とりとめのない草稿その1
花田清輝氏のマネ……
「ひろしまタイムライン」批判をざっと見て、ひどく不思議だと考えていることがある。「これはツイッターの、インターネットの危機だ」という批判、驚きがほとんど欠けていたことである。わたしは「ひろしまタイムライン」事件のあと、80日ぐらいあとにツイッターを退会したのだが、それはレイシズム運動の強大化に絶望したからではない。ツイッター文化の基礎の弱さ、それに絶望したからである。正確に言えば、「宣伝効果」以外のツイッター文化の基礎の弱さ、に絶望したのである。はっきりいえば、(一番ひろい意味の)「宣伝効果」、それ以外にツイッターにできることって何か、と問われてぱっと答えられない。誤解しないでほしいが、「宣伝効果」をわたしは文化的でないと否定しているのではない。とんでもない、「ぱっと答えられない」私自分に激怒したのである。
「政治化の貧困」(その一部の現象は昔「疎外」という用語を使われた)が今現在の問題である。ツイッターなど、まるごとつぶれてもとくに問題が無いのに、これを政治化できていないということはおそろしいことだ。これが私だけならばともかく、右も左もぜんぶ同じだとしたら、とてつもなくおそろしいことだ。
イーロン・マスクはいっそのこと「ツイッターはジャパンの電通に勝っている、人件費を会計上の搾取しなくてもすんでいるし、ろくに笛をふかなくてもこんなに大勢踊り狂ってくれるから」ぐらいのことをいうべきだった。
単純化? まあ、そうかもしれない。しかし、極端に単純化しないと見えてこないものがある。ツイッターそのものを実験的にあつかうことの重要さ。
むかし、『世にも美しき数学者たちの日常』(二宮敦人)を立ち読みした。いま、けっこうはっきりおぼえているのは、年齢も分野も学問上の経歴もバラバラな数学者たちが、インターネットについてとくに何も語っていないことだ。二宮氏もそのことにほとんど気がついていなかった。数学者たちそろいもそろってが「政治化が貧困」ということかもしれない。それ以上に、インターネットそのものの「政治化」が貧困なことにはおどろかされる。紙とペン(と本)以外に必要でないと素直に信じている学問が、インターネットの重要性をほとんど語っていないとすれば、ほかの学問はもっともっと政治化すべきではないか。