『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「梶村秀樹先生著作群および入手可能な追悼文から追跡した、竹内好氏への言及、約11点のメモ」を関係団体3者におくりました。以下、引用部分をへらしたうえでメモを公開します。

以下、送ることを急いで洗練された記事内容になっていないことになることを事前にお知らせします。


20240411
■00―■40、収集した梶村秀樹先生執筆の記事203点(txtファイル形式で約9.5MB)から題名と発表年と「竹内好」がふくまれている部分の引用。
梶村秀樹先生著作群から該当の記事11点を発見。
梶村秀樹先生は竹内好氏の1964年の発言にほんとうに驚いている。また、梶村秀樹先生は、竹内好氏への愛憎をその後20年以上継続してかかえながら生きている。このことをはっきり確認した
■40―■59、『梶村秀樹著作集各巻月報』『遺文と回想』『追悼梶村秀樹さん(「故梶村秀樹先生をしのぶ市民の集い」実行委員会・刊)』『梶村秀樹さんと調布물레の会』のOCR処理後などの分を全文検索。すべての追悼文に「竹内好」がふくまれていないことを確認。ざっと50人以上が書いた追悼文で、1人しか言及していないというのは、重要な事でないからではなく、きわめて重要で深刻な事だったから、と判断すべき。
追悼文に単語「竹内好」がふくまれているのは、「梶村秀樹先生を悼む」(住吉高校  印藤和寛、『むくげ』119号1989.9.18)のみ。以下、引用。
「もう五年も前、その年の「歴史講座」の第一回(84年11月17日)に梶村先生を東京からお招きし、夜、近くの中華料理店で運営委員会のメンバーと会食の後、上本町の宿舎へ先生をお送りした。そのロビーで、別れ際に、気おくれしながら「昔、竹内好さんと論争された時のことなど、もっと色々お聞きしたいことはあったのですが……」と言うと、先生は「私こそ竹内好さんの一番の弟子だと思っでいます」とおっしゃった。その言葉が妙に納得されて、いま、中国のことを聞こうにも竹内好なく、朝鮮のことを聞こうにも梶村秀樹またなしという有様で、拠り所とすべきかけがえのない人を失った無念の思いがつのる。」
■01ー■23
他、メモなど追記


他、単行本『朝鮮現代史の手引』に竹内好氏の1964年のアジア主義再評価論についての批判論文の紹介がされている。
朝鮮史研究における内在的発展論』(1987年の論文、吉野誠)に竹内好氏についての言及あり。吉野誠氏は梶村秀樹先生と親しいと推測される大学教師。


竹内好氏の「アジア主義の展望」の一解釈」[1964年]

「 竹内好氏の「アジア主義の展望」(筑摩書房刊『現代日本思想大系』第九巻の解題)は、率直にいって私には理解困難な論文である。なぜ、今日、少なくとも「見方によっては徹頭徹尾侵略的な」玄洋社黒龍会をあのように評価しなければならないのか?」(全体の1%の位置)
「 (略)「民衆」のエネルギーが、もっと別の契機によってやはり体制の側にみごとに結集されているというのが今日の状況ではないか? 歴史は一九四五年以来停止しているのではなく、「民衆」は任意の思想によってどうにでも動かされる受動体ではなく、時に思想家をはるかに追いこしていることがあるのだとも思う。」(全体の約60%の位置)



「朝鮮近代史の若干の問題」[1964年]

「最近、竹内好氏は「近代国家の形成と膨脹主義とは不可分であって、このこと自体に是非の別はなかろう」(「アジア主義の展望」現代日本思想大系九『アジア主義』、筑摩書房、一九六三、所収、二一頁)として、その主観的意図にかかわらず、正当防衛論に近い必然性論を提起している。たしかに、歴史はぬきさしならぬ必然性の連続であろうが、それは当時の条件を考慮にいれても、天皇制政府という主体ぬきにしての必然性ではない。今日からみて「あの場合、ああなるよりほかなかったのだ」と一般的にいえるものではない。」(全体の約72%の位置)


「日本人の朝鮮観」の成立根拠について――「アジア主義」再評価論批判」[1964年]

「 最近、対韓再進出が強行されようとしている状況の中で、竹内好氏・判沢弘氏らが再評価・複権を要求しているのは「アジア主義」のこのような側面であろう。それは、現時点での資本の要求にまさにおあつらえむきであり、実際、内閣調査室などからの資金で発行されている「日韓会談」推進のためのパンフレットや「自民党日韓会談促進PR要綱」は同様の論理を前面におしだしている。しかも竹内氏らは意図的デマゴーグとしてでなく、主観的には反体制の側にたちながらこのような主張をだされているだけに、その説得力に対して我々は危惧を抱かざるをえない。」(全体の約71%の位置)


「現在の「日本ナショナリズム」論について」[1965年]

「歴研の内外で、戦前講座派の理論体系の延長線上に、今に至るまで、「真の近代化未実現論」とともに、「真のナショナリズム未成立論」が、くり返し表明されている。支配のイデオロギー、また大衆意識も、状況の変化によってそれなりの変改を行なっているのに、歴史学は、いまなお戦前的な発想の枠組みを基本的に踏襲して、その思想的遺産を食いつぶしているにすぎないように思われる。このような状態のために、戦前の轍をふむどころか、今日のイデオロギー状況にのみこまれてしまう危険さえ大きいのだと思われる。ある意味では、例えば「アジア主義の展望」における竹内好氏や、或いは三流の思想家にすぎないとはいえライシャワー氏も、戦前講座派或いは戦後歴研の忠実な学習者として自己を主張することができると思われる。」(全体の約85%の位置)







「朝鮮からみた現代東アジア」[1969年]

竹内好氏をはじめとする若干の中国研究者が、日本人のアジアに対する責任の問題に固執してきたのは、この意味で当然であろう。」(全体の約96%の位置)



「排外主義克服のための朝鮮史」[1971年]

「日本の帝国主義が形成される過程の権力と大衆の大部分もそのイデオロギーに巻き込まれていたが、一群のアジア主義者だけはそうではない、それは我々が引き継ぐべき伝統だという問題意識、アジア主義者の系列を再評価しようという問題提起を、例えば竹内好氏のような人すらが日韓闘争のころ、「日韓親善」イデオロギー攻撃が激化しているさなかに提起された。僕はたしかめてみたわけではないけれども、竹内好氏は少なくとも所説を今は撤回されているんじゃないかと思いますし、個人的なレッテル貼りをするつもりはないんですけれども、僕らがむしろ驚き、容易ならないと思ったのは、その一声に応じて「そうだ、そうだ」と、この観点を支持するエピゴーネンが、右翼ならともかく左翼らしき部分の中から続出したことです。」(全体の約25%の位置)
「当時の竹内好さんは思想的な良心をかけてそのような発言をされたと思います。主観的には、むしろ大真面目で、無意識のうちに独善を出してしまうという例であるからこそ僕らは、むしろこれを自分の問題として重要視しなければならないと思うのです。」(全体の約28%の位置)



自由民権運動と朝鮮ナショナリズム」[1973年]

「 朝鮮の歴史をやっている日本人は多くはないが、たえず朝鮮の歴史家からいろいろな批判を受けることが多いという幸せな立場にあるということもあって、本当は連帯の伝統とはいえないものをあまく評価しちゃいけないという意識が先に立ち、そういう目で竹内好さんなんかの書いているものをみると、こんなことを言っちゃあやはりダメではないかということをまず感じるのが実情なわけです。言いかえれば、連帯の伝統と言いうるものはほとんど絶無といっていいような状況というものを、近代史のなかに一貫して捉えていかなければならないのではないか、という感じが絶えずつきまとっているわけです。」(全体の約19%の位置)





「亜洲和親会をめぐって――明治における在日アジア人の周辺」[1977年]

「 竹内善朔「明治末期における中日革命運動の交流」(『季刊中国研究』五号、一九四八・七、中国研究所)、坂本清馬「我観中国」(『中国』一九六九年以降連載)、小島晋治・伊藤昭雄・光岡玄『中国人の日本人観一〇〇年史』(自由国民社)、小島晋治訳・解説「劉師培『亜洲現勢論』」(『中国』一九七二年二月号)、景梅九(大高巌・波多野太郎訳)『留日回顧――中国アナキストの半生』(平凡社東洋文庫)、ファン・ボィチャウ(長岡新次郎・川本邦衛編訳)『ヴェトナム亡国史他』(平凡社東洋文庫)、[#「ファン・ボィチャウ(長岡新次郎・川本邦衛編訳)『ヴェトナム亡国史他』(平凡社東洋文庫)、」はママ]早稲田大学우리同窓会『韓国留学生運動史』(同会)、『大韓毎日申報抜萃録』(青丘大学出版部)、朴殷植『韓国独立運動之血史』『韓国痛史』、『幸徳秋水全集』(明治文献)、『堺利彦全集』(法律文化社)、竹内好編『アジア主義』(筑摩書房)ほか。」(全体の約99%の位置)






「遠くからの追悼」[1977年](雑誌『朝鮮研究』第165号、1977年4月、P1に掲載。約2KB)

「 竹内好さんが亡くなったことを知って追悼の意を表したい気持が起こり、執筆を買って出た。なぜ「遠くから」なのかというと、私は生前の竹内さんとはいつも相性が悪かったからである。」(全体の1%の位置)
「 「アジア主義」の時もすれちがいっぱなしで、いまだに私の方が正しいと思っている。……追悼文らしくなくなってしまったが、要するに竹内さんにはあばたもえくぼもあり、自分のあばたをそれとして大事にするみごとな頑固親父だったと思う。そのあばたをえくぼのようにいいたてる崇拝者やエピゴーネンが多くて虫ずが走る。私は絶対に彼らより永く竹内さんの心を記憶にとどめるつもりだ。(梶村秀樹)」(全体の100%の位置)



「朝鮮からみた明治維新」[1980年]

「 ただ、例えば故竹内好氏の、それでは何をよりどころに日本人の主体性において未来をきりひらいていくのかという、もっとも根底的な問題設定に対しては、「連帯思想」を単に抹消するだけでは、無意味と感じられた。「アジア主義の再評価」を敢えて提唱された竹内氏の意図を(略)(全体の47%の位置)

「近代史における朝鮮と日本」[1987年]

竹内好氏のような人でさえ事実と認めてその思想を評価した(6)。明治の日本に朝鮮の民衆との連帯の志向が実在した例証というわけだ。だが、「天佑侠」が存在し朝鮮に渡ったことは事実だが、農民軍に参加した事実は全くない。すでに山辺健太郎氏によって、当初比較的嘘が少なかった関係者の報告に次第に尾鰭がつき、架空の物語ができていく過程が実証的に解明されている(7)。
 今から十余年前のことだが、私は「天佑侠」の一員であった井上藤三郎氏を訪ねたことがある。一八九四年当時は紅顔の美少年で最年少のメンバーであった井上氏は、夫人(?)の働く目黒不動境内の小さなラーメン屋さんの一室に、ほとんど寝たきりの不自由な生活を送っていた。恵まれた晩年とはみえなかった。しかし井上氏の記憶は明晰で、」(全体の31%の位置)



作業者メモ
2回ほど引用をあつめたが、結局どこかになくしてしまった。
著作群の電子化を先にすべきだと考えていたが、能登半島地震についてのインターネット文化の堕落を見て、IT技術が人間に最大限貢献できることをやるべきだと判断をかえた。
インターネット文化の堕落とは何か、「どの情報もいらないから金をくれ」とだれもいわない、そのくせろくでもないホンネの部分ではちらつかせている、ということだ。
私の判断では、情けない事に、反体制運動もそこにのっかってしまっている部分がかなりある、ということだ。
だから、わたしはいろいろ試行錯誤したうえで、判断をかえた。
著作群の電子化を2017年ごろにはじめたから、それから約7年、約2400日、やっと最初の大目的の一つにくぎりをつけることができた。確かに、何かを達成した。
しかし、できれば1人でも仲間がほしかった。そのことをつけくわえておく。
後で、追記するかも。