboulenka って。なんて隔てのないなれなれしい態度でしょう」
「ええ、てっきり図星よ。お祖母さんの遺言で、あたしもいくらか貰えたってことがわかったら、あの人はさっそくあたしに結婚を申し込んでよ。いったいあなたはそのことが知りたかったんですの」
「え、やっとこれから申し込むんですかね! ぼくはもうとっくに申し込んでいるのだと思ってましたよ」
「そんな話がないってことは、あなたは百も承知してらっしゃるくせに!」とポリーナはむっとしていった。「あなたはどこであのイギリス人に出くわしなすったの?」つかのまの沈黙ののちに、彼女はこうつけくわえた。
「ぼくちゃんとわかっていましたよ、今すぐあの男のことをおききになるに違いないって」
 わたしは、以前旅行の途上で、二度も彼に出会った次第を話した。
「あれははにかみやで、ほれっぽい男なんですよ、そしてもちろん、さっそくあなたにほれ込んでしまった」
「そう、あの人はあたしに恋してますわ」とポリーナは答えた。
「そして、彼があのフランス人より十倍も金持ちなのは、もういうまでもない。いったいどうなんです。ほんとうに、あのフランス人はなにか財産といったものを持ってるんですかね? そこに疑問の余地はないですか?」
「ありませんわ。あの人、何か城館《シャトー》みたいなものがあるんですの。昨日も将軍があたしに、きっぱりそうおっしゃったわ。え、どう、これで得心なすって?」
「ぼくがあなただったら、ぜひあのイギリス人と結婚するんだがなあ」
「なぜ?」とポリーナはたずねた。
「フランス人のほうは男っぷりはいいけれど、下劣です。ところが、あのイギリス人は正直なばかりでなく、おまけに十倍も金持ちなんですからね」とわたしはずばりといってのけた。
「そう、でもフランス人のほうは侯爵で、そして頭がいいわ」と彼女は落ちつき払って答えた。
「へえ、そりゃ確かでしょうか?」とわたしはいぜんたる調子でつづけた。
「正真正銘そのとおり」
 ポリーナはわたしの質問がひどく気にくわないので、その語調ぜんたいと返答ぶりの乱暴さとで、わたしをいらだたせようというはらでいるのを、こちらもちゃんと見て取った。で、わたしはさっそくそのことを彼女にいってやったものである。
「それがどうなの、ほんとうよ。あたしはね、あんたがかんかんになって怒るのがおもしろいんだわ。第一、あんたがそんな質問をしたり、そんな当推量をしたりするのを、黙ってさし許してあげるんですもの、それだけだって、あんたは当然の償いをしなくっちゃならないわけよ」
「ぼくはまったくのところ、あなたにどんな質問だってする権利があるものと、そう心得ていますがね」とわたしは平然として答えた。「というのはほかでもありません、それに対しては、どんな償いだってお望みどおりにする覚悟だし、自分の命なんか、今なんとも思ってやしませんからね」
 ポリーナは声高に笑い出した。
「あなたは、この前、シュランゲンベルグでそういいましたね。あたしがひと言命令したら、あなたは崖からまっさかさまに身を投げて見せるって。あそこはどうやら千フィートくらいもありそうだったわね。あたしいつかはそのひと言を口から出してよ。それはただね、あなたがどんなふうに報いを受けるか、見てあげたいがためなの。どうぞご心配なく、あたしはちゃんと意地を通してお目にかけますから。あたし、あなたが憎らしいの、それっていうのも、あたしがあなたにあまり多く許しすぎたからだわ。それに、あなたって人が、あたしに取ってなくてならない人だから、それで余計に憎らしいのよ。でも、今のところ、あなたはあたしにとってなくてならない人なの、――あたしあなたを大事にとっておかなくちゃならないわ」
 彼女はそろそろ腰をもち上げかけた。彼女の話ぶりはいらだたしげな口調であった。近頃、彼女はわたしと話をするたびに、いつも毒々しい、いらだたしげな語調で言葉を結ぶのであった。それは真から憎々しげな調子だった。
「ひとつおたずねしますが、ブランシュ嬢というのはいったいなにものです?」話をはっきりさせずに彼女を手放したくなかったので、わたしはこうたずねた。
「ブランシュ嬢が何者かってことは、ご自分で先刻承知してらっしゃるくせに。あれ以来、別に何も新しい情報は加わらなかったんですもの。ブランシュ嬢はきっと将軍夫人になってよ。もちろん、お祖母さんのなくなったって噂がほんとうだとわかったらですがね。だって、ブランシュ嬢も、そのお母さんも、又従兄《またいとこ》の侯爵も、あたしたちが身代限りをしたってことを、みんなよく知ってるんですもの」
「で、将軍はいよいよ首ったけなんですか?」
「今そんなことが問題じゃなくってよ。よくって、ちゃんと耳の穴をほじくって聴いてちょうだい。あなたこの七百フロリンのお金をもって、ルレット場へ勝負をしにいらっしゃい。そして、できるだけたくさん儲けてくるのよ。今あたしは何がどうあろうとも、お金が入り用なんですから」
 こういい棄てて、彼女はナージェンカを呼んで停車場のほうへ行った。そこで、彼女は家の人たちといっしょに落ち合った。わたしはまた、物思いに沈み、内心おどろきあきれながら、行き当りばったりの道を右へ折れた。ルレットをやりに行けという命令を聞いて、わたしは頭をがんとやられたような気がしたのだ。不思議にも、ほかに思案しなければならぬことがあるにもかかわらず、私はどうしたものか、ポリーナに対する心持ちの分析に、すっかり気を取られてしまったのである。正直なところ、わたしは帰宅第一日という現在よりも、離れていた二週間のほうが軽い気持ちで過ごせた。もっとも、わたしは旅行中まるで狂人のように悶え悩み、逆上したように走り狂い、夢の間にも絶えず彼女の姿を見つづけたものである。一度などは(それはスイスだったが)汽車の中で、どうやら寝言にポリーナに話しかけたらしく、同じ車内に乗り合せていた旅客一同を、すっかり笑わせてしまったほどである。そこで今、わたしはまたもや自分で自分にむかって、おれはいったいあの女を愛しているのだろうか? と問いかけた。すると、またしても、それに答える勇気がなかった。というよりむしろ、おれは彼女を憎んでいると、今まで百回もくりかえして来たことを、もう一度自分に答えたのである。そうだ、彼女はわたしにとって、憎むべき存在であった。どうかすると(正確にいえば、それはいつもわたしたちの会話の終りごろである、)彼女を絞め殺すことができたら、自分の生涯の半分は投げ出してもいい、という気がするのであった! 誓っていうが、もし彼女の胸にゆっくりと鋭い刃物を突き刺すことができたら、わたしは喜んでその凶器に手をかけたに違いない。ところが、同時に、この世にあるほどの聖なるものに賭けて誓うが、もしあの当節はやりの遊覧地、シュラングンベルグの見晴らし台で、彼女がほんとうに『この崖から身をお投げなさい』といったならば、わたしはすぐさま飛び込んだに相違ない、しかも喜びさえ感じながら決行したであろう。わたしにはそれがわかっている。とまれかくまれ、これはなんとか解決されなければならぬ。彼女はこうしたいっさいのいきさつを、驚くばかり的確に理解しているのだ。そして、彼女がわたしにとって、しょせん近よることのできない存在であり、わたしの妄想がとうてい実現さるべくもない夢にすぎないことを、わたし自身よくはっきりと承知している、――そう意識することによって、彼女は名状すべからざる快感を覚えるに相違ない、それはわたしの確信して疑わぬところだ。さもなくば、あれほど用心ぶかくて聡明な彼女が、どうしてああなれなれしい、うち明けた態度を取るはずがあろう? わたしの感ずるところでは、彼女は自分の奴隷の目の前で裸になった昔の女王と同じような気持ちで、いまだにわたしをながめているらしい。女王は奴隷を人間扱いにしていなかったのだ。そうだ、彼女もわたしを人間扱いにしなかったことが幾度あったかもしれない。
 それにしても、わたしは彼女から依頼を受けている、――何がどうあろうとも、ルレットで金をもうけなければならないのだ。なんのために、どれくらいの時間内にその金を儲ける必要があるのか、また年じゅう打算に明け暮れしている彼女の頭の中に、どんな新しい思惑が浮かんだのか、わたしはとやかく思案している暇がない。のみならず、わたしのいなかった例の二週間のうちに、わたしの夢にも知らぬはかりしれない新しい事実が加わったことは明瞭である。こうした様様なことをもれなく察し、残りなく見抜いてしまわなければならぬ。それも出来るだけ早急に。しかし、さしあたり今のところは暇がない。ルレット場へ行かなければならぬ。
[#4字下げ]第2章[#「第2章」は中見出し]
 正直なところ、これはわたしにとって不愉快千万だったのである。わたしはルレットの勝負をやってみようとははらを決めていたのだが、他人のためはそれを始めようという気はさらさらなかった。それがために、わたしはむしろいささか面くらった形で、むしゃくしゃ腹で賭博場へはいって行った。場内は一目見るなり、何もかもが気に入らなかった。わたしは世間一般の、とりわけわがロシヤの新聞の雑俎欄をみたしている下男根性がいやでたまらない。わが雑俎欄の記者たちはほとんど毎春、主として二つのことをぎょうさんに書き立てるのだ。第一は、ライン地方のルレット都市に建てられている賭博場の、世にも稀なる絢爛豪華な有様であり、第二は、そこのテーブルの上に積み上げられているとかいう金貨の山である。彼らは別段それがために報酬を貰うわけではない。ただなにということなく、無私無欲な追従気分で書き立てるのだ。こういったふうなやくざな賭博場には、絢爛豪華なんてところはみじんもないし、金貨にいたっては、テーブルの上に山のごとく積み上げられているどころか、やっとちょっぴり置いてみる程度だ。もちろん、時おりひょっとすると一シーズンの間に、思いがけなくどこかの変り者が、イギリス人かアジヤ人、例えば、この夏のようなトルコ人が現われて、突如どえらい大金を儲けたり、負けたりすることもあるが、その他の連中はだれも彼も、わずかのグルデン金貨で勝負を争うきりなので、平均したところ、いつもテーブルの上には、少しばかりの目腐れ金が載っているだけである。わたしは賭博場へはいった時(へその緒切って以来初めてなのだ、)しばらくの間はまだ勝負を始める決心がつかなかった。それに、群集がひしめいて、あがきが取れなかったのだ。しかし、よしんばわたしがひとりだけしかいなかったにもせよ、その時だって、わたしは勝負を始めるよりも、むしろそのまま去ってしまったろうと思う。白状すると、わたしは胸がどきどきして、冷静を保つことができなかったのである。このまま無事にルレッテンブルグを去ることはできない。必ず何かわたしの生涯を根本からくつがえすような、取り返しのつかぬことが起るにちがいない。ということ[#「ない。という」はママ]は、自分でもしかと承知していた。もうとっくにそう決め込んでいたのだ。それは必然なのだ、きっとそうなるに相違ない。わたしがルレットというものから、かくまで多くのものを期待しているのが、いかにこっけいだからといっても、勝負事になんらかの期待をかけるのは、おろかなばかばかしい沙汰であるという、一般に公認されている月並な意見のほうが、わたしにはもっとこっけいに思われる。しかし、なぜ勝負事はほかの金儲けの方法、たとえば、まあ、商売などに比べて劣っているのだろう? なるほど、これで金を儲けるのは、百人の中のひとりにすぎない。が、それがわたしにとってどうしたというのだ?
 いずれにもせよ、わたしはこの晩まず様子を見るだけにして、大きな試みはいっさいしないことにきめた。今晩はたとえ何かことが起るにしても、ほんの偶然のちょっとしたことでなければならない、――そうわたしははらをきめた。その上に、勝負そのものをも研究しなければならぬ。というのは、わたしはつね日頃、ルレットのことを書いた本を、幾千となくむさぼるがごとく読破したけれども、自分の目で見るまでは、その組立をまるっきり何一つ理解していなかったからである。
 第一に、わたしは何もかもひどくけがらわしいものに思われた、なんだか精神的にいやな、けがらわしいような気がするのだ。わたしはあえて、幾十人、いな、幾百人となく賭博台を取り囲んでいる人々の、貪欲な落着きのない顔のことをいっているのではない。少しも早く余計に儲けようという望みの中に、何かけがらわしいものが含まれているなどとは、わたしは毛頭かんがえていないのである。腹いっぱい食べあきた、明日の日のことに心配のない道徳家先生が、たれかの[#「たれかの」はママ]ことを弁護するために、『何しろ勝負が小さいんだからね』と答えたという話だが、そうした考え方はわたしの目から見ると、いつもばかばかしく思われた。欲望がちっぽけなだけになおさらいけないのだ。物欲なんてものは、小さかろうが大きかろうが、別にかわりもないのに、それがわからないかのようである。そんなことはただ相対的な問題にすぎないのであって、ロスチャイルドにとって些細なものも、わたしにしてみれば巨額なものになるのだ。ところで、賭博とか金儲けとかいう点になると、人間はよしんばルレットをやらないまでも、始終お互い同士うばいあったり、巻き上げあったりして、そんなことを仕事のように心得ているではないか。はたして金儲けや賭博がけがらわしいものかどうかとなると、それはおのずから問題が別である。が、ここではわたしは解決をあたえないことにする。何分、わたし自身が博奕でひと儲けしたいという野心で、うつつを抜かしているのであってみれば、こうした物欲のけがらわしさとかいうものは、このホールへはいった時からして、なんだかわたしにはうってつけのもので、親しみがあるように思われた。お互い同士になんの遠慮もなく、みんな公然と明けっぴろげにやっているのは、何より嬉しいものである。それにまた、なんだってみずから欺く必要があろう? これこそ実につまらぬ、引合わない仕事だ! ことに一見して醜く思われるのは、ルレットに集ったこの有象無象が、この勝負に対して尊敬の色を浮かべ、まじめなうやうやしい態度でテーブルを囲んでいることである。そこで、この世界にあっては、どんなやり口がmauvais genre(下等)であり、どんな勝負の手口がれっきとした人間にとって恥ずかしくないかということが、截然と区別されている次第である。ここでは勝負が二種類に分かれていて、一は紳士ふうとされ、他は平民ふう、すなわち物欲を主とした一般有象無象のやり口である。この二つは厳然と区画されているが、その区画たるや、実際のところ下劣きわまるのだ! 紳士は、例えば、ルイドル五枚ないし十枚、まれにはそれより以上の金を賭けることができる。もし金満家なれば、千フラン賭けてもさしつかえないけれど、要するにそれは勝負のため、単なる楽しみのためでなければならぬ。ひとえに、それは勝負の経過を見んがためにすぎないのであって、断じて儲けそのものに興味を持ってはならない。もし勝負に勝ったら、例えていえば、からからと高笑いするなり、周りのだれかにちょっと感想をもらすなり、あるいはさらにつづけて賭けるなりして、さしつかえない。それどころか、賭金を二倍にしたってかまわないのだ。しかし、それはただただ好奇心のためでなくてはならない。偶然《チャンス》の観察のため、計画のためであって、金儲けがしたいなどという平民根性から出たものであってはならない。ひと口にいえば、すべてこうした賭博台とか、ルレットとか trente et quarante(三十四十)とかいうことは、ただ自分のご機嫌を取り結ぶために設けられた娯楽である、といったふうにしか見てはいけないのだ。胴元の基礎となり骨組となっている物欲や、その手段をなしている罠などというものは、そのようなものが存在していることすら疑って見てはいけない。例えば、もしほかの賭博者たち、一グルデン二グルデンのことで、一喜一憂している有象無象が、みなひとりのこらず、自分と同じような金満家であり紳士であって、ただ気晴しと楽しみのために勝負を試みているのだ、というふうに思われたとすれば、それはむしろ大いに結構なくらいである。こういったような現実に関するまったくの無知、人間にたいする無邪気な見方は、この上もなく貴族的なものであるこというまでもない。わたしは現に自分の目で見たが、良家の母親でありながら、罪のない可憐な十五六の令嬢を前の方へ押し出して、幾枚かの金貨をその手ににぎらせながら、わが子に勝負の仕方を教えている人も少なくないのだ。令嬢は勝つなり負けるなりするが、必ず例外なしに、にこにこしながら、さも満足そうにそこを離れて行く。うちの将軍がもったいぶった様子で、堂々と賭博台に近づいて行った。ボーイが飛んで行っていすをすすめたが、将軍はボーイなどに目もくれない。ゆうゆうと長いことかかって金入れを取り出し、ゆうゆうと長いことかかって金入れの中から三百フランの金貨を取り出して、それを黒に賭けたところ、彼の勝ちになった。彼は儲けた金を取らないで、そのままテーブルの上にほうっておいた。その次もまた黒が出た。彼は今度も金を取らなかった。ところが、三度目には赤が出たので、将軍はいっきょにして千二百フランをふいにしてしまった。が、彼はにっこりほほえんでテーブルを離れ、りっぱに男らしいところを見せた。彼も胸の中はやきもきしていたに相違ないので、もし賭金が二倍も三倍も大きかったら、彼もああ男らしい態度をとりきれないで、興奮を表にあらわしただろうと、わたしは確信して疑わない。わたしの見ている前でひとりのフランス人が、ほとんど三万フランからの金を、はじめ勝ってそれから負けてしまったが、さも楽しそうな様子で、いささかも興奮したようなところがない。ほんとうの紳士というものは、たとえ自分の全財産を賭博で負けてしまっても、興奮などすべきではないのだ。金銭なるものは、それほど紳士道から低いところに位するものであって、そのようなものに心を悩ます価値はほとんどないのである。もちろん、こうした有象無象や、それから全体にあたりの情景のけがらわしさを、てんで頭から無視してかかったら、それこそ大いに貴族的な態度というべきであろう。もっとも、時としてはその反対の態度も、これに劣らず貴族的だということができる。つまり、こういった有象無象を眼中に入れる、いいかえればじっと観察する。例えば、柄付眼鏡さえも取り出して、仔細に点検するのである。ただし、これらの群集、これらの塵あくたのような連中を一種の気晴しと見なし、紳士たちのお慰みに設けられた見世物のように扱ってしまうのでなければならぬ。みずからこの群集の中にはいり込むのはさしつかえないけれども、しかし自分は単なる観察者であって、決してその一分子ではないという、確たる信念を持ってながめる必要がある。とはいうものの、あまりじっと穴のあくほどながめる必要もないのだ。そうすれば、これまた非紳士的な態度になってしまう。なぜといって、かかる光景はいずれにしても、あまりむきになっていっしょうけんめいに観察する価値がないからである。また概して、紳士たるものが、あまりむきになって観察するに値するような場景は、そうざらにあるものではない。ところで、わたし自身の見るところをもってすれば、これらすべての場景は、大いにむきになって観察する価値があるのだ。特に、単なる観察のためのみにやって来たのではなく、誠心誠意みずからをこの有象無象の一分子と認めているものにとっては、なおさら然りである。が、わたしの心の奥底に秘めた大切な道徳的信念に関する限りでは、今ここに述べた考察など、かかる信念に縁もゆかりもないこともちろんである。それはもうそれに違いないとしておこう。これは自分の良心を静めるためにいっておくのだ。しかし、次のことだけは断わっておかねばならぬ。最近わたしは自分の行動や思想を、たといいかなるものにもせよ、道徳の秤にかけてみるということが、なぜかいやでたまらないのだ。それとは違ったものが、わたしという人間を支配しているので……
 有象無象は、事実まったくきたない勝負の仕方をする。それどころか、この台のそばでは、ごくありふれた窃盗行為が、ふんだんに行なわれている、という考え方さえもあえて否まないくらいである。台の四隅に控えている監督たちは、賭けた金を目でしらべたり、勝負を計算したり、中々たいへんな忙しさである。それ、また有象無象がやって来た! それは概してフランス人なのだ。もっとも、わたしがこうして観察したり、頭に留めたりしているのは、決してルレットの勝負を描写せんがためではない。わたしはただ将来いかに行動すべきかについて、自分の参考にするために、気を留めておくだけのことだ。例えば、次のような場合に心づいた。テーブルの陰からだれかの手がにゅっと伸びて、人の儲けたものをわしづかみにする、といったようなできごとは、ごくごくありふれたことなのである。そこで、争論が始まる。どなり合うこともまれではない、――もうこうなると、儲けた金が自分のものだということをいくら証明しようたって、証人をさがして来たって追っつくものではない!
 はじめの間、こうした場景はわたしにとっていっさいちんぷんかんぷんであった。それぞれの勝負が、あるいは数の賭であり、あるいは丁半《ちょうはん》の、あるいは色の賭であるということは、ようやくそれと想像がつくだけであった。かろうじて判別することができる程度にすぎなかった。ポリーナから預かった金のなかから、わたしは今晩、百グルデンだけ賭けてみることにはらを決めた。わたしは自分自身のためでなく、人のために初めて勝負に手を染めようとしているのだと考えると、妙に当惑したような気持ちになるのであった。その感覚が、並一通りならず不快なものだったので、わたしは一刻も早く厄介払いがしたくなった。ポリーナのために皮切をするのが、現在自分の幸福に穴を掘っているような気がしてしようがなかった。いったい賭博というものは、その台に触れるや否や、さっそく迷信にかぶれずには済まされないのだろうか? わたしはまず手始めとして、五フリードリッヒ・ドルだけ、というのは、五十グルデンだけ取り出して、丁と賭けた。円盤は一と周りして、十三が出た。――わたしは負けたのだ。なにか病的な感覚をいだきながら、ただなんとかして厄介払いをして出てしまいたいばかりに、わたしはまた五フリードリッヒ・ドルを赤に賭けた。すると、今度は赤が出た。わたしは有金ぜんぶ、つまり、十フリードリッヒ・ドルを賭けたところ、また、赤が出た。四十フリードリッヒ・ドルをうけ取ると、わたしはどうなることやらおさきまっくらで、二十フリードリッヒ・ドルをまん中の数の十二に賭けた。そこでわたしは三倍の儲けを受け取った。こういった次第で、わたしは十フリードリッヒ・ドルを資本にして、思いもかけず八十フリードリッヒ・ドルの金が手に入った。何かしら世の常ならぬ奇怪な感触のために、どうにもこうにもいたたまれぬ気がして来たので、わたしは思いきって帰ってしまおうと決心した。もし自分自身のためにやったなら、これとはまるっきり別な賭け方をしただろうと感じた。にもかかわらず、わたしは八十フリードリッヒ・ドルをぜんぶ残らず、もう一度丁に賭けた。と、今度は四と出た。私はまたもや八十フリードリッヒードルをざくざくと山のように積み上げてもらった。で、合計百六十フリードリッヒ・ドルの山をかき込むと、わたしはポリーナをさがしに外へ出た。
 みんなはどこか公園の中を散歩していたので、わたしはようやく夜食のテーブルについた時、彼女と顔を合すことができた。その時はフランス人がいなかったので、将軍は羽をのばしていた。何かの話のついでに、彼はまたしてもわたしに向かって、きみが賭博をやっているところなどは見受けたくないものだ、と注意せずにいられないのであった。彼の意見によると、もしわたしがあまりひどい負け方をすると、はなはだしく将軍の顔にかかわる、というのである。
「だがね、よしんばきみが大儲けに儲けたとしても、その時だって、大いにわたしの顔がつぶれることになるがね」と彼は意味ありげにつけくわえた。「もちろん、わたしはきみの行動を左右する権利などもってはいないけれど、それにしても、きみ、わかってくれるだろうが……」そういったまま、彼はいつもの癖で、しまいまでいわなかった。わたしはそっけない調子で、自分は金などほんのわずかしか持っていないから、たとえ賭博を始めたにせよ、大して目に立つほど負けることはできないわけだ、とこたえた。二階の部屋へ帰ると、わたしは隙を見て、ポリーナに彼女の儲けを渡し、もう二度と彼女のために勝負をするのはお断わりだと言明した。
「まあ、なぜですの?」と彼女は不安げにたずねた。
「なぜって、自分自身のためにやってみたいからですよ」とわたしはあきれて、彼女の顔をじろじろ見まわしながら答えた。「ところが、あなたの代りを勤めると、じゃまになりますもの」
「じゃあなたは相変らず、ルレットこそあなたにとって唯一の逃路で救いだと、えこじに思い込んでいらっしゃるの?」と彼女はあざけるように問い返した。
 わたしは大まじめで、そうですとも、と答えた。わたしがぜひとも儲けてみせると信じきっているという点に至っては、こっけいであろうとなんだろうとかまったことはない。「ただぼくの勝手にさせといてもらいたいんです」
 ポリーナは、今日の儲けを是が非でもふたりでやまわけにしようといい張って、八十フリードリッヒ・ドルをわたしにさし出し、今後ともこの条件で勝負をつづけるように申し出た。わたしはその半金を断然きっぱりとはねつけて、自分が他人のために勝負をしたくないというわけは、そうするのがいやだからではなく、きっと負けるに相違ないからだと言明した。
「そう、でもね、ばかげきったことかもしれなにいけど、あたし自身がやはり同じように、ほとんどこのルレット一つだけに望みをかけているんですの」と彼女は物思わしげにいった。「ですから、あなたは是が非でも引きつづいて、あたしと組んで勝負をしてくださらなくちゃだめよ、それに、――もちろん、そうしてくださるに相違ないわね」
 こういったと思うと、わたしがさらに抗議をつづけるのを耳にも入れず、彼女はわたしのそばを離れてしまった。
[#4字下げ]第3章[#「第3章」は中見出し]
 しかも、そのくせ、彼女は昨日まる一日、賭博のことについては、わたしにひと言も口をきかなかった。それに、概して、昨日はわたしと話すのを避けるようにしていた。わたしに対して前から取っていた彼女の態度は別に変りがなかった。出会うたびにいぜんとして、無造作きわまる応対ぶりを示すのみか、どことなく軽蔑したような、憎々しそうなそぶりさえ見えるのだ。総じて、わたしに対する嫌悪の色を隠そうとも思わない。わたしにはそれが見え透いている。にもかかわらず、またわたしという人間が、なぜか彼女のために必要であって、ある目的のためにわたしを大事にとっておくのだ、といった気持ちをも隠さないのである。ふたりの間には何か妙な関係ができあがっているが、わたしに対する彼女の傲慢不遜な態度を照し合せてみると、この関係は多くの点においてわたしの腑に落ちないのだ。例えば、彼女はわたしが夢中になるほど彼女に恋していることを承知しているのみか、わたしの感情を彼女に語ることすら許しているが、――しかし、もちろん、かくべつじゃまもしないで、無遠慮に自分の愛を彼女に語るのを許すということ以上に、己れの侮辱をわたしに表現してみせるうまい方法などまたとはあるまい。『つまりね、あたしはあんたの感情なんか、てんで頭から問題にしていないんだから、あんたがあたしの前で何をいったって、あたしにどんな感情をいだいていたって、あたしにしてみれば、それこそまったく同じことなのよ』彼女は前からわたしに向かって、いろいろ自分のうち明け話をして聞かせたものだが、しんから腹の底までうち明けたことはかつてない。それのみか、わたしにたいする彼女の投げやりな態度は、例えば、つぎのような微妙な陰影を帯びているのだ。かりに、わたしが、彼女の生活に関連したある事情か、さもなくば、彼女をひどく困惑さしている事柄を承知しているのを、彼女のほうでも心得ているとする。その時、もし何かの目的のために、わたしを奴隷として、ないしはまた走り使いとして利用する必要があったなら、彼女はむしろみずから進んで、その事情の一端をわたしに話して聞かせる。しかし、それはかっきり、走り使いに利用される人間として知らなければならぬ範囲にとどめておくのであって、たとえわたしがまだ事件ぜんたいの関連を知らずにいても、またわたしが苦痛と不安に悩み悶えているのを自分の目で見ていても、友達らしくうち明けて、わたしを十分に落ち着かせようなどとは、金輪際することではない。じっさい、厄介千万なばかりでなく、危険さえ伴なうような仕事にわたしを使うこともまれではないのだから、そのわたしに腹の底をうち明けるのは、彼女の義務ですらあるのだ。しかし、なに、わたしの気持ちなど心配する値うちがあるものか、彼女の労苦と失敗を気にして、わたしまで同じようにやきもきしているどころか、むしろ当の彼女より、三倍もやきもきして苦しんでいるからって、そんなことに心を労する価値がどこにあろう!
 わたしは三週間も前から、彼女がルレットで勝負を争おうという意図を持っていることを承知していた。それどころか、彼女は自分で賭博をするのは体面にかかわるから、代理としてわたしに勝負をさせるということを、前もって予告したくらいである。その言葉の調子からしてわたしはすぐその時、こいつはただ金を儲けたいという望みばかりでなく、何か真剣な心配事があるのだな、と見て取った。彼女にとって金自体がそもそもなんであろう! そこには何か目的がある。そこにはなにか事情がある。それはうすうす察しることはできても、今日まで的確に知ることができないでいる。もちろん、彼女がわたしを屈辱的な奴隷状態に置いているのであってみれば、その状態は、無作法にまっこうから根掘り葉掘りきく可能性を、わたしにさずけてくれるはずである(またきわめてしばしば授けてくれたのだ)。わたしは彼女の目から見れば、一介の奴隷であり、あまりにも取るに足らぬ存在であるから、わたしが無作法な好奇心を起したからとて、彼女として腹を立てるせきはないのだ。しかし、困ったことには、彼女はわたしに質問をさせておきながら、それに対して返事をしないのである。どうかすると、まるで質問を無視してしまうこともある。わたしたちの関係は、まあ、こういった具合なのだ!
 昨日は、もう四日まえにペテルブルグへ打った電報のことで、一同の間にいろいろと話が出た。それにたいしてまだ返事がないのである。将軍は目に見えて興奮し、もの思いに沈んでいた。問題はいうまでもなく、お祖母さんに関してである。フランス人も同様に興奮していた。早い話が、昨日なども、彼らは食後に長いこと、きまじめに話し込んでいたものだ。われわれ一同に対するフランス人の調子は、法外に高慢ちきで、無造作きわまるものである。これこそ正に、食卓の前にすわらしたら足まで上に載っける、という諺を生地でゆくやつだ。ポリーナにたいしてすら、無作法に近いほどざっくばらんである。もっとも、家族一同の停車場散歩にも、団体乗馬にも、市外遠足にもよろこんで参加する。わたしはこのフランス人と将軍を結びつけた事情についても、多少耳にしていることがある。ロシヤにいる頃、彼らは共同である工場を起すつもりだったのだ。その計画がご破産になったものか、それともまだ話が続いているものか、そこのところは分からない。しかし、それどころの騒ぎではないのだ、わたしは偶然、家庭の秘密の一部をかぎつけてしまった。まったくこのフランス人は、去年、将軍を窮地からすくい出したのである。というのは、将軍が勤務についているころ、官金に手をつけたので、その穴埋めのために職務の引渡しの時、三万ルーブリの金を用立ててやったのだ。そこで、将軍が金縛りにかけられたのは申すまでもない。しかし、今は、ほかならぬ今この時は、事件ぜんたいについて主役を演じているのは、なんといってもマドモアゼル・ブランシュである。この点でもわたしは眼鏡ちがいをしていないと信じている。
 いったいマドモアゼル・ブランシュとは何者か? ここの人たちのいうところによれば、彼女は由緒のあるフランス婦人で、莫大な財産をもっており、いつも母親と離れずにいるとのことである。また同様に、彼女が例の侯爵と、なにか親類筋に当るということも知れていた。ただし、非常に遠い親戚で、又従兄妹《またいとこ》とか半従兄妹《はんいとこ》とかである。噂によると、わたしがパリヘ行くまでは、フランス人とブランシュ嬢とは、今よりずっと行儀ただしい態度をとっていた、どことなく上品な、デリケートな応対ぶりを示していたということである。ところが、今は彼らの関係、友情、親類付合などが、妙に作法ぬきといったような、なれなれしい形で、露出されてきた。あるいは、将軍一家の財政状態があまりにも紊乱したものとして彼らの目に映ったので、ふたりはわれわれに遠慮して仮面《めん》をかぶっている必要がない、と認めたのかもしれない。つい一昨日、わたしはミスター・アストレイがブランシュ嬢とその母親をまじまじと見まもっているところを見つけた。彼は、この母親を知っているらしいふうであった。それのみか、わがフランス人も、以前ミスター・アストレイと顔を合せたことがあるらしく思われた。もっとも、ミスター・アストレイはひどく内気で、はにかみやで、口数の少ない男だったから、この男なら大丈夫、内輪のあくぞもくぞを明るみにうちまけたりする気づかいはない。少なくとも、フランス人は彼に対して会釈もするかしないかで、ほとんど見向きもしないくらいだから、してみると、この男を恐れていない証拠である。が、それはまだ頷けるとしても、なぜブランシュ嬢までが彼に目もくれないのだろう? ましてつい昨日、侯爵が重大なことをうっかり口外したばかりなのだから、なおさら変に思われる。一同なにかの話をしている時、フランス人は出しぬけに、どういう話のきっかけだったか覚えていないけれど、ミスター・アストレイは大した金満家だ、自分はよくそれを知っている、といい出したのである。これを耳にした以上、ブランシュ嬢も、ミスター・アストレイに一瞥を与えてしかるべきではないか! 概して、将軍は不安の状態にある。今の彼にとって、伯母の死に関する電報がいかなる意味を有するかは、察するに難くない次第である!
 ポリーナが何か魂胆でもあるらしく、わたしとの会話を避けようとしているのは、必ずまちがいなし、とわたしはにらんだのであるが、わたし自身も冷淡な平然たる態度を装っていた。なんだか始終、今にも彼女のほうからわたしに近づいて来そうな気がして仕方がなかった。そのかわり、昨日と今日は、いっさいの注意をわたしはブランシュ嬢に向けた。かわいそうな将軍、いよいよ身の破滅だ! 五十五といういい年をして、あれほど激しい恋をするのは、もちろん不幸に相違ない。なおその上に男やもめという境涯、子供たち、紊乱した財政、借金、そして、最後に、恋などするようなはめになった相手の女、などをつけ足してみるがいい。ブランシュ嬢は美人である。だが、もしわたしがこんなふうにいったら、読者はわたしの言葉を理解してくれるだろうか、――彼女の顔は驚愕を感じさせるような顔の一つである。少なくも、わたしはつねにかような女を恐れていたのだ。
 彼女はたしかに二十五前後らしい。発育のいい女で、いかつい広い肩をしている。頸筋から胸のあたりの豊満さ。皮膚は小麦色をしており、髪の色は墨のように黒く、しかも、その髪がおそろしく多い。髷でも結ったら、二つ分はたっぷりだろう。目は黒いが、白目の部分は黄みがかって、その眼ざしは高慢ちきである。歯は雪のように白く、くちびるにはいつも紅がさしてある。そのからだからは、麝香の匂いがしている。みなりは豪奢で、いきで、効果に富んでいるが、深い趣味を見せている。手や足は素晴らしいものである。声は渋みを帯びたコントラルト。彼女は時おり大笑いに笑い崩れて、その拍子に歯をすっかり見せることがあるけれども、たいていは無言のまま傲慢げな顔つきをしている、――少なくともポリーナやマリヤ・フィリッポヴナの前ではそうである。(奇怪な噂がある、マリヤ夫人がロシヤヘ帰るというのだ)。わたしの見るところでは、ブランシュ嬢はまるっきり無教育で、おそらく頭さえよくないらしいが、その代り食えないところがあって、狡猾である。彼女の生涯には、なんといっても、多少の波乱がなくもない、とわたしはにらんでいる。なにもかもぶちまけていってしまうならば、もしかしたら、侯爵はてんから彼女の親戚でもなんでもなく、母親もまるで母親ではないかもしれないのだ。しかし、情報によると、われわれが初めてこの連中に邂逅したベルリンの土地では、彼らも多少れっきとした家庭と付き合っていたとのことである。当の侯爵はどうかというに、彼が本物の侯爵かどうかという点については、わたしは深い疑念をいだいているものの、彼が、たとえば、わがモスクワでも、ドイツのそこかしこでも、相当な社交界に属しているということは、疑うわけにいかないのだ。この男、フランスではそもそも何者であるか、わたしは知らない。人の話では、城館を持っているということだ。この二週間のあいだに大きな変化が起るだろうとわたしは考えていたが、ブランシュ嬢と将軍の間に何か決定的なことが語られたかどうか、いまだにわたしはたしかなことを知らないでいる。とまれかくまれ、今やいっさいは挙げて将軍一家の財産にかかっている、いい換えれば、将軍が彼らにまとまった金を見せることができるかどうかなのだ。早い話が、もしお祖母さんが死ななかったという知らせでも来ようものなら、ブランシュ嬢がさっそく姿を消してしまうだろうということは、わたしの信じて疑わないところだ。しかし、わたしは何という金棒引きになったものか、われながら驚くべきことであり、こっけいな次第でもある。ああ、こういったいっさいのことが、わたしにはどんなにいとわしいかしれやしない! わたしは無限のよろこびをいだきながら、いっさいの人、いっさいのものを捨てていったに相違ない! しかし、いったいわたしはポリーナのかたわらを去ることができるだろうか、果してわたしは彼女の身辺でスパイ的行為をせずにいられるだろうか、スパイ的行為は、もちろん、卑劣なことに相違ない、が、――わたしにとってそれがどうしたというのだ?
 昨日から今日にかけて、ミスター・アストレイもわたしにとって、同様興味ふかい観察の対象だった。さよう、わたしは固く信じているが、彼はポリーナにほれている! はにかみやで、病的なほどうぶな男が恋心にとりつかれた時、――別して、当人が自分の恋心を言葉なり眼ざしなりで表現するよりも、いっそ穴があれば地の下にでも消えてしまいたいくらいに思っているとき、その目がどれほど千万無量の思いを現わし得るものか、それこそ、興味ふかい観察の対象でもあれば、また、こっけいでもある。ミスター・アストレイは、よく散歩の途上でわたしたちに出会う。彼は帽子を取ってかたえを通りすぎるが、もちろん、わたしたちの仲間に入りたくてたまらないのだ。ところが、もしこっちから来いといえば、必ず辞退する。休憩所とか、停車場とか、奏楽場とか、噴水の前とか、そういう場所では、彼はきっと、わたしたちのベンチから程遠からぬところに立ちどまる。そして、わたしたちがどこにいようとも、――公園であろうと森の中であろうと、ないし、シュラングンベルグであろうと、ちょっと目を上げてあたりを見まわしさえすれば、必ずまちがいなくどこか小径の上なり、茂みの陰なりに、ミスター・アストレイの片影を見ることができるのだ。特に、彼はわたしと話をする機会を求めているらしく思われる。今朝、わたしたちは途中で行き会って、ふたことみこと言葉を交わした。彼はどうかすると、妙に引っちぎったような物のいい方をする。まだ「今日は」もいわない先から、彼はまずこう切り出したものだ。
「ときに、ブランシュ嬢ですね! わたしはあのブランシュ嬢みたいな婦人をたくさん見ましたよ!」
 彼は意味ありげにわたしをながめながら口をつぐんだ。それでもって何をいおうとしたのか、わたしにはわかりかねる。「それはなんのことです?」というわたしの問いに対して、彼はずるそうな微笑を浮かべながら、一つうなずいて、「なに、ただもうそれだけのことなんです」とつけくわえたのみである。
「m-lle Pauline はひどく花がお好きでしょうか?」
「知りません、いっこうに知りませんね」とわたしは答えた。
「えっ? あなたはそんなこともごぞんじないのですか!」と彼はあきれはてた様子で叫んだ。
「知りません、いっこうに気がつきませんでしたよ」とわたしは笑いながらくりかえした。
「ふむ! それでわたしは一つ特別なヒントを得ましたよ」
 こういって、彼は一つうなずいて見せ、さっさと向うへ行ってしまった。が、それでも満足したらしい様子であった。わたしたちはひどいフランス語で話したのである。
[#4字下げ]第4章[#「第4章」は中見出し]
 今日はこっけいな、見ぐるしい、ばかげた日であった。今は夜の十一時である。わたしは自分の小部屋にすわって、回想しているところだ。まず最初のスタートは、今朝ポリーナのためにルレットの勝負を試みるべく、よんどころなく出かけたことである。わたしは百六十フリードリッヒ・ドルをそっくり彼女から賭金として預かったが、しかし、それには二つの条件があった。第一は、儲けを山分けなどということはわたしとしていやだから、もし儲けがあったにしても、自分ではびた一文とらないということ、第二には、ポリーナはいったいなんのためにもうけなければならないのか、また、いくら金がいるのか、そのわけを晩わたしに説明して聞かせるということである。なんといっても、それがただ金のためだなどと想像することは、わたしとしてできかねるのであった。察するところ、そこには金がどうしてもなくてはならぬ事情があるらしい、しかも、できるだけ早くいるというのは、何か特別な目的のためだろう。彼女は説明を約束したので、わたしは出かけて行った。
 賭博場のホールはおそろしい群集だった。だれも彼もなんという厚顔さだ、そして、だれも彼もなんという貪欲さだ! わたしはまん中へ割り込んで、監督のすぐそばに立った。やがて金貨二三枚ずつ賭けながら、小心翼々と勝負を始めた。とかくする間にわたしはつぎのようなことを観察し、結論した。ほかでもない、計画とか予想とかいうものには、実際のところ大した意味はなく、それは多くの賭博者が考えているような重大性を有していない。彼らは罫をひいた紙を手に持って、当りに注意したり計算したり、チャンスを割り出したり、予想したりしたあげく、金を賭けるのだが、それでも、無成算に勝負をやっているわれわれ平凡人と同じように負けている。しかし、そのかわり、わたしは一つの結論を引き出したが、それはどうやら当っているように思われる。三四回、偶然のチャンスがくりかえされるその経過のうちに、一つのシステムとはいわれないまでも、何かある順序とでもいったようなものが、確かにかくされているのだ、――それはもちろん、奇妙なことに違いない。たとえば、中の十二([#割り注]初めの十二は一から十二まで、中の十二は十三から二十四まで、末の十二は二十五から三十六までをいう[#割り注終わり])のあとで、末の十二が出ることがある。かりに、この下の十二に二度当りが出ると、今度は初めの十二に移る。初めの十二が当ると、また中の十二に移り、三四回中の当りがつづいて末の十二に転ずる。それが二回くりかえされると、初めの十二に移るのだが、初めのところはまたしても一回きりで、再び中のところで三回当りがくりかえされる。といったような調子が、一時間半ないし二時間つづくのである。一回、三回、二回。一回、三回、二回という順で、実におかしいようだ。ある日、もしくは、ある朝などは、たとえば、こんなことがある。ほとんどなんの順序もなく、赤が出たかと思うと黒に代り、今度はその逆を行くので、二三回つづけて、赤なり黒なりが当るということがないのだ。ところが、つぎの日もしくはつぎの晩には、たとえば、赤ばかりが二十二回もぶっつづけに当る。この調子がしばらくの間、どうかすると、まる一日くりかえされることがある。ミスター・アストレイは、この問題をいろいろとわたしに説明してくれた。彼は、午前中、賭博テーブルのそばに立っていたが、自分では一度も賭けなかった。わたし自身はどうかというに、きれいさっぱり、しかもほんのわずかな間に、はたき上げてしまった。わたしはいきなりあっさりと、二十フリードリッヒ・ドルを丁に賭けたところ、わたしの勝になったので、もう一度同じところへ賭けてみた。すると、またぞろ勝った。こんなふうでなお二三度くりかえした。わたしの手の中には、ものの五分くらいの間に、かれこれ四百フリードリッヒ・ドルばかり流れ込んだように思う。そのとき帰ってしまえばよかったのだが、わたしの心の中には何かしら、奇妙な感じがわいてきた。それは、運命への挑戦とでもいったようなもので、運命の神の鼻を爪で撥いてやりたいような、舌でもぺろりと出してやりたいような気持ちなのだ。わたしは自分に許された最大限の賭金、すなわち四千グルデン張ったところ、まんまと取られてしまった。それでかっとなって、残りの金をありったけ引き出して、同じところへ賭けた。すると、またもや負けてしまった。で、茫然自失したもののように、テーブルのそばを離れた。わたしは自分がいったいどうなったのかさえ無我夢中で、ポリーナに事の顛末を報告したのも、やっと食事の直前であった。それまで、わたしはいつまでも公園をうろつきまわっていたのである。
 食事の折、わたしは三日前とおなじように、興奮した気分に襲われていた。フランス人とブランシュ嬢は、またわたしたちといっしょに食事をした。聞いてみると、ブランシュ嬢は今朝、賭博場のホールにいて、わたしの奮闘ぶりを目撃したそうである。今度は彼女も、いつもより注意深い態度でわたしに話しかけた。フランス人のほうは、ぶしつけに、いったいあなたは自分の金を賭けて負けたのかとたずねた。わたしの見たところでは、先生ポリーナを臭いとにらんでいるらしい。要するに、そこには何か一物あるに相違ない。わたしは言下に答えて、自分の金だとうそをついてやった。
 将軍は、わたし風情がどこでそんな金を手に入れたのかと、びっくりぎょうてんしてしまった。わたしは説明して聞かせた、――まず最初は十フリードリッヒ・ドルから振り出して、六回か七回ぶっつづけに倍、倍と賭けてゆき、ついに五六千グルデンまでこぎつけたが、最後の二回で、すっからかんになってしまったのだ、と。
 この話はそっくり何から何まで、いかにもほんとうらしく思われた。わたしはこんなふうに説明しながら、ちらとポリーナの顔を見やったが、その表情はさっぱり見分けがつかなかった。が、とにかく、彼女はわたしがうそをつくに任せて、別に訂正しようともしなかった。そこでわたしは、ははあこいつはうそをつくほうがよかったので、彼女の代理に勝負をした顛末を隠す必要があるのだな、と結論した。いずれにしても、彼女はわたしに対して説明の義務を有しているのだ、先ほども何かのことをうち明けると約束したのだから、とはらの中で考えていた。
 わたしは、将軍が何か意見めいたことをいうだろうと待ち受けていたが、じっと黙ったままであった。が、その代り、彼の顔には興奮と不安の色が読まれた。おそらく、せっぱつまった事情に置かれた彼としては、わたしみたいな無考えなばかの手に、わずか十五分ばかりの間にうず高い金貨の山が流れ込んで、またたちまち流れ出していったという話を聞くのが、ただもう苦しかったのかもしれない。
 どうもわたしのにらんだところでは、昨夜、将軍とフランス人の間に、なにかひどいいさかいが起ったらしい。ふたりは部屋に閉じこもったまま、長いこと熱くなって話していた。フランス人はどうやらかんしゃくでも起したらしい様子で立ち去ったが、今朝はまた早々と将軍のところへやって来た。――おそらく昨日の話のつづきをやるためだろう。
 わたしがルレットで金をすってしまったと聞いて、フランス人は厚かましい、というよりむしろ毒々しい調子で、もっと分別というものがなくてはだめだ、と注意した。それから、なんのためだかしらないけれども、ロシヤ人でルレットをやるものは多いが、自分にいわせれば、ロシヤ人などは賭博の素質すら持っていない、とつけくわえた。
「ところが、ぼくにいわせれば、ルレットというやつは、専らロシヤ人のためのみにつくられたものですよ」とわたしはいった。
 フランス人はわたしの言葉にたいして、たださげすむような薄笑いを浮かべただけであった。そこでわたしは、自分のいうことはそれこそもうまちがいがない、なぜというに、自分がロシヤ人を博奕打と呼ぶのは賞めるというよりも、むしろ大いに罵倒しているわけだから、したがって自分の言葉を信じて可なりなのだ、といってやった。
「あなたはいかなる根拠があって、そういう意見をいだいていられるのです?」とフランス人は反問した。
「ほかでもありません、文化の進んだ西ヨーロッパ人の徳性と品位の経典には、富の獲得の能力というやつが、歴史的に、そしてほとんど何よりも重大な要点として、数え上げられています。ところが、ロシヤ人は富の獲得の能力がないばかりか、なにか、こう、むやみやたらに不体裁なくらい金を浪費する。にもかかわらず、われわれロシヤ人だって、やはり、金は入り用です」とわたしはつけくわえた、「その結果、たとえばルレットみたいに、てっとり早く二時間ばかりのあいだに、労せずして富をつくり得るような方法を歓迎して、その誘惑にかかりやすいのです。でもね、われわれはむやみやたらに、骨を折らないで勝負をやるものだから、結局は負けてしまう!」
「そいつはある程度、正鵠をうがっていますな」とフランス人は自己満足の調子で口を挟んだ。
「いや、それは正鵠どころじゃない、現在自分の祖国のことをそんなふうに批評するのは、きみとして恥ずべきこってすぞ」と将軍は声を励まして、肺腑にしみるような口調でいった。
「とんでもない」とわたしはやりかえした。「だって、まったくのところ、ロシヤ式の不体裁とドイツ式の正直な労働による貯蓄の方法と、どちらがそもそもよりけがらわしいか、まだはっきりわかっちゃいないじゃありませんか?」
「なんという醜悪な思想だ!」と将軍は叫んだ。
「実にロシヤ的な思想ですなあ!」とフランス人は絶叫した。
 わたしはからからと笑った、この連中にしゃくの虫を起させてやりたくてたまらなくなった。「ぼくは一生涯、キルギーズ人の天幕《テント》馬車で放浪してまわったほうがましです、――ドイツ式な偶像に頭を下げるよりかもね」
「なんの偶像だって?」と将軍はもうむきになって、怒り出しながらわめいた。
「ドイツ式な富の蓄積の方法ですよ。ぼくはここにたいして長くいたわけではありませんが、しかしそれでも、ぼくがここで観察し点検した事実だけでも、ぼくの中にある韃靼人の血を煮え立たせるのに十分です。まったくのところ、ぼくはあんな善行なんか真平です! 昨日、ぼくはこの近郊をぐるりと、十露里ばかり歩きまわって見ましたが、いや、何もかもドイツの絵入修身読本にあるのと、そっくりそのままです。ここではどこへ行っても、それぞれの家に自分の父親がいて、そいつがおそろしく善行に充満しており、やりきれないほど清廉潔白なんです。その清廉ぶりといったら、そばへ寄るのもおっかないくらい。ぼくは、そばへ寄るのもおっかないような清廉な人間ががまんできないのです。こうした父親のひとりひとりには自分の家族があって、夜ごと夜ごと彼らは教育的な書物を朗読する。その小家の屋根のうえでは、楡《にれ》や栗の木がざわざわと音を立てています。そして、落日、屋根にとまった鸛《こうのとり》、何もかもすばらしく詩的で、しおらしいのです……将軍、どうか腹をお立てにならないで、もっとしおらしい話をさしてください。こういうぼくにしても、なくなった父が小さな庭の菩提樹の下で、毎晩、ぼくや母親にそういったような本を読んで聞かせたのを覚えています……だから、ぼくはこういう事になると、いっぱし講釈ができるんですよ。さて、かような次第で、今いったようなこの国の家族はみんな父親《ファーテル》に服従して、奴隷みたいになりきっているのです。みんな牛のように働いて、みんなユダヤ人みたいに金をためている。かりに父親が、そくばくのグルデン金貨をためたとすると、もうさっそく長男を目あてにして、自分の家業なり、猫の額のような土地なりを、この息子に譲ろうと目算を立てる。それがために、娘には持参金などつけてやりはしない。おかげで娘は行かず後家になってしまう。またそれがために、弟息子は年季奉公か兵隊にやられて、その金は家の財産に加えられる。まったくです、ここではみんなそのとおりにやっているんです。ぼくはあっちこっちきいてみたんですからね。それというのも、ほかではない、清廉潔白から出たのです。清廉潔白のあまりにやることなので、それがこうじると、弟息子も、自分はほかならぬ清廉潔白のために身売りされたのだ、と信ずるまで立ち到るのです。それはもはや理想であって、犠牲自身が生贄《いけにえ》に捧げられるのをよろこんでいる始末なのです。さて、それからさきは? それからさきは、長男にとっても決して有難くないことがおっぱじまる。長男には、心と心を許し合ったアマリヘンとかなんとかいう女がいるのだけれども、まだいくらいくらのグルデン金貨がたまっていないから、夫婦になるわけにいかない。で、ふたりは殊勝にも、正直一途に辛抱して待っている。顔にはほほ笑みを浮かべながら、生贄にささげられるというわけです。アマリヘンはもうほおがこけてしなびはじめる。ようやく二十年もたつうちに、財産もどうやら太ってきて、予定のグルデン金貨が潔白な、徳行的な方法で貯蓄された。父親は四十面さげた長男と、乳がしなびて鼻の赤くなった三十五のアマリヘンを祝福する……祝福しながら、泣いて訓誡を授けて、死んでゆく。長男は、今度は自分が有徳の父親になって、そこで、再びおなじいきさつがくりかえされていくのです。こうして、五十年、七十年もすると、最初の父親の孫が、今度こそほんとうにかなりな財産をつくり上げて、自分の息子に譲る、その息子は自分の息子に、そのまた息子は自分の息子に譲る、といった調子で、五代か六代目には、ロスチャイルド男爵とか、ホッペ家とか、いや、まあ、だれだってかまやしない、そういったものが出現するのです。さあ、いかがです、まったくあっぱれな見ものじゃありませんか。百年なり、二百年なり、代々ひきつづいて勤労、忍耐、分別、清廉潔白、意気地、堅忍不抜、見通し、屋根の上の鸚《こうのとり》! そもそもこの上なにがお入り用です? もうこれ以上に高尚なものはないはずでしょう。そこで、彼ら自身も、この観点から世間ぜんたいを裁きはじめ、悪いやつらは、といって、ほんの毛筋ほどでも自分たちに似ないものは、たちまち刑罰に処するというわけです。さあ、まずこういった次第です。だから、ぼくはそれよりいっそロシヤ式に放蕩でもやるか、ルレットで大儲けでもしたい気持ちになりますよ。ぼくは、五代後のホッペ一家なんかには、なりたくないんです。ぼくはぼく自身のために金がいるので、自分というものを、何か財産を構成するのに必要な付属物と見なすわけにはいきません。ぼくはずいぶん駄ぼらを吹きましたね。それは自分でも承知していますが、まあ、今いったとおりとしておきましょう。これがぼくの信念なんだから」
「きみのいったことに、どれだけの真理があるか知らないが」と将軍はものおもわしげにいった。「ただはたのものがちょっとでも油断して、きみを勝手に夢中にならせておくと、きみはやりきれないほどの怪気焔を上げるようになった、それだけはたしかだね……」
 彼はいつもの癖で、しまいまでいわなかった。わが将軍はほんの少々でも、ありふれた日常会話より意味のあることをいい出そうとすると、必ず途中でしりきれとんぼになるのであった。フランス人はいささか目をまるくしながらも、無頓着をよそおってきいていた。彼はわたしのいったことが、ほとんど何一つわからなかったのだ。ポリーナは高慢ちきな無関心の色を浮かべていたが、この晩、食卓で語られたことは、てんでなんにも耳に入れていなかった。
[#4字下げ]第5章[#「第5章」は中見出し]
 彼女はなみなみならぬ物思いに沈んでいたが、一同食卓を離れるや否や、さっそくわたしに、散歩に行くからついて来てくれと命令した。わたしたちはふたりの子供をつれて、公園の噴水のほうへと足を向けた。
 しかし、わたしはかくべつ興奮していたので、いきなりぶっつけに、ばかげた無作法な質問をたたきつけた。「なぜあのド・グリエ侯爵(フランス人先生)は、今あなたが外へ出るというのに、ついて来ないばかりか、この二三日、まるっきりあなたと口さえきこうとしないのです?」
「それは、あの人が卑劣な人間だからです」と彼女は奇怪な返答をした。
 今まで彼女の口から、ド・グリエをこんなふうに評した言葉を聞いたことがないので、わたしはこうしたいらだたしさの原因を突きとめるのを恐れて、黙っていた。
「あなた気がおつきになりましたか、あの男が今日、将軍と仲たがいしてるようなのに?」
「あなた、それがどういうわけか知りたいんでしょう」と彼女はそっけないかんの立った声で答えた。「あなただってごぞんじでしょう、将軍が何もかもすっかり、――ありったけの領地をあの人に担保に入れてるってことは。だから、もしお祖母さんが死ななかったら、あのフランス人は担保に取ったものを、さっそく残らずわがものにしてしまいますわ」
「ああ、それじゃやっぱりほんとうなんですね、全部担保にはいってるってことは? ぼくもうすうす聞いてはいたけれど、全部なにもかもってことは知らなかった」
「でなくってどうします?」
「そうなると、ブランシュ嬢はおさらばですね」とわたしはいった。「そうなると、あのひとは将軍夫人になりっこなしだ! ねえ、どうでしょう、ぼくの見るところでは、将軍は首ったけほれ込んじまってるから、もしブランシュ嬢に捨てられたら、おそらくピストル自殺くらいやりますよ。あの年で、ああいうほれ方をするのは危険ですからね」
「あたしもやっぱり、何か事が起りそうな気がしてなりませんの」とポリーナは物思わしげにいった。
「しかし、どうも結構なこってすね」とわたしは叫んだ。「あの女がただ金のためのみに結婚を承諾したってことを証明するのに、それ以上無作法な方法はないでしょう! そこには世間並みの体面というものさえ守られていないんですからね、体裁も何もあったものじゃない。たいしたものだ! ところで、お祖母さんのほうですね、あとからあとからと電報をうって、まだ死なないかときくなんて、これ以上こっけいな、これ以上けがらわしい話がまたとあるでしょうか?え、いかがです、ポリーナ・アレクサンドロヴナ?」
「そんなこと、みんなつまらない話ですわ」と彼女はわたしをさえぎって、忌まわしげにこういった。「あたしそれよか、かえって、あなたがそんなに大浮かれに浮かれてらっしゃるのが、不思議なくらいよ。いったい何か嬉しいんですの? まさかあたしの金を勝負ですってしまったからじゃないでしょう?」
「じゃ、なぜぼくに任せてすらしたんです? ぼくはちゃんとそういったじゃありませんか、人のために勝負をすることはできないって、ましてあなたのためにはなおさらです! ぼくはあなたから何を命令されても服従しますが、ただ結果はぼくのままにならないですからね。ぼく、前もっておことわりしておいたでしょう、結局ものにならないって。いかがです、あなたはあれだけの大金をなくしたので、ひどくしょげてらっしゃるんですか? なんのためにそんな大金がいるんです?」
「なんだってそんなことをおききになるんですの?」
「でも、あなたご自分から、説明して聞かせると約束なすったじゃありませんか……実はぼくこんなふうに罹信してるんですよ、ぼくが自分のために博奕をはじめたら(ぼくはフリードリッビ・ドルを十二枚もってるんです)きっと勝つに相違ない、と。その時は、いくらでもご入用なだけ取ってください」
 彼女は軽蔑したような顔つきをしてみせた。
「こんなことを申し出たからって」とわたしは言葉をつづけた。「どうか怒らないでください。ぼくは自分という人間があなたの前へ出ると、つまりあなたの目から見て、まったくゼロにもひとしい存在だという考えが骨の髄にしみ込んでいるものだから、あなたはぼくの手から金さえも取ってかまわない、とこんなふうに思っているんです。ぼくから贈物をもらったからって、あなたは腹など立てる筋はありません。おまけにぼくはあなたの金を勝負ですったんですもの」
 彼女はちらとすばやくわたしのほうを見た。そして、わたしがいらいらした皮肉たっぷりの様子で話しているのに気がつくと、またもや話頭を転じた。
「あたしの事情をお聞きになったって、面白いことなんかなくってよ。もしどうしても知りたいとおっしゃるのなら、あたし借金がある、ただそれだけなの。あたしお金を借りたものだから、それを返したいと思って。あたしね、ここの賭博台の上できっと勝てるに相違ないという、妙なきちがいめいた考えが頭にこびりついていましたの。なんだってこんな考えがわいたのか知らないけど、あたしそれを信じきっていたんですの。もしかしたら、ほかに選ぶべき道がなかったから、それでひたすら信じたのかもしれませんわ」
「それとも、是が非でも[#「是が非でも」に傍点]もうけなくてはならなかったかもわかりませんね。それはちょうど、おぼれるものがわらしべにつかまるのと同じわけでしょう。ねえ、そうじゃありませんか、もしおぼれかかっていなければ、わらしべを木の枝とまちがえるはずがないでしょう」
 ポリーナは一驚を喫した。
「まあ、いったい」と彼女は問いかけた。「そういうあなたが、あたしと同じことを当てにしてらっしゃるのじゃなくって? いつだったか二週間ほどまえに、あなたご自分の口から、長いこといっしょうけんめいに、ここのルレットで金もうけをする確信があるって、あたしをつかまえてしゃべってらしったじゃありませんか。そして、どうか自分をきちがいあつかいにしないでくれと、しきりにお頼みになったでしょう。それとも、あの時の話は冗談でしたの? でも、あたしの覚えているかぎりでは、あなたの話しっぷりはとても真剣で、なかなか冗談などとは受け取れませんでしたわ」
「それはまさしくそのとおりです」とわたしは考え深げにいった。「ぼくは今でも、金もうけができると完全に確信しています。それどころか、ぼくは進んで白状しますが、あなたは今、ぼくの頭に一つの問題を誘導してくれましたよ。今日ぼくの喫した無意味な見苦しい敗北が、どうしてぼくの心にいささかの疑惑も残さなかったのでしょう? ぼくはなんといっても固く信じています。ぼくは自分自身のために賭博を始めたら、たちまちまちがいなしに勝って見せますよ」
「どういうわけで、そんなに固く信じきってらっしゃるんですの?」
「たってとおっしゃれば申しますがね……いや、わかりません。ぼくにわかっているのは、どうあっても[#「どうあっても」に傍点]勝たなければならない、それはぼくにとってもたった一つの救いだ、ということです。そう、あるいはつまりそれがために、必ず勝たなければならないような気がするのかもしれませんね」
「してみると、あなたもやっぱり是が非でも[#「是が非でも」に傍点]必要なんだと見えますね、そんなに狂信者みたいに、信じきってらっしゃるところを見ると?」
「もしまちがったら首でもあげますが、ぼくに真剣な必要を感じる素質があるってことを、あなたは疑っているんでしょう?」
「そんなこと、あたしにとって、どちらだって同じことですわ」とポリーナは低い声で、無関心に答えた。「でも、なんならいいましょう、――ええそうよ[#「ええそうよ」に傍点]、あなたが何にもせよ真剣なことで苦しむなんて、あたし怪しいとおもうわ。あなただって、苦しむことはできるでしょうけれど、真剣な苦しみ方はできなくってよ。あなたはまだほんとうにできあがっていない、混沌とした人間なんですもの。あなたなんか、なんのためにお金がいるんでしょう? あの時、あなたはいろんな理屈をお並べになったけど、あたしの目に真剣らしく見えるようなことは、一つだってありゃしなかったわ」
「ときに」とわたしはさえぎった。「あなたは、借金を返さなくちゃならないとおっしゃいましたね。きっと結構な借金でしょうよ! あのフランス人に借りたんじゃありませんか?」
「まあ、なんて質問ぶりでしょう? あなたは今日、特別とげとげしてらっしゃるわね。もしか酔ってらっしゃるんじゃなくって?」
「ぼくが時とすると、なんでも思いきってむき出しにものをいったり、問いかけたりするのは、あなたもご承知でしょう。くりかえして申しますが、ぼくはあなたの奴隷ですからね、奴隷に対して羞恥を感じるものはありませんよ、奴隷は人を侮辱することなんかできやしません」
「そんなこと何もかもつまらないわ! あなたのそういったふうな『奴隷的理論』が、あたしがまんできないの」
「お断わりしておきますが、ぼくが奴隷云々というのは、何もあなたの奴隷になりたいがためではなくて、ただぼく自身の力でどうにもならない事実として話しているんです」
「なぜあなたはお金が入り用なんですの、まっすぐに白状なさいよ」
「じゃ、なぜあなたはそんなことを知りたいんです?」
「なんとでもお好きなように考えてちょうだい」と彼女は答え、傲然と頭《こうべ》を反らした。
「奴隷的理論はがまんできないくせに、奴隷的屈従を要求なさるんですね。『すなおに返答すればいいんだ、理屈をこねるんじゃない!』ってわけですね。よろしい、そういうことにしましょう。いったいなぜお金がいるのかとおききになるんですね? なぜもくそもありません! 金はいっさいじゃありませんか!」
「そりゃわかっててよ。でも、いくらお金がほしいからって、そんなきちがいめいたところまで落ち込むことはありませんわ! だって、あなたは夢中になるほど、宿命論になるほど深入りしてらっしゃるんですもの。そこには何か曰くがあるわ、何か特別な目的があるんだわ。まわりくどいことは抜きにして、きれいさっぱりといっておしまいなさい、あたしそうしてほしいの」
 彼女はどうやら腹を立ててきたらしい。彼女がこんな具合にむっとした様子で詰問するのが、わたしはたまらないほど好きなのであった。
「もちろん、目的がありますとも」とわたしはいった。「しかし、それが果してなにかってことは、ぼくにはうまく説明ができないです。つまり、金があれば、ぼくはあなたに取っても奴隷ではなく、別個の人間になる。ただそれだけのこってすよ」
「まあ? どうしてあなたは、その目的をお達しになるつもり?」
「どうして達するかですって? ぼくはあなたに奴隷としてでなく、別様の目で見てもらいたい、それをいかなる方法で達成するかという問題ですが、あなたはそれさえおわかりにならないんですか! さあ、それがぼくいやなんですよ、そうしたさもおどろいたような、合点がいかぬといったような顔つきが!」
「あなたは、その奴隷的屈従が快楽だとおっしゃったじゃありませんか。あたし自分でもそう思っていましたわ」
「あなたもそう思っていられるんですって!」とわたしは一種奇怪な快感を覚えながら叫んだ。「ああ、あなたからそういう素朴さを見せてもらうのは、じつにうれしいですねえ! いや、そうですとも、そうですとも、ぼくにとっては、あなたから奴隷扱いされるのが快楽なのです。たしかに、たしかに、屈辱と卑下のどんづまりに快感がありますよ!」とわたしはうわ言をつづけた。「なあに、その快感はむちの中にあるかもしれやしない、むちが背中に食い込んで、肉をずたずたに引きちぎるときにね……しかし、ぼくはもしかしたら、まだ別の快感を望んでいるかもしれませんよ。さっき将軍は食事の時、あなたのいる前で、きみはまだ年七百ルーブリの俸給さえわしからもらえないかもわからないんだぞといって、一場の教訓を授けてくださった。ド・グリエ侯爵は眉を上げて、ぼくの顔をじろじろ見たが、それと同時に、ぼくの存在を無視していたものです。ところが、ぼくはぼくで、あなたを目の前にすえておいて、ド・グリエ侯爵の鼻をつまんでやりたくてたまらなかった!」
「いかにも青書生のいいそうなことね。人はどんな立場にあっても、自分の品位をおとさないような態度がとれるものですよ。もしそこに闘争があれば、それは品位をおとすどころか、かえって高めるくらいだわ」
「習字手本の教訓そっくり! まあ、こういうことを仮定してみてください。ぼくは事によったら、自分の品位をおとさないような態度のとれない人間かもしれないんです。いや、ぼくはおそらくりっぱな人間であるかもわからないけれど、品位をおとさないような態度がとれない。こいう[#「こいう」はママ]こともあり得るってことは、あなたもわかってくださるでしょう? それに、ロシヤ人はだれも彼もみんなそうなんです。またなぜそうなのかごぞんじですか。ほかでもない、ロシヤ人はあまり豊富に多面的な天賦をうけているので、ちょっくらちょいと、自分に似つかねしい形式をさがし出すことができないからです。この場合、問題は形式に存するのです。われわれ、ロシヤ人は大部分、あまり豊富な天賦を授けられているので、似つかねしい形式を発見するための天才が必要なのです。ところで、天才なるものは多くの場合もち合せがない。なにしろ、天才は概してたまにしかないものだから。ただフランス人か、あるいはその他の二三のヨーロッパ国民にあっでは、形式が判然とできあがっているので、彼らは図抜けてお品のいい様子をしてござるけれど、そのじつは、まことにつまらない人間だ、といったような現象が可能になるのです。それがために彼らの間では形式があれほど多くの意味をもっているのです。フランス人は侮辱を、心魂に徹するようなほんとうの侮辱を平然と忍んで、眉一つ動かさずに済ますけれども、もし鼻を指ではじかれたら、こいつは決してがまんしない。なぜといって、これは一般の習慣となり、伝統で確認された体面というものが犯されたからです。わがロシヤの令嬢たちが、フランス人にころころと参るのは、要するに、彼らの形式が整っているからですよ。しかし、ぼくにいわせれば、形式なんかてでんありゃしない[#「てでんありゃしない」はママ]、あるのはただ雄鶏式のからいばりだけでさあ、le coq de gaulois(ゴールの雄鶏)ですね。もっとも、この点はぼくには理解できない、ぼく、女でないから。あるいは雄鶏も結構かもしれません。いや、概して、ぼくは駄ぼらを吹きちらしましたね。それだのに、あなたはぼくのおしゃべりを止めようとなさらない。どうかぼくがあなたと話をしている時には、なるべくしょっちゅう、止めるようにしてください。ぼくははらにあることを何もかも、残らず、すっかりいってしまいたいんですから。そうなると、ぼくはいっさいの形式を失ってしまう。いや、それどころか、単に形式ばかりでなく、品位さえまるで持っていない、それにはぼくも異論ありません。あえてあなたにそれを断言します。ぼくは品位なんてものは、頭から問題にしていないくらいですよ。いまぼくの内部では、すべてが働きを停止してしまいました。なぜだかあなた自分でおわかりになるでしょう。ぼくの頭ん中には、人間らしい考えなんか一つもありはしません。ぼくはずっと前から、世の中で何が起っているのか知らずにいます。ロシヤのことも、ここのことも。現にぼくはドレスデンを汽車で通ったけれども、いったいぜんたいドレスデンがどんな町だったやら、覚えていない始末です。いったいなににそれほど気を奪われてしまったか、それはあなたご自身、承知していらっしゃるでしょう。ぼくはなんらの望みも持っていないし、あなたの目から見れば、ぼくはゼロ同然の存在だから、そこであけすけにいってしまうのですが、ぼくはただあなたひとりを自分のそばに見でいるだけで、それ以外のものはあってもなくても同じことです。なんのために、またどんなふうにあなたを愛しているめか、われながらわからないのです。ねえ、ひょっとしたら、あなたはちっとも美人じゃないのかもしれませんね? まあ、どうでしょう、ぼくはあなたの顔が美しいかどうか、それさえわからないんですよ。心はというと、あなたの心はきっとよくないに相違ありませんね。そして、考えていることも清廉潔白とはいわれない、これは、大きにありそうなことだ」
「もしかしたら」と彼女はいった。「あなたはあたしを、潔白な人間だと信じていらっしゃらないものだから、それであたしを金で買収しようと、もくろんでらっしゃるんでしょう?」
「いつぼくがあなたを金で買収しようともくろみました?」とわたしは叫んだ。
「あなたは自分のおしゃべりにつり込まれて、話の筋道を取り落してしまいなすったのよ。よしんばあたしを買収する気でないにしても、あたしの尊敬をお金で買おうと思ってらっしゃるんだわ」
「いや、違います、それはぜんぜんほんとうとはいえません。さっきもいったとおり、ぼくはことを分けて説明するのがむずかしくって、あなたに圧伏されるんですね。どうかぼくのおしゃべりに腹を立てないでください。なぜぼくに腹を立てるわけにいかないか、あなた自分でごぞんじでしょう。ぼくはてもなく気ちがいなんですからね。だが、たとえ腹をお立てになったところで、ぼくはおんなじことです。ぼくはホテルのてっぺんのふ部屋にこもって、あなたの着物の衣ずれの音を思い出しただけで、心にうかべただけで、自分の両手をめちゃめちゃに噛み破りそうな気持ちになるのです。しかも、あなたはなんのためにぼくに腹をお立てになるのでしょう? ぼくが自ら奴隷と名乗るからですか? どうかぼくの奴隷的屈辱を利用してください。大いに、大いに利用してください! 実はねえ、ぼくいつかあなたを殺しますよ。それも愛想がつきたためとか嫉妬のためとかじゃなく、ただほんの、なんということなしに殺してしまうのです。なにしろぼくはどうかすると、あなたを食ってしまいたい誘惑を感じるのですもの。あなた笑っていますね……」
「笑ってなんかいるもんですか」と彼女は、怒りを帯びていった。
「あたし命令します、お黙んなさい」
 彼女は怒りのために、かろうじて息をつぎながら、歩みを止めた。まったくのところ、彼女が、美人であったかどうか知らないが、わたしは彼女がこんなふうに足を止めて、にらみつけるのが好きだった。で、わたしはこのんでしばしば彼女の怒りを挑発したものである。ことによったら、彼女はそれに気がついて、わざと腹を立てたのかもしれない。わたしはそのことを彼女にいってみた。
「なんてけがらわしい!」と彼女は嫌悪の色をうかべて叫んだ。
「そんなことはぼくにとってどうだって同じです」とわたしは言葉をつづけた。「それからですね、ぼくといっしょに歩くのは危険ですよ。ぼくはもう幾度となく、あなたを袋だたきにしてやりたい、片輪にしてしまいたい、締め殺してやりたいという、矢も楯もたまらない欲望を感じたものです。ところで、あなたはどう思います、結局そこまでいかないでしょうか? あなたはいずれ、ぼくを前後も忘れてしまうほどに仕向けますよ。いったいぼくが世間の騒ぎを恐れると思いますか? あなたに怒られるのをこわがると思いますか? なに、あなたに怒られたところでなんでもありゃしない。どうせぼくは望みのない恋をしているのだから、いくら怒られたって、かえって千倍も万倍もあなたを恋するに決まっている、ぼくにはそれがわかっています。もしいつかあなたを殺したら、ぼくは当然、自分でも死ななければなりません。さあ、ところがです、ぼくはできるだけ長く自殺しないようにします、それはあなたがいなくなったあとの堪え難い苦痛を味わうためなんです。あなた、一つあり得べからざることを教えてあげましょうか。ぼくは一日ごとにますます強くあなたを愛していきます。ところが、そんなことは不可能なんですからね。さあ、これでもぼくは宿命論者にならないでいられますか? そら、一昨日シュラングンベルグで、ぼくはついあなたにつり込まれて、ささやくようにこういったでしょう、『たったひと言命令してください、ぼくはこの絶壁から飛び込んでみせますから』もしあなたがそのひと言を発したら、ぼくはあのときほんとうに飛び込んだに相違ありません。あなたはほんとうにしませんか、ぼくが飛び込むってことを?」
「まあ、なんてばかげたおしゃべりでしょう!」と彼女は叫んだ。
「ばかげていようが、気がきいていようが、そんなことはぼくどうだっていいんです!」と、こちらも負けずに叫んだ。「ぼくはあなたの前にいるとき、しゃべって、しゃべって、しゃべりぬかなくちゃならないということがわかっている、――それでぼくはしゃべっているのです。あなたの前へ出ると、ぼくは自尊心というものをことごとくなくしてしまいます。が、そんなことはどうだってかまいません」
「なんのためにあなたをシュラングンベルグの崖から飛び込ませる必要があるんでしょう?」と彼女はそっけない、なにか特別むっとしたような調子でいった。「そんなことしたって、あたしなんのとくにもなりゃしないわ」
「すてき!」とわたしは叫んだ。「あなたはぼくをひと言におしつぶしてしまおうと思って、わざとその『とくにならない』という名言を吐いたのでしょう。あなたの腹の中は、ぼくにはありありと見え透いていますよ。とくにならない、とあなたはおっしゃるんですね? しかし、満足感てやつはいつでも有益なものですよ。めちゃくちゃな方図のない権力は、よしんば相手が一匹のはえであろうとも、やっぱり一種の快楽です。人間は生来暴君にできていて、他人を悩ますことを好むものです。あなたなんか特にお好きでいらっしゃる」
 今でも覚えているが、彼女は一種特別な注意をうかべて、穴のあくほどわたしの顔をじっと見つめた。その時きっとわたしの顔は、とりとめもないばかげた感覚を残りなく表わしていたに相違ない。今しずかに想い起してみると、その時のわたしたちの会話は、ここに書いているのとほとんど一言たがわず、まさしくこのとおりに進行していったのである。わたしの目は血走って、くちびるのまわりには唾《つばき》がからびついていた。ところで、シュラングンベルグの件だが、わたしは今でも名誉にかけて誓うけれど、もし彼女が谷底へ飛び込めと命じたら、わたしはほんとうに飛び込むところであった! たとえ、冗談半分にもせよ、侮蔑の念から出たにもせよ、わたしの顔に唾を吐きかけながらいったにもせよ、――わたしはその時きっと飛び込んだにちがいない!
「いえ、べつに、あたしあなたのおっしゃることを信じてよ」と彼女はいったが、その調子は時として、彼女が巧みに駆使してみせる底のものであって、そこにはふかい軽侮と、毒念と、傲岸さとがこめられていたので、その瞬間、わたしは彼女を殺してやりたいと思ったくらいである。
 彼女はあまり冒険がすぎたのだ。わたしはこのことをも偽らず彼女に話した。
「あなたは臆病者じゃなくって?」ふいに彼女はこう問いかけた。
「わかりませんね、あるいは臆病者かもしれません、わかりません……そんなことは久しい以前から考えたことがないから」
「もしかりにあたしが、あの人をお殺しなさいといったら、あなたその人を殺して?」
「だれをです?」
「あたしの望みの人を」
「あのフランス人ですか?」
「そんなことをきかないで、返事をなさいよ。あたしが指した人よ。あたしはね、あなたが今おっしゃったことが真剣かどうか知りたいんですの」
 彼女があまりまじめに、しかも、じれったそうに答えを待っているので、わたしはなんだか変な気持ちになった。
「いったいここでは何事が起ってるんです、もういいかげん、教えてくれてもいいじゃありませんか!」とわたしは叫んだ。
「あなたは全体、ぼくを恐れてでもいるんですか? 現在、ぼくは自分の目でここの乱脈を残らず見ています。あの悪魔、――ブランシュに迷い込んでしまった、破産した気ちがい、その人間のあなたは継娘ときている。それからまた、あなたに不思議な勢力を持っている例のフランス人、――しかも、今あなたはひどくきまじめな調子で、そんな質問を持ちかけるんですもの。少なくとも、ぼくは事情を知らなくちゃ承知しません。さもないと、ぼくはこの場で発狂して、何かとんでもないことをしでかしますよ。それとも、あなたはぼくにうち明けた態度をとるのが恥辱だとでも思ってらっしゃるんですか? あなたがぼくに対して恥を感じるなんて、そんなことがいったいあり得るのでしょうか?」
「あたしがいってるのは、そんな事とまるでちがっていますよ。あたし、あなたに問いをかけて、その返事を待ってるんです」
「もちろん、殺しますとも」とわたしは叫んだ。「でも、だれを殺せとおっしゃるんです! しかし、はたしてあなたにそんなことができるでしょうか……はたしてあなたに命令が下せるでしょうか?」
「まあ、あなたなんと思ってらっしゃるの、あたしがあなたを気の毒がるとでも考えてらっしゃるの? 命令を下しますとも。そして、あたしはわきのほうに引っ込んでますわ。あなたそれでもがまんができて? いいえ、だめ、あなたなんかどうして、どうして! あなたは大方、命令どおりに殺しはなさるでしょうが、そのあとであたしを殺しにいらっしゃるでしょうよ、あたしが大胆不敵にもあなたを刺客にやったというかどでね」
 この言葉を聞くと、わたしはなんだか、かっとのぼせてきたような感じだった。もちろん、その時も、わたしは彼女の質問を半ば冗談と見なしていた。単なる挑発的言辞にすぎないと思っていた。とはいうものの、彼女の語調はあまりにもまじめであった。なんといっても、彼女がそれを口外したということ、わたしに対してかかる権利を保留しているということ、わたしに対してかかる権威をもって臨むことをはばからず、面と向かって「おまえは破滅の道を行くがいい、あたしはわきのほうに引っ込んでいるから」といってのけたということ、――それらはわたしをぎょうてんさすに十分であった。その言葉のなかには、何か無恥厚顔な、露骨きわまるものがあった。それはわたしにいわせれば、もうあんまりだった。こんなことが口に出せる以上、彼女はわたしをどんなふうに見ているかもしれたものではない! それは奴隷的屈辱、人格無視の権限を、さらに一歩踏みこえたものである。このような目で相手をみていながら、嫌悪を忍んでその人間を身辺に近づけるとは! わたしたちの会話は始めから終りまで、いかにもばかげきった、ほとんどあり得べからざるものであったが、わたしは覚えず心臓のおののきを感じた。
 だしぬけに彼女は声高々と笑い出した。わたしたちはその時、子供ふたりを前で遊ばせながら、ベンチに腰かけていた。それはちょうど、馬車があとがらあとから来てとまっては、停車場の前の並木道に乗客を降ろして行く場所に面していた。
「あそこに太った男爵夫人がいるでしょう?」と彼女はさけんだ。「あれはヴルメルヘルム男爵夫人っていうのよ。つい三日前に来たばかりなの。そのだんな様も見えるでしょう、ひょろ長いやせたプロシヤ人で、手にステッキを持っているわ。覚えてらして、あの男は一昨日も、あたしたちをじろじろ見まわしたでしょう? あなたさっそくあの男爵夫人のそばへ寄って、帽子を脱いで、フランス語でなにかおっしゃいな」
「なんのために?」
「あなた、シュラングンベルグの崖から、飛び込んでみせると、誓ったじゃありませんか。あたしの命令だったら、人殺しでもするとお誓いになったでしょう。そんな人殺しや悲劇のかわりに、あたしただちょっとお笑いがしてみたくなったの。四の五のいわずに、さっさといらっしゃい。あたしね、男爵がステッキであなたを引っぱたくところが見たいの」
「あなたはぼくにいどみかけようというんですね。ぼくにそれくらいのことができないとお思いですか?」
「ええ、いどみかけてますわ。さあ、いらっしゃい。それがあたしの望みなんだから!」
「かしこまりました、行きますとも。だが、こいつはちと乱暴な気まぐれだなあ。ただ一つ注意しておきますが、そのために将軍に迷惑がかからなきゃいいですが、それからさらにあなたにも。まったくです、ぼくは自分のことを気にしているのじゃありません、あなたのことが気がかりなんです、――そして、まあ、将軍のことも。いったいなんて気まぐれでしょう。わざわざ出かけて行って、婦人を侮辱するなんて」
「だめ、お見受けしたところ、あなたはただのおしゃべりなんだわ」と彼女はばかにしたようにいった。「あなた、さっき目を血走らせなすったけれど、ただそれっきりなのね、――もっとも、食事のときに、葡萄酒を過ごしなすったからかもしれないわね。そりゃ、あたしだって、それがばかげて、俗だってことは承知していますとも。そして、将軍がかんかんになって腹を立てるってこともね。あたし、ただお笑いがやってみたいの、ええ、そうなの、ただそれだけ! それに、あなたが婦人を侮辱するなんて、そんなことちっともありゃしないわ。それよか、あなたのほうがステッキで引っぱたかれるくらいなものよ」
 わたしはくるりときびすを転じて、無言のまま、彼女の命令を履行すべく歩き出した。もちろん、これはばかばかしいことに相違ないし、わたしにうまくいいのがれる腕がなかったということも否めないが、しかし、わたしが男爵夫人のそばに近づくにつれて、今でも覚えているが、何かにけしかけられるような気持ちになった。要するに、小学生じみたいたずら気分にそそのかされたのだ。そのうえ、わたしはひどく癇が立っていて、まるで酔っぱらい同然だったのである。
[#4字下げ]第6章[#「第6章」は中見出し]
 そのばかげた日からかぞえて、もう二日というものが過ぎてしまった。その間どれだけけんけんごうごうたる噂や取沙汰が、世間をにぎわしたことか! しかも、それがみんなとほうもないめちゃめちゃであり、出たらめであり、ばかばかしい話であり、俗悪きわまる臆測なのであるが、それもこれも、もとはといえば自分なのだ。しかし、それでもどうかするとおかしくなってくる。――少なくとも、わたしの気持ちからいえばそうなのだ。わたしは自分がいったいどうなっているのか、ほんとうに興奮して前後のわきまえもなくなったのか、それとも、ただほんのちょっとまともな道を踏みはずして、ふんじばられるまでのわずかな間に乱暴狼藉を働いているのか、われながらそのへんの判別がつきかねる。時おり、わたしは気が狂っていくような思いがするが、また時には、自分がまだ少年時代から遠くは隔たっていず、教室のベンチを離れてからいくらも月日が過ぎていないので、無遠慮な悪童ぶりを発揮しているだけの話だ、といったような気持ちもするのであった。
 これというのもポリーナのせいなのだ、何もかもポリーナのせいなのだ! 彼女というものがなかったら、おそらくこんな悪童ぶりを見せるようなことはなかったに相違ない。しかし、もしかしたら、これはわたしがやけっぱちでやったことかもしれたものではない(もっとも、こんな考え方をするのはなんてばかげたことだろう)。それに、あの女のどこがいいのだ、わからない、とんとわからない! とはいうものの、彼女はきれいなことはきれいだ、たしかに美人らしい。何しろほかの男だって、彼女のために気も狂わんばかりのありさまではないか。彼女は背が高くてすらりとしている。ただあまりほっそりとしすぎている。なんだか彼女のからだをくるりと結んで輪にするか、それとも、まっ二つにぽきりと折ることができそうに思われる。彼女のしるす足跡は長細くって、――悩ましい気を起させる。まったく悩ましいのだ。髪の毛は、赤みがかったニュアンスを帯びている。目つきは正真正銘、猫の目そのままだが、彼女はその目でいかにも誇らかに傲然と人を見くだして、そのこつたるやじつに手に入ったものだ。四月ほど前わたしがまだ就職したばかりのころ、ある晩、彼女はホールでド・グリエと、長いこと熱くなってしゃべっていたことがある。そのとき相手をながめた彼女の目つきといったら、……わたしはその後も長い間、自分の部屋へはいって、床につく用意をしながら、彼女はド・グリエに平手打ちをくらわしたのだ、などという妄想を起したほどである。たった今ぴしゃりとやったばかりのところで、彼女はその前に立ったまま相手を見すえている……つまり、その晩からわたしは彼女を恋するようになったのだ。
 しかし、閑話休題としよう。
 わたしは小径づたいに並木道のほうへ降りて行き、そのまん中につっ立って、男爵と男爵夫人を待ちかまえていた。五歩の距離にさしかかった時、わたしは帽子をとって会釈した。
 今でも覚えているが、男爵夫人は胴まわりのものすごく太い、ひだのたくさんある、鼠色の絹の服を着込み、腰のへんは馬の毛で織った芯《しん》でふくらませ、裾にはしっぽを引いていた。小柄なくせに、世にも珍しい太っちょで、あごがだぶだぶ垂れるほどみごとに肥えているので、くびなどはてんで見えない始末である。顔は紫がかったあから顔である。小さな目は意地のわるい高慢ちきな表情をしている。その歩きっぷりといったら、まるでみんなに恩恵を施してやるのだぞといわんばかりである。男爵はかさかさにしなびて、のっぽときている。顔はドイツ人によくあるやつで妙にひん曲がっており、無数の小じわにおおわれている。眼鏡。年ごろ四十五六。脚はほとんど、胸のすぐ下にくっついているといってもいい。これは要するに、血筋なのである。くじゃくのごとく傲然としている。全体に少しばかりのろくさした動作。顔の表情にどことなく牡羊ぜんとしたところがあるが、これは自己流ながら考え深さといったものに代るべきしろものである。
 こういうものが何もかも、三秒ばかりの間にわたしの目に残らず映った。
 わたしの会釈と、わたしの持った帽子とは、まず初めにかろうじて彼らの注目をひいた。ただ男爵はかるく眉をひそめた。男爵夫人のほうは、そのまままっすぐにわたしのほうへふらふらと歩いて来た。
「Madame la baronne.」とわたしは一語一語、きっぱりと句切りながら、かなり大きな声で明瞭にいい出した。「〔J‘ai l’honneur d’e^tre votre esdave.〕(男爵夫人、わたしはあなたの奴隷たるの光栄を有します)」
 それから、また会釈して帽子をかぶり、男爵のほうにうやうやしく顔を向け、にこにこ笑いかけながら、そのそばを通り抜けた。
 帽子を脱げというのは彼女のいいつけだった。が、おじぎをしたり、小学生じみた悪ふざけをしたのは、もう自分のひとり考えなのである。いったいどういう魔がさして、わたしにこんなことをさせたのだろう、ふつふつ合点がいかない! わたしはまるで坂からすべり落ちるような具合であった。
「えへん!」と男爵は腹立たしげな驚きの表情で、わたしのほうへ振り向きながら叫んだ、というより、むしろせき払いをしたのである。
 わたしは振り返って、うやうやしく期待の態度で立ち止まり、依然として相手の顔を見つめたまま、にこにこしていた。彼はどうやら不審のていで、nec plus ultra(これ以上はとてもできまいと思われるほど)眉をしかめた。その顔はなおのことけわしくなるばかりだった。男爵夫人も同じくわたしのほうへくるりと向き直って、やはり憤怒と怪訝の表情でわたしをにらみつけた。通りかかった人々の中にも、好奇の眼を向けるものがあった。なかには歩みを止めるものさえあった。
「えへん!」と男爵はさらに声を励まし、以前に倍した怒りの調子で叫んだ。
「Ja wohl!(さよう)」とわたしは相変らず、相手の目をひたと見つめながら、言葉じりを引いた。
「Sind Sie rasend?(きみは気でも狂ったのか)」と彼はステッキを一振りして叫んだが、どうやら少々臆病風が吹き出したらしい。もしかしたら、わたしのみなりが先生をまごつかせたのかもしれない。わたしはどこへ出しても恥かしくない、いかにもれっきりとした身分の入らしい、しゃれたいでたちをしていたのである。
「Ja wo-o-ohl.(さよオーオ)」とわたしはだしぬけに、のどいっぱいの声を張り上げてどなった。ふだんの会話にのべつ“Ja wohl”を使うくせのあるベルリン児のまねをして、O を長く引っ張った。ベルリンの人は、種々様々な思想や感覚の陰翳を表現するために、多少なり O の音を引っ張るのだ。
 男爵と男爵夫人はくるりとそっぽを向いて、おびえたように、ほとんどかけださんばかりのありさまで、わたしのそばを離れた。そこに居合せた人々は、がやがやしゃべり出すものもあったけれど、中にはけげんそうな顔つきで、わたしをながめているものもあった。が、それもはっきりとは覚えていない。
 わたしはきびすを転じて、いつもに変らぬ足取りで、ポリーナ・アレクサンドロヴナのほうへ歩いて行った。しかし、彼女の掛けているベンチまでまだ百歩ばかりというところで、ふと見ると、彼女は急に立ちあがって、子供たちといっしょにホテルをさして歩き出した。
 わたしは玄関のところで彼女に追いついた。
「やってのけましたよ……悪ふざけを」とわたしは彼女と肩を並べながらこういった。
「それがどうしたっていうんですの! 今度はあなた、その始末をつけなきゃなりませんよ」と、彼女はわたしに一瞥をくれようとさえせず、こう答えたまま、ずんずん階段を昇って行った。
 その晩、わたしはずっと公園の中で過ごした。一度などは公園を横切って、それから森をくぐりぬけ、隣りの藩侯国にまで出て行ったことさえある。とある小さな百姓家で、玉子焼をこしらえてもらって、葡萄酒を飲んだが、この田園牧歌調のために、大枚一ターレル半ふんだくられた。
 十一時にようやくホテルへ帰った。するとさっそく、将軍からといって、わたしのところへ迎えが来た。
 わたしたちの一行は、このホテルで二|区画《しきり》占領していたが、全体の部屋数は四つになるのであった。第一室は大きなサロンで、ピアノが付いていた。それと並んで同じく大きな一室、――これは将軍の書斎になっていた。ここで彼は、なみなみならぬ荘重な態度で、部屋のまん中に立ったまま、わたしが来るのを待っていた。ド・グリエは長いすの上に、寝そべらんばかりの姿勢でもたれかかっていた。
「きみ、一つおたずねしますがね、いったいきみはなんということをしでかしたんです?」と将軍はわたしのほうへ振り向きながら、こう切り出した。
「将軍、どうか、直接本題にはいっていただきたいものですが」とわたしはいった。「多分あなたは、ぼくが今日あるドイツ人に出会ったことについて話をなさりたいのでしょう?」
「あるドイツ人に※[#疑問符感嘆符、1-8-77] そのドイツ人は、ヴルメルヘルム男爵ですぞ、名士ですぞ! きみは男爵とその夫人に無作法を働いたのです」
「決して決して」
「きみは男爵夫妻をびっくりさせたでしょう、きみは!」と将軍は一喝した。
「いえ、滅相もないことです。ぼくはベルリンにいたころ、あそこの連中が、ひと言ひと言に。“Ja wohl”(さよう)をくっつけるのを、耳にたこができるほど聞かされたものです。おまけに、いやらしくしっぽを引っ張るじゃありませんか。きょう並木道であの人と行き会った時、どうしたわけか知りませんが、とつぜんその。“Ja wohl”がひょっこりと頭に浮かんできて、そこでいらいらしたような変な気持ちになってしまったので……それに、あの男爵夫人といったら、もうこれで三回というもの、ぼくに出会うたびごとに、必ずぼくのほうへまっすぐにのしかかってくるのが、くせになってしまってるんです。まるでぼくが虫けらかなんぞで、踏みつぶしたってかまわないとでもいったようなあんばいにね。ねえ、そうじゃありませんか、ぼくだってやはり自尊心ってものを持っていますからね。ぼくは帽子をとって慇懃に(誓っていいますが、本当に慇懃な調子だったのです)、Madame, l’honneur d’e^ tre votre esclave. といったのでした。ところが、男爵がくるりと振り返って、『えへん!』といった時、ぼくも急に虫の居どころが悪くって、Ja wohl! とどなる気になったわけですよ。こいつはぼく二度どなりました、初めは普通のいい方でしたが、二度目はできるったけ言葉じりを引いた、ただそれだけのことですよ」
 白状するが、わたしはこの思い切って子供じみた弁明の仕方に、大満悦だったのである。この一件をできるだけこねくりかえして、ばかばかしいものに仕上げたくてたまらなかったのだ。
 で、わたしはいよいよお調子に乗ってしまった。
「きみはいったいわたしを愚弄しているのかね」と将軍は叫んだ。彼はフランス人のほうへ振り向いて、わたしが冗談でなしに、好んで事件を引き起そうとしているのだということを、フランス語で説明し始めた。ド・グリエはばかにしたように、にたり笑って、肩をすくめた。
「ああ、そんなことをお考えにならないでください、とんでもないことですよ!」とわたしは将軍に叫んだ。「ぼくの行為はもちろんよくないことでした。それは十分、まっ正面から自認しています。ぼくの行為はばかばかしい、無作法な悪ふざけとさえいっていいくらいです。が、それ以上の何ものでもありません。それに、実のところ、将軍、ぼくはしんから底から後悔しているのです。しかしですね、ここに一つの事情がありまして、そのためにぼくは自分の目から見たところでは、ほとんど後悔の義務すら免じられるかと思われるほどです。最近、この二週間、いや、三週間ばかりというもの、ぼくはどうも気分がよくないのです。なにか病気にでも取っつかれてるような、神経がとがっていらいらしたような、妄想ばかりつのるような気持ちで、どうかすると、まるで、自分で自分が制御できないことさえあるのです。まったくですよ。ぼくは時おりだしぬけに、ド・グリエ侯爵に向かって、話をつけてしまいたいと思ったことも、幾度あったかしれやしません……しかし、まあ、あんまりはっきりいってしまうのは、差し控えましょう。侯爵が気を悪くされるかもしれませんからね。ひと口にいえば、こんなのは何もかも病気の徴候なんです。ヴルメルヘルム男爵夫人は、ぼくが謝罪を申し入れた時(というのは、ぼく、男爵夫人に謝罪するつもりなんですから)、この事情を考慮に入れてくださるでしょうか。ぼくの考えでは、入れてくださりそうもないですね。特に、ぼくの聞き知るかぎりでは、最近、法曹界でこの事情を乱用するようになったからなおさらです。このごろ刑法事件で弁護士連がひんぴんとして、自分の被告を弁護するのに、兇行の瞬間まるで覚えがなかったのだ、これはいわば一種の病いである、てなことをいい出しましたからね。曰く、『一撃を加えはしたものの、何一つ覚えていない』といったわけです。それにどうでしょう、将軍、医学界までがそれに相づちを打つじゃありませんか、――ほんとうにそうしたふうな病気がある、一時的発狂とでもいったようなもので、当人はほとんどなんにも覚えていない、あるいは半分しか、いや四分の一しか覚えていないのだ、とこんなふうにいい切っているのです。しかし、男爵夫妻は旧い世代の人で、おまけに、プロシャの田舎貴族であり地主であるから、法医学の世界における右の進歩もあの人たちには知られないでいる、したがって、ぼくの説明など受け付けてくれないに相違ありません。どうお考えになりますか、将軍?」
「たくさんです、きみ!」と将軍は忿怒を抑えた語調で、きっぱりといった。「たくさんです! わたしは今後きみの悪ふざけで迷惑を受けないように、一刀両断の処置をとります。きみも男爵夫妻の前で謝罪するといったようなことはせずに済むでしょう。よしんば、きみが男爵夫妻に謝罪するというだけのことであろうとも、とにかくきみとなんらかの交渉を持つということは、男爵夫妻にとってあまりにも身を屈することになるわけだからね。男爵はね、きみがわたしの家庭に属するということを知って、停車場でわたしとじか談判を始めて、正直なところ、すんでのことで、わたしから謝罪の方法を要求せんばかりの勢いでしたよ。いったいきみはわたしを、このわたしをなんという目にあわしたか、考えてもみてくれたまえ! わたしは、わたしはやむを得ず男爵に謝意をひょうして、今日にもさっそく、きみがわたしの家庭に所属しなくなるように手配すると、りっぱに約束してしまったのです」
「失礼、失礼ですが、将軍、それはなんですか。男爵が自分でそう要求したのですか、つまり、あなたのお言葉をかりると、ぼくがあなたの家庭に所属しないようにしろって?」
「いや、そうじゃないが、しかし、わたしとしては、進んでそれだけのことをするのが、自分の義務だと感じたのです。また、男爵がそれで満足してくれたのは、いうまでもありません。きみ、わたしたちはいよいよ別れるのですぞ。きみはここへ来てからの計算として、わたしから四フリードリッヒ・ドルと、三フロリンだけの金を受け取るようになるわけです。さ、これがその金と計算書です、ひとつあらためてくれたまえ。では、さようなら。今後われわれはなんの縁もない他人同士です。思えば、きみから厄介なこと、不愉快なこと以外、なに一ついい目を見せてはもらわなかったっけなあ。わたしはこれからボーイを呼んで、明日からきみのホテルの払いに責任を持たないってことを、ちゃんと断わっておかなくちゃならない。では、ご自愛ご加餐を、ってわけだ」
 わたしは金と、鉛筆で計算の書いてある紙きれを取って、将軍に一礼し、まじめくさった調子でいった。
「将軍、この事件は、このままで済ますわけにはいきませんよ。男爵のおかげで、あなたが迷惑をこうむられたことは遺憾に思いますが、――失礼ながら、――もとはといえば、あなたご自身なんですよ。いったいどういうわけで男爵に向かって、ぼくに対する責任なぞを引き受けなすったのです? ぼくがあなたの家庭に所属しているっていうのは、そもそも何を意味するのでしょう? ぼくはただ単に、あなたの家の家庭教師というだけです、それっきりです。ぼくはあなたの生みの子でもなければ、あなたから、後見を受けている身の上でもないから、ぼくの行為に対して、あなたが責任を負われるなんて筋はないはずです。ぼくは法律的にも、一人前の人間としての資格を持っているんですからね。ぼくは今年二十五、大学を卒業した学士で、そして身分からいえば貴族、あなたとはまるっきり縁のない他人です。ただあなたの有しておられる美点に対して、無限の尊敬をいだいていればこそ、あなたがぼくの行為に責任を負うなんて僭越をあえてされたのについて、今すぐにも弁明と謝罪の方法を講じていただくのをさしひかえているのです」
 将軍はすっかり度胆を抜かれて、両手を広げるのみであったが、やがてフランス人のほうへ振り向いて、わたしがたったいま彼に決闘を申し込まないばかりの勢いだったと、せかせかした調子で説明した。フランス人はからからと笑った。
「しかし、男爵には一歩も仮借しないつもりです」とわたしはムシウ・ド・グリエの高笑いなどにはいささかもたじろかず、完全な冷静さを保ちながら、言葉をつづけた。「将軍、あなたはきょう男爵の不平に耳をかして、あえてあの人の利害関係に参与なすったのですから、あなたは自分で自分をこの事件ぜんたいの関係者にしておしまいなすったわけです。そこで、ぼくは明日にもさっそく、ぼく自身の名義で男爵に向かって、どうして事件の相手であるぼくをさしおいてほかの人に話を持って行ったのか、それではまるで、ぼくが自分で自分の責任が持てないか、さもなくば、そうするだけの値うちがないみたいだが、なぜそういう措置をとったのか、その理由を正式に説明してくれと要求するつもりです」
 わたしの予感していたことは事実となって現われた。この新しいたわごとを聞くと、将軍は無性にふるえあがってしまった。
「えっ、きみはいったいこのいまいましい事件を、まだこのさきも長びかせるつもりなんですか!」と彼は叫んだ。「しかし、それにしても、わたしをどうする気なんです、いやはや、どうも! けしからん、じつにけしからん、わたしは誓っていうが……ここにだってちゃんと役所があるし、それにわたしも……わたしも……要するにわたしの官等に準じて……また男爵だって同じことで……てっとり早くいえば、きみは今後二度と乱暴を働かないように逮捕されて、警察の手で追放されるのですぞ、わかりましたか!」彼は憤怒のあまり息もつまりそうなほどであったが、それでもひどくおじけづいたのである。
「将軍」とわたしはくそ落ち着きに落ち着いて答えたが、それが彼にとってはたまらないほどしゃくなのであった。「乱暴を働かないまえに、乱暴のかどで逮捕するなんてことは、できない相談ですよ。ぼくはまだ男爵と談判を始めてもいないんですから、どんな形式で、何を基礎として、ぼくがこの件に着手するか、あなたはまったくご存じないわけですよ。ぼくはただ、自分が他人のために自由意志を左右する権利をにぎられ、その人の後見を受けているなどという、自分にとって屈辱ともいうべき仮定を、闡明させたいばかりなんです。何もあなたがそんなに心配して、気をおもみになることはありませんよ」
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、後生だから、後生だから、そんな無意味な計画は放擲してくれたまえ!」と将軍はふいに、いままでの憤怒の態度を哀願の調子に変え、わたしの両手をつかみさえしながら、へどもどとつぶやくのであった。「そんなことをしたら、その結果がどうなるか、まあ、考えてもみたまえ。またぞろいやな思いをしなくちゃならんのだ! きみもわかってくれてるだろうが、わたしはここで特別な態度をとらなくちゃならないんだからね、わけても今がかんじんなのだ! わけても今がね!………ああ、きみはわたしの事情を皆がみなまでは知らないんです!………やがてここを出発することになれば、わたしはまたきみを招聘する心構えを持っています。今はただちょっと、その、要するに、――いや、きみだってそのわけはわかっているでしょう!」と彼は絶望したように叫んだ。「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ!」
 戸口のほうへじりじりと退却しながら、わたしはもう一度、どうか心配しないでいただきたいと、いっしょうけんめいに頼んだ。何もかも具合よく、ぶしつけにならないように納まるだろうと約束して、そうそうに出て行った。
 外国に出ているロシヤ人は、どうかするとむやみに臆病になって、人がなんというだろうか、どんな目で自分たちを見るだろうか、これこれしかじかの事は作法にかなっているだろうか、云々といったようなことで、戦々恐々としている。ひと口にいえば、始終かたくなってかしこまっているのだ。ことに、われこそ地位あり身分ある人間とうぬぼれているような連中はなおひどい。彼らにとって何よりたいせつなのは、あらかじめこうと決った、一定不変の形式であって、ホテルの中でも、散歩の時でも、集りの席でも、旅行の時でも、これを金科玉条とばかりに、奴隷のごとく遵奉するのだ……しかし、将軍はなおその上に、なにかしら特別な事情があって、「特別な態度をとら」なければならないのだと口をすべらした。つまり、それがために彼はとつぜん、見苦しくも臆病風を吹かせて、語調を一変してしまったのである。わたしはそれを見てとって、ちゃんと頭へたたみ込んでおいた。しかし、明日にも血迷って、土地の官憲に話を持ち込むおそれがあるのはもちろんなので、わたしはほんとうのところ、慎重な態度をとらなければならないのである。
 もっとも、わたしは何もとりたてて将軍を怒らせようなどという気は、毛頭なかった。たださしあたり、ポリーナを少少ばかり怒らせてみたくなったのである。ポリーナは、わたしをかくも残酷にあしらって、ああしたおろかな道へわたしを突き落としたのであってみれば、わたしとしては、それをどこまでも押しつめていって、彼女が自分のほうからわたしに向かって、どうかやめてほしいと頼むように、仕向けてやりたくてたまらない。わたしの子供らしい悪ふざけは、とどのつまり、彼女の顔にまで泥を塗るようなことになるかもわからないのだ。のみならず、わたしの内部には別種の感覚や、希望が形づくられていった。たとえば、よしやわたしが彼女の前へ出た時、みずから好んで無に化してしまうにもせよ、それはだれのまえでも意気地なしのぐうたらになったことを意味するのではないから、もちろん、男爵がわたしを「ステッキでぶんなぐる」わけにはいかないのだ。わたしは、彼ら一同を笑い草にしたあげく、自分はあっぱれな若人として見返してやりたい。まあ、見てみるがいい! おそらく彼女も醜聞を恐れて、ふたたびわたしに声をかけるに相違ない。声をかけないまでも、とまれかくまれ、わたしが意気地なしのぐうたらでないことは認めるだろう。


(驚くべき報知――たった今うちの保母に階段で出会って聞いたのだが、マリヤ・フィリッポヴナがたったひとり、今日の夜汽車で、カルルスバードの従姉のところへ出かけて行ったとのことである。これはなんという情報なのであろう? 保母にいわせれば、もうとっくから行く行くといっていたそうである。しかし、なぜそのことをだれひとり知らなかったのだろう? もっとも、ことによったら、わたしひとりだけが知らなかったのかもしれない。保母はもう一つ口をすべらしたが、マリヤ・フィリッポヴナはつい一昨日も、将軍とだいぶさかんないい合いをしたということだ。わかった。それにはきっとブランシュ嬢がからんでいるに相違ない。いや、われわれの間には、何か決定的な大事件が迫っているのだ)。
[#4字下げ]第7章[#「第7章」は中見出し]
 あくる朝、わたしはボーイを呼んで、これからわたしの勘定を別にするようにいいつけた。わたしの部屋はそれほど高くないので、急にびくびくして、ホテルを引きはらってしまわなければならぬ、といったような必要はない。わたしは有金十六フリードリッヒ・ドルあるから、それからさきは……それからさきは、一獲千金ということになるかもしれない! 奇妙なことだが、わたしはまだ賭博に勝ったわけでもないのに、まるで大金満家のような態度をとり、大富豪のような感じ方、考え方をしている。それよりほかの自分を想像することもできないのだ。
 まだ時間は早かったが、これからすぐきわめてほど遠からぬ |Hotel d’Angleterre 《ホテル・ダングルテル》へ、ミスター・アストレイを訪問に行こうと心づもりをしていたところへ、思いもかけずド・グリエがわたしの部屋へはいって来た。こんなことはこれまでついぞ一度もなかったし、そのうえ、この先生とは最近ことさらよそよそしい、険悪な関係になっていたのである。彼はわたしに対する侮蔑の念を隠そうともしない、どころか、わざと隠さないように努力しているくらいであった。わたしは、――わたしはまたこの男にお情けをかけてやりたくない因縁を持っていたのである。ひと口にいえば、わたしは彼を憎んでいたのだ。彼の来訪は大いにわたしを面くらわした。わたしはすぐと即座に、これは何か特別な事情がわいて出たなと悟った。
 彼はひどく愛想のいい様子ではいって来て、わたしの部屋がどうとかいってお世辞をふりまいた。わたしが手に帽子を持っているのを見て、いったいこんなに早くから散歩に出かけるのか、とたずねた。これから用事があって、ミスター・アストレイのところへ行くのだというわたしの返事を聞いて、彼はちょっと考え、何やら思い合わせる様子であった。その顔にはなみなみならぬ心配そうな表情が浮かんだ。
 ド・グリエは、すべてのフランス人と、ご同様の人間であった。つまり、必要であり有利であると見た時には、いかにも楽しそうで、愛想のいい様子を見せるけれども、楽しそうに愛想よくしている必要がなくなると、やりきれないほど退屈な存在になってしまうのである。フランス人が自然に愛想がいいというのは、まれである。フランス人の愛想よさは、いつも命令によるか、それとも胸算用から出た、といったようなあんばいである。たとえば、もし空想的で独創的な、少少並はずれた人物になる必要ができると、さっそく空想をたくましゅうし始めるのだが、その空想たるや、極めて不自然な、愚にもつかないもので、あらかじめ用意された、とっくに月並化してしまった型によって、組み立てられるのである。ところで、自然なフランス人は、それこそ町人根性のしみ込んだ、浅薄きわまる、平凡な肯定観念から成り立っていて、要するに、この世で最も退屈な存在なのである。わたしの見るところでは、経験のない新米《しんまい》や、ことにロシヤのお嬢さん方が、フランス人にひっかかるらしい。いくらかでもどうかした人間なら、この永久に固定してしまった客間式のお愛想、さばけた態度、陽気そうな表情などといったような、情味のない型がすぐ目について、鼻持ちがならないほどいやになってしまうものである。
「じつは用談があってうかがったのです」と、彼はなみはずれておうような態度で切り出したが、しかしそれでも、慇懃さは失わなかった。「そして、あえて隠し立てしませんが、わたしは将軍の使者、というより、仲人としてやって来たわけなのです。ロシヤ語をよく知らないものですから、わたしは昨日のお話がほとんどわからなかったのですが、将軍がくわしく話して聞かしてくだすったものですから、正直なところ……」
「しかし、ちょっと失礼、ムシウ・ド・グリエ」とわたしはさえぎった。「じゃ、あなたはこの事件で、仲人の役を引き受けなすったんですね。ぼくはもちろん、un outchiel(一介の家庭教師)にすぎないから、あの家庭の親しい友人とか、あるいは何かとくべつじっこんな関係におかれたものとか、そういった光栄を主張しようなどとは、夢にも思いません。そういうわけで、いっさいの事情もまるで知らないのですが、一つ説明していただけないでしょうか。あなたは現在のところ、完全にあの家族の一員になりきっていられるのでしょうか? と申しますのは、あなたはあの家のことというと、必ずさっそく立ち入った世話をして、仲人などという役を引き受けなさるんですからね……」
 わたしの問いは彼の御意に召さなかったらしい。それは彼にしてみれば、あまりにも見え透いたものだったのである。彼はうっかり口をすべらして、言質を取られたくなかったのだ。
「わたしと将軍をむすびつけるものは、一面においては仕事ですが、また一面においては、ある特別な[#「ある特別な」に傍点]事情です」と彼はそっけなくいった。「将軍がわたしを使いによこされたのは、昨日の計画を放棄されるよう、あなたにお願いするためなのです。あなたの考えつかれたことは、何もかも結構です。たいへん気がきいています。しかし、それは断じて成功しないってことを、特にその点をあなたに強調してお話してほしいと、将軍はわたしに依頼された次第です。そればかりでなく、男爵はあなたに面会しやしないでしょうし、それに、結局、いずれにしても、今後あなたから受けるおそれのある不快事を避けるために、あらゆる手段方法を具備していられますからね。え、そうじゃありませんか。いったいなんのためにいつまでも事を長びかせるんです、一つうかがいたいものですね? 将軍はというと、うまい折りのあり次第、まちがいなくあなたをもう一度、自分の家へ呼びもどす意図があるし、それまでの間あなたの俸給、vos appointements をちゃんと帳簿に記入しておく、って約束しておられるのです。ねえ、これはずいぶんうまい話じゃありませんか、でし わたしはきわめて平然たる調子で、あなたのいうことは少少ばかりまちがっている、と弁駁した。おそらく男爵の家では、わたしを頭から追い返さないで、ひと通り言い分を聴いてくれるかもしれないと述べ、さて今日の訪問の目的は、わたしがはたしていかなる方法でこの仕事にかかるか、多分それを探り出すためだろう、正直に白状しなさいと勧告した。
「いやはや、どうも、将軍がこの問題に深い利害関係をもっていられる以上、あなたが何をどんなふうにされるかってことを、知りたいと思われるのは当然な話じゃありませんか? それはごく自然なこってすよ!」
 そこで、わたしは説明に取りかかった。彼は長いすにふん反り返ったまま、わたしのほうへ心持ち首を傾け、隠そうにも隠しきれない皮肉な陰影をまざまざと顔に浮かべて、じっと耳を傾けはじめた。概して、彼の態度はむやみやたらと高飛車であった。わたしは、この事件をきわめてまじめな見地からながめているように見せかけようと、いっしょうけんめいに骨折ったものである。わたしは次のように説明した、――男爵はまるでわたしが将軍家の下男ででもあるように、わたしにたいする苦情を将軍のところへ持って行ったために、第一には、わたしはそのおかげで職を失ってしまったし、第二には、わたしは、自分で自分のことに責任も持てないような、人と対等で話もできないような人物なみに扱われたわけである。もちろん、わたしが侮辱されたものという感じをいだくのは、当然な話である。しかしながら、年齢の相違、社会上の地位、等々をわきまえているから(ここでわたしはやっとの思いで笑いをこらえたのである)、この上もう一つ軽はずみなまねをしたくない、すなわち、じきじき男爵にむかって謝罪を要求したり、いや、それどころか、単にその問題を提出するだけのことさえ、差し控えるつもりである。それにもかかわらず、わたしは男爵、ことに男爵夫人にヽ謝意を表するにやぶさかでない、まして最近、わたしは健康を害して気分が勝れず、いってみれば、妄想のとりこになりがちである、等々の状況に照らしても、当然すぎるくらいの話であろう。とはいうものの、男爵自身はきのう将軍にわたしの苦情を持っていって、わたしの職を奪うように主張するなど、わたしとしてははなはだしい侮辱を与えられたわけであるから、わたしはいま妙な立場に置かれたことになる。つまり、男爵夫妻に自分の謝意を表明することができないはめになったのである。なぜならば、もしわたしが謝意を表明しに行ったなら、男爵夫妻も世間ぜんたいの人も、どうかして失った職を回復しようと、そのことで夢中になって出向いたものと考えるに違いないからである。右の次第であるから、わたしは男爵に向かって、まずわたしに謝罪してほしいと頼まねばならぬ。もちろん、ごくあっさりした形式でよいので、たとえば、決してわたしを侮辱するつもりではなかったのだ、とでもいってもらったらよいのだが、とにかく、わたしはぜひともこんなふうな態度を取らなければならぬ仕儀に立ち到ったのである。男爵がそれだけのことをいってくれたら、その時はわたしも自由な立場におかれたわけだから、腹になんのわだかまりもなく、誠心誠意、自分の謝意を表明することができる次第である。「てっとり早くいえば」とわたしは最後に言葉を結んだ。「ぼくはただ男爵に呪縛を解いてくださいとお願いするだけです」
「ちぇっ、なんという神経過敏なこったろう、なんというこまかいせんさく沙汰だろう! それに、なんだってあなたが謝意を表したりなぞするのです? まあ、考えてもごらんなさい、ムシウ……ムシウ……あなたは将軍を怒らせるために、わざとそんなことをたくらんでいるのです……が、もしかしたら、何か特別な目算があるのかもしれませんね…… mon cher monsicur …… 〔pardons j’ai oublie' votre nom m-r Alexis?〕 …… N’est ce pas?(親愛なる……失礼、お名前を忘れました、ムシウ・アレクシス、でしたっけ、違いますか?)」
「しかし、失礼ですが、mon cher marquis(親愛なる侯爵)この事件があなたにいったいどんな関係があるのでしょう?」
「〔Mais le g e'n e'ral〕……(でも将軍が――)」
「将軍がどうしたというのです? 将軍は昨日、なんだか知らないが、ある立場に立たなければならんとか、妙なことをいって……しきりに気をもんでいましたが……ぼくはなんのことかさっぱりわかりませんでしたよ」
「そこにはわけがあるんですよ。そこには特別な事情があるんですよ」とド・グリエは、懇願するような調子で押さえたが、その声の中には、しだいにつのってゆくいまいましい気持ちが響いていた。「あなたはマドモアゼル・ド・コマンジュをご存じでしょう?」
「というと、マドモアゼル・ブランシュのことですか?」
「いや、そう、マドモアゼル・ブランシュ・ド・コマンジュです…… 〔et madame sa me`re〕(そしてその母夫人と)……ねえ、おわかりでしょうが、将軍は……要するに、将軍は首ったけなんで、もしかすると……もしかすると、ここで結婚が成立するかもしれないくらいですよ。ところで、それに付随するいろいろな取沙汰や、醜聞を想像してみてください……」
「ぼくはその結婚に関係した取沙汰や醜聞なんて、いっこうに見当がつきませんがね」 
「しかし 〔le baron est si irascibles, un caracte`re prussien, vous savez, enfin il fera une querelle d’Allemand.〕(男爵はとてもかんしゃく持ちで、一個のプロシャ的性格なんですよ、おわかりでしょう、つまりわけもわからない喧嘩をおっ始めるに相違ありません)」
「その相手はぼくで、あなたじゃありませんよ。何しろ、ぼくはもうあの家庭には所属していないんですからね……(わたしはできるだけわからずやになろうと、骨折ったものである)。しかし、失礼ですが、じゃ、その話は決まってしまったんですね、ブランシュ嬢が将軍と結婚するというのは? いったい何を待ってるんでしょうね? つまり、ぼくはなんだってそれを隠す必要があるのだろう、といいたかったのです。少なくとも、わたしたち家族のものに、ですね」
「それはあなたにはどうも……もっとも、こんなことはまだ大して……しかし、ごぞんじですか、みんなロシヤから便りがあるのを待っているってことを。将軍は家政の整理をしなくちゃならないんでね……」
「A, a! La baboulinka!([#割り注]ロシヤ語のローマ綴[#割り注終わり])(あああ、お祖母さん)」
 ド・グリエは憎悪をこめて、わたしをにらんだ。
「要するにですな」と彼はさえぎった。「わたしはあなたの持って生れた愛想のよさと、あなたの頭脳と、社交上の要領に、心から嘱望しておる次第です……もちろん、あなたはそれらのものを働かして、親身のもの同様に迎え入れられ、敬愛されていた家族のためにおつくしになるわけです……」
「とんでもない、ぼくは追ん出されたんですよ! あなたはいま、これは世間体のためだと主張なさるけれど、しかし、考えてもご覧なさい、あなただって、もし人から、『もちろんわしはきみの耳を引っ張るなんてことはしたくないが、一つ世間体のためにがまんして、引っ張らせてもらおう……』といわれたらどうします? ねえ、それとほとんどおなじことじゃありませんか?」
「そういうことなら、なんといってお頼みしても、素志を曲げてくださらないのなら」と彼はいかめしい、高慢ちきな調子でいいだした。「やむを得ません、きっぱり申し上げますが、それ相当の処置を講ずるまでです。ここにはりっぱな官憲があるのですから、きみは今日にも追放処分を受けますぞ―― que diable!(ちくしょう)Un blanc-bec comome vous(きみ見たいな青二才に)男爵ともあろう人が、決闘を申し込むとでも思っているのか! それに、きみは世間がそのままで置いてくれると、考えているんですか? はっきりいっておくけれどね、ここできみなんかこわがる人は、だあれもいやしないから! こちらから頼むような口のきき方をしたとすれば、それはわたしが自分のひとりの気持ちとしてやったことなんだ。何しろ、きみは将軍に迷惑をかけたんだからね。それに、いったいぜんたいきみは考えてもみないんですか、男爵は従僕にいいつけて、てもなくきみに玄関払いを食わせるってことを?」
「なあに、ぼくは自分で出かけて行きゃしませんよ」とわたしは根かぎり落ちつき払って答えた。「あなたは考え違いをしていられますよ、ムシウ・ド・グリエ。これは何から何まで、あなたの思っていられるよりは、ずっときれいに納まりますよ。ぼくはこれからすぐ、ミスター・アストレイのとこへ行って、介添人になってくれるように、つまり、セコンドの役を勤めてくれるようにたのみます。あの人はぼくを好いててくれるから、きっと拒絶なんかしないでしょう。あの人が男爵のところへ出かけて行ったら、男爵も面会するに相違ない。よしんばぼく自身は un outchitel(一介の家庭教師)にすぎず、なにか subaltern(身分の下のもの)みたいに、それどころか、寄るべのないあわれな身の上とさえ思われるかもしれないが、ミスター・アストレイは英国貴族の、正真正銘のロードの甥ですからね、それはもう周知の事実です。ピイブロック卿といいましてね、このロードは現在ここにいます。受け合っておくけれど、男爵はミスター・アストレイを慇懃に遇して、その言い分をすっかりきいてくれます。もし万が一にもきかれなかったら、ミスター・アストレイは、それを自分の受けた侮辱と見なして(イギリス人がこの点ていかに執念深いかは、あなたもご承知でしょう)、男爵のもとへ自分の友人を差し向けるでしょう、あの男にはりっぱな友人が大勢いますからね。さあ、ここでよく噛みわけてみてください。あるいは、あなたの考えていられるのとは、違った結果が出て来るかもしれませんぜ」
 フランス人はすっかりふるえあがってしまった。いかにもわたしのいうことは、いちいちほんとうらしく思われるので、それから推すと、じっさい、わたしが一騒動おこす力を持っているという結論が生じるのであった。
「しかし、お願いだから」と、彼は完全に哀願の声でいいだした。「そんなことはすっかりやめてください! きみはまるで一騒動おこるのが愉快だとでもいうようですね! あなたは謝罪じゃなくて騒動を要求していられるのだ! 前にも申し上げたとおり、それはなるほど、面白くもあり、気がきいてさえいるかもしれません、――また、あなたもおそらく、その効果をねらっておられることでしょうが、しかし、要するに」と、わたしが立ちあがって帽子を手に取ったのを見て、彼はこう言葉を結んだ。「わたしはある人から頼まれたこのひと言を、あなたにお伝えするためにやって来たのです。――どうか読んでください、わたしはご返事を待つようにと依頼されているのでね」
 そういって、彼は小さくたたんで封緘紙で封をした手紙を、ポケットから取り出し、わたしに差し出した。ポリーナの手で次のように書かれてあった。
『わたくしの見たところでは、あなたはあの一件をどこまでもつづけていらっしゃるおつもりらしゅうございますね。あなたは腹を立ててしまって、悪ふざけをおはじめになったんですわ。でも、そこにはある特別な事情があるんですのよ、わたくし後であなたにうち明けて差し上げるかもしれません。ですから、あなたもどうか手を引いて、おとなしくしてちょうだい。ほんとうに何もかもばかばかしいじゃありませんか! あなたはわたくしにとって必要な方ですし、それにあなたご自身、わたくしのいうことをきくって約束なすったでしょう。シュラングンベルグを思い出してください。どうかききわけてくださるようにお願いします、もし必要とあれば命令します。あなたのPより。
 二伸 もし昨日のことでわたくしに腹を立てていらっしゃるのなら、どうぞ堪忍してちょうだい』
 この数行の文字を読み終わった時、わたしは目の中が急に何もかも引っくり返ったような気がした。くちびるがさっと白くなって、全身わなわなとふるえ出した。いまいましいフランス人は、いかにもわざとらしいつつましやかな様子をして、わたしの当惑した様を見ないためとでもいうように、目をわきのほうにそらしながら控えていた。いっそわたしの頭の上から高笑いでも浴せてくれたほうがまだしもだったろう。
「よろしい」とわたしはこたえた。「どうか令嬢にご安心くださるようにとお伝えを願います。しかし、失礼ながらうかがいますが」とわたしは切り口上でつけくわえた。「なぜあなたはあんなに長いこと、この手紙をお出しにならなかったのです? いろんなくだらないことをしゃべる代りに、まずこいつから切り出すのが本当だったようにわたしは思いますがね……もし、ほんとうにあなたがこの用事をことづかって来られたものとすればですな?」
「おお、わたしはまったく……一般にこの事件ははなはだ奇怪千万なもので、したがって、わたしがこんなにせっかちなのも無理はないと、ゆるしてくださることと思います。わたしはあなた自身の口から、あなたのご意向を、一刻も早くじきじき親しく聞かせていただきたくてたまらなかったので。もっとも、わたしはこの手紙に何が書いてあるか知りませんから、あわてなくっても、いつでもお手渡しできると思いましてね」
「わかりました、あなたはなんのことはない、いよいよせっぱつまった場合にこいつを出すようにいわれていたので、口さきでうまく折合いがついたら、出さないで置くつもりだったんでしょう、そうでしょうね? まっすぐにおっしゃい、ムシウ・ド・グリエ!」
「〔Peut-e^tre〕(そうかもしれません)」と彼は何かしら、とくべつ自分というものを抑えつけたような表情をし、一種異様な目つきでわたしをながめながらいった。
 わたしは帽子を取った。彼は一つ首を振って外へ出た。そのくちびるには、あざけるような微笑がうかんだかに感じられた。そうとも、それよりほかにはありようがないではないか?
「やい、フランス野郎め、貴様とはまたそのうちに勘定をつけようぜ、白い黒いをはっきりさせなけりゃな!」とわたしは階段を降りながら口走った。わたしはまるで何かが頭へ上ったように、まだ何一つ考え合す力もなかったのである。しかし、外の空気はいくらか気持ちをさわやかにしてくれた。
 二分ばかりたって、多少はっきりと物事を思い合すことができるようになった時、二つの想念が鮮かにわたしの脳裡に浮かんだ。第一[#「第一」に傍点]のものは、――あんなちょっとした下らないことから、昨日ふと通りすがりに口にした、いたずら小僧のわるふざけじみたふた言み言のおどし文句から、よくもまあこんな世間ぜんたい[#「世間ぜんたい」に傍点]を騒がせるような大事件が起ったものだ、ということであった。第二[#「第二」に傍点]は、――それにしてもこのフランス人は、ポリーナに対してなんたる勢力をもっていることか、という想念であった。彼がたったひと言いっただけで、彼女は相手の必要とするすべてのことをやってのける。手紙も書けば、わたしに懇願[#「懇願」に傍点]することさえあえて辞さないしまつではないか。もちろん、彼らふたりの関係は、そもそもの初めから、わたしがまず彼らを知るようになってからこのかた、いつもわたしにとっては謎であった。ところが、最近の数日間というもの、彼女が彼に対して嫌悪の念、どころか、侮蔑の情すらいだいているのにわたしは心づいた。しかも、彼は彼女に目もくれず、むしろ無作法な態度さえ取っているというありさまである。わたしはちゃんと、それを見て取ったのだ。ポリーナは自分でわたしに向かって、嫌悪の念ということをもらしたことがある。なみなみならぬ重大な告白が、早くも口を突いて出たのだ……してみると、彼はてもなく彼女を自由に操縦し、彼女は彼のために何か金しばりにでもあっているらしい……
[#4字下げ]第8章[#「第8章」は中見出し]
 散歩道《プロムナード》、とここでは呼んでいるが、そのじつ、栗の並木道なのだが、ここでわたしはこころざすイギリス人に会った。
「おお、おお!」と彼はわたしを見るなり声をかけた。「わたしがあなたのところへ出かけて行けば、あなたもわたしを訪ねて見える。じゃ、あなたはもうあの家の人たちと別れてしまったんですね?」
「まず第一に、どうしてあなたはそんなことをいち早くごぞんじなんです」とわたしは驚いてたずねた。「いったいこの話はもう周知の事実になったんでしょうか?」
「おお、ちがいます、周知の事実なんかにはなっていませんよ。それに、周知の事実になる値うちもないのです。だれひとりそんな噂をしちゃいませんよ」
「じゃ、どうしてあなたはごぞんじなのです」
「ちゃんと知っていますよ、つまり、ちょっとした機会があって、小耳に挟んだんです。さて、これからどこへ立ちのくおつもりです? わたしはあなたという人が好きなので、それでお訪ねに出かけたわけなんです」
「あなたはじつにいい人ですね、ミスター・アストレイ」とわたしはいった(それにしても、彼はいったいどこから聞きつけたのだろう、わたしは驚きのあまりただ茫然たるばかりであった)。「ところで、わたしはまだコーヒーを飲んでいませんし、あなたも大方おいしいコーヒーを召し上がってはいらっしゃらないでしょうから、ひとつ停車場のカフェへ行こうじゃありませんか、ゆっくり腰を落ち着けて一服やりましょう。何もかもすっかりお話して聞かせますから、そして……