『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

奥能登と時国家調査報告編1 索引

20240326?
調査、60分
20240327
■21-■53、32分、
20240328
■35-■05、30分、
調査報告編1から3まで、は2店以上の古本屋で購入可能な事を確認

時国家文書と日本常民文化研究所――一九八五年・一九八六年の調査と史料の紹介 008
一九八七年の調査と史料の紹介 038
一九八八年の調査と史料の紹介 051
一九八九年の調査と史料の紹介 066
一九九〇年の調査と史料の紹介 083
一九九一年の調査と史料の紹介 124
一九九二年の調査と史料の紹介 140
一九九三年の調査と史料の紹介 170
一九九四年の調査とと残された課題について 194


008 一九八五年・一九八六年の調査と史料の紹介

009 一 時国家と渋沢敬三
009 一九五一年夏、渋沢敬三氏が時国復一郎家(上時国家)を訪問したことにはじまる。その経緯は、渋沢氏自身の筆で『奥能登時国家文書』第一巻(財団法人日本常民文化研究所、一九五四年)の冒頭に、
009 この提案は、九学会の賛同を得て
009 「こんな方を媒体に持てば能登研究は半ば成功と云えるであろうと胸の中で考えて居た」
010 談話は夜十二時
010 「門外不出」とされて
010 宮本常一の諸氏が班員と
010 調査の重要な一環であった」とされながら、
010 具体的な活動がほとんど記されていないのである。
010 調査を実質的に推進したのは宮本常一氏、
010 両時国家の文書の整理に当ったのは、日本常民文化研究所の月島分室だった。
012 翌一九五二年三月、宮本氏は速水融氏とともに再び奥能登に行き、時国家を訪れ、三月十七日、復一郎家から九七〇点(借用期限同年五月末日)、宏家から四八点(借用期限同年七月末日)の文書・帳簿・絵図等を借用している。
012 宮本氏は十二月、あらためて時国家を訪問、復一郎家からは断簡を含む四一五五点、宏家からは五三点の文書・帳簿等を、さらに借用したのである(借用期限五十三年十二月末日)。
012 新たに発見された約四〇〇〇点の文書の処理について
016 木箱四箱ほどの文書群を見出して、愕然とした。それらはすべて時国家文書だったのである。
020 両時国家文書の現状を採訪次に即して示しておく。
020 上時国家文書
020 第一次採訪文書(一二二八点)一九五二年十二月、宮本常一氏採訪
020 第二次採訪文書(約三七〇〇点)
コメント、この第二次の分が未返却だった分
020 第三次採訪文書 (約二〇〇〇点)
021 第四次採訪文書 (約二万点)
021 時国宏家文書
021 第一次採訪文書(六二五点)
021 第二次採訪文書(約五〇〇点)
038 一九八七年度の調査と史料の紹介
038 日本私学振興財団から三百万円の
038 援助

017 一九八五年八月四日から十日まで、
018 全く新たな段ボール三十一箱に及ぶ大量な文書・諸帳簿を発見した。
018 恐らく二万点を越す

043 虫損著しいこの文書群の一点一点を慎重に開き、読みとったうえで、年月日、表題、内容を封筒の所定欄に記入する仕事は、それ自体、相当の時間を必要とするが、これを正確に
044 『筆写のしおり』
044 毎週一回、整理・調査に携わっているものを中心に開かれている時国家文書研究会も、刊本となっている第一次採訪文書――『奥能登時国家文書』をテキストとし、その校正もかねて、一点一点を精密に読み切ることを主眼に
056 研究会の研究成果
056 現在、ようやく二一六号
124 一九九一年度の調査と史料の紹介
124 一九九一年七月二十八日、(略)本調査に格別の深いご理解を示された時国宏氏が永眠された。突然の御逝去であったため、十分の弔意を表すことのできなかったのはまことに遺憾であるが、この場をかり、あらためて研究所及び調査員一同の心からの哀悼の意を表したいと思う。
125 河合文化教育研究所から二百万円の寄附をいただき、これを国立歴史民俗博物館教授吉岡康暢氏に委託して実施された。
126 国立歴史民俗博物館助手の千田嘉博氏、
127 そのさいに見出した興味深い文書一点を、のちに紹介する。
130 とはいえ、目録原稿未了の文書は僅かになっており、作業の終了の見通しは次第に
130 写真焼付も、(略)一九九二年度以降を期して
130 国際交流基金による留学生アラン・クリスティー氏を
130 講演会記録「海の時代 奥能登と時国家文書から」(『海と列島の中世』日本エディタースクール出版部、一九九二年一月)発表、一九九一年七月十日付の『北
131 国新聞』にも、調査の成果の
131 河村好光
131 吉岡康暢、森本伊知郎
132 襖下張り文書
132 大徳寺塔頭徳禅寺方丈の襖絵の下張りから
132 田良島哲氏、松井輝昭氏は、(略)その保存と整理等をめぐって
133 一紙の完全文書であるが、その内容が船商売、金銭貸借に関する問題である点にも、下張り文書の性格をうかがうことができるのかもしれない。
136 乍恐書附を以奉願上候 私父円次郎、先年船商売仕(略)
コメント、これが「百姓は農民ではない」の根拠となった古文書、全部で一ページ、約44×11=450文字。
136 「農民の船商売に進出」
137 まことに不敏にも、さほど以前のことではないし、近世においても事態が全く同様であるのを知ったのは、数年前から行われてきたこの時国家文書研究会においてであった。
137 領主の志向、意図に起因することを
138 『日葡辞書』が「百姓」を「農民」としている事実は、
138 百姓円次郎の願書はこうした問題の所在を明確に