『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや 2 レイテ

[1] 第1師団 03:46
第1師団は元の東京鎮台から来てですね、東京の師団です。二・二六(事件)をやって満州に行かされた部隊ですね。だから二・二六終わってすぐ満州に移って、私が第1師団に入ったときは孫呉(現・中国黒竜江省黒河市孫呉県)というところ、黒河の少し手前に孫呉というところに兵舎がありました。私はそこの野砲1連隊に入営したわけです。2月の零下30度以上(以下)のときにポンと行かされたわけです。で、19年まで野砲兵連隊にいまして、師団長の着任の日に私も師団司令部に転属になったんです。
はじめて孫呉で師団司令部に行ったときに、その日に師団長が飛行機で来られたんでポンとはじめてお会いしたわけですよね。どんなかたなのかも全然わからない。師団副官自体も何をしていいか全然わからなかった。申し送り簿というのがありまして、こんな厚い申し送り簿があって。それを前の師団副官、前の服部閣下という師団長が亡くなったものですから、そのかたの遺骨を持って日本に帰られたわけです。私が申し送りをなにも受けずにただ申し送り簿という手帳ををもらっただけで師団副官になったわけで、なにがなんだか、さっぱりわからないままで師団副官になりました。だから毎日師団長のお迎えに行って官舎に送りすると、官舎がもう使えなかったので、軍人会館という宿舎にそこに師団長と土居参謀と私と3人がそこにいましてね、師団司令部に通いました。
私も予備役でそういう訓練全然受けてないわけです。最初、師団司令部がどういう仕事するかも知らずに行ったわけです。師団長最初の出勤の日に師団長の車で迎えに行ったら、車が故障して、時間がきたら困ると思ったら、師団長が歩いて来られた、1人で。それで急いで途中からお供したんですけど。兵隊が待ってるのに時間遅れたらかわいそうだから。師団長自分でトコトコ歩いてこられました。
[2] バシー海峡を渡りフィリピンへ 06:55
Q:上海にいたころって、台湾沖航空戦あったころですよね?
その前に出港してるんです。上海を出港してちょうど揚子江出たところでちょっと待てと。そのときに台湾沖海戦が。我々は全然わかりません。船に乗ると師団の通信は全部止められちゃうんです。で、船舶の通信だけなんです。船舶司令部からの通信。だから私は毎日師団長に言われて船の通信室に行っていろんなニュースを聞いては師団長に報告していました。師団長といえども船に乗ってしまうと船舶司令部の命令で動きますので、師団長も何にもできないんです。
Q:そのころはどういうニュースがあったんですか、その船舶司令部では?
船舶司令部の命令に関しては我々の方はなんにもわかりません。どういうあれで動いているか。船長に対しては船舶司令部から命令が入るんですけど、師団長はただ乗ってるだけです。ただ船に乗りましたら、船にはチーフの将校集会場みたいな偉い連中だけの部屋があるんですが、それも師団長は全部中止しろと。師団長の個室も、わたしと2人だけだったのですが、もう1人入れろと、高級副官と3人でその部屋に入りました。私は直に寝ましてですね。ベッドが2つあったので師団長と高級副官が入りました。で、将校の食堂も全部つぶしてなるべく兵隊さんが楽に寝られるようにしろと、師団長の話で。なるべく将校のところを全部つぶしました。
Q:やさしい方だったんですね。
はい。ほかの船の状況はわかりませんけども、金華丸というところでは師団長は自分でおやりになってなるべく兵隊が楽に寝られるようにしてやれということでした。
Q:台湾沖港空戦の話があったのですけど、あれって日本が勝った勝ったって喜んでいたんですか?
そういうことは全然わかりません。台湾沖海戦も知りません。ただ通信で船舶司令部から船長に入る通信で(海戦が)あったということを聞いただけです。
Q:じゃあ戦果についてはなにも聞かされなかった?
知りません。
Q:逆に戦果、台湾沖で勝っているという話はどこで知ったんですか?
それは全然私たち知りませんでした。ただバシー海峡(台湾南方の海域)で前の船団がみんな沈んでいるわけです。それで師団長が一番心配されたのがバシー海峡通過のときですよね。全部兵器には竹をゆわえつけて浮くようにしてちょうど1万トン級の船ばっかりでした、我々の船団が。それと、海軍の「浅間丸」という欧州航路に使っていた船ですね、これは海軍が徴用していてそれに海軍が我々と一緒に行動していた。バシー海峡のときは我々を護衛してくれた海防艦と航空機が協力してくれまして、ずっと上を航空機が飛んでいました。
で、バシー海峡過ぎたところの島で師団長が、命令は北部ルソンを警備しろと言う命令だったんです。上海出るときに。北部ルソンにどうせ行くならば、北部で1個大隊各連隊の1個大隊ずつ下ろそうと、これは師団長の考えでやられました。
1個大隊ずつをラボックというところで下ろさせてくれと、許可を取りましてね、それでラボックで各連隊の1個大隊下ろしました。これは師団長の命令でやったことで軍司令官の関係でなく。それで砲兵はリンガエンで下ろすそうという話だったんです。師団長の意志でやったのはラボックというところで、各連隊1個大隊を下ろして、49(連隊)の連隊長を長に下船しています。
Q:でも船で行った方が楽なのになんでわざわざ?
師団長としては陸軍は陸にあがんないとだめだと、もし途中で魚雷にやられてもいくらかでも第1師団の兵隊を残したいというのが師団長の意向だったと思います。それで各連隊から1個大隊ずつ下ろしたわけですね。
Q:最初からそんなに慎重に行動しないといけない状況だったんですか?
あの、バシー海峡からマニラに入る間にだいぶ沈められていますので、米軍の魚雷に沈められてるから、師団長としてはなるべく陸軍は陸に上がらないと意味がないんだということで下ろされたと思います。これは師団長の個人的な考えでおやりになったことです。
[3] レイテ島へ投入される 04:34
マニラ湾に船が入りましたら、あの、はじめ船舶司令部のほうからその船はすぐマニラに行けという電報がはいったんです。それを私が電報室から聞いて、師団長に報告しまして、師団長は全然知らないんですから。師団長は北部ルソンに行けっていう命令しか持ってないんです。その船がレイテ行けって言われたっていうんで、すぐ団隊長集合、各連隊、連隊長をですね、金華丸に集めまして、そのうちにあの、先遣参謀の勝田参謀があの、ランチ(小型船)できましてで、その命令を山下奉文の命令が師団長知ったわけですよね。ええ。師団長はマニラではじめて知ったわけです。レイテ行けってことを。それで師団長私に、ああ、兵隊かわいそうなことをしたなと。もう北部ルソンということで築城材料を上海でたくさん買い込みましたから。兵隊の寝るところまでそういうものを入れたもんで、師団長は私にかわいそうなことをしたなといっておられたです。
それで上海で築城材料ですね。有刺鉄線とかいろんな築城材料をずいぶん買い込みました。古い師団だから金を持ってるんです。前からのお金をですね。トミタって主計の中尉が(東亜)同文書院を出た人なので上海に顔なじみが大勢いるので、その手づるでずいぶん上海で買い込みました。有刺鉄線とか、築城材料を。円ぴ(軍用スコップ)とか。そういうものをずいぶん買いこみました。それを兵隊の寝るとこまで入れたものですから、兵隊の居住区が狭くなっちゃったんです。それを師団長が兵隊にかわいそうなことをしたといってた。
Q:当時の師団の雰囲気は?レイテに行くと聞いて死を覚悟するような状況でしたか?それとも勝つぞと臨んだ戦いなのですか?
勝てるとか負けるとかそんなことじゃなくて夢中でした。マニラホテル、もとマッカーサーのいたホテルを借りまして、団隊長、団隊長というと連隊長以上を集めて、対米戦争に関するいろんな研究をやりました。船の積み卸しやってる途中で師団長集めて、それで軍司令部の参謀なんかも来てもらって対米戦争のいろんな経験だとかいろんな戦闘方法なんか、そういうことをマニラホテルではやりました。
Q:どうちがう?アメリカと戦闘の研究って満州と?
私はそのときは連絡に歩いてたから(わからない)。軍の参謀とか来て説明していたようです。ただ、レイテ行ってから師団長はだいぶ、その、そのときの話が違うということはおっしゃってましたけども。
[4] レイテの厳しい戦況 05:34
レイテ行ってからそのときの戦陣訓(戦訓)と違うから、須山参謀を作戦参謀を内地に帰してくれということを35軍司令部に自分の個人的意見として、話していました。
Q:そのときの戦陣訓(戦訓)って何ですか?
結局あの、・・なぜそういうふうに感ぜられたかというと、あの、友近参謀とあったときの状況ではまだ、アメリカ軍がカリガラのとこまで来てないと、そこにうちの師団の関係じゃない(30師団の)41連隊というのがまだそこにいるということだったんで、師団が展開するには少なくとも3日かかると。それでうちの師団に41連隊が一時配属になったわけです。師団長が早く連隊長にあって、第1師団がもすぐそこにくるから、しっかりやれということを伝えようと、私と師団長が先に飛び出したわけです。そのときに歩兵の1個連隊と警備兵を参謀長がつけてくれて、参謀部つきの将校が3人一緒に乗って先に飛び出したわけです。それでリモン峠に向かって行ったんですが16師団の兵隊がぞろぞろ帰ってくるわけです。止めると手のところでだけは止まるんですが、あとはみんなオルモックオルモックって歩いてました。
もうただオルモックへオルモックへって感じでした。
中にはボロボロのもいましたし、まだ弾薬そのまま全部持ってるのもいました。
Q:それ見てどう思った師団長は?
結局ああいう将校が先にやられてしまうと地図もなければ命令もないんです。兵隊はどこ行っていいかわからないわけです。ただオルモック行けば日本軍がいるだろうということで、その生き残った連中がゾロゾロ歩いてきました。
Q:戦後聞いた話でいいが師団長はレイテ上陸前にレイテ作戦に勝てる希望をもっていたのですか?
私はそうは思っておられなかったと思いますけどね。なにしろ頭号師団(師団番号が1号)だっていいながら、大砲から何からみんな馬ですから。いま馬なんて使ってるとこない訳ですから。いま、みんな車両ですよね。機甲部隊というのはですね、それと馬をもって大砲もってたんですから。歩兵は九九式っていう新しい銃をもってたんです。それを全部返納して明治の三八式の、明治の鉄砲をみんな持ったわけですね。大砲も野砲連隊でも満州いたときは開脚の九一年式っていう大砲を使ってたんですが、それも返して、改造三八(式野砲)っていう明治の大砲を持ってたんですから。やっぱり弾の補給がつかなかったんだと思います。だから、レイテ行くときには全部明治の兵器を持ってったんですから。
もう師団長としてはただ死力を尽くすだけであって、そういうあれは、どうすることもできなかったと思うんですよね。ただ軍命令でカリガラ平野へ早くおりろってことだけでしたからですね。
Q:カリガラ平野で何をしろっていう命令だったんですか?
カリガラ平野で米軍と戦闘しろっていう命令でしたが、結局平野おりてったら師団1日でなくなっちゃったと思います。リモン峠は戦車が1両しか通れないんですよ。道路が狭くてそれだから50日もったんです。あれもし下におりてたら戦車で一遍にやられてると思います。16師団と同じように。だから、リモン峠で遭遇戦をやったということが、ま、幸運だったといえば幸運だったわけですね。
[5] カリガラ平野の入り口で 08:30
最初、師団長と一緒に行ったときにはリモン峠を下りてカリガラ平野の入り口まで最初師団長と2人で行ったんですから。それでただ、川が橋が壊れてたんで、私が石を川に入れておいて自動車が通れるようにしてたんです。そうしたらその前に出てた捜索(連隊)と一緒に出た須山参謀が1人で戻ってきて、「師団長、前の様子がちょっとおかしい」と、あの、「軍司令部の様子とちがいますよ」ということで、「一遍リモンの峠まで下がりましょう」と。ということで峠まで下がったんです。んで、私と直衛下士官といって、師団長にくっついている下士官が1人いるのですが、と2人で「おい、やることないから穴掘ろうよ」っていうことで、壕(ごう)を掘ったんです。ちょうど背が入るくらいの壕を私が1つ掘って、下士官が1つ掘ったのです。掘り終わったら米軍の砲弾がバーッと落っこってきたんです。日本の砲兵はひとつの目標決めて撃つんですが、向こうは地域にバーッと落としてくる。すごい砲弾が落ちて来ましてそこでわたしが掘った壕に師団長が飛び込みまして、下士官の掘った壕に私と下士官の2人が飛び込んだ。壕に入ったのは2人だけなんです。それでちょうど捜索連隊の副官が戦闘の状況を報告に来ていたんですが、そこでだいぶ兵隊が戦死しました。はじめて師団長は米軍の砲弾の集中力を自分で体験されまして、それであとの命令には全部57連隊の連隊長にもまず陣地を確保しろと(きちんと守れ)。それで確保したらば斬り込みだとかそういうことをやっちゃいかんと師団長は言っていました。師団長は斬り込みして一個小隊が全滅して大砲の1門2門壊したところなんにもならないんだと。それよりも兵員をなるべく大事にしろと言っておられました。ところが57の連隊長に状況を話したが、その命令が私にしてみれば徹底しなかったんですよね。57(連隊)の連隊長(大隊長)が2人とも戦死しているんです。だいいち大隊長が敵情偵察なんておかしいんです。
緒戦で大隊長2人戦死してるんですよ。私にしてみれば若すぎると。戦場の経験がぜんぜんないと。今まで満州にいてソ連の戦闘の訓練ばっかやってて米軍の戦闘を全然知らないわけですよね。だから私にしてみれば師団長が壕を掘ったらじっとしていろということを説明された。なぜなら自分が経験されたからです。最初に。私が思うのは師団長の意志が連隊長を通して大隊長まで通じてなかったように思います。
で、1人でも壕にいて、日本が1発でも撃つと向こうはぱっと下がっちゃいますから。それで砲弾を撃って、迫撃砲を撃って、もう日本兵がやられたなと思うとあがってくるわけですよ。だから師団長はなるべくその壕にジッとして戦闘をしろといわれてたんですが、歩兵はやっぱりだんだん全滅していきますね、陣地を取られちゃいますから。すると道路のところは全部空いちゃったんです。すると米軍が道路とってリモン峠にはいっちゃったわけです。
Q:米軍を食い止めるのが任務だったんですか?
結局、食い止める以外に方法ないわけですよ。まだこちらからその大砲もないし飛行機もこないんだから、攻撃することができないんですよ。軍命令はカリガラ平野に攻撃しろ攻撃しろって命令出てますが、第一線の状況を軍の参謀が全然見に来てないわけですよ。ただ命令だけですよね。
Q:師団長はそういう苦しいながらも守れと言うしかなかった・・・。
だから師団長は自分の兵力でできるだけのことをするには、じっとして米軍の来るのを食い止める以外に方法がなかったわけですよね。
Qやっぱり補給はなかったんですか?
補給はありませんしね。それに第1師団だけはほとんどの物資、食糧も弾薬も全部あがってるんです。レイテに。それで後から来た26師団これはちょうど私が軍旗を迎えにオルモック行ってるときに船団が入ってきたんです。私の見てる前でどんどんあがったんですが、前の日にちょうど台風で船舶工兵の船が浜にあげられちゃっていたんです。それで船団が入ってきたけど上陸するための舟艇が動かないんですよ。で私たちも手伝ったが、なかなかおりなくて、せいぜい2杯くらいしかおりませんでした。そこにちょうどわれわれの軍旗も来たんですが軍旗の船団は高速艇で自分で大発(大発動艇・上陸用小型舟艇)持ってたんです。で、すぐあがることができたんです。それでわたしはお迎えして、いま第一線の状況はこうだから、話して師団長の命令を伝えてすぐ馬で引き返しました。そう言う状況で、他の師団は物資をもってないんです。26師団には輜重(しちょう)の1個小隊をつけました。日本の物資を、われわれの物資を運ぶために。それからあとからあがってきた「抜」(ばつ)って102師団、これはセブにいた部隊ですけど、その師団には輜重の1個中隊をつけました。やはり我々の食糧とか弾薬を運ぶためにですね、1個中隊をうちの師団長がむこうへつけました。だからうちの師団の物資でほとんど戦闘してるわけです。だから食糧もなければ弾薬もそう数はなかったということですね。
[6] 補給が絶たれた前線 06:37
師団の私自体は第一線に行ったのは、師団長と一緒に出たのが最初です。それから6日の日だったと思います。軍司令部から恩賜のお酒が来たんです。師団長のところへ。それを、「松本、その恩賜のお酒を宮内連隊長(57連隊)にあげてくれ」と言われて私1人でリモンの町の中を歩いていったんです。そうしたら野砲の大隊長と会いまして、リモンの町の真中で会って立って話してたんです。で、恩賜のお酒をお届けして、帰りに57(連隊)の将校が2人ケガをしているから、松本連れて行ってくれと、帰りは行きと様子が違って、砲弾は落ちてくる。道路は歩けない状況でした。帰りはしょうがないから、山の方を負傷した将校2人を連れて、山をずっと歩いて師団司令部帰りました。行きと帰りは全然違っていました。それが6日です。
Q:食糧欠乏がわかったのがいつごろですか?
欠乏してるというより、私が南峠で57(連隊)が北峠でその間にリモン河という川が流れてるわけですよね。ロノイっていうところでご飯をたいて、それを缶詰に入れて、石油缶に入れて輜重隊が担いで第一線に行くわ
くわけですよね。弾薬も全部。すると河を越えて第一線に配るのに、どうしても。その間で戦死されたりそういうことがあるもんですから、思うように食糧が行ってないようだったです。それは私はあとで聞いたんですが、第一線の連中は思うように食糧がなかったということは聞いています。
Q:当時のそういう第一線の状況は司令部に伝わってた?
連絡将校というのが各連隊から来てまして、参謀部には来てるんですが、色んな状況は聞いてます。いろんな状況は聞いてるけど、師団としてはそれ以外に何も方法がないわけです。なにしろ昼間1日中セスナ(米軍の観測機)、飛行機が、ぐるぐる我々の上をまわってるんですから、ちょっとおかしいと大砲を持ってきますから。だから昼間は目立つ行動ができないわけですよね。夕方でないと。
Q:食糧現地調達はしてたのですか?
もう現地の芋やそういうものを。レイテはお米ができる。もみがらを、いえばフィリピンの人の食糧かっぱらったわけですよね。はっきりいって。それから芋畑あらしたり、とうもろこし畑でとうもろこし取ったり、そんなことをして混ぜてましたから。食糧に。それにキャッサバっていう芋を、日本のような芋もありましたが、キャッサバっていう芋の一種です。それを食べたり、ヤシの新芽を食べたり、それからなにしろヤシやバナナは住民のいるとこしかないんです。あれは自然に生えたんじゃなくて住民が植えたものですからね。バナナとかヤシ、野草なんか食べられるものはなるべく食べました。
Q:現地調達は命令として出たんですか?
命令もなにも兵隊さんみんなが食べるということに関しては命令じゃなくても自分で調達してましたからね。
Q:師団司令部のかたで師団司令部から調達命令受けたという人がいる・・。
師団司令部からは命令出なかったと思いますけど。ただ各自自給自足しろっていう命令は出てましたけど。自給自足ですね。
Q:誰の命令ですか?
結局山下奉文がレイテを放棄するときになるべく生き残って日本(内地)に米軍が行かないようくい止めろと言う命令が出てましたから、自活自戦をしながら米軍を引きつけろという命令でしたからね。だから自給自足、食べるものを自分で探して食べて生き残れということですよね。
[7] 「破断界(限界)に達す」 05:33
師団長としてはマニラで米軍の戦闘に関する説明を受けたわけですよね。それと実際戦闘してみると全然違う。須山参謀を内地に帰してくれということを35軍司令部に言ってました。35軍の司令部。いろんな友近参謀長の手記には師団長が弱気を言ったと書いてありますが、そうじゃなくて師団長としては米軍の戦闘方法を内地の連中に知らしたいという希望があったわけです。だから作戦参謀の須山参謀をぜひ内地に帰してくれと軍司令部に意見具申してます。
Q:それは受けいれられなかった?
受けいれられない。だから師団長が弱気をいってると書いてますけど。でも師団長はそうじゃなくて本当の米軍の戦闘状況を日本の大本営に知らせたかったわけです。
Q:あの、話が変わりますが、レイテ戦記などを読むと、レイテ島はゲリラ活動が盛んだったと、そういう情報は入ってたのですか?
第一線の戦闘においてはゲリラは全然来ていません。全部米軍です、リモンの戦闘はね。我々がカンギポット行ってセブ(島)行ってからは米軍はゲリラに申しおくったらしいです。野砲と師団司令部の間に米軍が入ってるんですが、これはみんなゲリラ、ゲリラって言ってました。まさか米軍が入ってってくると思わなかったわけですよね。参謀連中は。これは別の話になるが、わたしの野砲のときの同年兵がいましてね、それが野砲の陣地から来る途中に米兵がいたっていうんです。それを私のところにわざわざ言いに来たわけです。師団長がつれて参謀部行って話してこいって言われたから、わたしが同年兵の兵隊をつれて参謀部に行って話したんです。米兵がいますと。そしたら参謀は米兵が来てるはずないと。ゲリラだと言ってるわけです。本人が米兵を見たと言ってるにもかかわらず、その参謀はそれはゲリラだと米兵じゃないと。実際は米兵なんです。クリフォード隊(アメリカ陸軍第24師団所属の大隊)は、米兵が入ってるんです。
Q:完全にすきをつかれたようなかたち?
そうですね。ええ。
Q:その中隊どうなった?
結局、野砲(連隊)がその、南峠の一番最初にありましてね、そして師団司令部です。こっちから原口山(リモン峠の西側)の方からの米軍、両方から米軍が入って真ん中を遮断してるんです。だから野砲の連隊長が転進したのは我々わからなかったんです。しゃ断されていましたから連絡が取れなかった。最初のうちは戦車で連絡とってたんですが、戦車もやられてぜんぜんわからなくなった。で通信なんてのはぜんぜんだめですしね。
結局、第一線の57(連隊)も49(連隊)も歩1(連隊)も師団司令部のところへ集め円陣をつくったわけですよね。で、もうこれが最後ですよ。これを破られたら第1師団としては防御の方法がないってことで破断界(限界線)と、土居参謀に行かせてるわけです。
Q:バラバラになっていた、孤立した部隊を集めたってことですか?
結局、生き残りを全部師団司令部のところに集めました。
Q:その段階で何人くらい?
師団全部で2千5、600いたんじゃないですか。もう少し3000近くいたかな、各連隊の生き残りが。
[8] セブ島への転進 05:11
ただ転進という命令を出しちゃうと、統制がとれなくなっちゃうんで、パロンポン攻撃という命令を出したんです。実際は転進というのはセブに行くんだってことはわかってたんですけど、それを出しちゃうと、今度部隊の中の統制が取れなくなっちゃうわけですよね。それでパロンポン攻撃という、パロンポンというすぐそばに米軍がもう上陸した場所があるわけです。そこを攻撃するという命令を出すとですね、体のいい者をなるべく出せということで、命令が出たわけですよね。
これは参謀部で案を作って師団長のところへ持ってきてるのですが、師団としては転進だということをだしたらば我先に船に集まっちゃうから、統制取れなくなっちゃうわけです。だから先頭部隊を渡すという名目で船をのせたわけです。で、船が来るときが無線で軍司令部に入るわけですよ。今日船が出るっていうことを。そうするとわれわれのとこは山の上に小屋を作って海の方だけにあけて薪をたいたんです。それを目標に船が入ってくるわけです。のろしをたいて。で、船が来るとわかると、かならず山の上に小屋をつくって船を。でだんだんと北にあがってきましたけどね。そのたびに米軍がこっち側どんどんくるわけで。で船が入ると食糧と弾薬をもってくるもんをもってくるもんですから、ぞれを全部おろして我々が乗ってまたセブに帰ったわけです。
輜重(しちょう)(兵)の方が多いんです。歩兵よりも輜重のほうが割に人員が多いんです。輜重が歩兵よりも多いのはセブに渡ったら、セブから、糧まつや弾薬を運ばなきゃならないわけです。そのために輜重が、渡ったうちの割合からいくと非常に多いんです。それは物資を運ぶためです。で、まず物資を運んでおいて、後から来た連中は、なにしろ我々は着の身着のままですから、食糧もなければ靴もだめなって履いていない状況ですから、で、輜重にセブから運ばせておいて、後から補給しようという師団長のハラだったわけです。
特に師団長が3回目に渡っているんです。私も一緒に行ったんですが。結局ひとつの部隊は師団長が行かないと部隊編成ができないんです。その一番いい例が、その35軍でも26師団でもそうですけど師団長が早く亡くなっているんですよね。そうすると統制取れなくなっちゃうんです。部隊としては。だから、師団長が3回目に渡ったということはやっぱり師団長が渡らないと師団としての格好がつかないから渡っているんです。師団としてのあれが残らない。それで師団長が渡っている。
だから兵隊さんにいわせれば幹部が逃げちゃったっていうんですが、師団長が行ってなかったら第1師団としてのまとめができないんです。確かに兵隊さんからしてみれば幹部が逃げた、連隊長も逃げた、我々だけ残された、と捕虜になった方はおっしゃってるんですが、もし師団長が行ってないと師団としてまとまりがつかなくなる。するとみんな他に配属になってみんながバラバラになっちゃうわけですよね。これだけは師団長は幹部が渡らないと部隊としての編制が、統制がとれなくなっちゃう。私は予備役の将校だけど、これはやむをえなかったと思うんです。
[9] セブ島で迎えた終戦 04:44
終戦を知ったのは・・、その前に米軍が我々の討伐に入ってきたんです。それをずっと中に入れておいて夕方襲撃して、米軍は兵器をおいて逃げてしまうんです。米軍は兵器よりも人員の方が大切だから。そのときに米軍が無線機を置いていっちゃったんです。無線機を日本(側)に持ってきて日本の三号無線機の真空管がダメなもんで兵器部の連中が研究して向こうの真空管を使ったわけです。それでサイパン放送を傍受して終戦を知ったんです。その前に米軍はビラをまいてます。もう日本は降伏した、山からでてこいって。ただ命令なくして動くわけに行かないからということで、師団長は米軍のビラは信用しなかったわけです。ところが日本放送で日本は負けたと。で、降伏しろと出たもんで、むこうのアメリカル師団(米第23歩兵師団)ていうのがセブにいたもんですから、そこで軍使を出したわけです。
アメリカル師団というのがこれから日本に進駐しないとならないんだと、でなるべく早く山からおりてくれと、いう話があったわけです。山下奉文の命令がないと我々は出られないからというのですが、アメリカの師団長が山下奉文は山から下りてないんだと、でも日本が降伏したことは間違いないのだから早く出てくれということで、28日に降伏しましょうと。うちの師団長は結局日本軍が降伏した以上はなるべく早く出ようと、ということは負傷兵がだいぶいたわけです。病気したりなにかしたのが。1日でも早く米軍に引き渡さないとますます犠牲者が増えてしまうと。食べ物もないですし。だから師団長としてはなるべく早く山を降りようと決心をされたんです。
Q:命を賭けて戦って日本が負けてどんな気持ちになるんですか。
・・・ま、私自身は、ほっとしました。もうその前に8月10日ごろ、もうすこし早かったか、米軍は我々の区域に砲をザーッとならべて我々を攻撃する準備を全部してたんです。その前に討伐をした連中を私たちが襲撃したものですから、本腰に大砲や戦車を全部揃えましてね。そのときにレイテ観音彫った、ヒルマ中尉が第一線の中隊長出ておったんです。私と同期だもんですから、師団長と2人で第一線の状況を見に行ったんです。すると米軍がズーッ砲列ひいていましたね。ヒルマが私の所に来て、「おい松本、もう最後だなぁ」と言ってたんですよ。
それが15日になったらみんなパーッと引きあげちゃったんです、米軍が。終戦をわれわれ知りませんから、ただその日に砲列も戦車も全部引き揚げました。もう少し終戦遅かったら、おそらく我々も全部やられたと思う。
[10] 師団長の心残り 03:37
戦友というのは学友と違って一緒に同じ飯を食い、同じ戦場で戦ったという気持ちがあるんですよね。われわれはこうして家族がいてお墓参りもしてあげられますけども、戦友はそういう家族もいなきゃ何もない、ただ1人でお国のために亡くなってるわけですよね。そのときには家族もいなければだれもいない。今日お母さんって言って亡くなったかたもしますし、天皇陛下万歳って言って亡くなったかたもいますしね。だけどそういう連中を見てますから。ゴロゴロ倒れているのを。だから私としてはできるだけお線香あげて冥福をお祈りしたいなと思ってるわけです。本当に戦場はひどいです。もう。遺骨を遺体を収容するなんてできないですから、負け戦は。だから迷ってもにおいをかぎながら行けば部隊の位置がわかるっていうような状況ですから。食べるものもない、弾もない。そういう状況ですからね。とくにカンギポットにあとに残った連中はひどかったと思います。
師団長はね、日本軍が負けて陛下の勅語が出た以上はなるべく多く返したい、病気のものもいるし一日でも早く米軍の病院に入れてあげたい。1人でも多く日本に帰してあげたい。そういう気持ちでおられたようです。
Q:さっき、慰霊碑はちゃんと建てるなとおっしゃったというのは、師団長の最後の命令だとおっしゃるかたがいるのですが、そうですか?
命令じゃなくて、(戦後)師団長が白血病で入院されてたんで、わたしがちょくちょくお見舞いに京都に行ってたんです。そしたら、「松本、人の国に行ってそういう慰霊碑を建てちゃいけないよ」と。「自分の満足のために慰霊碑を建てるとよくないよ」と。「おまえのうちの庭に米兵が来て、慰霊碑建てたらどんな気持ちがする?それと同じように、人の国に行って自分の満足のために慰霊碑を建てちゃいけないよ」と、いうことで、慰霊碑を建てなかった。それに、おまえ、いまにいつか慰霊に行けることになるだろうと。そうなったらぜひ行ってくれと。