RTs>大災害や重大事件事故が起こるとSNSはいろんな感情が渦巻く坩堝となるが、最近はまず報道批判が沸騰する時代なのだと今回あらためて感じた。ヘリ空撮などの災害取材と伝え方。事故の記者会見での質問内容や口調。特に相手の説明を疑い、繰り返し問うような取材姿勢に反感を持つ人が多いようだ。
— 松本創 (@MatsumotohaJimu) 2024年1月5日
あの人たちは、「いまここで言いたいことを言う。後は知らない、関係ない。」と「自然に」感じているのだから、今の時点で話が成立するはずがない。かつ、インターネット文化にすりよってつるみたいという欲望をとにかくみたしているだけなのだから。インターネット文化がなければ、怒りの感情だって「感じて」いたかかなり怪しい。なぜこういうことになるか。たぶん、つきつめていけばくだらないぐらい単純なこと、インターネット文化をつきはなしたうえで多少なりとも肯定できるところをひろいあつめていないから。つまり、インターネット文化のなかの自分をまっとうに自己肯定していない、これにつきる。
わたしは、インターネット文化が社会の中の自身のことを無かゴミとしてあつかっていることをはっきりさせたのは、2019年の元農水事務次官長男殺害事件だったと考えている。歴史認識の手法を使ったら、このことはほぼ確実であることがはっきりする。
理由は簡単、たとえ命を究極にダシにしたコミュニケーション(無差別殺人を起こすぞという発言をちらつかせた)をとっている人であっても殺してはいけないのに、「死んでいい」「殺されて当然」「親が殺して当然」と事実上言い切ったからだ。これはもう取り返しがつかない。人生の安売りを買い戻すのはおそろしく高くつく。
わたしは、今日の午後のあるときそのことをはっきり確信した。
黄金頭氏(めんどうなので、関連づけしないことにする)は、すさんだ生活をしていても求道的な言動をしていたので、この問題の核心を言い切らない黄金頭氏の卑屈さを見て見ぬふりをしてしまった。わたしはまどわされてしまった。黄金頭氏の読書量を中心にした経験値にまどわされたのではない。しかし、こんなものにまどわされたわたしは心底情けない。浄土真宗は、文字一つ知らない信者のための宗教だった。それが読書量などという本質的にどうでもいいものにすがるなど、まどわされたとしかいいようがない。
もっと問題なのは、インターネット文化の問題がバーチャルという技術を基礎にしているというより、売れるパワー第一主義とシニシズムという文化の基礎技術を基礎にしているから、きわめてやっかいなのである。その問題の帰結の一つは、自分が死んだってどうでもいい、つまり自暴自棄ということだ。
インターネット文化をまるごと捨てたい、せめて、インターネット上であってもなくても「いいね」で自己固定をするのは根本的に全部意味なし、20年ぐらい前のポストモダンがほぼ同じ問題をもっていた。そういう基礎にたってこれから発言していく。