『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや 医師衛生兵関連その02 略あり 山西省「ロアン」従軍

1924年三重県度会郡小川郷村(現・度会町)に生まれる
1945年1月、現役兵として歩兵第68連隊補充隊に入隊。中国山西省路安へ
1946年復員 農業に従事

[1] 衛生兵の印 06:53
[2] 手術演習の準備 04:40
[3] 手術演習 04:02
[4] 手術演習の後 03:02
[5] 口をつぐんだ66年 02:51


[1] 衛生兵の印 06:53
これ、衛生兵のマークです。

Q:それはどんなふうに付いてたんですか。

兵科。

Q:どういうふうに付いてたんですか。

こうです。

Q:それは衛生兵ならではの・・・。

はいはい、衛生兵以外には無し。この色は。

Q:もう1回見せてもらっていいですか。どんな感じ・・・。

はい、はい。待ってや、逆さま・・・こうやな。はい。

Q:それで衛生兵の印?

はい。衛生兵の印です。

Q:それは、あの、戦時中に付けていた本物の・・・。

本物。はい。軍服にあったやつをちぎって、ほんなら私服へ付け替えただけ。あ、私服ってこの、自分のチュウキへな。

Q:今も残ってんですね、ちゃんとね。

ああ、今も残っとるがな。これもこれも、あるんけん引きますやろ。

Q:これはどうやって使うんですか? これは。

これはな、これは、まあ、面倒くさいもんで、うちが、こんな物もう今はあんた、もうこんな巻脚絆(まききゃはん)巻かんでも、こんなズボンぐらいありますやろ。どこの作業しにいても。だけど昔はこれがなきゃな、作業ができやんで。これがなかなか巻くのが難しくてな。こういうふうにな、ちょっと上げるわな。

こうやって巻いたら。これが本物や。これな。こんなことで、こんなことでよう巻かんもんで。まあこれ編上靴、ここまで、こう履きます。こう、編み上げるんですな。編上靴入に入れば、戦場服の上から、こう、巻くわけでな。

すねが短こうなったかな。これひざ関節半分巻かなあかんねん。うん、これでええな。

はい、こうです。

Q:速いですね、すごい。

え?

Q:速く巻けるんですね、それ。

ええ。それで、これの十文字が、そろわないかんねん。わしゃ、この上へ上へ巻いてしもうたけどな。こうや。

Q:やっぱ手慣れたもんですね。

え?

Q:手慣れたもんですね。

頭張られて覚えてんねん、あんた。

衛生兵の教育は済んで、もう済んで、私は路安(ロアン)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)へ残りましたもんで、路安の兵隊へ参りました。だけど、衛生兵の教育を済んでから、もう全部81名、全部バラバラになりました。もう太原(山西省省都)の陸軍病院へ行ったのもあるし、運城(山西省南西部)へも、それからヨウセイ(陽泉)へもいた。天津まで戻った人もある。いろいろあります。

路安で衛生兵の教育を受けて、そして、衛生兵の教育が2か月かな、3か月か2か月半で。それで終わって、終わると、みんながまた分散しますやろう。各隊へ。そうすると、私は分散されずに、またそこの部隊へ残りました。だけど、教育隊とは違うわな。今度は。内務班へ。

Q:忙しかったんですか。衛生兵としては。

衛生兵としては、いや、衛生兵としては、まあ、初め内地から行って、その防疫給水班へ入って、で、本科の兵隊で教育を習うて、また元へ戻ってきて、それから配属するために各班を1班から3班まで班をつくって、この3班へ入ったわけやけど。討伐が多かった。討伐って言うたら、まあ、小さい作戦や。あれが多かった。大方、おらんだな。で、まあ、病院の何も、病院でも病室がよけいあるんやで、この病院勤務もせんならんけど、昔からある病院の衛生兵候でござると言うてもよけいある、ござるのやで。で、わしは新兵やったとか、そういう教育されながら看護するより、もう「おまえらは一線へ行け」って言うて出されるほうが多かったもんで。それで、一線にはなかったけど、後備兵として、もう討伐、戦闘ばっかりで参った。戦闘ばっかり。まあ、私たちも看護婦さんにもな。それで、あの当時はもう衛生兵の教育が戦闘教育、教育じゃない。戦闘時期のほうが多かったで。もう死体の収容が、まあ、主でした。もちろん日本軍の収容。


[2] 手術演習の準備 04:40
まあ、とにかく、「あしたの何時に解剖をするで、初年兵は手伝いをせい」ということで、それで、その時間に、霊安室へ寄りました。それで、霊安室で寄って話をこう聞いて、それから、まあ、いったん解散して、それで各部隊の、部隊じゃなくて小隊の方へ戻って。それで、小隊の方へ戻るということは、わしはそこで陸軍病院の兵隊ではなかったもんで、防疫給水班という班がありまして、そこへいったん、まあ、仮り宿りにはしとったわけです。で、そこから病院へ通うて、教育をされた、してもろうたわけやけど。それで、話をしたんが、その話の内容は私は分からん。それで、班長、まあ、軍曹、伍長、曹長級やな、その班長が、ここで「おまえと、おまえと、おまえと」、まあ、「3人が、あした、このトラックに乗れ」と言うもんで、それで、そこの防疫給水班のトラックに乗って、それで、わずか3キロぐらいの間でしたんやけど、病院へ行って。そしたら、病院のほかからも3人寄って、あっちからも3人寄って、まあ、10人ぐらいおったと思うんや。それで、それをどげんにして8人の捕虜をもらいに行ったかという内容は私らには関係ない、分からん。私らに相談せんも、捕虜できますでな。

そしたら、そこで8人の捕虜のところへ連れてて、それで、そこで、まあ、手錠も何もない。そんな縄で縛って。それで、それはやりました。それで8人連れて、それで、またトラックに乗せて、それで、この元の陸軍病院へ戻ったわ。

Q:久保さんの役割というのは何かあったんですか。

役割はない。命令どおり。まあ、命令が役割になっとったかな。向こうへ、何が、ヤザワさんのほうでは、私らは役割というのは何も聞いていません。あくまでも命令どおり。

解剖をする準備をしただけやで、あとの執刀はもう私らには何もできません。もうあとは軍医さん。

Q:それは、じゃ、ずっと見ていた、見学していたっていうことですか。

はい。

Q:その場にちょっといないと分からないですけども、実際、久保さんはどういう感じだったんでしょうかね。

最初の私の考えたこと、思うたことですか。これは言うたように、命令どおりにするんで分からんし。まあ、日本の軍隊っていうものはそんなもんやないんです。まあ、おたくがおっしゃるような、そんないちいち、口、言葉で言うてくれるもんじゃないんです。うん、なかったです。もう、「命令」って言うたら、まあ、ほら、普通の態度で返事もできやんように、天皇陛下の言葉が出てきたらもう大変なことや。そして、もう命令は絶対服従。もうそこで上官に服従せんなら、天皇に反駁(ばく)するものなりということになっていました。これはなかなか、そんなちょっとやそっとで。まあ、わしがここで、話はちょっと言い過ぎたことを言いましたけど、なかなかそれは現地ではそんなこと、とても、まあ、思うは思うたけど、口先へは出せませんだ。これは日本の軍隊って、そんなもんやない。


[3] 手術演習 04:02
Q:その場にいた軍医は何人ぐらいですか。

3人ぐらいやな。うん。3人ぐらいと。

Q:それは誰、どこから来たどういう人ですか?

そこの病院の軍医さんです。

Q:みんな路安(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)の病院の人だったんですか。それとも他から来ていたんですか。

いや、いや、いや、路安の病院関係です。それで、路安の病院関係以外の人がいまして、私が言いましたように、各3人ずつ呼んで、そこの、まあ言うたら出張所、路安陸軍病院の出張所、まあ、防給(防疫給水班)もそうやし。それで、そういうところから来た兵隊がおりました。わたしは防給のことしか分かりませんので。

マスク掛けて、白衣は着とらへんだけども、緑のエプロンやったけど。うーん、まあ、白衣は、もう日本軍はもう終戦1年ぐらい前から白衣は着なんことになっておったけどな。全部、上から見えるで、見えやすいで、みんな緑の着物やったけど。それで、マスクをしとって、もう表情はなかった。表情はなかった。度のきついメガネを掛けとることの表情ぐらいか。

Q:そのときの中国人の捕虜の方の表情とか顔というのは覚えているんですか。

表情、顔付きで、まあ、目隠しされて、あんた、口開いて叫んどるだけでの表情です。目を隠して、手を縛ってあるし。もう声と顔だけです。そんな表情は何も。