『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや05


[1] 中国戦線を生き抜く 04:03
軍旗を持っているからね。軍旗を持った部隊っていうのは、もうやっぱり数が少ないですからね。まぁ、なんていうかな、誉れっていうか、兵隊自身がそんな感じ持ちますね。「軍旗持ってんだぞ」ってね。軍旗のない部隊多いんだからね。ただ歩兵、軍旗持っているのは歩兵と騎兵だけなんですよね。あとは軍旗がないんですよね。工兵だとかはね。いろいろ部隊が自動車隊でいろいろあるけど、軍旗っていうのは歩兵だけなんです。だからまぁ、誉れだっていうようなね。
ただ、何につけ、何につけ、歩くでしょう。これはもうね、乗馬隊だとか自動車隊っていったらバババババッていうじゃ、馬に乗ってる。おれは何につけ、背嚢(はいのう)背負ってね。敵の作戦なんかで、まず敵がもう「こら」っていうと逃げるんですよね。その逃げ足がはやいのを追ってくときのつらいことね。1日にそれこそ飯を食いながら、休みなしで1日じゅう敵を追っていったこともありますよ。もうその日はなんとか、なんでもない。
露営をして。どうです、あくる日。今度は戻ってくるのにバタバタバタバタ。もう、倒れるんですよ、歩きながら。その前の日に15時間も歩いてね。それで宿泊して。それでまたすぐ今度は戻るんですよ。敵が逃げよったんでね。
だからわたくしらのいわゆる初年兵なんていうのはずいぶん、いわゆる戦病死が多いんですよ。みんな帰ってきてね。今度はこんな水をね。だから、これはまぁ、自分も一度そんな目にあったけど。かめには水がこんな、いやいや、もう喜んで。そうしたらそれが、古い水なんですよね。あくる日は下痢でね、それこそトイレっていったってトイレはないんだから、ちょっと離れたとこへ。行って帰ってくるとまた、行って帰ってくる。1日に30回も40回も。
みんなこう。骨と皮になって。それで野戦病院に持っていかれて。だんだん内地の近くの陸軍病院なんかで。まぁ、ずいぶんだからね、いわゆる戦病死。わたしらのいわゆる、いわゆる初年兵でしょう。それが中原会戦で、これは北支方面軍の全体で動いた中原会戦でね。それが5月の7日に始まって、だから4月の30日まで、いわゆる初年兵教育終わって。1週間たってその作戦に参加したわけですよ。われわれ初年兵はね。だからもうみんなそれでもう、バタバタ初年兵のうちにいわゆる病死ですよ。みんなもう骨と皮になって。下痢がとまんないんですから。ひどいんですよね。支那の水はね。
[2] 南方へ転進  02:05
持っていった荷物も全部おろして、1週間ぐらいソロンにいたんですけどね。今度はいわゆるソロンからマノクワリに移るのを、わたしら、いわゆる本隊は軍艦で、水雷艇で。それでマノクワリに入ったんですよ。
Q:水雷艇、順調にマノクワリまで行けたんですか。
うん。でも途中でやっぱり襲撃されました。あれでわかるんですよね。水の、水雷艇じゃなく、軍艦しか上はないんですからね。とにかくあの、あれでね。あとがね、水のあとがね。それで爆撃食って。
Q:陽山丸に乗ってた部隊というのは、陽山丸でマノクワリに行けばいいようなもののようだと思うんですけど。
いや、ソロンにおろしちゃったんです。全部。荷物からそれ全部。でも、なんだかんだおろすだけで大変だよ。でも1週間ぐらいいてね。で、その水雷艇が来て、それへ乗ったわけ。
Q:それ、マノクワリを目指したっていうのはなんでなんですかね。
まぁ、いわゆるマノクワリはさっき言ったオランダがまぁ一応、統治していたんですよね。で、そこへいわゆるビアク島で、ビアク島で、それであのへんに陣地をつくって日本へ攻勢かけるっていうんで。だからそのへんまではやはり日本軍としてもいて、そこへこう。そういう作戦だったんでしょうね。
[3] 道なき道を行く 02:38
その上陸は、いわゆる水雷艇でね。それでまぁ、だいぶ。でももう暗いうちに着いたんですよ。うちの暗いうちにな。だから割合時間短く。とにかく暗いうちに着いてね。それで海岸でいい加減歩いてジャングルの中へ入るんですけど。そこでボカボカボカボカ。いわゆる今度は爆撃じゃなく、艦砲。あれでね、銃撃。機関砲でボカボカボカボカやられたわけです。
Q:飛行機ですか、敵の?
それは敵の飛行機。その朝はね。ものすごいもう数で、ウワァーッて来た。もうそれこそ、雨あられと同じですよ。バカバカバカバカバカバカバカバカ、そんなんだから背中なんかぶち抜く、こうやってね。だいぶそこで死んだんですよ。
だからまあ、わたしは幸いに、そんなに太かない木がえぐられたね、えぐられて半分腐れてね。でもそこへでもね、逃れて、ね。もう先客がひとりいたんだけどそれがそれまで押し込んでまた。それでまあね、なんとかんとかね。それでそれがね、まずそれがね、500機だそうですがね。500機で何、わあーって来て、バカッバカッバカって。それでこう行ったとまたグーッと飛行機ですからね。来てまた、ババッババッババッて3回くらい旋回してきて。やられたわけですね。それで、空襲はなくなったんですよ。でもすごいもんですよ。まず、はんぱな雨あられっていうけどね。その弾がね、とにかく1メートル置いて落ちてきたそうですよ。こう。
[4] 上陸後すぐに底をついた食糧 02:59
Q:食べものがなくなり始めたっていうのは、上陸してもうすぐですか。
すぐ、次の日からですね。だって空手ですもの。
Q:ほとんど持ってはいかなかった。
いやいや、携帯考慮して2日分か3日分しかないんだからね、持って行くのは。ええ。あるいは3日分っていうんですか。でも結構重いすからね。3日分だから。
Q:最初はお米、どれぐらいもらえたんですか。
だから行った時は、300グラム。
Q:300グラム。
1か月ぐらいたったら200になって。8月1日から100グラムというね。だから100グラムになって1か月、1か月半ぐらいから、死に始めたわけ。3か月ぐらいの間にどんどん全滅。だから8月、9月の末、10月11月12月でもう全部。だから、死亡、死亡の日をみればね、もう9、10、11、12で、ここで。そういうわけですね。
Q:現地にはこれ、食べ物っていうのは、なかったんですか。
だから、今言ったほうね。山の中なんか行けば、バナナのね、もう腐りかかったんでも何でも。最初はあったんですよ。それも1か月もね、もうもたないですよ。みんな同じように荒らしちゃってね。パパイヤなんていうのはね、さっき言ったキバでね、ぶっ倒して、それをぶっ切ってね。かじったりゆでたりしてね。それがまたね、うまいの。根っこから茎まで。うん。パパイヤのあのね、あれなんていったらね、まあどっちかっていえばね、生き残りの第一歩だったですよ。
Q:でもそれ結構、とり尽くしたったわけですか。1か月ぐらいで。
ああ、もうどこ行ったって何ひとつない。うん。まずひどいもんですね。うん。実ひとつないですよ。
Q:ジャングルっていうと結構ね、なんかいろいろ実っているような。
うん。感じがするでしょう? うん。
Q:実際にはどうなんですか。だけど実際にはないんですか。何も?
ないない。だから何もないから。いいですか。さっきも言ったように、ネズミもヘビもいないし。ね。トカゲもいない。食べるもんがないから。うん。だからね、何もないんですよ。「何でもいい。いくらでもジャングル」われわれだってね、思っていたですよ。「いくらでも無尽蔵にあるんだ」と。とんでもない。ねぇ。これは行った人じゃなくちゃわかんないですよ。
[5] 畑をひらく 03:23
サツマイモを植えたらね、サツマイモがなんないんですよ。なんないっていうのは植え方が悪いんで。そんでもうその穂。枝が葉が。そしたらそれ誰かがね、「それは食える」っていうんでね。いや、それは葉っぱやっぱし、これもやっぱし、こう。いわゆる土が出るくらいだからね、その栄養分もいくらあったんでしょうね。それもドロドロにして、こうぶった切ってね。それでそれ、今言ったように米をバラバラとしてかけて、それでグツグツグツグツ煮たら、冷まして。こう盛ってね。まあ、一時ね。うん。それがだから、2月3月はまあ、何とかね。だからもうだんだんだんだんね。栄養がないんだからね。
Q:そういう時あれですか。司令部とか本部っていうのは、食い物がないという状態で、部隊にはどういう命令を出すんですかね。
だからやっぱりそのいわゆる農耕っていうのをね、自作。自分でね、作って自分で。そういう司令なんですよ。100グラムもなくなっちゃったんだからね。
Q:100グラムもなくなったんですか。最後は?
ええ。最後は。ええ。
Q:それいつごろですか。
自分たちで作って、食っていけと。
Q:でも結構むちゃな命令ですよね。
あとはね、そういうあれはやっぱり終戦になってからですか。漁業班っていって魚をとるね。でもこれがずーっとはね。やっぱり魚は相当いいわけですね。そういうほう、いくらか経験。軍隊というのは結構、経験者がいるからね。そういうやつがね。農耕班は農耕班。漁業。魚労班っていってね。網なんかもね、いろいろ何かで工夫して、網なんかもつくってね。とってきて。だから生き残った人は正直ね、何とかかんとかね。生きるがためにね。わたしらはね、とりあえずそのあれなんですよ。野草収集っていって、行くとまずね、海岸にね。海岸はいちばん危ないんですけどね。空襲にあう。岩へね、これが、貝がしばりついてくっついているんですよ。それをしばりついてそれをね、海の水で洗ってね。そこらに缶殻あるんでね、それをね、何ていうの、ゆでて。今度は石でつぶしてね。貝なんか少しぐらいくっつていたってね。それをこうまた塩水で洗って。これは・・・。これで生き残った。まず1週間ぐらい、毎日そりゃもう。覚えちゃってね。いやいや、でもはじめ3人ぐらいでいたんだが、それでも1人2人、しまいにはわたしひとりになっちゃったんだけど。
[6] 毒蛇を食べて命を落とす 03:44
草むらへ入るとバッタ。バッタ。黄色いバッタ。あれなんかみんな生。うん。あれを相当ね。あんなもの生だからね。だけどもう、いよいよもう体の内臓がおかしくなってきたら、今度は1回は口へ入れてかむけど、もうみんなもう吐いちゃってね。みんな吐いてんですよ。かむんだけどね。もう内臓がね。あわれなもんですよ。あとは、なんだ。なんていうの、クリの、ちょっと見るとクリのちょっとおいしそうな。まことにうまそうな。それをゆでてね。そうしたらそれが、なんか猛毒を持った。ずいぶんそれでも死んだですね。
ひとりの兵隊が、ヘビを窓のところで。いったばかし、まだだいぶいたんだから、兵隊が。その、これぐらい太くてね。このぐらいしかないんですよ。それをおさまえてきて。それをなんと焼いて。で、3人なんだよ。わたしで4人だ。わたしはもちろんそれ知らなかったから、わたしが班長だったの。それをぶった切って、それでわたしを呼ぶんですよ。「なんだ」って言ったら、「いや、班長、いいヘビを」って言う。そうしたら、焼きあがってる。こう、このぐらい太いんで。それでもう正確に4つに切ってね。それで食ったわけ。いやいや、実にうまい。そうしたらなんと、それは毒ヘビ。もういつかひと晩中、目から火が出る。苦しくて転がってやったですよ。でもわたしだけ残った。ほかの3人はもうそれこそ全部そのまま(死んでしまった)。
そのころから、こんなばかなね。こんなでたらめな、まぁね。やることなすことが。まぁ、会社であれば、どんな会社でもみんな倒産ですよね。やることがね。好きな勝手なね、上の人はね。兵隊なんか、1合の米ももらえないんでね。それで仕事はもう、山ほど。これやって終わればこれ、これやれこれやれ、なんですからね。もう、できているんですからね。
それで毎日昼寝して、食らっていて飲んでね。そういうのが命令しとってね。こんなまぁ、いくら帝国軍人だとかなんだとかっていっても。まぁ、とてもじゃないが、まぁ、これで戦争に勝てる道理はないし、もう。これだけの苦しみももう受けちゃったし。まぁ、どっちしてもこっちしても、こんなところで犬死にとは情けないなと。
[7] 死んでも帰れぬニューギニア 03:38
ですからね、いわゆるまあ、なんだかんだって、息ついでいて。そんなドロドロ飲んで食って、何とかかんとかまあ、息をついて。夜になれば、一応みんな転がるでしょう? そうすると、朝起きてみるとね、起きないのがいるんですよ。こそこそね。「どうしたんだ」っていってみると、息ひきとって。いわゆる死んでいるわけ。でも、あすこに書いてあるけど、いちばん多い朝は5人いたんですけどね。1人か2人はもう毎日。その夜ね、夜死ぬんですね。それがやはりね、いちばん多いですよ。5人。というのは普通はたいがい、1人か2人なんですが。だから2月ぐらいの間に50~60人をね。はじめはね、どっちにしても遺骨だけは、っていうんで。ここをね、バッと外して。それでいじくってとって。それを防空壕の中で。空襲だからね。それで携帯燃料で焼いて、骨にして。ひとりはひとりでこういう四角な箱へ、それをね。やっぱりこう、これだけじゃいかんありますからね。しまいには、こういうのはどうしようもないっていうんで、これ外して。これだったらこのくらいなね。
Q:親指を切るわけですか。
ええ、ええ。これ簡単です。これ。それでもうちゃんと、陸軍上等兵サイトウヘイゴロウの骨っていうのはもう書いて。みんな。何百ですよ。いちばんいい、いい自分らの住まい。いちばんいいっていうわけじゃないけど、台の上へこう。みんなもう英霊ですからね。それを全部、こうですよ。ところがもう、いよいよ帰ることになって、1週間ぐらい前になったら、「遺骨は持っていけないから、そこへそのまま埋めていけ」って、そういう命令なんですよ。ね。どうです?「遺骨は絶対、持っていっちゃいかん」と。
Q:最初は何人ぐらいいたんですか。
204人。
Q:204人。それ帰る時は。
7人。
Q:7人。
うちの中隊はですよ。わたし入れて7人。
Q:ほとんど亡くなってしまった。
ええ。でもその7人でね、そういうまた遺骨箱を作って。その砂を、砂を入れるやつは砂を入れる。・・・するんでね、やっぱしまた書いて。それでね、もう、すぐ。今度は骨はないんだからね。砂だからね。みんな同じだからね。それの書いて、はって。で、すぐそれを名古屋まで持ってかえって、おろして。名古屋のね、あそこへお願いして。だから内地へ帰ってきた人が「中は砂だったよ」ってね。砂だっても入っていればいいほうなんですよ。そういう真心もって作って、出してる部隊ばかしじゃない。何にも持って、空っぽだったってね。
[8] 「老化」する肉体 01:07
みんなは、はあ、いよいよその死ぬころには、みんなもうあきらめて。どっちしても、はあ、ここで餓死だっていうのは、みんなもう、みんな心得ていましたね、はあ。だからガタガタしなかった。全然。うん。でもただ、話がね、食べる話だけでね、「何なる、食事に行ってどうで」とかね。あるいはね、「何をぼたもちがどうでこうの」って、食べる話だけでね。それでやはりもう。でもあれでしたね。落ち着いて。死ぬ時はもうそれこそ。軍医がね「もう死ぬまでね、苦しい思いしちゃうから、死ぬときは楽だよ」と。「だいたい、体の全部、計算してみてもそのごろでそうだね、もう70から75の体になっている」ってこういうんですよ。それも3月か4月の間にそうなっちゃったんで。
[9] 水を飲む力もなくなる 02:28
だから飯をこう、そういうふうな状態に入っても、持ってきたものは食って。だから食ってもね、あれしたんだよ。しまいにはのどへ入んないんだよね。いいですか。だからこう、のどへ通らないんですよね。最後には水が通りませんからね。だからわかるんですけどね。水が、水がどうしても、いや、飲み込めないんですよね。
Q:弱ってしまってですか。
ええ。
Q:弱っちゃって、もう。
いわゆる飲み込めない。だからほら、いったんは入れても口がこれだから。いっぱいになったら、どんどんどんどんまた出てきて。あれっと思った。はじめわかんなかったですよ。飲み込んで初めてこうね。だから、「ああ、これはもうだめなんだな」って、しまいにはね。それで、「ああ、これはもう、こいつも、じゃあもうだめだなぁ」まぁ、自分もその口なんだけれども、だけどもたとえ1日でも2日でもまだ余裕があったから。「あとおれも幾日、悩んでも1週間もつかなぁ」ってまぁ、ところまでは言いましたけどね。「どっちにしてもこれはあしたぐらいか、あさってだなぁ」なんて、本当にもう、あしたかあさって。で、終わりよね。だんだんわかってきちゃった。
まず最後に水がだんだん、水を持ってきてやったら「はい、すみません。すみません。すいません」ってもう泣いて。もうとにかく階級持ちがお水持っていってやるんだからね。なんとしてももう、飲み込む力が、飲み込もうと思って、ウワーッと逆上しちゃうの。あっ、これはもう今晩あたりしかもたないなって、と、あくる朝死んでますよ。これは悲惨なもんですよ。いまでこんな言い方してるけどね。とてもじゃないがね。地獄っていうのはこれかなと思ってね。それはとてもじゃないがね、生き地獄ですけどね。
[10] 絶望のあまり幻を見る 01:18
気が狂っちゃったんだから。船が迎えにきたって。それで、やたらに起こして歩いてね。それでもう力がないのに駆けずり歩いてる。もう力尽きて、心臓が止まっちゃってね。これもまぁ、だから死ぬ時は楽なの。
班長、船が来たんでもう、早く起きていかないと船が出ちゃいますよ」って言う。「何言ってんだね」って言ってね。結局、無理して最後の力しぼって。結局みんなそういうやつは、心臓マヒ。もうくたびれちゃってね。もう息が止まっている。心臓が停止してるんだ。
Q:実際には船がこれるような状態じゃなかったですよね。
とんでもない。もう、とにかくいま言ったように、もう来て、防空壕の中で焼いてる騒ぎですから、まだ空襲はぼんぼん来るしね。そのころですよ、まだ。19年の8、9、10、11ね。
[11] 減っていく兵士たち 05:14
ところが上陸はしないんです、向こうは。上からバカバカバカバカね。上陸を見てて。その時はね、上陸の時は。上陸はしないんですからね。それで「上陸する、上陸する」って、もうデマは毎日入ってたんだけど、上陸はしなかった。ただもう、おっちぇしつこく爆撃でね。
ちょっと海岸になにか、いま言ったように魚でもとろうっていったって、それだってそれを狙って銃撃ですからね。それでずいぶんやられているんですから。だから海岸に行けばなんだって危なかった、おっかなくてね。人っ子ひとりでも。もう。いわゆる、なんですか、制空権をね。で、日本の飛行機なんてない。来っこないですね。岩手の部隊が多かったんですけれども、高射砲隊がね。一斉に放射すると、バァーン、バァーン、バンバンバンバンと、その飛行機がそれにぶつかって落っこった。それをいくつか見たですよ。なるほど、明治時代の高射砲だ。飛行機は新しい飛行機だ。当たる道理がないんですって。
ジャングルの中でも火を燃すと煙が出る。「あっ、そうすると、あそこに兵隊がいる」っていうのが上でよーく、丸見えだそうですね、あの煙は。だからみんな防空壕の中で。飯炊くのもね。だからあれですよ。朝、明るくなんないうちに飯を炊いちゃって。それで、何がなんでも燃やせば煙がね。そうすると「あのへんに」「あっ、あのへんにいる」っていうのは。全部、バカバカ、みんな写真撮ったよね。だから近くにいるね。バカバカもうね、ただ捨てていくみたいなものなんですけどね。だから防空壕つくってね。中へ入って。たとえ10分でも15分でも、10分か15分なんですよ。ウワァーッてバカバカ。またババババァって。それがもう1か月ぐらいだね。ひどいしつこかったですね。
Q:小川さんはニューギニアに上陸してからですね、敵と戦ったということはあったんですか。
ないですよ。だって上陸だって、マノクワリには上陸しないですもの。上陸しないですよ、マノクワリは。だからビアク島はそれだけ戦ったですけどね。でもビアク島以外は、われわれね、マノクワリもソロンも戦いやっていませんよ。1日もね。
だからもう、空と、それとあれとをね、ちょっとね、支援を受けないんですからね。
Q:もうやられるだけで、食べものはなくて。
いわゆる、だから皆ね、全部餓死なんですからね。戦死なんていったってみんな餓死。餓死ですからね。
Q:戦わずで死ぬんじゃなくて、そうやって死んでいくというのは、結構皆さん無念なところはあるんですね。
まぁ、ね、とてもじゃないがそういうね、そういう思いして死ぬとはね、われわれは思ってないからね。戦って死ぬんならね、戦ってね、死ぬのはそれはね。戦いなんだからね、戦う人なんだから。戦ってね、死ぬんなら、それでいいのや。とんでもない。戦いはできないんですんでね。そんなね、ジャングルの中でうろついて、餓死ですからね。で、ただジャングルの中さ、何ね、食ってもね、餓死をするなんていうのはもう考えていなかったですね。何だってあると思っていたよ。
それこそ蛇もネズミもね、いくらとったってとりきれないほどいるんだとばかし思っていた。ジャングルの中はね。で、何、芋なんか思うよね、どこでもいっぱいで、いくら食ったって食い切れないほどね。とにかく広いんですからね、あの通り。それだけは思っていた。とんでもない! 蛇もネズミもいない。柿ひとつね、バナナ1本ないからね。
[12] 「退路」の建設 03:17
いちばん先はなんていったって、そういう丈夫な防空壕をね。これがいちばん先ね。あとはまぁ、いわゆる『転進路』っていって、敵が上陸したら逃げていく道をつくっていく。退却道路だ。退却道路っていってね。『転進道路』っていったんですけどね。転進。退却とはいわないですからね、兵隊はね。退却なんていうことばは、それこそぶちぬかれちゃいますから、ことばつかっただけでも。退却っていうね。「日本軍には退却ということばはないんだ」っていうんでね。
もうやっと足を引きずってだから、仕事なんて進みませんよ。もう、すべてを手作業だからね。それこそ掘るったってこうして、そういうことで掘ったりしたり。今度は道路つくるっていったって、道路なんかきれいにすれば、今度は細かい石を持ってきてね。石を並べてね。それでもうピシーッとつくった。たいして進みもせんけどね。命令だから。それがしばらく。
Q:そういうのも結構、体に影響あったんですか。
それはもう、影響。もう、だって食べるもんがないのに、そういう重労働ですからね。重労働っていったって動きやしないけれども、それにしたってやんないわけには、ね。やんなきゃでしょう。もう司令部のまったく相当なあれが、それこそ棒を持って、たまには馬からおりて、そういうしったしてるんだから。「何もたもたしてるんだ」なんてね、まったくばかみたいなね。それこそ馬からぶちおろしてぶっ殺してやるかな、と思ったこともありますよ、正直。上の人をね。ばかみたいなね。食うものもないのに、それで仕事が進まないと。進む道理がないですよ。まぁ、実に悲惨なもんだよね。
だから何人かは、まぁ、話を聞いた程度ですけど、そういう上官も何人かはやられていますね。そういうのはあんまり表立ってはいないけどね。あまりにもね。それこそ言ったっけなぁ。やはり5~6人で殺してね。結局、食っちゃったって。太ったね、将校をね。もうみんなもうやっとね、やっと、それこそ、歩くのがやっとぐらいなの。でも、5~6人で殺しちゃったって。で、食っちゃったって、肉は。
[13] 食糧の「格差」が生んだ「糧秣盗難事件」 06:23
糧まつっていうと、次はうちの兵隊のほう、海軍の糧まつをね、かっぱらってきて。それを見つかっちゃって。わたしは実行犯でも計画犯でもなかったんだけど、責任とって軍法会議にかかっちゃったんですけどね。結局、責任者は自殺を。連隊長とうちの中隊長に自殺を命ぜられて、自殺したんでね。
海軍の糧まつを、いわゆる米と乾パンをかっぱらってくる。それで、それをうちの中隊のいわゆる幹部がふたりで、その教えた兵隊・ムラノっていう兵隊が、東京のほかの。それが地方に来て、10人兵士をつくって、海軍の倉庫をさんざんに下見して。それでこういうふうに網をひけちゃうんだよね。倉庫の中に入ったら網が、その上に乾パンとか米ね。そうしたら剣についてね。そうするとバラバラッて。それでだいぶつないでいた。
ところがもうそれだけじゃあ、あれなんで、欲深くなってきて。結局、まぁその米を2俵と、乾パンを2箱ね、かっぱらって。そうしたら米を2俵かっぱらってきた。
でも、まぁ首尾よく、目的をしてかっぱらってきたわけ。帰ってきて宿舎へ着いて。
それはそれで、すぐに炊事係の兵隊呼んで。でもその時はまだ22人いたの、中隊で。そうか、じゃあなんでもいいからな、米を1人5合あて、炊けと。それから、乾パンは行った人に2つ、行かない人は1つ。わたしが命令して、で、すぐに乾パンをぶちあけて、行った人は2つ、行かない人は。次の兵隊に聞いたら、「いま何人だ」って言ったら、「22人です」と。「ああ、そうか」と。「次は米は5合ずつ炊け」と。すぐに、そうしたらもう乾パンを食いながらごはんができるまで待ってて、みんな食って。で、もうそこで寝たわけ。そうしたら法務官というのが、法務部の憲兵やないんですよ。法務官という、それが来て。だから「責任者はいるか」と、「わたしだ」と言いました。そうしたら兵隊が、「あ、いますよ」って言って。そうしたら「どこへやった」と言ったら、「はい、ここへしまいました」と。全然ない。ひと口もない。「あっ、これはバレちゃったな」と思った。そこですぐにね。それではすぐ、毎日ひとりぐらいずつその参加した兵隊を呼んで調べられて、最後にわたしが呼ばれて。結局、3人、いわゆる軍法会議行きが決まったんですよね。
その主導というか、ムラノっていう兵長が、それはいよいよ軍法会議に行く3日前に、いわゆる病死で死んじゃった。それでいちばん最高責任者の将校は、連隊長と中隊長とふたりに自殺を、自殺しろって。それで結局、応じてね。で、軍法会議にわたしとふたりで行く。○月○日にしとこう。いっしょにふたりで中隊を、昼飯だけはもらって、ジャングルの中を通ってこう、そこへ行くんですけどね。ジャングルの中へ入ったら、「おれはここで死ぬ」と。こっちも覚悟してたからね、「ああ、そうかい」って言ったら、もうね、もう、持っていったさるまたまでとりかえて、それで内地から持っていった日の丸の旗を敷いて、わたしの前でね。
ところがそれがいわゆる、急所を外れたんですよね。いやいや苦しむんでね。で、しょうがない、中隊からまだ150メートルぐらいなんで。でも銃声は聞いたらしいんだよね。それであんまり苦しんでいるから、行ったらもうだいたいわかっていて、それで2~3人でかけてきて。しようがない、注射で殺して。どっちとも。で、時間がないからわたしがそれもひとりで、軍法会議の場所へ時間までに行ったや。
それでいわゆる懲役1年、軍曹から一等兵に免官。それで4月そこへ収容されたわけよ、4か月。まぁ3分の1だよっていうことはわかってたんです。それですぐに終戦になって。だからそれがもう終戦が8月の15日でしょう。解隊されたのが25日なんだよ。
[14] 復員 03:12
それほどうれしく、悔しくはないが。まぁ良く、でもあれだな、こういう帰れたんかなという、何ていうか、半分夢のようなね。
それほど、そんなあれはなかったね。
それで第一ね、それだけの大勢の人が皆ね、そこで死んでいるね。自分だけが帰るんでね、うれしいどころじゃないですよ。だからね、はっきりいうとね、半年ぐらいはね、外にも出られなかった。何ていうか、恥ずかしくて。恥ずかしくて、で、帰ってきたのが。
何か悪いことをしたようでね、帰ってきたみたいでね、外に出るのがおっくうで。で、たまにね、「帰ってきたね」なんてね、来てくれる人いっぱいいましたよ。
ところがね、しまいには、「なんだ、帰ってきたんか」ぐらいでね。「あんたがうらやましい」っていうかね、そんな態度でね。日本中のね、せがれなり弟なりが皆死んでいるでしょ。「なんだ、帰ってきたのか」ぐらいで、しまいにはね。捨てばつけみたいなね、しまいにはね、そういう態度が多かったですね。だから自分自身もね、何か外へ出るのがきまりが悪いようでね。だんだんだんだんね、そんなこともいってられないですからね。
やはり、ひとりっきりは朝、目が覚める。「あれ?まだ生きているな」って、それは何十回とありましたね。だから、もう自分で、当然もう帰って来ないというには腹で決まっていたんだ。朝起きてみて、「あれ?なんだ生きているんだ」って、自分で。そんなこというと、おかしくなるけど。
それはっていうんでね、何十回とありましたね。今はもうなくなった。
まずね、いかに戦争というものはね、これから生きている人も、戦争なんていうのは、これぐらいばかげたね、ことはありませんよね。勝っても負けてもですよ。
でもね、世界中見たらまだ戦争は絶えませんからね。こういう経験者はそういうのね。
まぁ、ばか、このぐらいばかげたことはないんでしょうね。戦争ぐらいね。
これだけはね、誰がどういうふうなね、どういう形。それこそ、本当にそれこそ情けない話だけど、ひとつぐらいぶたれても、「戦争はやらないほうがいい」って、「戦争反対」「やっちゃいけない」っていうね、そういうあれが、年をとったから、特にそういうふうになったんでしょうね。そういう思いしてきたからね。そうなんでしょうね。