『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや17

[証言記録 兵士たちの戦争]
フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~ 放送日 2008年2月28日


2008年6月

1922年
1922年 京都府に生まれる
1943年
1月、野砲兵第22連隊に入隊
1945年
レイテ島の捕虜収容所で終戦、復員
 
戦後は大阪住友海上保険株式会社に勤務


[1]
チャプター1
レイテへ
再生中
04:19
私たちがレイテ島(フィリピン・ビサヤ諸島)へ渡ったのはですね、やはり、ゲリラがね、おると。たくさんおると。それを討伐せんといかんということで、それまでにね、たくさんの、たくさんちゅうか、輜重部隊の部隊がね、討伐になんか行っていたように聞いていますし。それから20連隊の人も前年ですか、昭和18年ぐらいに討伐に行ったということで。なぜ、この16師団が、主力がですね、レイテ島へ渡らんといかんのかということは、もちろん私も分かりませんけども、やはり上のほうの命令でですね、「レイテ島へ進駐せよ」ということで。私らは元々ルソン島バターン半島(フィリピン・ルソン島中西部)の近くのバカック(半島西岸)という所ですね、これも激戦地の後やったと思いますけども、そこで駐屯してたわけですね。

Q:西村さん自身はレイテ島に向かうときに、まさか米軍がレイテ島に来るというのは。

いや、これはね、やっぱし予測してました。しかし、まぁ、運の良かったらスッと通過するっちゅうんかね、来ないかも分からんと。ミンダナオ島セブ島辺りかなというね、気持も持っておりましたけどね。

Q:やっぱり米軍が来るかもしれないということで、みんな緊張してたんですか?

もちろん緊張してました。みんなそれぞれ陣地を構築したり、それなりに対応してね。私ら野砲隊ですね、第1大隊と第2大隊はレイテ島におって、第1大隊は車両部隊、第2大隊は輓馬部隊で、これはみな野砲ですね。3大隊は(ルソン島に)駐留で、それはマニラに残っておりました。

で、もう予期しとったから、サンホセ(ドラグ北方の海岸)ですか、ホワイトビーチ、そこへ陣地を一応構築しました。陣地を構築したのはですね、付近にあるヤシの木を切っていって、それを柱にし梁にし、上にヤシの葉っぱとかそういうのを被せて、一応ね、陣地、まぁもちろん陣地ですけどね、陣地らしきものを作りましたが。しかし、米軍の艦砲射撃を受けたときは、もうすぐ近くで着弾してでも吹っ飛んでしまうというような状態で、これもあとから聞いた話ですけども、もうその日のうちに、数時間のうちに撃破されましたですね。

出来事の背景


[2]
チャプター2
米軍の上陸
07:41
あのね、艦砲射撃じゃなくして、向こうは、その、なんち(何と)言いますか、遠浅かね、海底をね、なんか調査するために1舟艇がね、ずっと近づいたらしいんですね。それを見つけた野砲、たぶんうちの中隊だと思いますけど、それをね、沈没・撃破したということで「やったーっ」ちゅうことですね。で、その場合はもう祝杯を上げたわけですね。まぁときどき軍隊いうとこは、そういうね、ときに祝杯を上げるあれがありますんでね、祝杯あげて、ちょっとね、気持に余裕を、楽になったんやと思います。緊張がとれたんやと思います。それがその翌朝で、時間は私分かりませんけど、未明からですね、すごいもう艦砲射撃ですね。それがすごかったように聞いてます。現に私もタボンタボン(ドラグ北西の内陸)におってですね、海岸線のほうですごい音がしてるのを耳にしてますんで、「これは何かある!何か起こったんだな」ということはもう考えましたですね。で、その20日、21、22、その時分にもうほとんどね、各陣地はもう突破されて、傷ついた兵隊さん、それからね、生き残った兵士たちは、全部ダガミ(ドラグ北西の内陸陣地)にですね、ダガミの集合地点へ皆集まったようですね。これはもう私らあとで分かったことですけども、私もカタモン丘(カトモン山)の方からどんどんね、兵隊がずっとタボンタボンの町を通過して行くので、これは様子がおかしいなということで、その連隊本部のあるホリタ(ドラグ西方)ですね、兵隊を2人連れて状況を聞きにですね、なおかつ、「あと私らはどうしたらいいか?」ということをですね、聞きに連隊本部に行ったわけです。そのときに奥の部屋に連隊長がね、おられたんでしょう。前の部屋には、ハタダヤスオ中尉、当時連隊副官だと思います。ほんで第一声に、「西村、また生きとったんか」ちゅうて。「はい、私はタボンタボンで2中隊のダンチコンボウと糧まつ補給の役目で、古い兵隊5名ほどでずーっとおりますんや」と。ところが、情勢がちょっとね、おかしいと思うたんで、どういうふうに今後処置したらいいかですね。そうせんともう、ホリタ皆通過するから取り残されますんでね、聞いたんです。「どうしたらいいか」と。そしたら奥のほうで近藤連隊長(野砲兵22連隊長)ですか、この方はもうすごくわがままっちゅうか、な方で突然大きい声で、「まだ2中隊の兵隊が生きとったんかーっ。お前とこの中隊長以下、皆絶滅して亡くなったんだぞー。今ごろ何しとんだーっ」というようなね、罵声ですね。はっきり聞きました。私、びっくりしました。そのときにね、中隊がもう全滅に等しい状態に陥ったということを知りました。ほんで、ハタダさんは言葉を続けて、「西村、それやったら明日の2時に、キリンからずーっと西方に通じる、ダガミのダガホンちゅう所がある、三差路でね、それの西方200メートルぐらいの民家に、連隊本部が移動するさかい、そこまで来い」と。それまでですね、「お前、糧まつってどれくらい持っとるのや」と。仏領インドシナですね、今でいうベトナムですね、向こうのコメがですね、あれはたぶん麻袋に入ったやつが50キロぐらいの大きさやったかな、それで2トンぐらいありました。で、それを所要の米軍から押収したシボレー、あれはシボレーだと思いますね、そういう貨車に乗せて。ほいでもう1車は、兵器の弾薬車2機に分乗して、明くる日の1時ごろに出立して、で、所定のその場所まで到達したんです。ハタダ中尉には会えませんでしたけども、連隊本部の人間が、「お前は第一にダガミへ行け。そこには第1大隊本部があるから、その指揮下に入れ」と言われましたんで、直ちにずっとダガミへ行って、第1大隊本部のキド、経理部の人ですか、がおって、「ご苦労」ということでね、しばらくその保管したコメですね、それを見守れということで、ヘンケンに積んで、そこに2日ほどおりましたけども。

出来事の背景証言者プロフィール



[3]
チャプター3
斬り込み攻撃
08:32
直ちに、16師団の生き残った部隊を集合する所っていうんですか、日を忘れましたが、場所へ集まれということで、われわれ野砲隊の者やら、ほかの20、33いう連隊の人は全部集まったんですね。ほんで私が行ったときはもう、それはもう皆別れるような散会寸前でしたけども。そこに集まってた日本の兵士は、大体1000人ぐらいはおったと思うんですけどね、これはもうちょっと私のそのときの感じでしたがね。それが再度命令を受けて、散り散りバラバラになりまして、私らは一応またそれからずっとダガミの山の中へ入って。ほいで、もうそうなると2中隊はないから、第1大隊の所属の兵隊として、ときどき隊を組んで米軍の方へね、斬り込みに行くんだということで駆り出されて行きました。そのときにですね、そのときの途中で、その山あいからね、レイテ湾を見たわけです。すごい、それは米軍の艦船が入ってあったのでもう、本当にびっくり仰天。1人の兵隊は、「ここへ爆撃したらええのになー」と言うてましたけど、残念ながら、私のおる間に日本の飛行機は1機だけ、「シンシレイ」という当時の最新のあれ、偵察機ですか、あれが飛んできてヤシ園の上空スレスレに飛んでおって。それがあんたパッと、ハッという間に落とされて。それだけで日本の飛行機は一台も飛んできません。そこでもうすでにね、米軍との差がね、もう歴然とね、はっきり分かったし、あとはもう追い込まれるだけで。

Q:それで何人ぐらいで行くんですか?

それは、そうですね、20名か30名ぐらいですね。それで、ある行軍のときはね、そんな4列とか2列とかそうやなくして、一列縦隊でね、ある程度間隔空けてね、歩くわけです。歩行するわけですね。そこで、米軍に察知されたんですかな。迫撃砲弾を「パッパー」と撃ってきます。それで私も伏せましたけども、「熱ーっ」ですね、いうことでこの左のほうに被弾しましたが、もちろん貫通じゃない。もうあとから見たら大した傷じゃないんですけどね。ただそのときはね、熱いのと痛いのと、「熱っ」と、すぐ分かったです。それもまだあの軍医さんがおられたから、軍医さんに見てもろたら、「こんなもん三角筋巻いとけ」っちゅうだけでね、現実にそういうもんですね。痛いんですからね、なんやろと思うて見たらもう、痛うてたまらん、見たらあんた、ウジ虫がついとるわけです。「うわーっ」と思うてね、気持ち悪いさかいパッと払いましたな。ほいで、あとあと膿(うみ)も出てました。「ウジ虫わくのはいいんで、早いこと膿を吸うてキズが早よ治るんや」て、そんなこと言うてたね、衛生兵もいましたけどね。事実そのとおりですね。何も薬も何もつけんかて三角布巻いとっただけで、一応傷がふさがりましたからね。

Q:ちょっと話が戻るんですが、さっき言った斬り込みって、危険な斬り込みじゃないんですか?

いやこれね、もう、目的とかなんか何も言わないんです。「これから武装せい、米軍陣地へ斬り込みに行く」ということで。はっきりね、目的とか、どういうあれで次第でやるかということをね、言うてくれれば、ある程度納得できるんやけどね。ただもうそういうことだけでですね。あとについて行くだけのことだけでね。今から思うたら、お粗末なこっちゃなと思いますよ。

Q:米軍の陣地を攻撃して交戦した記憶とかってありますか?

私がですか、それはないですね。撃ったことは撃ちました。リガウンでね。向こうのほうから戦車部隊がブワーッと押し寄せてきました。ものすごう音しますからね。それと同時になんちゅうかな、戦車砲かな、迫撃か、ドンスカドンスカ撃ってきます。「バンバンバン、バンバンバン、バンバンバン」って、9000発ぐらい来ます。そうすればね、下手に動くちゅうたら被弾しますので、もうその場へもうずーっと、その砲声が終わるまでせんとですね、そういうこと。それでたまたま当たれば、まぁその人のあれが、「運が悪かった」っちゅうとおかしい言い方ですけどね。なにしろ、兵器にしても物量が多いと。まぁ物量いうとね、私はそういう武器よりね、向こうの糧まつ、食べものです、すごいですよ。私らは何も食べてないんです、その時分はね。

Q:アメリカ軍の糧まつのすごさって、どういうきっかけで分かったんですか?

あのね、その斬り込みに行くっちゅうのはね、アメリカ陣地に斬り込んで、アメリカのね、その食糧がこう並んであって、そういうレーションですね、それを奪う、取ってくるのが目的でしたからね。はっきり言って。そらアメリカの食糧はね、もうきちっと箱に詰められてね、ブレックファースト、ランチ、サパー、ディナーって4種類あるんさ。4種類あるんですよ、3食と違うんですよ。それを開けてみたら、タバコからね、チョコレートからコーヒーからね、ピスケットから、すごいもんが入ってるんですわ。それもね、あとで見ましたけども、びっくりしました。こんなもん米軍がね、食べとんのかと思うてね。

出来事の背景証言者プロフィール



[4]
チャプター4
日本軍の食糧事情
06:26
Q:16師団の糧まつ倉庫が爆撃されたというのはいつごろのことですか?

そうですね、それはもう、まだ10月ですね。10月末ぐらいですね。10月末ぐらいだと思います。

Q:米軍が来てから?

もちろんそうです、米軍が来て爆撃して。それでそういうことが分かっているのはね、レイテ島はもうね、後から言われているように、みな、あのスパイっちゅうんかね、巣です。アメリカの。アメリカやない、フィリピンの。それゲリラですか、そういうなもの、全部日本の情報が筒抜けで分かってるわけです。動静がね。だからそういうことで、割合にめぼしい所はいとも簡単にやられましたね。

タクロバンに、私が聞いたところではね、「1年間の糧まつは、16師団分は保管しとるんだ」ということをね、かねがね聞いとったんですわ。「うわー」ということですね。「現地徴発として住民のものを取らずにね、日本軍はきちんと持っている糧まつで、1年分行ける」というふうに思うとったところ、倉庫がね、爆撃されて、白煙がもうモウモウと上がってるのを遠くからよう見えました。あれが16師団の師団倉庫の糧まつ倉庫と聞いて、皆ものすごう悔しがりました。「あー、もったいない」と思いました。それはほとんどコメやと思いますけどね、コメになると思いますけどね。もうそういうことからして末端まで食糧が行き渡らなかったわけですね。ずっとその前からあんた、みんなあんた、自給自足やてね。日本の内地も大変やったって、皆そう言われとったけど、軍隊のほうもそうです。自給自足ということでね。

Q:「米軍が来る前から日本軍は食糧に苦労してた」っておっしゃったんですけど。

そう、苦労してます。

Q:それはどういうものを食べてたんですか?

それは日本軍の悪いクセでね、上のほうはもうあんた、まぁ、毎日酒飲んだり魚食ったりね、それから肉食らったり。まぁこんなことは言えんか分からんけどもね、女を抱いたりね。第一線の兵隊さんちゅうもん、最低です。かわいそうです。ほんで糧まつも、先へ行くほど少なくなって。みんな上のほうでピンハネして来よんですね。ある程度決まった量やけども、先へ行けば行くほど少なくなるんです。もちろん人数に対してですよ。だから私らの部隊も、もうほんとの第一線でしたからね、コメは、持ってるお米はほんとに大事にしてました。使わんように。もちろんお粥のときもあります。飯ごうで。底見たら、飯ごうの底にずーっとお粥が入って、そしてカモテ、サツマイモですね、向こうで。これはもう、まずいんですわ。あれはもう、フライかなんかせんことには食べられんような、それも色のついた黄色から赤から紫からそういうような、それをサイコロ切りしたやつが中に入ってるわけですね。それをほとんどなに、それを食べて一食。それで、おつゆがついとるんですわ。カギョウモシね、塩汁です。それになんちゅうのかな、いつも言う、そら豆の葉っぱかなんかこういう丸いね、葉っぱが浮いてるんです。それを見て、ある私らの兵隊が、「今日のやつは乙女の涙や」いうてね、言うてました。ほとんど悲しくなりましたけどね。おつゆっちゅう、そういうみそ汁とかそんなのないです。みんな塩汁でした。私の場合は。山の場合。ほいで兵隊さんもね、現地で自給自足ですからね。イモのほかにいわゆるナンバ、トウモロコシね。それを植えて自炊する。それでおみそを作ったりしたこともありますし、そのおみそも私頂いたことあるけど、まずいです。まずくても精いっぱい考えて作ったおみそ汁。みそ汁というみそ汁は、そのみそ汁だけでした。大体、加給品でそういう乾燥みそがあるらしいですけどね、そういうなには一度も当たったことはありません。

Q:ほかの方に聞いたりするとね、米軍が来る前からほんとに兵隊さん栄養失調で海岸にいて、師団長がかわいそうだって言ったっていう話も聞いたんですけど。

師団、そら、師団長はね、やっぱし自分らの直接の部下をね、士官怒りますわな。「兵隊はこんなにヤセ細らしてどうするんだ!」ちゅうとる。やっぱり丈夫に、太らしとかんとね、やっぱし、いざというときに間に合いませんからね、やっぱし。それはもう中間ですね、そういうとこがハネるんでしょうな。ま、こういうことを言うといかんけどもね。そうでないともうちょっとましな給糧が当てられると思います。

出来事の背景証言者プロフィール



[5]
チャプター5
野戦病院
05:40
11月8日、この左手のこのここで、迫撃砲を受けて負傷しました。それで11月の12日に、この右足のこの梅干しのここですね、ここへ砲弾が当たって、破片ですよ。普通の人は、もう足みな飛んでるのに、私はボカーッと傷したわけです。「あっ」と思ったんやけども、足がね、そのあと、ブーッとものすごう膨れあがって、歩けんようになったんですわ。そしたらたちまちね、ほかの兵隊さんが、「もう西村、入院せい」って。と言うので、それで、ちょうどそのとき連隊長も大隊長もおられて、まぁ私もそのときの直属上官は、第1大隊長のトヨガミ少佐でしたから、行って、形式的に、「西村これから入院します」という申告して。ほしたら「衛生兵1人付けて野戦病院まで案内してやるわ」つってね、途中まで衛生兵とね、付いて行ってくれました。そこはね、そこに野戦病院がやっぱりちゃんと設営してあるわけです。設営してある言うたかてね、もうそこらに負傷した兵隊が集合、集まっているだけですわ、「うんうん」うなってる兵隊が。最初はちょっと手当てをしてもらったんかどうか知りませんけど、大体医療品がないからね。ただ、傷ついた兵隊を集めてるっちゅうだけです。ほいでまたしばらくしてから、「それでは」ということで、谷川、谷底っちゅうんですか、真ん中に谷川が流れています。その両脇に、その負傷した兵隊を横たえさしとくわけです。ほいで、最初の間は水筒に水をね、谷川でくんで来てくれましたけど、それから後、ほとんどないですね。それでそのままずっとね、亡くなる兵隊があるし。亡くなった兵隊があれば、上から最初の間は土かぶせてくれてましたけどね、最後のほうは無いですね。もう衛生兵は衛生兵で自分たちのことにもう精一杯で、そんな負傷兵のあれまでできないということでね。で、これもまた、私の隣に、どこの大隊の副官か知りませんけども負傷して、当番兵を連れてね、来てました。それで本隊のほうと連絡を取りながらね、いましたけども。もう2、3日してから、もうその当番兵も来んようになりました。そしたら、その副官がもうそこで亡くなりました。で、私ももうそういうことで、後先して申し訳ない、入院したんで、「あー」と思ったんやけども、そんなもん皆ね、放っておかれるだけで。まぁそれでもね、傷病兵がずっとおったからね、まぁそれなりに心強かったですけどね。

一人ぼっちになったら絶対あかんし、気が、気違いっちゅうんか、あきません。ほんで軍隊のほうはね、非常に非情な言葉で言いますね、「遊兵」。遊んでる兵隊っちゅう。そんなことありませんよ。私はもうこれにしたい。あれは「幽兵」「幽霊」の「幽」です、うん。幽霊のようにさまようているわけです。かわいそうです。行き場所もないしね、どうしたらええやろうかと思うて。密林地帯を動いているわけです。決してそんな「遊兵」で、遊んでいる兵隊と違うんです。それはもうやがてね、腰を下ろしたらそこが死に場所になんのやからね。だから行動するときは必ず複数。もう3名、2名か3名。複数やないといけない。あまり7名、8名と多うなると、軍隊ぐらいになると発見されやすいんですわ、ゲリラなんかウヨウヨしとるからね。発見されたら「日本軍この辺にまだいよるぞーっ」ちゅうことで、徹底的に調べられて、もう皆あと銃殺で殺されてます。私がなぜね、助かったということの第一条件に、そういう野戦病院に入って1人で心さみしく、「うわ、困ったなぁ」と思っておったときに、たまたま私の中隊の私より1年上のヨシオカヤエモン、これはもう私の命の恩人の一人にしとんですけど。それが大たい部に負傷して、前通った。「おお、西村」「おお、ヨシカワ」ちゅうてね、「ヨシオカ」ちゅうて。

出来事の背景


[6]
チャプター6
米軍に捕まった
08:20
ほんでね、なぜその野戦病院を脱出せんといかんようになったかちゅうことは、高千穂部隊(*日本の空挺部隊、米軍に占領された空港を12月に襲撃した)とね、落下して米軍と交戦して追いやられてね、まぁ日本軍はずっとまた山の上のほうに登ってきたということで、あとを米軍が追って来よったんですわ。だからもう危ないと。だからこの野戦病院を脱出せんといかんということでね。脱出しようと思うたらもう1人ね、ハットリいうて、これ6中隊の人です。その人も「仲間に入れてくれ」ということで3人で。私がいちばん元気やったので、その谷底をはい上がって上の街道へ、街道ちゅうても細い道ですけどね、上がって。

3人で、その脇道行ったんです。脇道行ってしばらくしたら、1人の兵隊さんがへたばってました、座って。後ろの方には、やっぱし自分の相棒でしたんか、もう死んで。もう体中アブラムシとかカブトムシとか分からんものがいっぱい群がってるんです。もう思わず手を合わしましたけどね。ほいで、そのまだ生き残ってるのが、そこを私らが行きやろうとしたら、「兵隊さーん、何か食べるものありませんかー」ちゅうて。ほいで止まって。そいで、「いっちょんあんた、どこの部隊や」って、部隊名も聞いたと思うんです。ほいで「欲しい」言うとったからね、私、雑のうに今のキクナの煮たやつでね、それがあったのでちょっとやったのと、ほて、生のやつと両方渡して、言葉はかけられなんだかな。元気でいろと言わんなんだけどね。まぁ慰めの言葉をあげて、そのまま立ち去りましたけどね。その人のことも絶対忘れんと、時々ね、思い出るんですわ。

ほいで、その辺はちょっと湿ってるから湿地帯になってずっと見たら滝。この下をここへ下りると、下の谷川まで行けないということで、不思議ですね、私ら3人、そんな高い滝と違うのに、どういうふうにして下りたか、結局、下まで下りていました。途中でその、なんちゅいますかな、それまた滝壺で、今まで着ていたものを全部洗いました。絞るにしても力が入らないから、そのままズブ濡れのままやったと思います。それでこの谷川に沿うて行けば、ずーっと町へ出られるというふうな判断をして、下って行ったわけです。それで、次のすぐ・・・があってですね、左岸の方で、そうすると道なんで上がって見たら、もうすぐその辺をね、やっぱり米軍辺りがね、ずーっと、そういう敗残兵探しっちゅうんかな、パトロールしとる場所ですけどね。米軍のチューインガムの噛んだやつをほかした、「うわー、こんな所米軍来とんのや、これ物騒、危ないっ」ということで、そっちのほうを避けて右岸のほうへ行って、右岸のほうへ行って、そしてやっぱり疲れたから私はその木のもとで、3人休息をとりました。あんまり行動範囲はね、そんな、距離にしてはあんまりないと思うんですけどね。ほいでそこで、夜になって寝て、朝目が覚めたとき、「あー、生きとったー」と言うて。これは先に言うたことで。そしたら2人が、なんか糧まつ受領に行こうやということでね、「糧まつ探してきますわ」言うて、そしてずーっと探しよった。

そして、そのやっとの思いで小さい坂登ったときにね、芋畑もう荒らされて何もないんですわ。それよりね、びっくり仰天したのは、円陣で米兵がぐーっと30人ぐらいいよるわけです。将校を真ん中に。で、こっちにゲリラ。そこへ行ったときは、私、「しもたー!」。もうほんまに今まで思わん「しもたー」と思いました。そんでもうね、ここでね、殺される、下手したら虐殺されるんか分からんなぁと思っておったの。そしたら、案の定ゲリラが拳銃手出してね、「ikaw(あなた) pumatay(殺す)」、これタガログ語でちょっと分からないかも分からんけど、そういう意味です、向こうの言葉で。「ikaw pumatay、殺したる」と言うんです。そんで、私はね、反射的にね、「Kill me(殺せ)」って言ったんです、英語で。「殺せ」。そういえば将校に分かるでしょう。そうすると、将校がそれを押し止めて、ゲリラのに。そして、ポケットから、覚えてますよ。チェスターフィールドの米軍の洋モク(外国製のタバコ)です。あれを出して、「吸え」って、火をつけくれました。私は、タバコ吸えんなのにね。まぁ、受けてふかしタバコで、やって。もうすぐね、ヨシオカとハットリと回し飲みでね、渡します。んで、これがあとでいよいよ殺しよる、銃殺でもしよるんやろうなぁと思っていた。今度はまた、缶詰ですわ。あれは半ポンドぐらいかな、小さい。それをやって、あの米軍の大きな匙(さじ)で食べる。びっくりしたんです。それはね、今でも覚えています。ポーク、ポークとケチャップ、それとグリンピース、そういうのが入っていたな。それを出してくれました。口に入れました。おいしかったー。もう夢中でグッと2匙も食べる。あんな大きなスプーンだからじきね。そんで慌てて、さらにヨシオカやハットリに渡したの。それが終わってからですね。自分等の前線基地ですか、それへ連れて行かれたわけです。そのときはやっぱりね、緊張して歩けましたな。

Q:その捕虜になったときというのは、どういう気持だったんですか?

そのときですか、それはもうあれですよ、観念しました、それは。いつ何時どういうふうにされようが、もうこれはしかたがないということでね。観念していました、それはね。別に手を挙げてませんよ、私は。ところが、そういうことで、その前線基地で、一晩泊められて。その間に、まぁ、私らが今まで経験したことのない糧まつにあずかって。もうこれでもうまぁ、いつ死んでもええというふうに満足しました。

出来事の背景証言者プロフィール



[7]
チャプター7
やせ細った身体で収容所へ
07:02
収容所へ収容されたときに、二世がおると知らなんだ、日本人は。あれ二世ですわ。二世で米軍のあんたね、軍属ですわ。気安い日本語でね。割合に優しかったけど、事務的やったけども。いちばん最初にあの、お粥ですね、ちょっと硬めのお粥にビーフの缶詰、それを混ぜたものを食べさせてくれましたけど。そのとき私の体重を計ってくれました、「フィフティーファイブポンド・55ポンド」。この前も言うたとおりね、6貫600、それは26キロです。それまで痩せてね、もう「骨皮皮衛門」というような状態でしたね。まぁ私だけじゃないですよ、ほとんどの人が皆そうですよ。海軍以外の人は。それまで頑張っとって、大体そういう状態でね、もうドンと腰を据えたとこが、自分の死に場所でしたからね。私もそないことで、「もうここが最後だ」と思うて座って。ほいで、不思議なことに、暗くなると眠くなって眠ります。「あー、これでもうずっと目が開かんでこのまましまいかいなぁ」と思うて、朝パッと目が開いたときはうれしかった。「あ、まだ生きとった」と思うて。そういうことがね、経験して。

明くる日そこの将校に、尋問を受けました。私はね、はっきり自分のあれを言いました。官等級ね。「第16師団22連隊、第2中隊西村伍長」、はっきり言いました。それでその他にね、「この辺にまだ日本軍はおるのか」言うて聞いておったけど、「もうそれはもうおらないと思います」ということを言うて、それで、尋問終わった。そして、それを出ようとしたときにね、その将校は、将校用のポールメール(ポールモールか。タバコの銘柄)て、電信柱というの、あの長いやつ。それをね、ケース一箱くれました。まぁ、私もそれを持って幕舎を出ようとして、日本人は出るときは一礼して出ますわな。そのときそのね、将校がバシッと敬礼して、お礼しよったです。びっくりした。米軍がまだこんな軍規があるんだなと。こんなわしどもを、兵隊として認めてくれたのかなと。そういう思うた反面、「ウワー、これではもう米軍には勝てん、あかん」と思いましたね。

Q:それでそのね、結構その尋問受けたときに、結構偽名を使った兵隊さんおりましたけど。

あ、おりますよ。

Q:なんで西村さんは、本当のことをしゃべれたんですか?

わりと私はね、スラスラ出ました。そんなね、偽名を使おうとは思いませんでしたね。理由を聞かれても。まぁ、しかしこの世の中に西村国雄という人間がおったということをね、たとえ悪名にしろ何にしろね、記録に残るわけですからね。別にそれでも、それはもうそれ一門間の恥になるとかね、そういうことはあんまり考えませんでした。自分はそういう立場に追い込められて、結果的にこういう運命になったんやから、せめて自分の存在はね、あれしておきたいということで。

Q:日本の敗戦を知ったときに、どう思いましたか?

まぁそれはね、夜一斉に花火を上げました、ババババーンと。それで、米軍は、もう空に向かって銃を撃ちました。「何やろう」と思った。すぐその日には分からなんだけどですね、数日して「日本は負けたんだ」と。そんで、「無条件降伏した」と、そういうようなことは、また後のことですけどね。それで、いわゆる原子爆弾ですね、特殊爆弾を落とされて、というようなことも、あとあと聞きましたけどもね。それで終戦になってから、まだね、軍として、いやいや、組織として残っている、ああいう他のいろいろな部隊が団体でね、下りて来ました。私らのね、収容所と一緒で。で、やはり何と言うかな、ちょっとね、「お前らはまだ戦争中に捕まった捕虜やないか、私は終戦になってからやね、投降してきた兵隊だ。お前らとわしとは違う」というようなね、ことを思っていたらしいですね。と思います。その何というかその態度で分かるからね。

Q:態度というのは、どういう態度ですか?

いや、こう見る目ですわな。見る目だよね。「お前等か、まぁ、早うに捕まった兵隊は」というような感じでしょうなぁ。何も知らずにね。ある程度部隊、集団として行動したところはいいんですけれども、この・・・でバラバラになったらもうあかんわけですわ。

Q:それを見たときに、どういう気持になりましたか?

それですか。それはね、まぁ、「何言うてんねんのや」というような気持で、別にね、その恥ずかしいとかいう気持にはなりませんでした。

出来事の背景証言者プロフィール



[8]
チャプター8
戦友を思う朝
03:32
あのね、朝、目が覚めたらね、もう会社のことはね、今あのね、娘婿の社長がやっているし、大変だなぁと思うけども。やはり、特に私の周りにおった第2中隊の連中、幹部候補生の連中ですね。顔を思い出します。そして、そいつの癖ですね。何回ももう思い出して、あぁ亡くなったなぁ、こんなことあったということで。そう思っている間に、じき、1時間や2時間たってしまいます。それからね、起き上がって洗面して、着替えして、それで新聞を見るとか、そういうふうにしていますけどね。

もう6時ごろに目を覚ますというときは、思い出します、それは。いまだに思うし、これはもう終生私の生きている限り続くと思います。それはね、本当に申し訳ない。わしだけ生き残って申し訳ない、そういう気持ちです。それで、この中にはね、「西村、うまいことして生き残りやがって」いうてね、怒っているやつもありますよ。半分ぐらいは、「あぁ、西村、よう生き残ってくれた。頑張ってくれよ」と、励ましてくれる人もあります。

Q:じゃ、戦後63年たっても・・・。

変わりません。だからこういう戦友のお宅もずっと長いことね、遺族のおられたときはずっと、行っていました。行ったらね、そういう話、ちょっとでもしてくれということで、してましたね。

こういう時代に生きた人間の宿命かも分かりませんけどね。今の若い人に比べてね、別に文句は言わんけどね。あまりにかわいそうです。気の毒です。ということは、ね、なんぼ苦労するのは構いませんけども、命を絶つということ、これはもう無念です。だから、私は、これらの方に向かって、無念だったろうと思うて、無念ですいうことで、だから私もせっかくこうして生き残っているんやから、なんかね、この子らのために何かせんといかんなと思いながら、日々、ほとんど何ごともせんとずってるんでね。そういう点では、もう慚愧(ざんき)のきわみで。ただ、まぁ今日び、靖国神社の問題うんぬんしてますけど、もうね、やっぱり靖国神社へ行ったらね、やっぱり戦友がまつられているという気持はずっとありますよ。だからそこへ行って、「お、会いにきたよ」と言って。それは言います。

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