別の言い方をすれば、「人々の救済願望」を批評できないから。
ただし、安丸良夫氏と牧原憲夫氏、当人はのぞく。とくに、安丸良夫氏の「人々の救済願望」分析→「出口なお」論、あれはそんな簡単にこえられるものではないだろう。
わたしはだいたい、重みなしに言葉を使う論者を、政治的立場という条件をおいてもあまり信用していない。そういうことは、文体に出る。
〈特別報告〉「民衆史」と戦後歴史学 | CiNii Research
これは記憶で書くが、hokusyu氏がどこかで「西村ひろゆきは通俗道徳は否定するが、公共性の感覚が無いので危険」というようなことを書いていた。それは安丸氏の視点からみれば、半分以上ただしいが、ある種の西洋優位史観ではないだろうか。
それと、これはわたしが個人的にうんざりしているのだが、最近の「通俗道徳」という単語の流行には、安丸良夫氏ぬきでやっている。安丸良夫氏の人生が背負ったものぬきの「通俗道徳論」。「人々の救済願望」を分析する論が、そんなあやふやな、というか「自称中立」、いやこれはいいすぎか、「客観主義」みたいなことでいいとはおもえない。安丸良夫氏がなぜ「悲観主義」をかかげながら学問をやっていたのか。そこを認めずにものを書くのは、つまらない。