『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや02 山西省 略あり


1919年三重県松坂市生まれ
1934年松坂第4尋常高等小学校卒業後、印刷所で働いた後、松坂郵便局勤務
1940年現役兵として独立混成第4旅団歩兵第14大隊入隊
 中国山西省で治安維持活動にあたる
1945年山東省で終戦を迎える
1946年復員・松坂郵便局に勤務

[1] 中国・山西省へ 06:08
[2] 厳しい訓練中 自殺者も出た 05:22
[3] 治安維持区でも油断できなかった 03:08
[4] 討伐と宣撫(せんぶ) 05:12
[5] 八路軍の襲撃 03:14
[6] 誰が兵士で 誰が住民なのか 03:40
[7] 過酷な尋問 02:41
[8] 分遣隊の任務 08:24
[9] 協力しない村への報復 06:22

[1] 中国・山西省へ 06:08
兵隊にいかなんちゅうことはあの国民の三大義務でさあ、せやで必ず20歳になったら兵隊に行かなんちゅう意識はありましたわな。必ずいかなんと。兵隊に2年間はいかんなんという意識はありましたな。
Q:行きたいかどうかは関係ない、行きたかったわけではないですかね?
そうそうそう、もういやでもこうにもいかなんだもんなあ。あの甲種合格すれば、あの体が悪くて行けやん場合は仕方ないけども、それ以外は健康体やったら必ず行かんならんで、そういう事情でしたな。
Q:中村さんは行きたいと思ってましたか?
行きたいとは思っとらないけども、必ず行かんならんとは思ってましたわな。
まあ官費旅行のつもりでおりましたわな、あはは。知らん土地になあ、2年間の約束やもん、それが5年間になってしもたんだもん。なあ、2年間行ったら帰ってこれるという意識がありましたやんなあ、それが昭和17年(16年)の大東亜戦争が勃発してさ、おじゃんになってしもうてまた3年追加しちまったんやな。それだけのことです。反戦意識も全然、そういうことはありませんわな。反戦意識って全然なかったなあ、なんで戦争しとるんや、というそういう懸念だけ。そうやんな、私にとってはな。なんの戦争かわかりませんだ。
目的ってのは全然伝わってこないもん。ただ、天皇陛下のために、お国のために尽くせっちゅうだけの信念だけやもん。それだけ押し付けられとるわけです。それだけのことです。反戦意識も全然そういうことは、影にも思ったことはない。戦争いやだなあっていう意識は全然なかった。
今の大阪南港、南港から出航しましてね、瀬戸内海を経由して、プサン(釜山)経由で塘沽(タンクー)っていう港へつきましたよ。塘沽って零下25度くらいでしたよ。私な、ぱたーんと倒れてしまうてな、気ついたらどっかへ運ばれて、運びこまれとった。パターンと倒れるんやもの。
Q:なんで倒れた?
寒さで。零下25度くらいやった。無意識にばたーんと倒れるんやもん。あれびっくりしたなあ、すぐに意識回復しましたけどな。
それから結局まああれはタンクーは北京の端ですもんでな、それから列車に揺られて山西省、山奥へ行きました。コトンコトンと一昼夜かかって。
Q:ついて初めて山西省ってわかった?
そうそうそう、行って初めてわかった。ついて初めてわかった。
Q:そのときの気持ちは?
そのときの気持ちですか。気持ちって、みんな一緒に来たんやからね、みんなおんなじ心持でっしゃろ。同僚が横にいるさかい気強いことは気強い。自分ひとりじゃないから。それは大丈夫でしたわ、一人ぼっちっていうことはないがな。団体で80人の三重県から80人のもんが寄り集まってきとんのやさかい。それは全然なかった。
Q:独混旅団の任務は?
山西省の治安維持。治安維持よな。共産軍とのいさかいを抑えるための治安維持よな。それだけのことです。
Q:前線で作戦任せられるという感じではなかった?
そんなことない。それはなかった。ただ共産軍があっちゃこっちゃ出没しますやろ、それを押さえに走りまわっとっただけのこと。
[2] 厳しい訓練中 自殺者も出た 05:22
大変でしたなー。みんながやるさかいに自分もやったけども、それはもう大変でした。泣きたいくらい、そのときにやっぱり帰りたいっていうような意識が芽生えとったけども。もう帰りたいなあっていう、内地に帰りたいなあっちゅうあれが。
大体向こうに着いて3か月くらいは大丈夫やってんけどな、3か月こえるとな、厳しい、訓練も厳しなってくるし。やっぱりそういうなあ。帰りたいっていう望郷の念っちゅうかな。それは確かにありましたな。
Q:なんで帰りたくなっちゃうんですか?
やっぱりあの、自分は妻とか子供はないけども、親心配になんねん。私は特になあ、郵便局が休職でしたもんで、お金のほうは全然入ってこなかった。お金の援助が全然なかったもんでな、病気が心配でしたわ。
それであの、軍隊8円80銭の給料の自分から毎月5円ずつ、5円仕送りしました。5年間ずっと続けて、仕送りだけは1回も忘れんとな、やってました。まあなあ、せめて生きて帰るぞっていう意識はあったなあ。
ほかにはかえる飛びっちゅうて、こう半分こうなこういう具合になってこう飛ぶやつがあるん、それで1キロばかやらされるやつがあるん、ありゃあえらかったなあ、かえる飛びっちゅう。きつかったあれは。
そりゃあほふく前進はええよなあ、けどかえる飛びだけわな、これにきますもんなあ。えらかったあれは、みんなやるさかいにやった。
Q:体力的にしんどい?
そうやんな、精神的もあるけどもな、自殺した人もありますけどな。精神的にまいって。同年兵で、もう入ってな3月くらいで、これして、首つり自殺。それが2人ばかりいました。
Q:理由はなんですかね?
やっぱり精神的なあれやろな、圧迫やろうなあ・・それしかありまへんやろ。我々は耐えてきたけど、それをよう耐えてこんだ人がなあ、やっぱりなあ自分で命を絶つっちゅうことやわなあ。弱弱しい男やった、ちょっと精神的に、精神的にまいったような顔した人やった。
Q:じゃあ同年兵の人が自殺したときは何を思った?
いや、なんとも思わなかったんだけどなあ・・・そういうこともありうるんやろなと思う、それだけのことです。別に詳しくも知らせなかったもん、ひそかに処理してもうたわ。その分隊の人から聞いて初めてわかったんやけどさ。本当の事実は、事実は知らないもん。
Q:隠されてるんですか?
隠されてる、全部隠されてる。そりゃあもうな、何もかも隠ぺいの世の中やな。
[3] 治安維持区でも油断できなかった 03:08
訓練厳しいけどもまた、楽しいとこもありました。休みあるもの。酒保(軍隊内の売店)行ってさ、酒保ってご存知ない。そう酒保な、酒保いって一杯飲んだりさ、ぜんざい食べたりうどん食べたり、そんな楽しみがありましたわな、8円80銭の給料から。一番初めは8円80銭やもん。
Q:街に出かけたりも?
いやああ、はじめのころはできない。山西省ではあきまへんやろ。山西省山奥で、周り城壁でかこわっとる中おるんやねんでや。外に出るっちゅうことはめったにない。鉄砲もってたら出るけども、鉄砲もっていない間は出られん。
Q:危険なんですか?
危険。それはそうやがな、全部中国人ばっかりやろ、共産軍やって中国人やろ、服装一緒やろ、便衣のあれを着とるだけのもんやでな、わからんやろ、敵味方っちゅうか敵は全然わからん、せやでうっかり出られん。
宣ぶの効いたとこやったらよろしいやけどもな、宣ぶの効いてないとこやったらちょっと危険や。
Q:一応占領地ってことになってはいた?
そうそうそう、治安維持区やな、治安維持区っちゅう地区やな。そういう状態の土地やな。
Q:それでもちょっと出るとあぶない?
もうあかん。共産軍のあれやもの。
Q:じゃああんまり占領できてなかった?
完全にはな、完全にはなってなかった。北京あたりはよかったけどな、山西省みたいな山奥まではそんなこといかんもの。北京だとか天津な、上海とかそんなとこはさ、完全にもう掌握されてたからよかったけどな、それ以外の山奥ではそんなこと全然ない。
(略)