『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

トム=ソーヤーの冒険(マーク=トウェイン作、吉田甲子太郎訳)、第7章から第13章まで(一回目の校正おわり)

20240309
OCR、45枚(P110-P200)、20分
入力
■46-■01、15分、P131まで
■08-■24、16分、P143
■04―■34、30分、P169まで
■25-■54、29分、P199まで

校正第一回
7から12、各20分

7 だに遊びと仲たがい
 トムがいっしんに教科書にうちこもうとすればするほど、ますます、彼の心は、かって気ままに、本からはなれていこうとする。そこで、とうとう、ため息をもらし、あくびをして、勉強はあきらめることにした。彼には、昼休みは永久にこないように思われた。空気はまったく動かず、息ほどの風もない。ねむい日のうちでもいちばんというねむい日だった。二十五人の生徒たちが勉強するねむけをさそうがやがや声は、みつばちの羽音のような魔力で、うっとりさせる。ちえるような太陽の光をあびたカーディフの丘が、ちらちらゆれる熱気のベールをすかして、はるか遠くに、そのみどりの中腹を見せている。距離が遠いので、むらさき色にかすんで見える。二、三羽の鳥が空高く、ものうげに羽ばたいている。ほかに見える生きものといえば、何頭かの雌牛だけだったが、その雌牛たちも、やっぱりねむっていた。トムは、こんなところで、きゅうくつな思いをしているのが、たまらなくなった。せめて、なにかおもしろいことをして、このたいくつさをまぎらしたいと思った。彼の手は、ひとりでに、ふらふらと、ポケットの中へはいっていった。と、きゅうに、彼の顔は感謝の気持ちでかがやいた。この気持ちは、祈りといってもいいものだったが、トムには、そんなことはわからない。やがて、そっととりだされたのは、あの雷管《らいかん》の箱《はこ》だった。彼は、箱の中からだにをだして、長い平らなつくえの上にのせた。この虫も、たぶん、この瞬間には、祈りといってもよいほどの感謝の思いにあふれたことだろうが、それは、ちと気が早すぎた。というのは、だにが、やれ、ありがたやと、のこのこ、旅にでかけようとしたとたんに、トムが針のさきでむきをかえて、べつの方角へむかって歩かせたからである。
 となりの席にすわっているトムの親友は、トム同様、うんざりしきっているときだったから、この余興がはじまると、ひじょうによろこんで、たちまち、心をひきつけられた。この親友というのは、ジョー=ハーパーのことである。ふたりは、学校のある日のあいだは、神かけてちかいあった親友であり、土曜日になると、戦陣にあいまみえるかたきどうしてあった。ジョーも、えりのおりかえしから針をとりだして、この捕虜を運動させるてつだいをはしめた。このスポーツは、たちまち、ふたりを熱中させた。まもなく、トムが、これでは、ふたりともおたがいにじゃまをしあって、だにをじゅうぶんに活用していないことになる、といいだした。そこで、トムは、ジョーの石板をつくえの上にのせて、そのまん中に上から下まで、線を一本ひいた。
「さあ」、と、トムがいった。
「この線からそっちがわにだにがいるあいだは、おれは手だしをしないから、おまえがかってにだにを遊ばせるんだ。だけど、おまえがだにににげられて、こいつがおれの領分へはいってきたら、こんどは、おまえは手をだしちゃいけないんだぜ。だにがそっちの領分ににげていくまではね。」
「うん、よかろう、さあ、やれよ。だに、歩かしてみろよ。」
 だが、だには、まもなくトムの手をのがれて、境界線をこえてしまった。ジョーも、しばらくのあいだは、自分の領分にとめておくことができたが、やがて、また、だにはにげて、国境をこえた。この司令官の交替はひんぱんにおこなわれた。ひとりがむちゅうになって、だにを苦しめていると、もうひとりも、あいてにおとらず気を入れてのぞきこむ。ふたりの頭はいっしょになって、石板の上にかぶさって、ふたりの心は、ほかのことはみんなわすれてしまった。そのうちに、幸運はジョーにとりついて、なかなかはなれないように思われた。だには、あちらこちらへ、それからまた、べつの方角へとにげ道をもとめて、ふたりの少年と同じくらい興奮し、やっきとなったが、あわや、脱出に成功するかとみえて、トムが、指をむずむずさせて待つ、その瞬間に、ジョーの針がたくみに動いて、だにのむきをかえさせ、わがものにしてしまうのである。とうとう、トムはもう、それ以上しんぼうしきれなくなった。誘惑があまりにも強すぎたのだ。トムの針を持った手がのびて、ちょっとてつだった。すると、たちまち、ジョーはおこりだした。
「トム、手、だすなよ。」
「なんだ。ちょっとげんきをつけてやっただけじゃないか。」
「だめだよ。そんなこといけないんだぞ。手、だすなよ。」
「なにをっ! うんと、つっついたわけじゃあないじゃないか。」
「いじるなってんだよ。」
「おれは、いじるよ!」
「いけないよ――ちゃんと、こっちがわにいるじゃないか。」
「おい、ジョー=ハーパー。このだに、いったい、だれのだと思う?」
「だれのだにだって、そんなこと、かまわないよ――おれの領分にいるんだから、おまえは、さわっちゃいけないんだ。」
「なにい、きっと、いじってみせるから。こいつあ、おれのもんだ。なにがなんでも、おれかやりたいようにやってみせるぞ!」
 びしりと、ものすごいいきおいで、むちが、トムの肩にうちおろされた。同じすさまじさで、ジョーの肩にもおちてきた。ものの二分間というもの、ふたりの上着からは、ほこりがまいあがり、ほかの生徒たちはこれを見物してよろこんだ。ふたりの子どもはむちゅうになっていたものだから、しばらくまえに、先生が、しのび足で、近よってきて、ふたりのそばに立ち、教室じゅうが、しいんと、しずまりかえったことに、まるで気がつかなかったのだ。先生は、ひと役かって、ふたりの余興に、ちょっと目さきのかわった曲芸をつけくわえてやるまえに、トムとジョーの芸当を、かなり長いあいだ見物していたのであった。
 やっと、昼休みになった。トムは、ベッキーサッチャーのところへとんでいき、耳に口をよせて、ささやいた。
「ぼうしをかぶって、うちへ帰るふりをおしよ。あのかどまでいったら、うまくすりぬけて、あそこのろじを通って帰ってくるんだよ。ぼくは、ほかの道からいくけど、やっぱりみんなをごまかして、にげてくるからね。」
 そこで、ひとりは、なかまの子どもたちとつれだってでかけ、もうひとりは、べつのなかまといっしょに帰った。しばらくすると、ふたりはろじのはずれで出会った。学校についてみると、ふたりのほかには、だれもいなかった。ふたりは石板をまえにしてすわり、トムは、ベッキーに石筆を持たせ、その手を上からにぎって、ひきまわし、また一軒、みょうな家をかきあげた。美術にたいする興味がおとろえてくると、ふたりは話をはじめた。トムは、うれしくて、たまらなかった。彼はいった。
「きみ、ねずみすきかい?」
「いいえ、だいきらい!」
「ぼくも、きらいさ――生きてるやつはね。でも、ぼくのいうのは死んでるやつのことだぜ。ひもをつけて、頭の上で、ぐるぐる、ふりまわすのさ。」
「それもきらい。どっちにしろ、あたし、あんまり、ねずみなんてすきじゃないわ。あたしのすきなのはね、チューインガム。」
「うん、ぼくだって、そうだ。ぼく、ここに持ってたら、よかったんだけどなあ。」
「すきなの? すこし持ってるわよ。ちょっとのあいだなら、かましてあげるわ。でも、かえしてくれなきゃ、だめよ。」
 これは、ありがたい話だった。そこで、ふたりは、かわりばんこにガムをかみながら、たいそうご満悦で、ベンチからさげた足を、ぶらぶら動かした。
「サーカスにいったことる?」と、トムがきいた。
「ええ、あるわ。あたしがおとなしくしていれば、またいつか、おとうさんがつれてってくれるんですって。」
「ぼくだって、三どか四ど――もっとかな、サーカス見たことあらあ。教会なんて、サーカスにゃかなわないね。サーカスときたら、いつだってすばらしいもんね。ぼくあ、おとなになったら、サーカスの道化役になるんだ。」
「あんたが? いいわねえ。とてもかわいいじゃないの。おでこにも、ほっぺたにも、やたらに赤い玉がかいてあってね。」
「そう、そうだね。それで、とてもお金をとるんだってさ――一日、一ドルくらいもとるんだってさ。ベン=ロジャーズがいってたぜ。ねえ、ベッキー、きみ、これまでに、婚約したことある?」
「それ、なんのこと?」
「なにって、結婚の約束するのさ。」
「したことないわ。」
「したいと思う?」
「うん、したいのかもしれないけど。でも、あたし、わかんないわ。どんなことするの、それ?」
「どんなことっていったって、そうだなあ、ほかに、それに似たものないよ。その子のほかの子とは、けっして、けっして、けっして[#「けっして」に傍点]結婚しませんつていって、そいから、キスして、そうすりゃおしまいさ。だれだってできるんだぜ。」
「キスするの? どうしてキスするの?」
「うん、そりゃあ、あの――だって、みんな、そうすることになってるんだよ。」
「だれでも?」
「うん、そうさ。だれだって、おたがいに愛してる者は、そうするんだぜ。ぼくが石板に書いたこと、おぼえてる?」
「え――ええ。」
「なんて書いてあった?」
「いや、いってあげないわ。」「ぼくが、きみにいってやろうか?」
「え――ええ――でも、いつか、また、こんどね。」
「ううん、いまだよ。」
「ううん、いまはいや――あした。」
「だめだよ、いまでなくっちゃ。ねえ、ベッキー――小さい声でさ、ぼく、とっても小さい声でいうからね。」
 ベッキーは、すぐにへんじをしなかった。トムは、あいてがだまっているのを承諾のしるしとみてとり、ベッキーのこしに腕をまわし、耳に口をよせて、とても、そうっと、そのだいじなことばをささやいた。それから、こうつけくわえた。
「さ、こんどは、きみがいうんだよ――おんなじようにさ。」
 ベッキーは、しばらくは、トムのいうとおりにしなかった。が、やがていった。
「あんた、あっちをむいて、あたしの顔を見ないようにしてちょうだい。そうしたらいうわ。でも、だれにも話しちゃいやよ――ねえ、トム、話しゃしないでしょ。ねえ、話さないわね、きっとよ。」
「ううん、話さないっていったら、話さないよ。さあ、ベッキー。」
 トムは顔をそむけた。彼女は、おずおずとかがみこみ、その息で、トムのまき毛がゆれるほど、顔を近よせて、いった。
「あたしは――あなたを――愛します。」
 それから、ベッキーは、ぱっととびのいて、つくえやいすのまわりを、ぐるぐる、にげまわった。トムが、それを追いかける。そのうちに、ベッキーはとうとう、教室のすみっこににげこんで、小さい白いエプロンを顔におしあてた。トムは、あいての首のあたりをつかまえて、嘆願する。
「さあ、ベッキー、もうおしまいだよ――キスさえしちまえば、おしまいになるんだぜ。こわがらないでさ――なんでもないよ。ねえ、ベッキー。」
 そういいながら、トムは、ベッキーのエプロンや手をひっぱった。
 そのうちに、とうとう、彼女は負けて、手を下へおろした。このもみあいのために、まっかに上気した顔があおむいて、トムのするとおりにされた。トムは、その赤いくちびるにキスして、いった。
「さあ、ベッキー、これで、すっかりすんだんだよ。これからはね、きみは、もう、ぼくよりほかの子を愛しちゃいけないんだよ。ぼくのほか、だれとも、きっと、きっと、永久に結婚しちゃいけないんだよ。わかった?」
「ええ、あたし、あんたのほか、だれも愛さないわ。あんたのほか、だれとも結婚しないわ――あんただって、わたしのほか、だれとも結婚しないのよ。」
「そうとも、むろん、そうだよ。でも、それでぜんぶじゃないんだぜ。学校の行き帰りだって、だあれも見ていなかったら、いつでもいっしょに歩くことにするんだぜ――パーティーによばれたときは、いつでもきみはぼくをあいてにえらぶし、ぼくはきみをあいてにえらぶんだぜ――婚約すれば、だれだって、そうしなけりゃいけないんだもんね。」
「とても、すてきねえ。あたし、いままで、そんなこときいたことなかったわ。」
「ああ、とてもゆかいなんだ! そうそう、ぼくとエイミー=ローレンスが――」
 あいての大きく見ひらいた目を見ると、トムにも、自分の大しくじりがわかった。だから、あとがつづかず、まごついた。
「まあ、トム! いや、あんた、まえに、あたしよりほかの人と婚約したことがあるのね!」
 女の子はなきだした。
「ああ、なくんじゃないよ、ベッキー。もう、ぼく、あの子なんて、ちっとも愛しちゃいな
いんだよ。」
「いいえ、愛してるんだわ、トム――ちゃんと、自分だって、わかってるくせに。」
 トムはしずかに、あいての首に腕をまわそうとしたが、彼女は、それをおしのけて、ぐるりと壁のほうへ顔をむけて、なきつづけた。トムは、あいてをなだめることばを口にしながら、もう一ど、同じことをしようとしたが、またはねつけられてしまった。そうなると、彼の心に自尊心がおこってきた。トムは、ゆうゆうと、ベッキーのそばをはなれて、外へでた。彼は、しばらくのあいだ、ベッキーが後悔して、自分をさがしにきてくれはしないかと思って、ちょいちょい出口のほうをながめながら、おちつかない、不安な気持ちで、そのへんをぶらぶらしていた。だが、彼女は、でてこなかった。トムは、なんだかいやな気持ちになり、自分がわるいことをしたのではあるまいかと、心配になってきた。もう一ど、あらためて、自分のほうから、ごきげんをとることは、トムとしては、ずいぶん、つらいことだった。しかし、トムは心を決して、また中へはいっていった。ベッキーは、さっきのとおり、教室のすみで、壁にむかって、すすりなきをつづけている。トムは、心をうたれた。そして、ベッキーのそばへいってはみたものの、どうしたらよいのかけんとうがつかなかったので、そのまま、ちょっとのあいだつっ立っていた。それから、おずおずといった。
ベッキー、ぼくは――ぼくは、きみのほか、だれも愛しちゃいないんだよ。」
 へんじはなくて――すすりなきの声ばかりだ。
ベッキー」と、うったえるように。
ベッキー、なにかいっとくれよ。」
 なき声は、さらに高くなる。
 トムは、自分のいちばんたいせつな宝石をとりだした。炉の馬《うま》のてっぺんについていた、しんちゅうの、まるい、つまみの玉である。かれは、これをあいてに見えるように、腕をまわして、ベッキーのまえへさしだした。
「ねえ、ベッキー、おねがいだから、これ、とっておくれ。」
 彼女は、それをゆかにはたきおとした。そこで、トムは教室から堂々とひきあげ、いくつかの丘をこえて遠征し、その日はもう学校へ帰ってこなかった。まもなくベッキーは、これっきりトムが帰ってこないのではあるまいかという気がしてきた。彼女は戸口へ走りよってみたが、トムのすがたは見えなかった。彼女は、ぐるりとまわって、運動場まで走っていった。しかし、そこにも、トムはいなかった。そこで、ベッキーは、大きな声でよんだ。
「トム! 帰っていらっしゃい、トム!」
 彼女は、じっと耳をすましてきいたが、答えはなかった。静けさと、さびしさとだけが、ひしひしと、彼女をとりかこんでいた。ベッキーは、その場にすわって、またなきだした。そして、自分で自分の身を責めた。もうそのころになると、ぼつぼつ生徒が帰ってきはじめたので、ベッキーは、自分の悲しみをかくしておかなければならなかった。こうして、彼女は、ひとりで胸のいたでをいたわりながら、まわりにいる、どの生徒と悲しみをわけあうこともできず、長い、わびしい、つらい午後を、たえしのばなければならなかったのである。

8 海賊の夢
 トムは、学校へもどってくる生徒たちにあうのをさけて、あちこちと小路をぬって走りまわり、ようやく、もうこれであう心配はないというところまでくると、むっつりした顔をして、のろのろ歩きはじめた。彼は同じ小さい流れを、二ども、三どもとびこした。水をとびこせば、追っ手につかまらないという迷信が、広く子どもたちのあいだに信じられていたからである。三十分ののちには、トムは、カーディフの丘の頂上にあるダグラス邸のうらにすがたをかくした。ここからだと、学校は、はるか、うしろの谷間に、はっきりと見わけがつかないほど遠くなっていた。彼は、深い森にはいりこみ、その奥へと、道のない道をわけてつき進み、やがて、枝をひろげたならの木の下の、こけのいっぱいはえている地面にこしをおろした。風は、まるでなかった。夏のま昼の重苦しい暑さに負けて、小鳥さえも、うたおうとしなかった。自然はまどろみ、その静けさをやぶるものは、ときたま遠くからきこえてくる、きつつきの木をつつく音ばかりだった。それをきいていると、静けさが、なおさらはっきりと感じられ、いよいよさびしくなってくるような気がした。トムの心はうれいにしずんでいた。そして彼の心持ちは、まわりの自然と気持ちよく調和した。トムは、ひざに両ひじをついて、あごをささえ、すわりこんだまま、長いあいだ考えこんでいた。
 人生は、どんなにうまくいったところで、つまりは、やっかいせんばんなもののように思われた。そして、彼は、ついこのあいだ死んだジミー=ホッジスがうらやましいような気さえしてきた。風が、林の木の葉をさらさらとならし、草の葉や墓に咲く花をそよがせて、やさしくふきすぎるようなところで、まるっきり、なやみも悲しみも知らずに、身を横たえてねむり、いつまでも、いつまでも、夢を見つづけていられたら、さぞしずかでいいだろう。トムは、そんなふうに考えた。彼は、自分がもし、日曜学校でりっぱな成績をとっているのだったら、大よろこびで死んでしまって、日曜学校の成績などというものとは、きれいさっぱり、縁切りにしてやるのだが、と考えた。ところで、あの女の子のことは、どうなのだろう。いったい、おれがなにをしたというのだ? なんにもしてやしない。世界じゅうでいちばんいいことをしてやったのに、犬のようなあつかいをされた――まったく、犬と同じではないか。あの子は、そのうちに後悔するかもしれない――だが、そのときは、きっと、もうまにあわないのだ。ああ、ちょっとのあいだ死んでいて、また生きかえられたらいいんだがなあ!
 しかし、弾力のある若い心をおしつけて、いつまでも同じきゅうくつな形にしておくことはできない。まもなく、トムの心は、いつとはなしに、この世の生活のことを、あれこれと、考えていた。このまま、自分がどこかへにげだして、すがたをかくしてしまったら、どうだろう? 遠いところ――とてもとても遠い、海のむこうの、だれも知らない国へいって――いつまでたっても、帰ってこなかったらどうだろう? そうしたら、あの子は、どんな気がするだろう! 道化役になりたいといったことを、ひょいと、思いだしたが、いまとなっては、むかむかするほど、いやだった。おぼろげな、けだかいロマンの世界までまいあがっている心の中に、軽口やしゃれや、水玉もようのついた肉じゅばんが、おくめんもなくでしゃばってくるなどとは――ぶれいせんばんだ。いや、おれは軍人になる。長い長い月日ののちに、たたかいにつかれ、かがやかしい名声をえて帰ってくる。いや――いっそ、インディアンのなかまへはいったほうがいいかもしれない。そして、水牛狩りをしたり、山また山をふみこえ、遠い西部の大平原の道なき道をかけめぐって、おおいにたたかおう。それから、何年もたったあとで、えらい酋長になって帰ってくるのだ。そして、頭には羽かざりを立てならべ、顔には絵の具でおそろしいくまどりをして、夏の朝で、みんながだらけきっているときに、身の毛もよだつようなさけび声をあげて、日曜学校へおどりこむのだ。きっと、みんなは目玉をひんむいてうらやましがるにちがいない。いや、待て、もっとすばらしいことがあるぞ。そうだ、海賊になろう! これにかぎる! いまやトムの未来は、なんともいえない、すばらしい光をはなって、はっきりと、彼の目にうつってきた。おお、おれの名は全世界にとどろき、人びとをふるえあがらせるのだ! おれは、長い、低い、黒い快速船〈風の神〉号に乗って、まえのマストにおそろしい旗をなびかせながら、あのあれくるう海をつき進む。ああ、なんというすばらしいことだろう! そして、その名声が四海にとどろいているまっさいちゅう、とつぜん故郷にまいもどり、大いばりで教会へのりこんでいったら、どうだろう。日に焼け、雨風にきたえられた顔、黒ビロードのこしのつまった服と半ズボン、大きな長ぐつ、まっかな帯かざり、ベルトには大型ピストルを何本もぶちこみ、こしには、罪をかさねた短剣、まえのめりのぼうしに鳥の羽かざりがふるえ、人骨のぶっちがいの上にがいこつをかいた、不吉な黒い旗がひらめく。
「あれが、海賊トム、――南海の復讐鬼、トム=ソーヤーだ。」
と、人びとがささやきあうのを、得意満面できくときの気持ちは、どんなだろう!
 そうだ、これにきめた。将来の方針はきまったのだ。うちをとびだして、まっしぐらに進んでいこう。あしたの朝を期して、門出としよう。だから、いますぐ、準備にとりかからなければならない。まず、財産をまとめよう。というので、すぐそばのくさりかけた丸太のところへいき、その一方のはしの下を、あのバーロー・ナイフでほりはじめた。すぐ、うつろにひびく木の箱をさぐりあてた。トムは、そこに手をついて、もっともらしいおまじないをとなえた。
「いままで、ここにないもの、やってこい! いままで、あったものは、ここにいろ!」
 そこで、どろをはらいのけると、松のうす板があらわれた。それをはずして、彼は、底もまわりも、やはりうす板で作った、形のよい宝物入れの箱を一つひきだした。中にビー玉が一つはいっていた。トムのおどろきは、たとえようもなかった。こまって頭をかきながら、つぶやいた。
「ふん、こりゃあ、だが、おかしいぜ!」
 トムは、かんしゃくをおこして、ビー玉を遠くへほうり投げた。立ったまま、考えこんだ。じつはこうなのだ、なかまといっしょに、こればかりはまちがいないと信じていたおまじないが、みごとに失敗したというわけなのである。ちゃんときまっているおまじないのもんくといっしょに、ビー玉をうめて、二週間、そっとしておく、それから、封じこめるときにとなえたのとおんなじおまじないをとなえてあける、と、まえになくしたいっさいのビー玉が、そこに集まっているというだんどりなのである。どんなに遠くにちらばっているやつでも、きっともどってくるという。ところが、いまは、まったくうたがう余地もないほどの大失敗ではないか。トムの信仰は、根こそぎくずれさってしまった。これが成功した話は、いくらでもきいたおぼえがあるのに、失敗したという話は、ぜんぜんきいたこともなかった。じつをいうと、トムがこれまで、なんどかやってみたときには、いつもかくした場所がみつからなくなってしまったのだということを、すっかりわすれていた。トムは、しばらくのあいだ、このなぞをとこうと考えたあげく、ついに、これはきっと、魔法使いがじゃまをして、おまじないの力をなくしてしまったのだときめた。そうだとしても、このことを、もっとはっきりさせたいと思い、そこらじゅうをさがしまわって、じょうご型に小さいへこみのできている砂地をみつけた。トムは、そこに腹ばいになり、口をそのへこみにつけて、大声でよびたてた。
ありじごくありじごく、知りたいことをいっとくれ! ありじごくありじごく、知りたいことをいっとくれ!」
 砂がむくむくと動き、黒い小さいありじごくが、ちらっとすがたをあらわしたが、また、あわてて、もとの穴へもぐりこんだ。
「いわないな! そんなら魔法使いがやったんだ。よし、これでわかった。」
 トムは、あいてが魔法使いでは、あらそってもむだなことをよく知っていたから、きれいさっぱりあきらめた。しかし、いましがた投げたビー玉まで、あきらめるにはおよばない、と考えついたので、そのあたりにいって、よくさがしてみた。けれども、ビー玉はでてこなかった。そこで宝物倉のところまでちどり、まえにビー玉を投げたときと同じ場所に立って、べつのビー玉をポケットからとりだし、
「いって、きょうだいをみつけてこい!」
といいながら、投げた。
 落ちた場所をよく見きわめて、そこへいき、さがしてみた。が、近すぎたか、遠すぎたかしたのだろう。そこで、同じことを、あと二どやった。そして、ついに成功した。二つのビー玉は三十センチとはなれないところにおちていた。
 ちょうどこのとき、ブリキのおもちゃのラッパの音が、森のみどりのすきまをぬって、かすかにひびいてきた。トムはとっさに、上着とズボンをかなぐりすて、ズボンつりを帯にして、くさった丸太のうしろのやぶにわけ入り、ぶさいくな弓矢、細い板の剣、ブリキのラッパをとりだし、すばやくひっつかむと、むきだしのすね、ひらひらするシャツといういでたちで、とびだしてきた。そして、にれの大木のところで立ちどまり、へんじのラッパをふきならすと、つまさき立ちで、あちらこちらと、いくさの状況をさぐりはじめた。気をくばりながら――仮想のけらいともにささやいた。
「待っておれよ、陽気な者ども! わしがふきならすまでは、ふせているのだぞ。」
 あらわれでたのは、ジョー=ハーパーであった。すずしそうな身なりと、手のこんだぎょうぎょうしい軍装は、トムと同じだった。トムがよびかけた。
「待て! わしのゆるしをえずに、シャーウッドの森に、のこのこはいりこんできおった者は、だれじゃ?」
「ギースボーンのガイは、ひとのゆるしなどは、いらぬわい。なんじこそ――ええと――ええ――」
「かかるふらちなことをいう、だよ」と、トムはせりふをつけた――彼らは、〈ものの本〉からとったことばを、そらでおぼえて、やりとりしているのだから――。
「かかるふらちなことをいう、なんじこそは、だれじゃ?」
「わしか! われこそはロビン=フット。いざ、けがらわしきなんじを、血まつりにあげようぞ。」
「しからば、なんじが、かの悪名高き、無法者であったるか。いでや、この陽気な森の所有をあらそわん。いざ、まいれ!」
 ふたりは、板っぺらの剣をとって、ほかの武器は地面に投げすて、たがいにむかいあって剣術の身がまえをした。型どおり、ちょうちょうはっしと、いかめしい慎重なはたしあいがはしまった。やがて、トムから苦情がでた。
「おい、こつをおぼえたら、もっといせいよくやれよ!」
 そこで、ふたりは息をはずませ、あせを流しながら、〈もっといせいよく〉やった。しばらくたつと、トムがさけんだ。
「たおれろ! たおれろよ! なぜ、たおれないんだい?」
「いやなこった! おまえこそ、なぜ、たおれないんだい? とてもひどくやられたのは、おまえだぜ。」
「そいつあ、どうでもいいんだよ。おれはたおれられないんだ。本に書いてあるのとちがうもん。本には、こう書いてあるんだぜ、――やがて、逆手のひとつきにて、ギースボーツのガイをさしころしぬ。――だから、おまえはむきをかえて、おれにせなかをつかせなきゃいけないんだ。」
 本にあるなら、したがわないわけにはいかなかった。そこで、ジョーは敵にうしろを見せ、せなかに一撃をくって、たおれた。ジョーはおきあがった。
「さあ、こんどは、おまえがおれにころされる番だぜ。でなきゃ、ずるいや。」
「うん、そりゃだめさ。本に書いてないもん。」
「ちえっ、きたねえぞ――きたねえや。」
「うん、そう、そう、そんなら、おまえは、坊さんタックか、水車場のせがれのマックになればいいや、そうすりゃ、六尺棒でおれをはりたおせらあ。それとも、ちょっとのあいだなら、おれがノッチンガムの郡長、おまえがロビン=フッドになってもいいぜ。それで、おれをころせばいい。」
 それで、ジョーもまんぞくして、しばらくは、そのかたちで冒険ごっこがつづいた。そのあとで、トムはまた、ロビン=フッドになり、腹ぐろい尼の手にかかって、きずの手あてをすてておかれたために、多量の出血をして、まったく力をうしなってしまう。さいごに、ジョーは、たったひとりで、陽気な森の無法者たちぜんぶを代表し、なきなき、トムをひきずっていって、よわりはてた手に弓を持たせる。
「この矢のおちるところ、大木のかげにロビン=フットのなきがらをほうむってくりゃれ。」
と、トムはいう。そこで、矢をはなち、うしろにたおれ、死んでしまった。が、いらくさの上にたおれたので、死体にしてはたいへんげんきよく、はねおきてしまった。
 ふたりは、いつもの服をつけ、軍装をかくし、いまでは、もう、あの無法者たちが、ひとりもいなくなったことを悲しんだ。現代の文明は、そのかわりとして、どんなものをあたえてくれたのだろうと考えながら、森からでていった。そしてふたりは、永久にアメリカ合衆国の大統領をつとめるよりは、一年でもいいから、シャーウッドの森で無法者の暮らしをするほうがいい、と話しあった。

9 夜ふけの墓地
 その晩、九時半になると、いつもどおり、トムとシッドは、いっしょにねかされた。ふたりはお祈りをした。シッドはすぐねむったが、トムはねむらずに、いらいらしながら待っていた。もう、夜が明けやしないかと思われるころに、やっと、十時をうつ音をきいた。これでは、やりきれない。思いきり、ねがえりしたり、あばれてやりたいのだが、シッドをおこしてしまうと、それもたいへんだ。だから、じっと横になったまま、やみをみつめていた。あらゆるものが、うすきみわるいほど、しずまりかえっている。が、そのうち、その静けさの中から、やっときこえるかきこえないかのもの音が、しだいに、はっきり、耳につきだした。時計のちくたく、ちくたくという音がきこえだしたのだ。古いはりがぶきみな音をぴちぴちさせて、ひびわれた。階段《かいだん》がかすかにきしんだ。たしかにゆうれいがさまよいだしたにちがいない。ポリーおばさんのへやからは、規則正しい、陰にこもったいびきがきこえてくる。どんなに頭のいい人でも、どこだかけんとうもつかないところで、こおろぎのたいくつななき声がはじまった。と、思うと、すぐまくらもとの壁の中から、かちかちという〈死に時計〉の、ぞっとするなき声がして、トムをふるえあがらせた――その虫のかちかちやる音は、だれかが死にかけているのを、あといく日かなと、かぞえているのだということだ。そのうち、遠くで犬のほえる声がきこえ、それに答えるように、もっとかすかな遠ぼえがおこった。トムは、息苦しくなってしまった。しまいには、もう時というものはなくなってしまい、永遠がはじまったのにちがいないと考えると、すこしおちついてきた。そのうち、知らないまに、うとうとしはじめた。時計が十一時をうったが、トムは知らなかった。それから、夢うつつのうちに、じつに陰気なねこのなき声をきいたような気がした。となりの家の窓のあく音で、トムは目がさめかけた。「でていけ、ちきしょうめ!」というさけび声と、あきびんが、うちのたきぎ小屋のうしろにあたってくだける音で、トムは、まったく、はっきりと目がさめた。それから、わずか一分間ののちには、服をきがえ、窓からはいだし、母屋のそばのやねの上を四つんばいにはっていった。トムは、はいながら、用心して、一、二ど「にゃあご」とやった。それから、たきぎ小屋の
やねにとびおり、ついで、地面にとびおりだ。ハックルベリー=フィンが、ねこの死がいをぶらさげて、そこに立っていた。少年たちは歩きだし、くらやみの中にきえた。三十分のちには、ふたりは、墓場の雑草のしげみをかきわけて進んでいた。
 それは、西部にむかしからある、しきたりどおりの墓場で、村から一マイル半ほどはなれた丘の上にあった。墓地のまわりには、こわれかかった板べいがあったが、あるところは外がわに、あるところは内がわにたおれかけ、まっすぐ立っているところはどこもない。墓地いちめんに、雑草がぼうぼうとはえしげっていた。古い墓は雑草の下にうずもれ、石碑は一つもない。墓の上には、さきをまるくした虫くい板の墓標がひょろっと立っていたが、つっかい棒はないかとさがしているが、どうもみつからぬというかっこうだった。板のおもてには、〈だれそれの霊をまつる〉と、一どは書かれたことがあるのだが、たとい明るいときでも、ほとんど、どれも読めはしなかった。
 かすかな風が木の間をわたって、うめき声をあげた。静けさをみだされたといって、死人のたましいがもんくをいったのではないかと、トムはおそろしくなった。ふたりは、ものもいわず、じっと息をひそめた。このしずまりかえった厳粛な空気のみなぎる、時と場所が、ふたりの心をおさえつけたのだ。ふたりが目あてにしてきた、新しい土まんじゅうは、すぐわかった。彼らは、その墓から、二、三ヤードのところに、かたまって立っている、にれの大木のかげに、からだをかくすことにした。
 それから、ずいぶん長い時間がたったように思われるあいだ、じっと待っていた。この死の静けさをやぶるものといっては、遠くでほうほうとなく、ふくろうのなき声だけだった。トムは、ますます気がめいって、むりにもなにかしゃべらないではいられなくなり、小声でささやいた。
「ハッキー、死んだ人間は、おれたちがここへきても、いやがらないと思うかい?」
 ハックルベリーも小声で答えた。
「おれも、そいつを知りたいよ。おっそろしくしいんとしてるじゃねえか、ええ?」
「ほんとによ。」
 ふたりは、そのことを、おたがいに思案するあいだ、しばらくだまっていた。トムがまた、ささやいた。
「なあ、ハッキー――ホス=ウィリアムズは、おれたちのしゃべってるのを、きいてると思う?」
「そりゃきいてるさ。たましいだけにしろ、きいてるさ。」
 しばらくして、トムがいった。
「ウィリアムズさんていえばよかったな。でも、おれは、わるぎでいったんじゃないんだぜ。だれだって、ホス、ホスっていってるんだもんな。」
「だけどさ、トム、死人の話をするときや、ようく気をつけていうもんだぞ。」
 これで、すっかり気まずくなり、話し声は、またぴたりととだえた。
 まもなく、トムはあいての腕をつかんだ。
「しいっ!」
「なんだ、トム?」
 ふたりは、心臓をどきどきさせて、だきあった。
「しいっ! ほら、きこえる! おまえ、きこえたろ?」
「おらあ!」
「そら! こんどはきこえたろう?」
「や、きやがった! ほんとにきやがった。ああ、トム、どうしよう?」
「わかんねえよ。いったい、あいつらには、おれたちが見えるのかなあ?」
「そうさ! トム、ゆうれいは、ねこみたいに、くらやみだって見えるんだ。おら、こなけりゃよかったなあ。」
「おい、こわがるなよ。なにもゆうれい、おれたちをいじめやしないよ、きっと。おれたち、なにもわるいことしてないもの。じっとしずかにしてりゃ、きっと気がつかないぜ。」
「じっとしていよう。ああ、からだがぶるぶるふるえやがら。」
「しっ!」
 少年たちは、頭をくっつけ、息をころした。墓場のずっとむこうのはずれから、陰にこもった人声が、ただよってきた。トムは、ささやいた。
「おい! 見ろ! ありゃ、なんだ?」
「ありゃ、ひとだまだ。ああ、トム、おっかねえ。」
 ぼんやりした形のものが、古めかしいブリキのカンテラの灯をふらふらさせ、地面に無数の光のかけらをちらしながら、くらやみをこちらへ近づいてきた。ハックルベリーは身ぶるいして、つぶやいた。
「ゆうれいだぜ。たしかにゆうれいだ。三人いるぜ! ああ、トム、おれたちは、死に神に見こまれた! おまえ、お祈りできるか?」
「うん、やってみるよ。でも、そうこわがるなよ。おれたちには、いじわるしやしないよ。――天にましますわれらの父よ――」
「しいっ!」
「なんだい? ハック。」
「人間だぜ、あいつら! どっちみち、ひとりはそうだ。ありや、マフ=ポッターじじいの声だぜ。」
「ええ?――ほんとか?」
「うん、たしかにそうだ。トム、動くんじゃないぞ、びくともしちゃいけねえ。あいつは、ぼんやりしてるから、おれたちには気がつかないよ。いつものとおり、ぐでんぐでんによっぱらってやがるよ、それにきまってるさ――くそやろうの、おいぼれめ!」
「ようし、じっとしていよう。おや、とまった。見えなくなった。や、またでてきた。あっ、こっちへくるぞ。また、見えなくなった。ああ、くるくる。いよいよ、こっちだ! こんどこそ、まっすぐこっちへくるぜ。おい、ハック、もひとりの声も知ってるよ。インジャン・ジョーだ。」
「うん、そうだ――あの人ごろしだ! おら、あいつらより、ゆうれいのほうがまだましだ。やつらはまた、なにをやらかそうってんだろう?」
 ささやきは、ぴたりとやんだ。三人の男が、その新しい墓場につき、少年たちのかくれ場から、一メートルほどのまぢかに立ちどまったからだ。
「うん、これだ」と、三人めの声がした。その声の主がカンテラを高くかかげたので、そのとき、はっきりと顔がてらしだされた。若い医者のロビンスンさんだった。
 マフ=ポッターとインジャン・ジョーは、手押し車をおしてきていた。車の中には、シャベルが二ちょうと、ロープが一本はいっていた。ふたりはその荷をおろすと、墓をあばきだした。医者はカンテラを墓の上におき、にれの木のところまできて、こしをおろし、木によりかかった。少年たちが、手をのばせばとどくほどの近さだった。医者は低い声でいった。
「いそげよ! 月がいつでるかわがらんからな。」
 ふたりの男は、うなるようにへんじをして、せっせとほりつづけた。しばらくのあいだは、シャベルとじゃりまじりの土がふれあう、いやな音のほかは、なにもきこえなかった。それは、単調なひびきだった。が、ついにシャベルが棺にぶっかったらしく、にぶい、木につきあたったような音がした。何分かののち、ふたりは、棺を地面にひきずりあげた。ふたりは、シャベルでふたをこじあけ、死体をひきだし、らんぼうに地面へほうりだした。このとき、雲のあいだから月がでて、その青白い顔をてらした。手押し車の用意ができると、死体をその上にのせ、毛布をかぶせ、ロープでしっかりくくりつけた。ポッターは、大型のばねつきナイフをとりだして、ぶらさがっているロープのはしを切りとった。そしていった。
「さて、このいまいましいしごとも、ひとかたづきというもんだ。ところで、お医者さんや、もう片手はずんでほしいね。さもなきや、こいつあ、ここへおいてきぼりだぜ。」
「まったくだ!」と、インジャン・ジョーが、あいづちをうった。
「おい、おい、なにをいうんだ、いったい?」と、医者はいった。
「まえばらいでくれというから、そのとおりはらってやったじゃないか。」
「それはそうさ、だがね、おまえさんは、ほかのこともしておくれなさったぜ」と、インジャン・ジョーは、このとき、すでに立ちあがっていた医者のほうに近づいた。
「五年まえのある晩のことさ、おれがおまえさんのおやじの台所へ顔をだして、なにか食いものをいただきてえとたのんだら、もうこれからくるんじゃねえと、おれを追んだしたじゃねえか。それで、百年かかっても、このしけえしはしてみせるぞといったら、おまえのおやじは、浮浪罪だとこきやかって、おれを牢屋《ろうや》へぶちこみやがった。それをわすれるおれさまだとても思ってやがるのか、やい? インジャンの血は、だてに流れてやしねえぞ。いまこそ、おめえをとっつかめえたんだ。さあ、かたをつけようじゃねえか。」
 インジャン・ジョーは、すこしまえから、医者の目のまえに、げんこをかためて、おどかしていた。と、医者はとっさに、なぐりつけて、ならず者を地上にたおした。ポッターは手のナイフをおとして、
「やい、よくもおれのなかまをなぐりやがったな!」と、さけぶやいなや、医者にとびかかり、ふたりは、草をふみにじり、地をけり、全力をあげてあらそった。インジャン・ジョーは、はねおきた。にくしみにもえる目を、らんらんとかがやかし、ポッターのナイフをひろいあげるや、ねこのようにせなかをまげて、くんずほぐれつもみあうふたりのまわりを、ぐるぐるまわって、すきをうかがった。とつぜん、医者はポッターの手をふりもぎると、ウィリアムズの重い墓標をひっつかみ、ポッターめがけてふりおろした――と、その瞬間、すきをみつけたジョーは、つかもとおれと、若い医者の胸に、ナイフをつきさした。医者はふらふらと、ポッターの上にかぶさるようにたおれた。流れでる血がポッターをそめたとき、また月が雲にかくれて、このすさまじい光景をやみにつつんだ。ふるえながら見ていたふたりの少年は、くらやみの中をまるくなってにげだした。
 やがて、また、月がでた。インジャン・ジョーは、ふたりのそばに立って、じっと、見おろしていた。医者は、なにかわからぬことをつぶやいていたが、一息二息、長くあえぐと、そのまま、しずかになってしまった。ジョーは、つぶやいた。
「これで、うらみをはらしたというもんだ――ちきしょうめ。」
 それから、死体についている金めのものをはぎとった。それがすむと、あの不吉なナイフをポッターのひろげた右手ににぎらせ、からっぽの棺の上にこしかけた。三分――四分――五分もすぎたころ、ポッターは身動きをしはじめ、うめきだした。ポッターの手は、ナイフをにぎりしめた。ポッターは、その手を持ちあげ、じっとみつめたが、身ぶるいして下におとした。それから、かぶさっていた死体をおしのけておきあがると、よくよく目をこらしてから、あわてふためいて、あたりを見まわした。ポッターの目が、ジョーの目とあった。
「おお、ジョー、こりゃ、なんてこった?」
「ひでえことをしでかしたもんさね」と、ジョーは動きもせずに答えた。
「なんだって、また、おめえ、こんなことをやっちまったんだ。」
「おれが! おれは、なんにもしやしねえ!」
「見ろやい! そんなこといったって、のがれっこはねえぞ。」
 ポッターはふるえあがり、まっさおになった。
「よってなけりゃ、よかったんだ。おら、今夜は飲むんじゃなかった。まだ酒のけが頭の中にのこってやがる――しごとにでかけたじぶんからみると、もっといけねえ。頭ん中がこんぐらかって、なにがなんだか、よく思いだぜねえや。話してくれ、ジョー――なあ、おい、きょうだい――おれがこれをやったのか? おれは、そんなつもりじゃなかったんだ――まったくの話、こんなことをやるつもりは、これっぽっちもなかったんだ、ジョー。どんなあんばいだったか、話してくれ、ジョー。ああ、おっかねえ――こんな若い、出世まえの人をなあ。」
「ほら、おまえたちがとっくみあってよ、あいつが、おめえの脳天をぽかんと墓板で一つくらわしたら、おまえがひっくりかえっちまってよ。そいから、こんどはおめえ、ふらふらよろよろしながら、立ちあがるなり、ナイフをつかんで、ずぶりじゃねえか、ちょうどそのとき、やつがまた、おまえをぶちのめしたんで――おまえは、丸太ん棒みたいに、いままで、ひっくりかえってたわけだ。」
「ああ、おれは自分のやったことがわからねえ。できることなら、いまここで死んじまいてえや。こりゃ、みんな、ウイスキーのせいなんだ。それに、気がたってやがった。おら、いままで、一どだって、刃物《はもの》ざんまいなんかやらかしたことはないんだぜ、ジョー。そりゃ、けんかはする。だけど、刃物でやったことはねえんだ。だれでも、そういってるぜ――おいジョー、しゃべるなよ! しゃべりゃしめえな、ジョー――おまえはいいやろうだ。おらあ、いつも、おまえがすきだったよ、それに、いつも、おまえの味方だった、そうだったろう? ジョー、ひとにしゃべりゃしめえな、え、ジョー?」
 このあわれな男は、ずうずうしい人ごろしのまえにひざまずき、手をあわせて、哀願した。
「しゃべらねえ。おまえとはいつも、きれいに、まっとうに、つきあってきたもんな、マフ。おまえをうらぎるようなことはしねえ、なあ、おい、男の一言だ。」
「ジョー、おまえは天使だよ。このことじゃ、一生、恩にきるぜ」と、ポッターはなきだした。
「おい、わかったよ。やめろよ。いまはないてるときじゃねえぜ。おまえは、あっちからいきな。おれは、こっちからいく。さあ、でかけよう。きれいにきえるんだぜ。」
 ポッターは足早に歩きだしたが、見るまに、かけ足になった。ジョーは、じっと立って、見送っていたが、こんなことをつぶやいた。
「やっこさん、見かけどおり、ひっぱたかれたのと悪酒とで、ぼうっとしちまってるとすりゃあ、遠くへいくまで、ナイフのことは気がつくめえ。気がついたところで、とても、この現場にひっかえして、自分でさがすげんきはあるめえ――とんちきめ!」
 まもなく、ころされた男と、毛布にくるまった死体と、ふたのない棺と、あばかれた墓を見ているものは、月ばかりになった。あたりは、ふたたび、ひっそりと、しずまりかえった。

10犬の遠ぼえ
 ふたりの少年は、あまりのおそろしさに口もきけず、村のほうへとひた走りに走った。そして、だれか追っかけてきやしないかと、びくびくして、ときどき、あとをふりかえった。にげていく道ばたに立っている切り株は、どれもこれも人間に見え、敵に見えて、そのたびに、ふたりは息がつまる思いだった。村はずれにぽつんと立っている小屋あたりをかけすぎるとき、番犬がほえだしたので、ふたりの足は、つばさがはえたように、いっそう速くなった。
「あの、おんぼろのなめし工場まで、へたばらずにいけるかなあ!」
 はあはああえぎながら、トムは、きれぎれにささやいた。
「おれは、もう、とてもつづきそうもないや。」
 ハックルベリーのあらい息づかいだけが、その答えだった。少年たちは、たのみの目標物に目をじっとすえ、一刻も早くいきつこうとむちゅうで走りつづけた。一歩一歩、そこへ近づく。とうとう、ふたりは肩をそろえて、同時に、ひらいた戸口からとびこむと、ああ、助かったと、息もたえだえに壁のかげにころがった。やがて胸のどうきもおさまったころ、トムがささやいた。
ハックルベリー、おまえ、あれ、どうなると思う?」
「ロビンスン先生が死んだら、つるし首だろうな。」
「へええ、ほんとかい?」
「そうだとも、おまえ、あたりまえじゃないか。」
 トムは、しばらく考えていたが、やがていった。
「だれがいいつけるんだ? おれたちかい?」
「とんでもない。もし、インジャン・ジョーが死刑にならなかったとしたら、どんなことになるか、考えてもみな。おれたちは、いつか、まちがいなく、あいつにころされてしまうんだぞ。」
「おれも、いまそう思ってたところなのさ、ハック。」
「まあ、だれかがしゃべるとしたら、ポッターかな、あいつ、ばかだからなあ。それに、いつも、ぐでんぐでんによっぱらってやがるしさ。」
 トムは、なにもいわずに考えこんでいたが、まもなく小声でいった。
「ハック、あいつは、あのこと、知らないんだから、しゃべれやしないよ。」
「どうして知らないんだ?」
「だって、インジャン・ジョーがつきさしたときに、あいつは、はりたおされていたじゃないか。あいつがなにか見てたと思うがい? なにかわかってたと思うがい?」
「ちげえねえ、そのとおりだよ、トム!」
「それに、だ。おい、――はりたおされて、あいつ、完全にのびちまったんじゃないのかい?」
「ううん、トム、そいつぁちがうらしいぜ。飲んでやがったからな。おれには、ちゃんとわかったんだ。それに、やつったら、しょっちゅう飲んでるんだ。いいか、うちのおやじがうんと飲んでよっぱらってるときに、なんでもいいから、ごっくと頭をくらわしてみろよ、そういうときは、いくらくらわしたって、のびちまわないって話だぜ。おやじは、しょっちゅう、そういっているぜ。マフ=ポッターだって、同じことさ。もし飲んでなけりゃ、あれだけぶんなぐられたら、のびちまうだろうけどな、きっと、そうだよ。」
 トムは、また、しばらく考えたあげく、いった。
「ハッキー、おまえ、きっと、だまっていられるか?」
「おれたちは、だまってなきゃいけないんだぜ、トム。おまえだって、わかるだろう。もしおれたちがしゃべってだよ、インジャンのやつ、しぼり首にならねえでみろ、おれたちを川へほうりこむくれえ、ねこ二ひきころすよりやさしいや。なあ、おい、トム、おれたちはちかうんだ――そうしなきゃだめだ――だまっているってちかうんだ。」
「賛成だ。そいつがいいや、両手をあげて、ちかうんだろう。わたくしたちは――」
「だめ、だめ、こんなときには、そんなんじゃだめだ。つまらない、ちっぽけなことなら、それでもいいけどよ――女の子なんざあ、それでもいいよ。あいつらは、すぐうらぎりするし、つまらねえことで腹たてて、すぐしゃべるしな――こんどみたいなすげえことにゃ、書きものにしとかなくちゃいけねえや、血判をしてな。」
 トムは一も二もなく、この思いつきにとびついた。なんという深刻な、くらい、おそろしい考えだろう。それに、時間といい、あたりのようすといい、いままでのできごとといい、すべてがぴったりしていた。トムは、月の光にてらされてころがっている、きれいな松の板きれをとりあげ、ポケットから赤いチョークのかけらをだすと、月の光をたよりに、ほねおって、つぎのような文章を書いた――一字一字、下へひっぱるときには、舌を歯にはさんでかみ、上へはねるときには、そいつをゆるめながら――。
 ハック=フィンとトム=ソーヤーは、
 このことをだまっていることをちかう。
 もし、しゃべって、ちかいをやぶったときは、その場で死《し》んでも、しかたなし。

 ハックルベリーは、トムの書きかたのうまいのと、ことばのすばらしさに、すっかり敬服してしまった。で、すぐ、上着のおりかえしから針をとりだして、肉につきさそうとしたが、トムにとめられた。
「待った! やっちゃだめだよ。そのピンは、しんちゅうだろう。ろくしょうがわいているかもしれないぞ。」
「ろくしょうだ、なんだい?」
「毒なんだ。ろくしょうは毒なんだぜ。ろくしょうを飲んでみろ――ひどいめにあうぜ。」
 トムは、何本もある自分の針のうちから、一本とりだして、糸をぬいた。それから、ふたりの少年は、おたがいの親指のあたまをつっついて、血を一滴、しぼりだした。なんどもしばったあげく、トムは、小指のさきをペンのかわりにして、自分の頭文字をサインした。それから、ハックルベリーに、頭文字《かしらもじ》のHとFの書きかたを教え、ここで、ちかいは完了した。ふたりは、あやしげな儀式をし、おまじないをとなえながら、その板を壁のそばにうずめた。これで、彼らの舌をしばったかせには、がっちりとかぎがかけられ、そのかぎは遠くへ投げられたというわけだ。
 ちょうどそのとき、建物のむこうのやぶれめから、ひとりの人影が、このぼろ家にこっそりしのびこんだが、ふたりともそれには気がつかなかった。ハックルベリーがささやいた。
「トム、これで、おれたちは、もう、しゃべらないでいられるってわけだね――ずうっと?」
「そりゃそうだよ。どんなことがおこったって、おれたちはどうでも、だまっていなくちゃいけないんだ。しゃべれば、その場で死んじゃうぞ――わかってるな?」
「うん、そうだ。」
 しばらく、ふたりは、そんなことをささやきあった。と、すぐそばで――三メートルとはなれないところで――長く尾をひいた陰気な犬のほえる声がしはじめた。ふたりは、ふるえあがって、いきなりだきあった。
「おれたちのどっちに、ほえてんだろう?」と、ハックルベリーはあえぎながらいった。
「わかんないよ――すきまからのぞいてみろよ。早く――」
「だめだ――おまえやれよ、トム!」
「だめだ――おれ、おっかないよ、ハック!」
「おねがいだから、たのむぜ、トム。あれ、またなきやがる!」
「ああ、神さま、助かった!」と、トムはいった。
「あいつの声なら知ってるぜ。ブル=ハービスンだよ。」
「ああ、ありがてえ――なあ、トム、おれ、死ぬほどおっかなかったぜ。おれは、のら犬だとばっかり思ったんだもんな。」
 †原作者注――ハービスン氏が、ブルという名のどれいを持っていたとしたら、トムたちは、そのどれいを、ハービスンのブルとよぶことだろう。むすこや犬の名であれば、ブル=ハービスンである。
 犬がまたほえだした。ふたりはまた、がっかりした。
「あれ、あれ! ブル=ハービスンじゃないぜ、トム! のぞいてみろよ!」
 トムは、おそろしさにふるえながら、いわれるままに、すきまへ目をあてだ。
「ああ、ハック、のら犬だ!」トムは、ほとんどきこえないほどの声でささやいた。
「早く、トム、早く! やつは、どっちを見てほえてるんだ?」
「ハック、やつは、おれたちふたりをめあてにしてんだぜ――おれたちは、いっしょにくっついてるんだもん。」
「ああ、トム、おれたちはもう死ぬんだぜ。死ねばどこへおちていくか、きまってらあ。おらあ、悪いことばかりしてきたもんなあ。」
「ばちがあたったんだ! ずる休みしたり、しちゃいけないっていわれたことばかりしたばちなんだ。おれもちゃんとやれば、シッドみたいに、いい子になれたかもしれないのに――でも、だめだ、やっぱり、おれは、やらなかったんだ。でも、もしこんどかんべんしてくれれば、おれは、日曜学校、がまんしていく!」といって、トムは、すこし鼻をくすんくすんしはしめた。
「おめえが、わるい子だと!」と、ハックルベリーも鼻をならしながら、いいだした。
「ちきしょうめ、トム=ソーヤー、ずるいぞ。おめえはおれにくらべりゃ、りっぱなもんだ!ああ、神さま、神さま、おれが、トムの半分も、よくなるきっかけがあったらなあ。」
 トムは、ハックの話をおしとめて、ささやいた。
「おい、ハック、見ろよ! あいつはあっちへむきやがったぜ!」
 ハックはよろこんで、のぞいてみた。
「うわあ、むこうむいてやがる、ありがてえ! まえからそうだったのかい?」
「うん、そうなんだ。おれはばかだったよ。考えてもみなかったんだよ。しめたなあ、おい。だけど、だれのこと、ほえてるんだろう?」
 犬はなきやんだ。トムは耳をそばだてた。
「しいっ、あれ、なんだい?」
「ありゃ――ぶたの鼻声みたいだなあ。いや、ちがう――だれかがいびきをかいているんだぜ。トム。」
「うん、そうだ――どこいらへんだろう、ハック?」
「あっちのすみらしいぞ、とにかく、けんとうはそのへんだ。うちのおとっつあんも、ときどき、ぶたといっしょに、ここへねにきたっけ。うん、おとっつあんのいびきときたら、それこそ、そこいらじゅうのものが、がたがた、ふるえるほどだからな。それに、おれは、おとっつぁんはもう、この村には帰ってこないんじゃないかと思うんだ。」
 ふたりの少年の心の中に、ふたたび冒険心がわきたった。
「ハック、もしおれがさきにいったら、おまえ、ついてくるかい?」
「あんまりいきたくもねえな。トム、あいつは、もしかしたら、インジャン・ジョーかもしれないぜ!」
 トムは、ぞっとした。が、すぐに、いきたくてたまらない気持ちも、また頭を持ちあげた。ふたりは、いびきがやんだら、すぐにげだすことにして、ともかく、やってみることにした。そこで、ぬき足、さし足、あとさきになって、そっと進んでいった。いびきをかいている人間から五歩ぐらいてまえに近づいたとき、トムが棒をふみつけ、ぱしっとするどい音がしておれた。男はうめき声をあげ、からだをすこしねじった。すると、月の光が顔にあたった。それはマフ=ポッターだった。その男が身動きしはじめたとき、少年たちの心臓は、はたととまり、この世のおわりだという気がした。だが、顔を見ると、恐怖はあとかたもなくなった。また、つまさき立ちで、そっとそばをはなれ、こわれたはめ板からはいだし、すこしいったところで立ちどまって、わかれのあいさつを加わした。また、あの長く尾をひいた、陰気な犬のほえる声が、夜空にひびいた! ふりかえって見ると、見知らぬ犬は、ポッターのねているところの一メートルほどそばで、ポッターに顔をむけて、鼻を空に持ちあげて、ほえているところだった。
「ああ、わかった、あいつに、ほえていたんだ!」ふたりは思わず、同時にさけんだ。
「おい、トム、みんながいってたぜ。二週間ばかりまえ、夜中に、ジョニー=ミラーんちのまわりを、のら犬がうろついて、ほえてたんだって。そいから、よたかがまいこんできて、てすりにとまってないたっていうぜ、その晩にさ。そいだのに、あすこんちじゃ、まだ、だあれも死なないな。」
「うん、そいつぁおれも知ってる。だあれも死なないようだな。だけど、すぐつぎの土曜日に、グレイシー=ミラーが台所のかまどにおっこちて、大やけどしたじゃないか。」
「うん、でもまだ死なないぜ。死なないどころじゃない、よくなってるってこったぜ。」
「うん、そうだ。だけど、まあ見ててみなよ。グレイシー死に神に見こまれてるぜ。マフ=ポッターみたいにさ。もうだめだって、ニグロはいってるぜ。こういうことときたら、あいつらはよく知ってるからな、ハック。」
 ふたりの少年は、もの思いにしずみながらわかれた。トムが、寝室の窓からはいりこんだときは、夜明けに近かった。トムは用心ぶかく服をきがえ、この脱走がだれにも知れなかったことをよろこびながら、ねむってしまった。じつは、しずかにいびきをかくふりをしながら、シッドが目をさましていたのに、まったく気がつかなかったのだ。シッドは、一時開もまえから目をさましていた。
 トムが目をさましたときは、シッドはとうにきがえをして下へおりていったあとだった。あたりの明るさを見ても、もう、だいぶん、おそいようだったし、うちの中のようすもなんとなく、おそいような感じだった。トムはびっくりして、はねおきた。なぜ、だれも、おこしにこなかったのだろう――なぜ、いつものように、おきあがるまでうるさくいわれなかったのだろう? なにかめんどうなことがおこっているな、という不安が、あとからあとからわいてきた。トムは、五分とたたぬうちに服をきかえて、下へおりていった。気持ちがわるく、また、ねむかった。家じゅうの者は、まだ食卓についていたが、食事はもう、おわっていた。だれも、しかりはしないが、みんなが目をそむける。だまりこくったみんなの、なんとなくきゅうくつな空気が、罪人の心をひやりとさせた。トムは、こしをかけ、陽気なふりをしてみせようとするが、ひととおりのほねおりではない。だのに、えがおを見せる者はないし、へんじをする者もない。トムの心はゆううつの底にしずんだ。
 食事がすむと、おばさんは、ちょっと、トムをわきへよんだ。ぶたれるのかと思って、トムはかえって、気が軽くなった。が、――ぶたれるのではなかった。おばさんはなきながらどうして、そういたずらをして、この年寄りの心を悲しませるのかと、くどいた。そして、おまえには、もう、ほとほと手のつけようもないのだから、いっそ、いつまでもそんなあくたれをつづけて、身をほろぼすがいい、そして、しらが頭のおばさんがなげきのあまり、お墓にいくところまでやっておくれ、といった。これは千のむちよりもこたえた。トムの、心の苦しみは、からだの苦しみよりひどかった。トムはないて、ゆるしをえて、これからは、きっと、きっと、おこないをあらためるから、と約束した。そして、やっとゆるされたけれど、おばさんが心の底からゆるしてくれたのではないこと、ほんとうに信頼されたわけでないことはわかっていた。
 トムは、あまりにみじめな気持ちで、おばさんのそばをはなれたので、シッドにしかえししてやろうという気さえ、おこらなかった。だから、シッドがうら門から、さっと、とびだしたのは、まったく、むだなことといってよかった。トムは、悲しく重い心をいだいて、ぼんやりと、学校へ歩いていった。そして、学校では、ジョー=ハーパーといっしょに、まえの日ずる休みしたというので、むちのおしおきをくったが、その心は、はるかに大きい悲しみのために、こんなちっぽけなことにかかわっていられない、というふうにみえた。それから、自分の席についたが、つくえにひじをつき、両手であごをささえ、苦しみのゆきどまりまでいって、感じがなくなった人のような、表情のない目で、じっと壁をにらみつけていた。トムのひじの下に、なにかかたいものがさわった。しばらくたってから、ゆっくり、悲しげに、からだの位置をかえ、ため息をつきながら、それをとりあげた。それは紙につつんであった。トムは、ほどいてみた。すると、長い、なかなかきえない、とてつもない大きなため息がもれた。トムの心は、うちくだかれた。それは、あの、炉の馬の上についている、しんちゅうのつまみだった! この、さいごのベッキーのしうちに、ひとたまりもないほど、トムの心は悲しみでいっぱいになっていたのだ。

11 うなされるトム
 昼近くなると、村じゅうは、ぶきみなニュースに、とつぜん、わきたった。そのころまだ夢にも知られていなかった電報などは、たとい、あったとしても、その必要はなかった。それは、人から天へ、むれからむれへ、家から家へ、ほとんど同じくらいの速さでつたわっていった。校長先生は、もちろん、午後の授業をやめた。そうしなかったら、村の人たちは、おかしな校長だと考えたにちがいない。
 血にそまったナイフが、ころされた人間のすぐそばで発見された。だれかが、そのナイフは、マフ=ポッターのものだとみとめた――というように、話はつたわっていった。また、夜おそく帰ってきた村の人が、夜中の一時か二時ごろ、支流で、からだを洗っているポッターにでくわした。ポッターは、すぐ、こそこそにげだしたということだった――なにしろあやしい、とくに、からだを洗っていたというのがあやしい。ポッターは、いつも、からだなど洗う習慣がなかったのだから。――村じゅうで、この〈殺人犯〉(人びとは、証拠をせんさくしたり、判決をくだしたりしたがるものである)を、追いまわしたが、まだ、みつけることはできなかったという話もあった。騎馬の人たちが、四方八方へとび、警察署長は、夜になるまでに、ポッターは逮捕されるだろうと〈確信して〉いた。
 村じゅうの人間は、墓地へひきよせられていった。トムは、心のうずきもきえて、行列にくわわった。もちろん、できれば、なんとか、ほかのところへいきたかったが、こわいもの見たさが、なんともいえない力で、トムをひっぱっていったのである。おそろしい現場へつくや、トムは、小さいからだで、群集をかきのけ、まえへでて、むごたらしい、光景をながめた。なんだか、まえにきたときから、一年もたったように思われた。だれかが、トムの腕をつねった。ふりかえってみると、ハックルベリーの目にぶつかった。ふたりは、すぐ目をそらし、いまやった目くばせが、だれかに感づかれはしなかったかと、あたりを見まわした。だが、みんなはなにかしゃべっていた。そして、目のまえのむごたらしい光景に、心をうばわれているようすだった。
「かわいそうに!」
「いい若い者が!」
「これが、墓あばきのみせしめになればいいさ!」
「マフ=ポッターは、つかまったら、まず、しぼり首ですね!」
 みんなが話しているのは、だいたい、そんなふうなことだった。牧師は、
「これは、神のさばきです。神の手がここにあるのです」といった。
 このとき、トムは、頭から足のさきまで、身ぶるいした。インジャン=ジョーの、ずうずうしい顔が、目にはいったからである。ちょうどこのとき、群集がどよめき、口々にさけんだ。
あいつだ! あいつだ! あいつ、自分からやってきたぜ!」
「だれだ? だれだ?」と、二十人もの声がさけんだ。
「マフ=ポッターだ!」
「ほら、立ちどまったぜ!―気をつけろ、むきをかえたぞ! にがすな!」
 トムの頭の上の木にのっている者が、
「ポッターは、にげだそうとしているわけではない――ただ、どうしていいかわからないで、うろうろしているだけだよ」といった。
「ずうずうしいごうつくばりめ!」と、ひとりの見物人がいった。
「自分のしたしごとを、検分とおいでなすったな――見物人は、ひとりもあるまいと思ったにちがいない。」
 群集は、道をあけた。署長が、これみよがしに、ポッターの腕をつかんで、やってきたあわれな男の顔は、やつれていた。目は、ふりかかってきた災難におびえていた。ころされた男のまえに立ったとき、彼のからだは、ぶるぶるとふるえ、両手で顔をおおって、わっとなきだした。
「おれがやったんじゃねえよ」と、彼はしゃくりあげながらいった。
「ほんとに、おれのやったことじゃないんだ。」
「だれが、おまえがやったといった?」と、さけぶ者があった。
 このことばは、ポッターの急所をついたらしかった。彼は、顔をあげ、目に悲しい絶望の色をうかべて、おずおず、あたりを見まわした。ポッターは、インジャン・ジョーをみつけて、さけんだ。
「ああ、インジャン・ジョー、おまえは、おれと約束したじゃないか、おまえは、けっして――」
「これは、おまえのナイフか?」と、署長がナイフをポッターのまえにさしつけた。
 もし、このとき、まわりの者が、彼をささえないでいたら、きっと、彼は、へなへなとたおれてしまったにちがいない。ポッターはいった。
「なんだが、これをとりに帰ってこなけりゃならないような気がしたんで、それで――」
 彼は、ふるえだした。力なく手をふって、もうだめだというように、
「話してくれ、ジョー、みんなに話してあげてくれ――もう、なんの役にもたたねえだろうが」といった。
 ハックルベリーとトムは、だまりこくったまま、目ばかり光らして、あの冷酷なうそつきが、すましてぺらぺらとしゃべりたてるのをきいていた。ふたりは、いまにも、晴れた空から、この悪者の上に、神のいかりのかみなりが、おちてくるのではないかと待ちのぞみ、どうしておちてこないのだろうと、ふしぎに思った。そして、すっかり話しおわっても、まだへいきで、ぴんぴんして立っているのを見ているうちに、自分たちふたりのちかいをやぶって、このうらぎられた、あわれな囚人のいのちをすくってやろうかという気持ちもなくなってしまった。この悪漢は、たましいを悪魔に売りわたしたのだから、そんなやっと、なにかもめごとでもおこしたら、こっちのいのちがあぶない、と思ったからである。
「なぜ、おまえは、にげなかったんだ、なんだって、また、ここへくる気になったんだ?」と、だれかがきいた。
「こずにゃいられなかったんだ――こずにゃいられなかったんだ」と、ポッターはうめいた。
「おれは、にげだしたかったんだけど、どこにもいけなかったんだ」といって、またなきくずれた。
 インジャン・ジョーは、まもなくはしまった正式の尋問のときにも、ちかいをたてて、しずかに、まえにのべた話をくりかえした。それでも、かみなりは、とうとうおちてこなかった。これを見て、少年たちはいよいよ、ジョーがたましいを悪魔に売りわたしたという確信を深めた。こうなると、ジョーは、ふたりにとって、いままで見たうちでいちばんぶきみな、興味のある人間となったわけで、ふたりの目は、すいよせられたように、その顔からはなれることができなかった。
 ふたりは、夜、見はっていてやろう。もし、機会があったら、あいつの親玉の悪魔を、ひとめでも見ることができるかもしれないからと、ひそかに決心した。
 インジャン・ジョーは、死体をもちあげたり、車にのせたりするのをてつだった。ふるえあがっている見物人のあいだに、きず口からたらたらと血《ち》が流れた、というささやきがおこった。少年たちは、こういううまい事実があらわれたからには、嫌疑は正しい方向にむいていくのではないかとよろこんだが、村の人たちが何人も「血がでた場所は、マフ=ポッターから三メートルとはなれていなかった」というので、失望した。
 おそろしいひみつと、良心の苛責のために、一週間たっても、トムは、よくねむることができなかった。ある朝、食事をしながら、シッドがこんなことをいいだした。
「トム、きみがねながら、あばれたり、寝言をいったりするもんだから、ぼくは、よくねられないんだ。」
 トムは、まっさおになって、うつむいた。
「わるい兆候だね」と、ポリーおばさんは、まじめにいった。
「おまえ、なにか気にかかっていることがあるんだね、トム?」
「ないよ、なにも気にかけてやしないよ」と、トムは答えたが、手がひどくふるえて、コーヒーをこぼしてしまった。
「そいでね、こんなことをいうんだぜ」と、シッドはいった。
「ゆうべなんか、『血《ち》だ、血だ、あの血だ!』なんて、なんどもいったぜ。それから、『そんなに、おれをいじめないでくれえ――話しちまうよ!』なんていうのさ。話すって、なにを話すっていうんだい? 話すってのは、なんのことだい?」
 あらゆるものが、トムの目のまえをぐるぐると回転した。つぎになにがおこるか、まるっきりわからなかった。ところが、いいぐあいに、ポリーおばさんの顔から、さっと心配のかげがきえさると、おばさんは、自分では知らずに、トムを助けてくれた。
「そうだ! そりゃね、あのおそろしい人ごろしのせいだよ。わたしも、毎晩のように、夢をみるんだよ。どうかすると、自分がやったような夢までみるんだからね。」
 メァリーも、同じようにひどく苦しめられている、といった。シッドはなっとくしたようだった。トムは、めだたぬように、できるだけ早く、その場をぬけだしたが、それからというもの、歯がいたいという口実をもうけて、毎晩、あごをしばってねることにした。トムはシッドが毎晩見はりをし、ときどき、あごのほうたいをはずして、自分は、ひじをつきながら、かなり長いあいだ、耳をすまし、それからまた、ほうたいをもとの位置にもどしておくことは、まったく知らなかった。トムの心のなやみは、だんだんうすれて、歯いたみもめんどくさくなったので、ほうたいはやめてしまった。もしも、シッドが、トムのきれぎれの寝言の中から、なにかをほんとに知ったとしたところで、シッドは、それを、だれにも話さなかった。
 トムの学校友だちが、ねこの死体を使って、検死ごっこをはじめ、それをいつまでもやめないので、トムは、自分の心配ごとをわすれるひまがなかった。この遊びのとき、トムがけっして検死官にならないのに、シッドは気がついた。新しい遊びといえば、なにをおいてもでしゃばったトムなのに――そればかりか、トムは証人の役もつとめようとしなかった――なんといっても、これはおかしい。トムがこの遊びをひどくいやがり、いつも、できればそれをさけていることも、シッドはみのがさなかった。シッドは、ずいぶんふしぎに思ったが、なにもいわなかった。けれど、この遊びも、やがてはやらなくなり、トムの良心を苦しめなくなった。
 こういうみじめさをあじわっていたころ、トムは、毎日のように、すきをみては、鉄棒のはまっている小さい窓のついた牢屋へでかけていって、窓からあの〈殺人犯〉に、自分の手にはいるようなささやかなものを、そっと、さし入れてやった。牢屋といっても、それは、村はずれのじめじめした土地にたっている、れんがづくりの小屋で、いつも番人はいなかった。中に罪人がはいっていることは、それほどめずらしかったのだ。そして、このさし入れをすることで、トムの良心はおおいになぐさめられた。
 村人たちは、インジャン・ジョーも、死体をぬすんだのだから、からだにコールタールをぬり、その上を羽でくるんでレールにのせ、ひきまわしたいと熱望した。ジョーがあんまりおそろしい人間だったので、だれも、さきだちになろうという者もなく、その話は、いつのまにか、たちぎえになってしまった。ジョーは、二どの尋問に、二どとも注意ぶかく、けんかのところから話をはじめ、そのまえにおこなわれた、墓あばきのことは告白しなかった。だから、とうぶんのあいだ、この事件は、裁判にもちださないほうがいいだろうということになった。

12 しろうと療法とねこ
 なぜ、トムが、あの人知れぬ心のなやみを、しだいにわすれていくようになったかというと、それは、ここに一つ、べつな新しい問題がふってわいてきたからである。べッキー=サッチャーが学校へこなくなったのだ。トムは、数日自尊心とたたかってから、べッキーなどは、〈すててしまおう〉と思ったが、だめだった。夜になると、ベッキーのうちのまわりを、うろつきまわったが、なんだか、ひどく、みじめな気持ちがした。べッキーは、病気だった。ああ、ベッキーが死んでしまったら、どうしよう! 考えると、気がくるいそうだった。トムはもう、戦争ごっこに興味もなく、海賊ごっこさえも、ちっともおもしろくなかった。生きる楽しみがなくなってしまった。ただ、あとにのこったのはさびしさだけだった。トムは、輪まわしをほうりだし、バットも投げだしてしまった。そんなものは、もう、ちっともおもしろくなくなってしまったのだ。おばさんは心配した。そして、トムにいろいろな療法をこころみはじめた。ポリーおばさんという人は、新発明の健康増進法とか、できたての新薬とかいうと、すぐにむちゅうになるたちだった。こういうことにかけては、じつに熱心な実験者だった。なにかこの方面に新機軸でもあらわれたとなると、すぐにむちゅうになって、それをやってみる。けれども、それを自分にこころみるということはなかった。というのは、おばさんは、けっして病気になったためしがないからだ。それで、かわりに、手近にいる人が、実験台にされることになる。おばさんは、いろんな〈健康〉雑誌や、いんちき骨相学雑誌の定期購読者だった。そして、おばさんにとっては、こういう種類のものにあふれている、あの、ばからしさがだいじなのだった。換気法は、どうしたらいいか、寝床につくには、どうしたらいいか、おきるときは、どうしたらいいか、なにをたべ、なにを飲んだらいいか、運動はどのていどにしたらいいか、どんな気分でいたらいいか、どんな服をきたらいいか――こうした種類のたわごとは、おばさんにとって、神のみことばだった。今月の健康雑誌に書かれている記事は、前月号にすいせんされた記事とは反対だということには、まるで、気づかないようすである。おばさんは、たいそう単純な、まっ正直な人だったので、すぐにだまされたのだ。おばさんは、いんちき雑誌をそろえ、いんちき薬を集め、いわば、死をもって武装し、青白き馬にまたがって、地獄をひきつれて、かけまわっていたのである。けれども、おばさんは、自分はなやめる隣人たちにとっての、すがたをかえた、治療の天使であり、ギリアドの香油であると、かたく信じていた。
 水療法が、そのときのはやりだった。トムのぶらぶら病気は、おばさんにとって、もっけのさいわいだった。毎朝、トムは、日なたへつれだされ、たきぎ小屋につれていかれて、つめたい水をいやというほど、あびせかけられ、それから、タオルでむやみやたらに、ごしごしこすられる。そこで息をふきかえす。それから、ぬれた毛布でくるまれ、さらに毛布を何枚もかけられ、たましいが洗いきよめられるまで、あせを流させられる。それは、トムのことばを借りれば〈毛穴から黄いろいしみがふきだす〉のだそうである。
 なんどか、この療法はつづけられたが、トムは、ますますゆううつになり、青くなり、げんきがなくなるばかりだった。それでおばさんは、そのうえ、温浴、座浴、灌水浴《かんすいよく》、全身浴というような療法をくわえてきた。トムは、まえとかわらず、霊柩車のようにゆううつだった。そこで、こんどは、オートミールのうすがゆの食餌療法、発泡膏もくわえはしめた。おばさんは水さしでもはかるように、トムの容量を計算して、毎日毎日、その中へあらゆるいんちき万能薬をつめこんだのである。
 こう新手をくわえてせめたてられると、トムは、どうともなれ、と考えるようになっていった。このトムの新しい事態に、おばさんはおおいにおどろいた。なんとしても、この無関心はうちくだかねばならない。ちょうどそのころ、おばさんは、はじめて、新しい鎮痛剤の話をきいた。それで一どに、大量に注文した。自分で、その味をためしてみて、おばさんはすっかり感謝にみちあふれた。つまり、それは、火を液体にしたようなものだ。おばさんは、水療法やそのほか、これまでこころみたすべての療法をやめ、鎮痛剤一本にこりかたまった。そして、トムに茶さじ一ぱい飲ませると、そのききめを、一心不乱に見守った。おばさんの心配は、たちまち消滅し、心はまた平和をとりもどした。トムの〈無関心〉はきえさった。もしかりに、おばさんに火あぶりにされても、こんなにもあらあらしい、げんきいっぱいの〈態度〉はあらわさなかったにちがいない。
 トムは、もう、目をさますときがきたと思った。こういう生きかたは、いままでのようなげんきのない状態のときは、ロマンチックでいいかもしれないが、それにしては、ひどくおもむきがなくなってきたし、そのうえばかに気ちがいじみたことが多すぎた。そこで、なんとかぬけだす方法はないものかと、いろいろ考えたすえ、あの鎮痛剤がすきになったとすすんでいいだそうと、思いついた。そこで、あまりたびたびさいそくするので、おばさんは、とうとう、うるさくなって、自分でかってにお飲み、あまり手数をかけるのはやめとくれというようになった。もしこれがシッドだったら、おばさんは、なにも気にかけることもなく、心からよろこんだだろう。しかし、トムのことだからと、ひそかに薬びんに注意をおこたらなかった。薬はちゃんとへっていった。が、さすがのおばさんも、トムが居間の床板のわれめに治療をほどこしているのだとは、すこしも気がつかなかった。
 ある日、トムが床のわれめに、例の薬をやっていると、おばさんの黄いろいねこがやってきて、ごろごろ、のとをならし、いかにも、ほしくてたまらないように、さじをながめ、ちょっとなめさせてもらいたい、というようすをした。トムはいった。
「ほんとに、ほしいんじゃなきや、飲みたがるもんじゃないよ、ピーター。」
 しかし、ピーターは、ほんとに、ほしそうなようすをした。
「ほんとかい?」
 ほんとうですよ、とピーターはいっているらしい。
「よし、おまえがはしがるんなら、やるとしよう。もうおれの知ったこっちゃないぜ。なめてみて、いやだとわかったって、おまえがわるかったんだぜ。ひとのせいにしてもだめだぜ。」
 ピーターは、承知した。そこでトムは、ピーターの口をこじあけて、鎮痛剤を流しこんだ。ピーターは、二ヤードばかり空中にとびあがった。ときの声をあげ、へやじゅうぐるぐるかけまわった。家具にぶっかったり、植木鉢をひっくりかえしたりして、そこらしゅうあらしまわった。こんどはうしろ足でひょいと立ち、むちゅうになって、よろこびながらはねまわった。首をそらして、なきわめく声は、このうえもないうれしさをあらわしていた。と、また、へやの中を、ものすごい、いきおいで走りまわり、めちゃめちゃにひっかきまわし、あたるをさいわい、みなぶちこわした。ポリーおばさんがかけこんできたときは、つづけざまに、とんぼがえりをうち、さいごのばんざいをさけんで、おいていた窓から、まだ、のこっていた植木鉢を足にひっかけて、とびだしていくところだった。おばさんは、あっけにとられて、棒立ちになって、めがねごしに目を見はった。トムは床にころがって、腹をかかえてわらっていた。
「トム、いったい、あのねこ、どうしたんだい?」
「ぼく知らないよ、おばさん」と、トムは、はあはあ息をはずませながら、やっと答えた。
「まあ、わたし、あんなの見たことがないよ。なんだって、あんなことをやりだしたんだい?」
「ほんとに、ぼく知らないよ、おばさん。ねこ、気がむきゃ、いつだって、ああなんだよ。」
「へええ、そう? そうかねえ?」
 その調子に、トムは、ちょっと、はっとした。
「そうさ、おばさん、ぼくはそうだと、ほんとに信じているよ。」
「信じている?」
「うん。」
 おばさんは、かがみこんだ。トムは、心配で胸をどきどきさせながらみつめていたが、おばさんの〈考え〉がわかったときは、時すでにおそかった。寝台のかげから茶さじの柄が、これ見よがしに顔をのぞかせていた。ポリーおばさんは、それをとりあげ、かざしてみた。トムは、ちぢみあがって、目をふせた。おばさんは、いつも、つまみなれた、トムのハンドル――つまり、耳をつまみあげると、指ぬきをはめた手で、強く頭をこづいた。
「さ、なんでおまえ、あの口もきけないけだものに、あんなひどいことをする気になったのかい、さあ、わけをいいなさい!」
「かわいそうだから、やったんだよ――だって、あいつにゃ、おばさんはいないもん。」
「おばさんがいない!――ばかだね、おまえ。それとこのことと、どういう関係がある?」
「うんとあるさ。もしあいつにおばさんがあれば、だよ、おばさんが、自分であいつに火をやれるもん。まるで、人間じゃないみたいに、はらわたを焼いてやれるだろ!」
 きゅうに、ポリーおばさんは、後悔の気持ちにおそわれた。こういわれると、事情がまるっきりちがってきたように思われた。ねこにもざんこくなことは、人間の子にもざんこくなことかもしれぬ。おばさんは、心がやわらぎはじめ、ふと、トムがかわいそうになってきた。彼女は、すこし目に涙をにじませて、トムの頭に手をおくと、やさしくいった。
「おまえに、いちばんいいことをしてやったつもりだったんだよ、トム。ねえ、トムや、あれで、おまえ、なおったんだよ。」
 トムは、まじめな顔つきのうちに、ちらりとおかしそうな色をうかべて、おばさんを見あげた。
「ぼくだって、おばさんが、いちばんいいことをしてくれたの知っているよ、おばさん。だから、ぼくだって、ピーターに、してやったんだ。ピーターにだって、よくきいたんだよ、おばさん。ぼくは、あいつがあんなにげんきに走りまわるのを見たことないぜ。――」
「ええっ! やめとくれよ、トム。また、おこりたくなるじゃないか。おまえが、いい子になれるかどうか、一どだけでもいいから、やってごらん。そうすりゃ、もう薬はいらないからね。」
 トムは、学校のはじまるまえに学校へついた。みんなは、このふしぎなできごとが、近ごろ、毎日のようにおこるのに気がついていた。きょうも、いつものように早くきて、友だちとも遊ばず、校門のあたりでぶらぶらしていた。トムは病気だといっていたが、なるほど、そんなふうにもみえた。そしてじっさいは、道のほうばかり気にしているのに、ほかのところばかり見ているようなふりをした。と、やがて、ジェフ=サッチャーがあらわれた。トムは、ああと息をつき、その顔は明るくなった。そして、じっと、ジェフをみつめたが、すぐ悲しげにわきをむいた。ジェフはそばまでくると、トムは話しかけ、いろいろと考えて、べッキーのことをしゃべらせようとかまをかけてみるが、このそそっかしやは、ちっともトムのさそいには気がつかなかった。トムは、いつまででも見はりをつづける。そして、ひらひらする女の子の服が見えるたびに、こんどこそ、ベッキーかもしれないと思うのだった。けれども、それがベッキーでないとわかると、その子をにくんだ。とうとう、もう、女の子の服はあらわれなくなった。トムはがっかりして、だれもいない教室にはいっていくと、こしをおろして、悲しんだ。すると、ひらひらする女の子の服が、さっと門をはいってくるのが見えた。トムの心は、はずんだ。トムは、ぱっと外へとびだすと、インディアンのように突進した。さけび声をあげたり、わらったり、子どもたちを追いまわしたり、生命の危険をおかして高いかきねをとびこえ、とんぼがえりをうったり、さか立ちしたり――思いつくかぎりのあらゆる英雄らしいふるまいをし、そのあいだ、たえず横目で、べッキー=サッチャーが見ているかどうかを、うかがっていた。だが、ベッキーはすこしも、そんなことには気がつかないようだったし、ふりむきもしなかった。トムがここにいるのを、気がつかないなんて、そんなことがあるだろうか? そこで、さらにそばへよって、やってみた。ときの声をあげながらぐるぐるまわったり、友だちのぼうしをひっさらって、校舎のやねの上にほうりあげたり、少年たちのあいだをつっきって、みんなを四方八方へけちらし、まるで、自分は、ベッキーをつきたおしそうにして、その鼻さきへつんのめった――すると、ベッキーはつんとして、そっぽをむいた。そして、つぎのようなことばが、トムにきこえてきた。
「ふん! だれかさんてば、みせびらかして、あれで自分じゃすてきだと思っているんだわ。」
 ドムは、まっかになった。身づくろいをととのえると――すっかりうちしおれ、うなだれて――こそこそとにげだした。


13 海賊団《かいぞくだん》の出帆《しゅっぱん》
 トムは、ようやく心をきめた。ゆううつで、どうにでもなれという気持ちだった。自分は見すてられた、友もない少年だとトムは思った。だれも自分を愛してはくれない。みんなは、トムをどんなところへ追いやったかということを知ったら、きっと、くやむだろう。自分は、正しいことをしようと思ったのに、みんなが、やらせてくれなかったのだ。世間は、どうでも、トムを追いはらおうというのだから、そうされるほかはない。その結果どうなろうと、このトムをとがめればいいんだ――みんなは、このおれをとがめさえすればいいんだ、友だちもない人間か、もんくをつける権利なんかありゃしないのだ。そうだ、世間のやつがむりやりに、トムを、こんなはめにおとしいれたのだ。よし、これからは、罪人になってやろう。そのほかに道はないんだ。
 こんなことを考えているうちに、トムは、牧場小路のずっとさきのほうまでやってきていた。始業のベルの音が、かすかにきこえてきた。あのなつかしい音も、もう、これからは、けっして、けっして、きけないのかと思うと、なけてきた――とても、つらいことだ。が、みんながむりにおしつけるのだから、これが運命なのだ。世の荒波にほうりだされたからには、この運命にしたがうよりほかはないのだ――だが、トムはみんなをゆるすことにした。涙が、あとがらあとから、こみあげてきた。
 トムの心の親友、ジョー=ハーパーにあったのは、ちょうどこのときだった――ジョーもまた、こわい目つきをして、心の中深く、おそろしい決心をかためているようすだった。これこそ、〈思いは一つ、身は二つ〉だった。トムは涙をそででふきながら、うちでかまってくれない、つらい生活をふりきって、広い世界にむかって、二どと帰らぬ旅にとびだす決心をした、などと、なきながら、とぎれとぎれに、しゃべりはじめ、さいごに、おれのことをわすれないでくれ、と結んだ。
 ところが、ジョーもまた、同じことを、トムにだのもうと思って、いまそのために、さがしまわっていたのだということがわかった。ジョーは、クリームをなめたからといって、おかあさんからむちでぶたれたのだ。が、彼は、クリームなんて、なめたおぼえもなければ、そんなものがあることさえ知らなかったのだ。きっと、おかあさんは、ジョーがきらいになって、どこかへいってしまえばいいと思っているのだ。おかあさんが、そんな気持ちなら、それにしたがうよりしかたがない。ジョーは、おかあさんが幸福に暮らしてくださるようにねがっている。そして、かわいそうなむすこを、つめたい世間へ追いやって、苦労させたすえ死なせたとしても、どうかくやまないでもらいたいと思っているということだった。
 ふたりは、いっしょになげきながら歩いていくうちに、おたがいに助けあい、きょうだいになって、死によって、たがいの苦難がなくなるまで、けっしてわかれないという、新しい約束を結んだ。それから、ふたりは計画をたてはじめた。はじめジョーは、隠者になって、人里はなれたほら穴で、パンくずをなめながら、やがて、寒さと飢えと悲しみのために、死んでしまうつもりだった。しかし、トムの考えをきいてからというもの、罪の生活のほうがはるかに生きがいのあること、ぐあいがいいことをみとめ、海賊の一味にくわわることに賛成した。
 セント-ピータースバーク村を三マイルばかりくだったあたり、ミシシッピ川が、一マイルあまりの川幅になるところ、ちょうどそのあたりに、立ち木のしげった細長い島があり、島の上手には浅瀬があって、それが、舟つき塲にはかっこうの場所になっていた。島には、人は住んでいなかった。こっち岸からはずっとはなれていて、対岸の、ほとんど無人の深い森林に接近している。ふたりは、このジャクスン島をえらんだ。この海賊団におそわれるのは、どういう人か、そんなことは、まるで考えてみなかった。ふたりはハックルベリー=フィンをさがしにいった。ハックもすぐに、なかまにくわわった。ハックには、どんな生活も同じだった。どっちでもよかったのである。そこで、彼らは、ひとまずわかれた。そのときには、すでに、村から二マイルばかり川上の、あるさびしい場所で、おこのみの時間――すなわち、夜中の十二時――におちあうことに約束ができていた。そこには、丸太を組んだいかだがあったので、まず手はじめに、それをぶんどるつもりであった。めいめい針とつりざお、それに――海賊になったのだから――できるかぎりこっそりと、人目につかない方法でぬすみだした食料品を持っていくことになった。そして、村じゅうに、まもなくみんなは「なにかのうわさをきくだろう」と、日が暮れるまでふれまわって、三人とも、いい気持ちになっていた。このなぞみたいなことばをきいた者は、だれもが、「だけど、そのときまで、だまっているんだぞ!」と、くぎをさされていた。
 ま夜中近く、トムは、ハムだの、あと、ちょっとしたものをすこしばかり持って、約束の場所を見おろす低いがけの上のやぶの中に立っていた。星はきらきらとかがやき、あたりはしずまりかえっていた。雄大な川が、大洋のようにしずかにひろがっていた。トムは、ちょっとのあいだ、耳をすましてみた。だが、この静けさをやぶるもの音は、なにひとつなかった。そこで、彼は、低く、はっきり口笛をふいた。がけの下から、答えるように、口笛がかえってきた。トムは、つづけて、二どふいた。同じような答えがあった。それから、あたりをはばかるような低い声がきこえてきた。
「たれか?」
「トム=ソーヤー、南海の復讐鬼。なんじらも名をなのれ。」 「凶状《きょうじょう》持ちのハック=ワイン、海のかみなり、ジョー=ハーパーだ。」
 この名は、トムが、自分の愛読書の中からえらんでおいたのである。
「よし。さらば、あいことばは。」
 おしころしたような二つの声が、たれこめた夜のやみにむかって、同時に、おそろしいことばをはいた。
「流るる血しお!」
 そこで、トムは、トムのつつみをがけの下にほうり投げ、つづいて、自分も、ころがりおちた。そのおかげて、服や手足は、ちょっときずをおった。がけの下には、岸ぞいに歩きよい道がついていたが、そこには、海賊ごのみの、困難や冒険のおもしろみはなかった。
〈海のかみなり〉は、ベーコンの片身を持ってきたが、それをここまでかつぎだしてくるのに、ほとんどつかれきっていた。〈凶状持ち〉のワインは、フライパン一つと、なまがわきのたばこの葉をかなりたくさんと、パイプにするとうもろこしの穂の軸とを、ぬすみだしてきていた。しかし、この海賊のなかまで、たばこをふかしたり、かんだりするのはハックだけだった。〈南海の復讐鬼〉は、まず、火がなければはじまらないといいだした。これは、かしこい考えだった。そのころは、まだ、マッチというものが、ほとんど知られていない時代だったからだ。百ヤードばかりむこうの大いかだの上に、たき火がくすぶっているのが見えた。三人は、そっとしのびよって、火種をひとかたまりとってくるのに成功した。それも、本式の冒険らしく、たえず「しいっ!」「しいっ!」といったり、くちびるに指をあてて、きゅうに立ちどまったりした。しゃべるな、というあいずなのだ。短剣のつかに手をかけるしぐさをして、〈敵〉がさわいだら、「ぐさりとやっちまえ」「死人に口なしだからな」などと、ふくみ声で命令したりした。いかだ乗りたちはみんな村にくりだし、いまごろは店でねそべったり、どんちゃんさわぎをしたりしているまっさいちゅうだということは、ちゃんと知っていたのだが、海賊らしくないやりかたでは、申しわけがただないと考えたからであった。
 いよいよ、いかだを川へおしだした。トムは船長、ハックはとも(船尾)のオール、ジョーはへさき(船首)のオールをとった。トムは、まゆをひそめ、腕をくみ、中央部に立ち、低い、おもおもしい声で、命令をくだした。
「風上にむけろ!」
「おう、がってんだ!」
「直行、直行おおお!」
「直行!」
「一点、 風下だ!」
「一点、 風下!」
 少年たちは、正しい、同じ調子でオールをあやつり、いかだを中流までこぎだした。トムの命令が、ただ〈体裁上〉くだされるのであって、とくにどうという意味もないことは、みんな、よく知っていた。
「いまあがってる帆は、なにか?」
「コーセス(下桁横帆)と、トプスルス(中檣帆)と、フライングージブ(三角帆)でさあ。」
「ラヤルス(最上檣帆)をあげろ! 六人ばかり、上へあがれえ――フォア・トップマスト・スタンスルス(前方中橋補助帆)だ! げんきよく、そうら!」
「おう、がってんだ!」
「メイン・トギャランスル(主上帆檣)をはるんだ! シート(帆脚索)、プレイス(操桁索)!それ、みんな!」
「おう、がってんだ!」
「ヘルム(舵柄《だへい》)下手へ、――面舵いっぱい! 面舵、面舵! それ、みんな! しっかりせえ! 直行おお!」
「直行おお!」
 いかだは、川の中央をこえた。少年たちは、へさきを正しい方向にむけ、オールをこぐ手を休めた。流れは、速くなかった。時速二、三マイルをこえなかったろう。その後四十五分ほどは、だれも、ほとんど口をきかなかった。いかだは、いま、はるかに村をながめながら、進んでいくところだった。星くずをちりばめた、くらい、広い川づらのむこうには、二つ三つのあかりがまたたいて、このおそろしい大事件も知らぬげに、村は、おだやかにねむっていた。
〈復讐鬼〉は、腕ぐみをして、つつ立つたまま、まえにはよろこびの場所であり、のちには悲しみの場所となった村に、〈さいごのおわかれ〉をし、いま、自分が荒海へのりだし、死の危険にひるまず、くちびるに冷笑をうかべながら死んでいくところを、〈あの子〉が見てくれたらなあ、と思った。村からひとまたぎにある、ジャクスン島を、遠くへうつしてしまうくらいのことは、トムの想像力をもってすれば、朝めしまえのしごとだったので、この〈さいごのおわかれ〉を、苦しいながらまんぞくしたような気持ちで、やってのけたわけである。なかまの海賊どもも、同じように、さいごのおわかれをした。だが、三人とも、あまり長いあいだみつめていたので、あやうく、流れに乗って、島からずっとはなれそうになった。しかし、うまいぐあいに、この危険な状態に気づき、進路をかえ、流れをかわすことができた。そして、夜中の二時ごろ、島の上流二百ヤードばかりのところにある砂州に、ぶじに、いかだをのりあげ、なんども、いったりきたりして、荷物をあげた。いかたには、古い帆がついていたので、これもひきあげて、やぶの中の奥まったところにはりめぐらし、食料品をかくしておくテントにした。しかし、自分たちは、もとより悪漢らしく、陽気のいい戸外でねむることにした。
 三人は、くらい森の中へ、二、三十歩はいったところにたおれている木のかけて、火をおこし、フライパンで、ベーコンをあぶり、持ってきたとうもろこしのパッを、半分もたいらげて、夜食とした。人間のすみかから、はるか遠くはなれた、未開無人の島の原始林の中で、 このように、らんぼうな宴をはるとは、なんと、すばらしい楽しいことではないか、と思わ れた。もう文明社会へはもどるまいと、三人は話しあった。立ちのぼるたき火のほのおは、 みんなの顔をてらし、彼らの森の社の丸柱のようにみえる自然木、つやつやとした木の葉、 それらにからみついた、つだの葉のかさなりを、あかあかとてらしだしていた。
 ベーコンのぱりぱりした、さいごのうすい一きれも腹におさまり、とうもろこしのパンのさいごのわりあてもたべつくすと、少年たちは、まんぞくして、草の上に、ながながとねそべった。もっとすずしい場所もあったが、キャンプの火にあぶられるという、ロマンチックな楽しみをやめる気持ちにはなれなかったのである。
「ゆかいなもんだなあ」と、ジョーがいった。
「すげえや!」と、トムは答えた。
「学校のやつらが、これを見たら、なんていうだろうな?」
「なんていうって? やつらだって、きたくって、きたくって、たまらなくなるだろうよ――なあ、ハック!」
「そうだろな。とにかく、おれには気に入ったよ。これよりいいことなんて、ありっこないよ。いままでだって、こんなに腹いっぱいくったことなんか、ありゃしない――それに、まさか、ここまでやってきて、ひとをこづいたり、いじめたりするやつも、ないだろうからな。」
「おれには、もってこいの暮らしかただ」と、トムはいった。
「第一、朝、おきなくったっていいんだし、学校へいったり、顔を洗ったり、なんのかんの、そんなばかばかしいこと、しなくていいんだもの。ジョー、海賊というのはな、陸へあがったら、なんにもしなくったっていいんだぜ。でも、隠者ってのは、うんとお祈りしなきゃいけないんだ。それに、ああやって、ひとりっきりでいるんだから、なんにも、おもしろいことなんてないんだよ。」
「そりゃあ、そうだな」と、ジョーはいった。
「だけど、おれ、そんなことあんまり考えなかったんだよ。だけど、やってみると、海賊のほうが、ずっといいな。」
「このごろは、むかしみたいに、あんまり、隠者になりたがるやつはないんだぜ。だけど、海賊なら、いつだって、尊敬されてるんだ。隠者ってのは、ねむるんだって、いちばんひどいとこみつけるんだぜ。それに、麻ぶくろと灰を、頭にのせてさ、雨ん中に立ちんぼをして、それから――」
「なぜ、麻ぶくろと、灰を頭にのせたりするんだい?」と、ハックがきいた。
「おれは知らないよ。だけど、そうしなけりゃいけないことになってるんだ。隠者は、いつでもそうするんだ。だから、もし、おまえが隠者になったら、おまえだって、そうしなきゃいけないんだ。」
「おらあ、そんなのごめんだよ」と、ハックがいった。
「へええ、それじゃ、どうするんだい?」
「知らないよ。だけど、そんなこと、しないよ。」
「だって、おい、ハック、おまえ、しなきゃいけないんだぜ。どうやって、ごまかそうってのさ?」
「ああ、おら、そんなこと、がまんできないから、さっさとにげだすよ。」
「にげだす? なるほど、おまえは、いんちき隠者だ。隠者のつらよごしになるよ。」
〈凶状持ち〉は、へんじもせず、せっせと、しごとをつづけた。とうもろこしの穂の蚰をえぐりぬくしごとはおわったので、こんどは、草の茎で作ったすい口をさしこみ、たばこのかれ葉をつめ、たさ火のおきで火をつけ、かおりのいいけむりの雲をはきだした――彼は、すてきなまんぞく感をあじわっているところだった。ほかの海賊たちは、このすばらしい悪癖をうらやましく思って、自分たちも、早くおぼえこもうと、ひそかに決心した。やがて、ハックがいいだした。
「海賊のやらなきゃいけないことって、どんなことだい?」
 トムがいった。
「海賊は、おもしろいことをするだけさ――まず、船をぶんどって、もしちまうのさ。金をとって、島ん中のこわいところへうめるんだ。そうすると、ばけものたちが、ちゃんと番してくれるんだ。それから、船のやっらをかたっぱしからころしたり――船から海の上へつきだした板の上を歩かして、海ん中へどんぶりさせるのさ。」
「でも、女は、島へかつぎこむんだ」と、ジョーがいった。
「女だけは、ころさないことになってるんだ。」
「そうだ」と、トムは賛成した。
「女はころさないんだ――海賊は、りっぱだものなあ、それに、女は、いつだってきれいだからな。」
「そいから、きてるもんだって、すばらしいぜ。そう、そう! 金や銀やダイヤモンドで、ぴかぴかなんだ」と、ジョーはむちゅうになっていった。
「だれが?」と、きいたのはハックだった。「きまってらあ、海賊さ。」
 ハックは、自分のきているものを、さびしそうに見まわした。
「おれのきもの、海賊らしくないなあ」と、ハックはあわれっぽい調子でいった。
「だけど、これっきりしか持ってないんだもん。」
 ほかのふたりのなかまは、なに、冒険さえはじまれば、いい服なんか、すぐ手にはいるんだからと、なぐさめた。そして、金持ちの海賊は、はじめから海賊らしい衣装をつけてやるのがならわしだけれど、はじめは、ぼろをきていたって、さしつかえないのだということをわからせてやった。
 そのうち、だんだん話し声も少なくなり、家出した少年たちのまぶたに、ねむけがしのびよってきた。〈凶状持ち〉の指からパイプがころげおち、彼は、ぐっすり、なにも知らぬげに、こころよく寝入った。
〈海のかみなり〉と〈南海の復讐鬼〉は、それほどすぐにはねむれなかった。ふたりは心の中でお祈りをしてから、横になった。ひざをついて、声をあげてお祈りしなさい、と頭ごなしにいいつける人がいなかったからである。ほんとのところ、ふたりとも、お祈りなんかすこしもする気がなかったのだが、そんな、かってなことをしたら、きゅうに天から、特別なかみなりがおちてくるのではないかとおそれたのだった。まもなく、彼らふたりも、ねむくてたまらなくなり、そのまま、すうっと、ねむりの谷底へおちこもうとした――が、そのとき、じゃま者がはいりこんできた。それは良心だった。うちをとびだしてきたのは、まちがったことではなかろうかと、ぼんやり感じはじめたのである。それから、ぬすんできた肉のことを考えると、ほんとの苦しみがやってきた。なあに、これまでだって、さとう菓子やりんごを、なんどもとったことがあるじゃないかと、むりに、そういう考えをなくそうとしてみたけど、良心は、そんなうすっぺらな、もっともらしいりくつでは、おさまらなかった。さとう菓子をとったのは、ただのくちょろまかし〉だが、ベーコンやハムのような、貴重な品物をとったのは、これは、もう、まちがいのない〈どろぼう〉なんだ。この動かせない事実は、どうすることもできなくなった。ぬすみをしてはならぬと、聖書にもはっきりとしるされている。そこで、彼らは、この海賊生活をつづけているあいだは、ふたたびひとのものをぬすむ罪はおかすまい、と深く決心した。すると、良心も休戦命令をだしたので、このおかしな、わけのわからない海賊たちは、やっと、おだやかなねむりにはいることができた。