『しん次元!クレヨンしんちゃん』が投げかける難問:「がんばれ」と言いにくくなった時代に、それでも「がんばれ」と言うのはなぜか|髙橋優
最近、なぜ「通俗道徳」を批判しなければならないのか、その根拠を考えている。「遅れた」日本に「進んだ」西洋の創った最高の価値(の1つ)である近代的人間観を「移植」するのに邪魔になるから? たぶん、それは答えの半分でしかない。
近代的人間観は、一番先に「殺すな!」とシンプルに言い切ることができない。たぶん、サルトルが批判したことだ。そして、後期資本主義の結果である高度消費文化も、いわゆる新自由主義的人間観を原因として(それだけではないはずだが)、「殺すな!」とシンプルに言い切ることができない。悪いことに、少なくない利害関係者がそれを現実主義だと思っている。スローターダイクという人がいうシニカル理性とかいう堕落したニヒリズムの形式としか私には思えないが。だからこそ、私はいろいろの恩を受けたにもかかわらず、高度消費文化の産物から心が少しずつ離れている。考えてみれば当たり前だ、何をおいても命が一番先だ、と言い切れない文化が、評価が低いのは当然である。
これはまた別の角度から見たはなしだが、なぜ野原しんのすけは変人なのだろうか? どうみても「通俗道徳」にはまる人物像ではない。隠し持っている、とは言えるかもしれないが。野原しんのすけは、F先生の人物像によくにた、野比のび太や、H先生が自然に想像した普通の男の子である、磯野カツオと、明らかに違っている。
また、とりとめのないメモになってしまった。
追記
自然に、つまり他人からどう見られても、他人のために行動できるということ。これが長く信用される基準。ほかのことはとりあえずどうでもいい。
当然のことのはずなのだが。インテリジェンスとかなんとかいっても、いきつくところは意外とシンプルなのかもしれない。
追記
世界最高の作り手、ピカソに平気で挑戦できない人間観にどの程度の価値がある? 敗北したからって、死ぬわけじゃなし。
追記その2
やはり、つけくわえなければならない。
しかしながら、自助努力と成功を単線的に結びつけ、落伍者を努力不足と責め立て、人々を終わりのない自助努力へ差し向ける「通俗道徳のわな」を批判することは容易ではない。松沢も指摘しているように、「通俗道徳のわな」にあえて逆らい、無頼漢として振る舞ったところで、それを見て無頼漢に憧れる者は少なく、「人のふり見て我がふり直」す効果を生じさせるのが落ちである。それは結局、「通俗道徳のわな」を強化することになりかねない(同書136-140頁)。仮に自暴自棄の人間が自爆テロのような攻撃を繰り返して体制を破壊したとしても、未来をどうするのか、何を理想として打ち立てるのかといったビジョンはそこには伴わない。そのような破れかぶれの行いは残念ながら迷惑行為としか受け取られず、ポジティブに社会を動かす梃子として機能することはないだろう。結局、残された方法は自助努力を他人に強いる、結果偏重の「通俗道徳のわな」を批判しつつも、ひたむきに努力することの価値自体は否定しないという難しい舵取りしかない。
「無頼漢に憧れる者は少なく」?
吉村洋文や西村ひろゆきという、下劣な三流詐欺師以下の人間までがもてはやされ、そのあきらかに暴力的なコミュニケーションに何かを期待してしまう人々が明らかに存在するとき、ここはこう書き直さないといけない。
「無頼漢に憧れる者は、たいていは、少なく」
元の記事で、安丸良夫氏の本は紹介されていない。この本、わたしはまだ全部を読んでいないのだが、「あとがき」には、吸い寄せられるように読んだ。
「そうした困難と苦渋を生き、しかも根源的には不思議な明るさを失わない民衆の生き方・意識の仕方を通して、歴史のより根源的な真実に迫りたいというのが、本書の著者としての私の立場である。」(略)
「もっとも、私個人の感情としては、そうした困難と苦渋とを生きぬいた民衆のなかの最良質の部分を、本書で画いたより以上に偏愛しているといえるかもしれない。私にとって、民衆的思想運動の創始者、民衆宗教の創唱者たち、百姓一揆の指導者などは、しばしばそうした人物である。私が知るかぎり、彼らはきたえぬかれた人間に特有の不思議な人間的魅力にみちた人たちであり、かぎりないほどのきびしさとやさしさとをかねそなえた人たちである。もちろん、ある人はもっと圭角があり、また、思想形成の途上でたおれたとしても、思想形成=人間形成の主要な方向をそのようなものとして私は考える。晩年の木喰が刻んだ微笑仏も、私が提出できる証拠の一つである。そこでは、地蔵や観音はもとより、仁王など、本来は忿怒相のものさえも、かぎりなくやさしいほほえみをうかべた、老いた農民の相貌に刻まれている。そして、木喰自身は、九十歳をこえても無一物で放浪するきたえぬかれた修行者であり、その微笑仏は、老いた修行僧のはげしい精力と情熱の産物だったのである。きたえぬかれたはげしさやきびしさにささえられて、人々の心の奥の襞にまでしみとおるようなやさしさとやわらかさとがはぐくまれたのである。それは、近代的人物類型とはまったく異質のものではあるが、それなりに首尾一貫した、みごとでみっりょく的な人物像である。本書の目的の一つは、こうした人間類型についての歴史的リアリティの一部を語ろうとすることでであるが、(略)」(『日本の近代化と民衆思想』安丸良夫、P458-459)