1922年
岐阜県島村(現・岐阜市)に生まれる
1941年
満州国軍 軍官学校入校
1944年
4月、陸軍士官学校を卒業し、新京(現・長春)の第4高射砲隊に配属
1945年
8月、新京で守備任務中に終戦を迎える
その後、シベリアに抑留される
1948年
帰国
その後は家業の農業や農業用品製造業に従事する
[1] チャプター1 満州国軍 軍官学校へ 再生中03:45
私は、岐阜の岐阜県立第一工業学校、県立第一工業学校という工業学校の機械科におったんですけれども。おりましたけれども、工業(学校)を卒業した者は技 手という。技師にはなれないんですね。その当時、高等工業以上を出ると、工業の技師という名前が付いたんです。どうしても、その技師という職業の名前が欲 しいものだから、それで親に高等工業を受けようか、受験してみようかといったら、とても農家ではそういうような入学金も出せないからといったもので、親は はっきり断ったものですので、上の学校に行くということを、それじゃ無料の学校、無料の学校といえば軍隊の陸海軍の学校しかない、というので、士官学校を 受けてみようかというので受けた。そうしましたら、陸軍省の満州班のほうから、当時の軍官学校というのがあるからそちらに行かんかというので、満州という のは非常に、みんなその時代はあこがれの土地だったものですので、それなら俺も行くかというので、別段大した意見というものはなかったわけです。
すんなりと陸軍省の満州班のこれから通知が来たんです。じゃ、行こうかというようなことで、そんなにあれこれいろんなことは考えなかったです。それで軍官学校に入りました。
私 は別段、軍ならどこでも一緒じゃないかと、日本の軍隊は一緒じゃないかというようなつもりで、別段あれこれ考えておりませんでした。そんな知識はなかった もので。親はシベリア出兵で満州から向こうへ行っておりますし、軍のことについてはいくらか関心がありましたものですので。
Q:神戸から行かれたんですね。
ええ、そうです、神戸からですね、大連に行きました。そのとき私は、こういう平地におって、農家ですので、玄界灘では船に酔いました。大連というのは、やっぱり初めての土地ですので、非常に印象が強かったところですね。
やっぱり、内地とガラッと変わった雰囲気といいますか、空気というものがありまして、やっぱり大陸だなという感覚はしましたですね。
Q:そこから大連から。
(新京の)軍官学校に。軍官学校の予科へ入りましたですね。
[2] チャプター2 中国人との交流 07:33
これはね、これ二人前におるでしょ。写真屋がいたから「おい顔出せ」言うて。これはもう絶対この姿をね、学校では禁止なんです。絶対窓からのぞくなって言 うてですね、一人でも窓からのぞいてはイカンというのでね、写真屋が来たから「おい」って言うて、これがここでかけたんやろって思うんですね。窓の外にお るからね。
そしてわっと部屋におった者が顔を出して。絶対これ見られん写真ですけど。こういうのが焼け残っとる。
Q:普通の高校生みたい。これでもこっち見てる人と横の方見ている人がいるから、写真屋さんが何人かいたんですかね。
写真屋は一人です。一人ここ下を通ったんですけどね。写真屋が通りかかってね、写真屋が来たから言って。おそらくこの二人が声かけたんじゃないかと思うですね。そしてわっと顔を出して。
い ちばん印象に残っとるのは、士官学校では土曜日の晩と日曜、これは友達とか家族に手紙を書いてもいいけれども、それ以外はほとんど勉強で、そんな手紙を書 いたりなんかする時間もなかったし、書いとったらいかんということになっておりましたので、土曜日の晩と日曜は手紙を書いた。
その日曜の ときに、(同部屋の中国人に)「何を書いておるんだ」と、日曜にちょっと私が、机も隣で寝台も隣ですので、「何を書いているんだ」と私がちょっとのぞいた ら、彼が黙ってこうして見せてくれた。友達に書いとるんだといって見せてくれた。その中に、始めと終わりの、これは中国の文章ですから、始めと終わりのほ うは別段なかったけど、真ん中に「身命を国家にささげる」という言葉を書いておったです。その「身命を国家にささげる」ということは、これはもう士官学校 の教育というのは大したものだなとそのときに思ったんです。本人が、自分が、それだけしか手紙の中には、「身命を国家にささげる」と。そのとき非常に感心 したわけです。国家というものは、それは満州国国家だと思った、卒業するまで。卒業してから、彼の国家というのは中国で、彼は中国のために国家に身命をさ さげると。
(中国人の)兄弟で軍官学校の2期生に、兄と弟が一緒に入ってきておりまして、それは私の何かの折りに知り合って、よく話をし たのは弟のほうで。兄のほうは士官学校で一緒になりまして、それから、士官学校を卒業してからも、見習士官、それから部隊もすぐ隣の中隊におりましたの で、非常に心やすくしておりました。
ここに私の写真が、これは私の陣中の写真が、これは兄のほうが士官学校から見習士官、部隊も一緒で隣におっ て、写真を撮ってくれたのが兄のほうなんです。その写真がそこにありますが、これが陣中の写真。この写真を撮ったときに、非常に驚いたことが一つありまし たのは、彼が持ってきたのが大正琴なんです。
ところが、昭和19年ですね、彼が写真を撮ってくれたときに、大正琴を持ってきて、彼がその 大正琴を弾いた。それが、やっぱり今、大正琴を好んで、こっちの手でビンビンとやるとか。どういう曲を弾いたか私は知りませんけれども、それを見て、満州 に大正琴があって、現在満州で、男性の私と同じ22~23歳の男性が大正琴を弾いて私に聞かせてくれた。だから、満州に大正琴があるということも全然予期 していなかったし、そして男性が大正琴を。ということは、彼らの一般の家庭の豊かさというか、教養というんですかね、趣味、娯楽というんですか、我々が考 えている以上に豊かなものだったなということを思いましたですね。これはカメラも自分で持ってきて、自分の持っているカメラで撮ってくれたんですけれども ね。
それから彼らが暇なときにスイカの種をしょっちゅう食べるんです。スイカの種をいって塩味をつけて、そのスイカの種の食べ方を教えて くれた。それは縦にスイカ(の種)を立て(て割)る。それから横倒しにして、舌と歯で中の実を食べると。そういう要領も教えてくれた。彼がおれの歯を見て みろと。歯に、やっぱりくぼみができるんです。そのスイカの種を食べたために、前歯の上下にくぼみがあるんです。よく見てみろといって見せてくれた。その 兄のほうから非常に、そういう私たちが不思議に思うようなことを彼が教えてくれたことがたくさんあります、それ以外にも。
そうですね。日 本人というのは、やっぱり主導的な立場というか、国も指導的な、個人的にも優れたというか、そういうような指導的な立場にあるというようなことは一般的に 言われとったものですので、それもそうかなという気もあったんですかね、私は、個人的にも。しかし、接してみると、彼らの家庭内の教養というか、そういう ものは相当なものだなと思いました。我々が日本の百姓で育っていった者と彼らの家庭の中では、相当、私たちが考えている以上の家庭内の教養というのはあっ たと思います。
[3] チャプター3 中国人将兵の不穏な動き 07:48
訓練の合間に休憩時間に私が腰を下ろしたときに、隣におった兵隊がこういうことを言った。「教官、アメリカと日本は戦争をしておる。教官は日本人だ。アメ リカと教官は戦争をしている。私は日本人じゃない。だから、私はアメリカと戦争をしておりません」ということを言った。今まで、毎日訓練に訓練を重ねて、 B29爆撃機、アメリカの航空機を落とす訓練ばかりしていた。「教官、私は日本人じゃない」と。その教育をしたというのは、これはただ本人の考え方じゃな くて、いわゆる連長、中隊長(王夷新)ですね。それが訓話しておるわけです。これは連長の話だなと思っていました。
Q:連長が兵隊にそういう。
(中 国人の上官が中国人の部下に)そういう教育を普段、精神訓話とか、1週間に1遍は精神訓話をしてやっておりまして、精神訓話で行っているわけです。(日本 人の)私には、精神訓話は出てこんでもいいから、自分のいろんな仕事があるだろう、仕事やって、精神訓話にはこんでもいいわと。精神訓話を聞きにいって も、中国語でべらべらやられたら、分かったような分からんような。
ぽつんぽつんとはわかるけれども、ぽつんぽつんをつなぎ合わせて、これ はこういう話じゃないかと、その程度のものです。精神訓話には来んでもいいからと、私もそれはまあ・・・、そうすると、だから話がぽつんぽつんとしかわか らないんだから聞くまでもなかろうと思っておった。
それで、彼のうちへ行って食事を一緒にしたことがあるんですけれども、その王夷新とい う中隊長ですね、連長のところに行きました。そのときに、風呂に入らんかというような話が出まして、それなら風呂に入ろうかといっていましたら、ちょうど 卵形のヒノキ造りの木の風呂です。あんなのは、よもや満州で見ようとは思わなかった。恐らく満州であんなものはつくっていなくて、日本の内地から買って取 り寄せたものじゃないかというような感じだったですね。よもや満州でそんなヒノキでつくったような卵形のような風呂があるとは思わなかった。彼は親日家で あり知日派であり、
日常生活も、風呂を見ても風呂おけで、日本の風呂で、そんなこともありましたね。どうしても、彼が中国人とはやっぱり違う性質というか、性格というか、魅力というんですかね、本当に何か彼には惹かれるところがありました。魅力があったですね
み んな(日本人は)彼を警戒はしておりました、彼を。言葉は、これが日本人ではどうしてないのかというぐらい日本語は達者だし、全然、性質というか、性格と いうものは全く日本人と一緒です。ほかの中国人、満系の者と比べた場合、どうしても、これが日本人でないというのが不思議なぐらい日本語も達者だし、性質 というか性格といいますか、そういうものからいっても、とても中国人、漢民族、そういう感じはしなかった。むしろこういう親分肌といいますか、こういう人 格といいますか、惹かれる魅力というものが非常にあったですね、私は。私は彼に惹かれたですね。ほかの人から見ると要注意人物ですね。
(連長の王夷新は)これが「とにかく万一ということがあるから、絶対兵をしかったり注意したりするなよ」と。彼は、「万一ということがあるからな」と私に言ったけれども。そのときに彼が決起することもあり得るということも感じました。
そ のときに、そのちょっと後になりますけれども、隣のヨージボーの高射砲の同じ第1連、私たちは第2連隊第2中隊なんです。第1中隊の中隊長が、これは日系 1人です。1個中隊の中に日系の中隊長が1人です。その中隊長が仙台の方だった。私のところに夕方こっそり来まして、「王夷新は大丈夫か」といって、「大 丈夫です。私が生きとる間は大丈夫。いちばん邪魔になるのは私ですから。私がやられたら、彼がいちばん邪魔にしとるのは私だろうから、いちばん初めにやら れるのは私だから、私が生きとる間は安心してください」ということを言いました。「あそうか」といって帰られたんですけれどもね。
(昭和 20年)6月23日。大体そのころになると、私が頼んだことを兵隊がだんだん動かないようになってきておるんですね。命令とも言わんでも、動きが、私が頼 んでおいたことがすっとやらんようになった。それで、王夷新という連長に、「どうもちょっと動きがおかしい」と。それで私は自分でそういったことがある。 「頼んでおいてもやってくれへん」と。
Q:安田さんが、言うこと聞かないと王夷新さんに言ったときは、王夷新さんは安田さんに何て言ったんですか。
別 段何とも言わない、笑っとったかもわからんです。彼らは、日本がもうだめだということは、ミッドウエーの海戦、昭和17年ですか、あのときにミッドウエー で海軍が、航空母艦3隻か4隻かいっぺんに撃沈されて、主力を海軍は失っているということを、そのときから大体予測をつけてきとるんじゃないかと思いま す。だから、沖縄が落ちてからはなおさらのことです。
(略)