『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

(途中で中断したメモ)最近の創作活動というのは、当事者(たち)がまっとうな思考をしているかどうか? は問わなくていいらしい――「「イベントで3回連続誰も来なかった」描きたいものとやる気さえあれば一人でも続けることは可能/カレー沢薫の創作相談」について

「イベントで3回連続誰も来なかった」描きたいものとやる気さえあれば一人でも続けることは可能/カレー沢薫の創作相談

最近、まっとうであるかどうか、ということについて考えている。いや、わたしはずっと前から、まっとうかそうでないかについて考えているのだったと思うが、まあ、それはどうでもいい。

「イベントで3回連続誰も来なかった」描きたいものとやる気さえあれば一人でも続けることは可能/カレー沢薫の創作相談

この記事の内容では、創作活動について確かにいくつかの重要な洞察が書かれていると思う。しかし、創作をはじめたりやめたりする理由はいろいろ考えられるが、実行する人とふみとどまる人のちがいは、単純に「才能」とよぶべきなのだろうか。「耐えられる「能力」は単純に才能とはいえないんだけど、とりあえずそういっておきます」と書いてくれたら、わたしは「誤読」しなかったのだが。
ここで、ゴッホアンリ・ルソーの例をだそう。
ゴッホの場合、ほとんど指摘されないが、最晩年の傑作群を描いた1888年から1890年の間、絵を売りに出していたのである。なんといっても、画商のテオが作品をひきとっていたのだから。wikiに掲載されているこの時期の作品を見るかぎり、たしかにカフェの画や夜景の画など、暗い絵もあるのだが、少なくとも構図は普通の(?)風景画もあり、性根がひねくれてしまって、売れないような絵を描いていたわけではない。このあたり、ゴッホの手紙にどう書いているのかはわからないのだが。
先鋭的な作品が売れるかどうかについて、ゴッホの場合、1つ、興味深い事実がある。
確実に1枚だけ売れた絵、「赤いブドウ畑」(1890年にアンナ・ボック氏が購入)は、農民が3人以上描かれている数少ない絵である。これは、ゴッホが尊敬していたミレーの有名な作品のいくつかと同じである。つまり、ある意味で「重苦しくない」。
よくいわれるが、ゴッホの絵はなんだかよくわからないが、暗い。ゴッホの作品をテオが価値が上がるまで手元に置いておいたという大胆な説もあるようだが(新関公子氏の『ゴッホ 契約の兄弟―フィンセントとテオ・ファン・ゴッホ』)、まわりのゴーギャンロートレックやモネやガシェ医師が金を払ってでも欲しがったというはなしは聞かないのだから、おそらく、拒絶されがちな作品だったのだと思う。

(中断)
なんにせよ、ゴッホは耐え続けた末に、おそらくは発作的に自殺し、そして驚くべきことに、一番の協力者のテオは精神病になって死んでしまった。2年、たしかに忍耐である。しかし、こういう忍耐を「才能」で片づけたくない。なにかにすがりつこうとしなければ、不可能だろう。

アンリ・ルソーの場合、たしかにあの忍耐は「才能」といっていい。しかし、考えれば考えるほど、不可解な「才能」である。古典的大画家といいながら、ずっとアンデパンダン展に平然と出し続ける。自分は『ドラえもん』ぐらいの大衆的作品を描いているといいながら、『ガロ』(いまは跡形もない腐った連中が編集している雑誌になったそうだが)に出品しつづけるようなものだ。借金を返すために後にも先にも(ほとんど)描いたことのない砂漠の絵をかいて、それが傑作になっている。
そういえば、若いころに金がないピカソが、たしか5000円だったから50000円だったか、5フランでルソーの、女性の肖像画を買っていた。そのピカソは、ルソーに奇妙な事をいわれた。そして、もともと頑丈だったこともあるが、長生きした。

(中断)

創作者の多くが反応だの比較だの嫉妬だのと「他人」を意識せず、自分の書きたいものを自由に書きたいと思っているものです。
私だって読者の反応とか本の売上とか気にせず「俺の本が置いてねえ本屋の空気うめえ」みたいなモチベでマンガが描ければどんなに楽だろうと思います。
しかしそれが出来ないから1日1万回怨嗟のエゴサーチを行い、その道中で他作品のアニメ化発表に被弾して余計やる気をなくすという愚行を繰り返してしまうのです。
そんなことしなくても描けると言うならやはりそれは才能なので、その点に自信を持ち、これからも宣伝や交流などに気を取られず創作に集中していただければと思います。

「自分の書きたいものを自由に」?
わたしの場合、ここにまずひっかかる。「適当に」と混同しているのだったら、わたしはおことわりだ。とても耐えられない。わたしのばあい、「まっとうに」と「自由に」は同時にすべきことであり、それ以外の創作には、「ひまつぶし」といってもらわないと困る。100兆円かけていたとしても、「ひまつぶし」は「ひまつぶし」でしかない。
「まっとうに」は「ある目的にむかって」といいかえてるべきなのだろうが、むずかしい。すくなくとも、そこに迷いはない。