『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

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このうえない侮辱を加えたので、彼女はほとんど即座にいっさいの関係を断ってしまおうか、とさえ思ったくらいである。 とはいえ、彼女はまだ自分で自分をおさえながら、家へ帰って来たが、母にはうち明けずにいられなかった。ああ、そ・の晩、二人は以前のように、またすっかり隔てのない仲となったのである。隔ての氷は破られた。彼らはもちろん、いつもの癖で抱き合いながら、さんざん泣き通した。リーザはひ。どく陰気な顔つきをしてはいたものの、どうやら落ちついたらしかった。マカールーイヴァーヌイチのところへ来ても、囗こそまるできかなかったが、部屋を離れようとせず、一晩じゅうじっとすわり通していた。彼女はマカール老人のいうことを、一生懸命聞いていた。例の腰掛けの一件以来、彼女は老人に対してほとんど臆病なといっていいくらい、極端にうやうやしい態度をとるようになった。もっとも、無口なことは依然かわりなかった。 けれど、このときマカール老人は、びっくりするほど思いがけなく、会話の方向を転じたのである。ちょっとことわっておくが、今朝ほど、ヴェルシーロフは医者と二人で、彼の健康のことを恐ろしく心配そうに話し合っていた。なおそのほか、わたしたちの家ではもう二三日前から、母の誕生日を祝う準備をしていた。それはちょうど五日後にあたっているので、みんなしょっちゅうその話をしているうちに、老人はなぜかふと追憶気分になり、母の子供時代のことや、彼女がまだ『あんよのできなかった』時代のことを思い起こした。
 「これはな、わしの手からおりたことがなかったほどだ」と老人は懐旧にふけるのだった。「よくあんよを教えるといって、三足ほど離れた隅のほうに立たせておいて、おいでおいでというと、これはよちよちしながら、部屋を横切って来たものだ。しかも、いっこうこわがらずに、きゃっきゃっと笑いながら、わしのところまで走りつくと、-いきなり飛びかかって、首ったまに噛りつく。それからな、ソフィヤーアンドレエヴナ、わしはお前に昔噺をして聞かせたよ。お前は昔噺が大好きで、二時間くらいわしの膝にすわったまま、じっと聞いておったものだ。下男部屋でも、『よくまあマカールになついたもんだなあ』といって、不思議がるほどだったよ。またときによると、お前を森へつれて行って、木苺の茂みをさがし出すと、そのそばへすわらせておいて、わしはお前に木を切って、笛をこしらえてやったものだ。遊びほおけて、抱きながら、家へ帰って来ると、-いつの間にかすやすやと寝ておるのだ。一度なぞは狼におびえて、わしのところへ飛んで来るなり、がたがたふるえておったが、その実、狼などはまるでおりゃせなんだよ」 「それはわたしも覚えております」と母がいう。 「ほんとうに党えておるかな?」 「いろいろ覚えておりますよ。わたしは物心がついてからこのかた、あなたの愛情とお慈悲を、身にしみて感じました」と彼女はしんみりとした声でいったが、いきなりさっと顔を赤くした。 マカール老人はやや間をおいて、またいいだした。
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 「みなさん、ご機嫌よう、わしはもうあの世へ旅立って行かぺにゃならぬ。今日こそこの世の生涯の終わりが来たのだ。わしは年よってから、種々さまざまな悲しみを慰めてもろう’た。ありがとう、みなさん」 「縁起でもない、マカールーイヴ″-ヌイチ」とヴェルシー ロフは、いくらか心配そうに叫んだ。「さっき医者がそうい ったけれど、あなたの容体はずっといいそうですよ……」 母はおびえたように耳を傾けていた。 「いや、あんな人に、お前さんのアレタサンドルーセミョー‐ヌイチに、何がわかるもので」とマカール老人は微笑した。「あれはなかなかかわいい人だが、しかしそれだけのもの。だ。そんな気やすめはたくさんだ。それとも、わしが死ぬのを怖がっておるとでもお思いかな? きょう朝、祈祷の後で、わしは心の中で、もう決してここから生きて出ることはできぬと感じた。それはもうちゃんときまっておる。だが、それでけっこうなのだ。ああ、神の名は讃むべきかなだ。ただ、お前さん方みんなの顔を、いつまでもいつまでも眺めておりたい。受難者のヨブも、新しいわが子を見て心を慰めたが、しかし前の子らを忘れたろうか、忘れることができたろうか、-それはとてもできんこった!・ ただ年がたつのといっしょになんとなく悲しみが喜びに交り合って、明るい溜‐息に変わっていくような思いがする。世の中のことはそんなようなものなのじゃ。すべての魂は試みを受けもするが、また慰められもする。みなの衆、わしはお前さん方にひとこといい残そうときめたことがある」と彼は穏やかな美しい微笑
を浮かべながら、言葉をつづけた。わたしはそれを永久に忘れることができない。と、ふいに彼はわたしのほうへ振り向いた。「なあ、お前、神聖な教会を大事に守りなさい。そうして、もしそのときがきたらI一命を投げ出す覚悟でおりなさい。いやなに、びくびくすることはいらん、今すぐというわけではないのだ」と彼はにたりと笑った。「今はそういうことを考えてもおらぬか知らんが、やがてそのうち考えるようになるかもわがらん。ただもう一つこれだけのことをいわせてくれ。なんでもよいことをしようと思うたら、それは世間へのみえのためでなしに、神様のためにするがよい。自分の仕事にしっかりつかまっていて、決して浅はかな気持ちのために、その手をゆるめちゃならん。何ごとにまれ、うろたえてあちこち気を散らさぬよう、じっくりとやっていくがよい。お前の心得ておかねばならぬことは、まあ、こんなものだ。そのほかには、ただ毎日おこたらずにお祈りをあげる癖をつけなさい。これはほんの思いついたことをいっておくだけだが、またいつか思い出してくれるかもしれんて。それから、アンドレイーペトローヴィチ、あんたにも何かいっておきたいと思ったが、まあ、わしなどが差出口をきかいでも、神さまがあんたの心持ちを見ぬいてくださるだろう。いや、このことは、あの矢がわしの胸を打ちぬいてからこのかた、もう長いあいだ、口に出したことがなかったけれど、しかし今日はあの世へ旅立つ前に、ちょっくら思い出させてもらいましょう……あのとき約束したことをな……」 最後の言葉は目を伏せてほとんどささやくようにいった。



「マカールーイヴァーヌイチー」とヴェルシーロフは、ばつの悪そうな声でいい、椅子から立ちあがった。「いや、いや、何もきまりをわるがりなさることはありません。ただちょっくら話のついでに持ち出したまでだ……あのことで神さまに対して申しわけがないのは、だれよりも一番にこのわしだ。なぜといってごらん、たとえ自分の御主人とは言い条、ああいう意志の弱い行ないを、大目に見てはならんはずだ。だから、ソフィヤ、お前もあまりくよくよ思うことはいらぬぞ。お前の罪はそっくりそのままわしのものだからな、それに、あの時分のお前には、分別というものがあったかどうか、それさえおぼつかないくらいだて。ことによったら、あんたも彼女といっしょで、同じことだったかもしれませんな」何かしら一種の苦痛にふるえる唇で、彼はヴェルシーロフに笑いかけた。「そこで、ソフィヤ、わしはお前を鞭でこらしめることもできたし、またそうしなけりゃならぬはずだったが、お前が涙ながらわしの前に倒れて、何ひとつ包みかくしをせずに……わしの足を接吻したとき、わしはかわいそうになってしまった。これはな、ソフィヤ、お前を責めるためにいっておるのじゃない、ただアンドレイーペトローヴィチに思い出させるためなのだ……アンドレイーベトローヴィチ、あんたも貴族だから、ご自分の約束は忘れはなさるまいな。何ごとも婚礼をすれば隠れてしまう道理だ……わしはわざと子供らのまえでいうのですぞ、あんた……」 彼はなみなみならぬ興奮のていで、諾の答えを期待するかのように、ヴェルシーロフをじっと見つめていた。くり返し
いうが、あまりことの思いがけなさに、わたしは身動きもせずにすわっていた。ヴェルシーロフも、老人に劣らないほど興奮していた。彼は無言のまま母に近より、かたく両手に抱きしめた。それから、毋がこれもやはり無言で、マカール老人に近より、その足もとに低く会釈した。 一口にいえば、魂を震撼させるような光景が現出したのだ。折から部屋に居合わせたのは、みんな内輪のものばかりだった。タチヤーナ叔母さえ来ていなかった。リーザは妙に体を硬直させながら、じっと無言に耳をすましていた。と、ふいに立ちあがって、マカール老人にきっぱりといった。 「マカールーイヴ″Iヌイチ、わたしも祝福してくださいな、大きな苦痛を前に控えているんですから。明日はわたしの運命がすっかりきまってしまいます……だから、あなた、今日わたしのことを祈ってくださいな」 こういうなり、部屋を出て行った。マカール老人は母の口から、彼女のことをあまさず承知していたのである。それはわたしも知っていた。しかし、わたしはこの晩はじめて、ヴェルシーロフと母がいっしょにならんでいるのを見た。それまでわたしは彼のそばにただ女奴隷を見るにすぎなかった。わたしはまだ彼の人物について知らないことが。恐ろしくたくさんあった。恐ろしくたくさん、気のつかないことがあった。しかも、わたしは彼を非難していたのだ。で、わたしはある当惑を感じながら、自分の部屋へ帰った。ことわっておかねばならないが、ちょうどこの時分、彼に関するわたしの疑惑が、いよいよ濃厚になっていったのである。この時分ほ
ど、彼が神秘的な謎の人物に思われたことは、かつてないくらいだ。しかし。つまりこの点に、本編の全骨子が含まれているのだ。いっさいはその時期を待って、明らかにされるだろう。 『だが』もう寝床へはいりながら、わたしはそのときこう考えた。『あれで見ると、ヴェルシーロフはマカールーイヴ″Iノヴィチに、老人が死んだら母と結婚するという、貴族としての誓言をしたわけなのだが、しかしこのまえマカール老人のことを話して聞かせたとき、このことはなんともいわなかったぞ6 翌日、リーザはいちんち家にいなかった。ところが、もうかなりおそくなって帰って来るやいなや、いきなりまっすぐにマカール老人の部屋へはいった。わたしは二人の邪魔をしないために、はいって行かないつもりだったが、やがてそこにはもう毋やヴェルシーロフがいるのに気づいて、わたしもはいって行った。リーザは老人のそばにすわって、その肩に顔を伏せながら泣いていた。こちらは悲しげな顔つきで、無言のまま彼女の頭を撫でていた。 ヴェルシーロフが説明してくれたところによると(それは後でわたしの部屋へ来てからのことである)、公爵はどこまでも自説を固持して、できるだけ早く、裁判の決定以前に。リーザと結婚しようと決心した。リーザはなかなか踏んぎりがつかなかったが、それを決行しないなどという権利は、もはやほとんど持っていないのだった。それに、マカール老人も結婚を『命令』した。もちろん、いっさいのことは後でお
のずと解決がついて、彼女も命令や動揺なしに、われから結婚したに相違ないのだが、目下のところ、彼女は自分の愛する人に侮辱を受け、自分自身の目から見てさえも、この愛情のために卑下されてしまっていたので、彼女は容易に腹がきまらなかった。しかし、侮辱のほかに、わたしの夢にも思いよらなかった新しい事情がからんできたのである。 「お前、聞いたかね、例のペテルブルグ区にいる若い連中が、昨日みんな逮捕されたって話を?」ふいにヴェルシーロフがこういい添えた。 「なんですって? デルガチョフですか?」とわたしは吽んだ。 「そうだ。それにヴァージンもやはり」 わたしは雷に打たれた思いだった。ヴ″Iシンの名を聞いたときは、なおさらである。 「いったいあの男が何かに巻き込まれていたのかしら? ああ、あの男はどうなるのだろう? それにわざと狙ったように、リーザがあんなにひどくヴ″-シンをやっつけたとき、こんなことがもちあがるんだからなあ!………いったいあの連中はどうなると思います? これはスチこヘリコフに相違ない! 誓ってスチェベリコフの細工に相違ありませんI」「まあ、こんな話はよそうよ」奇妙にわたしの顔を見て、ヴェルシーロフはいった(それは悟りの鈍い、察しの悪い人間の顔を見る目つきだった)。「あの連中が何をしたのやら、また、これからさきどうなるのやら、そんなことをだれが知るものかい。わたしはそんなことをいったのじゃない。なんで



も、お前はあす外出するそうだが、セルゲイ公爵のところへ寄ってみないかね?」 「何よりもまっさきに。もっとも、正直なところ、それはぼくにとって実に苦しいのですが……なんです、何かおことづけでもありますか?」 「いや、何もない。自分で会うよ。わたしはりIザがかわいそうだ。マカール老人だって、あれになんの忠告ができるものか!・ あの先生は自分でさえ、人間のことも生活のことも、いっこうごぞんじないのだからな。それからね、かわいいアルカーシャ(彼はもうかなり久しく、わたしのことを『かわいいアルカーシャ』と呼んだことがなかった)、お前の知合いに……また別の若い連中がある……その中に一人お前の昔馴染みで、ランベルトというのがいる……あの手合いはみんな恐ろしいやくざ者らしい……わたしはただお前に警告しておきたいと思ってね……もっとも、むろん、それはお前の私事だから……わたしに干渉の権利がないのはわかってるが……」 「アンドレイーペトローヴィチ」わたしは何も考えず、感激にまかせて(わたしにはそういうことがよくあった、-このとき部屋の中は、もうほとんどまっ暗だった)、彼の手をつかんだ。「アンドレイーペトローヴィチ、ぽくは沈黙をまもっていました。なぜかごぞんじですか? それはあなたの秘密を避けるためだったのです。ぼくはそんなものを永久に知るまいと決心しました。ぽくは臆病ものだから、あなたの秘密がぼくの胸からあなたというものを、根こそぎ引きぬいてしまいはせぬかと、それが怖かったのです。それはぼくい
やなんです。そうだとすれば、あなただってぽくの秘密を知ってなんにします? ぼくがどんな方向へ進んだって、あなたにとっては同じことだ、というふうにしようじゃありませんか!・ ねえ、そうでしょう?」 「そのとおり。だが、もうこのことは一口もいいっこなし、後生だから!・」彼はそういい切って、わたしの部屋を出て行った。 こうして、わたしたちは思いがけなく、ほんのちょっぴり胸を割って見せ合った。しかし、それは明日に迫った新生活の第一歩に対する興奮を、さらにかき立てるばかりだった。そのためわたしは夜っぴて、のべつ目ばかりさましていた。けれど、それでもいい気持ちだった。      3 そのあくる日、わたしは家を出た。もう朝の十時だったが、だれにも挨拶をしないで、いわば滑りぬけるような具合に、黙ってそっと出て行こうと、一生懸命苦心した。なんのためにそんなことをしたのか、わたしも知らない。けれど、もし母がわたしの出て行くところを見つけて、話をしかけたと仮定しても、わたしは何か意地のわるい返事をしたに相違ない。往来に出て、そとの冷たい空気を吸い込んだとき、わたしはなんともいえない厳しい感じに、思わず身ぶるいした、1それはほとんど動物的な感触で、貪婪とでもいいたいくらいだった。なんのために、どこへ行くのか? それはきわめて漠然としていたが、同時に貪婪なものだった。わた
しは恐ろしくもあれば、うれしくもあった。何もかもいっしょくただ。『おれは今日、自分の顔を汚すような真似をするか、どうだ?』とやや気どり気味でわたしは考えた。とはいえ、いったん踏み出した今日の第一歩が、生涯の運命を決するような、取り返しのつかないものになるであろうとは、わかりすぎるくらいわかっていた。しかし、何もこんな謎々話をするにはあたるまい。 わたしはまっすぐに、公爵の収容されている監獄へおもむいた。もう三日ばかり前から、典獄にあてたタチヤーナ叔母の手紙を持っていたので、典獄は気持ちよくわたしに接してくれた。彼が好人物かどうかはわからない。それに、そんなことは余計な詮索だと思う。が、とにかく、彼は公爵との面会を許し、快く自分の部屋をあけわたし、そこで自由に話をさせた。部屋はただの部屋で、中どころの役人が住んでいる官宅内の、ごくありふれた一室だった。こんなこともくだくだしく書く必要はなかろうと思う。こういうわけで、わたしは公爵とさし向かいになった。 彼は半分軍鞣式の妙なガウンめいたものを着て、わたしの前に現われた。しかし、シャツは雪のように白く、それに洒落たネクタイなどしめて、顔もきれいに洗いあげ、頭にもきちんと櫛目がはいっていたが、同時に恐ろしくやせこけて、黄ばんだ顔色をしていた。この黄ばんだ色は、その両眼にさえ認められた。一口にいえば、彼はすっかり面がわりしてしまっていたので、わたしは思わずけげんそうに立ちどまった
ほどである。「ずいぶんかわりましたね!」とわたしは叫んだ。「そんなことはなんでもないです! まあ、きみ、おすわんなさい」彼はやや気どった態度で、わたしに肘掛けいすを示し、自分はその真向かいに腰を下ろした。「用談にうつりましょう。実はね、親愛なるアレクセイ君……」 「アルカージイですよ」とわたしは訂正した。 「なんですって? ああ、そう。まあ、まあ、どっちだっていいや…:あっ、これは!」彼はふいに気がついた。「どうも失敬しました。きみ、用談にうつりましょう……」 手短かにいえば、彼は何かの話にうつろうとして、やたらにせかせかしていた。彼は全身、頭から足の爪先まで、何かの重大な想念に充たされて、これをわたしに具体化して見せようとあせっていたのである。彼は苦しいほど緊張して、身ぶり手まねを交ぜながら、恐ろしく早口に、多弁を弄して説明したが、わたしははじめしばらく、まるで何ひとつわからなかった。 「てっとりばやくいえば(彼はもうそれまで十ぺんくらい、『てっとりばやくいえば』という言葉を使ったのである)、てっとりばやくいえば」と彼は言葉を結んだ。「ねえ、アルカージイ君、わたしがあなたにご迷惑をかけたのは……昨日リーザを通して、ああしつこくおいでを願ったのは、あれは一種の火事みたいな騒ぎなのですが、この決心の本質が容易ならぬものであり、かつ決定的なものであるから、そこでわれわれは……」
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 「ちょっと失礼ですが、公爵」とわたしはさえぎった。「あなたはきのうぼくを呼んだのですか? リーザはいっこうなんにもことづけをしませんでしたが」 「なんですって?」なみなみならぬ不審の体で、ほとんどおびえたように立ちあがりながら、彼はだしぬけにこう叫んだ。 「いっこうなんにもことづけをしませんでしたよ。あれはゆうべ、ひどく興奮した様子で帰って来たもんですから、ぽくと一口も話をする暇がなかったほどです」 公爵は椅子からおどりあがった。 『いったいそれはほんとうですか、アルカージイ君? そうだとすれば、これは……y』れは……」 「しかし、ぜんたい、それがどうしたってんです? なんだってあなたは、そう心配そうにしているんです? ただあれが忘れたか何かでしょう……」 彼は腰をおろしたが、急に茫然自失したような具合だった。リーザがわたしになんのことづけもしなかったという報知は、さながら彼を粉砕したかと思われるばかりだった。彼はとつぜん、また両手を振りまわしながら、早囗にしゃべりだしたが、やはり恐ろしくわかりにくかった。 「待ってくださいI」ふいに言葉を止めて、指を上のほうへあげながら、彼はこういった。『待ってください、これは……これは……もし、ぼくの考え違いでないとすれば……y』れには日くがあるぞ!………」彼は偏執狂じみた微笑を浮かべながらつぶやいた。「つまり、その……」 「つまり、それはぜんぜん意味のないことですよ!」とわた
しはさえぎった。「なぜそんなつまらないことが、そうあなたを苦しめるのか、わけがわからない……ああ、公爵、あのときから、あの晩から、―ねえ、党えてるでしょう……」「どの晩からどうしたというんです?」わたしが横槍を入れたので、さもいまいましくてたまらないというふうに、彼はいかにも気まぐれらしく叫んだ。 「ゼルシチコフのことですよ、ほら、ぼくらが最後に会ったあの晩、ね、覚えてるでしょう、あなたの手紙をもらうまえのことですよ。あのときも、あなたはむやみに興奮していましたが、しかしあのときと今とは、-大変な相違で、ぼくはあなたのために恐ろしくなるくらいです……それとも覚えがありませんか?」 「ああ、そうそう」彼はいかにも社交場裡の入らしい声で、急に思い出したとでもいうようにこう受けた。「ああ、そうそう! あの晩ね……わたしも聞きましたよ……ところで、きみの健康はどうです?・ そして、ああいうことがあった後で、今どんなふうにしていますか、アルカージイ君?・・・・・・・そう、しかし、本題にうつりましょう。実はね、わたしは三つの目的を追及しているんです。三つの問題がわたしの前に控えてるんです。そしてわたしは……」 彼はまたその『本題』というものを早口に話しだした。そのうちとうとうわたしも気がついた。いまわたしの前にいる人間は、よしんば放血術を施さないにもせよ、少なくとも、酢に浸したタオルを、さっそく額にあてなければならない病人なのである。彼のしどろもどろな会話は、はじめからし
いまで、もちろん、この事件の経過とその結果いかんという疑問を、堂々めぐりするばかりだった。それからまた、連隊長が親しく彼を訪問して何か長いあいだ忠告を試みたけれど、彼がその言葉にしたがわなかったということや、彼が最近どこかへ出したとかいう書面のことや検事のことや、必ず官位を剥奪されて、どこかロシヤの北部へ流刑されるに相違ないということや、タシケントあたりに移住を命じられて、そこで一定の期間を務めあげる可能性があるということや、自分の息子に(リーザとの間に生まるべき未来の息子に)『アル『ングルスクのホルモゴールイあたりの片田舎』でしかじかのことを教え込んで、しかじかのことを伝えてやろうとか、そういったふうの話だった。 「アルカージイ君、わたしがあなたの意見を求めたのは、まったくのところ、肉親の情愛というものを尊重するからです……アルカージイ君、わたしにとってりIザがどんな意味を持っているか、今ここで、この牢獄生活のあいだに、あれがわたしにとってどういう意味を持っていたか、それをあなたがごぞんじだったらなあ、それをあなたがごぞんじだったらなあ!」両手でわれとわが頭をつかみながら、彼は唐突にこう叫んだ。 「公爵、いったいあなたは、あれの一生を台なしにしようというのですか、あれをいっしょに連れて行こうというのですか?・……ホルモゴールイヘ?」わたしはこらえきれないで、思わず声をつつぬけさせた。 この偏執狂と生涯をともにしなければならないりIザの運
命が、とつぜんはっきりと、まるで初めてのように、わたしの意識に映った。彼はわたしをちらと眺めて、ふたたび立ちあがり、一足歩きだしたが、くるりと向きを変えて、やはり両手で頭をおさえたまま、またもや腰をおろした。 「わたしはしじゅう蜘蛛の夢ばかり見るんですよ」と彼はだしぬけにいった。 「あなたは恐ろしく興奮していますよ。惡いことはいわないから、公爵、すぐ横になって、医者をお呼びなさい」 「いや、失礼ですが、それは後のことです。何よりも第一に、わたしがあなたをお呼びしたのは、結婚の話をするためだったのです。紡婚式はご承知のとおり、ここの教会で挙げることにします。それはもう前にいったとおりです。これについては、すでに同意をえているばかりか、みんなから激励の辞さえもらっているくらいです……リーザのことにいたっては……」 「公爵、リーザを容赦してやってください、ねえ」とわたしは叫んだ。「あれを苦しめないでください。少なくとも、せめて今夜だけでもやきもちを焼かないで!」 「なんですって!」目を丸くして、じっとわたしを見つめながら彼はこう叫んだ。その顔は無気味な、もの問いたげな、妙な長たらしい微笑に歪んでいた。 『やきもちを焼かないでください』という言葉は、なぜか彼に恐ろしいショ″クを与えたらしい。 「ご免なさい公爵、ぼくついうっかりして……ねえ、公爵、ぼくは最近ひとりの老人と知合いになりました、ぽくの法律



上の父親なのです……ああ、もしあなたがその人をごらんになったら、あなたももっと落ちついて……リーザもやはりその老人にすっかり敬服していますよ」 「ああ、そう、リーザ……ああ、そうそう、それはきみのお父さんですね? それとも……どうも失礼、何かそんなふうのことを聞いたっけ……覚えがありますよ……リーザがそんな話をしていたっけ……かわいいお爺さんだって……たしかにそうです、たしかにそうです。わたしもある老人を知っていましたよ……だが、こんな話はよしましょう。何よりかんじんなのは、この現状の本質を闡明することです、どうして わたしは立ちあがり、出て行こうとした。彼の顔を見ているのが、苦痛になってきたのだ。 「これは合点がいきませんねI」わたしが立ちあがって、帰り支度をするのを見ると、彼はいかついものものしい調子でいった。 「ぼくはあなたを見ているのが苦痛なんです」とわたしはいった。「アルカージイ君、たったひとこと、ほんのひとことだけ!」今までとまるで違った表情と身振りで、彼はいきなりわたしの肩をおさえ、肘掛けいすにすわらせた。「きみ、聞きましたか、あの連中の話を、わかるでしょう?」と彼はわたしのほうへかがみ込んだ。「ああ、そう、デルガチョフのことでしょう。あれはきっとスチェペリコフの細工ですよ!」わたしは我慢しきれない
でこう叫んだ。 「そう、スチェペリコフ……では、きみは知らないんですね?」 彼は急にぷつりと言葉を切って、また例のとおり目をむきだし、例のとおり意味のない、もの問いたげな、長ったらしい感じのする、痙攣的な微笑を浮かべながら、またしてもわたしを見つめた。痙攣的な微笑は次第にひろがっていく。彼の顔はだんだん青くなった。とつぜんある何ものかが、わたしを震撼したような気がした。昨日、ヴェルシーロフがヴァージンの捕縛を報告したとき、彼の見せた異様な目つきを、わたしは思い出した。 「ああ、いったいあなたは?」とわたしはおびえたように叫んだ。 「ねえ、アルカージイ君、わたしがきみをお呼びしたのは、事情を釈明するためなんです……実は……」と彼は早口にささやきはじめた。 「じゃ、ヴ″Iシンを密告したのは、あれはあなたですね?」とわたしは叫んだ。 「いや、違います。実はね、これにはある一つの原稿がからみついてるんです。ヴ″Iシンはちょうど捕縛の前日に、それをりIザにわたしました……保管のためにね。ところが、リーザは目を通すようにといって、それをわたしに置いて行ったのです。すると、その後で、その翌日、二人は喧嘩をするようなことになったものだから……」 「あなたはその原稿を当局にわたしたんです!」
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 「アルカージイ君、アルカージイ君I」 「それじゃあなたは」わたしは椅子からおどりあがって、一語一語明瞭にくぎりながら叫んだ。「あなたは、ほかにこれという動機もないのに、ほかにこれという目的もないのに、ただ不仕合わせなヴァージンがあなたの競争者であるばっかりに、ほんのただやきもちの情にがられて、リーザの預かった原稿をわたしてしまったのです……いったいだれにわたしたのです? だれに? 検事ですか?」 けれど、彼が答える暇もなく(それに、ほとんど何ひとつ答えることができなかったに相違ない。なぜなら、彼は病的な微笑を浮かべ、凝結したような視線をそそいだまま、まるで彫像のようにわたしの前に立っていたからである)、ふいに戸が開いて、リーザがはいって来た。わたしたちがいっしょにいるのを見て、彼女はあわや気絶しないばかりだった。 「あんた、ここにいたの? まあ、ここにいたの?」とつぜん顔をまげて、わたしの両腕をつかみながら、彼女はこう叫んだ。「じゃ、あんたは……知ってるのね?」 しかし、彼女はもうわたしの顔に、わたしが『知っていろ』ということを読みとった。わたしはいきなりがむしゃらに、強く強く彼女を抱きしめた! その瞬間、わたしは初めて、このみずから進んで苦痛を求めている女性の運命を、救いのない無限の暗黒な悲哀が、永久にとざしていることを、痛切に悟ったのである。 「それに、いったいこの人といま話ができると思って?」ふいに彼女はわたしから身をもぎ離した。「この人といっしよ
にいることができると思って? なんだってあんたここへ来たの? まあ、あの人をごらんなさい、ちょっとごらんなさい! いったいあの人を裁いたりなんかすることが、できると思って? できると思って?」 彼女がこう叫びながら、不幸な夫を指さしたとき、その顏には無限の苦痛と、同情が現われていた。彼は両手で顔をかくしたまま、肘掛けいすに腰をかけていた。まったく彼女のいうとおりだった。彼は熱病にうかされていて、責任など負うことのできない人間だった。ことによると、すでに三日も前から、責任を負うことなどできなかったのかもしれない。その朝、彼は病院へ移され、夕方にはもう脳膜炎を起こしたのである。 わたしはりIザと公爵を残して、午後一時ごろ、その足ですぐわたしのもとの住居へ立ち寄った。いい忘れたが、それは湿っぽいどんよりした日で、象でさえ神経衰弱を起こしそうな、雪どけ模様のなま暖い風が吹いていた。家主は恐ろしく喜んで、せかせかそわそわしながら、わたしを出迎えた。こんなときに、わたしはそうした応対ぶりがいやでいやでたまらない。わたしはそっけなくあしらって、いきなり自分の部屋へはいった。しかし、主人はわたしの後からついて来て、面と向かってきく勇気がないけれど、好奇の色がまざまざとその目に輝いていた。そのうえ、好奇心をいだく権利さえあります、といわんばかりの顔つきをしているではないか。



わたしは自分自身の利益のために、くぞ丁寧な態度に出なければならなかった。何やかや聞き出さなければならない必要に迫られていながら(そして必ず聞き出せる自信を持っていたが)、それでも質問をはじめるのがいやだった。わたしは細君の健康のことなどきいてみて、それから二人で細君の部屋へ行った。細君は注意ぶかい態度でわたしを迎えたが、その顔つきはひどく事務的で、余計な囗はききません、とでもいうような表情をしていた。それがいくぶんわたしの我を折らせた。手短かにいうと、わたしはそのとき思いきって変わったことを聞き出したのである。「いや、むろんランベルトが来ました。それから後でまた二度ばかりやって来て、もしかしたら、借りるかもしれないとかいうことで、部屋という部屋をみんな見て行きました。ダーリヤーオユーシモヴナも二三ど見えました。あの人なぞは何用で来たのか、てんでわけがわかりません。やっぱりいろんなことを根掘り葉掘りききましたよ」と、主人はつけ加えた。 しかし、わたしは彼を慰めようとしなかった。つまり、何を彼女が根悁り葉捐りしたのか、きいてみなかったのである。概して、わたしはくどくどきかなかった。主人が一人でしゃべっているばかりで、わたしは鞄の中をかきまわすようなふりをしていた(その中には、ほとんど何ひとつ残っていなかったのだ)。けれど、何よりいまいましいのは、主人までが秘密ごっこをしようという了簡をおこしたことである。わたしが問いを控えているのに気がついて、彼もやはり断片
的な、ほとんど謎めいた話しぶりをするのを、自分の義務と心得たらしい。 「お嬢さんもやはりお見えになりましたよ」妙な目つきでわたしを見ながら、彼はこういい添えた。 「お嬢さんてだれ?」 「アンナーアンドレエヴナで。二度お見えになりました。妻もお近づきを順いましたよ。実に優しい方ですな、実に気持ちのいい方ですな。ああいう方とお近づきになるのは、まったくもって光栄のいたりですよ、アルカージイーマカーロヴィチ……」 そういって、彼はわたしのほうヘー歩ふみ出した。わたしに何か合点させたくてたまらなかった。 「え、二度も?」とわたしはびっくりした。 「二度目には、お兄さまとごいっしょでした」 『それはランベルトだ』ふいにこういう考えが、思わずわたしの頭に浮かんだ。 「いいえ、ランペルト様じゃありません」まるでわたしの魂へ視線をさし込んだように、彼はたちまちわたしの考えを見ぬいてしまった。「あの方のお兄さまでございます。ほんとうにヴェルシーロフの若様なので。侍従武官でしたね、たしか?」 わたしはすっかりまごついてしまった。彼は恐ろしくずるそうな目つきでわたしを見つめていた。 「あっ、まだお見えになった人がありますよ、あなたをたずねて見えた人が、-それは、あのマドモアゼルですよ、フ
ランス女ですよ、アルフォンシーヌードーヴェルダン。ああ、歌の上手なことはどうでしょう、それから、詩の暗誦の素晴らしいこと! そのとき内証でツァールスコエの老公爵のところへお出かけになりました。狆を売るといってね。まるで掌に隠れそうな、まっ黒な、珍しい犬でしたよ……」 わたしは頭痛を囗実にして、一人きりにしてほしいと頼んだ。彼はさっそくその要求を入れ、すこしも怒った様子を見せないで話を中途で切ったまま、『わかっていますとも、わかっていますとも』とでもいいたそうに、秘密めかしく片手をふりながら、ほとんど満足そうに出て行った。実際、彼はこの言葉を口にこそ出さなかったけれど、そのかわり爪たちで部屋を出て行って、一人で悦に入った。世の中にはまったくいまいましい人間があればあるものだ。 わたしは一時間半ばかり思いを凝らしながら、一人ですわっていた。もっとも、思いを凝らしていたのではなく、ただぼんやり考え込んでいたばかりである。わたしはまごついてこそいたけれど、そのかわり、少しもびっくりしてはいなかった。それどころか、もっと何か大きなものを期待していた、もっと大きな奇蹟を待ちうけていたのである。 『ことによったら、今もうあの連中は、その奇蹟をしでかしてるかもしれない』とわたしは考えた。わたしはもう前から、家にいた時分から、彼らのからくりはもう螺旋を巻かれて、いま全速力で運転中に相違ないと、かたく信じて疑わなかった。『彼らはただ、ぼくの登場を待っていたばかりなのだ』一種いらだたしいような、しかも気持ちのいい満足感を
覚えながら、わたしはまたこう考えた。彼らが一生懸命にわたしを待ち焦れていることも、わたしの住居で何かひと芝居打とうとしていることも、1火を見るように明らかだった。 『もしかしたら、老公の結婚式じゃないかしら? あの人は四方から勢子に狩り立てられているのだ。しかし、諸君、ぼくがそんなことをさせるかどうか、こいつが見ものですよ!』また誇らしい満足感をいだきながら、わたしはこう結んだ。 『いったん于をつけるが早いか、また木っぱのように、すぐ渦巻きの中へ巻き込まれてしまうに相違ない。いったいおれは今この瞬間、自由なのだろうか、それとも、もう自由じゃないのか知らん? 今晩もお母さんのところへ帰って、この二三日やって来たように、おれは独立不羈の人間だと、自分にいうことができるだろうか?』 これがそのとき一時間半ばかり、片隅の寝台の上にうずくまって、両肘を膝の上にのせ、掌で頭をささえながら、わたしが自分自身に発した問い、というより、むしろ心臓の動悸のエ。センスだった。しかし、こういう問いはみんなばかげきったことで、わたしを引きずっていくものはただ彼女ばかりだ、ということをわたしは知っていた。そのときもうちゃんと知っていたのだ、-彼女だ、彼女ひとりきりだ! とうとうわたしはこの言葉をぶっつけにいってしまった。ペンで紙の上に書いてしまった。まったく一年たって、この記録を書いている今でさえも、当時のわたしの心持ちを正確に定義するには、いかなる言葉を用いたらいいか、いまだにわからないのだ!



 ああ、わたしはりIザがかわいそうだった。わたしの心は純な偽りならぬ痛みに悩んでいた! ただ彼女を思うこの心の痛みばかりでも、たとえほんの一時にもせよ、わたしの内部にひそんでいる貪婪性(わたしはまたこの言葉を使う)を弱め、柔らげることができたはずだ。しかし、わたしは量り知れないほどの好奇心と、一種の恐怖と、それからまだほかのある感情のために、ぐんぐん引きずられていった。どんな感情かわからないが、ただそれがよくないものであることだけは、すでにそのときからわかっていた。ことによったら、わたしは鯲かの足もとに身を投げ出そうと、あせっていたのかもしれない。が、またことによったら、彼女をありとあらゆる苦痛の中へおとしいれて、『なるべく、少しも早く』彼女に何ごとかを説明しようとしていたのかもしれない。リーザに対するいかなる同情も、いかなる悩みも、もはやわたしを引き止めることはできなかった。実際、わたしがそのとき立ちあがって、自分の家へ、-マカール老人のところへ帰ることができたろうか? 『なに、ただ彼らのところへ出かけて行って、いっさいのことを彼らの囗から聞いたのち、ありとあらゆる奇蹟や、奇怪事のそばを平然と通りぬけながら、永久に彼らのもとを去ってしまえないはずもなかろう』 三時ごろふとわれに返って、ほとんど遅刻しそうなのに気がつくと、わたしは大急ぎでそとに出、辻馬車をやとい、アンナのもとへ飛んで行った。
第5章 ランベルトとその一味
      ・― アンナーアンドレエヴナは、わたしの来訪を聞くが早いか、刺繍の仕事をほうり山して、大急ぎで次の間へ出迎えた、-それは以前なかったことだ。彼女はわたしに両手をさし伸べて、みるみるうちに赤くなった。彼女は、i無言のままわたしを居問へ案内し、ふたたび刺繍台のそばへ腰をおろしながら、わたしにもならんですわれといった。けれど、もう刺繍には手をつけず、ひとことも囗をきかないけれど、例の熱心な興味と関心の表情で、いつまでもわたしを見つめていた。 「あなたはぼくんとこヘダーリヤさんをよこしましたね」あまりに大仰な興味の表情を愉快がりながら、同時にそれを幾分もてあつかい気味で、わたしはいきなりこう切り出した。 彼女はわたしの問いに答えないで、急に自分の話をはじめた。 「あたしみんな聞きましたわ、あたしみんな知っています。なんて恐ろしい夜だったでしょう……ああ、あなたはずいぶんお苦しみなすったでしょうねえ! あれはほんとうですの、-あなたが気を失って、雪の中に倒れてらしったってのは、いったいほんとうのことですの?」「それはあなた……{フンベルトから……’‘とわたしは顔を赤
くしながらつぶやいた。 「あたしあの大からあのときすぐに、何もかも知りましたわ。だけど、あなたを待ってましたの。ええ、あの大はびっくりして、あたしのとこへ駆けつけたんですの! あなたのお家では……あなたが病気してねていらしったお家では、あなたに面会させようとしないで……なんだか妙な応対ぶりだったそうですの……正直なところ、あたし詳しい様子は知りませんけど、あの晩のことはすっかり、あの大から聞きました。あの人の話でみますと、あなたはやっと気がつくかつかないうちに。いきなりあたしのことを……あたしに心服してらっしゃるってことを。あの大におっしゃったそうですね。あたし涙の出るほどありかたく思いましたわ、アルカージイさん。どういうわけで、そう熱烈な崇拝を捧げていただくようになったのか、あたしまるでわかりませんわ。しかもそのとき、あなたはあんなありさまになってらしったんですものね1 ねえ、ランベルトさんはあなたの幼な友達ですの?」 「そうです。しかし、あの場合は……正直なところ、かなり不注意だったので、ぼくもひょっとしたら、口から出まかせをいったかもしれません」            ` 「ああ、あの恐ろしい腹黒な陰謀のことなら、あたしあの大に聞かなくたって、造作なく嗅ぎ出せましたわ!・ あたしいつも、そう思ってました、-あの大たちはきっとあなたを、そういう目にあわすに相違ないって。ねえ、ほんとうですか、ビーーリングが失礼千万にも、あなたに手を振りあげようとしたのは?」
 彼女の口ぶりは、まるでビョーリングと彼女だけのおかげでわたしがよその家の塀の下に倒れた、とでもいうようだった。実際それは彼女のいうとおりだ(とわたしは考えた)。けれど、わたしは思わずかっとなった。「もしあの男がぼくに手を出したら、そのまま無事に帰れるはずがありません。それに、ぼくも復讐をしないで、こうしてあなたの前にすわっていられる道理がないじゃありませんか」とわたしは熱くなって答えた。 何よりもおかしいのは、彼女がなんのためかわたしを嘲弄して、だれかにけしかけようとしているのを悟りながら(もっとも、だれにけしかけるのか、-わかりきっている)、それでもわたしはその手に乗ってしまった。 「あなたはぼくがそんな目にあわされるのを、ちゃんと見ぬいていたとおっしゃるけれど、アフマーコヴ″夫人としては、もちろんただの間違いにすぎなかったのです……もっとも、あのひとのぼくに対する親切な感情を、あんまり早くこの間違いに代えてしまわれましたがね……」 「つまりそれなんですよ、あんまり早すぎるんですよ!・」何かこう同感の感激とでもいうような調子で、アンナは引きとった。「ああ、今あの人たちがどんな陰謀をめぐらしているか、それをあなたがごぞんじだったらばねえ! ねえ、アルカージイさん、今のあなたには、あたしの立場がどんなに尻くすぐったいか、とてもおわかりにならないでしょうけど」と彼女は顔を赤らめて、目を伏せながら、こういった。「この前あなたとお会いしましたね、あのときから後、―いえ、



ちょうどあの朝、あたしは思いきって、あることを決行しました。それはあなたのように、まだ人間社会のバチルスに感染しない頭脳と、何ものにもそこなわれない愛に充ちた、新鮮な心を持った大でなければ、だれにでも理解できないようなことなんですの。誓って中しますが、あなたの捧げてくださる心服の情をあたしはありがたく思ってます。そして、永遠の感謝をもってそれに酬いたいと思いますの。世間ではもちろん、あたしに石を投げるでしょう、もう石を拾い上げた者もあります。けれど、よしんば世間のくさった目から見て、あたしが惡いにもせよ、いったいだれがあのときのあたしを非難することができるでしょう、だれにそれだけの勇気があるでしょう? あたしは幼いときから、父に見すてられた女です。あたしたちヴェルシーロフー族はロシヤの古い名門です。そのあたしたちが、渡り者かなんぞのように、お情けで人のパンを嚼っているんですからね。ですから、幼いときからあたしのために父親になりかわって、長年めんどうを見てくだすった大を、頼りにするのはあたりまえじゃありませんか。あの方に対するあたしの心持ちを見ぬいて、裁いてくださるのは、ただ神さまぽかりですわ。ですから、あたしは自分の行為に対して、世間の裁きを認めるわけにいきません’・おまけに、言葉につくせないほど狡猾な、途方もない腹黒い陰謀が隠れてるんですもの。現在生みの娘が、信頼心の厚い寛仁大度の父親を破滅させようなどと、企んでいるんですもの、-これがどうして黙って見ていられましょう? いいえ、たとえ自分は世間の悪評をきても、あたしはあの方を
救います! ただもうあの方のお守りをして暮らす覚悟です。あの方の番人か付添いになり下ってもかまいません。とにかく、冷酷ないまわしい世間の打算的な人たちに、凱歌をあげさすわけにいきません!・」 彼女はなみなみならぬ興奮の語調で、これだけのことをいった。それは半分くらい付焼刃かもしれないが、しかしなんといっても、真剣には相違なかった。なぜなら、彼女がこの事件に全身をあげて打ち込んでいることは、明瞭にうかがわれたからである。ああ、わたしは彼女がうそをいっているのを直感した(もっとも、それは誠意から出たものだった。実際、まごころからうそをつくこともできるものだ)。わたしは現在、彼女の陋劣さを感じながら、しかも不思議なことには(女というものはこうしたものだが)、一糸乱さぬ彼女の態度、洗練しきったすべての形式、そばへも寄せつけないような上流婦人の取りすました様子、プライドに充ちた純潔無垢な表情、-こういうものがすっかり、わたしをまごつかせてしまった。で、わたしは何もかも彼女に同意しはじめた。ただし、それは彼女のところにいる間だけだったが、少なくとも言葉を返そうなどとは思いもよらなかった。ああ、男というものは精神的に見て、断然女の奴隷である。もし寛大な男ならばなおさらだ’・ こういう種類の女は寛大な男を、いかようにもいい伏せることができるに違いない。 『この女とランベルト、-こりゃ大変だ!』あきれ気味で相手を見つめながら、わたしはこう考えた。もっとも、すっかりいってしまわなければならない。わたしは今でもまだ彼
女を裁く力がないのだ。彼女の感情は、まったく神よりほかに見ぬくことができない。おまけに、人間というものは実に複雑な機械で、ときとすると、何が何やらわけのわからぬことがある。そのうえ、もしこの人間が女である場合には、なお大変だ。 「アンナさん、いったい、あなたはぽくから何を期待しているんです?」とわたしはたずねたが、それはかなり断乎たる調子だった。 「なんですって? あなたの問いはどういう意味なんですの、アルカージイさん?」 「ぼくはあらゆる点から推して……それに、また二三の事実を照らし合わせて見て……」とわたしはしどろもどろに弁明した。「あなたがぼくんとこへお使いをおよこしになったような気がするんですよ。何かぼくから期待していらっしゃるようですね。いったいそれはなんですか?」 わたしの問いには答えず、彼女は前と同じく早口に勢い込んで、いきなりまたしゃべりだした。 「だけどあたしは、ランベルトさんみたいな見も知らない人たちと、交渉や取引きをはじめたりするには、あまり誇りが強すぎるんですの!・ あたしが待っていたのはあなたなんで、ランベルトさんじゃありません。あたしの立場は実にきわどい、恐ろしいものなんですよ。アルカージイさん! あたしはあの女の奸計に取り巻かれていて、始終その裏をかくのに苦心しなければなりません、-それがとてもたまりませんのよ。あたしは自分でも、ほとんど陰謀を弄しないばかりに、
身を落としてしまったので。あなたを救い主のように待ち焦れていました。せめて一人でも親友を見つけ出そうとして、貪るようにあたりを見まわしているからって、あまりそれを咎めちゃいけませんわ。こういうわけで、あたしはとつぜんあらわれた親友を、歓迎せずにいられませんでした。あの晩、ほとんど凍え死にしそうなありさまでいながら、あたしのことを思い出して、ただあたしの名前ばかりくり返していた人、これこそあたしに心服しきった人に相違ありません。この間じゅうから、こういうふうに考えていたので、それであなたをあてにしていたわけなんですの」 彼女はもどかしげな問いかけるような目つきで、ゆっくりわたしの顔を見つめた。すると、またしてもわたしの心には勇気が足りなかった。それはランベルトがうそをついたので、わたしは決して格別、彼女に心服しているなどといった覚えもなければ、『ただ彼女の名前ばかり』くり返したこともまるでない、とこう明けすけにいってしまって、彼女の迷いを解くことができなかった。こんな具合で、わたしは自分の沈黙によって、ランベルトの偽りを裏書きしたような形になってしまった。おお、わたしは誓っていうが、彼女自身も、ランベルトがただただ彼女を訪問して、因縁をつけるために事態を誇張して、口から出まかせをいったにすぎないことを、百も承知していたに相違ない。彼女がわたしの言葉の真実さと、わたしの心服の間違いなさを確信したようなふうつきで、じっとわたしの目を見つめたのは、もちろん、わたしが一種の礼儀と年の若さのために、それを否定する勇気が



ないということを、ちゃんと見ぬいていたからである。もっとも、わたしのこの想像があたっているかどうか、それはわからない。あるいは、わたしの心が恐ろしくねじけているのかもしれない。 「あの兄はね、あたしの味方をしてくれますのよ」わたしが返事をしようとしないのを見て、彼女は急に熱のこもった調子でいいだした。 「なんでもあなた方お二人で、ぼくの下宿へ来てくだすったそうですね」とわたしはまごつき気味でつぶやいた。 「だってねえ、あの不仕合わせな老公爵が、今あの陰謀をのがれるために、というよりか、ご自分の生みの娘をのがれるために、身を隠すところといっては、あなたのお宿よりほか、つまり親友の住居よりほか、どこにもないんですものね。まったくあの方はあなたのことを、少なくとも親友と見なすくらいの権利は、持ってらっしゃるわけですわね!………そのとき、万一あなたがあの方のために、何かして上げようという気がおありでしたら、どうかそれを実行してくださいな、―もしおできになることなら、もしあなたに義侠心と勇気がおありになったら、そして、もしほんとうに何かおできになるのでしたら、ええ、それはあたしのためじゃありません、あの不仕合わせな老人のためです。あなたを心底から愛しているのは、ただあの人ばかりです。あの人はまるで親身のわが子のように、あなたに強い愛着を感じて、今でもあなたのことばかり懐かしがっています! あたし自身のためには、なんにもあてにしていません、あなたからも、i現在
肉親の父親があたしに対して、あんな老獪な、あんな意地のわるいことを仕向けましたけどね」 「ぼくの考えじゃ、アンドレイーベトローヴィチは……」とわたしはいいかけた。 「アンドレイーペトローヴィチですって」と彼女は、苦い薄笑いを浮かべながらさえぎった。「アンドレイーペトローヴィチは、あの当時あたしが露骨にたずねたとき、カチェリーナ夫人に対して、これっからさきも野心を持っていないと、きっぱり返事をなすったものだから、あたしもそれをすっかりほんとうにして、あのことを断行したんですの。ところが、後になってみると、ピョーリングとかなんとかいう大のうわさをきくが早いか、あの人の平静は破れてしまったじゃありませんか」 「そりゃ違います!・」とわたしは叫んだ。「ぽくも、あの婦人に対するアンドレイーペトローヴィチの愛を、信じた瞬間もあるけれど、-そりゃ違います……また、よしんばそうであるにせよ、今となっては、あの大も絶対平静でありうるはずですよIあの先生がお払い箱になったんですからね」 「あの先生って?」 「ビョーリングですよ」 「お払い箱になったって、いったいだれがいったの? もしかしたら、今があの先生の一等得意な時代かもしれないわ」 と彼女は毒々しい薄笑いをもらした。彼女はわたしまで、冷笑的な目で見るような気がした。
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 「ダーリヤさんがそういいました」とわたしはまごつき気味でつぶやいた。その気持ちをうまく隠しおおせなかったので、彼女も十分それに気がついていた。 「ダーリヤさんは大変いい人ですね。そして、あのひとがあたしを愛してくれるのを、差し皀めるわけにいきませんが、でもあのひとは、自分に関係のないことを知ろうたって、まるでそのすべがないじゃありませんか」 わたしの心臓はうずきはじめた。彼女はわたしの心に、憤懣の情をかきたてようと企んでいたので、案にたがわず、わたしの胸は憤懣に煮えたぎったが、それはあの婦人に対するものでなく、今のところただアンナ自身のみに向けられていた。わたしは席を立った。 「ぽくは潔白な人間として、おことわりしておかねばなりませんがね、アンナさん、ぼくに対する……あなたの期待は……ぜんぜん空に帰するかもしれませんよ……」 「あたし、あなたが味方になってくださるものと、期待していますわ」彼女は悪びれもせずに、わたしを見つめた。「みんなに捨てられたあたしの味方にね……もしお望みなら、あなたの姉の味方にと申しましょう、アルカージイさん」 もう一瞬このままで過ぎたら、彼女は泣きだしたに相違ない。 「いや、まあ、期待しないほうがいいでしょう。『ことによったら』なんにも起こらないかもしれませんからね」言葉につくしがたいほど、重くるしい気持ちでわたしはつぶやいた。 「あなたの言葉をどう解釈したらいいんでしょう?」といっ
た彼女の声は、もはやあまりに不安の念を示しすぎるように思われた。 「それはほかでもありません、ぽくはあなた方のそばからすっかり離れて、どこかへ行ってしまいます、―それで万事おしまいですI」わたしは、ほとんど狂憤に近い声で、いきなりこう叫んだ。「そして、あの書類も引っさぶいてしまいます。さようなら」 わたしは彼女に会釈すると、無言のまま部屋を出た。しかも、それと同時に、彼女のほうを見やる勇気がなかった。けれど、まだ階段をおりきらないうちに、ダーリヤーオユーシモヴナが半切れの書簡紙を二つに折ったのを手に持って、わたしに追いついた。どこからこのダーリヤが現われたのか、アンナと話しているあいだ、どこかにすわっていたのか、ほとほと合点がいかなかった。彼女はひとことも口をきかないで、紙きれだけわたしに手渡すと、そのまま走って行った。わたしは紙をひろげて見た。と、そこにはくっきりと明瞭に、ランベルトの住所が書いてあった。しかも、それは明らかに、二三日前から用意してあったものらしい。わたしはふいに思い出した、-この前ダーリヤが家へ来たとき、自分はランベルトがどこに住んでいるかも知らない、と囗をすべらせたことがある。だが、それは『そんなことは知らないし、知りたくもない』という意味にすぎなかったのだ。しかし、今ではわたしもりIザを通して、ランベルトの住所を承知している。わたしがりIザに、住所調査部で調べるように頼んだのだ。アンナのこのとっぴなやり口は、あまり思いきってい



て、むしろずうずうしいくらいに思われた。わたしが助力を拒絶したにもかかわらず、彼女はそれを頭から信じないで、いきなりわたしを、ランベルトのところへさし向けようとしているのだ。もう彼女が書類のことをすっかり嗅ぎつけたのは、明瞭すぎるくらいである。-それはランベルトの囗からもれたのでなければ、ほかにだれから聞くことができよう? だからこそ、いまわたしを彼のところへ打合わせにやろうとしているのだ。 『まったくあいつらはみんな一人のこらず、おれを意志も意気地もない小僧っ子扱いにして、どんなことをしたってかまわないと思ってるんだ!』わたしは憤然として考えた。
      2 が、それにもかかわらず、わたしはランベルトのところへ出かけた。そのとき襲ってきた好奇心を、いかんともすることができなかったのだ。ランベルトの住居はやけに遠かった。レートニイーサード(夏の園)に近いコソイ横町である。もっとも、相変わらず同じ宿の一室に陣どっていたのだ。けれど、わたしが彼のところから逃げだしたときには、道すじも距離もまるで覚えていなかったので、四日前にりIザから所書きを受けとったとき、彼がそんなところに住まっていようとは、信じられないくらい驚いたものである。わたしがまだ階段づたいに登っているとき、三階にあるランベルトの部屋の戸口に、二人の若い男が立っていたので、わたしは先客があるのだと思い、中から戸をあけるのを待っていた。わた
しが登って行くあいだ、二人は戸口のほうへ背中をむけて、じろじろ注意ぶかくわたしを見まわしにかかった。『ここには部屋がたくさんあるのだから、この連中はむろん、別の人を訪ねて来たんだろう』とわたしは顔をしかめながら、彼らのそばへ近づいた。ランベルトのところでだれかに会うのが、不愉快でならなかったのだ。わたしは彼らの顔を見ないようにしながら、呼鈴のほうへ手をのばした。 「待ちたまえI」と一人が叫んだ。 「どうか鳴らすのを待ってください」もう一人の青年が響きのいい優しい声で、すこし言葉を引くようにしながらいい添えた。「ぼくたちはすぐにすみますから、それからいっしょに鳴らしましょう、いいですか?」 わたしは手を止めた。二人ともまだごく若い青年で、まあ、二十か、せいぜい二十二くらいだった。彼らは戸のそばで、何か妙なことをしているので、わたしは不思議に思いながら、その真相を理解しようとした。『アタンデ』と叫んだ男は、非常に背が高くて、少なくも六尺をこえると思われるほどだった。やせてこつこつしていたが、恐ろしく筋ばった体格で、背丈にくらべて頭がばかに小さい、いくらか薄あばたが見えるけれど、かなり気のきいた感じのいい顔には、妙に滑稽で陰鬱な表情を浮かべていた。その目は、すこし頓狂なくらいじっとひとところを見つめ、なんだか役にも立たぬ、余計な決断力を示しているように思われた。身なりはひどく粗末で、ところ禿げのした浣熊の毛皮襟のついた、明瞭に人のおさがりらしい、つんつるてんの綿入れの古外套を着
こみ、ほとんど百姓靴といっていいほどの粗末な長靴をはき、めちゃめちゃに毛のよれた羊羮色のシルク(″卜を頭にのっけていた。ぜんたいに、だらしのないのが一目で見えすいてる。きたない手を手袋もはめずむき出しにして、長い爪はまっ黒に垢をためている。ところが、仲間のほうはその反対で、軽いアメリカ貂の外套からいっても、優美な中折からいっても、華奢な指にはめた新しい薄色の手袋からいっても、すべてすきのない扮装だった。丈はわたしくらいだったが、すがすがしく若々しい顔には、なんともいえないほど、愛くるしい表情をたたえている。 ひょろ長い青年は、ネクタイをはずしているところだった、1それはすっかりよれよれになって、脂じみたリボンといおうか、紐といおうか、なんともえたいの知れないものだった。美男子の青年はポケットの中から、たったいま買って来たらしい黒ネクタイを取り出して、それをひょろ長い青年に結んでやった。こちらは恐ろしくまじめな顔つきで、外套を肩からずり落としながら、ばか長い頸をおとなしくさし伸べていた。 「だめだ、これじゃしようがない」とネクタイを結んでいる男はいった。「こんな汚いシ″ツじゃ、なんの効果もないばかりか、かえって余計きたならしく見える。だから、ぼくがカラーをしかえて来いといったんじゃないか。ぽくにゃできない……Jイヽみできませんか?」と彼はふいにぼくのほうへ振り向いた。 「何を?」とわたしは問い返した。
 「なに、そのこいつにネクタイを結んでやるんですがね。実は、この男の汚いシャツが見えないように、何とかしなくちゃならないんです。でないと、いっさいの効果がふいになってしまいます、そうですとも。ぼくはわざわざ理髪屋のフィリップのとこで、たった今一ルーブリ出して、このネクタイを買ってやったんですよ」 「じゃ、きみ、あのIルーブリかい?」とひょろ長い男はつぶやいた。 「ああ、あのIルーブリだよ。だから、ぼくはいまIコペイカも持ってやしない。じゃ、できませんか? それなら、アルフォンシーヌに頼まなくちゃ」 「ランベルトに用ですか?」とふいにひょろ長いほうが、藪から捧に問いかけた。 「ランベルトに用なんです」わたしは相手の目を見つめながら、負けず劣らず断乎たる調子で答えた。・ 「りo覦0rowky?」と彼は同じ調子、同じ声でくり返した。 「いや、コローフキンじゃありません」わたしは相手の発音を聞き違えて、やはりつっけんどんに答えた。 「りoF031rこI」ひょろ長い青年は、わたしのほうへ詰めよりながら、威嚇の表情で、ほとんど叫ぶようにくり返した。 仲間の男はからからと高笑いした。 「この男はドルゴローフキイといってるんで、コローフキンじゃありません」と彼は説明した。「ねえ、フランス人は“Journal dcs D6bats"(『評論雑誌』)あたりで、よくロシヤの人の苗字を訛ってるでしょう……」



「“lnd6pendance"だ」とひょろ長いほうが叫んだ。「……なに、同じこったよ、『アンデパンダンス』だって。たとえばドルゴルーキイなぞも、Dolgorowkyと書くんですよ。ぼく自分で読んだことがあります。v公爵はいつ7p conltcNVallonieffなんですからね」 「1Joboyny」とひょろ長いほうが叫んだ。 「そうだ、それからまたDoboynyとかいうのがあるんですよ。ぼく自身で読んで、二人で大笑いしたんですよ。M。mcLloboynyとかいうロシヤ婦人が外国で……しかし、きみ、みんないちいち数えあげる必要はないじゃないか」と彼は急に、ひょろ長い男のほうへ振り向いた。 「失礼ですが、あなたはドルゴルーキイ氏ですか?」 「そう、ぼくはドルゴルーキイです。でも、あなたはどうしてそれを知ってるんです?」 ひょろ長い男は、急に何やら仲間の美少年にささやいた。こちらは顔をしかめて、よせという身ぶりをしたが、ひょろ長い男は急にわたしのほうへ振り向いた。「M。r le Princes vous n'avez pas dc rouble d'argent Pour nousspas deuxs mais un seuls voulcz‐vous?{公爵、もし銀貨で}ルーブリほど金をお持ちでしたら、貸してもらえませんか? ニループリとは申しません。たった}ルーブリでけっこう。いかがです?)」 「ちょっ、きみはなんてだらしのないやつだ」と美少年は叫んだ。 「Nous vous rendons.(その金は返しますよ)」下品なまずいフランス語の発音をしながら、ひょろ長い男はこう結んだ。
 「実はね、この男は無作法ものなんですよ」と美少年は、わたしににやりと笑って見せた。「あなたは、この男はフラ冫ス語が下手だと思ってらっしゃるでしょう。ところが、こいつはパリジャンと同じくらいしゃべれるんですが、ただロシヤ人の真似をしてるんですよ。お互いに大声でフランス語を話したくてたまらないくせに、ろくすっぼできもしないロシヤの社交界の大たちの真似をね……」 「1Jans lcs wagons.(汽車の中で)」とひょろ長い男が説明した。 「まあ、そうだ、汽車の中でも。ちぇっ、どうもうるさいやつだなあ!・ 何も説明することなんかないじゃないか。わざと間ぬけの真似をするのも、いい物好きだあね」 わたしはその間にIルーブリ札をぬき出して、ひょろ長い男にさし出した。 「ツ『osくoa3コQ○コ・・(いずれお返ししますよ)」と彼はいって金を隠したが、急にくるりと扉のほうへ向きなおり、くそまじめなしゃちこばった顔をしながら、例の大きな粗末な靴の先で、どんどん扉を蹴りはじめた。しかも、癇癪など起こしているのでは決してない…… 「ああ、きみはまたランベルトと喧嘩をおっぱじめるよ!・」と美少年は心配そうにいった。「それよか、いっそあなた呼んでください」 わたしはベルを鳴らしたが、それでもひょろ長い男は、靴で扉を蹴りつづけた。 「Ah「sacr6……(ヽ凡’尺、こん畜生……)Lというランベルトの声
が、戸の陰から聞こえ、手ばやく戸が開かれた。(冖)ites doncs voulez。vous que jevous cassela tatcs mon ami一(おいヽいったいきみはおれに頭をたたき割ってもらいたいのか1)」と彼はひょろ長い男にどなりつけた。 「?【on ami「 voila Dolgorowky「 Pautrc mon ami.(きみ、ここにぼくのもう一人の親友ドルゴローフキイ君がいるんだよ)」宵六つ赤になって怒るランベルトの顔をながめ返しながら、ひょろ長い男はものものしい、まじめな調子でいった。 こちらはわたしの顔を見るが早いか、たちまち表情が一変した。 「ああ、アルカージイ、きみだったのか! やっとのことで!・ じゃ、きみは丈夫になったんだね、いよいよ丈夫になったんだね?」 彼はわたしの両手をつかんで、かたく握りしめた。一口にいえば、彼は心から歓喜の情を披瀝して見せたので、わたしはたちまち恐ろしく愉快になり、彼が好きにさえなった。 「きみんとこへまず一番にやって来たんだよ1・」 「アルフォンシーヌー」とランベルトがどなった。 女はさっそく衝立の陰から飛び出した。 「冖nきほI(あれをごらん!・)」 「qaこS一(まあ、あの人が!)」とアルフォンシーヌは叫び、両手を打ち鳴らした。それから、またその手をさっとひろげて、わたしを抱きしめようとしたが、いいあんばいにランベルトがわたしを守ってくれた。「こら、こらこら、しっI」と彼は、まるで犬でも叱るよう
に叫んだ。「ねえ、アルカージイ、きょう仲間の若いものが四五人、韃靼人のところで食事をするように約束してるんだ。いっしょに行かないか、もうきみを帰しゃしない。いっしょにめしを食おう。あんな連中なんか、すぐに追っぱらってしまうから、そのときは思う存分しゃべろうじゃないか。まあ、はいれよ、はいれよ! おれたちはすぐ出て行くんだから、ほんのちょっと立ってるばかりだよ」 わたしは中へはいって、例の部屋のまん中に立ちながら、あたりを見まわして、記憶を呼びさまそうとした。ランベルトは衝立の陰で、手ばやく着換えをした。ひょろ長い男とその相棒はランベルトの言葉があったにもかかわらず、やはり後からはいって来た。わたしたちは立っていた。 「M。11c AIPhonsines voulez‐vous nle baiser?(マドモアゼルーアルフォンシーヌ、ぼくを接吻したくないですかね?)」とひょろ長い男が唸るようにいった。 「M。11e AIPhonsinc.」彼女にネクタイをさして見せながら、若いほうがそばへ寄ろうとした。けれど、彼女は恐ろしい勢いで二人にくってかかった。 「μにr191E已(この悪党’・)」と彼女は若いほうにどなりつけた。「そばへ寄っちゃいけない、穢らわしい。それにこのうどの大木め、お前もいっしょに門の外へたたき出してやるから、覚悟してるがいい・・・」 (貼羂門) 彼女がほんとうに汚いものかなんぞのように、ばかにしきった気むずかしい様子で、両手を振りながら追いのけるのもかまわず(わたしはそれがビうしたわけかわがらなかった。



なぜなら、この青年は素晴らしい好男子であるうえに、外套をぬぎ捨てたのを見ると、立派な身なりをしているからだった)、若いほうはひょろ長い男にネクタイを結んでやってくれと、しつこく彼女にねだりはじめた。しかもその前に、ランベルトの新しいカラーを出して、彼につけさせてやるように頼むのだった。女はそういう申し出を聞いて、憤慨のあまり、二人を蹴りつけんばかりの勢いだったが、様子を聞いていたランベルトが衝立の陰から、ぐずぐずしないで頼まれたとおりにしてやれ、とどなった。「でないと、つきまとって離れやしないよ」といい添えた。するとアルフォンシーヌはたちまちカラーを取って来て、もう少しも気むずかしいそぶりを見せず、ひょろ長い男のネクタイを結びにかかった。こちらは、さきほど階段の上でしたのと同じように、ネクタイを結んでもらっている間じゅう、彼女の前に頸を突き出していた。 「M‐11c AIPhonsinc「avez.vous vcndu votrc boF9こ(アルフォンシーヌ嬢、あなたはあのボローニュを売りましたか?)」と彼はたずねた。 「Qu’ est que gas ma bologne ?(なんです。それは、そのボローニュというのは?)」 若いほうは、ma b010gneというのは狆のことだと説明した。 「Tienss quel est cc baragouin ?(へえ、その唐人の寝言はいったいなあに?)」 【Jc Parlc comme une dame russc sur】es eaux min&alcs.(ぽくはある鉱泉場で会った、ロシヤ婦人の真似をしていってるんで
す」とうどの大木は相変わらず首を突き出したままいった。「Qu’ cst que ga qu’une damc russe sur les caux min6raleset……oa cst donc votre jolie montre「que Lambert vous a donn6?(鉱泉場で会ったロシヤ婦人ってなんのこと、それに……あのランベルトからもらった立派な時計は、どこへやったの?)」と彼女はとつぜん若い男のほうへ振り向いた。 「なんだって、また時計がない?」ランベルトが衝立’の陰から、いらいらした声でこういった。 「飯にしちゃったんで!・」とうどの大木がうなるように答えた。 「ぼくはあいつをハルーブリに売ったんですよ。だって、ありゃ銀台の天鼓羅ものですぜ。あれをあなたは金時計だなんかって……あんなものは今どき店で買っても、十六ルーブリつきゃしませんぜ」若いほうは気のない調子でいいわけしながら、ランベルトに答えた。 「そういうことは、もういい加減にやめてもらわなくちゃならん!」とランベルトはなおいらいらした声でいった。「いいかい、ぼくがきみに服を買ってやったり、上等の品を持たしてやったりするのは、ひょろ長い仲間に貢がせるためじゃないんだよ……おまけに、またネクタイを買ったとかって、そりゃなんだい?」 「こりゃたったIルーブリの品なんで。それに、あなたの金で買ったんじゃありません。先生まるでネクタイなしだったんですよ。それに、帽子も買わなくちゃならない」 「ばかなことを!・」ランベルトは、もう本気で怒ってしまっ
た。「もうこいつにや、帽子代だってたっぷりやったんだ。ところが、この野郎、すぐ牡蠣とシ″ンパンにしてしまいやがったんだ。今もぷんぷん匂わしてらあ。だらしのない野郎だ。こいつは、どこへも連れて行かれやしない。どうしてこれから食事の席へ、こいつを連れて行こうってんだ?」 「辻馬車で行きますよ」と大木はいった。「Nous avons unrouble d'argcnt quenous avonsPr&6 chcz notrc nouvcl ami.(われわれは、この新しい友達に貲してもらった金を、一ルーブリ持っています)」 「この連中にゃなんにもやっちゃいけないよ、アルカージイー」とランベルトがまたどなった。 「ランベルトさん、すまないけれど、ぼくはあなたから今すぐ十ルーブリ要求します」ふいに美少年は、顔が真っ赤になるほど怒りだした。そのために前よりももっと美しくなった。「それに、今ドルゴルーキイ氏にいったようなばかげたことは、今後、決していわないでもらいましょう。ぼくは今すぐ十ルーブリ要求します。一ルーブリはドルゴルーキイ氏に返して、その残りでさっそくアンドレエフの帽子を買って来るから、-今に見ておいでなさい」 ランベルトは衝立の陰から出て来た。 「ここに黄色い札が三枚ある。三ルーブリ、これより以上は、火曜日までいっさい出しゃしない。そして、生意気なこというんじゃないぞ……吻にもないと……」 うどの大木は、いきなりその金を引つつかんだ。 「ドルゴローフキイ君、さあIルーブリ、nous vous rendons
avtc beaucouP de grace.(深甚なる感謝をもってお返しします)ペーチャ、行こうI」と彼は仲間に叫んだ。それから急に二枚の札をさし上げて、それを空中にふりまわし、ランベルトの顔を穴のあくほど見つめながら、ありったけの声でわめいた。「Oh6「Lambert!〇a cst 」ambcrts as。tu vu Lambert ? (やあい、ランベルトー ランベルトはどこにいる? きみはランベルトを見かけたかい?)」 「生意気な、生意気なI」とランベルトは恐ろしい憤怒の体で叫んだ。 わたしはこの有様を見て、これには自分などのまるで知らない前からの行きがかりがあるのだなと悟って、呆気にとられながら眺めていた。が、ひょろ長い男は、ランベルトの憤怒をいささかも恐れず、かえって前より烈しい勢いで、oJr日7已云々と叫びつづけた。二人はこの叫びとともに、階段へ出て行った。ランベルトはこの後を追おうとしたが、思いなおして引っ返した。 「よし、いまにやつらをお払い箱にしてくれる! やつらの稼ぎより、かかりのほうがえらいや……出かけよう、アルカージイー 遅れちゃった。向こうでも、やはりおれを待ってる人間が一人あるんだ……用のある男なんだが……やはり畜生だ……だが、どいつもこいつも畜生ばかりだ! 極道めら!」と彼は歯ぎしりせんばかりに叫んだが、ふいにはっきりわれに返った。「しかし、きみがやっとこさ来てくれたんで、おれはうれしいよ。アルフォンシーヌ、一足もそとへ出ることはならんぞ1・ さあ、出かけよう」



 入口の階段で、駿足の逸物をつけた馬車が待っていた。わたしたちはそれに乗りこんだ。けれど、彼は向こうへ行き着くまで、かの二青年に対する憤懣の念に前後を忘れて、いっかな、落ちつくことができなかった。その怒り方が本気なのにわたしは一驚を喫した。そのうえ、彼らがランベルトに対して無作法なばかりでなく、ランベルトのほうがかえって、彼らにびくびくものでいるかとさえ疑われた。わたしは子供時代の古い印象によって、だれもがランベルトを恐れなければならぬような気がしていたので、自分の有する独立不羈の精神にもかかわらず、その瞬間、たしかにランベルトを恐れていたに相違ない。 「きみ。まったくだよ、あの連中はみんな恐ろしい極道ものなんだ」とランベルトはいつまでも、やめようとしなかった。「まあ、どうだと思う、あのいまいましいのっぽめ、三日前に立派な席で、おれをひどい目にあわせやがった。おれの前に立ちはだかって、oに‘了日rlとどなるじゃないか。立派な席でだよ! それはつまり、おれに金を出させる魂胆だと知ってるんだから、みんなげらげら笑ってるんだよ、-まあ、考えてもみてくれ。で、おれは仕方なしにやったさ。ちぇっ、いまいましい畜生めら、きみはほんとうにできないだろうが、あいつは見習士官で、連隊に勤めていたのを、追ん出されたんだよ。それに、どうだろう、あいつは教育があるんだぜ。立派な家庭で教育を受けたんだ、驚くじゃないか! あいつは、思想を持ってるんだから、自分でその気にさえなりや……’兄’兀、畜生!・ あいつヘルクレスそこの
けの力を持ってるんだ。役に立つ男なんだが、どうもはかばかしくない。それにあいつは、え、どうだい、手も洗わないんだよ。おれはあいつを古い家柄の貴婦人に紹介してさ、あの男は前非を後悔して、良心の呵責にたえないで、自殺しようとしています、とこうふれこんでおいたのに、やつはその貴婦人のところへ行くと、いきなりすわりこんで、口笛を吹きだすじゃないか。それから、もう一人の美少年、-あれはさる将軍の息子なんだが、家族も世間体を恥じて寄せつけないんだ。おれはあいつを裁判事件から引っぱり出して、いわばあいつを救ってやったんだが、その恩に対して、ああいう報い方をするんだからなあ。ここにや人間らしい人間はいやしない! いまにあいつを追っ払ってくれる、追っ払って!し 「あの連中はぽくの名を知っていたが、きみが話したのかい?」 「つい無考えなことをやったよ。どうか食事のときには我慢しておとなしくすわってくれ……そこへはもう一人凄い悪党がやって来るから。それこそほんとうにどえらい悪党で、狡猾なことといったらないんだ。ここの連中はみんな大悪党だ。ここには正直な人間なんか、一人もいやしない! まあ、そこがすんだら今度は……きみはいったいどんなものが好きだね? いや、まあ、同じことだ。あすこはなかなかうまく食わしてくれるよ。勘定はおれがするから、心配しなくともいいよ。きみがきちんとした身なりをしているのは、大へん都合がいいて。きみに金をやってもかまわないよ。いつでもやって来い。ところで、どうだと思う、おれはあいつら
を養っているんだが、毎日魚饅頭を食わせるんだ。あの男が売ったという時計、-あれはもう二度目なんだよ。あの美少年のトリシャートフさ、-きみ見たろう。アルフォンシーヌは、あいつの顔を見るのも胸が悪いといって、そばへ寄るのもさしとめてるくらいだが、あいつがあるとき料理屋へ行って、将軍連のいる前でだしぬけに、『鷸が食いたい』というじゃないか。おれは鷸を注文してやったが、いまに仕返しをしてくれるから」 「覚えてるかい、ランベルト、昔ふたりでモスクワの料理屋へ行ったとき、きみがフォークでぼくの腿を突き刺したのを? きみはあのとき五百ルーブリ持っていたっけ」 「ああ、覚えているよ! ええ、畜生覚えているとも! おれはきみが好きだ……そりゃほんとうにしてもいいぜ。きみを好くものはだれもいやしないが、おれは好きなんだ。ただおれI人きりだ、覚えとくがいい……あすこへ来るやつは、狡猾この上なしというあばた面の悪党なんだ。もし話しかけたら、返事をしないようにしな。何か問いかけたら、愚にもつかぬ返事をして黙ってろよ……」 少なくとも、彼は自分が興奮しているために、途中、わたしに何一つきこうとしなかった。彼がこんなにわたしを信じきって、わたしの心に疑惑がひそんでいるかどうか、それすら疑ってみようとしない態度に、わたしは侮辱さえ感じたほどである。彼は昔どおり、わたしに命令することができるなどと、ばかげたことを考えているのではないか、-こんなふうに感じられた。『それに、この男はおそろしく無教育も
のだ』とわたしは料理屋へはいりながら考えた。 モルスカヤ街にあるこの料理屋には、わたしは以前にも、あのいまわしい堕落と遊蕩の時期に、何度もやって来たことがある。したがって、わたしの顔をのぞきこんで、馴染み客と見わけたらしいボーイたちや、たくさんある部屋部屋の印象、それから、わたしがとつぜん仲間へ引きこまれて、まるで切っても切れない一員になり切ったような感じのある、この不思議なランベルトの一味から受ける印象、そして(これが何よりおもなのだが)わたしがわれと進んで、何かいまわしい企みに加わり、疑いもなく見苦しい行為でおわるに相違ないという暗い予感、-こういうものがすべていっしょになって、急に心を刺し通すような気がした。一瞬間ほとんどその場を逃げ出そうとしたほどである。が、この刹那は過ぎた、わたしはそこに踏みとどまった。 ランベルトがなぜかあれほど恐れていた『あばた男』は、早くもわたしたちを待ちかねていた。それはわたしがほとんど子供時代から憎んでやまない、ばかばかしく事務家気取りの顔をした人間の一人だった。年のころ四十五ばかり、丈は中背で、頭には白いものが交じり、いやらしいほどきれいに剃りあげた、ひどく平ったい感じのする、意地わるげな顔の両側には、二本の腸詰といった形で、短く刈りこんだ小さな胡麻塩の頬ひげが規則正しくくっついていた。いうまでもなく、彼は大まじめで、口数が少なく、退屈な話相手であるの
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みか、こういう手合いの例にもれず、なぜか高慢ちきでさえあった。彼はわたしを恐ろしく注意ぶかく見まわしたが、ひとことも口をきかなかった。ランベルトは気がきかないにもほどがある、―わたしたちを一つテーブルにすわらせながら、お互い同士紹介する必要を認めなかったので、相手はわたしをランベルトの取り巻きの一人で、ご多分にもれぬいんちき仲間と思ったに相違ない。わたしたちとほとんど同時に着いた若い連中に対しても、彼は食事のあいだ、同様、ひとことも口をきかなかった。にもかかわらず見うけたところ、彼らをよく知っているらしかった。彼はただランベルトとだけ何やら話していたが、ほとんどひそひそ声の内証話で、しかもおもにランベルトが一人でしゃべっており、あばた面は怒りっぽい調子で、ちぎれちぎれに、最後通牒的な言葉を投げるばかりだった。彼は高慢ちきな態度を持して、意地のわるい冷笑的な表情を捨てなかったが、ランベルトのほうはその反対に、恐ろしく興奮して、しじゅう何やら説き伏せようとしているらしかった。たぶん、何かの仕事を勧めていたのだろう。一度、わたしが赤葡萄酒の壜に手を伸ばしたとき、あばた面は急にシェリー酒の壜をとって、わたしに勧めた。それまでわたしに一口もものをいわなかったのだ。 「これをやってみたまえ」わたしに壜を突き出しながら、彼はこういった。 そのとき、わたしはふいに悟った。彼はわたしのことを、もう洗いざらい知っているに相違ない、-わたしの来歴も、わたしの名も、ランベルトがわたしをあてこんでいるそ
のもくろみも、すっかり承知してるに相違ない。この男がひとをランベルトの手下扱いにするかもしれないと思うと、わたしはまた急にかっとなった。あばた面がわたしに話しかけるがはやいか、ランベルトの顔にはなんともいえない、ばかげきった不安の表情があらわれた。あばた面はそれと気づいて、からからと笑いだした。 『いやはや、ランベルトはすっかり他人の自由になっていやがる』とわたしは考えた。その瞬間、わたしはしんから彼を憎んだ。 こういうわけで、わたしたちは食事の間、ずっと一つテーブルを囲んでいたけれども、かっきり二つのサークルに別れてしまった。一組はあばた面とランベルトで、窓に近くさし向かいにすわっているし、いま一組はわたしと脂じみたアンドレエフで、二人はならんで腰をかけ、前にはトリシャートフが陣どっていた。ランベルトは食べものをいそいで、のべつボーイに後を催促していた。シャンパンが出たとき、彼はふいにわたしに杯をつきつけた。「きみの健康を祝して飲もう!」あばた面との話を中途で切りながら、彼はそういった。 「ぽくにもきみと乾杯させてくれませんか?」美男子のトリシャートフが、テーブルごしに杯をさし仲べた。 シャンパンが出るまで、彼はなんだかひどく考え深そうに黙りこんでいた。大木はそれこそまるで囗をきかなかったが、そのかわりさかんに食った。 「ええ、喜んで」とわたしはトリシャートフに答えた。
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 わたしたちは杯を合わせて飲みほした。 「ぼく、きみの健康を祝して飲むのは止しましょう」とふいに大木はわたしのほうへ振り向いた。「それはあえてきみの死を願うからではなく、今日ここできみにこれ以上飲ませたくないからです」と彼は沈んだ調子で重々しくいった。「きみはその杯に三ばいでもたくさんなくらいだ。見うけたところ、きみはぼくの汚れた手をじろじろ見ているようですね」拳をテーブルの上へのせながら、彼は言葉をつづけた。「ぼくはこいつを洗いません。洗わないままでランベルトに賃貸しするんです。ランベルトの旗色が悪くなったようなとき、人の頭をたたきつぶすためにね」 こういいおわると、彼はふいにその拳で、力まかせにテーブルをどんとたたいた。皿やコ″プが飛びあからないばかりだった。わたしたちのほか、この部屋では四つのテーブルで食事している客があった。みんな将校だとか、堂々たる風采をした紳士などであった。それは一流の料理屋だったので、みんなちょっと一瞬、話をやめ、わたしたちの陣どっている一隅を鵑めた。のみならず、わたしたちはもう前から、ある好奇心を呼びさましていたらしい。ランベルトは真っ赤になった。 「や、またそろそろはじめたな!・ アンドレエフ君、ぼくは挙措に気をつけてくれたまえと、たしかきみに頼んだはずだが」彼はアンドレエフに烈しい語気でささやいた。 こちらはゆっくり、じろりと彼を見やった。 「ぼくはね、新しい友人のドルゴローフキイが、今日ここでむやみに酒を飲むのを好まないんだ」
  ランベルトはいよいよ真っ赤になった。あばた面は無言の、まま耳を傾けていたが、いかにも満足そうな様子だった。ア ンドレエフのとっぴな仕草がなぜか気に入ったらしい。ただ わたしだけは、なぜ酒を飲んではいけないのか、合点がいか なかった。 「あれはただ金をもらうための手なんだ!・ あと七ルーブリ やるよ、いいかい、食事のあとで、-ただ食事だけは満足 にさせてもらいたいもんだ。大の前で赤恥をかかせないでく れ」とランベルトは歯がみをしながらいった。 「ははあI」と大木は勝ち誇ったよう。  あばた面はもうすっかりうれしくなって、毒々しくひひひ と笑った。 「おい、そりゃあんまりだぜ……」トリシャートフは仲間を おさえようと思ったらしく、心配そうな、ほとんど苦痛をお びた声でいった。  アンドレエフは囗をつぐんだが、しかし長いことではなか った。彼の目算は少々違っていたのである。わたしたちから テーブルーつへだてた五歩ばかりのところで、二人の紳士が 食事をしながら、賑やかに話をしていた。二人とも恐ろしく 神経質らしい中年紳士だった。一人は背が高く、でぶでぶ肥 えていたし、もう一人はやはり非常に肥えていたが、小柄だ った。二人はポーランド語で最近のパリの出来事を話してい た。大木はもうだいぶ前から、面白そうに二人をじろじろ見 て、耳を傾けていた。小柄なポーランド人の姿は、彼の目に 滑稽に映じたらしく、すべて胆汁性の蝟癪持ちの例にたがわ



ず、さっそくこの男を心底から憎みはじめた。実際この種の憎悪は、彼らの心になんの理由もなく、いつもだしぬけに起こるのだ。ふいに小柄なポーランド大が、フランスの下院議員マディエー・ドーモンジョーの名を口に出した。けれど、多数のポーランド人の癖でポーフンド風に発音した。つまり、終わりから二番目のシラブルにアクセントをつけたので、マディエー・ドーモンジョーでなしに、マディエードーモンジョとなった。大木には、それだけでもう十分だった。彼はポーランド大のほうへ振り向いて、ものものしくそり返りながら、まるで質問でも持ちかけるようなふうに、いきなり大きな声でI句一句くぎりながら発音した。 「マディエードーモンジョ?」 ポーランド大はもの凄い剣幕で、彼のほうへ振り向いた。 「いったいなんのご用ですか?」肥った大柄のポーランド大がヅ陦高につシヤ語で叫んだ。 大木はちょっと問をおいて、 「マディエードーモンジョ?」ふいにホールぜんたいへ響きわたるような声で、またこうくり返したきり、それ以上てんで説明を与えようとしなかった。それはちょうど、さっきランベルトの戸口のところで、わたしの頭の上におっかぶさるようにしながら、「ドルゴローフキイ?」とばかげた調子でくり返したのと、そっくり同じだった。 ポーランド大は席を蹴って立ちあがった。ランベルトもいきなりテーブルから立って、アンドレエフのほうへ飛んで行こうとしたが、急にそのほうはうっちゃって、ポーランド
のそばへ駆けよりながら、辞を低うして謝罪をはじめた。 「あれは道化ですよ、きみ、あれは道化です!」と小柄なポーランド大は、軽蔑しきった調子でくり返した。憤慨のあまり人参のように真っ赤になっている。「いまにここへ来られなくなるだろう」 ホールに居合わせた人々も、ざわつきだした。不満の声も聞こえたが、それより笑いのほうが高かった。 「出たまえ……どうか……いっしょに来てくれたまえ!」どうかしてアンドレエフを部屋から連れ出そうと努めながら、ランベルトはすっかり途方にくれてつぶやいた。 こちらは探るような目つきで、じろじろランベルトを見つめていたが、もう今度こそ金をよこすに違いないと悟って、おとなしくその後からついて行った。おそらく彼はすでに一度ならず、こうした恥を知らぬやり口で、ランベルトから金をしぼり出していたらしい。トリシャートフも、二人のあとから駆け出そうとしたが、ちらとわたしの顔を見ると、その場に居残った。 「ああ、実に、いやだなあI」細い指で目を蔽いながら、彼はいった。 「いやなことですな、実もって」今度はもう心から腹を立てたらしい様子で、あばた面がこうささやいた。 そうしている問に、ランベルトがほとんど真っ青な顔をして引っ返し、何やら一生懸命に手真似をしながら、あばた面にひそひそささやきはじめた。こちらはその問にボーイに向かって、早くコーヒーを出すようにいいつけた。彼は気むず
かしい顔つきで聞いていた。見うけたところ、一刻も早く帰りたいらしかった。とはいえ、今の出来事は、要するに小学生のいたずらにすぎなかった。トリシャートフはコーヒーの茶碗を持って、自分の席からわたしのほうへ引っ越し、わたしとならんで腰をおろした。 「ぼくはあの男が大好きなんです」まるでしじゅうわたしとこの話をしていたもののように、隔てのない調子でこういいだした。 「アンドレエフがどんなに不仕合わせな人間か、きみにはとても想像がつかないくらいですよ。あの男は妹の持参金をすっかり飲んじまったんです。おまけに、あの男が…勤めていた一年間に、家の身代をありったけ飲みしろにしてしまったので、そのため、いま目に見えて苦しんでいます。あの男が顔や手を洗わないのは、つまり、やけになったからなんですよ。あの男は恐ろしく奇妙な考えを持っていましてね、よくだしぬけにこんなことをいいだすんです、-悪党も正直者も、要するに同じことで、なんの差別もありゃしない。いいことも、悪いことも、なんにもする必要はない。外套をぬがずにひと月ぐらいごろっと横になったまま、飲んで食って寢てるのがいちばんだ、-それっきりだ、とこうなんです。けれどきみ、ほんとうにしちゃいけません。それはただ口さきだけなんです。それどころか、ぽくはこんなふうにさえ思います。あの男がさっきあんな悪ふざけをしたのは、ただランベルトとすっかり手を切ってしまいたいためなんです。昨日もそんなことをいってましたよ。きみはほんとうにしな
いでしょうが、あの男はどうかすると、よる夜中か、それとも長く一人でいるときなど、急によく泣きだすんですよ。しかも、その泣き方ったら一種特別で、ちょっとほかの人に真似ができない。つまり、おいおい泣きだすんです。べらぼうに大きな声で哮え立てるんです。だから、なんだかよけいかわいそうで……おまけに、あんな大きな筋骨逞しい偉丈夫が、急においおい手放しで泣くんですからね。実にかわいそうじゃありませんか、どうです? ぼくはあの男を救ってやりたいんだけど、ぼく自身もこんなやくざ者で、世間から見離された不良少年なんですからね。それはきみなぞ想像もできないくらいです!・ ドルゴルーキイ君、もしいつかぽくがきみを訪ねて行ったら、会ってくれますか?」 「ええ、いらっしゃいとも、ぼくはきみが好きなくらいなんだから」 「それはなんのために? でも、ありがとう。どうです、もう一杯飲もうじゃありませんか。だが、ぼくは何をいってるんだろう。きみは飲まないほうがいいです。あの男がいったのはほんとうです。きみは飲まないほうがいい」と彼はとつぜん、意味ありげにわたしに目くばせした。「しかし、やっぱり飲もう。ぽくなんかもうどうだってかまやしないんだから、ぼくはね、きみ、もう金輪際、自制ができないんですよ。たとえきみが、今後もう料理屋歩きはしちゃいけないといったって、そりゃだめです。ぼくはただ料理屋の料理を食うためになら、どんなことだってやりかねないですよ。ああ、ぼくらはまったくのところ、心から正直な人間になりた



いと思ってるんだけど、ただいつもI寸のばしにのばしてるんでね。
  年は過ぎゆくIすべてわが世のよき年は! ところで、あの男は首をくくりゃしないかと、ぼく心配でたまんないんです。だれにもいわないで、首をくくってしまう、-あの男はそういう人間なんです。このごろは、だれもかれも首をくくるじゃありませんか。もっとも、われわれみたいな人間が多いかもしれませんね、-こいつはなんともいえない。たとえばですね、ぼくは余分な金がなくちや生きていかれない。ぼくには余分の金のほうが、必要な金よりずっと大事なんでね。ときに、きみは音楽が好きですか?ぼくは恐ろしく好きなんです。こんどきみんとこへ行ったら、何か弾いて聞かせましょう。ぼくはピアノがとてもうまいんです。ずいぶんながく習いました。真剣に習ったのです。もしぼくがオペラを作るとしたら、ファウストから題材を取るつもりです。ぼくはこのテーマが大好きなんでしてね。ぼくはしじゅう伽藍の内部の場面を作ってるんです。といって、ただ頭の中で想像してるんですがね。ゴチック式の大伽藍、内陣、合唱隊、讃美歌、そこヘグレートヘンがはいって来る。そのときね、中世紀風の合唱を聞かせるんです。十五世紀という時代がはっきりわかるような合唱を、グレートヘンは悩みもだえている。はじめは叙唱なんです、静かな、けれど恐ろしく悩ましいレシタチーフ。ところが合唱は陰鬱
峻厳な調子で、なんのかかわりもないように、雷のごとく響きわたる。
{}ies iraes dies illa !   怒りの日、その日に
 そのときふいに悪魔の声が聞こえる。悪魔の歌なんです。悪魔の姿は見えない、ただ歌ばかり。讃美歌と並行して、讃美歌に交じって聞こえるんです。ほとんど讃美歌と溶け合わないぽかりでいながら、しかもまるで別なんです、-‐’そいつをなんとかうまくこしらえるんですね。長い歌でやみ間なくつづく。それがテノールなんです、ぜひ元ノールでなくちゃいけません。その歌は静かに優しい調子ではじまる。『思い出ずるやグレートヘン、なれいまだ幼く、あどけなかりしころなりき、母と伴ないみ堂へ詣で、古りたる書を目もてたどりつ、おぽつかなげに祈祷の句をば庠しけるよ』ところが、歌は次第に強く烈しくなって、調子もだんだんあがってくる。その中には涙もあれば、救いのない不断の憂愁もあり、絶望の響きさえこもってるんです。『赦しはなからん。グレートヘン、この世に汝の赦しはなからん!』グレートヘンは祈ろうとするけれど、胸からはただ叫び声がもれるばかりなんです、-ほら、あんまり泣いて、胸に痙攣が起こったときによくあるでしょう、あれなんです、-サタンの歌はたえずやみ間なくつづいて、まるで刃物のように魂を突き刺すのです。そして、節は次第に高くなっていく、1と、ふいにほとん
ど叫ぶような『すべてはおわれり、呪われてあれ!』という言葉でぷつりと切れてしまう。グレートヘンはばったり膝をついて、われとわが手を握りしめる。-そこへ彼女の祈祷を入れるんです。なんだかごく短いなかばレシタチーフ風のものなんですが、しかしいっさいかざりけのない、単純なものでなくちゃなりません。何かこう、田心いきって中世紀風の四行詩がいいでしょう、ほんのただ四行だけ、Iストラデラ(討靼謔μ黔)にいくつかそういう作品があります、-この祈りの最後の響きと同時に、卒倒してしまうんです!・ そこで、混乱がもちあがる。人々は彼女を抱き起こして、運んで行く、~そのときふいに、雷のようなコーラスが響きわたるのです。それはまるで声の落雷とでもいったような、神興に満ちた、勝ち誇ったような、圧倒的なコーラスなんです、いわば、ロシヤのドリノシマーチンミとでもいったようなもので、いっさいのものをその根柢から震撼するくらい、力のあるものでなくちゃなりません。これが次第に喜びと感激の縊れた『ホザナー(栄光あれ)』の全員の高唱に移っていく。まるで全宇宙の叫びかと疑われるほどです。彼女はやはり静々と運ばれて行く、―そこで幕がおりるんです! いや、まったくぼくにその力があったら、何かこういったふうなものを作って見せたいんですが、今じゃもうなんにもできません。ただしじゅう空想するばかりです。ぽくはのべつ空想してるんです。それこそのべつ。ぼくの全生活は、ただ空想のみに化してしまいました。ぼくは夜でも空想してるんですよ。ああ、ドルゴルーキイ、きみはディケンズ
の『骨董店』を読んだことがありますか?L「読みました、それがどうしました?」「じゃ、党えていますか……ちょっと待ってください、ぽくもう一杯のみ乾しますから、―あの作品の終わりにこういうところがあるでしょう? あの気ちがいの爺さんと可憐な十三になる孫娘が、ファンタスチックな逃走と放浪のうちに、とうとうイギリスのある地方で、中世紀のゴチック式寺院のそばに落ちつき、娘はその寺院で勤めるようになり、見物人にその内部を案内して見せる……ところが、あるとき夕日の沈むころ、この子が寺院の入口に立って、夕陽の光線を浴びながら、子供らしい魂に静かな瞑想をたたえて、じっとこの落日を見つめる。少女の魂は、まるで何か謎の前にでも立ったような、驚異の念に満ちているのです。なぜって、どちらもまるで謎のようじゃありませんか、-太陽は神の思想として、寺院は人間の思想として……ね、そうじゃありませんか? ああ、ぽくにはうまくいい表わせないけれど、しかし幼きもののこういう最初の思念を、神は愛したもうのです……ところで、娘のそばには、例の気ちがい爺さんが階段に立って、じっと勁かない目で孫を見つめている……まったくそれにはべつにどうというようなところはありません。ディケンズの描いたこの場景には、まったく何もとり立てていうほどのこともないんですが、しかし読者はこれを永久に忘れることができません。そうして、これは全欧州の遺産となりました、―いったいどういうわけでしょう。つまり、芙しいものとしてです!・ そこに含まれた無垢な感じのためです!
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いや、ぼくはそこに何があるか知らない。しかし、とにかくいいです。ぼくは中学時代に、いつも小説ばかり読んでいました。実は、田舎の領地に姉が住んでいましてね、ぼくよりたった一つ年が上なだけです……ああ、今ではもう何もかも売り払われてしまって、もう村も領地もありません!・ ぽくはこの姉とテラスに腰かけて、古い菩提樹の下で、この小説を読んだものです。そのときもやはり夕日が沈みかかっていました。ぼくたちは急に読むのをやめて、自分たちもやはりこんな善良な人間になろう、こんな美しい人問になろうと、お互いにいい合ったものです、-ぼくはそのとき大学へはいる準備をしていました。そして……ああ、ドルゴルーキイ君、まったくだれでも、自分自身の追憶を持っているものですね!………」 急に彼は美しい首をわたしの肩へもたせながら、-泣きだした。わたしは彼がかわいそうで、かわいそうでたまらなかった。もっとも、彼が酒を飲みすぎたのは事実だが、それにしても、彼は真情のこもった態度で、まるで兄弟のようにわたしにうち明けたのだ。……とつぜんこの瞬問、通りのほうからがやがやとわめく声が聞こえ、わたしたちの前の窓ガラスを、指ではげしくたたく音がした(この部屋の窓は大きな一枚ガラスになっていて、場所はI階だったから、往来からノックすることができたのだ)。それは、そとへ連れ出されたアンドレエフだった。「Oh6「」ambert ! Oa est 」ambert ? As4u vu 」ambert P(やあい、ランベルトー ランベルトはどこにいる? ランベルトを見
たものはないかい?)」という彼のすさまじい叫び声が往来から聞こえた。「ああ、あの男はここにいたのか! じゃ、どこへも行かなかったんだな!・」と美少年は席から飛びあがりながら叫んだ。 「会計’・」ランベルトは歯がみをしながら、ボーイに命じた。 彼が金を払いにかかったとき、その于は憤怒のために、わなわなふるえるくらいだった。けれども、あばた面は自分の勘定をさせなかった。 「なぜです? だって、ぽくがあなたを招待して、あなたがその招待を受けたんじゃありませんか?」 「いや、とにかくそうさせてもらいましょう」とあばた面は金入れを取り出して、自分の割前を勘定すると、一人だけ別に払いをすませた。 「そりゃあなた失礼じゃありませんか、セミョーンーシードルイチー・」 「いや、わたしはこうしたいんです」と、こちらはぶっきら棒にいって帽子をとり、だれにも挨拶しないで、一人さっさとホールから出て行った。 ランベルトはボーイに金をほうり出すと、狼狽のあまりわたしのことさえ忘れてしまい、あたふたと彼のあとから駆け出した。わたしとトリシャートフはいちばん後から出た。アンドレエフは電柱よろしく、車寄せのそばに突っ立って、トリシャートフを待っていた。 「やくざ者!」ランベルトは我慢しきれないで、どなりつけようとした。
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 「おいおい」とアンドレエフは唸るようにいって、手をひと振りしたかと思うと、彼の頭から山高帽をはねとばした。帽子は歩道をころころと転がって行った。 ランベルトは見ぐるしくも、それを拾いに飛んで行った。 「二十五ルーブリー・」さきほどランベルトからもぎとった札を見せながら、アンドレエフはトリシャートフにいった。 「よせよ」とトリシャートフはどなりつけた。「なんだってそう暴れてばかりいるんだ……どういうわけで二十五ルーブリもふんだくったんだい? あの男には七ルーブリ貸しになってるだけじゃないか」「どういうわけでふんだくった? あいつは裸の女たちを呼んで、別に食事をさせると約束しておきながら、女のかわりにあばた面なんかご馳走しやがった。おまけに、おれはご馳走をしまいまで食べないで、寒い往来で凍えたんだから、大丈夫十ハルーブリがとこはあるよ。七ルーブリはやはりあの男の借りにしておけ、-ほら、かっきり二十五ルーブリ」「二人ともどこへなと、とっとと失せやがれ」とランベルトがわめいた。「二人ともお払い箱だ。おれは貴様たちをたたき味噌にしてくれるぞ!………」 コフンベルト、こっちこそお前さんをお払い箱にしてやらあ。こっちこそお前さんをたたき味噌にしてみせらあ!」とアンドレエフは叫んだ。「アディユ、公爵、もう酒は飲まないほうがいいですよ! さあ、行こう、ペーチャー ○に’r日Fl{}a est Lambert ? As。tu vu Lambcrt ?(やあい、ランベルトーランベルトはどこに行った? お前ランベルトを見たかい?)」彼は
大股にその場を離れながら、最後にこうわめいた。 「じゃ、ぼくあそびに行きますよ、いいですか?」トリシャートフは、急ぎ足で友のあとを追いながら、早口にささやいた。 わたしはランベルトと二人きりになった。 「さあ……出かけよう!・」いささか度胆をぬかれた形で、やっとのことで息をつぎながら、ランベルトはこういった。「どこへ行くんだ? ぼくはきみといっしょにどこへも行きゃしないよ!・」わたしは急いで挑むように叫んだ。 「どうして行かないんだ?」急にはっとわれに返りながら、彼はおびえたようにぴくりとなった。「ぽくはきみとさし向かいになるのを、さっきから待ちかねていたんだよ!・」 「いったいどこへ行こうというんだ?」 実のところ、わたしも三杯のシャンパンと二杯のシェリー酒でほんの心もち頭がじんじん鳴りだしたのだ。 「ここだよ、そら、ここだよ、わかったかい?」 「なるほど、ここには『新しい牡蠣』と書いてある。だが、どうもいやな匂いがするじゃないか……」 「そりゃ食事のあとだからさ。ここはミリューチンの店たんだよ。なに、牡蠣なんか食べなくたっていい。ぼくがシャンパンを奢るから……」 「いやだ’・ きみはぼくを盛り潰そうと思ってるんだろ 「きみはあいつらに吹きこまれたな。あいつらはきみをからかったんだ。それだのに、きみはあんなやくざ者のいうことをほんとうにしてよ!・」
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 「いや、トリシャートフはやくざ者じゃない。ぼくだって、自分で警戒するすべを知っているからね、―はばかりさま!」 「なんだって、きみにも意地があるんだって?」 「ああ、ぼくにも意地があるんだよ、-きみなんかよりち’つとばかり余計にね。だって、きみはだれにでも出会う人ごとに、ぺこぺこしてるじゃないか、きみはぼくらの顔に泥を塗ったんだ。あんなポーランド人なんかに向かって、ボーイみたいにあやまったじゃないか。あれで見ると、きみはよく料理屋でぶたれるらしいね?」 「しかし、ぼくらはどうしても話し合わなくちゃならないんだよ、ばか!」と彼は軽蔑したような、じれったそうな調子で叫んだ。それは『お前までも同じように?』とでもいいたそうな声音だった。「いったいきみは怖いのかい? きみはぽくの親友なのか、そうでないのか?」 「ぼくはきみなんかの親友じゃないよ。きみは悪党だ。だが、ぽくはきみを恐れていない証拠に、きみといっしょに行 ってやろう。ああ、なんていやな匂いだ、チーズの匂いがぷ んぷんしているI・ ええ、胸が悪い!」
第6章 老人の死とその前後
       7J わたしはすこし頭がじんじん鳴っていたことを、もういちど思い出させてもらおう。もしこれさえなかったら、わたし
の言行はもっと違っていたに相違ない。この店の奥の間ではほんとうに牡蠣を食べさせてくれた。わたしたちは汚れたひどいテーブルークロースのかかった、小机に陣どった。ランベルトはシャンパンを命じた。冷たい金色の酒をたたえた杯がわたしの前に置かれ、そそのかすようにわたしを眺めていた。けれど、わたしはいまいましくてたまらなかった。 「ねえ、ランベルト、きみ自身がここでみんなにぺこぺこしてるくせに、いつまでもトウシャール時代と同じようにぼくに命令することができるなどと考えている、それが何よりいちばん癪だよ」 「ばか! さあ、杯を合わそう」 「きみはぽくの前で、面をかぶろうとさえしないんだね。ぽくを盛り潰そうという腹を、せめて隠すようにでもすれば、まだ殊勝なんだが」 「でたらめいうのはよせよ。きみは酔っぱらってるんだ。もうすこし飲まなくちゃだめだ。そうすりゃもっと愉快になるよ。杯を取れよ、取れというのに!・」 「取れとは、いったいなんのことだい? ぼくはもう行く、それでおしまいだ」 わたしはほんとうに立ちあがろうとした。彼は、ぷりぷり腹を立てた。 「こりゃ、てっきりトリシャートフが、おれのことを何かきみに吹きこんだに相違ない。きみたちがひそひそ話をしていたのを、おれはちゃんと見たよ。それじゃ、きみはほんとうに、ばかといわれても仕方がないぜ、アルフォンシーヌだっ
で、あの男がそばに近くよると、汚いといっていやがるくらいじゃないか……あいつは穢らわしい男なんだよ。あいつがどんな人間か、ひとつきみに話して聞かそう」 「それはもう話したよ。きみはいつでも、アルフォンシーヌめI点ばりだ。きみの世界は恐ろしく狭い」 「狹い、狭いって?」彼は合点がいかなかった。「あいつら。は今度あばた面のほうへ乗り変えやがった。そうなんだよ!だから、おれはあいつらを追つ払ってやったんだ、-あいつらは徳義心のない人間だ。あのあばた面の悪党め、すっかり二人を堕落させてしまいやがった。おれはいつもあいつらに、高潔な態度をとるようにっていったんだが」 わたしは腰をおろして、ほとんど機械的に杯をとり、一口ぐっと飲み乾した。 「ぼくは教育からいうと、きみなんかより比較にならないほ’どうえなんだからね」とわたしはいった。 けれど、彼はわたしが腰をおろしたので、すっかり喜んで’しまい、さっそくまた酒を注ぎ添えた。 「だって、きみはあの連中を恐れているじゃないか?」わた‘しは彼をからかいつづけた(そのときわたしはきっと彼以上に、いやらしい人間だったに相違ない)。「アンドレエフはき‐みの頭から帽子をはね飛ばしたのに、きみはその礼に二十五、ルーブリやったじゃないか」 「そりゃやったさ。しかし、それだけのことは必ずさせて見。せる。あいつらは謀叛をおこしてるが、なに、いまにあいつ・らをのしてやるから……」
「きみはあのあばた面のことを大そう気にしてるね。ところでどうだろう、いまきみの手に残ったのは、ただぽくひとりだけらしいぜ。きみの希望は、ぼくという人間ひとりにかかってると思うが、どうだい?」「そうだ、アルカーシャ、そりゃそのとおりだ。きみはぼくに残された、たった一人の親友なんだ。いや、きみはなかなかうまいことをいったよ1・」彼はわたしの肩をぽんとたたいた。 こういうがさつな人間にかかったら、どうにもしようがない。彼はまるで、精神的発達がなっていないので、冷笑を賞讃と受けとったのである。 「なあ、アルカージイ、もしきみが善良な親友だったら、ぼくに厄のがれをさせることができるんだがなあ」わたしの顔をやさしく眺めながら、彼はこう言葉をつづけた。 「どうしてそんなことができるんだね?」 「どうしてかって、そんなことは自分で知ってるはずだ。きみなんかぼくがいなかったら、そんなふうの間抜けだから、きっとばかなことをするに違いない。ところが、ぽくはきみに三万ルーブリ儲けさしてやる。それを二人で山分けにしようじゃないか。その方法はきみ自分で承知してるだろう。まあいったいきみがどういう人間か、考えてみたまえ。名もなければ門閥もない、1何一つ持ち合わせていないじゃないか。ところが、そこへいきなり、うんとまとまった金がころがり込むんだからね。それだけの金を握っていたら、それこそどんな仕事でもはじめられるというもんだ!」 わたしはこういう相手の作戦に、ただもう呆気にとられて



しまった。わたしは彼が策略を弄するに違いないと、頭から予想してかかっていた。ところが、彼はまるで明けすけに、子供じみた態度で切り出すではないか。わたしはもちまえの多角性のために……そして恐ろしい好奇心のために、一応かれの言葉を聞こうと決心した。 「ねえ、ランベルト、きみにはわからないだろうが、ぽくは多角性の人間だから、きみの話を聞くことにするよ」とわたしは断乎たる調子で声明して、シャンパンをがぶりと飲んだ。 ランベルトはすぐにまた注ぎたした。 「ほかでもないがね、アルカージイ、もしビョーリングのような人間が、おれにさんざ悪態をついて、尊敬する婦人の面前で人をなぐったりなんかしたら、おれはそれこそ、何をしでかすかわかりゃしない! ところが、きみはそれをおめおめ我慢した。だから、おれはきみを軽蔑する。きみは意気地なしだ!」 「ビョーリングがぼくをなぐったなんて、よくもきみはそんな失敬なことがいえるね!」とわたしは赤くなって叫んだ。「それはむしろぼくのほうがあいつをなぐったんで、あいつがおれをなぐったんじゃない」 「いや、なぐったのはあいつで、きみじゃないよ」 「ばかいえ、ぼくはおまけに、あいつの足まで踏んでやったんだ!」 「いや、あいつはきみを手でたたきのけたうえ、ボーイたちに引っぱり出せといいつけたんだ……しかもあの女が馬車に乗って、きみを笑いながら見物していたんだ。あのひとはき
みに父親がないから、侮辱したってかまわないと、たかをく・くったのさ」 「そりゃどうか知らない。ランベルト、ぼくらの話の調子け少々子供じみてるね。ぼくは恥ずかしいよ。きみはまるでぼくを十五六の子供扱いにして、無作法に露骨に人をからかおうと思って、そんなことをいうんだろう。きみはアンナーアンドレエヴナと示し合わせたんだな!」憤怒のために全身奮ふるわせ、機械的に酒をがぶがぶ飲みながら、わたしはこう‘叫んだ。 「アンナさんは毒婦だ! あいつはきみやぽくばかりでなく、世間ぜんたいをだましかねないやつだ!・ ぼくがきみを待っていたのは、きみのほうがうまくあのひとの片をつける’と思ったからだ」 「あのひととはだれだい?」 「マダムーアフマーコヴァさ。おれはすっかり知ってるよ。あのひとはきみの持ってる手紙を恐れているって、きみが自分で話したじゃないか……」 「手紙だって……でたらめいっちゃいけない……キゝみはありひとに会ったのかい?」とわたしはまごつきながらつぶやいた。 「ああ、会ったよ、なかなか美人だ。Tr6 bclle(実に美しい)。きみも一隻限を備えているよ」 「きみが会ったのはわかってるさ。ただあのひとと話なんかする勇気がきみにあるものか。それに、あのひとのことをそういう調子で話してもらいたくないんだ」

 「きみはまだ子供だよ。だから、あのひとはきみをからかってるんだ、jそうとも!・ モスクワにもやはりああしたふうな、貞淑そのもののような婦人がいてね。それこそ高慢の鼻をそらしていたものだが、何もかもしゃべってしまうぞ、といっておどかしたら、急にびくびくしやがって、すぐおとなしくいうことを聞いたよ。で、おれたちは両方とも、まんまとせしめてやった、-一つは金で、もう一つは、-何かわかるだろう? いまそのひとはまた社交界で、そばにも寄りつけないようにすましかえってさ、豪勢な馬車におさまって、雲井に近く飛びまわっているが、あのひどい物置みたいな部屋でやったことを、もしきみが一目でも見たらなあ!きみはまだほんとうの生活をしたことがないけれど、あの連中がどんな物置小屋にも驚かないものだってことを、ほんとうに知らせてやりたいくらいだ……」 「ぼくもそうだろうと思った」わたしはついこらえきれないで、こうつぶやいた。 「やつらはまったく足の爪先まで堕落しきってるんだ。あの連中がどんなことをするか、きみには想像もできないだろうI アルフォンシーヌもそういう家に住んでいたことがあるが、あいつでさえ膵もちがならなかったというからな」 「ぼくもそのことは考えてみた」わたしはまたもや相槌を打った。「ところが、きみはなぐられながら、相手を気の毒がってるんだ」「ランベルト、きみは卑怯者だ。きみはやくざ者だ!」わた
しは急に気がついて、思わずぴくりとしながら叫んだ。「ぼくはそれをすっかり夢に見た。きみが立っていると、アンナーアンドレエヴナは……ああ、きみはやくざ者だ! いったいきみはぼくまで同じような卑劣漢だと思っていたのか?’ぽくがそんな夢を見たのは、きみがその話を持ち出すだろうと、前からちゃんと知っていたからだ。それに第一この話は、きみがそうざっくばらんに無遠盧にいうほど、決して単純なものじゃありえ。ないよ」 『よう、怒つたな、これはこれは!』ランベルトは得意にな って笑いながら、言葉尻を引いた。 「なあ、アルカーシャ、おれはすっかり必要なことを発見したよ。つまり、そのためにきみを待ってたんだからな。じゃ、なんだね、つまりきみはあのひとに惚れていて、ピョーリングに復讐をしたいというんだな、-おれが知らなければならなかったのはそのことなんだ。ここで待っている間じゅう、どうもそうじゃないかと思ってたよ。Ccci pos6「celachange la question. (そうとすれば、こいつは問題が違ってくるよ)しかし、これは結局好都合だ。あのひともきみに惚れてるからな、だから、きみ、さっそく猶予なしに結婚しろよ、そのほうがいいぜ。それにきみとしてはほかにしようがない。きみはいちばん確かな選択をしたんだよ。それからね、アルカージイ、こういうことを承知していてくれ、--きみには一人の友人がある、それはぼくだ。ぼくなら、背中に鞍を置いたってかまわないよ。この親友がきみを助けて、きみを結婚させるんだ。土の底からでも、いっさいがっさい于に入れてやる



よ、アルカーシャー・ そのかわり、きみはあとでその労に報いるために、三万ばかり旧友に贈ってくれ、いいかい? ぽくは尽力するとも、そりゃ疑わないでくれ。おれはこういう事件にかけたら、あらゆる微妙ないきさつを心得てるからな。きみは持参金をそっくり手に入れて、はなばなしい未来をひかえた金持ちになるんだ!」 わたしは目くるめくような思いがしたけれど、それでも驚異の念をいだきながらランベルトを見つめた。彼はまじめだった。といって、まじめなのとも違うけれど、わたしを結婚させる可能性があると、自分でもすっかり信じきっているばかりでなく、この思いつきに夢中で飛びかかっているのが、まざまざと見すかされた。むろん、彼がわたしを子供扱いにして、うまく釣り出そうとかかっているのは、わたしもよくわかっていたものの(きっとそのときすぐ気がついたに違いない)、彼女との結婚という考えがわたしの全存在を稲妻のごとく貫いたので、どうしてこの男がこんな夢のような空想を信じられるのだろうと、あきれてランベルトを見つめながらも、同時に、自分でも一生懸命にそれを信じようとした。とはいえ、こんなことがどうしたって実現しうるはずがないという意識を、つかの間も失わなかったのはもちろんである。つまり、こういったような気持ちが妙に両立しえたのだ。「いったい、そんなことができるのかい?」とわた七はつぶやいた。「なぜできないんだ? きみがあの書類を見せたら、あのひともたちまちちぢみあがって、金を失くしたくないばっかり
に、きみとの結婚を承知するに違いないさ」 わたしはランベルトの陋劣な言葉を、思いきって止めることができなかった。それは、彼があくまで平然と、その穢らわしい計画をならべ立てながら、わたしが急に憤慨しやしかいかという懸念を、夢にもいだこうとしなかったのである。しかし、わたしは思い切りの悪い調子で、そういう強制結婚はしたくないと、囗の中でつぶやいた。 「そんな強制はどうしたっていやだ。ぼくにそんなことができると想像するなんて、よくもそれほど陋劣な気持ちになれたものだね」 「こいつあ驚いた! なに、あのひとが自分で結婚を申し出るよ。きみじゃなくって、あのひとが自分のほうから、驚いて結婚しようといいだすよ。それに、あのひとはきみを愛してるんだものな」ランベルトは急に気がついて、こう訂正した。 「でたらめいっちゃいけない。きみはぼくをからかってるんだ。あのひとがぼくを愛してるなんて、どうしてきみにそれがわかる?」 「そりゃそれに違いないとも、ぼくはちゃんと知ってる。アンナさんもそのつもりでいるよ。ぽくはまじめでいってるんだ。アンナさんがそのつもりでいるというのはほんとうの話だぜ。それにまた、きみがぼくのところへやって来たら、もう一ついいことを聞かしてやる。そうすればきみも、なるほど愛しているなと合点するから。アルフォンシーヌがツ″Iルスコエヘ行って、あすこでやはり嗅ぎつけて来たよ……」 「いったい、何を嗅ぎつけたんだね?」
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 「まあぼくんとこへ来たまえ。あれが自分で話して聞かせるから、きみもまんざらいやな気持ちはしないだろう。それにきみはどこといって、他人にひけをとるところはないじゃないか。男まえはよし、教育はあるし……」 「そうだ、ぼくは教育がある」やっとのことで息をつきながらわたしはつぶやいた。 わたしの心臓はずきんずきんと打っていた。もちろん酒のためばかりではない。 「きみは男まえはよし、なりもりゅうとしているし」 「そうだ、なりもりゅうとしている」 「性質も善良だし……」 「そうだ、ぼくは善良だ」 「だから、あの女が承知しないはずがないじゃないか? ビ ョーリングはなんてたって、財産なしじゃもらいやしない。 ところが、きみはあのひとを一文なしにすることができるん だからなあ、-そりゃ、あのひともびっくりしようさ、ぜひ 結婚して、ピョーリングに仇討ちしなくちゃいけない。だっ て、あの凍え死にしかけた夜、自分でそういったじゃない か、あのひとはきみに惚れてるって」 「いったいぼくがそんなことをいったかい? たしかそんなふうにはいわなかったはずだ」 「いや、そういったよ」 「そりゃ熱にうかされてたんだ。じゃ、きっと書類のことも、そのときぼくがしゃべったんだな?」 「ああ、何かそんな手紙を握っているといったよ。それでぽ
くも考えたのさ、-そういう手紙を持っていながら、なぜみすみすうまい儲けをのがしてしまうんだろう、つてね」「そんなことはみんな夢だ。ぼくはそんなことをほんとうにするほど、それほどばかじゃないつもりだ」とわたしはつぶやいた。「第一、年が違うし、それに、ぼくにはまるで家柄ってものがないんだから」「なに、きっと承知するよ。あれだけの大金がふいになろうというのに、承知しないはずがないじゃないか。それはぼくがうまく膳立てするよ。それに、きみを愛してるんじゃないか。きみは知ってるかい、あの老公がひどくきみを贔屓にしてるんだよ。あの人の保護を利用したら、どんな手蔓がえられるかわかりゃしないぜ。ところで、家柄がないってことだが、いまどきそんなものはまるでいりゃしない。いったん金を手に入れたら、とんとん拍子にうまくいって、十年もたったころには、ロシヤ全国を震撼させるような百万長者になっちまわあね。そうしたら、門閥なんてものがなんのためにいるんだ? オーストリアあたりで男爵の肩書きを買ってもいいさ。だが結婚したら、ちゃんと手綱をしめなくちゃいけないぜ。よく馴らさなくちゃだめだ。女ってものは惚れたとなったら、ギゝゆっと拳固でおさえられるのが好きなんだよ。だから手紙を見せておどしつけたら、その瞬間から、しっかりした性根を見せることになるんだからね。『ああ、この大はまだあんなに若くっていながら、ちゃんと性根ができてるんだわ!』つてなことをいうのさ」 わたしは腑ぬけのようにすわっていた。もし相手がほかの



者だったら、わたしも決してこんなばかげた会話をするほどヽ自分の品位を落としはしなかったに相違ない。が、そのときは何かしら甘い渇きがわたしを引きずって、どこまでもその会話をつづけさせた。それに、ランベルトがあまりに愚昧で陋劣だったので、この男を恥ずかしがるわけにいかなかったのだ。「いや、ランベルト」ふいにわたしはこういった。「きみはどう思うか知らないが、こいつはどうも話がばかげすぎてる。ぼくがきみとこんな話をしたのは、われわれがお互いに友達同士で、何も恥ずかしがるわけがないからだ。これがもしほかの者なら、ぼくは決してこんな恥っさらしをしやしない。第一、なぜきみはあのひとがぼくを愛してるなんて、そうきっぱりいいきることができるんだい? きみはいま金の力ということで名論を吐いたけれど、しかしね、ランベルト、きみは上流社会ってものを知らないのだ。彼らの社会では、すべてがごく族長的な、いわば家系的な関係で行なわれているのだから、ぼくがどんな才能を持っているか、この人生でいかなる栄誉に到達しうるか、それをよく知らないかぎり、いまのところなんといっても、あの人はきまりわるがるに相違ない。しかしね、ランベルト、きみだからつつみかくさずいってしまうがね、そこにはまったく有望な点が一つあるんだよ。ほかでもない、あのひとは感謝の念のために、ぽくと結婚するかもしれないんだ。なぜって、ぼくはそのとき、ある一人の男の憎しみからあのひとを救うことになるんだ。あのひとはそりゃ恐れているんだからね、その男をさ」
「ああ、きみは、自分の親父のことをいっているんだね?どうだい、あの人はひどくアフマーコヴァ夫人に愡れてるのかい?」急にランベルトは、なみなみならぬ好奇の色を浮かべながら、椅子からおどりあからないばかりにした。 「いや、そんなことはない!」とわたしは叫んだ。「ランベ ルト、きみはなんて恐ろしい、同時にばかな人間だろう!・ もし父があのひとを愛してるとしたら、ぽくがあのひとと結 婚しようなんて望みを起こされると思うかい? なんたっ て、父と子だからね、こいつはどうも恥ずかしいよ。父は母 を愛しているんだ、母を。父が母を抱いているとこを、ぼく は見たんだもの。ぼくも以前は、父がカチェリーナ夫人を愛 しているように思ったけれど、いまじゃはっきり知ることが できた。父はもといつかあのひとを愛していたかもしれない が、いまでは、-ずっと前から憎んでいる……そして、復 讐しようと思っているのだ。だから、あのひとが怖がってい るわけさ。だってね、ランベルト、きみにうち明けていうけ ど、復讐するときの父はそれこそ実に恐ろしいんだ。ほとん ど気ちがいみたいになるんだからね。父があのひとに腹を立 てると、どんなことだってしかねないんだ。それは何か高遠 な信念から発した、旧式な反目なんだよ。今の時代では、一 般的信念なんて屁でもありゃしない。現代で重要なのは一般 原則じゃなくて、ただ個々の場合ばかりだ。ああ、ランベル ト、きみはなんにもわからないなあ。きみはまるで足の指み たいにばかだ。ぼくはいま一般原則のことをいってるが、き みはきっとなんにもわかりゃしないのだろう。きみは恐ろし
く無教育だ。ほら、覚えてるかい、きみがぼくをなぐったことがあるのを? いまはぼくのほうがきみより強いんだ。きみはそれを知ってるかい?」 「アルカーシャ、ぼくんとこへ行こう! 今夜は徹夜をして、もう一本あけようじゃないか。アルフォンシーヌがギターを弾いて、何か歌うだろう」 「いやだ、行かない。おい、ランベルト、ぽくには『理想』があるんだぜ。もし計画が失敗して結婚ができなかったら、ぼくはその理想の中に隠れてしまうんだ。ところが、きみには理想がない」 「よし、よし、後で聞こう。さあ出かけようじゃないか」 「行かないI」わたしは席を立った。「いやだといったらいやたんだ。ぼくは改めてきみのとこへ行くけれど、しかし、きみは卑怯者だ。ぼくはきみに三万ルーブリやろう、-かまわない、しかし、ぽくはきみなんかより純潔で高尚なんだ……キゝみがぼくをすっかり丸め込もうとしているのは、ちゃんと見えすいているよ。あのひとのことは考えることすら許さない。あのひとはだれよりもいちばん高潔な存在なんだ。ところがきみの計画なんか、お話にならない卑劣なもので、ただもうあきれかえるばかりだよ、ランベルト。ぼくは結婚を望んでいる、-それはまあ別問題だが、ぼくは財産なんかいらない。ぼくは金を軽蔑してる。たとえあのひとが膝をついてぼくに財産を捧げたって、決してそんなものを受け取りゃしない……だが、結婚、結婚……それはまた別問題だ。ときに、あれはうまいことをいったよ、-拳固でおさえつ
けるってやつは。熱烈に愛しながら、1男にのみあって女には決して見られない、寛仁大度をつくして愛しながら、しかも暴君のごとくふるまう、-こりゃ実にいい。だってね、きみ、ランベルト、女は横暴専制を愛するもんだからね。いや、ランベルト、きみは女を知っている。しかし、その他すべての点にかけたら、きみは驚くばかり愚昧だよ。だがね、ランベルト、きみは決してちょっと見ほど陋劣な人間じゃない。きみは単純な男だ。ぼくはきみが好きだよ。ああ、ランベルト、なぜきみはそんな悪党なんだ? それでなかったら、ぼくらは愉快に暮らすことができたんだがなあ!ときに、あのトリシャートフは愛すべき男だね」 この最後のしどろもどろな言葉は、もう往来へ出てからしゃべっているのだった。ああ、わたしがこんな事をこまかく書き連ねるのは、ほかでもない。そのときわたしが感激に満ちた調子で、更新復活を誓い、端麗な心境を求めていたにもかかわらず、きわめて容易に泥濘へ落ちこむ可能性があったことを、読者に知らせるためなのである! 白状するが、もし現在わたしが実生活によって性格を鍛えあげ、その当時から見るとまったく別人になったというかたい自信がなかったら、決してこんなことをうち明けるはずではなかったのだ。 わたしたちは店を出た。ランベルトは片手で軽くいだくようにしながら、わたしをささえていた。ふとわたしは彼の顔を見た。と、恐ろしく注意ぶかい、このうえもなくまじめな彼の凝視をとらえた。それはわたしが凍え死にしかけた朝と、ほとんど同じ感じだった。あのときもやはりいまと同じよう



に、片手でわたしをいだいて、辻馬車のほうへ連れて行きながら、目と耳を緊張させて、わたしのしどろもどろな饒舌に聞き入ったものである。すこし酔いがまわりかけたばかりで、まだへべれけになっていない人間には、ときおり完全に正気づく瞬間がある。 「どうしたってきみのところへ行くもんか!」あざけるようにランベルトを見つめ、片手でその体を押しのけながら、わたしはしっかりした調子できっぱりといった。 「もうそんなことはよせよ。ぼくはアルフォンシーヌに茶を入れさせるから、たくさんだよ!」 わたしが振りほどいて逃げる心配はないと、彼はかたく信じきっていた。彼は小さな犠牲でも捕えたように、わたしを抱いてぐっとしめっけていた。実際、わたしは彼にとって必要欠くべからざる人間だったのだ。しかもこの晩、こういう状態になったところが、必要だったのである! それがなぜかは、あとですっかりはっきりしてくる。 「行かない!」とわたしはくり返した。「辻待ち橇I」 ちょうどそこへ辻待ち橇が寄って来たので、わたしはその中へひらりと飛び乗った。 「おい、どこへ行くんだ? 何をするんだ!」ランベルトは恐ろしく狼狽して、わたしの毛皮外套をつかまえながら金切り声をたてた。 「迫っかけて来ると承知しないぞI」とわたしはどなった。「ついて来るな」ちょうどこの瞬間、橇が動きだしたので、わたしの外套はランベルトの于から抜けた。
 「なに、どうせやって来るさ!」と彼はわたしの後から、毒毒しい声で叫んだ。 「気が向いたら行くよ。それはぼくの勝手だ!」わたしは後を振り返りながら、橇の中から叫んだ。
      2 彼はもちろん迫っかけて来なかった。手近なところにほかの権がなかったからである。で、わたしは彼の目から姿をくらますことができた。けれどセンナヤ(乾草)広場まで来るとヽ、さっそく立ちあがって稻を返した。わたしは少しぶらぶら歩きたくなった。疲労も、列Jしい酔いも、べつに感じなかった。そこにはただ勃々たる勇気があるばかりだった。力が満ち潮のように湧きあかって、いかなる冒険もあえて辞さないような気がし、頭の中には無数の快い想念がむらがるのだった。 心臓はずきんずきんと重々しく鼓動していたIわたしはその音を一つ一つ聞いた。何もかもわたしには気持ちよく、かるがると感じられた。センナヤ広場にある哨舎の前を通りすぎるとき、わたしは哨兵に近よって彼に接吻したくてたまらなかった。それはもう雪どけのころでヽ広場は黒ずみ、いやな匂いをたてはじめたが、わたしはこの広場まで気に入ってしまった。 『おれはこれからオブーホフ通りへ出て』とわたしは考えた。『それから左へとって、セミョーノフ連隊へ出よう。それはだいぶまわりになるけど、なに、けっこ・うだ。何もかも素敵だ。おれは毛皮外套の胸を明けっぱなしにしているが、
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どうしてもだれもこいつを剥ごうとしないんだ? いったい追剥ぎはどこへ行ったんだ? センナヤ広場には追剥ぎがいるって話だが、さあ、遠慮なくやって来るがいい。この外套を進呈してもかまわないんだ。そもそも外眥なんかなんだ?外套なんか私有財産じゃないか。La ProPriaG c'est le vol.(私有財産は盗品なり)だが、何をばかいってるんだ。実に何もかも素敵じゃないか。今夜雪どけ模様になったのは、こいつも素敵だ。凍なんかなんになるんだ? そんなものなんかまるでいりゃしない。くだを巻くのもまたけっこうさ。ときに、ええと、おれはランベルトに一般原則がどうとかいったっけな? そうだ、一般原則なんかなくって、ただ、個々の場合しかないといったんだ。あれはでたらめだ、ウルトラでたらめだ! 景気つけにわざといったんだ。ちっとばかり恥ずかしいが、なに、平気だ、罪滅ぼしはしてやるさ。そう恥ずかしがるんじゃない、自分で自分を苦しめるものじゃありませんよ、アルカージイーマカーロヴィチー え、アルカージイーマカーロヴィチ、あなたはぼくの気に入りましたよ。すばらしく気に入ったくらいですよ、ただあなたがちっとばかり小悪党なので、それが少々残念ですよ……それに……それに……ああ、そうだ……そうだっけ!・』 わたしはふいに立ちどまった。わたしの心臓ははかない望みに萎えてきた。 『ああ!・ あの男はなんといったっけ? あのひとがおれを愛してるといったんだ。おお、あいつは食わせものだ。あいつはさんざんでたらめをならべやがった。つまり、おれを泊
りに来させようって策略だ。だが、事によったら違うかもしれないぞ。あいつはアンナもそう考えてるといったっけ……そうだ!・ こいつはダーリヤも手伝って、あいつにいろんなことを嗅ぎ出させたのかもしれないぞ。あの女はどこでもこそこそ潜り込むからな。なぜおれはあいつのとこへ行かなかったんだろう? そうしたら何もかも知れたのに! ふむ!あいつには計画がある。おれはそいつをすっかり底の底まで予感していたんだ。しかし、そいつあ夢だ。ランベルト君、計画は大がかりだが、きみは大風呂敷をひろげているだけさ、どっこいそうは問屋がおろさない。だが案外計画どおりに行く・かもしれないぞ! ほんとうに行くかもしれないぞ!・ いったいあいつにおれの結婚をまとめることができるかな? できるかもしれない、大いにできるかもしれない。あいつはナイーヴで、自分の計画を信じてる。あいつはすべての事務家の例にもれず、愚鈍で大胆だ。愚鈍と大胆がいっしょになったら、こりゃ恐るべき力だ。だが、アルカージイ君、白状したまえ、きみはなんといっても、ランベルトを恐れていたろう! なんであんな男に、潔白な人間なんかがいるんだ?それでも先生大まじめで、ここには潔白な人間が一人もない、、なんていってやがる! いったい手前自身は何ものなんだ?ちぇっ、おれは何をいってるんだろう! いったい正直な人間が卑劣漢に不必要だと思うのか? 山勘の仕事にこそ潔白’な人間が、普通の場合よりもっと必要なくらいだ。はは!それをあなたはいままでごぞんじなかっただけですよ、純潔無垢なアルカージイーマカーロヴィチ。、ああ! もしあいつ



がほんとうにこの結婚を成立させたら!』 わたしはまたちょつと足をとめた。ここで自分の愚を白状しなければならない(もうとっくに時効にかかっているのだから)。白状するが、わたしはもうずっと前から結婚したかったのだ、1といって、はっきり望んでいたわけでない、、そういうことは決してなかった(またこれからさきもないだちう。これは立派に誓っておく)。けれど、わたしは一度や二度でなく、もうずっと前から、結婚したらどんなにいいだ’ろうと空想していた、―正確にいえば、数えきれないほど頻繁に空想した。ことに夜、眠りにはいろうとするときは必ずそれを考えた。これはまだ数え年十六のころからはじまったのである。中学校時代に一人の友達があった。ラヴローフスキイというわたしと同い年の子供で、実におとなしい愛す。べき美少年だったが、そのほかにこれという特色はなかった。わたしはほとんど一度もこの子と話をしたことはなかった。ところがあるとき、偶然わたしたちは二人きりならんですわったことがあった。彼は恐ろしく考えぶかそうな様子を’していたが、ふいにこうわたしに話しかけるのだった。 『ああ、ドルゴルーキイ、キゝみはどう思う、いますぐ結婚したらいいだろうね? まったくいま結婚しなけりゃいつするんだ。いまこそ一等いい時期じゃないか。ところが、それはどうしてもだめなんだからなあ!』 こんなふうに、彼は恐ろしく率直な調子でいいだしたので、わたしは急に心底から賛成してしまった。自分でも何かそんなふうのことを空想していたからである。その後、わた
したちは幾日もつづけて落ち合いながら、人には内証という形でその話ばかりしていた、Iもっとも、それよりほかの話はしなかったのだ。それから、どういう具合だったか知らないけれど、二人はすっかりよそよそしくなってしまい、まるで話をしなくなった。それからというもの、わたしは空想をはじめたのである。こんなことはもちろん、わざわざ思いおこす値打ちもないけれど、どうかすると非常に遠くから因を発するものだということを、はっきり示しておきたかっただけにすぎない…… 『そこにはただ一つ、まじめなプロテストが存在しうる』わたしは歩みをはこびながら、たえず空想をつづけた。『おお、わたしたちの年齢のささたる相違などは。もちろんなんの障碍にもなりえないけれど、ここにこういう問題があるIあのひとは堂々たる貴婦人だが、おれはただのドルゴルーキイだ! 実にいかん! ふむ! いったいヴェルシーロフはお母さんと結婚するとき、おれを自分の子とするように、政府の許可をうるわけにいかなかったのか……つまり父の功労のために……だって父は勤務をしていたのだから、したがって功労もあったはずだ。あの人は農事調停官だったっけ……・兀えいまいましい、なんて癪な話だ!』 わたしはだしぬけにこう叫ぶと、ふいにまた足をとめた。もうこれで三度目だったが、今度こそはその場へたたきのめされたような具合だった。ヴェルシーロフの子と認めてもらうことによって姓の変更を望むなどという、そうしたあさましい裏切り、1自分の少年時代に対する裏切りを意識する
ことから生じた悩ましい屈辱感は、ほとんど一瞬にしていままでの一杯機嫌を吹っとばしてしまった。わたしの喜びは煙のように消えてなくなった。 『いや、このことはだれにもいうまい』わたしは恐ろしく真う赤になって、こう考えた。『おれがこんなにまでみずから卑しゅうしたのは、つまり……XJにうつつをぬかしたからだ……いや、もし何かランベルトにもっともな点があるとすれば、現代ではそんなばかなことはすべてまったく不要なことで、現代において主なるものは人間自身で、金は二の次だというやつの言葉だ。いや金というよりむしろ財産なのだ。あれだけの財産があれば、おれはあの「理想」に突進する。そして、十年もたつうちにはロシヤ全国が、おれの前に煦々恐恐とするようになるだろう。そのときこそ、おれはみんなに復讐してやるんだ。またあのひとにも遠慮することはいらない。これもやはりランベルトの考え方は正しい。はじめおどしておけば、その後は無造作にすらすらといく。ごく無造作に俗悪に承知してしまって、それからはすらすらとはこんでいくのだ』 「きみは知らないだろう、どんな物置小屋でそういうことがあったのか、きみなんかとてもわからないだろう!」というさきほどのランベルトの言葉が心に浮かんだ。『そりゃそうだ』とわたしは相槌を打った。『ランベルトはすべて正しい。おれやヴェルシーロフや、その他ありとあらゆる理想派より千倍も正しい。あの男は現実派だ。あの製はおれに性根があるのを見て、あの人はしっかりしてるわと
いうだろう、ときたよ。ランベルトはしたたか者だ。あいつにはおれから三万ルーブリせしめたいという、それだけの野心しかないのだが、それでもあいつはおれにとって唯一の親友だ。それよりほかの友情なんてものはない。またありえない。そんなものは非実際的な人間が考え出したものなんだ。またあの女に屈辱を与えるわけでもない。いったいおれがあの女に屈辱を与えてよいものか? 決して、決して。女ってみなそうしたものだ! ぜんたい卑劣みのない女があるんだろうか? だからこそ、これに君臨する男が必要なのだ。だからこそ、女は被支配的に造られているのだ。女は悪行であり誘惑であるが、男は高潔と寛大そのものなんだ。これは世の終わりまで変わりっこない。ところで、おれがあの「書類」を利用しようとしてるのは、なに、なんでもありゃしない。これは高潔寛大の妨げにならない。純潔無垢なシルレル派なんかあるもんじゃない、-それは架空の産物だ。目的さえ立派なら、少々ばかり穢れがあったってかまやしない!あとですっかり洗い落として、アイロンをかけておくさ。いまどきそんなものはただの多角性にすぎない。ただ人生にすぎない、ただ生活的真実にすぎない、Iいまどきではこんなふうに呼ばれているのだ!』 ああ、またくり返していうが、このときの酒がいわせた譫言を、二言一句残らず引用したのを、どうか大目に見てもらいたい。むろん、これはそのときの思想のエ″センスにすぎないが、わたしはこれと同じ言葉を使ってしゃべったような気がする。わたしがこれを、こうまでくわしく引用しなけれ



ばならなかったのは、初めから自己批判のために筆をとったからである。もしこれを批判しなかったら、いったい何を批判すべきだろう。実際、人生これ以上譏粛な問題があろうか?・ 酒ということも決して弁明にはならない。ln vino vc。ritas(酒中に真理あり)ではないか。 こんなことを空想して、すっかり妄想に没頭しつくしていたので、ついに家まで、つまり母の住居までたどりついたのに、まるで気もつかぬほどだった。それどころか、家の中へはいったのにさえ気がつかなかった。しかし、小さな控え室ヘー歩踏み入るやいなや、すぐさま家に何か変事が起こったのを察した。部屋部屋では大きな声で話したり、暘んだりしていた。母の泣いている声も聞こえた。戸口のところで、マカール老人の部屋から一目散に台所へ駆けぬけたルケリヤが、あぶなくわたしを突き飛ばさないばかりだった。わたしは毛皮外套をぬぎ捨て、マカール老人の部屋へはいった。みんながそこに集まっていたからである。 そこにはヴェルシーロフと母が立っていた。母が彼の抱擁の中に身を投げていると、彼は母をかたく胸に抱きしめていた。マカール老人はいつものごとく足台に腰かけていたが、その様子が妙にぐったりしているので、リーザは彼が倒れないようにと、一生懸命に両手でその肩をおさえていた。それでも彼の体は次第に傾いて、いまにも倒れそうなのは明瞭だった。わたしは急ぎ足でかたわらによった。一時に戦慄が全身を走り、はっと悟った、老人は死んでいたのだ。 彼はたった今、わたしが来るほんの一分ほど前に暝目した
ばかりであった。十分前には老人はまだいつものような容態だった。その吩いっしょにいたのはりIザひとりだった。彼女は老人のそばにすわり、自分の悲しみを話してきかせていた。老人は昨日と同じようにりIザの頭を撫でていた。するととつぜん老人は、全身をふるわせはじめて(リーザの話によると)、立ち上がって、呼び声をあげようとしたが、声にはならずそのまま左側に崩れ落ちたのである。「心臓破裂だ!」とヴェルシーロフはいった。リーザは家じゅうへ響きわたるような叫び声を立てた。で、一同がここへ駆けつけたのである、-それはわたしが来る一分ばかり前の出来事だった。 「アルカージイー」とヴェルシーロフがわたしに声をかけた。「大急ぎでタチヤーナ叔母さんのとこへ、ひとっ走り行って来てくれ。きっと家に違いないから。すぐ来てもらうんだよ。馬車を雇うがいい。大急ぎで、お願いだ!」 彼の目はぎらぎら光っていた、iそれをわたしははっきり覚えている。彼の顔には純な悲哀とか、涙とかいったようなものは見受けられなかった、-泣いているのは、ただ母と、リーザと、ルケリヤばかりだった。わたしはいつまでもよく覚えているが、彼の顔にはかえって一種異常な興奮、というより、むしろ感激が現われていた。わたしはタチヤーナ叔母を呼びに駆け出した。 前からの話でわかっているとおり、道のりはさして遠くなかった。わたしは馬車を雇わないで、少しも休まずに走り通した。頭の中がぼうっとして、何かしら感激に似たようなものさえあった。わたしはなみなみならぬあるものが成就され
たのを感じた。わたしがタチヤーナ叔母の玄関でベルを鳴らしたとき、酔いは痕もとどめずさめてしまった。それといっしょに、卑劣な考えも消え失せた。 フィンランド生まれの女中が戸を開けて、「お留守ですI」といったなり、すぐさま戸をしめようとした。 「どうして留守なんだ?」わたしは力ずくで、控え寔に闖入した。「そんなはずがあるものかI マカール老人が死んだんだI・」 「なんですってえ!・」鍵のかかった客間の扉ご七に、タチヤーナ叔母の叫びがふいに響いた。 「死んだんですI マカール老人が死んだんですI アンド’レイーベトローヴィチが、すぐにおいでを願いたいって!・」 「そりゃお前、でたらめだろう……」 錠がかちりと鳴ったけれど、戸はただIヴェルショーク{擂七}ほど開いたばかりだった。 「なんだって、くわしく話しておくれ……」 「ぼくだって知らないんです。たったいまぽくが行って見ると、もう死んでたんです。アンドレイーベトローヴィチは、心臓破裂だといいました」 「すぐ、さっそく行きます。お前、大急ぎで駆け出して、すぐに行くから、といっておくれ。さあ、おいで、さあ、さあ! まあ、なんだってぼんやり立ってるんだえ? が、わたしは細目に開けた扉ごしにはっきり見た、Iタチヤーナ叔母の寝台を隠しているカーテンの陰から、ふいにだれかが姿をあらわして、タチヤーナ叔母のうしろにあたる
部屋の奥に立った。わたしは本能的に、機械的に扉の(ンドルをつかんで、その隙間をしめさせなかった。 「アルカージイさん! あの人が死んだというのはほんとうですか?」わたしの耳に覚えのある、静かな、なめらかな、金属性の声が響いた。それを聞くと、わたしの心は一時にふるえおののいた。その問いの中には彼女の心を射通して、興奮させたあるものの響きが感じられた。 「そういうことなら」とタチヤーナ叔母は、ふいに扉をおさえていた手を放してしまった。「そういうことなら、どうでもお好きなように話し合いをおつけなさい。それがお望みなんでしょうから!」 彼女は走りながら頭巾と外套をひっかけて、まっしぐらに廊下へ駆け出したと思うと、もう階段をどんどんおりて行った。わたしたちは二人きり取り残された。わたしは外套を投げすてて、部屋の中へ足を踏み入れると、うしろ于に戸をしめた。彼女はいつかの会見のときと同じように、明るい目つきでわたしの前に立っていた。そしてあのときと同じように、わたしに両手をさし伸べるのだった。わたしはまるで足を薙ぎ払われたように、彼女の足もとへ文字どおりに身を投げた。       3 わたしは危く泣きだしそうになった。しかも、なぜだかわからない。彼女がどんなふうにわたしをそばへすわらせたか覚えていないけれど、何ものにもかえがたい尊いわたしの記