『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『シュン@ひろしまタイムライン』の1945年8月17日―1945年8月21日、1945年9月2日―1945年9月5日のツイート(作業いったん終わり)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生・新井俊一郎さんの日記原文(1945年8月28日~9月4日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

 

【1945年8月17日】
突然、父が原村に来られた!
明日から、秩父に帰るため僕を迎えに来た。

が、秩父…帰れるのか? 父ちゃんの身体は大丈夫なのか?
先日の爆撃で大怪我を負っているというのに…

【1945年8月17日】

廣島の家に再び帰ってきた。
たった五日ぶりだが懐かしい匂いがする。

大怪我しているのに母は、弟を疎開先まで迎えに行ったらしい。

【1945年8月17日】

母が、弟の嘉彦を連れて帰ってきた!
母の顔は打撲のせいで化け物のように腫れ上がっている…

久しぶりだな、弟よ。おかえり。

【1945年8月17日】

僕が原村にいる間に、父母は家に残す品物を床下に埋めて、秩父へ送る行季や布団包みなどの大荷物を廣島駅へリヤカーで運んだらしい。

僕たちは、持ち帰る物や食糧の準備を開始。

【1945年8月17日】

遂に明日、出発だ。この大混乱の中、秩父まで無事に帰れるだろうか…。

【1945年8月18日】

無けなしの食料と貴重品、僅かな家財を詰める。母は大きな風呂敷包み、僕はリュックサックと手提げトランク。父は病人なので何も持たせられない。
半壊した自宅に鍵をかけて、出発。

【1945年8月18日】

うわ…なんだこの人だかりは
廣島駅のホーム。山のように散乱している瓦礫、数えきれないほどの血膿にまみれた避難民。

そしてあれは軍人か……?大荷物を何個も背に背負っている。

【1945年8月18日】

そうか…この人たちは復員してきた兵隊だ

【1945年8月18日】

何なんだこの大混雑ぶりは…これではホームに立っていることも出来ない
こんな中を、怪我をした家族四人が秩父まで行けるはずがない↓

【1945年8月18日】

だめだ。どの列車も人、人、人……。すし詰めだ。この汽車も乗れそうにない。もう何が何だかわからない
二本目の列車も見送る。

【1945年8月18日】

やっと汽車に乗る。
復員兵士を先頭に大群集が我先になだれ込む。
僕たちも無理やり乗り込んだが、肩が重なり、足と足が一分の隙もない。
一旦足を上げたが最後、宙に浮いてしまう。

【1945年8月18日】

網棚にも人が乗り、車内のむわんとした空気に圧迫され、息が出来ない。
衰弱しきった父を守ってここから秩父まで……

母が、もう汽車から降りようと言う。

【1945年8月18日】

一旦汽車から降りる。
帰ろうか。と父ちゃんがつぶやく。

しかし家に帰っても食糧はない。

【1945年8月18日】

呉線経由、しかも天蓋のない貨物列車だがやっと乗れた。
混雑も、先程の列車よりは少しはまし。

しかし、とんでもなく遅い。虫が這うような徐行ぶり。
一体向こうに着くのはいつになるのだろう…。

【1945年8月18日】
遅い。もう何時間も座っていない。
母、弟の様子も気になるが、父はひどく辛そうだ。

父ちゃんには、せめて座席に座ってほしいが、誰か譲ってくれないだろうか…?
いないだろうな。

【1945年8月18日】

汽車が止まった
全員下車だ。ここはどこなんだろう?真っ暗でどこなのかも分からない

【1945年8月18日】

どうやらここは呉駅のようだ。止むなく、今日はここで野宿することになった。

【1945年8月18日】

持ってきた夏布団に横になる。
駅から続くこの広場は少し傾斜していて、今にも下の方へ落ちていきそうだ。
秩父まで、無事にたどり着けるのだろうか?

【1945年8月19日】

最悪の目覚めだ。
体の疲れが全くとれていない。
これから、広駅まで行き、糸崎駅を出て大阪行きの列車に乗り換える。

【1945年8月19日】

猛烈な混雑ぶりは変わらないが、糸崎についた。
ここから大阪行きの列車に乗り換える

【1945年8月19日】

うわ…まさか、まただ
逃げ惑う避難民たちを押しのけて、抱えきれない大荷物を持った屈強な男たちが乗り込んできた!
支給されたばかりの新しい軍服。復員軍人だ…

【1945年8月19日】

唖然とする。
僕たちは、同じ日本国民じゃないか

【1945年8月19日】

窓の外に、暗い空の下でポツポツと家の明かりがついた家が立ち並んでいるのが見える。
父が六甲山のあたりと教えてくれる。

不思議だ。つい最近まで、明かりなんて、つけられなかったのに。
綺麗だ。本当に負けたんだ。

【1945年8月20日

焼け野原の大阪でまた野宿。
弟は足が痛いと言う。父ちゃんの具合も良くない。
僕が駅まで先導する。

【1945年8月20日

朝鮮人だ!!

大阪駅戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!

【1945年8月20日

「俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!」
圧倒的な威力と迫力。
怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を叩き割っていく

そして、なんと座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んできた!

【1945年8月20日

あまりのやるせなさに、涙が止まらない。

負けた復員兵は同じ日本人を突き飛ばし、戦勝国民の一団は乗客を窓から放り投げた
誰も抵抗出来ない。悔しい…!

【1945年8月20日

超満員で便所にも行けない。
立ちっぱなしの車内で、疲労困憊した父を庇う。
今どこを走っているのだろう?
人に埋もれて、ガタガタという音しか聞こえない。

【1945年8月20日

座席が一つ空いた。父ちゃんを座らせる。

【1945年8月20日

大井川を越えた。
父の隣に座っていた親切なおばさんが、席を譲ってくれた。
すぐに父が、ぐたっと横になって寝てしまう。

【1945年8月20日

「こんなときに、席を二人分占領しやがって!」
前の人が、母ちゃんに猛烈に食ってかかる。
「これは病人だから勘弁してください」
母が涙ながらに説明する。僕は何もできない。

勘弁してくれない。再び、僕たちで、なんとか父が座るのを支える。

【1945年8月20日

東京駅が完全な廃墟になっている。
乗り換えの列車待ちの間に、少しでも休もうと、駅前の日比谷公園の芝生で横になる。

家族みんなで、夕飯にする。

【1945年8月20日

母が風呂敷を広げる。
大豆の入りの芋弁当を食べよう。

【1945年8月20日

浮浪児に弁当を奪われてしまった。

襲いかかってきたと思ったら、あっという間だった。

なんで。どうしてこうなるんだ。なんで……

【1945年8月20日

上野駅にたどり着く。
地下道は、暗闇の中、無数の避難民や浮浪者たちがひしめき合って、割り込む隙間もない。

また、浮浪児がこちらに向かって歩いてくる。

【1945年8月20日

「おじさん、これあげよう」
なんと、その浮浪児が父に焼き芋をくれた。

ああ、食べものだ。信じられない…!

【1945年8月20日

今夜は、地下道で野宿。
ここまで目を覆いたくなるような出来事をたくさん見た。
これが、戦争に負けたということか。

【1945年8月21日】

熊谷に到着。秩父鉄道に乗り換える。
混雑は、ずいぶんマシになった。

8月20日にシュンが発信したツイートについて、お問い合わせなどいただきましたが、これはシュンのモデルとなった人物の手記やインタビュー取材での実際の表現にならったものです。詳しくはNHK広島放送局のHPにある「ひろしまタイムライン」へ。

6月16日・8月20日にシュンが発信したツイートについて多くのご意見をいただきました。改めてご説明させていただきます。詳しくはNHK広島放送局のHPにある「1945ひろしまタイムライン」をご覧ください。

「1945ひろしまタイムライン」のツイートはすべて、NHK広島放送局の責任で行っています。被爆体験を継承し、当時の社会状況を伝えるプロジェクト本来の目的を的確に果たしていくため、必要に応じて注釈をつけるなどの対応を取り、当時の日記や手記などに基づき掲載します。

シュンの紹介はスレッドへ↓



★スタッフからのお知らせ★

1945年8月21日の夜、両親のふるさと、埼玉県の秩父にたどり着いたシュンちゃん。
母親の実家と父親の実家を行き来しながら、たくさんの親戚との共同生活が始まりました。

【1945年9月2日】

もう秩父へ帰ってきてから、
十三日がたった。

【1945年9月2日】

本当なら昨日までには廣島へ帰っていなくてはならなかったのだが、このような非常時であるため、少し遅れても構わないそうである。

【1945年9月3日】

頼まれたのでジャガイモを煮て昼飯にした。
こっちのジャガイモはほくほくしてとても美味い。廣島で食った配給の芋とは大違いである。

【1945年9月3日】

赤ちゃんと遊んだが、珍しいくらいにおとなしい赤ちゃんだった。伯母さんも育てるのがとても楽だと言っておられる。

【1945年9月4日】

今日も変化はない。本を読む。
今僕には本を読む以上の楽しみがない。

【1945年9月4日】

母の実家で、母たちが蚕の世話をしている。自分も手伝う。
この白い色の綺麗な蚕から立派な糸が出ると思うと面白い。
桑を与えれば大きな頭を振って食べている。

【1945年9月5日】

夜はかゆくて眠れなかった。
あげくに朝寝坊だ

【1945年9月5日】

大所帯の母の実家だが、皆不在でがらんとしている。
大急ぎで、母、父、弟で朝食をとる。

【1945年9月5日】

伯母さんが、干してあるムシロを入れるのに大騒ぎ。
自分も手伝って、固めて縛り、二階の蚕室に入れた。
だいぶ力がいった。