『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

歴史認識というのは第三者的、客観的存在ではない。どういう行動が積極的生き方なのか、これを示すものであり、それ以外では絶対にない。   関東大震災から100年目のこの時に

歴史認識というのは第三者的、客観的存在ではない。どういう行動が積極的生き方なのか、これを示すものであり、それ以外では絶対にない。別の言い方で言えば、歴史の主導権は誰が握るべきかという問題である。
1923年の関東大震災における日本民衆を加害者とした朝鮮人・中国人・被差別部落民などへの虐殺事件を否定すると主張する(否定したい、ではない)論者は、同時に2025年大阪万博をなんとかして「失敗」させないように最大限努力すべきではないのか。そうでなければ、全体としてみれば決定的に自己矛盾している。これを自己矛盾しているとわからないことが、高度資本主義、高度消費文化の成立の後の排外主義ナショナリズムの巨大な自己矛盾である(問題はそれだけではないが)。わたしにいわせれば、ある種の疎外状況である。

メモ
ゼニさえあれば、安丸良夫ごえが可能だ、とすら言わなくなった。
基本姿勢が三流以下、というか最初から負けてます、では話にならない。
わたしは、梶村秀樹先生の著作の大量電子化作業について、「なんでこういうことをしているんですか」と言われたことは、記憶しているかぎり2018年1月ごろから、1回もない。肯定否定いずれのニュアンスでも、である。インターネット上で梶村秀樹先生を語るその視点から、あと2歩進めれば、わたしの作業の理由(の1つ)は、すぐに理解できるはずである。優先的にすべきか納得できるかどうかはべつとして。だから、たとえば現在の(普通の)国民国家論はつまらないんだ。
冷たい客観性など主張している時間はすでにない。現在の(普通の)国民国家論すら、わたしにはあきたらない。