『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

M軍 その18 略あり

1922年埼玉県・共和村(現・鴻巣市)に生まれる
1941年満州国軍 軍官学校入校
1944年陸軍士官学校卒業。満州国軍飛行学校に配属
1945年終戦
 部隊解散後、一般居留民として過ごす
1946年帰国
 その後は日本道路公団に勤務
[1] 陸軍士官学校を受験 03:47
[2] 満州国軍 軍官学校へ 01:43
[3] 日本国の先兵 04:16
[4] 航空科への転科 04:16
[5] 米軍機に体当たりした航空士官 03:24
[6] 知られていなかった満州国軍 03:14
[7] 後ろめたい気持ち 04:02

[1] 陸軍士官学校を受験 03:47
私、水飲み百姓のいちばん末っ子でございますので、とにかくおやじから、後で考えれば教育的と思いますけれど、早く出ていけ、出ていけ、もうおまえのいるところはないんだというので怒られて、当時、自分は少し学校には行きたかったんだけれども、東京の学歴社会とかそいうのは全然知りません。ただ、末っ子で早く出なきゃいかんので、百姓のたどる道といったらなかなかないし、だんだん東京に来て分かって、簡易保険局といって、当時は逓信省(ていしんしょう)の下にあった簡易保険局に給仕で入っております。

給仕で入って、日給61銭給与というのは私の最初の辞令でございます。それで、1年、約2年近く給仕をやって、割合に早く事務員に登用試験をまたやって事務員になって、14年・・で一方、昼間の収入の道を獲得して、それで麻布中学の夜間中学、当時、麻布夜間中学といって、

だいたい麻布のほうへ行って、それで麻布中学へ入ったのが、それが戦前のあれです。

自分で働いて自分で学校へ行かなければいけないから。それで、一応入っているうちに、やっぱりまだこれから上に行かないかんなと、いうふうにやっぱり思ってくるもので、一応私なりにかなり勉強したつもりでございます。

当時、陸海軍の試験、学校の受験は割合に早くやったんです。7月か何か、そのくらいにはもうやった思うんです、来年のやつは。とにかく発表するのは秋のお彼岸のころまでに合格を発表しますから。みんな、陸士・海兵はさっき言った学校のあれなものだから、最終的に入る、どこかの高等学校なりに、あるいは公立の専門学校なんかに入るのに、受験の小手試しというのでやるんですけれどもね。そうしたら受かっちゃった。たまたまね。受かって、合格通知をもらったものですからね。

片や世の中も軍国的なあれに進んでいきますから、陸海軍というのはどうしても需要が多くなってくるわけです。

たまたまたあそこを受かったというので、易きについたわけです。もうこれ以上苦労するのは嫌だから。それが、士官学校を目指した経緯でございます。


[2] 満州国軍 軍官学校へ 01:43
士官学校(入校)は16年ですから、16年に入って満州予科に行って、入った年の12月が日米開戦ですから。戦局というのもそんなに、あんなに過酷になっていくとは夢にも思ってなかったです。でも、ちょっとこの点だけは先走りますけれども、それから終戦までのあれがわずか昭和16年から5年もたたない20年、4年ですよね。4年間であれだけ日本が敗色というものになっていくとは予想だにしなかったです。

満州国へ行ったのも全然予定していなかったんです。受けたのは日本の士官学校で、満州にそんな学校があるとも、これっぽっちも思ってなかった。そうしたら陸軍省の軍務局からここへ行ってくれというので、一応。でも今の戦後の感覚でいえば断るあれだけはあったんでしょうね、僕らそんなもの。でも、後の扱いも全部陸軍士官学校と同じであって、まさに日本の国策の先兵として満州国軍をやってもらうんだから、自信を持って行ってくれと言われた。


[3] 日本国の先兵 04:16
我々は「軍人勅諭」にあるように、「政治に拘らず」という文章があるんですよ。「政治に拘らず」「世論に惑わず」ということが。要するに、軍以外のことは気を使うなと。専ら軍としての、軍人としての力を致せというのが「軍人勅諭」にあるわけです。「軍人勅諭」というのは見たことがあるでしょう。聞いたことはあるでしょう。

Q:少しだけですね。

一つ、軍人は忠節を尽すを本分とすべしと。一つ、軍人は礼儀を守れ。一つ、軍人は武勇を尊ぶべし。一つ、軍人は信義を重んずべし。一つ軍人は質素を旨とすべしと。忠、礼、武、信、質と、省略するとそれがあるが、それはもちろん全文や何か、こんな長いんだよ、覚えさせられた。今じゃとてもじゃないけど覚えられない。五カ条のご誓文は忘れても、そっちのほうは忘れないよね。

Q:その中に、軍人は政治のことは考えなくてもいいということですね。

かかわっちゃいかんというんですよ。「かかわらなくていい」んじゃなくて、そんなほうに「かかわっちゃいかん」ということです。だから、全く日本の国策なんていうのは分からない。ただ、やっぱり満州国そのものは、日本の防衛というか軍政の一環としてひとつの防壁を満州国にしたと。と同時に、大陸進出の、その前に日本がそういう政策をとったのは、膨張する人間の、失業も、働くところもなければ、はくび(楽)じゃなかったわけですよね。と同時に、表向きは東亜の盟主として、歌にもあるように、白人のために虐げられた有色人種の盟主としてあれしていこうというのが、これは後の話はどこまで本当か知りませんけれども、それはしかし必要でしょう、確かに。それの先兵として自分たちはいるのだという、それはもう固く信じているというか、信念以上のあれになっていますからね。

Q:皆さんは、日本の国のためという気持ちと、満州国のためという気持ちと、同時に持っていたわけですか?

満州国は独立だからと言っているのは日本の政府の言い分であって、僕らは、そうか、そうかと言っているだけ。

だから、満州国の皇帝のためになんていうのは、少なくとも私は皇帝のためになんて思う気持ちはありませんでした。皇帝のために命を投げ捨てるつもりもありません。あくまで、では日本の国を離れていいかって、これは離れられませんからね。日本のために今ここにいるんだということしかない。多分僕らのとき全部そうだと思いますよ。それを抜きにしたらみんな辞めちゃっているでしょうね。ところが、そういう選択は許されないからね。そんな状態です。

たまたまこういう満州国というものをつくった国策で満州国の軍人としてやってもらうということであって、実質的には(日本軍と)何ら変わりはないんだからという話ですから、誇りを持って行っていますよね。それにしちゃコーリャン飯食ってまでじゃかなわんなって、そういう思いはありますよね、これは。


[4] 航空科への転科 04:16
航空兵として転科した。それから終戦まで、航空のほうにいたのは。ですから、航空のほうは本当に、多分、うちの娘が自動車の運転免許を取ったくらいで、やっと免許取ったぐらいのものでしょう。
それでも、戦局は一方、どんどん進んでいっちゃってますから、専ら特攻に。でもうね、特に航空戦力は満州にいても日本軍の指揮下(略)