題名の通りである。
「いわゆる団塊の世代」は金を使って、まっとうな人生から逃げた、と言っていい。
「いわゆるロスジェネ世代」は結局のところ、新自由主義と冷笑、それもつるむための道具としてのそれ、それを使ってまっとうな人生から逃げた、といわれてもしかたがない。
「いわゆる団塊の世代」の一番悪いところと、何もちがわない。何を反抗したつもりになっているのか。笑わせるな。
そういう時代において、クールジャパンとそれからインターネットのはなやかさとそうぞうしさは、その腐った性根を覆い隠すイチジクのはっぱとして機能している。それが不本意だったかどうかはともかく。
梶村秀樹先生への評価の不在があらわしていることの1つは、まちがいなくこれだ。
「いわゆるロスジェネ世代」にもいろいろな人々がいることはわたしも知っているつもりである。そして、新自由主義と冷笑に逃げた人の苦悩がニセモノだったとまでは私は断言しない。ただし、うすっぺらであり、本物の苦悩だったとはとてもみとめられない。これはまっとうさからの最低限の要求というものだ。
もうひとつ、冷笑に逃げた人たちへ。いまの冷笑文化は、ツルムための道具でもある。「ナニカグループ」問題あたりで、それがはっきりした。冷笑でつながった人間関係は、全部ニセモノである。いざというときは簡単に切られるぞ。