『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

トム=ソーヤーの冒険(マーク=トウェイン作、吉田甲子太郎訳)、第1章から第6章まで(一回目の校正おわり)

20240307
スキャン40分、55枚
■12-■36、24分、P020まで
■58-■22、24分、P043まで
■48-■02、26分、P057まで
■22-■43、21分、P074まで
20240308
スキャン30分、45枚
OCR、100枚、約50分
■38-■01、23分、P095まで
■43-■00、17分、P104まで
20240309
■35-■45、10分、P115まで
20240310から20240312まで
第1回校正、
第1章から第6章まで、各20分だから20×6=120分

トム・ソーヤーの冒険
マーク=トウェイン
吉田甲子太郎訳

 はじめに この本の中に書いてある冒険は、大部分、ほんとうにあったことです。わたしが自分で経験したことも、いくらかあります。そのほかの冒険は、わたしの同級生だった友だちが経験したものです。ハック=フィンは、生きている少年をモデルにして書きました。トム=ソーヤーもそうです。しかし、トムのほうは、あるひとりの、きまった少年をモデルにして書いたのではありません。――これは、わたしか知っている三人の少年の性質をひとつにしたものです。だから、建築のほうでいう、混合式とでもいうものにあたるでしょう。
 物語の中にでてくるいろいろな迷信は、この物語の時代、つまり、いまから三、四十年まえに、内部地方の子どもや、どれいたちのあいたで、とてもはやっていたものです。
 この本は、主として、少年少女をよろこばせるために書いた本です。しかし、だからといって、おとなの人たちが読んでくれなかったら、わたしはざんねんだと思います。わたしは、おとなの人たちにも、この本を読んで、自分が子どもだったときのことだの、そのころには、どんなふうに感じたり、考えたり、話しあったり、また、とんでもない冒険にむちゅうになったことだのを、楽しく思いだしてもらいたいというつもりもあって、この物語を書いたのです。
ハートフォードにて、一八七六年
作者《さくしゃ》   マーク=トウェイン

1 わんぱくトム
「トム!」
 答えなし。
「トム!」
 答えなし。
「どうしたんだろうねえ、あの子は。トムったら!」
 答えなし。
 老婦人は、めがねを下のほうへずらして、そのめがねごしに、へやの中を見まわした。それから、また、めがねを上のほうへおしあげて、その下から、へやの中を見わたした。ポリーおばさんが、子どもみたいな、つまらないものをさがすのに、めがねを使うことなんぞ、まず、なかったといってよかった。それは、りっぱなめがねで、ごじまんの品だったが、〈おしゃれ〉のためのもので、もともと、実用のために、かけているのではなかった――なんなら、ストーブのふたをめがねにしていたって、同じことだった。彼女はしばらく、こまったような顔つきをしていたが、やがて、へやの中の、いすテーブルにもきこえるほどの大声で、いった。けれど、それは、あまりこわい声ではなかった。
「いいかい、いっとくがね、こんどつかまえたら、こんどこそ――」
 とちゅうで、ことばがきれた。このとき、彼女は、かがみこんで、寝台の下をほうきでつついていたのだが、あまりぐいぐいやったので、息ぎれがしはじめたからである。だが、でてきたものは、ねこが一ぴきだけだった。
「いったい、どこをほっつき歩いているんだろうね!」
 そこで、あけっぱなしの戸口までいって、立ちどまり、トマトとちょうせんあさがおしかはえていない庭を見わたした。トムは見えない。そこで、遠いところまでとどくような声をはりあげて、どなった。
「トムやあ!」
 うしろで、かすかなもの音がきこえたので、彼女は、すばやく、ふりかえった。そして、あぶなく、小さな男の子のだぶだぶした上着をとっつかまえて、ひきとめた。
「そう、そう! あの戸だなを思いだすんだったよ。おまえ、あそこで、なにをしていたの?」
「なんにもしてやしないよ。」
「なんにもしていない! 手をごらんよ。おまえの口のはたを見てごらんよ。それは、なんのあとだい?」
「ぼく、知らないよ、おばさん。」
「へえ、わたしは知ってるよ。ジャムですよ――そこについているのは。四十ぺんもいっといたじゃないか。ジャムに手をだしたら、ひどいめにあわせるよ、って。そのむちを、こっちへおよこし。」
 むちは空中をおどる――もういけない――。
「おや! おばさん、うしろ見てごらん!」
 老婦人は、くるっとうしろをむいて、なにかあぶないものをよけるように、ひょいと、スカートをつまみあげた。その瞬間に、少年はすりぬけて、高い板べいにとびあがり、それをのりこえて、見えなくなってしまった。
 ポリーおばさんは、ちょっとのあいだ、あっけにとられて立っていたが、とつぜん、しずかにわらいだした。
「ええ、いまいましい。なんて、わたしは、ばかなんだろう。あのては、いままでに、さんざんくわされたんだから、もう、ひっかからなくたってよかったのにね。としをとったばかがいちばんのばかだっていうからね。老いぼれ犬には新しい芸はおぼえられないって、世間でもいうじゃないか。でも、なんてこったろう、あの子は、二日とつづけて同じいたずらをしたことはありゃしない。あの子が、つぎになにをやりだすか、だれにだって、けんとうなんてつくもんじゃありゃしない。あの子は、どのくらいじりじりさせたら、わたしがおこりだすか、ちゃんと、知ってるんだ。それに、一分間、わたしをごまかすか、さもなきゃ、わたしをわらわすことができれば、それなりけりで、もう、わたしには、あの子をぶつことができないんだってことまで、ちゃんと知ってるんだからね。あの子のことでは、わたしは自分の義務をはたしていない。いいえ、まったく、そのとおり。むちをくわえざる者は、その子をそこなうって、聖書にも、書いてあるとおりさ。わたしは、ふたりのために罪をかさね、ふたり分のばつをちょうだいしているんだよ、そうですとも。あの子は、まるで、悪魔の化身だけれど、でも、おお! あの子は、あのなくなった妹の子なんだ、かわいそうな子、どうしても、むちでひっぱたく気がしないんだから、しようがない。いつだって、ゆるしてやれば、あとで、良心にひどくとがめるし、ぶてばぶったで、とてもたまらなくなる。まあ、まあ、人間は、聖書にもあるとおり、女の生む者はその日少なく、艱難《かんんなん》が多いものだというが、――まったく、そのとおりだよ。あの子は、昼から学校をずるけるつもりだろう。ひとつ、あしたはこらしめのためにはたらかせることにしよう。ほかの子どもが、みんな遊んでいるんだから、土曜日にしごとさせるのは、さぞむずかしかろう。それに、あの子ときたら、なによりも、じっさい、しごとがきらいときてるんだから。だからこそ、わたしはあの子をはたらかせて、こちらの義務をいくらかでもはたさなけりゃいけない。さもないと、あの子をだいなしにしてしまうものね。」
 トムは、学校をずるけた。そして、さんざん楽しい思いをした。そのあげく、うちにいる黒んぼ少年ジムの夕がたの手助けに、やっとまにあい、あくる日のたきぎをひき、たきつけを割るしごとをてっだった――ともかく、ジムが、そのしごとの四分の三くらいをはたすあいだに、いろいろな冒険を話してやるのにはまにあった。トムの弟(くわしくいえば片親のちがう弟)シッドは、もう自分にあてられたしごと(木ぎれをひろいあつめるしごと)をやってしまっていた。シッドは、おだやかな少年で、冒険やいたずらをしないたちなのだ。
 トムが夕食をたべたり、すきをみて、さとうをしっけいしたりしているとき、ポリーおばさんは、はかりごとを、それも深いはかりごとをめぐらした質問をしかけてきた――おばさんは、トムをわなにおとしいれて、彼の罪を白状させてやりたいと思ったのだ。気のいい人によく見かけるやつだが、おばさんにも、自分が腹ぐろい、手のこんだ計略の才能にめぐまれていると思いこむ虚栄心みたいなものがあって、みえすいた計画を、まるで、たいしたペテンかなにかのように思いこむのがすきだった。
「トム、きょうは、学校もなかなか暑かったろうね?」
「うん。」
「とても、暑かったろうね?」
「うん。」
「およぎにいきたくなかったかい、トム?」
 トムは、びくっとした――こいつはあぶないぞ、と思った。で、ポリーおばさんの顔をさぐってみたが、その顔はべつになんとも思っていないようすだったので、
「ううん――それほどでもなかったよ」といった。
 老婦人は手をのばして、トムのシャツにさわってみた。
「でも、おまえ、いまは、そんなに暑くはないんだろう。」
 おばさんは、自分の気持ちをだれにもさとられずに、ねらっていたとおり、シャツがかわっていることをみつけだすことができたので、内心おおいにとくいだった。ところが、どういたしまして、トムは、たちまち、おばさんの風向きをさとってしまった。だから、さっそく、先手をうって、こういった。
「ぼくたちね、みんなで、ポンプの水を頭にかけたんだよ――ぼくの頭、まだぬれてるよ、ほらね。」
 ポリーおばさんは、このちょっとした情況証拠というやつを見のがして、計略にくいちがいができたことを考えて、むしゃくしゃした。が、そのとき、またべつの新しい名案がうかんできた。
「トムや、おまえ、ポンプで頭をぬらしたんなら、わたしがぬいつけてやったカラーは、とらなくたってよかったんだろうね? 上着のボタンをはずして見せなさい!」
 トムの顔から、心配そうな色がきえた。彼は、上着のまえをあけて見せた。シャツのカラーは、りっぱにぬいつけてあった。
「やれやれ! じゃあ、もういいよ。わたしはね、おまえが学校をずるけて、およぎにいったことを、ちゃんと、つきとめてやろうと思ったんだけどね。でも、まあ、ゆるしてあげます。おまえは、ことわざにいう、焼けこげをこしらえたねこみたいな子だね――見たところよりはいいよ。こんどにかぎってはね。」
 おばさんは、自分のうまいくふうが失敗したのは、ちょっと残念だったが、トムが、なんのはずみか、こんどにかぎって、いいつけをよく守ってくれたのを、よろこびもした。
 ところが、シッドが口をだした。
「うん、でも、おばさん、このカラーは、白糸でぬってあったんじゃなかったかね、これ、黒ですよ。」
「そう、そう、わたしは白いのでぬったんだよ! トム!」
 トムは、あとのことばを待ってはいなかった。すばやく彼は、戸口からでていきながら、いった。
「シド公、おぼえてろ、あとでひっぱたいてやるから!」
 安全な場所まででてくると、トムは上着のおりかえしのところに、糸をつけたままさしてある、二本の長い針をしらべてみた――一本には白糸、もう一本には、黒糸がついている。
「シッドさえいわなけりや、おばさんなんて、気がつきゃしなかったのになあ。ちきしょうめ! おばさんは、白糸でぬうときもありゃ、黒糸でぬうときだってあるんだ。いっそ、どっちかにきめてくれるといいんだがなあ――とても両方じゃ、おぼえきれないや。でも、どっちにしろ、シッドのやつは、なぐってやらなきゃ。思いしらしてやるから!」
 彼は、村の模範少年ではなかった。どんなのが模範少年かってことは、ちゃんと、こころえていたが、そんなのはだいきらいだった。
 二分もたつか、たたぬうちに、トムは、もう自分の心配をすっかりわすれてしまった。でも、それは、おとなの心配がおとなにおよぼす重苦しさやはげしさよりも、軽くちっぽけな負担だったからじゃない。新しくて力強い興味が、そんなものをうち負かして、しばらくのあいだ、心の重荷をふるいおとしてしまったからだ――ちょうど、おとながその不幸を新しい事業の興奮でわすれるようなものだ。その新しい興味とは、とてもすばらしく、めずらしい口笛のふきかただった。これは、ある黒人から伝授されたてのほやほやのもので、彼は、そいつを、だれにもじゃまをされずに、やってみたくてたまらなかったのだ。それは、鳥のなき声ににて、特別なふしまわしで、流れるようなさえずりなのだが、口笛をふいているさいちゅうに、舌をちょいちょい上あごにつければ、だせる――読者のみなさんも、もし少年時代をすごしたかただったら、たぶん、そのやりかたはごぞんじでしょう。勤勉と注意力のおかけで、トムは、たちまち、こつをのみこんだ。彼はとくいになって、口笛をならしながら、ゆうゆうと、通りを歩いていった。まるで、新しい遊星を発見した天文学者みたいな気持ちだった。――いや、まちがいなく、強い、深い、まじりっけのないうれしさにかけては、天文学者よりもこの少年のほうが、どれほどまさっていたかわからない。
 夏の夕がたは長かった。まだ、くらくなかった。と、きゅうにトムは口笛をやめた。見知らぬ者が目のまえにいる――やや自分よりも大きめな少年だ。年ごろがどうでも、男でも女でも、新しくきた者ならばだれでも、この貧弱でちっぽけなみすぼらしいセント‐ピータースバークの村では、人目をひくめずらしいものなのだ。この少年は、いい服をきていた――日曜でもないのに、りっぱな服をきていた。まったくおどろくべきことだ。ぼうしは、こざっぱりしたものだったし、ボタンとボタンのあいだのつまった青い色の短い上着は、新しくて、きちんとととのっていたし、ズボンだって、そのとおりだった。それに、くつもはいていた――まだ金曜日だというのに。それに、ネクタイもちゃんと結んでいた。明るいリボンのネクタイだ。なんとなく都会ふうだ。これがトムには、ぐっときだ。トムが、このおどろくべきものをみつめればみつめるほど、そのおしゃれをばかにして、つんと、鼻を天にむければむけるほど、こちらのなりのみすぼらしさが、ひどく気になってくるのだった。どちらも、ひとことも口をきかない。ひとりが動くと、あいても動く――ただし、わきへわきへと進むから、どうしたって、円をえがくようになる。そのあいだ、ふたりは、顔と顔をあわせ、目と目を見あっているのだ。ついに、はじめにトムが口をきった。
「なぐるぞ!」
「やってみな。」
「うん、やるぞ。」
「なあに、できっこないさ。」
「できるさ。」
「できるもんか。」
「やるぞ。」
「やれるもんか。」
「やる。」
「やれないさ。」
 ぎごちない間。また、トムがはじめた。
「おまえの名、なんていうんだ?」
「おまえなんかの知ったこっちゃないさ。なあ。」
「ようし、そんなら、知ったことにしてみせるぞ。」
「へええ、じゃ、してみせろよ。」
「つべこべぬかすと、ほんとにやっつけるぞ。」
「つべこベ――つべこベ――つべこべ、と。さあ、どうだ。」
「ちえっ、おまえ、自分じゃ、うんとしゃれてるつもりなんだろう。ええ? こっちが、その気になりや、片手をうしろでしばられたって、片手でおまえなんぞ、やっつけちまえるんだぞ。」
「へええ、じゃ、なぜ、やらないんだい? できるっていったじゃないか。」
「おお、やるともさ。おれをからかってみろ、へん、すぐやっつけてやらあ。」
「なるほどね――ぼくは、きみのように、動きがとれなくなったやつを、たくさん見てきたっけ。」
「ちえっ、自分だけえらい気でいやがら。へええ、なんてぼうしだい!」
「へん、お気に入らないで、わるかったねえ。いいから、おっことしてみろよ――おっことしてみろっていうんだ、そんなことをするやつは、とんでもない悪党にきまってらあ。」
「うそつき!」
「おまえもだろう。」
「おまえなんざ、からいばりのうそつきやろうで、手はだせないんだろう。」
「なに、――じゃ、おまえ、やってみろよ!」
「やい――そのなまいきを、もっといってみろ。そしたら、おまえの頭に一発おみまいもうしてやらあ。」
「ああ、きっとやるだろうな、おまえは。」
「うん、やるとも。」
「へええ、そんなら、なぜやらないんだい? やる、やるっていうだけじゃないか、なぜやらないんだ? こわいんだろう。」
「こわいもんか。」
「こわいんだい。」
「こわいもんか。」
「こわいんだい。」
 また、ことばがとぎれた。またまた、にらみあいと、ぐるぐる歩きがはじまった。こんどは、肩大月とがふれあった。トムがいった。
「どっかへきえちまえ!」
「おまえこそ、きえちまえ!」
「いくもんか。」
「ぼくだって、いくもんか。」と、ふたりはまた立ちどまった。どちらも、片足をぐっとふんばり、全力をあげて、じりじりとよっていった、にくしみをこめて、にらみつけながら。だが、どちらも、あいてを圧倒することはできなかった。ふたりとも、かっと熱くなり、まっかになって、りきみかえったあげく、力をぬいて、ゆだんのないにらみあいになったときに、トムがいった。
「おまえなんざあ、ひきょう者のちんころだい。でかい兄きにいいつけてやるからいいや。おまえなんか、兄きにかかったら、小指でぽいだ。そのとおり、やらせるぞ。」
「おまえのでかい兄きなんぞ、気にするかってんだ。ぼくの兄きのほうが、もっとでっかいから、そんなの、かきねごしにほうりだしちまわあ。」
(ふたりの兄は、どちらも架空の人物だった。)
「うそつけ。」
「おまえのがうそだからって、こっちのまで、うそだと思わなくったっていいよ。」
 トムは足の親指で、土の上に、一本、線をひいてからいった。
「この上をまたいで、こい。きやがったら、立てなくなるまで、ぶちのめしてくれるから。ここをまたいでくるやつは、とんでもない悪党にきまってるんだ。」
 この、見たことのない少年は、ひょいと、その一線をふみこえて、いった。
「さあ、おまえ、やるっていったっけな。やってみろ。」
「せっつくなよ。それよか、用心したほうがいいぞ。」
「うん、おまえ、やるっていったじゃないか――なぜやらないんだ?」
「ちきしょうめ! 二セントのはした銭でも、おまえなんぞ、やっつけてみせらあ。」
 新来の少年は、ぴかぴかの銅貨を二まい、ポケットからつかみだして、あざわらいながら、つきだした。トムは、それを地面にたたきおとした。とたんに、ふたりの少年は、地面の上をころげまわっていた。ねこのように、つかみあった。一分間もたたぬうちに、髪の毛や服を、ひっぱりあったり、ひきさいたり、鼻をなぐったり、ひっかいたりして、どろと栄光につつまれてしまった。まもなく、混乱がちょっとおさまり、砂ぼこりをすかして見たところでは、トムがどうやら、あいての少年の上に馬乗りとなり、げんこつでぽかぽかなぐっているところらしかった。
「やい、まいったか!」と、トムはいった。
 あいての子は、トムをはねかえそうと、もがくばかりだった。なきだした――が、それは、くやしまぎれにすぎなかった――
「やあい、まいったか!」――なおも、なぐりつづける。
 とうとう、少年は「まいった!」と、口の中でいった。そこで、トムは、あいてが立つのを待って、いった。
「やい、わかったろう。こんどばかにするときは、あいてをよく見てからにしろよ。」
 新米の少年は、服のどろをばたばたはたきおとし、すすりあげ、鼻をくすんくすんいわせ、ときどき、うしろをふりかえって、頭をふりふり、「こんど、おまえをつかまえたら、ひどいめにあわせるぞ」とおどかしながら歩きだした。トムは、そのおどかしに、おひゃらかしで答え、意気ようようと帰りかけた。ところが、トムがせなかをむけるが早いか、少年は、石をひろって、敵のせなかのまんなかめがけて投げつけ、命中させると、さっと身をひるがえして、かもしかのようにかけだした。トムは、このうらぎり者を、うちまで追いかけていった。そこで、やっかどこに住んでいるかがわかった。彼は、門のそばにしばらく陣地をかまえて、敵に、おもてへでろ! とどなった。が、敵は窓からのぞいて、あかんべえをしただけで、すぐにひっこんでしまった。とうとう、敵のおかあさんがでてきて、トムのことを、根性まがりの、下品な、わるい子だ、といい、あっちへいっておしまい、と命令した。そこで、しかたなくそこをはなれたが、「いつかきっと、ひどいめにあわしてやるぞ」といっておいた。
 トムは、その晩おそく、うちに帰った。そして、窓からそうっと、うちへはいりこんだとき、伏兵をみつけた。それは、すなわち、おばさんだった。トムの服のありさまを見とどけたおばさんは、土曜日の休みには、トムを重労働の捕虜あつかいにしてやろうという、かねての決心を、ますますかたくしたのだった。

2 すばらしいへいぬり
 土曜日の朝がきた。夏げしきは、どこもかしこも、明るく、新鮮で、いきいきした気分にみたされていた。だれの心にも、歌がわいた。そして、その心が若ければ、その音楽が、くちびるからほとばしりでた。どの顔もはれやかで、足はひと足ごとにはずんだ。イヌアカシアの花が咲き、花のにおいが空気をいっぱいみたしていた。村のむこうにカーディフの丘がそびえ立ち、草木のみどりがもえていた。丘は、ちょうどうまい遠さのところにあるので、〈喜びの山〉のように、かすんで、安らかに見える。すぐにも、とんでいきたいようだ。
 トムがどろどろのしっくいを入れたバケツと、長い柄のついたブラシを持って歩道にあらわれた。彼は、ずうっと板べいを見わたした。すると、うれしい気持ちはのこらずきえて、すっかり気がめいってしまった。高さ九フィートの板べいが三十ヤードつづいている。世の中がつまらなくなり、生きていることが重荷になってきた。彼は、ため息をして、ブラシをどっぷりとつっこんだ。それから、いちばん上の板をさっと、ひとはけこすった。同じ作業をくりかえした。それから、もう一ど。あるかないかわからぬほどの白い色のしまと、はるかかなたにひろがっている、まだぬっていない板べいの大陸とをくらべてみた。で、がっかりして、すぐそばの、木の根をかこんである箱の上に、どしんとこしをおろした。ジムがバケツをさげて、おどりながら門のところへでてきた。〈バッファロの女の子〉をうたっている。共同ホップから水を運んでくる役は、これまで、いやでたまらないしごとだった。だが、いまの彼には、そうは思えなかった。彼は、共同ポンプには遊びなかまがいることを思いだした。あそこでは、白んぼう、白んぼうと黒んぼうのあいのこ、黒んぼう、いろんな男の子や女の子が、いつでも、自分の順番を待っているのだ。休んでいるのもある、遊び道具のとりかえっこをしているのもある、口げんかをしているのもある、つかみあいをしているのもある、きゃっきゃっとさわぎまわっているのもあった。それから、また、彼は、共同ポンプは、たった百五十ヤードしかはなれていないのに、ジムは、どんなことがあっても、一時間より早く、バケツに水をくんで帰ってきたことがないのを思いだした。それだって、たいてい、だれかがむかえにいかなければ、らちがあかないのだ。そこで、トムはいった。
「おい、ジム、おまえがしっくいぬりをやってくれたら、水くみは、ぼくがやってもいいぜ。」
 ジムは、頭をふって答えた。
「だめだよ、トムさん。奥さんがね、奥さんがいうだよ。とちゅうで道草をくって、だれかと遊んだりしねえで、まっすぐいって、水くんでこいって。それに、トムさんは、きっと、つくいぬりをおっつけるにちげえねえから、なんでもまっすぐにいってかまわねえから、自分のしごとをせえだしてやれっていうだ――しっくいぬりのほうは、奥さん、あとで、見にくるっていってたぞう。」
「なあに、おばさんのいうことなんか、ほっときゃいいんだよ、ジム。いつだって、おばさんのきまりもんくさ。バケツを貸しなよ――一分とかかりゃしない。おばさんなんかに、わかりっこないさ。」
「いや、いけねえ。奥さん、おれの頭、ひっこぬいちまわあ。ふんとだあよ。」
「おばさんが! おばさんなんか、だれだってひっぱたいたりするもんか――指ぬきをはめた手で、ちょいと頭をこつんとやるだけさ――そんなこと気にかけるやつがあったら、おめにかかりたいもんだねえ。そりゃ、いうこたあこわいけど、口だけじゃ、いたかあないものな――おばさんが、ないてさわぎだすまでは平気だよ。ジム、おまえにビー玉やろうか。白いビー玉をやろうか。」
 ジムの心は、ぐらつきはしめた。
「白いビー玉だぜ、ジム! すばらしい玉だぜ。」
「そうかい! あれ、とてもすげえ玉だね。でも、トムさん、おらあ、奥さんがひどくこわいだよ!」
「おまけにな、もし、おまえがかわってくれる気があれば、おれの足の指のきずを見せてやるぜ。」
 ジムも人間だった――このゆうわくにはかなわなかった。そこで、バケツをおき、白いビー玉をうけとると、かがみこんで、トムの足の指のほうたいがとかれていくのを、いっしんにみつめていた。が、つぎの瞬間には、ジムは、バケツをひっさらい、ぴりぴりいたむおしりをかかえて、道をいっさんにすっとんでいったし、トムはトムで、力をこめて、しっくいぬりをはじめていた。ポリーおばさんは、手にはスリッパを持ち、目には勝利の色をうかべて、戦線からひきあげていった。
 けれども、トムの根気は長くはつづかなかった。きょうしようと思っていた遊びのことを考えはじめると、トムの悲しさは、ぐんぐんましていった。まもなく、しごとのない少年たちは、いろいろな楽しい遠征の計画をもって、足どりも軽くやってくるだろう。いやいやながらしごとをしていなければならぬ自分を見て、いいわらいものにするだろう――そう思うと、胸の中は火のように、かっともえてくる。トムは、自分の財産をとりだして、しらべてみた――ちっちゃなおもちゃがすこし、ビー玉、それに、いろいろなもののかけらや、がらくた。これをくれてやったら、ほかの子どもにかわって、しごとをしてもらえるかもしれない。だが、これだけでは、とても三十分と自由なからだになれそうもない。そこで、彼は自分の貧弱な財産をポケットへしまって、財産をわけてやって、ほかの子どもにしごとをかわってもらおうという考えは、やめにした。こんなわけで、彼が、まっくらな、どうにもしかたがないという気持ちになったとき、ふっと、すばらしくうまい思いつきが、彼の頭にひらめいた。たしかに、どえらい、天来の妙案といって、さしつかえなかった。
 トムは、ブラシをとりあげて、ゆうゆうと、しごとにかかった。やがて、ベン=ロジャーズのすがたが見えはじめた――あいつにからかわれるのは、だれにやられるのよりもこたえると、ひそかにおそれていた、そのあいてだ。ベンは、三段とびをしながらやってきた――心がうきうきして、さきにうれしいことが待っているなによりの証拠だ。彼は、りんごをかじっていた。そして、ちょっと間をおいては、ながながと調子をとって、ぼうぼうとどなり、そのあとからおもおもしい声で、だっとんとん、だっとんとんとつづけた。この子は、汽船になっているところである。彼は、近づくにつれて速力をおとして、通りのまん中へでた。それから、ぐうっと右舷へかたむき、ゆったりと念入りに、もったいをつけ、おおぎょうな身ぶりをして、船首を風上へむけた。なにしろ、彼は大ミズーリ号で、吃水九フィートのつもりなのだから、たいへんだ。彼は汽船であり、船長であり、機関室の信号ベルなのだ。だから、自分の船のいちばん上の甲板に立って、命令しているつもりにもならなければならないし、その命令どおり動いているつもりにもならなければならないのだ。
「機関停止! りん・りん・りん!」船あしは、もうほとんどとまって、ゆるゆる歩道へ近づいてくる。
「後退はじめ! りん・りん・りん!」両腕をまっすぐにさげて、ぴったり、からだにつけている。
「右舷後退! りん・りん・りん! しゅっ! ちゅっ・ちゅっ・ちゅっ!」そのあいだ、右手が大きく円をえがいて回転する――彼の手は、直径四十フィートの水かき車輪なのだ。
「左舷後退! りん・りん・りん! ちゅっ・ちゅっ・ちゅっ!」こんどは、左手が円をえがきはじめる。
「右舷停止! りん・りん・りん! 左舷停止! 右舷前進! 停止! 外舷ゆるく回転! りん・りん・りん! ちゅうっ! うう・うう! おもて綱をだぜ! さあ、げんきよくやるんだ! そら――引き綱をだすんだ――なにをまごまごしてるんだ! あのくいに引き綱の輪をぐいとひっかけるんだ! さん橋に気をつけろ――ほら、綱をほうれ! 機関停止終! りん・りん・りん! しゅっつ! しゅっつ! しゅっつ!」(といいながら、蒸気圧力計をしらべる。)
 トムはぬりつづける――蒸気船には、しらん顔である。ベンは、ちょっとのあいだながめていたが、やがていった。
「うふ、ふ! へこたれているんだな、おい!」
 へんじはない。トムは、画家のような目つきをして、いまぬったばかりのところを吟味した。それから、またブラシをとって、しずかにひとなで、なでて、もっともらしく、そのぬりあがりぐあいをながめた。ベンは、そばまでいって、トムとならんで立った。トムは、りんごがたべたくて、口の中につばきがたまった。けれども、彼は、しごとにかじりついていた。ベンがいった。
「おい、きみ! きみは、しごとやらされてるんだろう、なあ。」
 トムは、きゅうにふりむいて、いった。
「なんだ、ベン! きみだったのか。ちっとも知らなかった。」
「おい――ぼく、およぎにいくんだぜ、およぎにね。きみ、いきたかないかい。でも、きみは、しごとをしているほうがいいんだろう。そうだな。しごとをしていたいにきまってるさ!」
 トムは、あいての少年の顔を、ちょっとのあいだ、みつめて、それからいった。
「しごとって、きみ、なんのことをいってるのさ。」
「へえ、それ、しごとじゃないのかい?」
 トムはまた、ぬりはじめた。そして、なにげなく答えるのである。
「うん、そうかもしれないね。だが、そうじゃないかもしれない。ぼくの知ってるのは、こいつが、トム=ソーヤーの気に入ってるんだってことだけさ。」
「なんだと! まさか、きみは、それがすきだっていうんじゃないだろうな。」
 ブラシは、やっぱり動きつづけている。
「すきじゃあるまいって? ふうん、どうして、すきじゃいけないのさ。子どもが、へいをぬらしてもらえるなんてこと、毎日のようにあることだと思うがい?」
 こういわれてみると、事情ががらりとちがってきた。ベンは、りんごをかじるのをやめた。トムは、きどって、ブラシを右へ左へ動かす――あとへさかって、ぬりあがりのぐあいをしらべる――あちこちに、ブラシをくわえる――それから、もう一ど、ぬりながら吟味する――ベンは、トムの動きかたを、いちいち目で追いかけていたが、だんだんおもしろくなり、だんだんむちゅうになってきた。やがて、ベンはいいだした。
「おい、トム、ちょっと、ぼくにもぬらせろよ。」
 トムは考えた。あやうく同意するところだった。が、思いなおした。
「だめだ――だめだよ――そいつぁ、まあ、むずかしいだろうと思うよ、ベン。ねえ、おい、ポリーおばさんときたら、このへいのことは、とても、やかましいんだからなあ――表通りだぜ、ここは、ね、そうだろ――裏のへいなら、ぼくはかまわないし、おばさんだって、やかましくいわないだろうがね、――ほんとだよ、このへいだけは、おばさん、とっても、やかましいんだ。うんと念入りにやらなきゃいけないんだ。このへいがちゃんとぬれる子どもなんて、千人にひとり、ひょっとしたら、二千人にひとりしか、いないんじゃないかなあ。」
「ふうん、――そうかなあ? なあ、おい、――やらせろよ。ちょっとでいいからさ――ぼくがきみだったら、ぬらせてやるがなあ、トム。」
「ベン、おれだって、ぬらせてやりたいよ、でも、ポリーおばさんがなあ――そうそう、ジムもやりたがったんだけど、おばさんはやらせなかった。シッドもやりたかったんだけど、シッドもいけないっていうんだ。ね、わかったろう、ぼくには、どうすることもできないんだってことが。おまえが、むりに、このへいに手をだしてさ、もし、なんか、ことがおこって――」
「ちえっ、ばかいうなよ。おれだって、きみぐらい、ていねいにやるよ。なあ、やらせろよ。おい――このりんごのしんやるぜ。」
「そんなら、さあ――いや、ベン、やっぱり、よしてくれ。おれ、こわいんだ――」
「りんご、みんな、やらあ!」
 トムは、さもいやいやらしく、だが内心はいそいそと、ブラシをわたした。そして、さっきまでの蒸気船〈大ミズーリ号〉が、日なたであせを流して、しごとをしているあいだ、この勇退した画家は、すぐ近くの日かげにあるたるにこしをかけて、足をぶらぶらさせながら、りんごをかじりかじり、ひとのいいむくどりを、もっとやっつけてやろうとたくらんでいた。むくどりに、不足はなかった。子どもたちは、つぎつぎとあらわれた。はじめは、からかうつもりででてくるのだが、しまいには、しっくいぬりをすることになる。ベンがはたらきつかれたころには、トムは、つぎの番を、修繕のゆきとどいた紙だこ一まいで、ビリー=フィシャーに売りわたしていた。その子がくたびれきったときには、ジョニー=ミラーが、死んだねずみと、それをしばってふりまわすひもとで、あとの番を買いこんでいた――。という調子で、あとからあとから順番の買い手がついて、何時間もつづいた。そして、午後もなかばすぎたころには、その朝までは、あわれなすかんぴんの少年だったトムが、いまは、文字どおり宝の山にうずもれていた。彼は、さきに書きしるした品々のほかに、ビー玉十二、口琴《こうきん》のこわれたのを一つ、のぞきめがねにする青いガラスびんのかけら一まい、糸巻きでこしらえた大砲一門、なんにもあけられないかぎ一こ、はくぼくのかけら一つ、食卓用洋酒びんのガラスのせん一こ、すずの兵隊一つ、おたまじゃくしが二ひき、かんしゃく玉六発、片目の子ねこ一ぴき、しんちゅう製のドアのとって一こ、犬の首輪ひとかけ――ただし、犬はついていない――ナイフの柄一つ、みかんの皮四まい、こわれた古い窓わく一つ、これだけのものを持っていた。
 しかも、トムは、ずっとそのあいだ、楽しくゆかいになまけてすごしたのだ――友だちは、たくさん集まっていたし――へいは、三どもぬりあげられたのだ! もし、ここらで白いしっくいが品ぎれにならなかったら、村じゅうの子どもたちを破産させてしまったかもしれなかったのだ。
 トムは、けっきょく、この世の中というものは、そんなにつまらないものではないと心の中で考えた。彼は、自分でもそれと知らずに、人間活動の大法則を発見したのである――すなわち、おとなにでも子どもにでも、なにかをほしがらせてやろうと思ったら、それを手に入れにくくしてやりさえすればいいのだ、ということを発見したのだ。もし、彼が、この本の著者のように偉大な、かしこい哲学者であったら、しごとというものは、なんでも人がしいられてすることであり、遊びというのは、人がしいられずにすすんですることであるということが、もう、ちゃんと、わかってしまっているはずである。これがわかると、十本の柱に大きな球を投げつけて、せっせとその柱をたおすことや、モン-ブランヘ登山することが、ただのゆうぎであるのに、造花を作ったり、足ふみ車をまわすのが、どうしてしごとであるかということがわかってくるのである。イギリスには、四頭立ての客馬車を、夏のさかりに、一日、二十マイルも三十マイルも、御者になって走らせてあるく金持ちの紳士がたがあるそうだ。この人たちは、これをやらせてもらうために、たいへんな金がかかるからこそ、こんなことをやっているのである。だが、もし、この人助けにたいして、賃金がはらわれることになったら、彼らのしていることは、たちまち、しごとになってしまう。そして、その紳士がたは、さっそく、辞職するにきまっているのである。
 トムは、一身上におこった、容易ならざる変化について、しばらく考えこんでいたあとで、報告のため、司令部におもむいた。

3 愛の殉教者《じゅんきょうしゃ》
 トムは、ポリーおばさんのまえにすがたをあらわした。おばさんは、寝室や朝食べやと食堂と読書室とをかねている、いごこちのいい奥のへやのあけはなした窓のそばに、こしをかけていた。さわやかな夏の空気、安らかな静けさ、花のにおい、ねむけをさそうみつばちのうなり声、こういうものにさそわれたのだろう、おばさんはあみものをやりかけたまま、こくりこくり、やっていた――ねこのほかには話しあいてがないのに、そのねこもひざの上でねむっていたのだから、むりもない。めがねは、こわすといけないというので、もう白くなっている髪の毛のところまでおしあげてあった。トムは、むろん、とっくのむかし、どこかへにげてしまったものと思いこんでいたのだから、そのトムが、こう大胆不敵にのりこんできたのを見ると、ふしぎな気がした。トムは、
「おばさん、もう、遊びにいってもいいですか」ときいた。
「まあ、もうかい? どれだけやったの?」
「みんなやっちゃったよ、おばさん。」
「トム、うそをいってはいけませんよ――わたしには、それが、がまんできないんだよ。」
「うそなんて、いいやしないよ。ほんとに、みんなやっちゃったんだよ。」
 ポリーおばさんは、こんな証言は、すこしも信用しなかった。自分の目で見ることにして、でかけていった。おばさんは、トムがいった二十パーセントもできていれば、まずそれでじゅうぶんだとしておこうと思った。だから、かきねがぜんぶぬってあるうえに、二ども三ども上ぬりができていて、おまけに、地面にまで、白いしまが一本書きそえてあるのを見たときのおばさんのおどろきは、ほとんど口をきくこともできないくらいだった。
「まあ、おどろいた! なるほど、おまえのいったとおりだねえ。おまえはその気になりさえすれば、りっぱにしごとができるんだよ、トム。」 それから、おばさんは、つぎのように、せっかくのほめことばに水をさした。
「でも、おまえがその気になることは、めったにないんだからね、こまったもんだよ。さ、いって遊んどいで。でも、一週間も遊びあるいていないように気をつけるんだよ、さもないと、また、ぶつよ。」
 トムの進歩のすばらしさには、おばさんもすっかり感心して、小べやヘトムをつれていくと、上等のりんごをえらびだして、――わるいことをしないで、正しい助力によってえたときのごちそうは、それだけに、価値も味もいっそうおいしいものになるという――向上をうながすお説教をひとくさりしたのであった。おばさんが、説教のしめくくりに、ありがたい聖句をちりばめているすきに、彼は、ドーナツを一つ〈しっけい〉した。
 それから、ぴょんぴょんはねながら、うちをでていくと、ちょうど、シッドが、二階のうらべやへ通じる外の階段をのぼっていくところだった。土のかたまりは、いくらでも手近にあった。そこで、たちまち、土くれが空中にとびちった。シッドのまわりは、土くれの雨あられのようだった。ポリーおばさんが、やっと気がついて、あわてて助けにかけつけようとしているまに、六つか七つのかたまりを敵に命中させて、トムは、かきねをのりこえると、いずこともなくきえてしまった。出口はあるのだが、これを利用するひまがほとんどないことが多かったのだ。シッドに黒糸事件のかたきうちをしてやったので、トムは、これでやっと気がおさまった。
 トムは、建物にそってぐるりとまわり、どろんこのろじへはいっていった。ここは、うちの牛小屋のうらにつづいている道だった。まもなく、もう、つかまったり、おしおきをうけたりする心配もないところまでにげのびたので、村の広場へと、いそいだ。そこには、かねてからの約束どおり、子どもたちの〈軍隊〉が二派にわかれて、戦争をするために集まっていた。トムが一方の大将で、ショー=ハーパー(トムの親友)が敵がたの大将だった。このふたりの偉大な司令官は、おたがいに、自分でいくさに参加するようなことはしないで、――そんなことは、もっと小さな子どもたちのすることだった――ふたりは、小高いところに陣どって、副官を通じて、命令をくだし、作戦の指揮をとった。トムの軍隊は、長いはげしい戦闘ののち、大勝利をおさめた。それから、戦死者の数をかぞえ、捕虜を交換し、このつぎには、どのいざこざを解決するかという問題について話しあいをし、当然それに必要な戦争の日どりをきめ、すっかり手はずがすんだところで、全軍は列をくんで退去した。そして、トムはひとりで、うちへ帰りかけた。
 ジェフ=サッチャーのうちのそばを通りかかったとき、庭に、まだ見たことのないひとりの少女がいた――青い目をし、黄いろい髪の毛を、二本のおさげにあんだかわいらしい子で、白い夏の上着に、ししゅうをしたパンタレットをはいていた。いま勝利のかんむりをえたばかりの英雄は、自分のほうからは一発の玉もうたずに、まいってしまった。とたんに、エイミー=ローレンスという女の子は、彼の心からきえさって、一片のあとものこさなかった。いままで、トムは、エイミーをむちゅうで愛していると考えていた。この情熱こそ、崇拝というものだ、とトムは思っていた。ところが、こうなってみると、それは、みすぼらしい、たわいない、一時の気まぐれだったとしか思われない。じつは、彼は、エイミーの心をかちうるために、何か月もかかったのだった。彼女が、トムをすきだといってくれたのは、まだ、ほんの一週間ばかりまえにすぎなかった。その短い七日間というもの、彼は、世界じゅうで、いちばん幸福な、ほこりにみちた少年だったのだが、いま、この瞬間に、エイミーは通りがかりにちょっと立ちよって、もういってしまった他人のように、彼の心からきえさってしまっていた。
 トムは、この新しい天使にちらちらと尊敬のまなざしを送っていたが、むこうでもこちらに気がついたことがわかると、女の子が、そこにいることなんか知らないような顔をして、その子が感心しそうな、子どもっぽい、ばかげた〈みせびらかし〉をやりはじめた。しばらくのあいだ、このおかしな、ばかばかしいしごとをつづけた。そのうちに、彼が、危険な体操のまねごとをやっているさいちゅう、横目でうかがうと、そのかわいい少女は、うちのほうへはいっていくのに気がついた。トムは、かきねのそばまでよっていって、そこによりかかって、女の子が、もうすこしそこにいてくれればいいのになあと、悲しい心で、のぞみをかけた。その子は、ちょっとあがり段のところで立ちどまり、とびらのほうへ歩いていった。トムは、その子がしきいの上に立ったとき、深いため息をついた。が、その顔は、きゅうにぱっと明るくかがやいた。彼女がすがたをけすまえに、三色すみれを、かきねごしにほうってよこしたからである。
 少年はかけよって、花から一フィートか二フィートのところで立ちどまった。それから、手でまびさしをつくって、まるで、そっちのほうに、なにかおもしろいことでもおこったのをみつけでもしたように、通りのむこうを、ながめはじめた。そのうちに、彼は、麦わらを一本ひろって、頭をぐっとうしろにそらし、ひろった麦わらを鼻の上に立てた。それから、その麦わらをたおすまいとして、あっちへよろよろ、こっちへよろよろしながら、だんだん、三色すみれのほうへ近よっていった。とうとう、はだしの足が花の上にのった。彼は、それをしなやかな足の指でぎゅっとつまんだ。そして、彼はその宝物をつまんだまま、ちんちんかもかもをしながら、かどをまかって見えなくなった。だが、それは、ほんのちょっとのあいだ――花を上着の内がわの心臓の上にしまうあいだだけのことだった。心臓の上といっても、それは、あるいは、胃ぶくろの上だったかもしれない。なにしろ、トムは解剖学のことはあまりよく知らなかったし、こまかいことにこだわるたちでもなかったのだから。
 トムは、すぐに、もとの場所にもどってきて、夜になるまで、かきねのあたりをぶらぶらして、まえのように〈みせびらかし〉をやっていたが、少女はあれっきり、すがたをあらわさなかった。だが、トムは、ずっとそのあいだ、あの子はどこかの窓のうしろにかくれて、こちらの心づくしを、ちゃんと、見ていてくれるものと、わずかに、みずからなぐさめていた。そして、とうとう、トムは、小さい頭にさまざまな夢をいっぱいつめこんで、のろのろと、うちへ帰っていった。
 夕食のあいだじゅう、トムが、ひどく、はしゃぐものだから、「いったい、この子はなにを思いついたんだろう?」と、おばさんはふしぎに思った。トムは、シッドにどろをぶっつけたというので、さんざんしかられたが、そんなことはすこしも気にかからないようすだった。トムは、おばさんの鼻さきでさとうをぬすもうとして、指をたたかれた。
「おばさん、シッドがとっても、ぶたないんだね、おばさんは。」
「ああ、シッドは、おまえのように、ひとをこまらせないからだよ。おまえは、ちょっと目をはなしさえすりゃ、すぐ、あのおさとうにとびつくじゃないか。」
 まもなく、おばさんは台所へ立っていった。シッドは、さっき、しかられなかったので、とくいになって、すぐさとうつぼに手をだした。――どうだ、おれはしかられなかったんだぞという、その顔のにくらしさときたらなかった。ところが、シッドの指がすべって、つぼはおちて、われた。トムは、むちゅうになってよろこんだ。あんまりうれしかったので、わざと、口をつぐんで、だまっていた。よし、おばさんが帰ってきても、ひとこともしゃべるまい。そして、だれがこの悪事をしたのかきかれるまでは、おちつきはらって、すわっていでやろう。そして、いよいよ、きかれたら、いいつける。そこで、お気に入りの模範少年が〈おめだま〉をちょうだいする。こんなすばらしい見ものは天下にまたとあるまい、とトムは心の中で、ひとり考えた。なにしろ、彼は大よろこびの最高潮にあったので、老婦人が帰ってきて、こわれものを見おろして立ち、めがねごしに、かんかんにいかりの電光をきらめかしたときには、だまっているのがつらくてたまらなかった。
「へっ、くるぜ!」と、彼は、心の中でさけんだ。と、つぎの瞬間、トムは床の上にのびてしまった! もうひとうちと、強いひら手が、ふりあげられた、そのとき、トムは、大声でどなった。
「ちょっと待ってよ、どうして、ぼくをぶっんだい?――シッドが、こわしたんだよ。」
 ポリーおばさんは、まごついて、うつ手をとめた。トムは、おばさんが、やさしく、なぐさめてくれるだろうと思った。ところが、ようやく口がきけるようになったおばさんは、ただ、こういっただけだった。
「ふん! ところでね、おまえは、まちがってぶたれたわけじゃありませんよ。わたしがいないとき、これに負けないわるいいたずらをしたに、きまってるんだから。」
 そうはいったけれども、おばさんの良心は、ちくちくいたんだ。なにかしんせつで、やさしいことばをかけたくてたまらなかった。だが、そんなことをすれば、自分がまちがっていたことを白状したことになるだろう。子どもをしつけるためには、そんなことはできなかった。だから、おばさんは、さっぱりしない気持ちで、だまって用事をつづけた。トムは、すみっこでふくれっつらをし、ますます自分の悲しみをおおげさに考えた。彼には、おばさんが心の中では、自分にひざをついてあやまっているのを知っていた。それを考えると、それみたかというような、一種まんぞくな気持ちがした。トムは、おばさんに、どんなそぶりも見せまいと思った。おばさんの、どんなそぶりにも気がつかないふりをしてやろう、と思った。おばさんが、ときどき、涙ぐんだ目で、すまなそうに、自分を見ることは知っていたんだが、そんなものには、気がつかないふりをした。彼は、自分が病気で死にそうになってねているところを心にえがいてみた。おばさんがとりすがって、ひとこと、ゆるすといっておくれとたのみこむ、が、彼は壁のほうに顔をむけてしまう、そして、そのひとことをいわずに死んでしまうのだ。ああ、そうしたら、おばさんはどんな気持ちになるだろう。それから、彼は自分か、川でおぼれ死んで、髪の毛は水にぬれ、きずついた心は安らかにしずまって、うちへ運ばれてくるところを想像した。おばさんは、どんなに、自分の上に身を投げかけることだろう。そして、どんなに、涙が雨のようにふりそそがれることだろう。そのくちびるは、どうぞ、子どもをかえしてください。これからは、もうけっして、この子をひどいめにあわせるようなことはいたしませんと、どんなに、神さまに祈ることだろう。しかし、トムはつめたく、青白く、横たわっているだけで、すこしも動かない。――このあわれな、小さいなやめる者の悲しみはおわったのだ。こんな夢のようなことを悲しく考えているうちに、神経が高ぶって、彼は、なき声を、のみこみのみこみしなければならなかったので、のどかつまったようになってきた。そして、目には、涙がいっぱいたまって、まばたきするたびに、それがあふれて、流れだし、はては、鼻のあたまからしたたりおちた。この悲しみをいつくしむ気持ちはたいへんすばらしかったので、俗っぽい陽気さや、ざわざわした、うれしさなどに、じゃまされるのはいやだった。それは、あまりに神聖なので、そんなものといっしょにされるのは、まっぴらなのである。だから、そのとき、一週間ばかり、よそのいなかですごしてきた、いとこのメァリーが、長いるすのあと、また、うちへ帰ってきたよろこびではちきれそうになって、おどりながらへやの中へはいってきたのを見ると、彼は立ちあがって、一方の戸口から、雲とやみにまぎれて、すうっときえてしまった。一方の戸口からは、メァリーが、歌声と日光とを、かつぎこんできたというのに。
 トムは、いつも子どもたちの集まる場所から遠くはなれたところを、さまよい歩いて、自分のいまの気持ちにぴったりする、さびしい場所をさがした。川岸につないである、いかだが、いかにも、自分をまねいているような気がしたので、その川のほうをむいているはしにこしをおろして、陰気な川のひろがりを見つめた。そして、自然がたくらんだ、あのふゆかいな手順をふまないで、あっと思うまに、おぼれて死ねるものなら死んでしまいたいものだと、彼は、ふっと、そんなことを考えた。それから、あの花のことを考えた。とりだしてみると、花はくしゃくしゃにしおれていた。それを見ると、くらい幸福の気持ちが、いっそう強くなった。もし、これを知ったら、あの子は自分のことをあわれんでくれるだろうか? ないてくれるだろうか? できることなら、このぼくの首をだいて、なぐさめてやりたいと思ってくれるだろうか? それとも、やっぱり、たよりない世間の人たちと同じように、あの子もつめたくそっぽをむいてしまうだろうか? こんなふうに考えていると、なんともいえず、気持ちのいい悲しみと、なやましさとがわきおこってくるので、彼は、心の中でなんどもなんどもそれをくりかえし、さては、まったく新しい、べつの見かたで、いろいろ考えてみたりしたので、とうとう、その考えはすりきれて、ぼろぼろになってしまったのだった。そこで、とうとう、トムはため息をつきながら立ちあがり、くらやみにむかって歩きだした。
 九時半か十時ごろ、トムは、もう大通りのたえた通りをたどって、あの名も知らないあこがれ人の住んでいるところへついた。ちょっとのあいだ、彼は立ちどまって、耳をすましていたが、なんのもの音もきこえてこなかった。二階のカーテンには、ろうそくのあかりが、ぼうっとうつっていた。あのきよらかな人は、あすこにいるのだろうか? トムはかきねをのりこえ、木々のあいだをしのび足で進んで、その窓の下に立った。そして、心をこめて長いあいだその窓を見あげていた。それから、あおむけに地面にねて、あわれにしぼんだ花を持った両手を胸の上に組んだ。こうして、彼は、死んでいこうと思った――つめたい世界にほうりだされて、死の苦しみがくるときにも、この家なき子をおおってくれるやねひとつなく、ひたいにうかんだ死の苦しみのあせをぬぐってくれる友情のこもった手もなく、あわれんで、のぞきこんでくれる愛情にあふれた人の顔もないままに。そして、あの女の子が、はればれした朝をむかえようとして、窓をあけたとき、このようなトムを発見するのだ。おお! あの人は、このあわれな、なきがらに、たった一しずくの涙でもいい、そそいでくれるだろうか? かがやかしい、若いいのちが、このようにむしばまれ、まだ、そのときがこないのに、つみとられたのを見て、小さいため息でもついてくれるだろうか?
 窓があいた。女中の調子っぱずれのさけび声が、神聖な静けさをやぶったと思うまに、横たわっている殉教者のなきがらは、たちまち、水びたしになってしまった。
 息をひそめていた悲劇の主人公は、鼻をならして、胸いっぱいの息をはきだしながら、とびおきた。空中をたまのようなものが走りさった。低い、ののしり声がそれにまじった。ガラスのわれるようなもの音がつづいた。そして、ちっちゃなぼんやりした人影が、かきねをとびこえ、くらやみの中をすっとんでいった。
 ほどなく、トムが、すっかり、ねじたくをととのえて、ろうそくのあかりで水びたしの服をしらべているとき、シッドが目をさました。そのとき、シッドは、なにか〈あてこすり〉をいってやろうかという気持ちを、かすかに動かしたかもしれないのだが、思いなおして、彼は、なんにもいわないことにした。トムの目の中に、危険信号がひらめいていたからである。
 トムは、めんどうなお祈りなどぬきにして、寝床にとびこんだ。シッドは、心の帳面に、トムのこのおちどを、ちゃんと書きとめておいた。

4 日曜学校で
 太陽はしずかな世界にのぼり、平和な村を祝福するようにてらした。朝食がすむと、ポリーおばさんは、家庭礼拝式をおこなった。礼拝は、まずお祈りではじまったのだが、そのお祈りの内容は、しっかりした石でできた層にあたる聖書の引用句を、おばさんが、自分で考えたもんくという、たよりないしっくいでかためたものだ。この建物の頂上に立って、彼女は、まるでシナイ山の上にでも立ったような顔をして、モーゼの十戒のうちの、いかめしい一章を読んできかせたのである。
 それがすむと、トムは、いわばはちまきをしなおして〈聖句の暗記〉にとりかかるのだ。シッドは、いく日もまえに、もう、ちゃんとおぼえこんでしまっていた。トムは、五節でできた聖句を暗記するのに、全精力をつぎこんだ。彼は、山上《さんじょう》の垂訓《すいくん》をえらんだ。というのは、それより短い聖句をみつけることができなかったからである。三十分ほどたって、どうやらトムは、この日の課業の全体をおぼろげに、頭にたたみこんだが、どうもそれ以上には進まなかった。それもそのはず、彼の頭は、人間の考えそうなあらゆる問題を考え、手は、気ばらしになるいろいろな楽しみごとに、いそがしかったからである。メァリーか、彼の本をとりあげて、暗唱させた。トムは、もやの中を手さぐりで、自分で自分の道をさがそうと努力した。
「さいわいなるかな、え――、え――」
「心――」
「そうだ、心のだ。さいわいなるかな、心の、え――、え――」
「貧しき――」
「貧しき。――さいわいなるかな、心の貧しき者。天――天――」
「天国――」
「天国は。――さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。さいわいなるかな、悲しむ者。その人は――その人は――」
「な――」
「その人は――え、え――」
「なぐ――」
「その人はなぐ、ああ、ぼくにゃ、わからない!」
「なぐさめ――」
「おお、なぐさめ!――その人は、なぐさめ――その人はなぐさめ――ええ――ええ――さいわいなるかな、なぐさめ、悲しむ、か――ええ――ええ――さいわい、か、――さいわいなるかな、悲しむ者、その人は、なぐさめ――ええ、なぐさめ――なんだっけ? メァリー、なぜ教えてくれないんだい?――どうして、そういじわるをしたがるんだい?」
「まあ、トム、あんた、頭がわるいのねえ、あたし、いじめるんじゃないのよ。そんなこと、しかたないわ。あんた、もう一ど、勉強しなけりゃだめよ。がっかりしないでね、トム、いまにできるようになるから――それで、もしおぼえられたら、あたし、とてもいいものをあげるわ、ね、いい子だから、やりましょう。」
「よし、やるよっ! でも、いいものって、なにさ? メァリー、なんだか教えてくれよ。」
「そんなこと、気にかけなくったっていいわよ、トム。あたしがいいものっていえば、いいものにきまってるじゃないの。」
「きっとだね、きっとそうだね、メァリー。よし、こんどこそ、おぼえちゃうぞ。」
 そこで、トムは、もう一ど〈とっくん〉だ。そして、ほんとうに、おぼえてしまった――好奇心と、なにかもらえるという二重の力におされて勇みたったので、すばらしい成功をおさめた。メァリーは、ま新しい〈バーロー・ナイフ〉の十二セント半のやつをくれた。トムは、ぞくぞくとうれしさがこみあげてきて、からだじゅう、ふるえがとまらないほどだった。なるほど、このナイフでは、なにひとつ切れなかった。けれども、〈ほんもの〉のバーロー・ナイフにはちがいなかった。ただ、バーローだというだけで、おっそろしく、たいしたものだということになっていた。――もっとも、西部地方の少年たちが、こういう武器には、よくにせものができて、ほんものの評判をおとすものだなどという考えを、いったい、どこでしいれてきたものか、これはたいへんふしぎなことで、このなぞは、おそらく、これからさきも、とけずじまいだろうと思われる。トムは、そのナイフで、食器戸だなをきずだらけにしてやろうと思いたち、ぼつぼつ、そのしごとにとりかかろうとしているときに、「日曜学校へいくしたくをするんですよ」とよばれた。
 メァリーが、水を入れた金だらいと、シャボンをとってくれた。トムは外にでて、金だらいを小さいベンチの上にのせ、それから、シャボンをちょっと水でぬらして、そのそばにおき、そでをまくりあげた。それから、水をしずかにこぼし、台所へはいっていくと、戸のかげにかけてあるタオルで、ていねいに顔をふきはじめた。だが、メァリーが、そのタオルをひったくって、いった。
「トム、あんた、はずかしくないの! そんなわるいことしちゃだめよ。水で洗ったって、いたいことなんてないでしょう。」
 トムは、ちょっとまごついた。金だらいには、また、水がいっぱいになった。トムは、こんどは、しばらく、金だらいにかがみこんでいるうちに、やっと決心をかためて、大きく息をしてから、しごとにとりかかった。やがて両方の目をつぶり、手さぐりでタオルのほうへ進みながら、台所へ帰ってきた。シャボンの水が顔からたれて、名誉の証明をしていたが、タオルから顔をだしたところを見ると、まだ、これでよしというわけにはいかなかった。まるで、お面みたいで、きれいになっているのは、あごのところまでだった。それから下は、水をそそがぬ暗黒地帯のひろがりで、これがまえのほうはずっと下まで、うしろのほうは首のまわりまでつづいている。メァリーがのりだして、すっかり仕あげをしてくれたおかげて、はじめてトムは、黒と白とにそめわけられてない、れっきとした、一この人間になった。水をつけた髪の毛には、きれいにブラシがかけられ、短いまき毛は、きちんとととのえられて、左右のつりあいもみごとにできあがった。(彼は、ひそかに苦心し、ほねをおって、そのまき毛をのばし、むりに頭にはりつけようとした。彼は、まき毛は、にやけていて、いやだと思っていたのだから、自分のまき毛が、しゃくのたねだったのである。)それから、メァリーは、ひとそろいの服をとりだした。これは日曜日だけ、ひきつづき二年間きた服で――うちの人たちには、〈もう一つの服〉というだけで通じた――これによっても、トムが、どれくらいたくさんの服を持っていたかというけんとうがつこうというものである。トムが、自分でそれをきてしまうと、メァリーが、〈ちゃんとなおして〉やった。――つまり、こざっぱりしたに上着のボタンをあごのところまできちんとかけ、シャツの広いえりを肩までおろし、すっかり、ブラシをかけて、ぽちぽちのついた麦わらぼうしをかぶせてやったのである。これで、トムのふうさいはおおいにあがったが、きゅうくつそうにみえた。そして、彼は、見かけどおりじっさい、きゅうくつでたまらなかったのだ。服はどこもかしこもぎごちないし、また、あんまり清潔なのがかんにさわった。せめて、メァリーがくつをわすれてくれればよいとのぞんだが、それもむなしい希望にすぎなかった。メァリーは、いつものとおり、ていねいにろうをぬったくつを持ちだしてきた。トムは、かんしゃくをおこして、いつでも、ぼくのいやがることばかりさせられるんだ、といった。だが、メァリーは、なだめた。
「おねがいよ、トム。――いい子だからね。」
 そこで、トムは、ぶうぶういいながら、くつをはいた。メァリーのしたくもすぐできて、三人の子どもは日曜学校へでかけていった――日曜学校というところを、トムは心の底からきらっていたのに、シッドとメァリーには、そこが気に入っていたのだった。
 日曜学校は、九時から十時半までで、そのあとは、教会の礼拝になる。三人の子どものうち、ふたりはすすんでその説教にのこるのがきまりだった。あとのひとりも、やっぱり、いつでものこった。――だが、これは、きびしく監督されていて、さきに帰ることができなかったからである。教会の、よりかかりの高い、板ばりの座席は、三百人ほど、かけることができた。教会堂は、小さい質素な建物で、とんがった塔のかわりに、松板で作った植木箱のような形のものが、のせてあった。トムは、戸口のところで、ひと足おくらせて、これも、よそゆきをきこんでいる、なかまのひとりに話しかけた。
「おい、ビリー、黄いろいカード持ってるかい?」
「うん。」
「なにとだったら、とっかえる?」
「おまえ、なにをくれるんだい?」
「甘草《かんぞう》とツり針だ。」
「見せろよ。」
 トムは、ひろげて見せた。それは、まんぞくのできる品だったので、おたがいの品物は交換された。そのあと、トムは、白いビー玉一こをわたして、三まいの赤いカードを手に入れ、つぎに、ちょっとした品物を二つ三つだして、赤いカードを二まい手に入れた。それからも、あとから、あとからやってくる子どもたちを待ちぶせして、さまざまの色のカードを手に入れるために、トムは、十分か十五分の時間をついやした。それから、こざっぱりした、うるさい男の子や女の子のむれにまじって、教会堂にはいり、自分の席に進んだ。そして、ちょうど、手ごろのところにいた子どもと、もう、けんかをはじめた。謹厳な、かなりの年輩の先生が、それをとめた。だが、先生がちょっとせなかをむけると、とたんにトムは、となりのこしかけにすわっている子の髪の毛をひっぱり、その子がこっちをむいたときには、むちゅうになって本を読んでいた。と、すぐ、べつの子を針でつついた。これは「あ、ち、ち」といわせたいためだったが、先生にみつかって、しかられた。トムのクラスには、同じような子どもたちがそろっていた――どの子も、おちつきのない、さわかしい、手のかかる子どもばかりだった。暗唱の時間がくると、だれひとりまんぞくにできる者はなく、しじゅう、きっかけを教えてもらわなければやっていけなかった。しかし、ともかくも、みんな暗誦をなんとかやってのけて、だれもかれもごほうびをもらった。ごほうびは、聖句が一つずつ書いてある青いカードだった。この青いカードは、聖句二節を暗唱するともらえることになっていた。青いカード十まいは赤いカード一まいと同じねうちがあって、いつでも、それと、とりかえてもらえることになっていた。赤いカード十まいは黄いろいカード一まいにあたった。そして黄いろいカードが十まいたまると、校長先生が、ごくそまつなそうていの聖書(あのくらしの楽な時代では四十セントぐらいのものだった)を、その生徒にくれた。この本の読者の中に、たといドレ・バイブルをくれるといわれたにしろ、二千節の聖句を暗唱するだけの、勤勉さと熱心さとをそなえている人がどれだけいるだろうか? けれども、メァリーは、これで、もう、二さつの聖書を手に入れていた。それは、じつに、二年間にわたる、しんぼうづよい勉強の結果だった。ドイツ人の両親を持つある少年などは、なんでも、四さつか五さつもらった。その少年は、一どもつかえずに、二千句を暗唱したことがあった。が、これは、その子の精神的な能力に、あまり大きい負担がかかりすぎたのだろう、彼は、その日からというもの、ばか同様になってしまった。これは、この日曜学校にとって悲しむべき不幸なことだった。というのは、なにかことがあるたびに、校長先生は、いつも、その子をよびだして、(トムのことばを借りれば)〈大ぶろしきをひろげさせた〉のだったからである。カードを集めて、聖書を手に入れるために、長い、たいくつな勉強をやりとげる者は、年上の生徒だけだった。この賞品にありつける者はごくまれで、注目すべき大事件だった。これに成功した生徒は、その日の偉大な花形になるので、どの生徒の胸にも、新しい野心の火がもえるのであるが、それが、しばしば二、三週間もつづくことがあった。トムの精神的胃ぶくろがじっさいに、この賞品がもらいたくて、がつがつしたことなどは、これまで、ただの一どもなかったけれど、それにともなう名誉と、かっさいとを味わってみたいものだと、いく日ものあいだ、熱心に考えていたことは、まちがいないことだった。
 さだめの時間がきたので、校長先生は、ページのあいだに人さし指をはさんだ賛美歌の本を手にして、説教台のまえに立ち、しずかにして、と命じた。日曜学校の校長先生がいつもの短いお説教をするときに、かならず賛美歌の本を手に持っていることは、舞台に立った歌手が、音楽会で独唱するときに、きまって楽譜を持っているのと同じように必要欠くべからざることになっている――しかし、おかしなことには、賛美歌の本にしろ、楽譜にしろ、これを持つ人は、どちらも、その持っている本を、けっして、のぞいてもみないのである。さて、この校長先生は、三十五歳の背のすらりとした人だった。そして、赤ちゃけたやぎひげと、同じ色の短い髪の毛をはやしていた。かたい立ちカラーをつけていたが、その上のはしは、耳のあたりまでとどき、とがった両はしは、口の両すみのあたりでまえのほうにまかっていた――このかきねのおかげて、いやでも、まっすぐまえのほうしか見られないのだから、横を見ようと思ったら、からだ全体をそちらへむけなければならないのである。先生のあごは、ひろがったネクタイの上に、ちょこんとのっかっているようにみえたが、そのネクタイは、幅も長さも、お札ぐらいもあって、へりにはぎざぎざの飾りがついていた。先生のくつのつまさきは、当時の最新流行にしたがって、ぐっと上のほうにそりかえっているところは、まるで、そりの滑走部のような形だった――これは、若い人たちが、自分のくつを壁におしつけて、何時間も、しんぼうづよくこしかけていたあげくに、やっとえられるひとつの結果なのである。ウォルターズ先生は、ひどくまじめな顔つきの人で、心もたいそう謹厳で、正直一方の人だった。神聖な場所とか、ことがらとかを尊び、これを、俗っぽいできごととまったく切りはなしていたので、日曜学校で話をする声の調子も、しらずしらず、ほかの日とは、ぜんぜんちがった特別の調子になるのも、むりはなかった。先生は、こんなふうにはじめたのである。
「さて、みなさん、あなたがたは、できるだけまっすぐ、きちんとすわって、一分か二分のあいだ、じゅうぶん注意して、わたくしのお話をきいてください。そう――それでよろしい。それが、よい子のおぎょうぎですね。おや、ひとり、窓の外を見ている女の子がありますよ――わたくしが、どこか、外のほうにいると思っているんじゃないかな。――そのへんの木の枝にでもとまって、小鳥たちにお話をしているんだと思ってるのかな。(手をたたきたがってでもいるような、しのびわらい)わたくしは、正しいおこないを学び、よい子になろうとして、こんなにもおおぜいの、明るいきよらかな子どもさんたちが、こういう場所へ集まってきたのを見ると、とても、うれしいのだということを、お話ししたいと思います。」といったような話が、あとから、あとから、つづいた。だが、この演説を、これ以上、書きつづける必要はない。それは、かたどおりのもので、いっこう変わりばえのしない、みなさんがよくごぞんじのお話だからである。お話のあとの三分の一ぐらいは、悪童たちのけんかや、そのほかのなぐさみごとで、だいなしにされてしまった。もじもじ動きや、おしゃべりが、だんだん広く遠くまでひろがって、とうとう、シッドやメァリーのような、ひとりそびえている、しっかりした岩の根もとまでおしよせていった。だが、ウォルターズ先生の声がしずまると同時に、あらゆるもの音が、ぴたりととまった。演説がおわったことは、なんといってもありがたい。そこで生徒たちは、にわかに感謝の気持ちをこめて、静粛になったのである。
 さっき、先生がお話をしているあいだに、ひそひそ話が生徒のあいだにひろがったのは、じつは、ちょっとした、めずらしい事件――すなわち、お客さまの到来、という事件がおこったからのことでもあった。お客さまは、弁護士のサッチャー氏で、同氏は、ひどく弱そうな老人と、半分しらがの、太った、中年のりっぱな紳士と、まちがいなく、その人の奥さんらしい威厳のある婦人とをつれてきた。その婦人のあとから、ひとりの子どもがついてきた。じつは、お客さまたちがはいってくるまで、トムは、じりじりし、いらいらして、後悔の念にかられ、良心にせめられていたのである。――あのエイミー=ローレンスと目をあわせることができず、彼女の愛情をこめた視線を感じることが、つらくてたまらなかったのであった。ところが、新しくはいってきた、その小さいお客さまを見ると、彼のたましいはたちまち、幸福感にもえあがった。つぎの瞬間、もう、彼は、全力をあげて、自分を〈みせびらかし〉はじめた――そばの男の子をひっぱたく、髪の毛をひっぱる、しかめっつらをしてみせる――ひとくちにいえば、女の子の心をひきつけ、ほめられそうだと思われるあらゆる技巧を用いたのである。この無我夢中のあいだにも、ただ一つのこと、――この天使の家の庭ではずかしめにあった記憶――が、このよろこびにかげをさしたが、砂の上に書かれた文字は、いまや、うちよせてきた幸福の波に洗われて、早くもきえかかっていた。
 お客さまには、いちばん高い名誉の席があたえられた。そして、ウォルターズ先生は、演説をすますと、すぐに、お客さまたちを生徒に紹介した。中年の紳士は偉大な名士――すなわち、地方判事その人であるということがわかった。  ここにいる子どもたちは、まだ、これよりえらい名士にはあったことがなかった。――いったい、あの人は、どんな原料ででさているのだろうかと、子どもたちは考えた――そして、この人がほえるような大声をあげて、ものをいうのをききたいような気もしたし、なんだか、ほえられたらおそろしいような気もした。その人は、十ニマイルもはなれたコンスタンチノープルからきたのであった――ほうぼう旅行してきたのだから、いろいろな世界を見てきたのだ――あの目で、地方裁判所も見てきたにちがいない――なんでも裁判所のやねは、すずでふいてあるということだ。こんなふうに考えて、生徒たちが、すっかり感服しきっていることは、その深い沈黙と、じっとみつめている、いく列にもならんだ目の色に、よくあらわれていた。これが、村の弁護士さんの兄、えらいサッチャー判事なのだ。生徒のジェフ=サッチャーがすぐ進みでて、そのえらいおじさんのところへあいさつにいって、全校の生徒にうらやまれた。もし、つぎのようなささやき声が、ジェフの耳にきこえたとしたら、きっと気持ちのいい音楽のようにひびいたことだろう。
「見ろよ、ジム! あいつぁ、でかけていくぜ。やい――見ろよ! あいつぁ、握手をしにいくんだぜ――ああ、あの人と握手してやがら! なあ、おまえ、ジェフになりたいと思わねえか?」
 ウォルターズさんも、〈みせびらかし〉をはじめてしまった。役員らしい、いそがしそうなしごとぶりを、なにからなにまでおめにかける気になったのだ。命令をだしたり、判断をくだしたり、ここ、かしこ、あらゆるところで、的が見あたりしだい、用をいいつけたりしたのである。図書がかりの先生も〈みせびらかし〉た。―両手に本をいっぱいかかえて、あちこち、かけまわり、小役人がとくいになってやりたがる、あのからさわぎや、ぺちゃくちゃまくしたてる、おしゃべりをしてみせた。若い女の先生たちも〈みせびらかし〉をやった。――たったいままで、ひら手うちをくわしておどかしつけていた、その生徒たちのほうにやさしくかがみこんで、わるい子には、きれいな指をあげて注意をしたり、いい子の頭には、やさしく手をおいてなでてやったりした。若い男の先生たちも、ちょっと、こごとをいったり、すこしばかりえらぶってみせたり、公平にしかったりして、おおいに、〈みせびらかし〉だ。――そして、たいていの先生は、男も女も、説教台のそばにそなえつけてある本だなのところで、しごとをしはじめた。そのしごとというのは、二ども三ども、くりかえしをしなければならないしごとだったらしい。そのため、すこし、ごたごたするらしいようすだった。女の子たちも、いろいろなふうに〈みせびらかし〉だし、男の子たちも、ひどく勤勉に〈みせびらかし〉たので、投げる紙玉や息をころしたつかみあいやで、空気がにごってくるほどだった。そして、こういうすべてのさわぎの上に、その偉人は、でんとこしをおろして、威厳にみちた裁判官らしいほほえみを、会堂じゅうの者に投げかけていた。そして、自分自身のえらさという太陽の光の中で、いい気持ちにわが身をあたためていたのである――つまり、この人もまた〈みせびらかし〉ていたわけだ。
 ウォルターズ先生の大きなよろこびを、完全にするためには、もう一つのことがたりなかったのである。それは、聖書のごほうびをだして、神童のごひろうをするということであった。二、三まいの黄いろいカードを持っている生徒は、いく人かいたが、ごほうびをもらえるだけの枚数を持っている者は、だれひとりとしていなかったのだ――先生は、まえもって、めぼしい生徒のあいだを、たずねまわってみたのである。先生は、どんなぎせいをはらってもいいから、あのドイツの少年を、もとどおりの健全な頭にして、よびかえしたいものだ、と思った。
 ところが、この絶望的な瞬間に、トム=ソーヤーが黄いろいカードを九まい、赤いカードを九まい、青いカードを十まい持って進みでて、これで聖書ととりかえていただきたいというのだ。晴天のへきれきとは、まさに、このことだ。ウォルターズ先生は、まだこれからさき十年のあいだは、この方面からの申しいでは、まずないものと思っていた。しかし、たしかに、ごまかしではない――ここには、支払いを保証した小切手があり、どれもほんものなのである。そこでトムは、判事そのほかのえらい人たちのいる高いところへのぼらされた。そして、司令部から、この大ニュースが発表された。これは、この十年間におこった、もっとも大きな、おどろくべき大事件だった。この事件によってひきおこされたさわぎというものは、じつに、たいへんなもので、そのため、新しい英雄トムは、判事さんと同じ高さにまつりあげられて、日曜学校の生徒たちは、ひとりのかわりに、ふたりの偉人を同時にあおぎ見ることになったのである。少年たちは、みんな、うらやましさでいっぱいだった――とくに、もっとも苦痛をなめた者は、トムがしっくいぬりの権利を売ってためた財産でカードを買いあつめるのに、ひっかかった連中で、彼らはすすんで、このいまいましい成功に、ひと役かったことになるのだ。が、それと知ったいまとなっては、あとのまつりだ。彼らは、自分たちが、悪がしこいさぎ、草にかくれたずるいへびにだまされた、ばか者のような気がして、やりきれなかった。
 校長先生は、このようなばあいではあったが、ともかく、できるだけの、ほめことばをそえて、賞品をトムに授与した。だが、どうも、先生のほめことばには、なんとなく熱がなかった。それというのも、あわれな先生は、本能的に、この事件には、なにか明るみにだせないひみつがあるらしいということを、感づいていたからである。この少年が、そのちえの蔵の中に、聖書のことばを二千たばも、たくわえているなどということは、まったく、とんでもないことで――せいぜい、一ダースくらいがやっとこさであろう。
 エイミー=ローレンスはほこらしくも、また、うれしくも思った。彼女は、自分のよろこんでいる顔をトムに見てもらいたいと思ったが、トムは見ようとしない。エイミーは、これはおかしいな、と思った。それから、すこし心配になった。つぎに、ぼんやりしたうたがいが、やってきたり、遠のいたりした――そして、またやってきた。エイミーは、注意ぶかく観察しはじめた。ちらちらと、横目を使っているうちに、やがて、世の中のはかなさがわかった――エイミーの心は、悲しみにきずついた。ねたましくなり、腹がたち、涙がわいてきた。だれもかれも、にくらしくなった。その中でも、トムがいちばんにくらしいと、エイミーは考えた。
 トムは、判事に紹介された。けれども、舌はひきつり、息もつまり、心臓はふるえた――たいへんえらい人のまえにでたためであったが、それよりも、その人が、あの女の子の父親だったからである。もしあたりが、まっくらやみででもあったなら、地にひれふして、その人をあがめたてまつったかもしれない。判事は、トムの頭に手をのせて、りっぱな若者だといい、なんという名まえかとたずねた。少年は、どもったり、息をつまらせたりしたあげく、やっとのことでいった。
「トム。」
「ああ、いや、トムではあるまい。――ほんとうは――」
「トマス。」
「そう、そうだね。わたしは、それにもうすこし、なにかがつくのではないかと思うがね。それは、それで、たいへんよろしい。しかし、きみには、もう一つ名まえがあったはずだが、それを教えてくれないかね?」
「トマス、このかたに、きみの名字をいいなさい」と、ウォルターズ先生がいった。「そして、ちゃんと、でありますと、ていねいにお話しするのです。おぎょうぎをわすれてはなりませんよ。」
「トマス=ソーヤーであります。」
「そうだ! いい子だ。りっぱな子だ。りっぱな男らしい少年だ。二千の聖句といえば、たいへんな数です――おどろくべき、まったく、おどろくべき数ですからね。きみは、それをみんなおぼえこんだ苦労をくやむことは、けっしてありますまい。なぜならば知識こそは、この世のなにものよりもねうちがあるからです。偉大な人間、善良な人間をつくるものは知識なのです。トマス、きみも、いつかはかならず偉大な人、善良な人になるにちがいない。そのとき、きみは、むかしをふりかえっていうだろう、これはみな、少年時代の、あのありがたい日曜学校のおかげである――これはみな、学ぶことを教えてくださった、なつかしい先生がたのおかげである――これはみな、自分をはげまし、見守り、美しい聖書をくださった、あのりっぱな校長先生のおかげである――おお、すばらしく優美な聖書――わたくしは、いつも、これを、自分のものとして持っていよう――これはすべて、正しい教育のおかげなのだ。こんなふうに、きみは考えるにちがいないのだよ、トマス。――そして、この二千の聖句にたいして、きみはお金をもらいたいなどとは思いませんね――そうだとも、そんなことを思うはずはない。それでは、わたしと、この奥さんに、きみがおぼえたことを、すこし話してくれませんか、話してくれますね。――そう、むろん、話してくれるはずだ。――わたくしたちは、よく勉強する子どもたちが、だいすきなのだからね。ところで、もちろん、きみは十二使徒の名まえは、のこらず知っていますね。では、さいしょに主にえらばれた、ふたりの使徒は、だれとだれとでしたかね。」
 トムは、ボタン穴をいじくり、内気そうなようすをしていたが、こう、たずねられると、まっかになって、下をむいた。ウォルターズ先生は、がっかりした。この子は、どんなかんたんな質問にだって答えられやしないんだ――なんだっていったい、判事さんは、質問なんぞするのだろう――先生は、ひそかにそう思った。しかし、だまっているわけにもいかないと思ったので、口をだした。
「このおかたに、答えなさい、トマス――なにも、こわがることはありません。」
 トムは、あいかわらず、まごまごしている。 「さあ、あなたは、わたしになら、いえますわねえ」と、婦人がいった。
「さいしょのふたりの使徒の名まえは――」
ダビデゴリアテ!」
 さて、これからあとの場面は、トムのために、慈悲の幕をおろして、かくしてやることにしよう。

5 かみつき虫
 十時半ごろ、小さい教会のひびのはいった鐘がなりだした。やがて、人びとは、朝の説教をききに集まってきた。日曜学校の子どもたちは、ちりぢりにちらばって、それぞれの親とならんで、こしをかけた。なるほど、こうしておけば、親の監督がゆきとどくというものである。ポリーおばさんもきた。トムとシッドとメァリーは、おばさんといっしょにすわった――トムは通路がわのこしかけにすわらされたが、これは、できるだけ、あけはなたれた窓から遠ざけ、心をさそう夏の風景から遠ざけるためだったのだ。人びとが、つぎつぎに、通路を通って、くりこんできた。年寄りの貧乏な郵便局長がくる。むかしは、よい暮らしをしてきた人だ。村長と村長夫人がくる――この村にも、ほかのよけいなものといっしょに、村長などというものがあったのだ。治安判事がくる。ダグラス未亡人がくる。この人は、色白で、身だしなみのよい四十がらみの未亡人で、心がひろく、善良で、お金持ちだ。丘の上の夫人のやしきは、村でただ一つの大邸宅で、お客にしんせつなことや、お祝いのようなばあいにはでに金をつかうことでは、このセント-ピータースバーク村での、じまんのたねになっていた。こしのまがった、お年寄りのワード少佐と奥さんがくる。遠くからひっこしてきた新顔の名士、リパーソン弁護士もくる。つぎに、村一番の美人がさきに立って、うすもののきものをきて、リボンでかざった若いむすめたちの一隊といっしょに、はいってきた。そのあとから、村じゅうの若い店員たちが一団となってやってきた。これは、彼らが、げんかんのところに立ちどまって、ステッキのさきをなでながら、さいごのひとりのむすめがすりぬけるまで、頭を香油で、てらてら光らし、にやにやわらいをうかべて、美人をほめたたえるための、見はりをしていたからであった。さいごに、模範少年ウィリー=マファーソンが、おかあさんを、まるで、きりこガラスかなにかのように、だいじそうにかかえて、やってきた。彼は、教会へくるときは、いつも、おかあさんをつれてきて、村じゅうの奥さんたちのほめ者になっていた。少年たちはみんなウィリーをきらった。それほど、彼は、いい子だったのだ。それに、子どもたちは、なにかといえば、すぐにウィリーを〈ひきあい〉にだされつけているせいもあった。その白いハンケチは、おしりのポケットから――きょうもまたぐうぜんに――はみだしていた。日曜には、きまりきってそうなのだ。トムは、ハンケチを持っていなかった。ハンケチなんぞ持ってるやつは、きざなやつだと思っていた。
 会衆は、すっかり集まった。鐘がもう一どなって、おくれている人や、ぐずぐずしている者に注意をうながしたあとは、会堂の中は、しいんとしずまりかえり、ただわずかに、さだめの席についた唱歌隊から、しのびわらいや、ささやきの声がもれて、その静けさをやぶっているだけだった。唱歌隊というものは、おつとめのあいだじゅう、しのびわらいや、ささやきの声をしつづけているものである。わたくしは、どこかで、一ど、おぎょうぎのいい唱歌隊に出会ったことがあるが、それがどこであったか、いま、ちょっと思いだせない。ずいぶんむかしのことで、なにもかもわすれてしまったが、なんでも、それは、どこか外国でのことだったような気がする。
 牧師は、賛美歌の番号を会衆につげ、そして、その歌を、いかにも楽しげに、また、この土地の人たちの気に入っている一種特別な調子をつけて、読みあげた。その声は中音ではじまり、しだいに高まっていき、あるところまで達すると、ぐっと力をこめる。それから、まるで、とびこみ台からとびおりるように、すっと声をおとすのである。
 ちのうみこえて しゅのみいくさに ともはかちぬ
 われのみいかだで やすけきそのに いこいてあらん
「しゅのみいくさに ともは」までは、ぐんぐん声が高くなっていく。「かちぬ」で、すっとおちるといったぐあいである。牧師さんは、朗読の名人だと思われていた。だから、彼は、教会の懇親会では、いつも詩の朗読をたのまれた。朗読がおわると、婦人たちは手をあげ、どうしていいかわからないというように、それを、また、ひざの上におろしたり、目をつぶって頭をふりたてたりするのだった。
「ことばでは、とうていいいあらわせないわ。これはもうあんまり美しくて、この世のものとは思われないほどですもの」と、いわんばかりのようすである。
 賛美歌の合唱がおわると、スプレイグ牧師は、告知板にかわって、集会や宴会、そのほかのことについての予告を、たんねんに読みあげていった。その項目は、さいごの審判の日までつづくかと思われるほど、長ったらしかった――おかしな習慣だ。アメリカでは、都会地でさえ、新聞に不自由しない現代になっても、まだ、この習慣がおこなわれている。むかしからある習慣をみとめる理由が少なければ少ないほど、これをやめるということはむずかしいものとみえる。
 さて、つぎに牧師さんは、祈った。りっぱな高貴な精神にみたされたお祈りで、こまかいところまでゆきとどいていた。牧師さんはこの教会のために祈り、教会の子どもたちのために祈り、この村のほかの教会のために祈り、村そのもののために祈り、郡のために祈り、州のために祈り、州の役人たちのために祈り、合衆国の教会のために祈り、国会のために祈り、人統領のために祈り、合衆国の役人のために祈り、あらしの海にもてあそばれている船員たちのために祈り、ヨーロッパの王政、東洋の専制政治のもとにあえいでいる、何百万の民衆のために祈り、光と福音に接しながら、見る目もきく耳も持たない者のために祈り、はるか遠い島々に住む異教徒のために祈り、そして、さいごに、いま、自分がいわんとしていることばが、恩寵と加護をえて、よき土地にまかれた種のように、いつの日かよき収穫をえられることを、アーメン、と祈った。
 立っていた会衆が、きぬずれの音をさせて、こしをおろした。牧師の祈りは、この小説の主人公である少年の気に入らなかった。彼は、ただ、がまんしてきいていただけのことである。――なみたいていのがまんではなかった。トムは、祈りのあいだじゅう反抗的な気持ちでいた。彼は、自分でも気がつかずに、祈りにでてくるまえのことばと、あとのことばとをくらべて、研究していた。――自分でも気がつかずにというのは、耳をすましてきいていたわけではなかったからである。しかし、彼は、祈りにはちゃんと地ごしらえがしてあって、牧師さんは、きまりきった道を進んでいくのを知っていたのだ――だから、ほんのすこしばかり新しいことばがまざりこんでくると、それはすぐききわけられ、むやみに腹がたった。新しいことばをつけくわえることは、きたないやりかたで、けしからんことだと思った。お祈りの中ほどで、一ぴきのはえがとんできて、目のまえのこしかけの背にとまった。見ていて息がつまりそうだった。まず、しずかに両手をすりあわせる、両腕でしっかり自分の頭をかかえこむ、それから、まるで、首がちぎれはしないかと思われるほど猛烈につやだしにかかる、細い首がまる見えだ、それからあと足で、羽をしごいて、それをえんび服のしっぽのように、自分のからだにぴったりくっつける。自分はまったく安全だとこころえているように、しずかにおけしょうをやっているのだ。まったく、それは安全だった。トムの手は、つかまえようとして、いたいほどむずむずしているのに、おしきってやろうとはしないのだから――もし、お祈りのさいちゅうに、そんなことでもしたら、たましいは、たちまち破滅すると、彼は信じていた。しかし、結びのもんくがはじまるといっしょに、トムの手はしなって、そっとまえのほうにのびていき、「アーメン」がとなえられると同時に、はえはとりこになっていた。おばさんは、これをみつけて、はなさせてやった。
 牧師は、聖書をとりあげ、ある題目について、つまらないお説教をはじめたが、なんとも、だらだらしているので、あちらでもこちらでも、舟をこぎだす頭の数が多かった――しかも、それは、地獄の業火についての説教で、だんだんきいていると、せっかくえらばれて天国へいけることになっていた人たちも、つぎつぎと、ふるいおとされて、しまいには、わざわざすくうにもあたらないほどの小人数になってしまうような話だった。トムは、お説教の原稿のページをかぞえた。彼は、いつも教会からでてくるときは、きょうの説教は何ページあったかということを知っていた。しかし、どんなお話だったかということは、めったにおぼえていなかった。だが、きょうだけは、ほんのすこしのあいだだが、ほんとうにおもしろくきいた。牧師さんが、至福千年期に世界じゅうの人が集まりつどう、荘厳で感動的な情景をえがいてみせたからである。そのときになると、ライオンと子ひつじが、いっしょにねるようになり、小さな子どもが、それをつれて歩くことになるだろうというのである。しかし、その偉大な情景の持つ悲しいまでの感動や、教訓や、深い意味は、この少年にはわからなかった。トムは、ただ、世界じゅうの国々の人たちが見ているまえで、主役を演じるときのはなばなしさだけを考え、その考えで彼の顔はかがやいた。彼は、そのライオンが、よく人になれているのだったら、自分がそのライオンをつれて歩く子どもになってみたいものだと、心ひそかに考えた。
 そのうちに、また、おもしろくもないお説教にぎゃくもどりしたので、トムは、またまた、やりきれなくなってきた。と、そのとき、彼は、自分が宝物を持っていることを思いだして、とりだしてみた。それは、おそろしくあごのはった、まっ黒い大きなかぶと虫だった。彼はその虫に、かみつき虫という名をつけていた。虫は雷管の箱の中に入れてあった。箱からだされると、虫はいきなり、トムの指にかみついた。もちろん、トムは、虫を指ではじいたので、虫はもがきながら通路にとばされ、あおむけにひっくりかえった。少年は、いたい指を口の中へ持っていった。かぶと虫は、おきかえれないので、しきりに、足でもがいた。トムは、それをみつめ、つかまえたくて、うずうずした。けれども、とても手がとどかないのだから、かぶと虫は、安全だった。お説教にたいくつしているほかの人たちも、すくわれた思いをして、このかぶと虫をながめた。と、そこへ、一ぴきのむく犬が、ぶらぶらやってきた。犬は、しずんだ気持ちでいた。夏の日のけだるさと静けさで、からだはだらけ、外へだしてもらえないので、うんざりしながら、なにかかわったことはないかと、ため息をつきつき、やってきたのだ。犬は、ひょいと、かぶと虫に気がついた。いままでたれていた尾が、ぴんとはねあがって、左右に動きだした。犬は、その宝物を検査した。かぶと虫のまわりをぐるぐる歩きまわった。危険のない、遠いところから、においをかいだ。もう一ど、虫のまわりをぐるぐると歩きまわった。だんだん大胆になり、もっと近くへよってにおいをかいだ。それから、歯をむきだして、用心ぶかく、ぱくっとやった。だが、もうすこしというところで、ねらいがはずれた。そこで、もう一ど、ぱくっとやり、また、ぱくっとやっているうちに、だんだんこの遊びがおもしろくなりだした。犬は、腹ばいになり、虫をまえ足でだきこむようにして、この実験をくりかえしていたが、しまいには、これにもあきて、だんだん虫をあいてにしなくなり、とうとう、まるっきりしらん顔をしはじめた。そのうちに、犬は、こくりこくりやりだしたが、しだいしだいに、あごが下へさがって、とうとう、敵のからだにさわった。と、そこへ敵はかみついた。犬は、きゃんきゃんなきたてて、頭をぱっとふったので、かぶと虫は、二、三ヤードむこうに投げとばされ、またも、せなかを下にしてひっくりかえった。まわりの見物人たちは、内心のおかしさをこらえようとして、からだをふるわせた。なかには、せんすやハンケチで顔をかくした人もあった。トムは、すっかりうれしくなった。犬はきまりわるそうな顔をしていたが、きっと、ほんとうに、きまりがわるかったにちがいなかった。だが、一方、犬には、くやしいという気持ち、かたきうちをしてやりたいという気持ちもあった。そこで、犬は、かぶと虫のほうへ近づくと、ふたたび、用心ぶかい攻撃を開始した。そして、虫のまわりを、ぐるぐるまわりながら、あらゆる方角からとびかかり、もう一インチで虫にとどくというところまで、まえ足をつきだして、まえよりもっと口を近づけて、ぱくっとやり、耳がばたばた動くほど、頭をふりたてた。しかし、しばらくすると、また、あきてきた。こんどは、はえをおもちゃにして遊んでみたが、ちっともおもしろくなかった。床に鼻をつけて、おりを追いまわしてみたが、これにもすぐあきた。そこで、犬は、あくびをし、ため息をつき、かぶと虫のことはまったくわすれて、その上にすわりこんだ。とたんに、けたたましい悲鳴をあげて、むく犬は通路をかけだした。悲鳴はつづき、犬は走りつづけた。犬は、祭壇のまえでまがり、べつの通路を、こんどは、入り口のほうへむかって走った。そして、入り口のドアのまえをかけぬけると、また、さっき通った通路を走りのぼった。走れば走るほど、犬の苦痛はつのってきた。やがて、犬は、ただ一団の毛のはえた彗星となって、光りかがやき、まっしぐらに、その軌道を走りまわっていた。ついに、この気もくるわんばかりの受難者は、その軌道からそれて、自分の主人のひざにとびあがった。主人は、犬を窓からほうりだした。悲しいなき声は、たちまち、遠のいていき、やがて、きえた。
 もうこのころになると、会堂じゅうの人はわらいをおしころすために、まっかになり、息もつまりそうになっていた。そして、説教は、完全に立ち往生をしていた。やがてまた、お話はつづけられたが、どうも、つかえがちで、とても人を感動させることなどできそうもなかった。牧師がもっとも厳粛な感想をのべたときでさえも、気のどくなことに、まるで、彼がとっぴなばか話をしゃべりでもしたかのように、どこか遠くのこしかけのかげから、つつしみのない思いだしわらいが、爆発するといったしまつだった。だから、この責め苦がおわって、祝福の祈りがあげられたときには、会衆一同、まったく、ほっとしたのであった。
 トム=ソーヤーは上きげんで帰っていった。彼は、すこしかわったことがおこりさえすれば、礼拝というものもまんざらすてたものでもないと考えていた。しかし、彼には、一つ気に入らないことがあった。犬が、彼のかみつき虫と遊ぶことは、いっこうさしつかえがないと思うのだが、虫を持ってにげてしまうことはけしからん――これが、トムの考えだった。

6 ベッキーにあう
 月曜日の朝、トム=ソーヤーはげんきがなかった。月曜日の朝というと、きまって、そうなのだ――これからまた、たいくつな、苦しい、一週間の学校生活がはじまるからである。彼は、いっそ、こんなことなら、休みなんぞないほうがよかった、そのおかけで、また学校にしばられて、きゅうくつなめにあうのが、なおのこといやになるのだ、と考えながら、この日をむかえるのが、いつものきまりだった。
 トムは、考えながらねていた。ふと、病気になりたいなあ、という気がおこってきた。そうなれば、学校が休める。そうだ、ことによったら、おれだって、病気になってるかもしれないぞ、と思った。
 そこで、彼は、からだじゅうをしらべてみた。どこもいたいところはみつからない。もう一どしらべてみた。こんどは、腹いたの兆候があるんじゃないか、という気がした。こいつは、だいぶん有望だと思ったので、おおいにいたがってやることにした。ところが、すぐにいたみはひきはじめて、まもなく、すっかり、おさまってしまった。トムは、もっとよく考えてみた。と、きゅうに、気がついたことがあった。上のほうの前歯が一本、ぐらぐらしているのだ。これはうまい。そう思って、トムのことばでいえば〈手はじめ〉として、うなりはじめようとしたときに、彼は、気がついた。もし、この理由を申したてて、法廷へうったえでれば、おばさんは、その歯をひっこぬいてしまうにちがいない。こいつは、いたいにきまっている。そこで、彼は、歯のことはとうぶんおあずけにしておいて、なにかほかのことをさがそうと考えた。しばらくは、これという、うまい考えもうかばなかった。が、そのうちに、いつか村のお医者さんからきいた、二、三週間もねているうちに、足の指が一本なくなってしまうかもしれないという病気の話を、思いだした。トムは、むちゅうになって、けがをしている足の指をふとんの下からひきだして、上に持ちあげて検査してみた。だが、その病気にかかったら、きずのぐあいや、からだの調子が、どんなふうになるものか、彼は知らなかった。しかし、ともかく、ためしてみるだけのねうちはあると思ったので、かなり、いせいよく、うなりはしめた。
 だが、シッドは、まだなんにも知らずにねむっていた。
 トムは、もっと大きな声で、うなった。そうしたら、なんだか足の指がいたくなってきはじめたような気がした。
 シッドからは、なんの手ごたえもない。
 トムは、あまりうなったので、息がされてきた。そこでひと休みしてから、ぐっときばって、つづけざまに、みごとなうなり声をあげた。
 シッドは、やっぱり、いびきをかいている。
 トムは、じりじりしてきた。
「シッド、シッド!」といいながら、あいてをゆすぶった。これはうまくいったらしい。そこでまた、うなりはじめた。シッドはあくびをし、のびをし、それから、ふうっと、鼻から息をふきだしながら、ひじをついて半身をおこし、トムをみつめはしめた。トムは、うなりつづける。
 シッドがいった。
「トム! おい、トム!」(答えなし)
「おおい、トムったら! トム! どうしたんだい、トム?」
 シッドは、トムをゆすぶり、心配そうに顔をのぞきこんだ。
 トムは、うなるような声をだした。
「ああ、だめだよ、シッド。ぼくをゆすぶっちゃあ、だめだよ。」
「おや、トム、どうしたんだい。おばさん、よんでこようか。」
 また、トムは、うなりながらいう。
「ううん――たいしたこと、ないんだ。だんだん、なおるよ、きっと。だあれもよばないでいいよ。」
「いや、よんでくるよ! そう、うなるなよ、トム、おっかないや。いつごろから、こんなふうになったんだい?」
「何時間もまえからだ。あっちち! おい、そんなに動くなよ、シッド、おまえが動くと、おれ死にそうだよ。」
「トム、どうして、もっと早くおこさなかったのさ。おい、トム、やめてくれよ! それをきくと、ぞっとすらあ。トム、どうしたんだよ?」
「おまえのことは、なにもかも、かんべんしてやるよ、シッド。」(うなる)
「おまえが、おれにしたことはのこらずね。ぼくが死んだら――」
「ねえ、トム、おまえ、死ぬんじゃあるまいねえ、ええ? 死ぬんじゃないよ、トム――おい、死んじゃだめだぞ。もしかして――」
「ぼくは、みんなかんべんしてやるんだ、シッド。」(うなる)
「みんなに、そういってくれ、な、シッド。おまえね、おれの窓わくと、そいから、片目のねこは、こんど村へきたあの女の子にやってくれよ、そいで、あの子に――」
 しかし、シッドは自分の服をひっさらって、もう、いってしまっていた。トムは、いよいよ本式に苦しみだした。はじめは、足の指がいたくてたまらないことにして、おしばいをしているうちに、だんだん、ほんとうにいたいような気がしてきたのだ。だから、うなり声も、ほんとうの調子になってきた。
 シッドが、階段をとんでおりだ。
「ああ、ポリーおばさん、すぐきて! トムが死にそうだよ!」
「死にそうだって!」
「そうなの。ぐずぐずしないでさ――早くきてよ!」
「ばかばかしい! わたしは、そんなこと、ほんきにしないよ!」
 しかし、そういいながらも、おばさんは階段をかけあがった。シッドとメァリーは、すぐあとにつづいた。おばさんは、顔をまっさおにし、くちびるをふるわせていた。そして、ベッドのそばに近よると、とぎれとぎれの声でいった。
「トム! ねえ、トム、どうしたの?」
「ああ、おばさん、ぼくは――」
「どうしたの――ねえ、トム、どうしたのさ?」
「ああ、おばさん、けがした足の指が、くさってきたんだよ!」
 老婦人はいすに、へたへたとすわりこんで、すこしわらい、それから、すこしなき、それから、なきながらわらった。それで、すこし気がおちついたとみえて、いった。
「トム、なんだって、わたしをびっくりさせるんだね。さ、もう、そんなじょうだんは、いいかげんにやめておくれ。」
 うなり声はやみ、足の指のいたみはひっこんだ。トムはすこし、きまりがわるかったけれども、いった。
「おばさん、ほんとに、くさってくるような気がしたんだよ。あんまりいたいもんで、ぼく、歯がいたいのをすっかりわすれちまった。」
「歯だって! いったい、おまえの歯がどうしたのさ?」
「一本ぐらぐらになっていて、とってもいたいんだよ。」
「よしよし、さあ、もうあのうなり声はごめんだよ。口をあいてごらん。なるほど――たしかに、おまえの歯はゆるんでるね。でも、だいじょうぶ、死にっこはないよ。メァリー、絹糸《きぬいと》とね、それから台所へいって、おきを一つ持っておいで。」
 トムはいった。
「ああ、おばさん、ごしょうだから、ぬかないでよ。もういたかあないんだからさ。こんどいたくなったって、きっと、さわがないからさ。ねえ、やめてよ、おばさん。もう学校へいかずに、うちで遊びたがったりなんかしないからさあ。」
「まあ、うちで遊びたがったりしないんだって? なるほど、このそうどうは、学校へいくのがいやで、休んで、つりにいきたいんで、それで、はじめたんだね? トム、ねえ、トムや、わたしは、おまえをこんなにかわいがっているんだよ。それだのに、おまえさんは無法なことばかりして、年寄りのわたしをなかせるんだからね。」
 こんな話をしているうちに、歯医者の道具がすっかりととのった。老婦人は絹糸の一方を輪にして、トムの歯にしっかりゆわえつけ、一方のはしをベッドのへりの柱にくくりつけた。そうしておいて、おき[#「おき」に傍点]をとりあげて、トムの鼻さきにぐっとつきつけた。と、ぬけた歯が、ベッドの柱にぶらさがって、ぶらぶら、ゆれた。
 しかし、すべての試練はそのつぐないをもたらすものである。朝めしをすまして学校へいったトムは、出会う友だちからうらやまれる身となった。ぬけた前歯のすきまから、新式のすばらしいやりかたで、ちゅっとつばきをはくことができたからである。この演技をおもしろがる子どもたちが、あとからあとから、集まってきた。ついそのときまで、指を切ったというので人気の中心になり、みんなにつきまとわれていた子は、きゅうに人気がなくなり、落ちめになっていくのを感じないわけにいかなかった。その子は、おもしろくないものだから、心にもないけいべつの色をみせて、トム=ソーヤーみたいなつばきのはきかたなんか、ぞうさもないことだといった。すると、ほかの子が、「まけおしみいってやがらあ!」といって、この武装解除された英雄を追放してしまった。
 まもなく、トムは、村の浮浪少年ハックルベリー=フィンと出会った。かれは、村で評判のよっぱらいのむすこである。ハックルベリーは村じゅうのおかあさんたちが心からきらい、また、おそれている子だった。それは、この子がなまけ者で、無法者で、下品で、わるい子だったからである。それに、また、村じゅうの子どもという子どもが、ひどく、この子にあこがれて、かたくとめられているくせに、この子といっしょに遊びたがり、なろうことなら、あの子のようになりたいとのぞんでいたせいでもある。トムも、やっぱり、ほかの、ちゃんとしたうちの子どもたちと同じように、ハックルベリーのごうせいな宿なし生活をうらやみ、彼と遊ぶことを、きびしく禁じられていた。だから機会さえあれば、彼は、いつでも、ハックといっしょに遊んだ。ハックは年じゅう、おとなのぼろ服をきていた。そのぼろ服からは、まるで四季咲きの花みたいに、いつでも、おかざりがひらひらしていた。ぼうしはぼうしで、ひどくこわれていて、ふちのところが一部分、三日月型にとれてしまっていた。上着をきているときは、そのすそが足首のあたりまでたれさがり、うしろのボタンは、おしりのずっと下のほうにある、というありさまだった。ズボンは一本のズボンつりでぶらさがっている。おしりのはいるべきところは、下のほうでだぶだぶしているだけで、中身はからっぽだ。ズボンのすそをまくりあげていないときは、すり切れたすそを、どろにひきずって歩く。
 ハックルベリーはいくも帰るも、気のむくままだった。天気のよい日は外でねむり、雨がふれば、あきだるの中でねむった。学校だの、教会だのという、いかなければならないところはなく、主人とよぶべき者も持たず、だれの命令にしたがう義務もなかった。さかなつりにだろうとおよぎにだろうと、いつどこへでもかってにいけたし、また、いつまででも、それをすきなだけやっていられた。けんかをしてはいけないと、とめる者もなかった。おきていたければ、何時までおきていたってかまわなかった。春さき、いちばん早くはだしになるのは、きまってハックだったし、秋になって、いちばんおそくまでくつをはかずにいる子も、ハックだった。顔を洗う必要もないし、きれいな服をきる必要もなかった。それに、どんな、すばらしい悪口《あっこう》だって、口にすることができた。つまり、この人生をすばらしいものにすることができるいっさいのものを、ハックルベリーは持っている――と、日ごろ、足かせ手かせをはめられているセント-ピータースバーグじゅうの、ちゃんとしたうちの子どもたちは考えていた。
 トムは、この、すばらしい宿なし少年にあいさつした。
「いよう、ハックルベリー!」
「おめえ、自分に、いようっと、声をかけてみな。どんな気がするか。」
「おまえが持っているの、なんだい。」
「ねこの死んだのさ。」
「見せろよ、ハック。おや、ずいぶんかたくなってるな。どこでみつけたんだい。」
「よその子から買ったんだ。」
「なにをやってさ?」
「青いカードを一まいと、そいから、屠殺場でひろったぼうこう[#「ぼうこう」に傍点]を一つやったよ。」
「青いカード、どこでもらった?」
「二週間ばかしまえに、輪まわしの棒一本で、ベン=ロジャーズから買ったのさ。」
「ねえ、――死んだねこはなんに使うんだい、ハック。」
「なんにって? いぼをとるんだよ。」
「へえ! ほんとかい。ぼく、もっとよくきく薬、知ってるぜ。」
「知っていっこねえさ。なんだい、そいつは?」
「うん、木の根っこのたまり水さ。」
「木の根っこのたまり水! そんなの、だめにきまってるよ。」
「だめだって? おまえ、やってみたことあるのかい。」
「おれは、ねえさ。だけど、ボブ=タンナーがためしたんだ。」
「だれがそういった?」
「うん、ボブがジェフ=サッチャーに話してよ、ジェフがジョニー=ベイカーに話してよ、ジョニーがジム=ホリスに話してよ、ジムがベン=ロジャーズに話して、ベンが黒んぼに話してよ、そいから、黒んぼがおれに話したのさ。な、どうだい!」
「へん、それがどうしたい! やつらは、みんな、うそつきじゃないか。黒んぼだけはべつだけど、ほかのやつらは、みんなうそつきだぜ。おれ、その黒んぼにあったことないからな。でも、黒んぼで、うそつかないやつなんて見たことないな。ちぇえだ! じゃあ、おい、ボブ=タンナーがやったこと、話してみな。」
「うん、あいつはね、くさった切り株にたまってる雨水ん中へ、手をつっこんだとよ。」
「昼問かい?」
「そうさ。」
「切り株のほうをむいてかい?」
「うん、まあ、そうだろうな。」
「そいで、なんか、となえたのかい?」
「となえないんだろ。よく知らないけど。」
「わあい、だ! 木の根っこのたまり水でいぼをとるんなら、そんなばかな法ってあるもんか! へっ、そんなんでうまくいくはずないよ。それはね、森の奥の、たまり水のある根っこのとこへ、自分ひとりでいってさ、ちょうどま夜中になったら、根っこのところまで、うしろむきに歩いていってよ、手を水の中へつっこんでさ、そいで、こうとなえるんだ。
[#ここから2字下げ]
  麦っつぶ、麦っつぶ、とんもろこしの焼きパンだ。
  たまり水、たまり水、このいぼ飲んどくれ。
[#ここで字下げ終わり]
 となえちまったら、目をつぶって十一歩だけさっさと歩いて、そいから、三べんまわって、だれとも口をきかずに、うちまで歩いてくるんだよ。どうしてかっていうと、そこで口をきいたら、おまじないがだめになっちゃうんだもんな。」
「うん、そりゃ、よくききそうだ。だけど、ボブ=タンナーのやったのは、ちがってるよ。」
「ちがっているでございましょうとも。ぼくがいったようには、やらなかったにきまってるよ。あいつ、いまだって、村じゅうでいちばんいぼが多いんだもんなあ。もし、あいつが、たまり水のほんとのおまじない知ってたら、いぼなんぞ、一つもくっつけてないはずだもんなあ。おれは、このおまじないで、手のいぼを何千ととったんだぜ、ハック。おれは、かえるをうんといじくるから、いつだって、いぼだらけだったんだ。豆でとったこともあるぜ。」
「ああ、豆はいいな、おれもやったことがあらあ。」
「おまえも? おまえのは、どんなやりかただい。」
「はじめに、そら豆を二つにわってさ、そいから、ちょっといぼを切って血をだしてさ、そいから、豆の片っぽうのほうに血をくっつけて、そいから、穴をほって、血のくっついたほうのやつを夜中にそこへうめるのさ。穴は四つ辻のまんなかで、月のない晩でなきゃだめだ。そいから、のこった豆の半分は焼いちまわなきゃいけねえ。そうすると、血のついたほうの豆の片われが、もう片っぽのやつと一つになりたがって、自分のほうへひっぱりよせようとするんだ。そして、いつまででもひっぱるだろう。そのひっぱる力を借りて、血がいぼをひっぱるんだ。だから、じきに、いぼがころりとおっこちるのさ。」
「そうだ、ハック――そのとおりだ。でも、そいつをうめるときに、『豆はおちろ、いぼはとれろ、もうもう、おまえはごめんだよ』つてとなえれば、もっとよくきくんだぜ。こいつあ、ジョー=ハーパーのやるてなんだ。あいつ、クーンビルのすぐそばまでいってたことあるし、たいていのとこ知ってるもんね。そりゃそうと――おまえ、どうやって、死んだねこでいぼをとるんだい?」
「うん、だれか悪いやつがうめられたあとで、死んだねこを持って、夜中ごろに墓場へいくんだよ。すぐ夜中の十二時になるだろう、そうすると、悪魔が一ぴきやってくらあ、二ひきか三びきくらいくるかもしれねえ。でも、こいつあ目には見えねえ、風みたいな音がきこえるばっかりだ。ひょっとすると、あいつらの話し声が、きこえるかもしれねえ。そいから、悪魔がその悪者をつれていくのを待ちかまえて、ねこをうしろからぶっつけて、こうとなえりゃいいんだ。『悪魔は死骸についていく、ねこは悪魔についていく、いぼはねこめについていく、これでおしまい、縁切りだ!』こうやっときゃ、どんないぼでもとれちまうとさ。」
「うまくいきそうだな。おまえ、やったことあるのかい、ハック?」
「ねえんだけどね、ホプキンスばあさんがおせえてくれたんだ。」
「なるほど、そうかもしれねえな。みんなが、あのおっかあは魔法使いだっていうもんな。」
「そうだ! なあ、トム、あのばあさん、ほんとに魔法使いだぞ。あいつは、おれのおとっつぁんを魔法にかけたんだぜ。おとっつぁんが、自分でそういってたもんな。いつか、おとっつぁんがあのばあさんにでっくわしたとき、あいつは魔法にかけようとしやがったんだとさ。そいだから、おとっつぁんが石をひろって、ほうりっけたんだとよ。ばあさんがよけなきゃ、その石、ばあさんにあたっちまったんだぜ。ところがな、すぐその晩、おとっつあんは、よっぱらってねていた納屋からころげおちて、腕をおっぺしょっちゃったんだ。」
「へえ、おっかねえな。あのばあさんに魔法をかけられたのが、どうしてわかったんだろう?」
「そんなこたあ、おめえ、おとっつぁんにいわせりや、わけなしだ。あいつらがじいっと見たら、もう魔法をかけてる証拠なんだとよ。口ん中でぶつぶつなにかいってやがったら、なおのことよ。ぶつぶついってるときは、〈主の祈り〉のもんくを、さかさまにいってるんだってことだ。」
「おい、ハック、おまえ、いつ、そのねこ、ためしてみるんだ?」
「今夜よ。きっと今夜あたり、ホス=ウィリアムズじいさんのとこへ、悪魔がやってくるだろうと思うんだ。」
「でも、あいつがうめられたのは土曜日だぜ。土曜の晩に、悪魔がつれにきたんじゃないのかい。」
「ちえっ、ばかいってやがら! 魔法てのは、ま夜中でなきゃ、使えないんだぜ。そいで、ま夜中の十二時になりゃ、もう、日曜じゃないか。日曜にゃあ、悪魔のやつらは、うろつけないんだぜ。」
「そいつあ考えなかった。そうだよ、たしかに。おまえ、おれも、いっしょにつれてってくれるかい?」
「いいとも――おめえが、こわくさえなけりゃ、かまわねえ。」
「こわがる! おあいにくさまだ。おまえ、ねこのなき声やってくれるかい。」
「やるとも――おめえも、できたら、にゃあん、とへんじをしてもらいたいな。このまえは、おまえが、あんまり、いつまでも、おれに、にゃあごにゃあごやらせておいたもんだから、ヘイスじいさんが、『このねこやろう!』って、おれに石をぶっつけやがった。だから、おれは、れんがをぶっけて、あいつの窓をこわしてやったんだけど――そんなこというなよ。おい。」
「いいやしないよ。あの晩はね、なきまね、できなかったんだよ、おばさんが見はってたんでね。でも、こんどはだいじょうぶだ。おい――それ、なんだい?」
「だに[#「だに」に傍点]さ。」
「どこでとった?」
「森だ。」
「なんとなら、とっかえる?」
「知らねえよ。売る気なんて、ないもん。」
「そうか。なんだか、べらぼうにちっぽけなだにだぜ。」
「いいさ、人のだにの悪口は、だれでも、いえるよ。おれは、これで気に入ってるんだよ。これでも、おれにゃあ、けっこう上等のだになんだ。」
「ちぇっ。だになんざ、いくらでもいらあ。とる気になったら、千びきだってとれらあ。」
「へえ、そいじゃ、なぜ、とらないんだい? まだ、とれねえってこと、おまえが、ちゃんと、知ってるからよ。こりゃ、できたてのほやほやのだにだぜ。ことしになって、はじめてみつけたやつだぜ。」
「おい、ハック――おれの歯とかえっこする気ないかい。」
「見せろよ。」
 トムは、紙きれをとりだして、ていねいにひろげた。ハックルベリーは、ほしそうにのぞきこんだ。ほしくてたまらなくなった。とうとう、こんなふうにいいだした。
「それ、ほんものかい?」
 トムは、くちびるをまくりあげて、歯のぬけたあとを見せた。
「うん、よし。そいじゃ、とっかえっこだ。」
 トムは、ついこのあいだまでかみつき虫がおしこめられていた、あの雷管の箱の中に、だにをしまいこんだ。そこで、ふたりは、おたがいに、まえよりも金持ちになったような気になってわかれた。
 トムは、人家《じんか》からはなれた、小さい木造の校舎へ近づくと、ここまでずうっと、大いそぎで歩いてきたような顔をして、さっさと、学校の中へはいっていった。そして、ぼうしをぼうしかけにかけると、きびきびした身のこなしで、すっと自分の席についた。こしかけがへぎ板の網代あみになっている、大きなひじかけいすに、たかだかと鎮座した先生は、生徒が自習をしている、ひそひそ声にさそわれて、つい、うとうとと、舟をこいでいたが、きゅうに、その声がとだえたので、ひょいと目をあけた。
「トマス=ソーヤー!」
 トムは、自分の名が正式によばれるときのおそろしさを知っていた。もう、こうなったら、ぶじにおさまらない。
「はい! 先生。」
「ここへきなさい。ところで、いつものことだが、なぜ、またあなたは遅刻をしたのかね。」
 トムがいいのがれの、うそをつこうとしたとき、ひょいと、黄いろいおさげが二本、ながながとせなかにさかっているのが見えた。愛する者が持っている、するどい感じかたで、そのおさげの主がだれであるかということが、トムにはすぐわかった。また、その人のすわっている席のとなりが、〈女生徒のたった一つの空席だ〉ということも、とっさに見てとった。トムは、すぐ答えた。
ハックルベリー=フィンと立ち話をしていました。」
 先生の脈は、はたととまった。とほうにくれたように、じっとトムをみつめた。自習のひそひそ声もとまった。生徒たちは、この無鉄砲な少年は、気がくるったのではないかとあやしんだ。先生はいった。
「あなたは――あなたは、なにをしていたんですって?」
ハックルベリー=フィンと立ち話をしていました。」
 ききまちがえのしようがなかった。
「トマス=ソーヤー、わたしは、まだ、こんなだいそれた告白をきいたことは、一どもありませんぞ。この罪にたいする罰としては、ただ手の甲をたたくくらいのことではすみません。上着をぬぎなさい。」
 先生の腕は、くたびれきるまで、むちをふるった。むちの柄が、かたくにぎりつぶされ、目に見えてほそくなった。やがて、つぎのような命令がくだった。
「よし、それでは、女生徒の席へいっておかけなさい! 今後は、これにこりなければいけませんぞ。」
 くすくすわらいのさざ波が教室じゅうにひろがって、これが少年をはずかしがらせたようにみえたが、じつは、そうではなかった。彼は、まだ名も知らない、天使のような人にたいする崇拝からくるおそれと、このすばらしい幸運をおおいによろこぶ気持ちとのために、はずかしくなっていたのだ。トムが、松板のこしかけのはしっこにこしをおろすと、女の子は、つんと頭をうしろにそらして、からだをずらして、彼からはなれた。ひじでつつきあったり、目くばせをしたり、こそこそ耳うちをしたり――教室の中は、きゅうにざわめいたが、トムは、きちんとこしかけて、自分のまえの、長くて低いつくえに両手をおき、本を勉強しているらしいようすだった。
 だんだん、みんなの注意がトムからはなれ、またもや、よどんだ空気の中で、おきまりの、がやがや勉強する声がおこった。まもなく、トムは、となりの女の子に、横目を使いだした。攵の子はそれに気がつくと、トムにむかって口をとんがらせてみせて、そのあと、一分間ほど、くるっとむこうむきになっていた。それから女の子が、そうっと顔をもとにもどしてみると、目のまえに、ももが一つおいてあった。女の子は、それをトムのほうにおしやった。トムはしずかに、もとのところへおきなおした。女の子は、またおしかえした。が、まえのときほど腹をたてているようすではなかった。トムは、根気よく、それを、また、もとの場所まで、おしもどした。すると、こんどは、女の子は、ももをそのままにしておいた。トムは石板に、「どうぞ、とってください――たくさん持ってるんだから」と、へたくそな字で書いた。女の子は、その字をちらりとのぞいたが、しらん顔をしていた。すると、こんどは、トムが、左の手でかくしながら、石板になにか書きはじめた。しばらくのあいだ、女の子は見むきもしなかったが、この子も人間だから、好奇心というものを持っている、それが、ほんのすこしずつ動きだした。トムは、なんにも気がつかないふりをして書きつづけている。女の子は、なにくわぬ顔をして、それをのぞいてみようとしたが、トムはそれに気がつかないふりをした。とうとう、女の子が根負けして、えんりょしいしい、いった。
「見せてちょうだいな。」
 トムは、きみのわるい漫面《まんが》のような絵を、手のかげから、すこし、のぞかせた。破風《はふ》を二つ持っている家のえんとつから、コルクぬきのようにねじれたけむりが立ちのぼっている。女の子は、すっかりその絵にむちゅうになって、ほかのことは、みんなわすれてしまった。そして、その絵ができあがると、ちょっとみつめていたが、やがて、小さい声でいった。
「うまいわ――人間をかいてよ。」
 画家は、家のまえの庭に起重機《きじゅうき》みたいな男を立たせた。それは、家をひとまたぎにしそうな男だったが、その女の子はこやかましい批評家ではなかった。だから、その怪物でまんぞくして、ささやいた。
「りっぱな人だわ――こんどは、そこへ、あたしをかいてちょうだい。」
 トムは、満月がくっついている砂時計のようなものをかき、それに、麦わらのような手足をはやし、ひろげた指には、ばかでかいせんすを持たせた。女の子はいった。
「とても、すてきだわ――あたしにも、絵がかけるといいんだけど。」
「やさしいよ、こんなの。おせえてやろうか。」
「まあ、教えてくれる? いつ?」
「お昼に。昼ごはんは、うちへたべに帰るのかい?」
「教えてくれるのなら、ここにいるわ。」
「よし――そいつぁすばらしい! きみの名、なんていうの?」
ベッキーサッチャー。あんたの名まえは? ああ、あたし、知ってるわ。トマス=ソーヤーっていうのね。」
「それはね、ぶたれるときの名だよ。いい子のときは、トムだ。きみも、トムっていってくれよ、ね?」
「ええ。」
 そこでトムは、また、女の子にかくして、石板になにかいそいで書きはしめた。だが、女の子は、こんどはえんりょしなかった。彼女が、見せてもらいたいとたのんだとき、トムはいった。
「ううん、なんでもないんだよ。」
「いいえ、きっと、なんかいいことが書いてあるんだわ。」
「なんでもないんだったら。きみなんかの、見たがるもんじゃないんだよ。」
「いいえ、見たいわ。ほんとうに見たいのよ。見せてちょうだいったら。」
「だって、きみ、しゃべるもん。」
「いいえ、いわない――ほんとよ、ほんとったら、ほんとにいわないからさ。」
「ほんとに、だれにもいわないかい? 死ぬまで、いわずにいられるかい?」
「いわないったら、だれにもいいやしないから、さあ、見せてよ。」
「こんなもん、きみが、見たいはずないんだけどなあ!」
「そんなにするんなら、いいわ、自分で見てやるから。」
 そこで女の子は、かわいい手を、トムの手にかけたので、ちょっとした小ぜりあいがはしまった。トムは、ほんきになってさからっているふりをしながら、すこしずつ、手をずらしていったので、とうとう、「ぼくはあなたを愛します」という字が、すっかり、あらわれてしまった。
「まあ、いじわる!」といって、女の子は、トムの手をぴしゃりとぶった。それでも、しかし、赤くなって、うれしそうな顔をした。
 ちょうど事件がここまで進んだとき、トムは自分の一方の耳が、ゆっくり、しかも、おそろしい力でぐっとつままれて、ぐいぐい、上へ持ちあげられていくのを感じた。この万力にはさまれたまま、彼は、教室じゅうのざんこくな、くすくすわらいの中をひきずられていって、ぽいと、自分の席におかれた。それから、先生は、何秒かのあいだ、トムのそばに、じっと、立っていたが、そのわずかな時開のおそろしさったらなかった。だが、先生は、とうとう、ひとことも口をきかずに、自分の玉座へ帰っていった。トムの耳は焼けるようにいたかったが、心はよろこびにみちていた。
 教室がしずかになったので、トムはほんきになって勉強しようと思ったけれども、それには、心があまり動揺しすぎていた。彼は順ぐりに、いろいろのグループへ顔をだして、へまばかりやった。まず、読みかたのグループで大失敗をやった。つぎに、地理のグループでは 湖を山にし、山を川にし、川を大陸にしてしまったので、世界は、ふたたび、天地創造以前のこんとん時代にかえってしまうというさわぎだった。書き取りのグループに顔をだしたときは、赤んぼうでも知ってるようなことばが書けずに、〈頭ごなし〉にやっつけられた。あげくのはてに、全生徒のどんじりまでおとされて、ここ何か月かのあいだ、とくいになってつけて歩いていた、びゃくろうのメダルをとりあげられてしまったのであった。