『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや01 山西省 略あり

1920年滋賀県栗太郡(現・大津市)に生まれる
1940年独立混成第4旅団独立歩兵第12大隊に入隊し中国山西省
1944年京漢作戦(コ号作戦)後、第62師団歩兵第63旅団に編成され沖縄へ
1945年9月投降 戦後は東レに勤務

[1] 山西省へ 13:48
Q:山西省に行って軍隊に入ったばかりのころは、どういう生活だったですか?
入ったばかりはね、私は当時機関銃、兵士にされてましたからね。思い出しますわ、昭和15年12月16日ですか、16日か、そこらに着きましたもんですからね。そして早速、古い兵隊が、「よう来よったな、新兵が来よったなあ」ちゅう調子で、ダーッと出てきて、まあ迎えてくれたんですね。「ほう、これが機関銃の精鋭か」なんちゅってね、震えて。いてくれたんですね。それから機関銃の訓練が始まって、そしてそうですね、ちょっと日にちを忘れましたが3月の末だったと思うんですわ。あの検閲、部隊長が見るんですわ、どのくらいできとるかちゅう。そうすると本番、将校やらなんやらがだーっと連なってね、腕章つけてね、ずらずらずらずら見に来る。そしてその演習やる、そこを見るんですね。私が機関銃は1、2、3、4。4人いるんですがね。そして弾薬手がずーっと。4人のうち3番につかされました。「山元3番につけ」。3番は何かっちゅうと予備射手ですわ。そして4番が射手。「ははあ、これは予備射手。うん、これは途中で射手交代あるな」、そう私は予期しとりましたがね。そしたら案の定、「射手交代」って上から言われましたわ、検閲官から。腕章巻いたのが、「射手交代、射手交代」。そして機関銃についてね、やりました。それから最後までつかされてね、最後は突撃ですわ。やっぱりそういう具合に教えられてるんですな。「機関銃の主要な任務は、熾盛なる火力をもって第一戦に活躍し、歩兵戦闘の機微に応じて戦闘の要求をいかんなく充足するを要す。状況これを要すれば、おのずから突撃を敢行するが違なかるべからず」。こういう、そのやっぱひとつの教えがあるんですわ。最後はね、突撃ですわ、「わあーっ」と。日本の軍隊。そうそれにやっぱり合わして突撃せないけないですわ。4人、機関銃持ってね、ばーっと突撃する。まあそういう状況でしたね。
Q:教育訓練てのは結構大変だったんですか?
そうですね、まあ大変だ。そらもちろんね、張り切ってましたからね。ま、あれですわ、起床ラッパが鳴る前には、ぼつぼつと起きる準備してね。おしっこに便所行きましてね。支那人が作ったそのままの便所ですな。そしてもうそのままごそっと、初年兵はね、この軍衣着ますね。服を着たまま、着てちゃんとして便所へ行かんと怒られますよ。それで帰ってきたら、そのまま寝るんです。♪タタタタ タタタタ タタタタ タ~~。ラッパの音ね。♪~~~。するとそのままムクッと起きるんですよ。そんなことしてね。こうしてね、起きると同時に、「出動規制、丙」という服装をしてね。私はそういう服装にバーッと、何しても早いことできるようにね、訓練されたですよ。そして、その順番に点呼にダーッと。営庭で点呼でしたからね。昔のその完全な軍隊の、そういう点呼じゃなしに、営庭バーッと並ぶんですわ。その走ってって。簡易軍装したら、まあ簡易軍装いう程じゃないですけど、「出動規制、丙」の服装ですから、出たもんですわ。そして、順番に並ぶんですわ。やっぱり毎度ビリに並んでられませんよ。演習では苦労しましたわ。なかなか小銃のね訓練はきつかったですよ。私が思うとね。かえって機関銃の訓練のほうが楽だったなあと思うですな。小銃の訓練、小銃持って普通の「出動規制、丙」の服装ですけどね、背中にしょって、弾入れ持って、ちゅうもんですな。そこで小銃は訓練を受けるんですけど、そうすっとね、ガスを・・
Q:ガス?
ガスのね、訓練なんかなるとね、そうすっとこれが一つのあれですと、城内ですと、南北には必ず大きな門がありますわ。すると門出て、そしてダーッと麦畑やいろんな畑がある、そこで訓練受けてね。帰りもそうすっとね、「駆け足―」。まあ中隊まで相当距離ありますけど駆け足ですよ。ダダダダ、そうして「ガス!」。そうすっと鉄砲から肩へこういわしてガス面かけてね。
Q:ガスマスクみたいな?
ガスマスク、やるんですがねえ、そこらはきつかったですな。ダダダダ、そうすっと、はあはあはあ、これが早うなってくるでしょ、走ると。それと一緒に同じようにおうてくれんですわ。ぴしゃーっとしてますからね、苦しいですな。それでもう何も言いとられんです。指つっこんでこう。そういうことしてね、走っとった。
Q:訓練のときガスは、たくんですか?
実際はたきません。たきませんから、うっと指つっこんでね、空気を入れて息するんですわ。まあ、「ガス!」と言うとね。どういうとき使うんかと・・まあ普通(相手に)使われてその面をつけるんじゃなしに、こっちが使わならんから面をつける。そういうことが多かったですな。
Q:実際に使ったことは?
ああ、ありますね。あります。
Q:どういう状況で?
たとえばね、ここのトーチカ、敵のトーチカに遭遇したと。そういう場合にバンバンバンバン撃ってるよりね、ガス焚いたほうがらちがいいんでしょうな。隊の上の方ではね。
Q:じゃあ命令が来て。
そうですね。
Q:結構風向きとか難しいですよね
そうそう。風向きで、やっぱり風上で。ここが来てるとしますとね、向こうから風来とるとこっち行かないけませんしね、難しいです。なかなか百発百中とはいきませんわね。かえって弾撃って、大砲でも撃ってやってるほうが、らちがいいでしょう。
Q:山元さんのときはうまくいった?
まあ、そうですね。いきましたね。まあ、そう回数あるもんじゃありませんしね。
Q:当時、あか筒とかって呼んでたって。
私は実際にガス兵じゃないですから、ガス兵ってのがまた別におりました。私はそのガスの被害を受けんように、ただ装着するだけであって。またガス兵っちゅのが専門に教育受けてきたのがいますから、ガス兵っちゅうのが。それがまた使用するんですな。それの被害を受けんように面をつけると、まあこういうことですな。
[2] 刺突訓練 05:32
私は入隊して3日目に突かされたんですわ、3日目にね。「突くの嫌なもん手あげい」、そしたら、ひとり手挙げたんですわ。「おい、貴様それでも日本人か、軍人か」、バーンバーンバーンバーンいくつ殴られたか知らんけど。
Q:断れないわけですか?
いやいや、だって手挙げたらそれですよ。嫌だって手挙げた人はそれですよ。1人だったですわ。他の人だって挙げたいけど挙げらませんわ。それがね、こっちでもね、ひどいもんなあ、いや、あれはちょっとこう木の枝にロープを引っかけて、こうして手をぐっとくくって、だーっと上がるんです。だーんと下へつくんです。またがーんと。折れちゃうんです。あんなことしてもなあ。
Q:刺突の訓練はみんな突かされたんですか?
そうですね、やっぱりね。
Q:1人に対して何人かということですかね?交代でという感じですか。
うーん、まあ、まあね、初年兵のときにね、まあ本科におるとどうしても気が荒い行動が出ますな。まあ私はそうですね、最後は通信に行きましたが、もうこれが気性ですからね。ちょっと、ちょっとそういう方面とは離れますけどね。
Q:最初のころはどうしても、そういうのがあった?
そうねえ
Q:でも入って3日目っていうのはいきなりですね。
そうねえ、3日目、そんなもんでしたね。多分、多分そうでしょう。
Q:ずいぶんびっくりしたんじゃないですか?
何が何だか分からんですわ。ね。何が何だかね。
Q:今ふりかえって当時の戦争をどういうふうにお考えですか?
私ねえ、まあ難しいね・・まあどういうふうに言いましょう、結局は、まあ最後に、無茶な戦争やったなという感じですな。しかしあそこまで徹底してな、やらんといかんのかなとも思いますね。
[3] 百団大戦の傷 03:30
Q:山元さんが着いた昭和15年、その年の夏ごろには百団大戦がありましたが。
そんで私らの先輩のね、1年先輩はね、ここらで言うたら京都のタカシマはんとかね、あそこらは、1年古いんですなあ。百団大戦に遭遇してるんですわ。私らが初年兵のときの機関銃の、その中の人に話聞くとね、なかなかすごかったらしいですわ。
Q:当時被害の跡はあったか?
うん、被害の跡と言いますとね、そのやっぱり墓標が・・私らの中隊の隊員でしたからね。大隊を数隊の中隊に分けてね、住まいしとりましたからね。そうですね、あれ、ヨシダショウイチ。ああ思い出すと、ヨシダショウイチという方でした。中尉、陸軍中尉、故陸軍中尉ヨシダショウイチなんてその墓標がね、ずーっと10本かなんぼか数多く立ってました。ずらーっと。
Q:それは街の中に?
いや、中隊の区画。
Q:駐屯地に?
その駐屯しとる区画の中に。
Q:じゃあ、大勢死んだってこと?
まあ大勢死んだんですね。まあ、1年上の人でね、その当時機関銃にいた2等初年兵ですな、「苦しかった」って言われまんな。「弾運びでも、なんとも言えんかった」って。ボンボンボンボン撃ちまくるしね。弾ひとつ送ってく、ビュンビュン飛んで来るしね。身をこうすくめて弾を届けに行かんしね。
(略)