『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

2023-04-19から1日間の記事一覧

『太陽の塔』と『明日の神話』がほぼ同時に製作された(1967年~1969年)。事実は小説より奇なりだ。どういう精神構造ならばそんなことが可能になるのか? 驚きだ。

作品(物語ではない)はマッサージである、と最近あまりいわない。二階ぞめき

金を巻き上げるだけならまだいい。社会基盤を食い物にするのはアンチヒーローでも何でもない、二流のゲスな詐欺師である。どんだけ「公共性」をもつのがいやなんだ。

萌えキャラとしての国家、中西新太郎。あの立てこもりの攻撃性をみると、予想以上にあたっている可能性がある。

「踊る」ということを限定していいのだろうか。だから不明朗になる。――『沖縄文化論』

現代日本の「政治テロ」事件。理由不明の青少年犯罪、この図式の復活。それを整備したのは、ロスジェネ論壇の堕落その他。

全部の情報をみているはずなのに、かえってわけがわからなくなる。

耐える力はまだ未知(中井久夫)

「リアル」なんかどうでもいい、と言われては正直言って困る。「手触り」といってもいい、むずかしいいいかたになるが。

とじこもっているのはよくない。損得と言って、金のことだけではない。せめて健康といってほしい。

たぶん、ほとんど根拠の無い著作権保護期間延長のせいで内田百けん作品が無償化されなかったことは、インターネットと物を書くことの関係性に少なくない損失をあたえたと思う。小説でも物語でもない、しいて言うならば、エッセイだが、金をとっても、精神的に威張ろうという気がないあの作品群はあまり例がない。やはり漱石の夢十夜、永日小品のような力を抜いた作品が近いが。ああいうふうに書いていいというのは開放感がある。注目されるかどうかきにせずに書くことは非常に大事だ。

熊谷守一、「朝のはじまり」と「泉」

AIで作った「エロ絵」を見ると、あれが最高(至高)の性愛をめざすものでないかがよくわかる。というより、エロティシズムに高いと低いがあるのがわかっていない人が多いのではないだろうか。だから、

葛飾北斎の「蛸と海女」だったか、あれはたぶん作者にとっては余技、おもいつきの産物だったのではないだろうか。 他の作品に、動物も人間も、性交の場面が(素描ふくめて)ないということは、そもそも北斎は性交の描写に興味がないし、まして物神崇拝、フェ…

富野氏も、ひねくれてはいるが肝心な事をごまかすひとではないのだから、ジャパニメーションなんか世界一位では絶対にないとはっきりいえばいいのに(もう言っているのかもしれないが)。ほかの人でもいいけど。

ピカソの『ゲルニカ』の製作費用は約1500万円(1937年ごろ)だったとピカソ全集だったかに書いてあった。ちなみに、1950年代に『人生(ラ・ヴィ)』が2億円で売れたということも書いてあった。

「コミュ障」だったか、ああいう人の話をきいていて不思議におもうのは、あの人たちは何が欲しいのかよくわからないことである。だから自己肯定感が低い、と言われるのだろうが。

ゴルゴ13だったかと思うが、「金さえあればわたしだってできる」というのはいくらでもあった。いまは、そういうものがない。 金さえあればともいわない、親がくだらないともいわない(精神病治療上の「毒親」のあつかいはここからはじまるはずだが)、先生…

「上級国民」(特権階級+クソ成金)が有能ならば、『ゲルニカ』か『明日の神話』をこえる絵を描いてみろ。100万円で1000万円もうけるチャンスだ。

「上級国民」がすごい絵がかけて、そこらへんの「子ども」がすごい絵がかけない、というのはまったくのナンセンスだ。そこを無視するから、「上級国民」論はどこかうわすべりで空虚なのである。 そういえば、クレヨンしんちゃんでラクガキなんとかという映画…

最近、「あの人は器が大きい」「あの人は器が小さい」と言わなくなった。これは資本主義というか消費文化が、人間関係すべてを売買関係にしようとするからである。だからたとえば、『明日の神話』、というかパブリックアートを論じる観点自体が異様にうすい。わたしが現代日本のサブカルチャーにうんざりした理由の一つが、これだ。ひらたくいえば、無償でない。これはきれいごとではない、そうでないと不明朗、不健康になる。

わたしは、女性嫌いの大半が女性にひどく振られたことがあるのかとおもっていた。たぶんちがうのだろう。疑似恋愛をしたことも無い人すらいるのではないだろうか。ひどい振られかたをするのに耐えられないで言葉の刃物をふりかざしてかまわないという貧しい、いやちがった、卑しい「文化」が問題である。

いまの「ジャパニメーション」(←怒をつけるべきだろうか)が空虚な理由のひとつは、変に思われるだろうが、世界一についての自信がないことだ。世界一稼いでる作品だという自信があるわけではない、かといって、「稼いでなくても世界一の作品だ」という自信があるわけでもない。世界一稼ぐ作品をつくるのに挑戦して失敗したということでもないらしい。そのくせ「多少」稼いでいるからっておだてられてあたりまえだと思っている。関係者の話をきいていると、そんなかんじをうける。

技術をふくめた文化は、「見せることができる」という条件をみたせないといけない。これがゆがみをもたらす重大な理由でもあるが、一方で、「公共性」の基礎でもある。いまの万博がつまらないのは、「買う」を中心にしていることであって、「(無償で)見せる」を欠いていることが理由の一つ。それだけではないが。

わたしが考える歴史認識問題の根本問題の一つは、意外に思われるだろうが、「対象と対等という感覚」そのものである。たとえば、ピカソを昔の人のカテゴリにとじこめておくことには、はっきりいって何の正当性もない。ゴッホ、ガウディ、そして岡本太郎もである。ここから話をひろげていかないといけない。

万博、世界中のコロナウイルスの特効薬(ワクチンふくむ)の開発状況を97パーセント公開する。これなら安くつく。失敗でも、次につながるものとそうでないものがある。すごいことをしたいんですよね?

オリンピックは最終的に最大100人(一国平均20~30人)ががんばれば、人を熱狂させることができる。万博はちがう、近未来を見せるのだから、「政府」がかなりを投じないと熱狂させることはできない。最低300人のチームが必要。失敗の質によっては、政治的立場をこえてダメージがおおきすぎる。だから、『明日の神話』ごえに挑戦は、安くつく政治行動

オウム事件で無期懲役の判決をうけた林郁夫はいった、「人の信用をおもちゃにしてはいけない」。わたしならばこういう、「『リアル』を私利私欲でおもちゃにしてはいけない」

わたしは、だいたい2018年ごろからの「通俗道徳」「客分意識」という言葉の流行をあまり信用していない。いろいろ理由はあるが、最大の理由の一つは、日本の人権意識のなさをこの2つの言葉をつかって批判する論者が、同じレベルで「無敵の人(という「自暴自棄」のひどくゆがんだいいかえ)」のことを批評しようとしないから。

別の言い方をすれば、「人々の救済願望」を批評できないから。ただし、安丸良夫氏と牧原憲夫氏、当人はのぞく。とくに、安丸良夫氏の「人々の救済願望」分析→「出口なお」論、あれはそんな簡単にこえられるものではないだろう。わたしはだいたい、重みなしに…