『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや22

[証言記録 兵士たちの戦争]
フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~ 放送日 2008年2月28日


2008年6月

1923年
愛知県安城町(現・安城市)に生まれる
1944年
陸軍第26師団独立歩兵第11連隊に入隊しフィリピン・レイテ島へ
1945年
レイテ島の捕虜収容所で終戦を迎える。12月復員。愛知県農業会、安城市役所、安城文化協会へ勤務

[1]
チャプター1
増援部隊としてレイテへ
再生中
09:46
Q:長坂さんがレイテ島に行くって決まった、レイテ島に向かうときってどんな気持ちで向かったんですか?

気持ちも何もですね、個人で行動するわけではないでしょ。上司の命令によって「お前たちはこれに乗れ」というスタイルでしょう。だから「これに乗れ」って、船に乗ってもどこへ行く船か分からないわけですわ、着いてみないうちはね。そういう状況の中で、マニラの港からですね、3隻の輸送船に乗って私たちはレイテ島へ送られたわけです。

Q:やっぱり緊張とかしませんでしたか?

それはもう、その船の中では一昼夜でしたけれどねえ、緊張ちゅうのはなかったですね。船の中から見るのは、要するに戦争ムードの情景が映ってくるわけじゃないわけですからね、海の上を行くわけですので、そういう気持ちはなかったですね。

Q:その船の上で米軍の攻撃を受けるかもしれないとか、そういう張り詰めた気持ちは?

あ、それは全然なかったです。ただ、実際にはですね、一昼夜かけて、レイテ島に上陸寸前にですね、全員が甲板にですね、それがまさに上陸するという地点でですね、敵のB29の機銃掃射を受けましてね、で、ある程度、戦死もしたし、負傷者もたくさん出たわけですね。

Q:その米軍の輸送船の攻撃のときの光景ってどんなものだったんですか?

もう、やはり低空飛行で来るわけでしょう、ですからブーンという飛行機の音がしたと思うと、はや、もう爆弾がね、機銃掃射、爆弾が落とされておるというような。飛行機、速いわけでしょう、船の上の甲板はもう逃げる場所がないわけでしょう、それですから被害も大きかったわけですね。その被害を受けたためにですね、もう制海権と制空権は、当時、敵に握られとるわけですから、夜が明ける前に上陸を敢行しようという予定がですね、その空爆によって指示系統が乱れてしまったわけですね。

Q:機銃掃射を受けたとき、長坂さんはどうしてたんですか?

もちろん、甲板上いっぱいの、だから船室の一員として立っとっただけなんです。だから、隣のいちばん仲のいい戦友がね、倒れましたけれども、自分は良かったなとか無事だった、そんな余裕はないわけですわ。やられたのは、まあ、そんな、置いて、ケンキョの港へ上陸しなきゃならないでしょう。そういう感情的なやつとか、そういうものは、戦争というのに突入されておりますから、頭で回想するとか、そういう余地はないですね。戦争というのはそういうもんです。いちいち自分で判断して行動するわけじゃないでしょ。上の命令によって、右へ行け、左へ行け、前へ進め、あちらへ行けという、個人の行動は一切ないのが軍隊ですからね。戦争ですからね。

Q:でも、その攻撃を受けて、まず、長坂さん、どういう行動をしたんですか、上陸までに?

いや、いちばん仲のいい戦友に「どうした?」っつったら「腹をやられた」と。で、しょうがないもんですから、本人が持っとる三角巾というね、応急処置の布があるんですが、「それ、出せ」と言って腹を巻いてやってね、もうそのまま生き別れなんですわ。もうこちらは、元気な者は上陸をしないとヤカイキないちゅうことでですね、それだけの処置をしてやるのが精一杯でした。

Q:どのくらいの時間、甲板の上で機銃掃射を受けてたんですか?

そりゃ、まあ、何分間でしょうね。飛行機ちゅうのは速いものですから、サーッと来てサーッと落として行っちゃうもんですからね。地上戦と違う、あの、地上戦と違いまして、飛行機の攻撃いうのは簡単なもんですわ。音がしたなと思うと、まあ上空に来て、弾を落としてサーッと行っちゃうもんですからね。

Q:でも、その甲板の上はどんな状態になったんですか?

どんな状態というのはね、左右を見とる暇なく「元気な者はすぐ上陸」という命令ですからね、周囲を見渡す余地もないぐらいですわ。うちらはいっぱい(限界)ですからね。

Q:砲弾は持って?

はい、砲弾は背中に背負うことになっとるもんですからね。大隊砲は大きいもんですから残っちゃったわけですわ、その空襲による混乱によってですね。だからそのまま上陸はできんじゃったわけですね。

Q:じゃあ、どうしたらいいんですか、そうなったら?

どうしょうもないですわねえ。それで命令で前進前進で第一線に行かなきゃならんでしょう。ただ、重機関銃の小隊のほうはですね、2人で持てば搬送できるもんですから、上陸のとき、きちんとね、重機関銃は上陸ができたんです。だから私たちの大隊砲小隊だけです、丸腰で第一線に向かわされたのは。

Q:それで何とか上陸して、ふと船のほうを振り返って見たときにどんな光景が?

ああ、船はすでにねえ、目を開けちゃったときは船はもういなかったんです。島影に退避してすでに3艘ともが影を隠したわけですからね、もう船の影はなかったです。

Q:で、その船の上で死んだ戦友の様子とか、そういったものは目にしてないですか?

全然。音信もなければ影もないわけですからね。その後、大隊砲と負傷した連中は轟沈されちゃったという、あとから聞いた話ですけどね、ですから再び顔を見ることはなかったですね。

もう、その、情報が、撃沈されたという情報が入っちゃったもんですからね、もうこれはダメだという意識はありましたね。なけなしの大隊砲が手元にないわけですからねえ。

Q:その撃沈されたっていう情報はどういう形で伝えられたんですか?

それは何となく入ってくるわけですね。大きな声で上官が「これこれだ」と言うあれはないわけです。だけど何となくそういうあれが伝達をされて来るわけですね。軍隊というのはそういうとこです。大きな声の命令が入ってくることもあるし、何となく情報がね、伝わってくるという、そういう内容もかなりあるわけですね。これが負け戦の状態じゃないでしょうかね。

上陸したときの装備をね、お話しときますと、私たちは小銃部隊じゃないもんですから、腰に帯剣と、それから手りゅう弾ですね、を1発、ポケットの中と、それから、あと、鉄兜(てつかぶと)と。それから雑のうの中にですね、食糧はですね、米を1升と、それから乾麺包(カンメンポウ 乾パン)をね、2袋、それから牛缶と鮭缶を1缶ずつと、それだけが上陸時の保存しとった食糧なんです。

出来事の背景証言者プロフィール


[2]
チャプター2
ブラウエンへの山越え
12:07
Q:長坂さんたちの部隊に下った命令ってどんなものだったんですか?

とにかく夜間を待って、ジャングルを越えてですね、ブラウエンの飛行場へ、お前たちの大隊はね、最終的にはそこへ攻撃を仕掛けよという命令でジャングル地帯へ入って行ったわけですね。ところがジャングルというのは道もないわけでしょう、ですから、パラナス川っていう川がありましてね、その川ですと道が平坦地で奥に行くには都合がいいわけでしょう、ですから真っ暗闇の川をですね、戦友同士が声を掛け合ってですね、上流へと一晩上ったこともあります。

Q:それで、長坂さんたちが分け入ったそのジャングルって、どんなジャングルだったんですか。

ジャングルと言いましてもね、そういうその、よくゴリラが出てくるとかね、なんかってああいう大きなジャングルじゃないです。フィリピンっちゅうのはどこの島もそうやけど、脊梁(せきりょう)山脈(中央山脈)といいまして、なだらかな丘のちょっとね、毛の生えたぐらいの山が中央をずーっと貫いとるわけですね。で、平坦地にヤシやバナナ畑のいわゆる海岸線ですね、ヤシやバナナ畑がありまして、そこに住民が住居をしとるいうのが、島のフィリピン全体の様子ですね。ですから、その山の中へはね、あんまり人が入った形跡がないわけですわ。ですが、蔦(ツタ)も絡まっとりますし、そこをもう蛮刀みたいなそういうものも持っておりませんしね。突き進むのは大変でしたね。先ほど言いましたように、川を夜中にね、進むという方法しかないわけですね。そいでフィリピンはどうか分かりませんが、レイテ島ではね、ヘビもトカゲも当時いなかったです。だからそういうものを捕まえてね、食糧の足しにするっていうことも出来なかったですね。

Q:持って上がった大隊砲の弾ってどうしたんですか。

それを最初はですね、背負ってね、山の中を歩くでしょ、川を歩くでしょ。で大変でしょ、重いでしょ。ですからもう、これはまぁ持っとるだけで自分たちはね、体力が落ちるだけですから、途中の山中に置いてけぼりにしました、途中からは全然持って歩きませんでした。

Q:なんで大砲自体がないのに持って歩いてたんですか。

また補給があるだろうという意識があったからです。大隊砲のね、補給があるかもしれないという望みをありましたからね。

Q:その期待はかなったんですか。

かないませんでした。いわゆる、それほど日本軍というのはモノがなかったものですから、モノを大切にしなぁいかないというね、教育期間中でも訓練を受けておりますから、自然にそういう、大砲なくてもいつかは補充があるかもしれないと、まぁ唯一の望みをつないでね、それを背負っておった思いますよ。

Q:そんな状態で、まずどうやって戦うんですか?

だけど一緒に行動しとりますのは機関銃小隊がおるもんですから、そのあとを付いておるだけなんですね。先ほど申しましたかもしれませんが、小銃は私たちの中隊は1丁もないわけですから。ただ、下士官以上はですね、拳銃を所持しておりましたけれどね、私たち一兵卒は腰の帯剣と手りゅう弾だけですわ。

それで夜間でもですね、敵はですね、ケイコウ弾(照明弾)いうのを持っておりましてねえ、夜、真っ暗な中に花火のようにパカンと爆ぜるんですが、そうすると昼の明るいような照明になりましてね、そのケイコウ弾で50メートルぐらい移動するわけです。その間は、もう身動きも、音も、何もできないわけですわ。そういうのをボカンボカンと夜間でも撃たれるわけですわ。ましてや昼間はね、絶対、こう、敵の哨戒機がおりますので、音も立てられませんが火もたけない。例えば米を持っておりましてもね、それを火をたいて煙を出してたくことができなかったわけですわ。

Q:兵器を全く持たない状態での野戦て、どういうふうに行われたんですか?

私たちは、夜、行動しまして、昼になりますと、第一線ですので、タコツボって塹壕(ざんごう)をね、掘るわけなんですわ。私たちの中隊は機関銃中隊で、円匙(エンピ・軍用スコップ)を持ってないわけです。ですからそこの中腹の土地がですね、砂混じりの柔らかい土地だった、だから軍手をはめた手で、素手でですね、半日ぐらいかけて、自分が入る塹壕、タコツボって言っとるが、それを掘ったわけですね。その中におりまして、その日の夜が、向こうはスコールっつって、雨がね、よくザーッと降るんですが、腰まで浸かって朝まで迎えたこともありますね。

Q:武器が、武器、ないのに、向こうはバンバンバンバン撃ってくるわけですよねえ。どうやって応戦するんですか?

それは、こちらは、私たちの中隊は、機関銃中隊は全部、応戦はできますからね、私たちはその後ろでただ遮へいをしておるだけなんですわ。中隊でも機関銃小隊のほうはね、応戦に、応じる態勢がありましたからね。私たち小隊だけですわ、為す術がないというか。

気持ち、毎日毎日がそのコツコツと夜でないと動けないし、昼中じっとしてるからまぁ今思いますとその、昼中じっとしとらなきゃならないということで、食糧がある程度助かったのかもしれませんね。

だけど、そういう第一線の空気がね、「血なまぐさい戦場」とよく言われるでしょ、ほんとに血なまぐさいですよ。両方の屍(しかばね)の臭いがですね。40度以上の灼熱の土地でしょ。夜になってもその空気がよどんでるわけですね。だから、ほんとに血なまぐさいような臭いがするですね。で、敵の砲弾、わがほうの砲弾のシキか、そういう弾丸等のそういう余熱の臭いもありますしね。そういう血なまぐさい中に、もうずっと日中は潜んでいるよりしょうがなかったわけですね。

Q:どんな思いでじっとしてたんですか。

これ、もうずっと思いもへっちゃくれもない、ジッとしとるよりしょうがないですね、「あ、今日も夜になると、またこう・・・の」という思いだけなんですわ。もうそこまで来ますとね、ふるさとのこと、家族がどうしておるとか、負傷した戦友はどうしとる、そんな余地はもうないわけですわ。雰囲気そのものがね、そういう、食べなくて戦争しなきゃ、武器はない、そういう私たちの小隊でしょ。そういうね、もう意識が多少おかしくなってますでしょう。ですから、どうこう頭の中でいろいろとあれこれね、思考を巡らすというような余地はないわけですね、もう。それが第一線の空気だと思いましたね。

Q:そんな状態で戦争になるんですか。

そうですね。ですから、ある日などですね、すぐ隣の前の戦友が「やられたー」という声がありまして、上官が「そこの遺体を収容せよ」という、ありましたんで、2、3人でね、それも戦友の亡骸(亡きがら)を拾って。まぁあの、戦争中のときでもこう、砲弾が落ちた所はへこみますからね、そこの口までちょっと引きずってきて、静かに音のしないように下ろして、そこら辺に砲弾で散らばってるヤシの葉とかですね、バナナの葉をその亡骸の上へ音のしないように被せてあげるのが、精いっぱいなんですよ。ということはね、土なんか掘って音を出したら艦砲射撃でしょ。ですから、フィリピン戦、特にレイテ戦からはね、遺骨が帰っていないというのは、そういう第一線の状態の中での戦いですのでね、遺族には本当に申し訳ないと思うんですが、遺骨が帰ってないですわ、そんな戦いでしたね。

Q:ジャングルの行軍というのはどんなふうに大変だったですか。

あれは真っ暗でしょ。ですからあの、川でも、水の中ですからザワザワと音がするでしょ。それをできるだけザワザワの音をさせないこと。それから帯剣なんかは金属音が触れ合うでしょ、ですから縄を全部巻いてね、音を出さないように。で、敵の音波探知機に察知されたり。それから、迷子になったって、真っ暗でしょ。縄でもってですね、前の戦友と自分か結んで数珠つなぎの発想で、夜の真っ暗の川をね、登っていったという記憶はありますね。もう音という音は四六時中出せないわけですわ。科学、兵器いうのとの差ですね。もう抜群に、そういう大人と子どもぐらいの兵器の差があったわけですね。

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[3]
チャプター3
決死隊
02:49
それで食糧が、補給が全然ないわけですね。食べなきゃ肉体は衰えていくわけでしょう。だから、ある夜ですね、私は当時、指揮班に編入されておりまして、指揮班から「決死隊を10人ぐらい出せ」と。私もその内に。「何をするのか」と。敵がですね、第一線の陣地から退却して行ったあとのですね、食糧品の確保をするための決死隊に選ばれたわけです。で、やっぱし夜だしね、真っ暗な中を、「山」と「川」との合言葉とですね、友軍だって分かるように時々「山」と「川」と言ってはね、前へ行って。敵はですね、もう物資が豊富なもんで、少し状態が悪いとなると完全になんか捨ててないで退却しちゃうわけです。ですからそこへまず上って行ってですね、向こうさんは戦時食はレーションていうのが、この箱に入ったね、のが、ぎょうさん、うんと。何が入っとるっちゅうと、チョコレート、カンパン、コーヒー、煙草ですね、缶詰ですね、そういったものがセットになってるわけです。それも山積みになってるのをほかして(捨てて)行っちゃったもんですから、それを確保のために決死隊で持って帰ってですね、雑のうの中にいっぱい、それから手に持てるだけ持って帰って、生き残りの部隊全体にね、分け与えて飢えをしのいだっちゅうこともありましたね。

まぁあの、考えてみますとね、道中よく言われることは、「腹が減っては戦ができん」というあれがあるでしょ。まず食糧確保、食べなきゃ行動ができんわけでしょ。その第一番に食べなきゃならない、基本的なね、食糧の補給がないわけですからね、惨憺(さんたん)たるものですわ。で、みんな腹を減らしてるけど、文句も言うものは1人もおりませんでしたよ。それより、戦わなきゃならんという意識のほうが優先されてますからね。食べることは二の次なんですから、レイテ島ではですね、そんな状態でしたね。

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[4]
チャプター4
足を負傷し見捨てられた
11:50
塹壕堀の手で掘ったタコツボですね。半日かかりましたね。個人個人が自分が腰掛けて隠れるぐらいですから1メートルそこそこですわ。まぁ砂まじりとは言いながら山土でしょ、半日かかって塹壕、タコツボを掘ったわけですね。で、腹が減ってる中でしょ、で、そういうエンピがないわけですから、それはまぁ半日間掘るの大変でしたよ。

Q:そういう状況の中で、長坂さんはどうなるんですか。

そのタコツボにね、入りまして、先ほど申しましたとおり、その夜にスコールが来まして、腰まで雨に粒に濡れてですね、その塹壕の中で明くる日を迎えたわけだ。で、その明くる日は昼中のね、戦争だったわけですね。両方の彼我の弾が行き交う中にね、上で「ボカン」という音かしたら、今思いますと迫撃砲ですよ。迫撃砲というのは、弾がですね、花火のように上ではねまして、このぐらいの小さいですね、破片になって直角に下りてくるわけ。ですからいくら深い塹壕、縦穴の中に入っておると負傷するわけです。私も焼け火箸を刺さるような「痛いっ」という感触で、この辺の破片かですね、この左大腿部に直撃受けたよ。それで、やられたということで、ポケットに入れました三角巾でですね、応急処置をしておりましたら、数時間たったでしょうかね。双方が、砲弾の山、「一時休戦」という時間帯ができたわけですね。そこで、上司の「もうええ、全員が転進」という号令が出たわけです。そこでまたウロウロしとるとまた戦争が始まると、交戦が始まるといけないと思って、這(は)って出てですね。もう足が、最初の当時はね、もう意識じゃないのか痛くはなかったですわ。這い出た辺りからもうもう足を引きずって行かなくちゃいけないぐらい、痛みがあるようになってきて。そこら辺に転ばっとった倒木のですね、枝を杖代わりにしてダラダラ坂の山をね、道を下って原隊と一緒に最初歩いとったんですが。負傷しておるもんですから遅れてしまって、原隊がどこに行ったか分からなくなっちゃったわけですね。で、山を下りたところの道端に1軒のニッパ小屋がありまして、日本語が聞こえるもんですから、そこへ入りましたら野砲隊の1小隊の小隊がおりまして、班長がですね、私が、自分が負傷兵だっちゅうことが分かって、「ここに座って休んでけ」とそう言って、炉端で焼いていたね、水牛の焼肉をね、私に食べさせてくれたんです。で、それを自分が雑のうのポケットに入れようとしたらね、「持って行くものは後でやるから、それは食べなさい」と、「食べろ」ということでそれを食べましてね、雑のうの中におみやげの水牛をもらいまして、「泉兵団(26師団の通称)どちらに行きましたか」というお尋ねしたら、「この坂を下って真っ直ぐあちらのほうに行った」と、そういうことで挙手の礼をしまして、お礼のですね。で、原隊を追って何時間歩いたでしょうかね。で、平地まで来ましたら、高床式のニッパ小屋の、高い軒だもんですから、その下に臨時の感じの野戦病院の、まぁ中へ入っとるだけですが、負傷者がいっぱい入ってた。そこへやっとたどり着いた。

それで、昼からになりましてね、「歩ける者は外へ出す」と。いわゆるそこが危険地帯になった可能性があったわけです。で、私も這いながら外へ出たらもう、立って歩けなかったんです。「そこの兵隊は中で休んでおけ」ということで、夜になりましてからね、担架搬送で担架に乗せられてね、山小屋の上へ13人、移動したら、臨時の野戦病院ですね、・・・、そこへ夜中に搬送されたわけ。

明くる日から1日に1回ですね、この拳ぐらいのおにぎりが、部隊のほうから13人に配られてきたわけです。それが数日間続きましたらね、なんかその地点も危険だと、のさいちゅうのか、負傷兵は置いてけぼりでですね、13人。部隊がどこか行っちゃったわけ。だから、その明くる日からもうおにぎり1個の配給もなかったんだ。それで数日間はなんとなく過ぎましたが、まぁ誰言うとなく、「このままでは死んでしまう」と。食糧を探しに出かけない(か)ということになりまして、私は足が悪かったもんですから、動けないもんですから、あとの、肩をやられた者、それから顎(あご)をやられた者、手をやられた者、腹をやられた、まぁ足だけね、動けるものばっかりで12人がですね、「元気におれよ」と。「食糧探してまた再び帰ってくるな」ということを残して山中へ行ったわけですね。だけど再び帰ってはきませんでした。

まぁ2、3日たったでしょうかね。ある日、遊兵が来たんですね、食べかけの鮭缶を持って、私らおる小屋の前を通って、私を負傷兵と見るや、「これを食べて元気でおれ」と言って食べかけの鮭缶を置いて行ってくれたんです。それをなめるようにしてね、半日がかりで食べたんです。ところが、鮭缶を食べちゃったらね、口が乾いちゃって水が飲みたいけど水がないでしょ。ふと外を見ましたらね、軍靴の靴のあとにスコールの、雨がたまって泥水ですわ。それ見つけましてね、這って出てですね、その泥水を水代わりに飲んで、飢えを忍んだわけです。で、明くる日はどうにか1日ね、食べるものないけれども、自分で動けんもんだから、しようがないったら。その明くる日ね、もう限界だという意識が出ましたので、よく耳を澄ますと、はるか下に川の流れるせせらぎの音がしたわけですね。そこまで行って水を飲んで飢えをしのごうということでね、意を決していざりながらね、上を向いとると、下が高山でへこんだ土地もありますし、ヤシやバナナ畑の雑木が、倒れた木が山積みになって倒れてるでしょ。それを避けて行かなきゃ下に行けないもんですけど、下を見ながらですね、「いざ」っとったんです。
そしたら突如、「ホールドアップ」という声で。英語も分かりませんが、自然に手が上がっちゃったんです。というのは、残敵、残敵を探しにですね、アメリカ兵が1人とゲリラが2人、3人がですね、巡回をしたのに捕まったんです。ほいで、私が座っとるもんですから、「立て」という容儀(ようぎ=格好)をしたら、足をやられとるで、状況見たら、「ユー(You)」、アメリカ兵がゲリラの1人に「背負ってやれ」と言って、背負ってくれて。ちょっと横の下に下がった所へテント張りのね、第一線の臨時のね、アメリカの野戦病院があって、そこで応急手当てをしてくれた。それが済みましたら今度はジープに乗せられてですね、アメリカの正規の野戦病院に送られまして、その日の晩にアメリカ軍の野戦病院でですね、手術をしてくれました。これでやっと、まぁ「兵隊」なんちゅう呼び名をするような状態じゃない、一つの物体ですわ、物体がようやく生を得たという感じでしたね。それで、戦陣訓を読みますとね、「生きて虜囚の辱めを受けるな」という、いわゆる生きて捕虜になるなというね、なんか明記されておるんですが、その当時はもう意識も朦朧(もうろう)としておりましてね、肉体も疲弊しちゃって、そういう頭の巡らせるようなね、そういう状態ではなかった、「あー、これで生き延びた」という実感のが優先でしたね、今思うとそれが実感でした。

で、野戦病院の中でも、そういう捕虜になっとる日本兵がいっぱいおる訳ですよ。だから、生きれたという意識しかなかったですね。やれやれというね。やっと俺も生きながらえたという意識が最優先でしたね。もう山中から、戦うべき武器はなかった訳ですからね。疲労困ぱいなんだ。心身ともになえたね、体で、捕虜になった訳ですからね。やっと生きれたという考え以外になかったですね。亡くなった人には申し訳なかったと、今思いますわね。それ以外に、何も思いませんでしたね。

出来事の背景証言者プロフィール



[5]
チャプター5
十分な武器弾薬を手に戦いたかった
08:36
Q:日本の終戦を知ったときに、どういう形で知って、どういうふうに思いましたか。

あのね、とにかく8月15日、収容所におりましたわね。野戦病院から、元気になって、収容所におりまして。その8月15日の夜のね、もうアメリカの兵隊のキャンパスがそばにあるでしょ。物凄くあちこち、歓声が上がった訳で。何事だろうと思って、よく考えてみて。あ、これでなったら、日本が負けたんだという情報が入りまして。それでアメリカ軍のキャンパス(キャンプ)がね、歓声が、喜びの歓声が上がったんだなーってことで。初めて日本が負ける、負けないという訓練を受けとったでしょ。やっぱり負けたかという、なんか実感でしたね。戦争中で山ん中、彷徨(ほうこう=さまよう)してても、物がなくて戦争しとるのを目にしたり、体験しとるでしょ。だから、絶対に負けないという教育を受けてもね、クエスチョンマークだった訳だ、我々はね。で、やっぱし、こういう自分らが戦いをしてきたから、「やっぱし負けたのか」というのが実感でしたね。

Q:悔しくはなかったですか。

別に悔しいとか、悲しいとか、そういうあれはなかったです。もう捕虜になってから、19年の12月に捕虜になっちゃった訳ですけどね、ですから9か月もたってますでしょ。まあ、そういう気持ちはなかったですね。ただ、帰れるのかな、どっかに連れて行かれ、捕虜だからね。どっかへ連れて行かれて、働かされるのかという意識はありましたね。無事日本へ帰れるとは思ってませんでしたね。

(復員のとき)一昼夜前からね、太平洋を北に向かって船が来ましたの。ちょっとした平地に豆粒大のものが見える訳です。それがだんだんだんだん近づいてきますと、富士山なんです。やっと富士山が見えて、日本へ無事で帰ってこれて、ありがたかったなという、みんな船上で涙をこぼした。富士山を見てからですね。やっと日本へ帰れたと、そういう気持ちでしたね。

しばらくの間は、やっぱし町内の方にも、田舎ですのでね、行くときも「今から兵隊に行ってきます」って挨拶をして、「帰って来ました」って挨拶するでしょ。「捕虜になって帰ってきました」とは言えませんでしたね、その当時はね。大分たってから、「もう本当はこういう激戦でね、あったから、こういう形で捕虜になりました」と言えるようになりましたけどね。帰ってきた当時は、そういう状態じゃなかったですね。

Q:なぜ言えなかったんですか。

そりゃ負い目を負って帰ってきた訳ですからね。「生きて虜囚の辱を受けず」という、戦陣訓の教育を受けたんですからね。負い目はありますよ。どんな戦いをしたなんてことは、いちいち説明しないと、一般の人は分からん訳ですからね。ただ捕虜になったことということだけを、相手の方はとらえる訳でしょ。そういうことですわ。

Q:長坂さんにとって、レイテ島の戦いって何だったんだと思いますか。

何だったでしょうね。私たちのために負けたということの実感はないですね。ただ命によって、国のために参加させてもらったけども、役に立たなかったなということは思いますね。

Q:なぜ、長坂さんたちが役に立たなかったなんて思わなきゃいけないんですか。

これは自分の、もっと武器もあり、食料もあってね・・・。十分に戦えなかったのは、自分らが不徳の至りだというね、方向に、反省をしとる訳だからじゃないでしょうかね。

Q:でもそこに、長坂さんたちの責任はないんじゃないですか。

でもあなた、現実はそうだった訳ですからね。

ほんと、戦えなくて残念だったなっちゅうことは思いますね。

Q:だって、武器とか食料を送ってこないのは、上の組織の責任ですよね?

だけど、考えてみると、第一線で戦った自分本人たちはね、なかったからどうこうじゃなくて、もっとあったら、国のために出来たんだなっちゅうほうが優先されますね。これは結果論ですけどね。

よくあの、犬死にとか、いろいろいいますけど、決して私たちは犬死にでも無駄死にでもなかったと思うんですね。ない、すべての物がないなりに、果敢に戦った訳ですからね。結果的に言えばね、彼我の差があまりにもありすぎて、無謀の戦争だということは言えるかもしれない。第一線におった一兵卒、我々はですね、命令によって国のために戦うんだという意識が優先しておりましたからね。それ一本しか、ものを考えること、余地はなかったですからね。そういう教育でしたもんね。

Q:戦友たちの死が、犬死にじゃないって思うのはなぜですか。

それは、現在の平和の礎を作ったのも、亡き戦友があればこそね。こういう平和な今の日本があるという観念から言えばね、平和の基礎を作った訳ですからね、その犠牲によって。そう思いますね。

まあ、食糧の補給もありませんし、武器・弾薬の補給もありませんし、今思いますとロビンソン・クルーソー島流しに遭ったようなもんですわねえ。本当に為す術がないってこのことですわねえ。

出来事の背景