『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや ルソン島、第17連隊03 略あり

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1921年秋田県平賀郡睦合村にて生まれる。
1937年睦合尋常高等小学校卒業。
1939年歩兵第17連隊入隊。
1945年フィリピン・ルソン島にて終戦を迎える。
1948年復員。復員後は水産会社を経営。

[1] 志願して17連隊へ 02:48

入隊ってのは、わたし志願したから、18歳で。わたしがた入った時から、初めて18歳になって軍隊に一人前になって入るようになったもの。軍拡でか。それまでは、18歳はまだ兵隊さ入れなかったの、若いもんだから。だけれども、軍律を変えて、その年から志願を認めると、18歳で認めると、軍隊に志願するのは、その一番さ志願したわけ。甲種合格だったもの、背は小さかったけど。それは「もっと大きくなるっ」て徴兵官が。おら五尺なんだ、五尺二寸しかないの、五尺三寸以上ないと合格さならないの。五尺二寸しかないの。だけど、まだ18歳だから、大きくなるという見方だったらしいんだよね。それで合格になった。甲種合格だったもの。ということは、わたしは、はじめから九人兄弟の九番目だし、百姓しても、軍隊入って一生軍隊に暮らすと、こういうことだったのや。その時は、まだ戦時中にもなんねえもんな。それで、ここ入って、郷土学校さ志願して、それから合格して、関東軍の延吉(えんきち)陸軍郷土学校に入校して、それを卒業すると陸軍伍長になる。それからトントントントンいくわけよ。だから軍隊のやっぱりそういう形がね、「どうせ軍隊で飯食うんだったら、やはり偉くならなきゃだめだ」もの。そうだろ?

Q:満州でどんな訓練をしました?

ロシアの国境よ。ロシアの国境の第一線にいるの、ずーっと、5年間いたの。だから戦争の対ソ先鋒だった。ソ連のね、ロシアとの戦争の訓練ばかりしてたんだ。兵隊さんもそういう教育させて、いわゆる兵器なんかもソ連の戦車の教育、ソ連の飛行機の教育、砲兵も全部ソ連の物を、相手を、敵国はソ連であると、それを基準にして初年兵教育してたわけだ。

[2] 南方・ルソン島へ 04:57

Q:ルソン島への航海は、大変でしたか? 

いやあ、これはね、陸軍はね、船さ乗ってしまうと赤ん坊と同じ、寂しいもんだ。何にも戦闘力ないでしょ。あと「いつかボンとやられるか分からねえ。そのときはどうするか」と、ただそれだけだよ。船乗るってことは、陸軍が船さ乗るってことはねえんだもの。初めて我々は船さ乗って輸送、しかも、米軍のその潜水艦が回来してるところを、行くものでしょ。だから非常に危険だったわけだよね。だから、あなたに話したとおり、やはり17連隊は幸せで、その魚雷攻撃受けないで、まっすぐフィリピンさ上陸できてあったもの。だからあと31連隊、それから青森5連隊、これは全部やられてるわけ。結局、わたしがたより早く行ったんだけれども、実際、ルソン島に着いたのは17連隊がいちばん早かったわけ。無傷で上陸したわけ。だから、非常に師団長は喜んでしまって。結局、その時、既にレイテが破れてるんだから、次は(米軍は)ルソン島に来るってことは分かってるんだから。結局、バダンガス湾の一番の第一線さ、いずれバダンガス湾に来るだろうと、敵は、レイテを陥落させたから。その第一線に17連隊を布陣してしまったわけで、動かされねえわけ。だけど、その後に31連隊来たし、5連隊も来た、いちばん先に発った5連隊、いちばん最後に来たもん。結局、最後に来たために、そのときは既に「今度レイテ戦さやれっ」ていって、「一個連隊やれ」と、大本営から電話きて、作戦文きて、参謀本部きてるからね。で、結局、山下大将から命令きて、17連隊はやらねえで、5連隊がやられたの、レイテに。で、結局、そのために5連隊っていうのは全滅してしまったわけ。連隊長以下、全部。だから戦史も何も無い、どこさ行ったとか、戦史なんかなんにもないんだもの。作られねえ、誰もいねえんだもの。まあ惨めだったわけ、5連隊というのは。だからやっぱり戦争というのは、これは紙一重でね、分からねえよ。

Q:そうやって無傷で上陸できたときは、どんなお気持ちでしたか?

これはすごいと思ったわけ。だから師団長が迎えに来て喜んで、「ああよう来たな、藤重(17連隊長)よく来た」と師団長は大変喜んでくれた。これ、俺、分かってる、自分はなあ。だから、それは、なんていうか、やっぱり戦争なん紙一重なもんだ。運がね、運がいくら、もうほら、5連隊みたいにさ、次から次からやられてるところもあるし、31連隊もやられてるしさ、みんな、片端な連隊になっちまってるわね。兵器もみんな沈んでしまってるし。補給してから連隊も編成してくるんだから、秋田で。だから、秋田の連隊にいた時、満州からそのままの兵器を、そのまま、そっくり持って歩くわけ。だから、戦力としては17連隊いちばん強かったわけさ。だから、もう、17連隊は動かすことできなかったわけ、師団ではね。だから、その南部ルソンの広大な場所を、藤重に任せたわけだ。師団長はね。地図見れば分かると思う。

Q:はじめは、ルソン島でどういう任務をしたのですか?

これは、みんなだからね、あの頃なんていうのは、それこそ、いろいろあるけど、兵隊たちは、ただ命令に従っているだけであって、わたしがたのように、ちょっと階級が上になってくるとね、いろいろ、偉い人がたから話を聞けるわけ。山下大将は、既に、はっきり言ってるんだよ。「もう今は、日本はね、世界を相手にして戦っている。地球上で世界を相手にして戦って勝った国はどこにもない。だから、あんたがたの命は俺さ預けてもらいたい」既に山下将軍は負けることは分かっておったんだな、その頃に既に。そういう話を、うちら聞いてる。


[3] ルソン島南部を守備 03:05

フィリピンのね、全図があればいいんだけど、南部ルソンだけしかねえから、これ。南部ルソンなんだ。これがマニラなんだ。リンガエンはここなんだ。ずっと北部だ。リンガエンさ上陸してるわけ、我々は。北サンフェルなわけ。そこから行軍してきてこの南部ルソンさ来てるわけ。その時にはね、師団司令部はロスバニオス、ここにあったわけ。横山中将は。それで17連隊が来たでしょ。「よく来た」ということで今度、レイテは陥落したから、ここに上陸すると、敵は今度、バタンガス湾。で、ここで、全部配備させられたの、17連隊は。だから、まともに米軍が作戦通りに上陸してくれば、もう、ここで全滅するだけになったわけ、わが兵団はな。ここで2大隊、マコロド山、これは斎藤集成大隊、第1大隊はイムックヒル、3大隊はここナスグブ。こういうふうにして配備して、連隊本部をこのマレプンヨ山に置いたわけ。そうしてここで昭和20年の1月に、この兵団が形成されてるわけ。ここにおった部隊が、全部、17連隊さ配属になって、藤兵団っていう兵団になったわけ。で、ここで過ごしておった。マレプンヨ山で。

Q:ずいぶん広大ですね?

ここはもうそれこそ、秋田県と青森とをくっつけただけの大きな場所だよ。それより、まだここさも入れれば、あれだよ、岩手県も入れたとこの大きさ、広い場所なんでねえか。こっから全部、マニラから南全部なんだもの。ラグナ州、バダンガス州、タヤバス州、これ三州みな全部17連隊が防ぐ。

Q:東西南北何キロくらい?

いやあちょっと分からねえ。実に広大な場所だ。

Q:それを17連隊で守る?

17連隊を基幹とした、あと配属部隊も入れて、いわゆる、その藤兵団というものを作ったわけ。
だから、ここに、飛行機のなくなった航空隊、それから、船のなくなった海軍、そういう連中もみな含めて配属して一個兵団にしたわけ。で、この場所を防御したわけだな。


(略)