『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「戦争証言アーカイブス」収録の、日本軍所属の十軍看護婦7人(勤務地は病院船、満洲、フィリピン、ビルマ)の証言を再読(全文ではない)

1921年新潟県佐渡郡に生まれる。
1941年日赤看護婦養成所新潟支部卒業。召集、病院船に勤務。2年間、朝鮮半島北部から南はラバウルまで、太平洋を22往復して患者輸送にあたる。
1945年8月、広島の大野陸軍病院で原爆患者の救護に当たる。戦後は、新潟県や東京都で小学校の養護教諭を務める。

1920年広島県佐伯郡に生まれる。
1940年召集、京都陸軍病院高野川分院配属。
1943年召集解除。二度目の召集。旧満州錦州陸軍病院に配属。
1945年拉拉屯分院で敗戦を迎える。11月、中国共産党八路軍に従軍。
1950年朝鮮戦争で中国の義勇兵の治療に当たる。
1953年帰国

1924年福岡県山門郡に生まれる。
1943年臨時看護婦として召集。471救護班として旧満州東寧陸軍病院に配属。
1945年8月、吉林省龍生で終戦を迎える。9月、延吉捕虜収容所へ。
1946年5月、中国共産党八路軍に従軍。中国大陸を数千キロにわたって南へ行軍。内戦終了後は洛陽の病院に勤務。
1953年帰国(京都・舞鶴)。

1923年兵庫県有馬郡に生まれる。
1943年日赤看護婦養成所姫路支部卒業。召集、376救護班として、ニューブリテンラバウルの第103兵站病院に配属。
1944年フィリピンへ。ミナンダナオ氏まで、第63兵站病院、カガヤン分院、第4野戦病院などに勤務
1945年米軍に投降。捕虜収容所へ。米軍輸送船で帰国。戦後は、岡山県で看護婦として勤務。

1926年和歌山県那賀郡に生まれる。
1943年日赤看護婦養成所和歌山支部卒業。召集、490救護班としてビルマの首都ラングーン、第106兵站病院に配属。
1945年パウンデーの第118兵站病院へ。ビルマ民兵の襲撃を受ける。インドで療養。
1946年イギリス軍の病院船で帰国。帰国後は、和歌山県で看護婦として勤務。

1925年朝鮮全羅北道の全州に生まれる。
1944年日赤看護婦養成所朝鮮本部卒業後、京城支部に召集。マニラの第63兵站病院に配属。マニラ空襲後、中部ルソンのカバナツアンへ患者とともに移動。
1945年バヨンボンの134兵站病院へ転属。6月、キヤンガンに向けて敗走。9月、投降。カンルバン捕虜収容所、モンテンルパ刑務所に勤務。
1946年8月、引き揚げ船で帰国。

1916年岡山県和気郡に生まれる。
1933年日赤看護婦養成所岡山支部で教育を受ける。臨時看護婦として召集。その後、東京陸軍病院郡医学校に配属。
1941年265救護班として、中国大陸の漢江第15兵站病院、漢江第2陸軍病院配属。
1944年312救護班として、フィリピン・マニラ第63兵站病院に配属。その後、比島139兵站病院、比島134兵站病院などに配属
1944年9月、米国に投降。捕虜収容所へ。
1945年日本の掃海艇で帰国。戦後は、兵庫県で農業を営む。