『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『シュン@ひろしまタイムライン』の1945年6月20日―1945年7月3日のツイート(作業いったん終わり)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年6月20~26日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ
「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年6月27日~7月3日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

【1945年6月20日

1時間目の図画の時間には、仲教官が休んで居られるため自習であった。
自分は『一式陸攻』の絵を描いた。

【1945年6月20日

漢文の中間考査の成績の発表で、
ABCDの4段階評価のなかで僕はAマイナスだった。
あっ、警報発令

【1945年6月21日】

さきほど、雨天体操場に集められ、上級生から訓戒を受けた。
板張りの床に、なんとゲートルを足に巻いたまま正座させられ、その僕達の周りを上級生たちがグルグルと回りながら罵声を浴びせてくるのだ。
僕達が、上級生を舐めているとのことである!

【1945年6月21日】

様々な声で怒号が飛び交い、その姿勢のまま一、二時間はたっただろうか。
やっと、「立て」の命令が出たとき、僕達は皆ボロボロだった。
足の感覚が麻痺し、とても立つことなど出来なかった。
懸命に足の甲で立とうとする者もあった。

【1945年6月21日】

時間がたつと、段々と足全体がジンジンと痛みだし、今もそれは消えていない。
明日になれば足の痛みは多少消えるだろうが、この苦痛と屈辱はこの先も絶対に忘れないだろう。

【1945年6月22日】

来た!警戒警報がけたたましく鳴ったかと思うと、数え切れないほどの、グラマン戦闘機が現れた。こんなに沢山、今まで見たことがない!大慌てで僕は二葉山に逃げ込み、長い石段を駆け上がって山林の横腹に飛び込んだ。

【1945年6月22日】

震えが止まらない。こんなことは生まれて初めてだ!ついに広島もやられるのか!爆音が次々と近づいてくる。僕のすぐ上を、戦闘機が超低空で飛んできた!百機以上はあるだろうか。今操縦席の米兵と目が合った!!

【1945年6月22日】

ダダダダダダッと機銃掃射の弾丸が土を跳ね上げながら通り過ぎていく。物凄い衝撃!やつらは僕がここに隠れているのを知っていて攻撃しているのか!この弾に撃たれると体が吹っ飛ばされるのだ。僕はそんな死に方はしたくない!

【1945年6月22日】

やっと、終わった。グラマン戦闘機は去った。恐る恐る頭を出して周りを確認するも誰もいない。とんでもなく静かだ。元来た道に向かって一目散に駆け出す。だが、できない。膝が笑って、立つことで精一杯だ。

【1945年6月22日】

なんとか東練兵場にたどり着いた。同級生は全員無事。よかった。開墾の続きを始めようとしたが、皆息が上がっていてとても作業にならない。体の一部が削ぎ落とされたように疲れ切っている。

【1945年6月23日】

朝は雨だったので授業だと思い学校に向かったが、どうやら作業があるようなのでまた東練兵場まで引き返した。昼食後に、粉をこねた餅をいただいた。久しぶりの甘い物に、これまでの疲労も癒えていくようである。

【1945年6月23日】

なんと一中の正木義虎君に会った!彼は国民学校時代の同級生だ。僕と同じで関東から廣島に越してきた転校生だったこともあり、気が合ってよく一緒に遊んだ。僕の特別な友達だ。

【1945年6月23日】

彼は卒業間近に引っ越して以来それきりだったので何ヶ月ぶりの再会だろう?お別れをしたとき、少し古い当用日記帳を貰った。もうすぐ今のが終わるので、あの日記帳を使わせてもらうよ。正木君、ありがとう。

【1945年6月24日】

本日は、朝から建物疎開跡の畑に行ってサツマイモやトウモロコシを植えた。中学生になっても、まだ日曜日は学校を休むことができ、勉強をすることが出来る。有意義に使うことが出来る。何という有難いことだろうか。

【1945年6月25日】

本来なら二十九日まで東練兵場での開墾作業が続く予定だったのだが、今日、一日でも早く仕上げると、二十九日までずっと休みになると発表があった。皆張り切って開墾作業を進めている。

【1945年6月25日】

またもや警報発令。今日はたった一機だけが飛行機雲を引いていた。二十二日のものすごい数の敵機来襲を思い出し身体が震える。何をしに来たのか?一機でも恐ろしいことが起きるような気がしてならない。

【1945年6月26日】

今日も暑い日になりそうだ。しかし、この暑さを耐え、土地を早く耕すことで、少しでも早く日本のためにつくせるのだ。七時から出ていた警報も先程解除された。よし!直ぐに作業に取り掛かろう!

【1945年6月26日】

サツマイモが飛行機の燃料として必要とされているそうだ。日本は有利な戦況にあるはずだ。だから燃料にも不自由ないのはずなのに。なのに、なぜサツマイモなんかを燃料に使おうとしているのだろうか。

【1945年6月26日】

ともあれ、日本のためだ。立派な芋を作れるよう、よく土を耕し、良い成績を挙げ、さらには附属中学の名を汚さぬよう働こう。

★スタッフからのお知らせ★

75年前の広島の中学1年生 シュン
勉強熱心だけどスポーツは苦手
家族思いの13歳

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【1945年6月27日】

二十二日から度々空襲があったが、東練兵場での作業は順調に進んでいる。が、立派な芋を作るには程遠い。作った畝も、浅くて固い。これではだめだ。もう一度やり直そう。

【1945年6月27日】

錬兵場の土は固く、作業用具も少ない。質にこだわらず、片端から耕していけば良かったのだろうが、間に合わず。
次こそは良い評価を取ってみせる。労力も惜しまず出すぞ!

【1945年6月27日】

先生方手作りの教科書の配給を受け取った。物資の不足が原因だ。
そして、餅も二つ配給された。
甘い!美味い!!
これで明日も頑張れる。

【1945年6月28日】

「夏だ!」と感じるほどの暑さ。
今日はサツマイモの苗が予定より早く到着するそうだ。午後は苗を植える作業になるだろう。

【1945年6月28日】

作業に来ている学校は二校だけ。いつもより少ない。自分達の苗は植え終わったので、他校の畑にも植えておいた。
日焼けした体が火照って痛い。

【1945年6月28日】

今日は体にこたえる暑さであった。サツマイモの苗はこの暑さの中、しっかりと育つだろうか。成長が楽しみである。

【1945年6月29日】

雨天のため今日の作業は中止となり、学校で授業がある。実に8日ぶりだ!忘れ物の無いように行こう。

【1945年6月29日】

「武士気質」の中の伊達政宗の作戦の巧みさには、とても感心する。初めは相手を脅し、次には頼み込むというものだ。それとは反対に、相馬方の君主の卑怯さにはあきれる。
新井白石の文の巧みさには大変驚いた。

【1945年6月30日】

昨日、岡山と山口付近で大空襲があった。ついに中国地方も攻撃の対象にされたということだ。
しかし、廣島が攻撃されなかったのはなぜだ?不気味で仕方がない。

【1945年6月30日】

今日から、今まで出動していた我々正規学級は作業を中止し、あとを科学学級に任せることになった。そのため、東練兵場に作業用の道具を返しにきた。今から電車に乗り、学校へ向かう。↓
【1945年6月30日】

登校中。車窓の向こうでは、雨がとても強く降っている。

【1945年6月30日】

友達と数学の代用教科書の製本をすることになった。また、この後学校の重要用品の疎開作業を行うそうだ。
昨日の岡山空襲といい、廣島はいつ攻撃されてもおかしくない。

【1945年6月30日】

小谷教官から発表があり、明日は特別に休日となった。
嬉しい!一同 狂喜!!!

【1945年7月1日】

沖縄守備隊長である我が牛島将軍が割腹自決を遂げられた。

【1945年7月1日】

遂に敵米が沖縄にまで侵略の手を伸ばした。
近頃は支那事変で使っていた飛行機まで特攻機として使用しているらしいではないか。
それに比べて敵は新鋭機を沢山持っていて連日我が本土を空襲している。本当に我が国は優勢なのだろうか。

【1945年7月1日】

敵を再び立つことのできないように撃砕するのは、我々学徒たちの重大な使命である。
全日本の青少年よ、やろう、米英撃滅を!

【1945年7月2日】

呉市がやられた!呉方面の空はボーッと赤く染まり、遠雷のような音や敵機の爆音がここまで聞こえた。
急いでムスビの炊き出しをせよと、町内会の米が回ってきた。
ここにはいつ爆弾が落とされるのだろう?

【1945年7月2日】

今日は呉から廣島に逃れてきた人たちを大勢見た。
遂に廣島もやられると思い覚悟していたが、また敵は来なかった。
しかし、油断大敵。
今夜こそやられるかもしれない。
いつ来てもいいように大事な物を防空壕に入れておこう。

【1945年7月3日】

一昨晩の疲労が今になってきている。
しかし今日も張り切って第二総軍司令部の作業に出動する。
本日は何の作業をするだろうか。

【1945年7月3日】

前回と同じく畑作業。
僕たちは、昨夜の空襲で本当に敵が廣島に来襲すると思ったと話し合った。

【1945年7月3日】

空襲の際、ある一部の不心得者が荷物を持ってサッサと逃げたらしい!そんなことでは正しき日本人とは呼べない。
最後まで郷土を護るという決意がほしいものである。
今日こそ敵機が来襲するだろうか?

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ツイートのもとになった新井俊一郎さんの日記原文6/27~7/3
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