『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

2025年大阪万博の現場、特に夢洲で働いているみなさまへ、本当に命を守るためにも、仮病の準備をおすすめします。(「戦争下における仮病の研究」という追記予定あり)

2025年大阪万博の現場、特に夢洲で働いているみなさまへ、本当に命を守るためにも、仮病の準備をおすすめします。

このブログを、何かの偶然で読んでいる、現場作業員のみなさま。日本政府、大阪府市、万博協会、その他みなさまの上司にあたる人々が、みなさまに無理をおしつけるような、ほとんど信用に値しない人々であることは、よくおわかりと思います。きれいごとはいいません。命はひとつのみ、なくしたらとりかえしがつきません。しかし、暴れて命の奪い合いをすることも、悪い事です。
ですから、仮病の準備をおすすめします。ひょっとしたら、ある特定の現場の状況はもっと悪くて、焼け石に水かもしれません。しかし、しないよりマシです。仮病の準備をおすすめします。そもそも、でたらめな計画のせいで、ほんとうにやる気がわかない状態だと思います。なんとかして、生き延びることを考えてください。

「仮病」での検索結果
検索結果|NHKアーカイブス


メモ
あとで追記修正する予定。それにしても、戦場での「仮病」、医師と看護婦と衛生兵の証言、ざっと思い出してみたが、ろくでなしの上官のぶんふくめて、意外と見つからないという印象がある。いわゆる「ヒステリー」のほうが多いんじゃないかと思うぐらいだ。「ヒステリー」は当時の用語になるか。
また脱線するが、今まで、特攻兵が故意に自機に飛行機に細工して戻れるようにしたという証言、見分ふくめていまだ確定できるものが1件もない。さすがに重大事なためか。
いまのドライバーだって、ちょっと調べただけではわからないように自動車を故意に故障させることができる。カバチタレの第2シーズン第2巻でその話があった。

「戦争下、戦後の各時代における仮病の研究」
「仮病」での検索結果、4人

三井物産天津支店に勤務
1944年
独立工兵第12連隊に入隊
1945年
樺林にて終戦



1942年
第28連隊に転属。第2悌団・機関銃中隊の衛生兵としてガダルカナル島上陸。当時、22歳、上等兵(衛生兵)。
1943年
ガダルカナル島撤退後、再び旭川に駐屯。

腹が立つ証言、証言者は悪くない


1943年11月、歩兵第213連隊に配属
1944年シンガポールを経てビルマ
1945年ビルマ(現ミャンマー)で終戦
1946年復員 日本鋼管病院に勤務後、開業医に


1944年
(犬塚・深野)7月学徒動員で中島飛行機太田工場へ 翼のリベット打ち
1945年
(犬塚・深野)4月、学徒動員打ち切りとなり帰郷
 
(犬塚)戦後 医師
 
(深野)戦後 金融機関勤務



「戦争証言アーカイブス」収録の証言より、衛生兵の証言
第28連隊、1人
独立混成第14旅団、近畿、1人
第143連隊、1人
第170連隊関連、2人
路安陸軍病院、1人
石家庄陸軍病院、1人
第15師団、1人
第1師団、1人
独立歩兵第784大隊、シベリア抑留、1人
第119連隊、1人
第145連隊(硫黄島)、1人
第10連隊(ルソン島)、1人
第229連隊、ブナ「玉砕」、1人
ひめゆり学徒隊」、6人+2人=8人

従軍看護婦24件+2件、軍医、8人+アルファ



マニラ市街戦
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001100420_00000

お腹が痛いと言って、来るんですよ。盲腸ね、盲腸だったら一応、切るでしょ。切れば一応4~5日は病院にいるわけでしょ。そうすると、その間、戦争へ行かなくて済む。そういう患者さんね、随分あったですよ。兵隊さんだけじゃなくてね、士官、中尉、大尉、そういう方もね、痛いと言って来られて、わたしらが診察して「大丈夫だよ」って言って帰してもね、また、ものすごい痛んで来る。それで切ったら、やっぱり何もなかった。結局、戦争回避、そういう方がわりと多かったですね。これはもう、わたしが体験したんですが。そこでね、わたし、もう、一日に何件も、盲腸手術をやらされました。

(戦地が)激しかったんですね。(戦地に)出されるとダメということで。だから手術してもらえば、少なくとも3~4日は行かなくて済むと。


Q:そのとき、先生は何でもなくても、切ってあげたりってこともあったんですか?

 中には、そういう方もありましたね。切るのはわたしが主にやったし、あと上の方もね、カマタ少佐と、この方もやりましたけど。二人でおかしいなと言いながら、切ったりした例もありますね。


兵科が衛生兵の証言者一覧(追加するかも)

Kさん
1921年
三重県飯南郡河内村(現・松阪市)に生まれる
1934年
大河内第一尋常小学校卒業後、名古屋の羅紗問屋で働く
1942年
現役兵として独立歩兵第13大隊に入隊。中国山西省太原を経て路安陸軍病院に配属
1945年
路安陸軍病院にて終戦を迎える
1946年
復員 農作業衣や裁縫用品の卸売業を営む



Iさん
1921年
山梨県中巨摩郡落合村(現・南アルプス市)に生まれる
1942年
召集され中国戦線へ 衛生兵となる
 
支那方面軍 甲1420部隊に配属
1945年
中国・北京で終戦を迎える
1947年
5月復員 農業を営む



Hさん
1921年
東京都大田区生まれ
1939年
高輪中学校卒業
1942年
補充兵として近衞野砲兵第1連隊 入隊
 
衛生兵として東部ニューギニア
1945年
ニューギニア・ウェワクで終戦を迎える
1946年
戦後は家業を継ぎ機械部品の工場を経営する




Wさん
1921年
東京都港区生まれ
1933年
青山小学校卒業
1942年
補充兵として近衞野砲兵第1連隊 入隊
 
衛生兵として東部ニューギニア
1945年
ラバウル終戦を迎える
1946年
復員、海産物の卸問屋を営む



Kさん(入市被ばく、臨時衛生兵)
1928年
岐阜県姫治村(現・多治見市)に生まれる
1945年
2月、陸軍船舶特別幹部候補生隊に入隊
 
6月、船舶工兵第9連隊に配属される
 
7月、広島・忠海(現・竹原市)へ
 
比治山(の病院)で終戦を迎える
 
戦後は教員になる




Kさん
1924年
三重県度会郡小川郷村(現・度会町)に生まれる
1945年
1月、現役兵として歩兵第68連隊補充隊に入隊。中国山西省路安へ
1946年
復員 農業に従事



Kさん
1919年
大阪府大阪市に生まれる。
1939年
第4師団第37連隊第4中隊入隊
1940年
第3四師団第2野戦病院転属
1941年
第15師団第2野戦病院転属
1944年
衛生兵としてインパール作戦参加。
1945年
イラワジ会戦に参加。バンボンで終戦を迎える。
1946年
復員。復員後は、故郷にて印刷業を営む。





Mさん
1923年
北海道雨竜郡北竜町にて生まれる
1944年
旭川北部第3部隊に入隊。満州にて歩兵第32連隊へ配属
1945年
沖縄戦当時、21歳、上等兵。復員後は北海道にて農業に従事



Nさん
1919年
東京市神田区にて生まれる
1939年
法政大学高等商業部卒業。同盟通信社映画部入社。現役兵として歩兵第30連隊に入隊
1940年
歩兵第58連隊に入隊
1944年
コヒマ作戦当時、24歳、軍曹。
1946年
復員。復員後は建設会社に勤める



Kさん
1925年
兵庫県有馬郡(現・三田市)に生まれる
1939年
鉄道省大阪駅に就職
1944年
11月姫路中部第46部隊に入営後、中国山西省の独立歩兵第14旅団独立歩兵第243大隊に配属
1945年
衛生兵となり、5月、旅団司令部軍医班へ転属。中国山西省路安(ロアン)(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)で終戦山西省に残留し、山西軍(閻錫山軍)へ参加
1946年
5月復員 大阪駅に復職、後に国鉄職員に



Nさん
1921年
福井県敦賀市に生まれる
1941年
敦賀の青年学校卒業
1942年
現役兵として歩兵第19連隊に入隊
1944年
歩兵第119連隊に転じ、ビルマ戦線へ
1945年
終戦当時、24歳、軍曹
1947年
復員後は敦賀市にて洋服商を営む



Sさん
1921年
山梨県道志村にて生まれる。
1942年
現役兵として甲府歩兵第49連隊に入隊。満州に駐留。
1944年
レイテ島に派遣。当時、23歳、兵長(衛生兵)。
1945年
セブ島終戦を迎える。復員後は、故郷で建設会社などに勤務する。


Nさん
1919年
徳島県那賀郡中野島村で生まれる。
1939年
現役兵として徳島歩兵第143 連隊に入隊。徳島陸軍病院で教育を受け、衛生兵となる。
1943年
除隊。
1944年
再び召集、西部第33部隊へ入隊。ビルマ戦線に参加。
1945年
ビルマで転進中に終戦を迎える。
1947年
復員。


Iさん(兵士、男性)
衛生兵が見た戦地とシベリア
体験地:満州、シベリア

私は1943年(昭和18年)の召集兵である。43年5月、県立栃木中学校(現・栃木高校)にて徴兵検査を受けた約70名の内、甲種合格が約30名で、私はその1人だ。連隊区司令官に甲種合格を申告すると、司令官の肩を指圧するように命じられた。



Kさん
1920年
和歌山県日高郡田良町にて生まれる。
1938年
箕島商業中学校卒業。
1941年
現役兵として和歌山第61連隊に入隊。幹部候補生として豊橋予備仕官学校に入学。翌年卒業。善通寺師団配属高松防衛隊に入隊後。愛媛県新居浜市住友へ。監督官。
1943年
ブナ作戦の増援のためラバウルへ。ブナ陣地から撤退する将兵をクイ陣地で収容する任務に従事。
1943年
ボブダビの戦闘で足に負傷。内地還送後、善通寺陸軍病院に入院、手術。
1945年
高知護土部隊中隊長として勤務中、終戦。復員後は小売店業などを営む。



Iさん
1939年
歩兵第6連隊に入隊
1940年
歩兵第228連隊に配属
1942年
ガダルカナル島に上陸
1943年
ガダルカナル島撤退
1946年
復員、名古屋市三菱重工で働く


Nさん
1924年
国後島に生まれる
1941年
馬専門の獣医として働く
1944年
役場の馬籍係に
1945年
徴兵され色丹島に配属
 
終戦後 ソ連によりシベリアへ送られる
 
帰国後は根室市在住


Yさん
1921年
岐阜県高鷲村(現・郡上市)に生まれる
1941年
12月召集 歩兵第229連隊の衛生兵に
1942年
11月ニューギニア・ブナへ
1945年
ラバウル終戦を迎える
1947年
戦後は、郷里で民宿経営


Oさん
1920年
北海道伊達町にて生まれる。
1941年
現役兵として旭川歩兵第27連隊入隊。
1942年
第28連隊に転属。第2悌団・機関銃中隊の衛生兵としてガダルカナル島上陸。当時、22歳、上等兵(衛生兵)。
1943年
ガダルカナル島撤退後、再び旭川に駐屯。
1945年
復員。復員後は、国鉄に復職する。


Nさん
1917年
福井県三国町に生まれる
1943年
第53師団衛生隊入隊、第119連隊とともにビルマ戦線へ
1945年
終戦
1947年
復員後は、大学の事務職に就く


Kさん
1922年
福岡県に生まれる
 
尋常高等小学校卒業
1943年
満州第299部隊(野砲兵第26連隊)入隊
1945年
独立歩兵第784大隊に転属
1945年
南溝にて終戦 終戦時、独立歩兵第784大隊所属兵長
 
収容所は、コムソモリスク
1948年
舞鶴にて復員
 
復員後は、漁業に従事


Bさん
1922年
テキサス州に生まれる
 
高校を卒業した後に海兵隊
1944年
1月、ニューブリテン島へ
 
9月、ペリリュー島
1945年
4月、沖縄へ
1948年
退役し、その後は郵便局で働く
[10]
チャプター10
錯乱状態に陥った兵士の姿
04:25
Q:ドッグトレーナーの人の話をしていただけますか?

ええ。あれは小さな半島にいたときのことです。300~400メートルほど前方に島がありました。潮が引くと、歩いて本島まで行くことができました。私たちは巡回警備に出て、そこで夜を明かすことになりました。時計を持っている海兵隊員は少なかったので、何時頃だったか分かりませんが、たぶん夜の9時半か10時ごろだったと思います。その犬を連れた兵士が…例のドッグトレーナーです。彼は我々と一緒にいました。その夜の10時ごろに、そのドッグトレーナーが錯乱し、大声で叫び始めました。彼は犬に向かって、「助けてくれ、助けてくれ」と繰り返し叫びました。声はますます大きくなっていきました。「やつらに殺される、俺は殺されるんだ」そんなことを叫んでいました。

衛生兵が、馬でも死ぬくらいの大量のモルヒネを打ちましたが、まったく効果はありませんでした。彼にはまったく効果がなかったのです。叫び声はどんどん大きくなっていき、日本兵が500メートル内の地点にいました。非常に近くにいたんです。それで衛生兵は、モルヒネで彼の意識を失わせようとしたのですが、まったく効果はなく、叫び続けました。それで、仲間の1人が塹壕用のシャベルで彼の頭をぶん殴ると死んでしまいました。殺してしまったのです。でもあのときのことはしかたがないことです。1人の命を犠牲にしましたが、巡回警備をしていた私たち全員、20人か30人が犠牲になる可能性もあったのです。

Q:どうしてか原因は分かりますか?

私には分かりません。人の精神力の強さには差があるものです。怖いものなど何もないという人もいます。それが自分の任務と割り切って淡々とことをやり抜く精神力を持っています。そういう人は興奮することもなければ、たじろいだりすることもありません。一方で、死ぬほど怖いと感じてしまう人もいるのです。ニューブリテンでも錯乱状態の人を見ました。それが最初でした。彼は任務を解かれて後方部隊に戻されましたが、そのあとどうなったのかは知りません。でも我々の部隊の1人でした。カナダ出身だったのを覚えています。

よくあることです。




Mさん
1926年
沖縄・嘉手納町に生まれる
1941年
高等小学校終了後 沖縄県首里高等女学校に入学
1944年
10月、軽便鉄道で通学中に十・十空襲を受ける
1945年
識名壕やナゲーラ壕などで負傷病兵の看護を行う
 
南部の海岸で米兵に捕まり収容される。7月、漢那で子どもたちを教え始める
 
終戦後は、文教学校を経て、正式に教員となる。首里高女の戦争体験を語り継ぐ


Sん、Iさん
1921年
Iさん 岡山県一宮に生まれる
1940年
Iさん 歩兵第10連隊入隊
1945年
Iさん バレテ峠の戦いに参加、以後復員
1921年
Sさん 岡山県邑久郡に生まれる
1941年
Sさん 歩兵第10連隊入隊
1945年
Sさん 10連隊の傷病兵治療にあたる、以後復員



Mさん
1917年
鹿児島県姶良郡山田村に生まれる
1943年
歩兵第145連隊に入隊
1944年
硫黄島の戦いに参加 衛生隊伍長
1947年
浦賀にて復員
 
農業、八幡製鉄所への出稼ぎなど