『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや07


1921年
山梨県山梨市にて生まれる。
1942年
現役兵として輜重兵第1連隊に入隊。満州に駐留。
1944年
レイテ決戦当時、23歳、少尉。
1945年
セブ島終戦を迎える。復員後は故郷山梨県で中学校の教員などを務める。

[1]
レイテ決戦へ 05:40

[2]
レイテ上陸 07:30
[3]
死の谷の戦い」 09:08
[4]
脅威だった米軍の迫撃砲攻撃 03:12
[5]
姿を消す兵士たち 02:38
[6]
抗日ゲリラ 03:22
[7]
飢餓 05:22
[8]
たおれていく兵士 04:35
[9]
命を落とした部下への想い 01:17
[10]
セブ島への転進 04:55
[11]
考え続けた「生き残ったこと」の意味 06:00


[1] チャプター1 レイテ決戦へ 再生中05:40
はぁー、やっぱり「北満の北の満州ソ連を相手に、寒いところで広いところで戦争する」その訓練を受けた第一師団、われわれがですね、上海へ行って、今、 言った沖縄かフィリピンか、それから、台湾かと、この中でフィリピン・レイテ島というようなことを聞いたのが船に乗ってからですね、移送船へ乗ってからの ことです。ですから、向こうのまったく寒いところ、大陸の戦闘の訓練をした、と、それが南の暑いところ島国の戦闘というようなことで、まったくガラッと変 わってしまったですね。こんなことで、いよいよ南の戦闘かなというようなことで、困ったな、今まで訓練した、受けたのも教えたのも満州の広いところ、そし て、それがいいけど、それがアメリカ軍相手ですね、そして、レイテというようなことで、わたしだけじゃないですが、もう師団長以下驚いたんじゃないかと思 いますね。

Q 小石澤さん将校ですけど、戦況って、当時の戦況ってどれくらい分かっていたんですか。

あのほとんど情報としては、わからない。ただですね。わたしたちが上海からバシー海峡を渡ってフィリピンへ行く、その年のバシー海峡、台湾沖の海戦というのがあって、一度引き返してきてまた行ったですが、これは大変なことだなぁと、そんなことを感じましたね。
  それから、・・・の情報で、4隻の輸送船がこのバシー海峡を無事に通ったなんということはないと、そんなことを言われながらですね、潜水艦の監視や飛行機 の監視というようなことで、「もういつどうなるかなと、いつどうなるかな」って、そういうような気持で行ったですね。だから、下級将校という立場、あるい は、もっと上の人たちでも、フィリピンの向こうのレイテ、南方の様子なんか、あまり知らなかったじゃないかなと思いますね。

Q さっき、台湾沖航空戦で大変なことになったとおっしゃったんですけど、それどういうことなんですか。

ア メリカの潜水艦が出没したり、飛行機が上を飛んでいると。そういう中で、今言った僕たちみたいに満州から上海、そして、南方へ行くと、その南方へ行く輸送 船を狙っているわけですね。それで、潜水艦から魚雷を打ち込まれて、それで沈んでしまう。そういうことで無事に南方、目的の島へ着いたというのは、割合、 少ないですね。

わたしたちがレイテ島へ上陸する前に、ある一個師団が上陸して守っていたですが、それも制海権、制空権をとられたあとです からね。どうにもならんの。戦争にもならないというようなことで、もう僕たちはこっち上るっていったら、向こうからこう下りてくる、まるで(日本兵は)敗 残兵のようなんですね。そういう姿でしたね。ああ、大変なところへ来たなと。「もう日本もこれじゃあ」というようなことを、その頃から思いはじめました ね。

山下奉文ね、山下奉文軍(第14方面軍・フィリピン防衛を担当)の最高司令官ですが、あれがマニラの首都に将校を全部集めてね、第一 師団「玉兵団」の、僕等も下級将校ですが、そこに並びましたが。もう米軍がレイテへ上がってきたけれども、もう一匹たりとも残さずこの海に追い落とせと。 そういうような檄(げき)を受けて行ったですよね。だから、それはやっぱり戦争だから、苦戦だと負けると大変だというようなことを、状況が、もう最高司令 官も言いっこないとは思うけども、そういうことで行ったわけですね。だから、レイテへ上がってみて、初めて「あぁ、日本軍は」という感じがしたですね。だ から、行くまでは、「勝つんだ、勝つんだ、行け、がんばれ」そういうムードですね、行ったですね。だから、「戦争に必要なものだけを持って、そして、あと のものは、みんな船から輸送船からふ頭へ置いていけと、お前らふ頭へ置いていけ」と。そして、上陸はあの、レイテへ向かったわけですよ。
 だか ら、初め、満州を出る時には向こうの連隊へ入って、向こうで警備にあたるぐらいのつもりで行ったですね、気分そのものが。ところが、行ったらもうレイテ島 大苦戦だということで、負け戦だと。そういうところへ行ったですから、山下奉文軍司令官に激励されて、檄を飛ばされて勇ましく行ったけれども、実は、そう じゃなかったですね。


[2] チャプター2 レイテ上陸 07:30
Q 上陸して、まず、どういう任務を請け負ったんですか。小石澤さん。

まぁ、輜重兵連隊は二個大隊で自動車と馬場と2つなっていますが、 わたし馬のほうですね、馬場。そこで二個中隊やったですが、その両方の中隊に2個小隊ずつ35名兵士ですがね、戦闘小隊がいた。その戦闘小隊というのは、 弾薬、コウブ廠や、糧まつ輸送、それをするその人たちを警備する部隊ですね。戦闘小隊はね。だから戦闘、米軍、敵と向かい合って戦争するという本来の任務 じゃなかって、輸送補給を任務とする輜重隊、それを守る小隊が戦闘小隊ですね。その小隊長として上海で編成されて、それから、レイテへ上陸したわけです ね。
 だから、19年の11月1日になりますか、レイテ島に上陸した時、その時が、もう弾薬糧まつ揚げるますから、その警備というようなことです ね。それもう1日、2日、3日あたりから歩兵が動きだしたというね、そういうふうな状況で、戦闘小隊というのはもう、戦闘部隊、戦いを任務とする部隊では なくて、そして、戦いをする人たちに糧まつや弾薬を輸送する、それを警備する小隊ですね。時には、非力搬送といってね、担いだり、運んだりてし戦線へ輸送 することもあったですが、まぁ、要するに戦闘の任務でなくて、いわゆる後方部隊といっていますがね。そんな任務をもっていたわけですね、戦闘小隊というの は。

Q レイテで、その糧まつの輸送って何回くらい小石澤さんは、されたんですか。

まだ、上陸した直後は、自動車がね、リモン街道を戦線へ行きましたから、それで1日に2回くらいずつ往復しましたですね。
  そんなことをして、あるいは警備し、コウブ廠の警備する、そんなことをしている中で、11月の12日に歩兵の57連隊へ転属なったですね。57連隊へ転属 になっている。だからその間ですから、上陸して初めはあすこの警備、あと輸送ということですから、わずか2週間足らずくらいだったと思いますね。輸送の警 備をしたということは。ときにこれもあれですね。兵隊さんといっしょに糧薬、弾まつ、弾薬積んでそして、前線へ送り届ける。

Q その弾薬や糧まつの補給廠にいらっしゃったわけですね。それよりさらに後方から補給があったことはあるんですか。

それがね、上陸して以来全然ないですね。船に積んでいったのを持ち上げた、持ち上げたそれを警備したり、輸送したりということで、あとから船で潜水艦で輸送船で運んできたということは全然ないです。
  ルソン島、ご存じのようにルソン島のマニラですね、これがフィリピンの首都で、ここの勝ち戦のころ占領していたですね。それが位置がかかっているのがレイ テ島ですからね。そこまでマニラからレイテまでも船が来ないと。補給が保ちそうもないから出したようですがね。国を出ているけれども、途中でもう潜水艦や 飛行機にやられて、そして、沈んでしまって届かないという。あとで帰ってみたら、「もうみんなお寺の鐘までね、そういう金物をみんな出して、そういった兵 器弾薬を作るためにというふうなことまでした」ということを聞きましたがね、それは戦線へは来ないですね。やっぱりそれも、さっきも申したけど、制海権、 制空権、これにあるんですね。もう輸送船が戦場まで近くまで輸送する能力がないと、そういうような状況だったですね。もう19年の11月はね。
 だから結論的には、内地から、あるいは後方から戦線へ輸送されて食べ物も兵器弾薬も来るようなことは不可能な状況だったということですね。そんなことですね。

  無理なことをしたものですね。食べ物も弾も送らなくて「戦争しろ、戦争しろ」とね。「頑張れ、頑張れ」といったって頑張りようがないですよ。そんなこと は、あとでもって言ったり、今、考えることであって、そのときは、「何とか凌げ、何とか頑張るんだ」という気持でいっぱいだったですね。


Q 当時の日本軍の糧まつ集積所とか、あとその弾薬の集積所って、そのどんなものなのかって想像がつかないんですけども、どういう様子だったんですか、当時は。

やっ ぱりヤシだとかね、洞窟(くつ)みたいなところへなるべく、こう分からないように遮へいしながら、「ここは糧まつ、ここは弾薬、ここは油」とそういうふう に分けてね、分散して、そして、遮へい、隠れるようにして置いたですね。それがやっぱり米軍の情報網や、上空で観察機という飛行機がね、見てますよね。す ると、察知するんですよ。そういう状況で、あるいは後方で食事を炊いたりしますよね。そうすると、野戦病院などもあるわけでしょう。そういうのが、そうい うのは、もう情報としても米軍に察知されるですね。で、そういう中で飛行機でやられると。弾でやられると。そういうようなことです。だからそれを遮へいし たり、ヤシの林や密林の中に持ち込んでいってなんとかと持ってくるけれども、それもついにはどうしようもなくなってしまった。野戦病院でさえも襲撃されて いるんですね。機銃掃射を受けたり、砲撃を受けたりしている。


[3] チャプター3 「死の谷の戦い」 09:08
一個大隊って800 人いる。編成がね。それが僕らが19年11月の22日に配属になって第2大隊の長嶺少佐のところへ行って、まぁ、「配属になりました」ということをわた し、言いました。そのときに、連隊長もいたですが、わずか一個大隊が80名、10分の1になった。その中に傷ついたりあれもありますよ。
 そういうような状態になっているところへ、配属になったですね。で、戦闘を任務としない戦闘小隊の今、35名が戦闘のしかも師団の一番前線の、ほんとうに苦戦しているそこへ行ったわけでしょう。

大 隊の800 人編成で行ったのが80前後になってしまった。そういうところへ行ったわけですね。だから、連隊長もそばにいて、「大した戦力だ、しっかり頼む」と言われ たですが、しっかり頼むといったって35人、2個小隊ですから、2個小隊行ったですが、輜重隊ですから、そんな武器あれを持っていないですよ。擲弾筒だと か軽機関銃とかね。そのくらい。それで35人でしょ。それでポツポツポツポツと弾出して。そういうような全く劣る兵器。

Q そこで輜重兵の方もずいぶん、

は いはい。あのリモン街道というのが、オルモックからですね、向こうのマナガスナスのあれがあるですね。そこで、いわゆる「死の谷」と言われ、日本軍が付け たんですが、そこを通ると米軍に射撃されると。遠くから弾が飛んでくるわけですよ。あるいは飛行機でやられると。そんなことでですね、そこを無事に通る兵 隊は、ほとんどないというようなことですね。で、あい路ですから、ずっとこう狭いあれになっていますよね。そこ一本道だからそこへ行けない。こっちへ行く と湿地帯だと、で、こっちは山だというようことで、どうしても通らなきゃならんところ、そこで日本の各連隊の兵隊がね、非常に戦死したものが多いというよ うなことで、「死の谷」といいましてね、わたしどもはそういう悲惨な思いをする前に、・・・・の配属で出てしまいましたからね。そこの状況はわかりません が、やっぱり戦争、他はどうしても通らなきゃならんと、だけど弾が飛んでくる、飛行機が来る、だから犠牲が非常に多い。そんなことであとでですね、あるい は戦争中に「死の谷」と言った名前を付けただろうと思いますね。それは最前線にいる、後ろのほうですね。

Q 例えば、後方から物を運ぶために前線に行くにはそこを通らないといけないんですか。

そういうことですね。オルモックから、マナガスナス、一本の道しかないですよ。あとはさっき言った湿地と、それから、山とね。そのためにそこをどうしても通らなきゃならない、それがいわゆる死の谷という名前をあとで付けたと。
 で、戦場にそういうあれがあるです、どうしてもここを通らなければ戦線へ行けないというね。で、わたしたちは、そこの先の歩兵の57連隊の、配属になったのが、カシヤマ分廠ですね。リモン峠の近くにありますカシヤマの分廠ですね。そこの分廠を仰せつかったです。
  そういうようなことですから、もうそこは日本軍がうんと犠牲、戦死者が出たということ、前線でも一個大隊全滅、原口山なんて言っていますがね。そういうと ころもあるわけですね。まさに僕たちいたリモン峠も57連隊にしては、まさに「死の谷」だったとね。800 人の一個大隊がわずか80人で、それへ35人、70人の輜重兵の戦闘小隊が配属になったということね。配属といいますが、戦線に着いたということですね。 しかし、着いても武器も、弾薬もほんとうに劣勢、劣ったものですね。そして、後から輸送は来ないという。そういうような状況ですからね。もう何回も言うよ うですが、戦場にいたものは無理な戦いを強いられた、そのために多くの人が英霊となってしまってね、そんなことを思いますね。
 「死の谷」どこか でお聞きしましたが、アメリカ、あとで聞いたこと、情報としてあれですが、音波探知機、電波探知機等をあれして、そして日本軍の行動がよくわかったという ようなことを言われますね。あるいは上空から写真を撮って日本軍の動き、あるいは野営するとご飯を炊きますよね。煙が立つ、その煙でもって、ここに部隊が いるなとか、ここはどのくらいだなということも察知できるわけですね。そうすると、そのあした、そこを攻撃することができる。で、そういうような戦場でし たね。

それでも制空権をとっていればいいですよ。上で飛行機が援護してくれれば、それでも何とかねばれるだけども、飛行機はレイテへ上陸してから日本の飛行機は一機でも見たことがないですね。その50日の間ですね。


Q ほんとうに陸軍は孤立無縁だったんですか。

そ うね。あーあ、今考えてみればね、あといろいろ情報が入るだけでばかなことをしたものだなぁ、無茶なことをしたものだなと思いますね。僕はね、そのね、あ れをね、アメリカと日本を例えてね、アメリカは鉄、弾薬ね。日本は肉体、死守しろ、使うて頑張れ。抵抗したって抵抗しようがないですよね。そして、死んで も守れという、もう大和魂、日本は。向こうは苦戦だったらもうどうしようもなかったら、手を挙げて捕虜になって、そして、帰ってきてまたするという考え方 がまったく違うですね。人権を尊重するアメリカと、大和魂で死んでもここを守れと。やっぱり、日本の軍隊教育で徹底されていますからね。一歩も下がること ができないと、ここで死ぬんだ、死んで守って、そういうことが全体が情報がもうわからんですね。
だから、まぁ、情報をつかんでいるというあれが強 いですよ。その情報に対抗する戦略ができますがね。「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と、やっぱり敵を知らなきゃ、情報をつかまなきゃ、それが日本軍 ではもう飛行機で上から見るわけにはいかん、優先、電話、電線はみんな切られてしまう。無線機は通じないと。そうなるでしょう。それに、レイテは11月は 雨期でしてね。雨。雨が降ると、もうどうしようもないというびしょ濡れですよね。持っていったカッパだけ、あとはそのまま、そのような中でもう体力も戦力 も衰えて、そして、もう惨めな戦場でしたね。


[4] チャプター4 脅威だった米軍の迫撃砲攻撃 03:12
迫撃砲でしたね。迫撃砲っていうのは、山がこうやって日本軍のここにあるこの山越して弾が上から飛んで来るんですね。上から飛んで来るんですよ。それで日 本のほうは、ここに山があれば観測できないから、弾を撃つことはできないね。野砲にしても山砲にしても。歩兵砲、いろいろ大砲があるわけですが。持って いった大砲が威力を発揮することができない、ところがアメリカではずっとこうこっちへ砲列を敷いて、そして、そこで撃つ弾が大きいのだったら遠くから山を 越しても来る。接近すれば近くでもってボーン、簡単に届く。日本軍をやっつけることができると、そういうあれですよね。で、その迫撃砲の攻撃が怖かったで すね。
 それから、日本のまぁ、砲では、機関銃と小銃せいぜい向こうでもいったような迫撃砲だとか、それから、大きい迫撃砲、それから、野砲、山 砲、それいろいろ大砲がありますが、すべてが威力を発揮してくるですよ。だから、僕は日本軍を戦線というのは、線を引いて守っている。向こうはそのもちろ ん戦線はあるけれども、今度は砲が、砲が上から山から飛んでくる。これ、立体的ね。それから、さらに飛行機は上から来るというようなことで、もう「線と立 体との戦いだった」ということを、まぁ、考えますね。そう思いますね。だから、やっぱり迫、迫と言っていますが、迫撃砲は怖かったですね。で、それを観測 機が一機飛んでいて、弾着、弾の落ちるところを観測するですよ。そして、今の弾はどっちこっちと言うでしょう。だからもう3発目で正確に当たってくると、 こういうことですね。だれもみつからんように遮へいしている、あるいは壕を掘って深く掘って、そして、なるべく弾が炸裂しても、その死角に入っているよう にというようなことで、やっていた。
 で、迫撃砲と戦争できるんですよ、こっちは。弾を撃つわけでないから。戦場心理としてね、突撃だとか、手 りゅう弾、投げ合いというような状態は、もう興奮状態でしょう。で、それはもう夢中になっているからね、怖くないけども、「今度の弾が当たるか、あ、撃っ た」そういうね、遠くから来て手の出しようもない迫撃砲ですね。それが一番怖かったですね。手の出しようがないということです。遮へいしているか、こう 掘ってやっているほかはないですね。手がないという。まぁ、火炎放射器も怖かったけど、それで前線全部というわけじゃないですからね。攻める、大事なとこ ろへ(迫撃砲)来たわけですからね。


[5] チャプター5 姿を消す兵士たち 02:38
Q そんな状況で精神的に参ってしまう人とか、いなかったですか。

あ、それはね。もう死んだほうがいいよとかね、いや、こんな苦労して何 のためにというような気持のあれが出ましたね。わたしのところは35人ね、夢中になってやっていましたからね、最前線ですから。そんな余裕はなかったです がね。それは連隊の中には、もう精神的にね、もう参ってしまったという人があると。
 これは戦闘へあたってからのことですが、体の弱くてあとで分 かったですが、寄生虫のためにね、もっと苦しんだですね。それが手りゅう弾抱いて自爆、いわゆる自爆というのしましたがね。それは、やっぱり病気に耐えら れなくて、そして、自決といっていますが、手りゅう弾で爆死したと。で、後で見たら、そのこう、腸が飛びますよね。そこに十二指腸虫、このくらいのもうウ ヨウヨしているくらいなね、そういうような状況だったですが、これは一つの例、わたしが、わたしが戦闘に立ってからで見た、その後の兵隊さんの例ですが ね。そんなこともありました。まぁ、中にはセブ島へ行ってからだったかなぁ、陣地を張ってそこで警備する、それに耐えられなくて、もうどこかへ行っちゃっ たですね。行方不明になっちゃったです。で、ゲリラは、やはり、少数で抵抗がないと思えば襲撃するんですね。大勢で行くと逃げちまうけども、で、そんなよ うなのが一人ちょっと聞きましたね。いわゆる行方不明。戦死でなくて、逃亡、手を上げて降参だと言って、半旗を掲げて行った、逃亡ではないと思うんです が、そういうあれもありました。
 だから、やっぱり戦場の心理というものはね、考えられんですね。戦闘していると気違い状態になると。今言ったよ うに、早く楽になりたいよといえば自決する。とても苦しくてこんなとこにいられない。どこか向こうへ行けば楽なところがあるかなと思えば戦線を離脱する人 もままあったということですね。直接僕の部下がそうだったということはないですよ。そういうことが同じ戦線の中であったということですね。


[6] チャプター6 抗日ゲリラ 03:22
向こうにすればニワトリにしても豚にしても水牛にしても、ヤシの実にしてももっと大事で、それで生きているわけでしょう。それを日本軍が「そこの物で生き ろ」と言われれば、それを「何とかしてやれ、食べ物がないからそれを」といえば、それはフィリピン人だって、もう日本軍に対しては、好意を持てないわけで すよね。日本軍は食べ物を持って行っちゃたとか、家畜を殺して食べちゃったとかですね。そういうこと。で、現地物資で生きろなんていうことは上の人の言う ことであって、依存する能力がない、ことができないからそこの物で生きろと。そういうことでしょうね。特にレイテは、レイテで生き残って米軍を引きつけて いる、で、マニラを落とさないようにですね。で、マニラ、その付近にいた人はマニラで残れば日本へ上陸する米軍もかなり少なくなると。1日でも延ばせと、 そうだから先に行ったものは、南のほうに遠くのものは、みんな犠牲団ですよ。

ヤシ、こうありますね。葉のある。この根っこをやっぱり切る とヤシダケといって、ヤシの竹の子、それも柔らかくて食べられるですね。それをみんなで切って食べる。ところがヤシやバナナはフィリピン人にとっては、も う財産ですよね。ヤシの実だとか、何年もかかってそうして育てて、そのヤシを切り倒される、バナナを切られる。だから友軍に対してうんと反感を持つわけで すね。「日本人はこういうことをする」というですね。

やっぱりフィリピン人、われわれ土民、土民と言っています、利口ですよ。勝っている 方へ行けば、物がもらえるし、優遇される。負けている方は、むしろ、自分たちの大事な家畜やら、農作物やら、そういうものを日本人が「現地物質で生きろ」 というから、それを取って食べて生きなきゃならん。だからまったく、こっちはプラスになる、こっちはマイナスになるということですからね。こちらので、も う苦しめられたゲリラになるんだと。そうすると、まぁ、反政府、今の中東の反政府じゃないけど、日本に対してもう反逆、アメリカについて忠誠を誓って、そ して弾も運び、物も運び、道案内もすると。土民よく知っていますからね。だから、いよいよこっちの戦力は上がる。日本の戦力はいよいよ低下すると。そうい うことですよ。だから戦場で土民が協力せんか、せんかとか、敵になるか味方になるかということは、うんとあれですね、戦争に影響しますよね。


[7] チャプター7 飢餓 05:22
初めはね、後方からね、もろこしを1人1本とか、そのうちに、もろこし半分を2人で1本とか、そのうち1本3人でというふうな、細々と輸送があったです ね、食べ物が。ところが、それが最前線へ来ると、もうほとんど取られているんですね。だから、「何か食わなきゃならん、何か入れなきゃならん」というよう なことで、若い木の芽を取って洗ってしゃぶるとか。それから、草の根は、根を洗ってというようなこと、そんなことで生きていたし、僕は、こんな例がありま したよ。タバコ吸わんから給与になったタバコを兵隊さんにやったと。そしたら、兵隊さんがそれを、「これ」ってくれたのが、モミ、玄米になる前のあれある でしょう、トゲだけ取ったモミね。あれをもらったですよ。それから、それを口の中へ入れた。喉を通りませんよ。だけれども、噛(か)んで噛んでなんぼでも 噛んで噛んでって、そして飲み込んだと。そんなこともありました。もう、このくらいのモミを喉を通したという、食べたというより喉を通したということです ね。

口の中へ入れて、もう自然に喉を通ってね、そして、消えてしまうくらい噛んだですね。玄米ならまだわかりますよね。それで、玄米じゃ 敵情許せば炊いて食べることもできるけども、モミだからね、モミも、あの殻の付いているものでしょう。あれ、時間をかけてまぁちっと入れちゃ、それで食べ たというね、喉を通るという、そういう感触はあったですね。それがために生きの、体力を、そういうものじゃないですね。食べたという、喉を通したという、 そんなだけでしたね。

Q どんな味がしました。

うーん、味の何もない。何もないですね。生のほんとう生のね、あれを穀物を噛んでいるみたいで。

Q そのとき、どういう気持で。

何 もないときは、こんなものも食べなきゃなぁ、「あぁ、これが少しでも体力になってくれれればなぁ」体力になりっこないですよ、モミはね。そんな、そんなし ました。よく食べ物のことで、ほら、トカゲでも、カエルでも何でも食ったなんていう、そういう話を聞きますがね、レイテのリモン戦線なんていうのは、弾の 撃ち合いや機銃掃射でバンバンバンバンやっているから、生き物はいんですよ。食べるところじゃない。とっ捕まえて食べるなんていうそんな話じゃなかったで すね、その間はね。

戦争がある程度静かなときにね、「おい、白菜の新香でなぁ、白い飯を食って死にてぇなぁー」と、そういうことを話すで す。食べ物というのはね、戦線でもよく話が出るんですね。そのときに白菜のお新香を、そして、白い飯、もう一回食って死にたいなぁというあれが出るんです ね。実はね、暮れになったばっかりの時にね、12月初めにレイテ島の仲間がね、樽(たる)へ白菜を漬けてくれたですよ。漬けておいたのを持ってきてくれ た。そしたらね、思い出しましてね、うんとうまく上手に漬けるその友達ですがね、そうだ、あの戦友がなぁ、こう言って死んだなぁ、で、あの一番先にそれを 洗って、そして、あれ、あすこへあげました。あすこにね、レイテの遺品がありますがね。「おい、白菜のお新香だぞ」と、「食いてぇなぁ、食いてぇなぁ」っ て言ったなぁっていって、そういうことを思い出しましたがね。やっぱり食べ物については、そのくらい切なかった、物がなかった。

そのころもうよく食べなんで生きていたなぁとね。
Q その4日も5日も絶食すると、どんな状態になるんですか。

意 識もうろうとしてきますね。そうするとフラフラになってくるですね。自分のほんとう、こういうふうにこうやってみたけど、重くて、重くてこっちこうやるだ けでね。拳銃でこうやっても、震えてしまうとか。このくらいの段はもうはって、今の僕と同じですね。立ったままこうやって登ることはできない。這って手を ついて、そして足を上げてというようなね、そのくらい体力が減退しますね。でも、敵が来れば弾を持ったり手りゅう弾投げ合ったりしなきゃならん。しなきゃ 殺されちまうですね。そういう戦争って悲惨なものだ。


[8] チャプター8 たおれていく兵士 04:35
12月の6日にはまたすごい襲撃を受けましてね、手りゅう弾投げ、弾の撃ち合いで、そして傷ついたあれを幾人かを後方へ下げましたよ。俺は「ここを死守し ろと言われたんだから、ここを俺は下がれない」と、「怪我した人は、後ろへ行って治療を受けて、また直ぐ帰って来い」と。そういって幾人かを下げました が、結局、それは下がっただけで帰って来ないと。ということは、もう後方へ敵が回っているし、ゲリラがいる。で、先べんへ立ってやられている。だから、下 がったきりでね。
 そのときに時計とそれから印鑑を持ってね、もし、帰ったら俺は・・・レイテで戦死したからと言って、「もし、帰ったらこれを届 けてくれ」って、「俺の遺品だから」と言って渡したですね。ところが、その人たちも帰っていないと。野戦病院に行きながら後ろの正規軍にやられたか、ゲリ ラにやられたか、あるいは野戦病院に入ってからやられたか、その辺はわからないです。帰って来ないとね。
 死守ということは「死んでも守れ」とい うか、他の人はみんな帰しても、小隊長の自分は、「最後までここで、俺はここで死ぬんだ」と。「ここで死ぬんだ」と、その気持で最後までへばりついたです ね。という12月の10日か転進命令で、そこから下がってこいという命令があったから、だから命令によって下がると。死守しろと言えば「死んでも守れ」と いうことですからね。うーん、まったく別れる時には「無事に帰れよ」と、「俺はここで死ぬよ」と、「お前たちは帰って治療受けて、もし、元気になったらま た来いよ」と、そう言って別れたんですね。今、考えても悲惨なものだね。

Q 死守命令の中で、あえて、その部下を後方に下げるというのは、どんな思いがあって。

やっ ぱりね、部下は俺の命令なら下がってもいいと、俺は小隊長だからね。小隊長は、小隊長の命令で野戦病院へ、あるいは後方へ行った。そうでなくて下がれば戦 線離脱ですよね。これは陸軍刑法に引っ掛かると。だから、「俺の責任において下がるんだ、俺が下がれと、その代わり元気になったら直ぐ帰って来い」俺はこ こで最後で一人になっても行くから。そういう気持ですよね。ところが、それが無事に野戦病院へ行ったり、後方へ行って治療を受けているそういうふうな戦況 じゃすでになかったですね。だから、「下がった時がもう別れだ」と。「お別れだ」と。こういうことを思った。だから「もし、生きて、もし生きて帰ったら遺 品に、俺の遺品だからこれを届けてくれ」と、そう言って渡したですね。「俺はここで死ぬんだ。」俺は最後まで指揮官がここを下がることは戦場離脱だった、 退却だと。これはできないと。そうして、幾人か、7、8人だったと思うがね、下げました。1日じゃないけどね。悲壮な思いですよ、ね。それが結局、生死の 境目になっちゃったからね。
 そして、不思議と僕と全然傷を受けないあの上等兵の、それが2人にそこで最後まで残ったですね。そしたら、12月 10日だったかな、「連隊本部へ下がって来い」というね。それで2人で下がってきた。そのときにもしや、もしや下げた下士官兵がいるかなと思ったけども、 一人もいなかったということ。言い換えれば米軍、正規軍が後ろへ回っていたんだから、それにやられたか、あるいはゲリラにやられたかどっちかだなと。それ でも、西海岸へ集まって来るかなと思ったけれども、最後まで一緒になれなかったですね。その35人のうち戦死した者、確認した者以外ね。下げた者。


[9] チャプター9 命を落とした部下への想い 01:17
Q 小石澤さんは、死を覚悟していて、でも、結果的に亡くなったのは、その守りたかった部下たちだった。

そう。はい。

Q そのそういうことに対する気持って、どんな感じなんですか。

まっ たくね、それは運だろうなぁ、戦線に残った2人が生きて帰った。下げた者が亡くなったというね、こんなことがあるかなと思いますね。で、それだけ戦線はも う、米軍はここに日本軍が守っていると、守れば、5人でも10人でも、2人でも回っていったですね。その回っていったのにぶつかっちゃったと思うんです ね。だから、かえって「いっしょにあすこで死ぬを覚悟してやったほうがよかったかのかな、俺の誤りだったかなぁ」と思う。だけど、そのときは、まさか後方 がそんなになっているとは思わんですよね。だから、下げた、その代わり直ぐ帰ってこい、もし、生きて帰る人があったら、これを遺品に、俺の遺品だというこ とで、そういうあれして別れたんですからね。


[10] チャプター10 セブ島への転進 04:55
セブへ行くことが決まったのは、僕は、その船に乗る16日やった。1月の16日の夜でした。連隊長が、「小石澤、連隊本部に欠員が出たからお前乗れ」と 言って、先の一人ずっといっしょにいた無傷の兵隊といっしょに乗ったですよね。75人しか乗せないような船に、それは4隻が船団を組んで向こうへ渡るね。 そういう中へ乗るという直前ですわ。で、それに乗ったからセブへ無事に着いて生きて帰ったということですね。で、その後、レイテの西海岸付近に集まった者 は、約2千いくらかありますが、それが、そこで玉砕しています。糧まつもないし、もう狭いところへ集まったですから、もう機銃掃射や砲撃、艦砲射撃です ね。

とにかくそこにあったセブ島にいた船舶工兵の船、レイテに近い、ここにいた7隻の船かな、それをフルに使ったけれども、4次か5次ぐ らいでもう、この船が全部やられてしまったですね。だから、2千何百のものがレイテの西海岸に残ってしまった。全部移送するべくとね、第1師団、他に何個 師団かあったけれども、この司令官の命令で「第一師団が一番苦労しているから、第一師団から移送しろ」ということね。で、それもやっぱり制海権を取られて いるから、夕方暗くなるごとにそーっと来て、そして、こっちにかがり火を炊いて、この下に友軍が待っているよという知らせをするですね。それが乗っかって 隠密裡に向こうの島に転進というね。こうしていく。
それを何回もやろうとしたけれども、第4次ぐらいだったと思うんですね。船がもう察知されるん ですよ、米軍にね。と、米軍の魚雷艇という船で機関砲ぐらい大きい砲を持っているのが、その船を沈めにかかる。それから、隠して海岸端へ置いても、陸の木 の下へ置くようなわけ、船だからいかんでしょう。やっぱり木の混んでいるようなところ、海岸線に置くと。でも、上から見つけられて、そして、それを攻撃さ れる。それを何回か修理に修理を重ねて、やっと4次ぐらいだったですかね。
最後1月の20日、近所だったと思いますが、それで船がもう何もなく なっちゃったと、だからこっちの人を残してしまったというかね。だから、その人はそこでみじめな思いをしたと思うですよ。狭いところで食うものはないし、 それから、飛行機で機銃掃射、艦砲射撃でね。それがその人たちが玉砕だという。それは名簿でしか調べられないですよ。だから昭和20年の7月1日付けで公 報の入った人たちは、恐らくそこへ残った人だろうと。
 僕たちは1月の下旬近くですね、セブ島へたどり着いたという。船が大きければもっと運べた と思うしね、それから、せめて、そこを守ってくれる海軍がいれば、もっと2千でも3千でも、輸送できたと思う。そのころは、まだ、セブ島には敵場がなく て、米軍は上がって来なかったです。で、天山(陣地)といってその要塞を作っておって、守っていたわけですね。海軍の・・・だったかな。それで、玉師団輜 重隊ですから、今度輸送、輸送だから上がったところはセブまでいって、弾薬や糧まつや衣服、それを運んで、そして向こうにいる人に配ったというかね。
  その大発船へ、大発艇へ乗っかったことも一つの運命。向こうへ届くセブへ届く前に魚雷艇にやられて沈められれば、その晩でお終いと。幸いでもこう上陸した というね、そんなことが生きて帰った一つのあれですよね。傷を受けたこと、病気、アミーバ赤痢になった、マラリアになった、そういうものも克服したのも一 つの運命ですね。そんなことをね。


[11] チャプター11 考え続けた「生き残ったこと」の意味 06:00
セブへ行くことが決まったのは、僕は、その船に乗る16日やった。1月の16日の夜でした。連隊長が、「小石澤、連隊本部に欠員が出たからお前乗れ」と 言って、先の一人ずっといっしょにいた無傷の兵隊といっしょに乗ったですよね。75人しか乗せないような船に、それは4隻が船団を組んで向こうへ渡るね。 そういう中へ乗るという直前ですわ。で、それに乗ったからセブへ無事に着いて生きて帰ったということですね。で、その後、レイテの西海岸付近に集まった者 は、約2千いくらかありますが、それが、そこで玉砕しています。糧まつもないし、もう狭いところへ集まったですから、もう機銃掃射や砲撃、艦砲射撃です ね。

とにかくそこにあったセブ島にいた船舶工兵の船、レイテに近い、ここにいた7隻の船かな、それをフルに使ったけれども、4次か5次ぐ らいでもう、この船が全部やられてしまったですね。だから、2千何百のものがレイテの西海岸に残ってしまった。全部移送するべくとね、第1師団、他に何個 師団かあったけれども、この司令官の命令で「第一師団が一番苦労しているから、第一師団から移送しろ」ということね。で、それもやっぱり制海権を取られて いるから、夕方暗くなるごとにそーっと来て、そして、こっちにかがり火を炊いて、この下に友軍が待っているよという知らせをするですね。それが乗っかって 隠密裡に向こうの島に転進というね。こうしていく。
それを何回もやろうとしたけれども、第4次ぐらいだったと思うんですね。船がもう察知されるん ですよ、米軍にね。と、米軍の魚雷艇という船で機関砲ぐらい大きい砲を持っているのが、その船を沈めにかかる。それから、隠して海岸端へ置いても、陸の木 の下へ置くようなわけ、船だからいかんでしょう。やっぱり木の混んでいるようなところ、海岸線に置くと。でも、上から見つけられて、そして、それを攻撃さ れる。それを何回か修理に修理を重ねて、やっと4次ぐらいだったですかね。
最後1月の20日、近所だったと思いますが、それで船がもう何もなく なっちゃったと、だからこっちの人を残してしまったというかね。だから、その人はそこでみじめな思いをしたと思うですよ。狭いところで食うものはないし、 それから、飛行機で機銃掃射、艦砲射撃でね。それがその人たちが玉砕だという。それは名簿でしか調べられないですよ。だから昭和20年の7月1日付けで公 報の入った人たちは、恐らくそこへ残った人だろうと。
 僕たちは1月の下旬近くですね、セブ島へたどり着いたという。船が大きければもっと運べた と思うしね、それから、せめて、そこを守ってくれる海軍がいれば、もっと2千でも3千でも、輸送できたと思う。そのころは、まだ、セブ島には敵場がなく て、米軍は上がって来なかったです。で、天山(陣地)といってその要塞を作っておって、守っていたわけですね。海軍の・・・だったかな。それで、玉師団輜 重隊ですから、今度輸送、輸送だから上がったところはセブまでいって、弾薬や糧まつや衣服、それを運んで、そして向こうにいる人に配ったというかね。
  その大発船へ、大発艇へ乗っかったことも一つの運命。向こうへ届くセブへ届く前に魚雷艇にやられて沈められれば、その晩でお終いと。幸いでもこう上陸した というね、そんなことが生きて帰った一つのあれですよね。傷を受けたこと、病気、アミーバ赤痢になった、マラリアになった、そういうものも克服したのも一 つの運命ですね。そんなことをね。