『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「死の家の記録」P049―096(1回目の校正完了)

ネルチンスクから逃げ出したのだと取り沙汰していた。シベリヤへ送られたのも一度や二度ではなく、脱走したのも再三再四で、名前も幾度か変えたものだが、あげくのはてに、この監獄の特別監房へたたき込まれたということである。また同様にこういう話もあった、彼は以前、ただの慰みに小さな子供を好んで殺したものである。どこか都合のよさそうな場所へ子供をおびき込んで、まず脅したり苦しめたりしたあげく、不幸な幼い犠牲の恐怖と戦慄を思う存分楽しむと、ゆっくり落ちついて効果を楽しみながら、なぶり殺しにするのである。これらはすべて、ガージンの人々に与える重苦しい一般的な印象から、想像で考え出したことかもしれないが、こうした捏造談がなんとなく彼の風貌に似つかわしいのであった。そのくせ、ふだん酒を飲まない時は、獄内でもきわめて品行方正であった。いつも静かで、けっしてだれとも喧嘩をせず、なるべく口論を避けるようにしていた。が、それはどうやら他人をばかにして、自分がだれよりも豪《えら》いと思っているせいらしかった。非常に口数が少なく、なんとなく腹に一|物《もつ》あって、交際を避けているというふうだった。その動作はすべてゆっくりと落ちついて、いかにも自信ありげなのだ。彼がなかなか賢くて、人なみはずれてずるいということは、その目つきを見ただけでもわかった。しかし、なんとなくお高くとまって人を小ばかにしたような、惨酷なところが、いつもその顔と微笑に現われていた。彼は酒を商売にしていて、獄内でも最も裕福な酒屋の一人だった。けれども年に二度ばかりは、彼自身へべれけに酔っぱらうようなまわり合わせになって、そのとき彼の野獣的な本性が名ごりなくむき出しになるのであった。だんだん酔いがまわって来ると、彼はまず思いきって毒々しい、だいぶ前から用意しておいたらしい計画的な嘲笑を浴びせながら、一同に食ってかかる。が、最後にすっかり酩酊してしまうと、もの凄い凶暴性を現わして、ナイフを引っつかんで、人に飛びかかるのであった。囚人たちはその恐ろしい力を知っているので、一度にぱっと逃げ散って姿を隠してしまう。彼は行き当たりばったり、だれかれの差別なしに飛びかかるのであった。しかし、間もなく、彼を取り押える方法が発見された。同じ監房の連中が十人ばかり、一時に不意を襲って彼に飛びかかり、なぐり出すのであった。この乱打以上に残忍なものは、しょせん、想像もできないくらいである。胸、心臓、鳩尾《みずおち》、腹、ところきらわずめった打ちにして、長いあいだ雨霰と拳固を降らし、相手が感覚を失って、死人のようになるまでやめないのだ。もし相手がほかの者だったら、こんなに思いきってはなぐれなかったろう。こんななぐりかたをするのは、取りも直さず殺してしまうことだった。が、しかしガージンだけは、これしきのことで殺せるものではない。さんざんなぐったあげく、完全に気を失ったところを半外套にくるみ、寝板へ運んで行くのであった。「しばらく寝たら直るさ!」というわけである。果たせるかな、翌朝になると、彼はほとんど健康体で起きあがり、無言のままむずかしい顔をして労役に出かけて行く。いつもガージンが飲んだくれ始めると、そのたびに獄内ではだれもかれもが、この日はかならずこの男を袋だたきにして幕になるのだ、ということを承知していた。当人もそれを承知でいながら、それでもやっぱり飲んだくれるのであった。こうして幾年か経った。ついに人々はガージンがそろそろまいりかけたのに気がついた。彼はさまざまな痛みを訴えるようになり、目に見えてやせ衰え、病院通いの度数がだんだん頻繁になって来た……「やっぱりまいりやがったな!」と囚人たちは仲問同士でうわさをし合った。
 彼は、酔っぱらいがいつも自分の楽しみを満喫するために雇うことにしている、例のいやなバイオリン弾きのポーランド人をしたがえて、炊事場へ入って来ると、部屋の真ん中に立ちどまり、そこに居合わす一同を無言のまま注意ぶかく見まわした。みんな押し黙っていた。とどのつまり、わたしとわたしの相棒に目をとめると、毒々しく嘲るような目つきでわたしたちを一瞥し、にやっと自己満足のほくそ笑《え》みを浮かべて、何やら腹の中で思いめぐらす様子であったが、やがて烈しく左右によろけながら、わたしたちのテーブルに近寄った。
「ひとつおたずねしますがね」と彼は切り出した(彼はロシヤ語で話したのだ)。「おまえさんたちはどんな収入があって、ここでお茶なんか飲みなさるんだね?」
 わたしは黙って仲間と目を見合わした。だんまりで押し通して、返事をしないのが上策だと心得たからである。ちょっとでもこちらのいうことが気に食わなかったら、すぐかっとなるのは知れきっている。
「してみると、おまえさんたちにゃ金があるんだね」と彼は続けた。
「してみると、おまえさんたちにゃうんと金があるんだね、ええ? いったいぜんたいおまえさんたちは監獄へお茶を飲みに来たのかね? お茶を飲みにさ? おい、なんとかいわねえか、ちょっ、いまいましい!………」
 しかし、わたしたちが押し黙って、彼の存在に目もくれまいとしているのを見てとると、彼は顔を紫いろにして、憤怒のあまり全身を震わせ始めた。彼のすぐそばにあたる片隅に、大きな盤台がおいてあった。囚人たちの昼食や晩食のパンを切って入れておくのであった。それはずいぶん大きなもので、全囚徒の半数が食べるだけのパンを入れることができるくらいであった。ちょうどその時、盤台はからになっていた。彼は両手でそれを引っつかむと、わたしたちの頭上へ振り上げた。すんでのことで、彼はわたしたちの頭を打ち砕くところであった。がんらい、殺人や殺人未遂は、囚人ぜんたいにこのうえもない厄介をかけるものとしていやがられていた。調査や、検視が始まって、監督はいよいよ厳重になる。だから、囚人たちは全力をつくして、そういう極端なところまで事件を持っていかないように気をつけていた。にもかかわらず、今や一同は鳴りを鎮めて、様子いかにと待ち設けていた。わたしたちをかばうただのひと言も発しられないのだ! だれ一人ガージンをどなりつけるものもいない! それほどわたしたちに対する彼らの憎しみは強かったのである! 察するところ、わたしたちが危険な状態に陥ったのが彼らにはいい気味だったらしい……けれど、事件は無事にすんだ。彼が盤台を打ち下ろそうとしたとたん、入り口の廊下でだれかが声だかに叫んだ。
「ガージン! 酒を盗まれたぞ!」
 彼は盤台をどしんと床へ投げ出すと、気ちがいのように炊事場から飛び出した。
「ふん、神様のおかげで命拾いをしやがった!」
 と囚人たちはたがいにいい合った。
 それから後も長い間、彼らはこの話を蒸し返したものである。
 わたしはその後になっても、酒を盗まれたというこの知らせがほんとうのことだったか、それともわたしたちを助けるために、さっそくの機転で考え出されたことなのか、どうしても突きとめることができなかった。
 その晩も暗くなってから、わたしは監房が閉まらない前に、柵のほとりを歩きまわっていた。重苦しい憂愁が胸を圧えつけていた。こうした憂愁は、その後、わたしの監獄生活を通じて二度と経験したことがない。幽閉の第一日というものは、たとえどこであろうと、監獄にもせよ、拘留所にもせよ、徒刑場にもせよ、とにかく堪えがたいものである……が、今でも覚えているけれど、ある一つの想念が、何よりもわたしの心にかかった。それは、その後も監獄生活の間じゅう、ずっと離れることなくわたしにつきまとったものである。この想念はある程度解決のつかないもので、今でもわたしにとっては解決しがたいものになっている。つまり、同一の犯罪に対して刑罰が平等を欠くということである。もっとも、犯罪そのものからして、ごく大ざっぱになりとも、たがいに比較するわけにいかないのはほんとうである。たとえば甲と乙が人を殺したとしよう。この二つの事件は、あらゆる事情が考量されて、その結果、甲の場合にも乙の場合にもほとんど同じ刑罰が下される。ところが、よく見ると、この二つの犯罪にはどれだけの相違があることか。たとえば、一人のほうはつまらないことで、玉葱《たまねぎ》一つのために人殺しをしたのである。街道へ出かけて行って、通りがかりの百姓を殺してみたところが、その百姓は玉葱をたった一つしか持っていなかったのだ。「おい、父《とっ》つぁん、おまえ何か獲物をせしめて来いっていうから出かけて行って、百姓を殺してみたら、玉葱が一つめっかったきりよ」「ばか! 玉葱だって一つ一コペイカするから、百人殺したら玉葱百で、それでも一ルーブリになる勘定じゃねえか!」(これは監獄の中の昔|噺《ばなし》である)。ところが、いま一人は、嫁や、妹や、娘の貞操を、淫蕩な暴君から守ろうとして人殺しをしたのだ。またあるものは放浪罪に訴えられて、一連隊ほどの刑事に取り囲まれ、おのれの自由と生命を守るために人を殺した。それも、ほとんど餓死に瀕しているような場合が多いのだ。かと思えば、ただ単なるなぐさみのために子供を殺して、自分の掌に彼らの暖い血を感じ、刃のもとにおかれた彼らの恐怖や、鳩の羽ばたくような最後の戦慄を享楽するのである。それでどうかというと、それらはみな同じ徒刑場へ送られるのだ。もっとも、刑期の相違というものはある。が、そうした刑期の相違は比較的|些々《ささ》たるものに過ぎない。ところが、同じような種類の犯罪でも、細かい相違を穿鑿《せんさく》したら、それこそ無限の数に上るだろう。各々の性格ごとにそれぞれの変態を示すのだ。しかし、思うに、この差異を調和させ、抹殺することは不可能である。それは一種解決不能の問題であって、いわば円形求積法みたいなものである。しかし、かりにこの不平等が存在しないにしても、そこにまた別種の相違があることに、注目しなければならない。それは刑罰の結果そのものに存する相違なのだ……たとえば、一人のものは徒刑場へ来ると、まるで蝋燭《ろうそく》のようにやせ衰えて溶けていくのに、もう一人は監獄へ入るまでは、世の中にこんな楽しい生活があることを知らなかった、こんなさばけた仲間の集まっている気持ちのいいクラブは、またとほかにない、といっている。まったく監獄にはそういったような人間も入って来るのだ。ところが別の例を引くと、教養があって良心の発達した、自己意識も感情も備えた人間はどうだろう。自分自身の心の傷《いた》みだけでも、あらゆる刑罰よりさきに、まず烈しい悩みで当人を殺してしまう。彼は最も峻厳な法律よりも惨酷に、容赦なくおのれみずからを罰するのである。ところが、それと並んで、自分の犯した殺人の罪のことなどは、徒刑の間じゅう一度も考えないような人間がいる。それどころか、むしろ自分を正しいとさえ思っているのだ。またなかにはわざと罪を犯して監獄へ入り、懲役にまさる娑婆の世界の苦しみをのがれようとするものもある。娑婆の世界では彼は屈辱のどん底におかれ、かつて腹いっぱい食べたことがなく、朝から晩まで雇い主にこき使われていたのだが、監獄へ入ると、仕事は家にいた時よりも楽だし、パンはふんだんにある、しかも今まで見たこともないような上等のパンなのである。日曜祭日には牛肉が出るし、施しももらえるし、働いて一コペイカ二コペイカの稼ぎをすることもできる。しかも、仲間といったらどうだろう? みんな目から鼻へ抜けるような、敏《はし》っこい連中で、なんでも知らないことはない。こういうわけで、彼は新しい仲間を尊敬にみちた驚異の目で眺める。今までこんな人たちを見たことがないのだ。彼はこれこそ世の中にありうる最高の社会だと思い込んでしまう。いったいこうした二種の人間にとって、刑罰が同じように感じられるものだろうか? しかし、こんな解決のつかない問題に頭を突っ込んでいてもしようがない。太鼓が鳴っている、もう監房へ入る時間だ。

[#3字下げ]4 最初の印象(つづき)[#「4 最初の印象(つづき)」は中見出し]

 最後の点呼が始まった。この点呼が終わると、監房はそれぞれ別の錠前で戸締まりされ、囚人たちは夜の明けるまで閉め込まれるのである。
 点呼は、二人の兵隊を連れた下士がすることになっていた。そのために、ときおり囚人を庭に整列さして、衛兵将校が立会いに来ることがあった。しかし、この儀式は簡単に内輪ですまされることが多かった。つまり、監房ごとに点呼を行なうのである。いまもそのやりかたにしたがった。点呼係はよく勘定を間違えて、いったん行ってしまってから、また引っ返したものである。やっとのことで数が合うと、気の毒な衛兵たちは監房に錠をかけた。房内には三十人ばかりの囚人が収容されてい、かなり窮屈そうに寝板の上で目白押ししているのである。寝るのにはまだ早かった。めいめい何かせずにいられないのは明瞭である。
 監房内に残っている役人というのは、前にもはや述べたことのある廃兵一人っきりである。そのほか、各監房には囚人頭がいた。これは要塞参謀の少佐からじきじき任命されるので、当然、品行方正のものに限るのである。ところが、囚人頭も相当たちの悪い悪戯を見つかることがある。すると、笞刑を食らったあげく、たちまち平《ひら》囚人に落とされて、ほかのものが新しく任命されるのだ。わたしたちの監房で囚人頭を勤めているのは、アキーム・アキームイチであったが、これが驚いたことには、しょっちゅう囚人たちをどなりつけるのであった。囚人たちは、たいてい冷笑でこれに答えたものである。廃兵はもちっと利口だったので、何ごとにも干渉しなかった。ときに舌を動かすようなことがあっても、それはほんのお体裁だけであって、ただの気休めに過ぎなかった。彼は黙って自分の寝台にすわり込んだまま、長靴を縫っていた。囚人たちは彼にほとんどなんの注意も払わなかった。
 この監獄生活の第一日に、わたしはひとつの観察をしたが、後日それがほんとうだという確信を得た。ほかでもない、すべて囚人以外の者は、警護兵とか衛兵などのように直接囚人と交渉をもっている連中を始めとして、徒刑生活にほんのすこしでも関係のあるその他すべての人々に至るまで、だれかれの区別なく変に誇張した目で囚人というものを眺めている。彼らは年じゅう不安の念をいだきながら、囚人が刃物をもって彼らのだれかに飛びかかりはしないかと考えているのだ。しかし、何より注意すべき点は、囚人たち自身も、みんなが自分を恐れていることを意識しているので、その意識が目に見えて彼らに一種のから元気をつけていることである。ところが囚人にとって一番いい役人は、ほかならぬ彼らを恐れない人間なのである。概して、うわべばかりのから威張りはあるにもせよ、囚人たち自身も、信頼の念を示してもらったほうがはるかに気持ちがいいのである。この態度によって、彼らの心を引きつけてしまうことさえできるのだ。わたしの在監時代に、ごくたまにではあったけれども、上官のだれかが護衛も連れずに獄内にやって来ることがあった。それが囚人たちを一驚させた。しかも、いい意味で一驚させたことは注目に値いする。こうした大胆な訪問者はいつも尊敬をよび起こしたもので、じっさい何か不祥事が持ちあがる恐れがあるにしても、こういう人に限って、そんな心配はないのである。囚人が他人によびさます恐怖は、いやしくも囚人というものがいるところなら、どこでも付きものである。しかも、まったくのところ、なぜそんな気持ちが生まれて来るのか、わたしには見当がつかない。もちろん、折紙つきの強盗とされている囚人の不敵な面《つら》だましいとか、そのほか多少の根拠はあるに違いない。その他、だれにもせよ徒刑場に近づいて来る人は、この一団の人間が、自分の意志でここに集まったものではないということ、いかなる懲罰の方法を試みても、生きた人間を死骸にすることはできないということ、彼らはどこまでも人間なみの感情、復讐と生活の渇望、情欲、ならびにそれを満足させようという要求を失いはしない、ということを感ずるのだ。しかし、それにもかかわらず、囚人というものは結局、恐れるべきものではないと、わたしは堅く信じている。人間はそうたやすく簡単に、刃物を持って他人にとびかかるものではない。要するに、たとえ危険の可能性があり、ときにそれがじじつ起こったとしても、そういった不幸な場合はまれにしかないから、それはいうに足らぬものであると、ひと口に結論してさしつかえないのだ。もちろん、わたしが今いっているのは、ただ既決囚だけのことである。彼らの多くは、やっとのことで監獄にたどりついたのを、むしろ喜んでいるほどである(新しい生活というものは、時としてそれほどまでに魅力があるのだ!)。したがって、彼らはここに落ちついて、平和に暮らそうというつもりなのである。のみならず、ほんとうに落ちつきのない連中がいても、仲間のものがあまり威張らせておかない。徒刑囚はどんなに大胆不敵な人間でも、監獄へ入ると、すべてのものを恐れるものである。が、未決囚となると、問題が別である。彼らはまったくなんという理由もないのに、漫然と他人にとびかかっていきかねない。たとえば、あすは笞刑を受けなければならない、というだけのことでも原因になるのだ。もし新しい事件が持ちあがれば、刑罰も当然延期になるからである。そこに襲撃の原因もあり目的もある。つまり、是が非でも一刻も早く『自分の運命を変えよう』というのだ。そういった種類の奇妙な心理的な場合を、わたしはひとつ知っている。
 わたしたちの監獄の軍事犯のほうに、兵隊あがりの囚人が一人いた。市民権を剥奪されないで、裁判の結果、二年の刑期で送られて来たのだが、恐ろしいほら吹きで、世にも珍しい臆病者であった。概して、ほら吹きと臆病とは、ロシヤの兵隊にあってはきわめてまれな現象である。ロシヤの兵隊はいつも、おれは忙しいんだぞ、というような顔つきをしていて、よしんばほらを吹きたいと思っても、そんな暇がない、といった具合である。ところが、ほら吹きとなると、それはほとんどつねに、のらくら者の意気地《いくじ》なしに決まっている。ドゥトフ(これがその囚人の苗字《みょうじ》である)は、ようやく短い刑期をおえて、もとの常備大隊に帰った。しかし、すべて懲治のために監獄へ送られる兵隊は、獄内ですっかりだらしなくなってしまうので、たいていは娑婆で二、三週間すごすかすごさないかに、また裁判に引っかかるようなことをして、またぞろもとの監獄へ舞い戻る。しかも今度は二年や三年ではなく、『常連』の仲間に入れられて、十五年か二十年くらい食らい込むのである。この男もそのとおりであった。監獄を出て三週間ばかり経つと、ドゥトフは錠前をこわして盗みを働いたうえ、悪口をはいて暴れたのである。彼は軍法会議に付せられ、厳罰に処せられた。世にも哀れな臆病者の常として、目前に迫った刑罰を居ても立ってもいられぬほど無性に恐れて、いよいよあすは笞を持った兵士たちの列の間を通らなければならぬという前の晩、彼は監房へ入って来た衛兵将校に刃物を持ってとびかかった。いうまでもなく、こんなことをすれば宣告はいっそう苛烈になって、刑期もうんと延びることをよく承知していたのである。しかも、彼が狙ったのはほかでもない、ただの二、三日、いな二、三時間でも、恐ろしい笞刑の瞬間を延ばそうということであった! 彼はよくよくの臆病者だったので、刃物をふるって飛びかかりはしたものの、将校に手傷ひとつ負わせもしなかった。すべてはただ見せかけのためにやったので、新しい犯罪が生じて、そのためにもう一度裁判を受けたいが一心であった。
 笞刑を受ける前の瞬間は、もちろん、被告にとって恐ろしいものである。わたしも数年の間に、この宿命的な日を前に控えた未決囚をずいぶん見て来たものである。わたしはたいてい病院の囚人室でこうした未決囚に出会った。かなりしょっちゅう病気で入院したからである。囚人に対して最も同情ぶかい人間は医者である。それはロシヤ全国のあらゆる囚人たちに知れ渡っている。彼らは、ほとんどすべての人が無意識にやるように、けっして囚人と常人との間に区別をつけない。ただ一般の民衆は例外で、たとえどんなに恐ろしい犯罪をしたにせよ、断じて囚人を責めるようなことをせず、彼らの受けた刑罰といっしょに、その不幸な境遇のために彼らをゆるすのである。ロシヤ全国の民衆が犯罪を不幸と名づけ、犯人を不仕合わせな人たちと呼んでいるのは、あえて偶然でない。これは意味深長な定義なのである。それは無意識に、本能的に下されたものであるだけに、なおさら重大なのである。それはとにかく、医者は囚人にとって、ことに既決囚以上に厳しい取り扱いを受けている未決囚にとっては、真に避難所である……こういうわけで未決囚は、恐るべき日の到来する時期をだいたいめのこ[#「めのこ」に傍点]勘定して、せめていくらかでも苦しい瞬間を延ばそうとして、よく病院へ入るのである。いよいよ退院となると、宿命的な日はあすに迫っていることを、ほとんど正確に承知しているので、たいていのものは激しい興奮のとりこになる。なかには、自尊心のために、そうした感情を隠そうとするものもあるが、まずい付け焼刃のから元気では仲間をだますわけにはいかない。一同はその理由がわかっているので、人情として沈黙を守っている。わたしは最大限の杖刑を宣告された殺人犯の若い囚人を知っていた。彼は恐怖にかられて、その前の晩、嗅ぎたばこを混ぜたウォートカを思いきって飲んでしまった。ついでにいっておくが、未決囚が体刑を受ける前には、いつも酒が出るのであった。それは期日の来るよりずっと前に持ち込まれ、大金を出して買われるのである。未決囚は半年の間、なくてかなわぬものを倹約しながらでも、笞刑の十五分まえに飲む一合の酒を買うために、必要の金を貯め込むのである。一般に囚人たちの間には、酔っていれば笞や棒の痛みをさほど感じない、という確信が存在している。だが、わたしはまたわき道へそれた。この不幸な若者は、たばこを混ぜた酒を飲むと、はたしてすぐさま病気になった。彼は嘔き気を催して吐血までしたあげく、ほとんど意識を失って病院へかつぎ込まれた。この吐血は、すっかり彼の胸を悪くしてしまって、数日ののちにはほんとうの肺病の徴候が現われ、そのため半年ばかりで死んでしまった。彼の肺病を治療していた医者たちは、どうしてそんな病気が出て来たのかわからずじまいであった。
 しかし、刑の前にしばしば見受けられる囚人たちの臆病さを語った以上、わたしはその反対に彼らの中のある者がなみなみならぬ胆力で、傍観者を驚かすことをつけ加えなければならない。わたしはまるで不死身に近いほどの大胆不敵な実例をいくつか記憶しているが、そのような例もさしてまれではないのである。わけても、わたしは一人の恐ろしい犯罪人との邂逅《かいこう》をはっきり覚えている。ある夏の日のこと、脱営兵で有名な強盗のオルロフがその夕方笞刑を受け、そのあとで病院へ運ばれて来るといううわさが、囚人病院の部屋部屋へひろまった。病囚たちはオルロフを待っている間に、この刑罰は手ひどいものに相違ないと断言していた。だれもかれもが多少興奮していたし、わたしも正直なところ、この有名な強盗の出現を極度の好奇心をもって待ちかまえていた。もう久しい前からわたしはこの男について、奇蹟のような話を聞かされていたのである。それは老人や子供を冷然として斬り殺した世にもまれな凶漢で、恐ろしい意志の力を持ち自分の力に対する倨傲な意識を持った人間であった。彼は無数の殺人で罪を問われ、列間笞刑を申し渡された。彼が運ばれて来たのはもう夕方であった。病室の中はもう暗くなって、蝋燭がともされた。オルロフはほとんど気を失っていた。顔はものすごく青ざめて、まっ黒な濃い髪の毛がくしゃくしゃにもつれていた。背中は腫れあがって、紫いろになっていた。囚人たちはひと晩じゅう彼の介抱をして、水を取り替えてやったり、寝返りをうたせたり、薬を飲ましたりなどして、まるで親身の者か、それとも恩人ででもあるかのように看護するのであった。ところが、すぐその翌日、彼はすっかり正気に返って、二度ばかり病室の内を歩きまわったではないか! これにはわたしも舌を巻いた。彼が病院へ運ばれた時には、まったく力抜けがして、ぐたぐたになっていたのである。彼は自分に定められた笞の数を半分まで、一時に受けてしまったのであった。医者が、これ以上刑を続けたら、犯人はかならず死んでしまうと見てとったので、ようやく処刑は中止されたのである。のみならず、オルロフは柄《がら》も小さいし、弱々しそうな体格で、おまけに長いこと未決に入れられていたために、衰えきっていたのである。いつか未決囚に出会った人は、その憔悴《しょうすい》しきった、やせ衰えた、青白い顔と、熱病やみのような目つきとをおそらくいつまでも忘れないだろう。それにもかかわらず、オルロフは見る見るよくなっていった。あきらかに、彼の内部の精神力が、おおいに自然の回復を助けたものらしい。じじつこの男はたしかにありふれた人間ではなかった。わたしはもの好き半分にこの男と親しくして、まる一週間その人となりを研究した。はっきりと断言するが、わたしは一生を通じて、彼ほど強烈な、鉄のごとき性格を持った人間に、かつて出会ったことがない。その前に、わたしは一度トボリスクで、同じような意味で有名な、もと強盗団の首領をしていた男を見たことがある。それはまったくの野獣で、そばに立った人は、まだ相手の名を知らないうちから、自分のそばにいるのが恐るべき人間であることを、本能的に直感したに相違ない。しかし、この男を見てわたしが一驚を吃《きっ》したのは、精神的な鈍感さであった。彼にあっては、肉体が精神的な資質を完全に打ち負かしているので、その顔をひと目見ただけでも、彼の内部に残っているのはただ肉体的快楽と情欲の渇望のみであることが見透かされる。コレーネフ――その強盗の名前――は眉ひとつ動かさずに、人を殺すことができるにもかかわらず、笞刑の前には意気銷沈して、恐怖にふるえたに相違ないと確信する。オルロフはそれとまったく正反対である。それは見るからに、肉体に対する完全な勝利の具象であった。この男はあきらかに、限りなく自己を抑制することができ、あらゆる苦痛や刑罰を蔑視して、この世の何物をも恐れなかったらしい。われわれが彼のうちに見るものは、ただ無限の精力であり、行動に対する渇望であった。復讐に対する渇望と、予定した目的を貫徹しようという意欲であった。なかんずく、わたしが驚かされたのは、彼の奇怪な傲慢さであった。彼はすべてのものをなんだかほんとうにならないほど高みから見下ろしていたが、それはけっして、虚勢を張ろうという努力ではなく、ただ自然にそうなるのであった。思うに、単なる権威をもって彼を動かしうるような者は、この世に一人もいないだろう。自分を驚かすようなものは世界に何ひとつあるものか、といったような、あきれるほど落ちつき払った態度で、彼はすべてのものを眺めているのであった。ほかの囚人たちが尊敬の目で自分を見ていることをじゅうぶん承知していながら、いささかも他人の前で気取ったりなどしなかった。ところが、虚栄心と、から威張りは例外なしに、ほとんどすべての囚人に付きものなのである。彼はなかなか利口者で、けっしておしゃべりではなかったけれど、なんだか妙にあけすけだった。わたしの問いに対して彼は率直に、すこしも早く全快して残りの刑を受けてしまうのを、待ちこがれているということや、はじめ刑を受ける前は、とても持ちきれまいと心配していたことなどを打ちあけた。「しかし今は」彼は片目をわたしにぱちりとしてみせて、こうつけ加えた。「ことはもうすんでしまったのさ。残っている数だけ笞を受けたら、すぐさまほかの連中といっしょにネルチンスクへ送られるんだから、その時おれは途中からずらかるんだ! きっとずらかって見せる! ただこの背中がすこしも早く癒ってくれなちゃ!」そして、この五日間というもの、退院のできる日をじりじりしながら待ちかねていた。そうしていながらも、彼はどうかするとひどく陽気になって、やたらに笑うことがあった。わたしは彼の所業について話をしかけてみた。こういう質問を受けると、彼はちょっと顔をしかめたが、それでもいつもざっくばらんに返事をした。わたしが彼の良心に触れて、何か悔悟の念を見つけようとしているのに気がつくと、彼はさもさも軽蔑しきったような、高慢な目つきでわたしをじろりと眺めた。さながら、わたしが急に一人前の人間として意見をたたかわすに足らない、ちっぽけな、ものの道理のわからぬ子供に変わったかのようなあんばいであった。それどころか、何かわたしに対する憐憫《れんびん》の情とでもいったようなものが、その顔に浮かんだほどである。ややあって、彼はなんの皮肉もない、ごくごく単純な笑いかたで、からからと笑い崩れた。おそらく彼は一人きりになって、わたしの言葉を思い起こした時、幾時間も一人で笑い興じたに相違ないと、わたしは信じて疑わない。ついに彼は、まだ背中が癒えきっていないのに、さっさと退院してしまった。わたしもそのとき同様に退院した。わたしたちは偶然いっしょに病院から帰ることになった。わたしは監獄へ、彼は前から監禁されていたわたしたちの獄舎に近い衛兵所へ行くのであった。別れしなに、彼はわたしの手を握ったが、彼のほうにしてみれば、大変な信頼のしるしなのであった。わたしの思うところでは、彼がそんなことをしたのは、自分自身とその時の情景に満足しきっていたからに相違ない。実際のところ、彼はわたしを軽蔑せずにいられなかったので、きっとわたしのことを意気地のない、弱い、みじめな、あらゆる点について自分より劣った存在のように、見下していたはずである。そのすぐ翌日、彼は第二回の笞刑に引っぱり出された……
 わたしたちの監房が閉めきられると、忽然としてなにか特別な趣きを帯びてきた。それは紛れもない人間のすみ家、家庭の炉辺といったような趣きである。わたしはいまようやくはじめて、仲間の囚人たちをまったく家庭的な気持ちで眺めることができた。昼間は下士とか、将校とか、衛兵とか、一般に役人たちがいつ獄内へ入って来るかわからないので、監獄の住人たちはだれもかれも、妙に違った態度をとっている。じゅうぶんに落ちつくことができないで、二六時中、なにか不安な気持ちで待ち受けているような具合なのだ。けれど、監房の鍵がかかるやいなや、一同はすぐさまめいめい自分の場所にゆったりと陣取って、ほとんど一人のこらず何かの手仕事に取りかかるのであった。監房が急に明るくなる。みんなおのおの自分の蝋燭と燭台を持っているのだ。燭台といっても、たいていは木で造ったものである。あるものはすわり込んで長靴を縫いはじめるし、あるものは何かの着物を仕立て始める。監房内の空気は刻々と悪臭を増していく。道楽者の一団が片隅にうずくまって、そこにひろげた毛氈《もうせん》の上でカルタを始める。ほとんどどの監房にも、二尺足らずの粗末な毛氈と、蝋燭と、あきれ返るほど脂じみてべとべとしたカルタを持った囚人がいる。これだけの道具を総称して、マイダンと呼ぶのである。持ち主は勝負をする連中からひと晩に十五コペイカの損料を取った。それが彼の商売なのである。博奕《ばくち》うちどもはたいて三葉《トリーリスタ》とか、小山《ゴルカ》とかいったような勝負を戦わすのだ。どの勝負もみんな賭けでやるのであった。おのおのの博奕うちは、それぞれ前にひと塊りの銅銭《あかせん》、――つまり自分のふところにあるだけの金を曝《さら》け出して、すってんてんに負けてしまうか、または相手をすっかり裸にしてしまうまでは、けっして席を立たない。この勝負は夜ふけて終わるのだが、時とすると夜が明けて、監房の戸が開く時まで続くこともあった。わたしたちの部屋にも、ほかのすべての監房と同じように、カルタで耗《す》ってしまうか、ありったけ飲んでしまって裸になった文《もん》なしや、そうでなくて生まれつき貧乏性な人間がいた。わたしは『生まれつき』といったが、この言葉にかくべつ意味を含めているのだ。まったくわが国の民衆の間には、いかなる状況、いかなる条件のもとにおかれているにもせよ、かならずいたるところに一種奇妙な人間が存在している、また将来も存在を続けることだろう。彼らは温順で、かなり勤勉であることさえ珍しくないが、そのくせ永久に裸虫でいなければならないような運命を背負っているのだ。彼らはいつも独身者で、いつもだらしのない恰好をして、いつも何かにたたきのめされ、いじめつけられたような様子をしており、年じゅうだれかにこき使われ、だれかに走り使いをさせられている。彼らをこき使うのは、おおむね道楽者か、それとも急に金ができて鼻を高くしたような手合いなのである。すべて人から尊敬を受けたり、自分の甲斐性で物をしたりすることは、彼らにとっては悲しみと苦労の種なのである。彼らはまるで自分では何ひとつことを始めず、ただ他人のご用を勤めて、自分の意志というものを持たずに生活し、他人の笛につれて踊る、ただそれだけのために、この世に生まれて来たかのようである。彼らの使命は他人のいったことを実行するばかりである。かてて加えて、いかなる外部の状況も、いかなる事情の変化も、彼らを富ませる気遣いはない。彼らはつねに文なしなのである。わたしの観察したところによると、こういった人物は民衆の中ばかりでなく、あらゆる社会、階級、党派、雑誌社、会社、などにいるものである。
 すべての監房、すべての獄舎でもこれと同様で、マイダンの開帳が始まるが早いか、そうした手合いの一人がさっそく、用使いに現われて来る。それに、概してこのマイダンというやつは、ご用勤めがなければすまされないのである。彼らは普通博奕うちの組に共同で雇われるのだが、駄賃はひと晩五コペイカぐらいなものである。そのおもな役目というのは、夜っぴて張り番に立つことだった。たいていの場合、彼らは零下三十度というひどい寒さの中を、まっ暗な廊下で六時間も七時間もふるえとおしながら、外のちょっとしたもの音や、微かな響きや、人の足音などに、耳を澄ましていなければならないのだ。要塞参謀や衛兵などは、ときおりかなり夜ふけに監獄へやって来て、そっと入りこんで、カルタをやったり内職をしている連中を押え、無駄な蝋燭を没収することがあった。その光は外からちゃんと見えるのであった。すくなくとも、外から入り口の廊下へ通ずる戸口の錠前が不意にがちゃがちゃ鳴り出したら、もう隠れても、蝋燭を消して寢板へはいあがっても、手遅れなのである。しかし、こういうことがあると、張り番の男はマイダンの連中からひどい目にあうので、こうした失策はごくたまにしかない。五コペイカはもちろん、監獄の標準からいっても、滑稽なほどのはした金であったが、わたしは監房内の雇い主たちが、この場合にしてもその他の場合にしても、つねに厳格で容赦がないのに驚かされた。『金を取った以上、ちゃんと用をしろ!』これがいかなる抗弁をも許さない論拠なのである。雇い主は自分の払ったはした金に対して、できるだけのものを取った。もしできれば、余分のものまで搾《しぼ》り取って、しかも、その上に、自分のほうに貸しがあるような気でいるのだ。金を湯水のように撒き散らす酔っぱらいの道楽者でも、自分の雇った男の勘定はかならずごまかそうとかかる。わたしはこの事実をただ監獄の中ばかりでもなければ、マイダンの場合ばかりでもなく、いたるところで認めたものである。
 監房の中では、ほとんどだれもが何かの手仕事をしていることは、すでに述べたとおりである。博奕うち連を除いたら、まるっきりぶらぶらしている連中は五人となかった。彼らはいきなり寝てしまうのであった。わたしの寝板は戸口のすぐそばに当たっていた。その反対がわには、アキーム・アキームイチが、頭と頭とを向け合うようにして陣どっていた。彼は十時か十一時ごろまでせっせと働いていた。かなりな賃金で町から注文を受けた色さまざまな支那提灯を張っているのだ。彼は提灯づくりの名人で、しかも寸時の休みもなくきちょうめんに働くのであった。仕事が片づくと、きちんとあとを片づけて、自分の蒲団を敷き、神様にお祈りをして、いとも殊勝に、寝床へもぐり込むのであった。このきちょうめんで心がけのいい態度を、彼はせせこましいペダンチズムにまで押しひろめようとしているらしかった。一般に、鈍感で頭の足りない人間の例に洩れず、彼はあきらかに、自分をなみはずれて賢い人間と思っていたに相違ない。わたしは入った当日から、この男が気に食わなかった。そのくせ、この最初の日に、わたしは彼のことをいろいろに考えてみて、こういう人物が世の中で成功しないで、監獄などに入っていることに、何よりもあきれ返ったものである。これから後も、このアキーム・アキームイチについては再三物語ることになるだろう。
 が、わたしは監房ぜんたいの顔ぶれを簡単に述べておこう。わたしはここで、長の年月暮らさなければならなかったのだから、これらはすべてわたしのためには未来の同居人であり、仲間であった。わたしが貪るような好奇心をもって彼らを眺め入ったのは、無理からぬ話である。わたしの寝板の左がわには、コーカサスの山民の一団が陣取っていた。これは大部分、掠奪の罪に問われて、まちまちの刑期でここへ送られたものである。彼らの総数は、レズギン人が二人、チェチェン人が一人、ダゲスタンのダッタン人が三人であった。チェチェン人は陰欝な苦りきった男で、ほとんどだれとも口をきかず、いつも憎悪の色を浮かべて、毒のまじった意地の悪い冷笑を洩らしながら、額ごしにあたりを見まわしていた。レズギン人の一人はもう老人で、長い尖った鷲鼻をしているところなど、見るからに札つきの強盗であった。そのかわり、もう一人のヌーラというほうは、最初の日から、わたしにきわめて喜ばしく懐かしい印象を与えた。それは、まださほど年とっていない男で、背はあまり高くはなかったが、ヘラクレスそこのけの体格をして、髪も眉もまったくのブロンドであり、薄青い目の色をして、鼻の低い様子など、フィンランド人の顔にそっくりであった。以前、のべつ馬に乗っていたために鉤足《かぎあし》をしていた。からだじゅうが銃剣や、鉄砲のたまなどで、一面に傷だらけであった。コーカサスでは帰順した部落に属していたが、年じゅうこっそりと、まだ帰順していない山民のほうへ行って、彼らといっしょにロシヤ人を襲撃していた。監獄ではだれにでも好かれていた。彼はいつも快活で、すべての人に愛想がよく、不平なしに働き、落ちついて朗かであった。もっとも囚人生活の醜悪さにはよく憤慨して、泥棒、詐欺、泥酔、その他すべて不正なことにはひどく腹を立てたが、べつに喧嘩を始めるでもなく、ただ憤然と顔をそむけるばかりであった。自分では徒刑生活の始めから終わりまで、かつて盗みをせず、一度も良からぬ行ないはしなかった。彼はなみはずれて信心深かった。お祈りは神聖なものとして、ついぞ怠ったことがなく、回教の祭日の前などは、まるで狂信者のように、精進潔斎し、幾晩も夜どおし祈り続けた。人々は彼を愛し、その潔白を信じていた。『ヌーラは獅子だ』と囚人たちはいった。そして、この獅子というのが、彼の通り名になってしまった。彼は一定の刑期が終わったら、故郷のコーカサスへ帰してもらえるものと堅く信じて、ただその希望ひとつで生きていた。もしこの希望を失ったら、死んでしまうに違いない、と思われるほどであった。わたしは最初の日から、この男がきわだって目についた。その他の囚人たちの毒々しい、気むずかしげな、嘲けるような顔つきの間にあって、彼の善良な好感をそそる顔は、まったく注意をひかないではおかなかった。わたしがはじめて監房へ入ってから三十分もしないうちに、彼はわたしのそばを通り抜けながら、肩をぽんとたたいて、わたしの目をのぞき込みながら、人のいい笑いを浮かべた。わたしははじめ、それがどんな意味を持っているのか合点がいかなかった。彼はあまりロシヤ語がしゃべれなかったのだ。それから間もなく、彼はふたたびわたしのそばへ寄って、またもやほほえみながら、さも親しげにわたしの肩をたたいた。それから、同じことが幾度もくり返されて、三日ばかりもそういう調子で続いた。その後、自分でも察し、他人からも聞いたところによると、それは彼の気持ちにしてみると、おまえは気の毒なものだ、監獄生活の味を噛みしめるのは、おまえとしてどんなにつらいか察しているぞ、といったわけで、自分の友情を示し、わたしに元気をつけ、これから保護しようという気持ちを証明したいのであった。善良で無邪気なヌーラ!
 ダゲスタンのダッタン人は三人いたが、三人とも血を分けた兄弟だった。そのうち二人はもう中年の男であったが、三番めのアレイは、年のころせいぜい二十二ぐらいで、見かけはそれよりもっと若かった。彼の寝板はわたしの隣であった。彼の美しい、あけっ放しの、賢そうな、同時に善良で無邪気な顔は、ひと目見るなりわたしの心をひきつけてしまった。わたしは運命がわたしの隣人として、ほかのだれでもなくこの少年を送ってくれたことを、心からうれしく思った。彼の魂はその美しい、りっぱなといってもいいほどの顔に、残りなく現われていた。その微笑は、いかにも信じきったもののような、子供らしい単純さを示し、その大きな黒い瞳は、えもいえず柔らかで優しかったので、わたしはいつでもそれを見ていると、一種とくべつな満足を覚えたのみならず、悩みと悲しみの中にあって、胸の軽くなるような気持ちさえしたものである。わたしがこういうのは誇張ではないのだ。まだ故郷《くに》にいた時分、彼の兄が(彼には五人の兄があった、ほかの二人はどこかの工場に入ったのである)、あるとき彼に向かって、剣をとって馬に跨《またが》り、何かの遠征について行くように命じた。山民の家庭では、長上に対する尊敬は絶対なものだったので、少年は、どこへ出かけて行くのかたずねる勇気がなかったばかりか、そんな考えさえも起こさなかった。また兄たちのほうでも、彼にそんなことを教える必要を認めなかった。彼ら一同は追剥ぎに出かけたのである。街道で、ある金持ちのアルメニヤ商人を待ち伏せし、その金を掠奪しようというのであった、それは事実そのとおりに実行された。彼らは護衛のものをみな殺しにし、アルメニヤ商人を惨殺して、その商品を奪ったのである。しかし、この事件はたちまち暴露して、六人のものはいっせいに逮捕されて裁判をうけ、罪状を証明せられ、シベリヤへ懲役に送られた。公判はアレイに情状酌量を与えたが、それはただ刑期の短縮というだけであった。彼は流刑四年の宣言を受けた。兄たちは非常に彼を愛していた。しかも、兄弟の愛というよりは、むしろ父親の愛に近かった。彼は流刑の身の兄たちにとって慰めとなっていた。いつもたいてい陰気な苦りきった様子をしている兄たちが、彼を見かけると、いつもにっこり笑った。彼に話しかけるときなどは(もっとも、彼に話しかけることは、ごくまれであった。まだいつまでも、まじめな相談をするに足りない、子供のように思っているらしかった)、彼らの厳しい顔が、なんとなくもの柔らかになって来た。わたしの察したところでは、彼を相手になにか冗談めいた、ほとんど子供っぽい話をしているらしかった。すくなくとも、彼の返事を聞くと、二人はいつも顔を見合わして、人のいい薄笑いを浮かべるのであった。しかし、彼が自分のほうから兄たちに話しかけることは、ほとんどなかった。彼の長上に対する尊敬は、それほどまでに及んでいたのである。この少年が徒刑の間じゅう、どうしてあれはどの優しい心を持ちつづけ、あれだけの厳格な潔白さと誠実さと同情心を育て上げ、すさみもせず、堕落もしないでいられたのか、想像するだに困難である。とはいえ、彼は見かけの柔和なのにも似ず、しっかりした鞏固《きょうこ》な性質の持ち主であった。わたしはその後、彼の人となりをすっかり知り抜いた。彼は、無垢な少女のように純潔で、だれにもせよ、監房内でいまわしい無恥な、けがれた行ないをしたり、不正な暴力がましい行為に出る者があると、その美しい目には憤りの焔が燃え立った。そのために、彼の目はさらに美しくなるのであった。彼は概して、他人から侮辱されて黙っているような人間ではなく、おのれを守る術《すべ》を心得てはいたけれども、喧嘩口論を避けるようにしていた。しかし、だれとも喧嘩するような種がなかった。だれもかれも彼を愛し、いたわっていたのである。はじめ彼はわたしに対して、ただ慇懃《いんぎん》なというだけであったが、だんだんわたしたちは話しこむようになった。数か月の間に、彼はりっぱにロシヤ語が話せるようになった。ところが、兄たちは長い懲役生活の間に、どうしても習い覚えることができなかったのだ。彼はわたしの目に、きわめて怜悧《れいり》な、しかもなみなみならず謙遜で、思いやりのこまかな少年として映ったのみならず、すでにかなりな批判力を備えた人間のようにさえ思われた。総じて、わたしは前からいっておくが、アレイをなかなか凡ならざる人間と信じているので、彼と出会ったことは、わたしの生涯中でも注目すべき事件のひとつとして、思い起こされるのである。世には、生まれながらにしてこのうえもなく美しい資質を恵まれ、神の恩寵をほしいままにしている人物があって、それがいつか悪いほうに変わっていくかもしれないなどということは、考えることさえ不可能なように思われるほどである。そういう人間については、つねに心を安んじていることができる。だから、わたしは今でも、アレイのことでは、安心しきっているのだ。その彼はいまいずくにいることぞ?
 ある時、入獄してからもうかなり経ったころ、わたしは寝板の上に横たわって、何か非常につらいことを考えていた。いつもよく精のでる仕事好きのアレイは、その時まだ眠るには早い時刻だったが、なんにもしないで、ぼんやりしていた。その時分ちょうど回教徒の祭日に当たっていたので、彼らは仕事を休んでいたのである。彼は両手を頭の上にかって[#「上にかって」はママ]仰向けに寝ながら、やはり何か考えていた。とつぜん彼はわたしに問いかけた。
「どうしたの、今ひどくつらいことでもあるの?」
 わたしは好奇の念をいだきながら彼を眺めた。いつもこまかい思いやりをもっていて、口にすべきことと、そうでないこととを弁えている賢いアレイが、いきなり唐突にこんなことを問いかけたのが、わたしには不思議に思われた。けれど、仔細に見つめているうちに、彼の顔に無量の憂愁と、追憶の苦しみが滲み出しているのを見て、彼自身もこのやるせなさに堪えかねているのだと、すぐさま見抜いてしまった。わたしは彼に自分の推測を語った。彼はほっと溜め息をついて淋しげに笑った。いつも優しく情のこもった彼の微笑が、わたしは好きだった。のみならず、彼は笑うとき、二列に並んだ真珠のような歯を見せたが、その美しさは世界一の美女でさえ羨望を感じるだろう、と思われるほどであった。
「どうだね、アレイ、おまえは今きっとダゲスタンでこの祭をどんなふうに祝っているか、それを考えているに相違ないだろう? あちらはきっといいだろうね」
「ええ」と彼は歓喜を声に響かせながら、答えた。その目はきらきらと輝き出した。「わたしがいまそのことを考えていたのが、どうしてあんたにわかったの?」
「わからないでどうするものか? なにかね、あちらはここよりいいかね?」
「ああ、なぜそんなことをいい出すの!………」
「きっと今ごろは、天国みたいなすばらしい花が咲いてるんだろうね?」
「おお、いっそなんにもいわないで」
 彼はひどく興奮していた。
「ねえ、アレイ、おまえには女の同胞《きょうだい》がある?」
「あるよ、それがどうしたの?」
「さぞ美人だろうね、もしおまえに似ていたら」
「わたしなんか! 姉さんはすばらしい美人で、ダゲスタンじゅうに肩を並べる者がないくらいなんだ。ああ、姉さんはなんて美人だろう! あんな美人はあんたも見たことがないだろう! わたしのおかあさんもきれいな人でしたよ」
「おかあさんはおまえをかわいがってくれた?」
「ああ! なんだってそんな話をするの! おかあさんはわたしのことをつらがって、いまごろはきっと死んじまったに違いない。わたしはおかあさんの秘蔵っ子だったのです。おかあさんは姉さんよりもだれよりも、わたしをかわいがってくれたっけ……きょうもわたしの夢枕に現われて、わたしのことを泣いてくれましたよ」
 彼は口をつぐんで、この晩はそれぎりひと言も口をきかなかった。しかし、それ以来、彼はいつもわたしと話をする機会を求めるようになった。そのくせ、どういうわけか、わたしにいだいている尊敬の念に妨げられて、けっして自分のほうから話しかけようとはしないのであった。そのかわり、わたしのほうから言葉をかけると、大喜びであった。わたしはコーカサスのことや、彼の以前おくっていた生活のことなどいろいろたずねてみた。兄たちも、彼がわたしと話をすることを妨げなかったばかりか、むしろそれをうれしく思っているらしかった。わたしがいやがうえにもアレイを愛するのをみて、彼らもわたしに対してずっと愛想よくなった。
 アレイはわたしの労役を助けてくれたり、監房内でもできるかぎり私用を足してくれた。そして、見受けたところ、多少なりともわたしの荷を軽くし、わたしの意にかなうようにするのが、愉快でたまらないらしかった。わたしに取り入ろうとするこの努力には、いささかの卑下もなければ、何か利益を求めようとする気持ちもなく、ただ暖い友情あるのみで、彼はもはやそれをわたしに隠そうとしなかった。なかんずく、彼はいろいろ機械的才能をもっていた。かなり上手にシャツを縫ったり、靴を作ったりするわざを覚えたが、後には自分の力なりに指物《さしもの》師の職も習った。兄たちは彼を褒め、彼を自慢にしていた。
「ねえ、アレイ」とあるときわたしは彼にいった。「どうしておまえはロシヤ語の読み書きを覚えようとしないんだね? このシベリヤにいたら、あとでどんな役に立つか知れないくらいだよ」
「わたしは習いたくてたまらないんです。でも、だれが教えてくれます?」
「ここには読み書きのできる人間にことを欠きはしないよ! それに、なんだったらぼくが教えてやってもいいよ」
「ああ、教えて、お願いだから!」彼は寝板から腰を持ち上げさえして、わたしを見つめながら祈るように手を合わした。
 わたしたちはさっそく、次の晩から稽古に取りかかった。わたしは露訳の新約聖書を持っていた。――獄内でもこれは禁じられていなかった。初等読本もなく、ただこの本一冊だけで、アレイは数週間の後、りっぱに本が読めるようになった。三か月ばかりも経った時には、早くも完全に文章語がわかるようになった。彼は熱心に夢中になって勉強した。
 あるとき、わたしたちは山上の垂訓をぜんぶ読んだ。その中のいくつかの節を、彼がとくに感情をこめて朗読したのに、わたしは気がついた。
 わたしは彼に向かって、いま読んだところが気に入ったかときいてみた。
 彼はちらっとわたしを見上げたかと思うと、顔をぽっとあからめた。
「ええ、気に入りましたとも」と彼は答えた。「そうですとも、エスは神様みたいな予言者ですね。エスは神様の言葉を話したんだ。なんて素敵だろう!」
「どんなところがいちばん気に入った?」
エスが、『ゆるせ、愛せよ、辱かしめるな、敵を愛せよ』というところです。なんていいことをいったもんだろう!」
 彼は、わたしたちの話に耳を傾けていた兄たちのほうを振り向いて、熱心に何かしゃべり出した。彼らは長いことまじめに話し合っていたが、もっとも、もっとも、というようにうなずいていた。それから、兄たちはしかつめらしい好意をこめた微笑、つまり純回教徒的な微笑を浮かべて(わたしはそれがとても好きである、ほかならぬこの微笑のものものしさが気に入ったのだ)、わたしのほうへ振り向いて、エスは神様の予言者だった、エスは偉大な奇蹟を行なった、粘土で鳥をこさえてふっと息を吹きかけると、鳥はたちまち飛び立った……こういうことがちゃんと自分たちの本にも書いてある、などといった。彼らはこういいながら、エスを褒めるのはわたしを非常に喜ばすことになると、心底《しんそこ》から信じきっているのだった。アレイは、兄たちがこうしてわたしを喜ばそうという気になり、またちゃんとそのとおりにしたのを見て、すっかり幸福になりきっていた。
 書きかたのほうも目ざましい進歩ぶりであった。アレイは紙やペンやインキを手に入れて(彼はそれらのものをわたしの金では買わせなかった)、わずかふた月やそこいらのうちに、りっぱに書くことを覚えてしまった。それはむしろ二人の兄を仰天させたほどである。彼らの誇りと満足は限り知れなかった。彼らはどうしてわたしに礼をしたものか考えがつかなかった。で、もし労役の時、たまたまわたしといっしょに働くようなことがあると、彼らは争ってわたしの手助けをし、それを幸福のように感じていた。アレイのことにいたってはもういうまでもない。彼はおそらくわたしを兄たち同様に愛してくれたことと思われる。彼の出獄の時のことは永久に忘れられない。彼は監獄の裏へわたしを引っぱって行って、いきなりわたしの頸筋にとりすがり、わっとばかり泣き出した。それまで彼は一度も、わたしをこんなふうに接吻したこともなければ、泣いたこともなかったのである。
「あんたはわたしのためにずいぶんいろいろとしてくだすった」と、彼はいった。「おとうさんだっておかあさんだって、あれだけのことはできやしない。あんたはわたしを人間にしてくだすったんだから、神様の報いもあるだろうけれど、わたしも一生忘れはしない……」
 わたしの優しい、なつかしい、なつかしいアレイ、いまおまえはどこにいるのだ、ああ、どこにいるのだ!………
 チェルケス人のほか、わたしたちの監房にはなおポーランド人の一団がいた。彼らはぜんぜん別個の家族を形作っていて、ほかの囚人たちとほとんどつきあわなかった。その排他的態度とロシヤ人の徒刑囚に対する憎悪のために、彼ら自身もみんなから憎まれていたことは、前述のとおりである。それは疲弊しきった病的な性格の持ち主で、数は六人であった。その中には幾人か教養のある連中もまじっていたが、彼らのことはあとで特に詳しく語ることにしよう。わたしも監獄生活の終わりごろに、ときどき彼らから本を借りた。はじめて読んだ書物は烈しい、奇妙な、一種特別の印象をわたしに与えた。この印象についてもいつか特に語るつもりである。それはわたしにとって、あまりにも好奇心をそそるようなもので、多くの人にはぜんぜん理解されないだろうと信じている。ある種の事がらについては、みずから体験しなければ、とやかくいえないものである。ただひとついっておくが、精神的の不自由さは、いかなる肉体的な欠乏にもまして苦しいものである。懲役におもむく下層民は、自分の仲間に入っていくばかりだし、場合によっては一段と発達した社会に入っていくことになるかもしれないほどである。もちろん、彼らは故郷、家族、その他多くのものを失うわけではあるが、環境は依然として同じである。ところが、法によって下層民と同じ刑罰に処せられる教養人は、彼らにくらべて、比較にならぬほど多くのものを失う場合が多い。彼らはいっさいの要求、いっさいの習慣を抹消し尽くし、自分にとってはもの足らぬ環境に移っていき、まるで違った空気を呼吸するように慣らされなければならない……それはまるで、水から砂の上に引き上げられた魚同様である……法律上、万人に共通であるべきはずの刑罰が、彼にとっては十倍も苦しい場合がしばしばである。それは真理なので……彼らが犠牲にしなければならない物質上の習慣だけに問題を限ってみても、そういうことができる。
 しかし、ポーランド人は特別な、よくまとまった一団を作っていた。彼らは六人いて、いつもいっしょになっていた。わたしたちの監房にいる囚人ぜんたいの中で、彼らが愛していたのはただユダヤ人だけであった。それもおそらく、この男が彼らの慰みものになるというだけの理由に過ぎなかったらしい。このユダヤ人は、とはいうものの、ほかの囚人たちにも好かれていた。そのくせ、だれもかれもが例外なしに、彼を笑いぐさにしていたのだ。彼はわたしたちの間ではたった一人のユダヤ人で、わたしなどは今でも彼のことを思い出すと、笑いを禁じることができない。わたしはいつも彼を見るたびに、ゴーゴリの『タラス・ブリバ』に出てくる、ユダヤ人のヤンケルを思い浮かべたものである。これは、夜、自分の女房といっしょに何かの戸棚にはいこもうとして着物を脱ぐと、とたんに雛鶏そっくりの恰好になるという男だが、わがユダヤ人のイサイ・フォミッチも、毛をむしられた雛鶏に瓜二つであった。彼はもう若いというほうではなく、五十前後の小がらな男で、いかにもひ弱そうな、悪ごすい、それと同時に、あきれ返るほどばかなやつであった。図太くて、横柄なくせに、恐ろしく臆病だった。顔じゅうしわだらけで、額と頬には処刑台で捺された烙印がついていた。この男がどうして六十の笞を受けて無事でいられたか、わたしはふつふつ合点がいかなかった。彼は殺人のかどでここへ来たのである。彼はひとつの処方箋をかくしていたが、これは処刑直後に、仲間のユダヤ人たちが医者からもらって、彼に渡したものである。この処方で作った膏薬をつけると、二週間ばかりのうちに烙印が消えるというのであった。この膏薬を監獄の中で用いる勇気はないので、出獄して流刑居住を許されたら、かならずこの処方を利用しようという心組みで、十二年の刑期をじっと待っているのだ。『さもなけりゃ、女房も来てくれてがねえからな』と彼はあるときわたしにいった。『おれあどうしても女房がもらいてえんだ』わたしは彼と大の仲よしであった。彼はいつもごくごくの上機嫌でいた。彼の徒刑生活は楽なものだった。彼はもともと金銀細工師だったので、ちょうど金銀細工師のいない町から注文が殺到し、そのために苦しい肉体労働をのがれていた。彼が同時に高利貸であって、利息なり抵当なりを取って、監獄じゅうの者に金を融通していたのは、申すまでもない。彼はわたしよりもさきに来ていたが、一人のポーランド人が彼の入獄の顛末をくわしく話して聞かせた。それは滑稽千万な物語で、わたしは後段にそれをお話しようと思う。イサイ・フォミッチのことはまだ再三書くことになるだろう。
 わたしたちの監房にいたそのほかの人々は、まず旧教徒でもの知りの老人が四人、その中に、例のスタロドゥボフの村から来た老人がまじっているのだ。それから、陰気な小ロシヤ人が二、三人と、もう八人も人を殺したという、細い顔に細い鼻をした、年ごろ二十二、三の若い徒刑囚が一人、一団の贋金造り(その中の一人は、監房じゅうの愛嬌者であった)、それから最後に、陰欝な気むずかしい数人の人たちであった。頭を剃られて、醜い姿にせられ、むっつりと羨望に満ちた様子をして、憎悪の目で額ごしにあたりを見まわしていたが、これからさき長年の間、――自分たちの刑期が終わるまで、こんなふうにあたりをにらめまわし、むっつりと顔をしかめて、憎悪を振りまくつもりでいるらしい。これらすべては、わたしの新生活の味気ない第一夜に、ただちらと眼前を掠めたに過ぎない、――煙と煤と、悪口雑言と、言葉に尽くせない無恥と、悪臭紛々たる空気と、足|枷《かせ》の響きと、呪詛の声と、いけ洒々《しゃあしゃあ》とした高笑いの中に、ちらと閃いたばかりである。わたしは、むき出しの寝板に横たわって、自分の着物を頭の下に当てがい(わたしにはまだ枕がなかったのだ)、毛皮外套にくるまったが、長いこと寝つかれなかった。そのくせ第一日の奇怪きわまる意想外の印象のためにへとへとに疲れて、全身たたきのめされたようになっていたのである。しかし、わたしの新生活はまだやっと始まったばかりで、前途にはまだかつて考えたこともなければ、想像したこともないような多くのものが、わたしを待ち受けていたのである……

[#3字下げ]5 最初のひと月[#「5 最初のひと月」は中見出し]

 監獄へついてから三日たつと、わたしは労役へ出るように命じられた。この労役の第一日はわたしの記憶に深く刻みこまれた。もっとも、この一日の間には、取りたてて何も異常なことは起こらなかった。すくなくとも、わたしの境遇にあっては、そうでなくてさえ、すべてが異常であったことを考慮に入れるならば、たしかにそういうこともできたに相違ない。しかし、これはなにしろ、わたしの第一印象のひとつだったので、わたしは依然として貪るように見つめたものである。この最初の三日間を、わたしはこの上もなく苦しい気持ちで過ごした。『これでおれの漂泊の旅も終わった。おれは監獄へ入ったのだ!』とわたしはひっきりなしにくり返した。『さきざき長い年月、錨《いかり》をおろさなければならない、これがその港なのだ。これが自分の棲み家になるのだ、今こそおれはこんな狐疑の念と、病的な感触をいだいてこの中へ入っているが……しかし、なんともいえるものか、何年かの後に、ここを見すてなければならないときが来たら、名残《なご》り惜しく思うかもしれないのだ』わたしはいくらか天邪鬼《あまのじゃく》な気持ちで、こうつけ加えた。この気持ちが昂じると、時として、われとわが傷を突っつきたいという要求さえ感じ、自分の不幸の大きさを名残りなく意識するのが、しんじつ快楽ででもあるかのように、自分の痛みを観察して楽しもうとするのだ。時がたつにつれて、この棲み家をなつかしむようになるだろうという考えは、わたし自身をさえぞっとさした。わたしはもうその時から、人間はあきれるほど境遇に順応するものであると予感した。しかし、それはまださきの話で、今のところは、まだわたしの周囲はすべて敵意に満ちてい、――恐ろしかった……もっとも、全部が全部そうではなかったけれども、わたしにそう思われたのは当然であろう。新しい仲間である囚人たちが、わたしを眺めまわすあの不気味な好奇心、忽然として彼らの共同社会に出現した貴族あがりの新米に対する特別きびしい態度、時としては憎悪に達せんばかりの厳しい態度、――これらすべてのものが、わたしにはたまらなく苦しかったので、わたしは自分の不幸をすこしも早く知り尽くし、味わい尽くして、彼らと同じような生活を始め、みんなと同じ軌道に乗ってしまうために、早く労役を始めたいとみずから願ったほどである。もちろん、わたしはまだそのころ多くのことを知らなかったので、自分のつい鼻さきにあることに、夢にも気がつかないでいた。わたしはまだ憎むべきものの間に喜ばしいものが潜んでいることを察しなかったのである。とはいうものの、この三日の間に認めた二、三の優しい愛想のいい顔は、すくなからずわたしを元気づけてくれた。だれよりもわたしに対して優しく愛想がよかったのは、アキーム・アキームイチである。そのほかの囚人たちの気むずかしげな、憎々しい顔の間にも、わたしはやはり幾人かの善良で、快活な顔を見分けないでいられなかった。『悪い人間はどこにでもいるが、その悪い人間の中にも、善人がいるものだ』とわたしは気休めに急いでこんなことを考えた。『もしかしたら、この人たちは、あの監獄の外に残っているほかの人たち[#「残っているほかの人たち」に傍点]より、けっしてひどく劣ってはいないのかもしれない』わたしはそう考えて、自分で自分の考えに首をひねったものであるが、――ああ! この考えがいかに真実であるかを、そのときわたしが知っていたら!
 たとえば、そこにはこんな男もいた。わたしは何年も何年もたって、ようやくその人となりを完全に知ったのだが、そのくせ、彼は監獄生活の間じゅうわたしといっしょに暮らして、ほとんどつねにわたしのそばにくっついていたのである。それはスシーロフという囚人である。いまわたしは、ほかの人に劣らぬ[#「劣らぬ」に傍点]囚人の話を始めるが早いか、すぐさまわれ知らず、この男のことを思い出したのである。彼はわたしの用を足していた。わたしには、そのほかにもう一人用足しの男がいた。アキーム・アキームイチは、わたしが入獄したそもそもの日から、オシップという一人の囚人を紹介してくれた。もし支給される食い物がいやでたまらないようだったら、そして自分で自分のまかないをするだけの資力があったら、この男が月に三十コペイカで毎日とくべつの料理を作ってくれる、とこういうのであった。オシップは四人の炊事番の一人であった。これは、囚人仲間から選挙されて、二か所の炊事場へ割り当てられるのであったが、しかしその推薦を受ける受けないは、まったく当人たちの意思に任されていた。またいったんひき受けても、すぐその翌日また辞退することもできた。こういうわけであるから、炊事番は労役などには出なかった。彼らの仕事はただパンを焼くことと、菜汁《シチイ》を煮ることだけであった。わたしたちのあいだでは彼らのことを炊事番といわないで、おさんどんと女性名詞で呼んでいた。もっとも、それは彼らを軽蔑しているからではなかった。それどころか、炊事番に選ばれるのは、もののわかった、なるべく正直な人間に限られていたのである。ただ罪のない冗談から出たことなので、炊事番たちもいっこう腹を立てなかった。オシップはほとんどいつも推薦されて、何年もぶっとおしにおさんどんを続けていた。ただときどきひどく気がくさくさして、同時に酒を持ち込みたいという物好きな量見を起こした時だけ、一時辞任するのだった。彼は密輸のために食らい込んだにもかかわらず、世にも珍しい正直なおとなしい男であった。それは、すでに述べたことのある、例の背の高い、健康そうな、若い密輸入者なのである。何ごとにつけても臆病であったが、ことに笞刑をこわがっているという調子で、おとなしい、ろくに口答えもしない、だれにも愛想のいい、決して[#「決して」に傍点]人と喧嘩などしたことのない人間であったが、そんな臆病者のくせに、密輸に対する熱情的な本能から、どうしても酒の持ち込みをやらずにはいられなかったのである。彼はほかの炊事番といっしょになって、酒の商売をやっていたが、もちろん、ガージンのように人がかりなやりかたではなかった。つまりあまり、大きな冒険をやるだけの度胸がなかったのである。わたしはこのオシップといつも仲よく暮らしていた。自分の食物を特別に作らせる費用はどんなものかというと、これはまたおそろしく安直なのであった。わたしのひと月の賄いが、全部で銀貨一ルーブリにしかつかなかったといっても、おそらく間違いではないだろう。官から支給されるパンを除くのはいうまでもない。ときおりひどく腹の空いている時には、菜汁《シチイ》も食べた。これはいやでたまらなかったのだけれど、しかしのちにはほとんど平気になってしまった。たいていわたしは日に牛肉を一斤ずつ買った。冬などは、一斤の牛肉が二コペイカなのである。牛肉を買いに市場へ出かけて行くのは、廃兵の中のだれかであった。これはどの監房にも、取り締まりのために一人ずつ置かれているのだが、自分から進んで、囚人たちの買物に、毎日市場へ行く役目を引き受け、ほとんど何ひとつ駄賃を取ろうとしなかった。もし取ってもほんの目腐れ金である。彼らがそんなことをするのは、身の安全のためだった。さもないと、彼らは獄内にいつくわけにはいかなかったろう。こんなふうにして、彼らはたばこ、磚茶《たんちゃ》、牛肉、丸パン、等々を買って来た。ただ酒だけはこの限りでない。囚人たちは、ときおり酒をふるまってはやったけれども、酒買いだけは頼もうとしなかった。オシップは何年かの間ぶっとおしに、いつも同じ焼肉をわたしに作ってくれた。その出来栄《できば》えがどんなかということは別問題だが、それは今の問題ではない。ただ変わっているのは、何年もの間、わたしはオシップと、ふた言も物をいったことがないのである。わたしは幾度も彼に話をしかけてみたが、彼はどういうものか、話の受け答えをする能がなかった。ただにたりと笑って、はい[#「はい」に傍点]とか、いいえ[#「いいえ」に傍点]とか答える、それきりであった。この生まれて七つぐらいにしかならないヘラクレスみたいな男を見ると、奇妙な感じがするくらいであった。
 しかし、オシップのほか、わたしの用を足してくれた人たちの中には、スシーロフもいた。わたしはべつだん彼を招いたのでもなければ、さがし求めたわけでもない。自分のほうからわたしを見つけ出して、わたしの御用掛りになったので、いつそんなふうになったのか、覚えがないくらいである。彼はまずわたしの洗濯物をはじめた。監房の裏には、わざわざそのためにこしらえた大きな下水溜めがあった。この溜めのふちに官費で設けてある槽の中で、囚人たちが肌着類を洗うのであった。そのほかスシーロフは、わたしの御意《ぎょい》に叶うために、数限りない仕事を自分で考え出した。わたしの急須を用意したり、さまざまな用事で飛びまわったり、わたしのために何やかやさがし歩いたりした。わたしの上着を修繕に持って行ったり、毎月四回、長靴を磨きなどしたが、それらのことを、何か大変な義務ででもあるかのように、一生懸命にせっせとやってくれた。ひと口にいえば、彼は自分の運命を、わたしの運命にすっかり結びつけてしまって、わたしの一身に関することを、すべてわが身に引き受けてしまったのである。たとえば『あんたは、シャツが幾枚幾枚ある』とか、『あんたの上着は破けている』などとはけっしていわないで、いつも『わたしたち[#「わたしたち」に傍点]はシャツが幾枚幾枚ある』とか。『わたしたち[#「わたしたち」に傍点]の上着は破けている』というのだった。彼はじっとわたしの目の色をうかがって、それを生涯の最大使命と心得ているらしかった。彼は腕に職というもの、囚人の言葉をかりていえば、手職というものをなんにも持っていなかったので、ただわたしからわずかのはした金をもらっているばかりらしかった。わたしは彼にできるだけのことをしてやった。といっても、ようやく一コペイカ二コペイカの金を払うに過ぎなかったが、彼はいつも文句なしにそれに満足していた。彼はだれかに使われなければいられない人間であった。わたしという人間を選び出したのも、わたしがほかの者にくらべて人あたりがよく、払いがきれいだったためらしい。彼は一生、金持ちになることも、一本立ちになることもできず、例のマイダンの張り番を引き受ける連中の一人であった。厳しい凍《いて》の中を、ひと晩じゅう立ちとおして、もしや要塞参謀が来はしないかと、外で足音のするたびに耳を澄まし、ほとんど夜っぴてこんなことをしながら、やっと五コペイカぐらいの金をもらい、もしうっかり油断したら最後、何もかもふいにしたあげく、笞刑の責任まで負わされるのだ。こうした連中のことは、もう前に話しておいた。彼らの性格的特徴は、つねに、いたるところ、ほとんどすべての人に対して、自分の個性を抹消し、共同の仕事では第二流どころか、第三流の役割しか勤めないことであった。それらはすべて、彼らの持って生まれた性分なのである。スシーロフはじつにみじめな若者で、人に何かいわれても、まるで言葉を返すことのできない、卑下しきった、というより、むしろたたきのめされたような人間であった。そのくせ、ここでだれも彼をなぐるものなどはいなかったのだが、もともと生まれつきからして、たたきのめされたようにできているのだ。わたしはいつもどういうわけか、彼がかわいそうであった。そうした気持ちをいだかずには、彼を眺めることさえできないほどであったが、なぜそんなにかわいそうなのか、ときかれても、わたしは自分でも返事ができなかったに相違ない。この男と話をすることも、やはりできなかった。彼も同様、話べたで、見るからに話をするのに骨が折れるらしかった。で、話を打ちきるために、何か仕事を与えたり、用足しを頼んだり、どこかへひと走り行ってほしいといい出した時、彼ははじめて元気づくのであった。結局、わたしは、このやりかたが彼にとってうれしいのだと、確信するようにさえなった。背は高いほうでもなければ、低いほうでもなく、男ぶりも好くも悪くもなく、ばかでもなければ利口でもなく、若くもなければ年寄りでもなかった。いくらか痘痕《あばた》があって、やや白っぽい髪の毛をしていた。この男については、どうしてもあまりはっきりしたことがいえなかった。ただひとつ、わたしの見たところと推測したかぎりでは、彼はシロートキンと同じ仲間に属する人間だが、それもひとえに、たたきのめされたようなところと、口答えひとつできないような共通の特徴によるのである。囚人たちはときおり彼をからかったが、それはおもに、彼がシベリヤへ護送される途中、身替わり[#「身替わり」に傍点]になったがためなのである。彼は赤いルバシカ一枚と、銀貨一ルーブリで身替わりになったのだが、わが身を売るのに、こんなわずかなものをもらったというところで、囚人たちは彼を冷やかすのであった。身替わりになるというのは、つまり、他人と名前をすりかえ、したがって、運命までも取り替えてしまうことである。この事実はずいぶん奇怪なものに思われるけれども、正真正銘まちがいのない話で、そのころシベリヤへ送られる囚人たちの間には、まださかんに行なわれており、伝統によって神聖化され、一定の形式によって明確なものとされていた。はじめわたしはどうしても、それを信ずることができなかったが、ついに歴然たる証拠を見せられて、信じないわけにいかなかった。
 それはこんなふうにして実行されるのである。たとえば、ある囚人の一隊がシベリヤへ送られているとしよう。そこには種々さまざまな人間がいて、徒刑にやられるもの、工場へ送られるもの、流刑居住を宣告されたものなど、いろいろであるが、これがみないっしょに護送されるのだ。その途中どこかで、まあ、ペルミ県としておいてもいい、流刑囚のだれかが身替わりになってもらいたいという気を起こす。たとえば、殺人犯なりなんなり、重罪を犯したミハイロフ某という男が、長の年月、懲役へやられるのがはなはだわりに合わないと考える。かりにこの男は海千山千のずるい人間で、やりかたをちゃんと心得ているとしよう。そこで、この囚人の中から、なるべく薄ぼんやりで、意気地のない、おとなしそうな、しかも比較的刑の軽そうな男はいないかとさがし始める。あまり長くない期限で工場なり、流刑居住なりへ行く者でなければならない。懲役でさえもかまわないが、ただ刑期はなるべく短くあってほしい。そのうちにとうとう、スシーロフという男が目星をつけられる。スシーロフはもと邸づとめの農奴で、ただ流刑居住にやられるだけなのである。彼はもう千五百露里からの旅をして来たのだが、金はもちろん一コペイカもない。スシーロフはいつにもせよ、びた銭ひとつ持っているはずがないのだ。ただおあてがいの物だけを食べて、ほんのときたまにさえ旨《うま》い物ひとつ口に入れるでもなく、着物といえば囚人服一枚きりで、わずかな赤銭をもらってみんなの用をしながら、へとへとに疲れて旅を続けている。ミハイロフはスシーロフに話をしかけて、近づきになり、友だちづきあいさえ始めるようになる。ついに彼はある宿場で相手に酒を飲ませ、あげくのはてに身替わりにならないかと相談を持ちかける。曰く、おれはミハイロフというものだが、こうこうしたいきさつでシベリヤ送りになったが、懲役というわけじゃなく、『特別監』とかいうところへやられるのだ。もっともそれだって懲役には相違ないが、しかし特別なものだから、したがって、もすこし気の利いた所なのだ。――特別監のことは、この制度が存在していた時分にも、たとえばペテルブルグあたりの長官ですら、みながみなまでは知らなかったほどである。それは、シベリヤの一隅にあるかけ離れた特殊な世界で、人数もきわめて少なく(わたしの流刑時代には、七十人ぐらいしかいなかった)、その所在を突きとめることすら容易ではなかった。わたしはその後シベリヤのことをよく知っている人たちに会ったが、『特別監』の存在については、わたしから聞いたのがはじめてだという人が多かった。法令大全にも、このことはたった六行ほどしか書いてない。『シベリヤニ極悪犯人ノ徒刑場ヲ開設スルマデ、ソノタメ某監獄ニ特別監ヲ設タルモノトス』当の囚人たちでさえ、この『特別監』が無期なのか有期なのか、知らなかったほどである。刑期に規定はなく、ただ極悪犯人の懲役場を開設するまで、と書いてあるばかりだから、当然『ずっと懲役ぐらし』ということになるのである。スシーロフをはじめとして、同じ隊の囚人がだれ一人それを知らなかったのも、無理からぬ次第である。本人のミハイロフでさえご多分にもれず、特別監についてはあまりにも重い自分の罪状から推して、漠然とした観念を持っているに過ぎなかった。なにしろこの犯罪のために、彼はもう三、四千露里の道を歩かされたのだから、結構な場所へやってもらえるはずがない。そこへもって来て、スシーロフは流刑居住なのだから、これほどうまい話はない。『ひとつ身替わりにならんか?』といわれた時、スシーロフは一杯機嫌ではあり、根が単純な性質ではあり、自分に優しくしてくれるミハイロフをありがたいと思う心がいっぱいだったので、きっぱりと断わりきれなかった。のみならず、彼はすでに仲間の囚人から、身替わりということはやればできるので、現にそれをやっている者がいる、という話を聞かされていたので、べつだん、突拍子もないあきれ返るようなことは何もない。そこで話はまとまる。非道なミハイロフは、スシーロフの世にも珍しい単純な性質をいいことにして、赤いルバシカ一枚と銀貨一ルーブリで相手の名を買い取ることにし、証人を前においてそれを手渡しする。翌る日になると、スシーロフはもう酔いがさめているが、またもや酒をふるまわれる。それになんとなく断わるのはばつが悪い。もらった一ルーブリはもう飲んでしまったし、赤いルバシカも間もなく同様の始末になる。いやなら金を返せと来る。が、スシーロフの身の上で一ルーブリという大金をどうして工面ができるものか? 返さなければ囚人仲間が無理にも返させるだろう。仲間というものは、こういうことにかけると厳格なのである。そのうえ、いったん約束をした以上それを果たせ、ということも仲間全体が主張するに相違ない。さもないとひどい目にあうに決まっている。おそらく袋だたきにあうか、それともいきなり殺されてしまうかもしれない。すくなくとも、うんと懲らしめられるのは間違いのないところだ。
 まったくのところ、囚人仲間がただの一度でもこういう場合大目に見すごしたら、名前を取り替えるという習慣もなくなっただろう。もう金を取った後で約束を反古《ほご》にしたり、ちゃんとまとまった取引きをご破算にすることができたら、それ以後だれがそんな約束を実行するものか? 要するに、これは仲間ぜんたいの問題なので、一行の囚人たちは、こういうことに対してきわめて厳格なのである。ついにスシーロフは、もういくら頼んでも無駄だと悟って、きれいに承諾しようと腹を決める。すると、その旨が仲間じゅうに披露され、なおそのうえ必要とあらば、しかるべき筋にも賄いを使ったり、酒も飲ましたりする。護送の兵隊にとっては、地獄の鬼のところへ行くやつが、ミハイロフであろうと、スシーロフであろうと、もちろんなんの変わりもないのだ。とにかく酒も飲んだし、ご馳走にもなったしするのだから、当然、彼らのほうはだんまりである。次の宿場で、たとえば点呼が行なわれる。ミハイロフに番がまわって、『ミハイロフ!』と呼ばれると、スシーロフが『はい!』と答える。『ミハイロフ!』と呼ばれると、今度はミハイロフが『はい!』と叫ぶ。そうして、以後その調子で進むのだ。もうだれもこのことを口に上ぼす者もない。トボリスクで、流刑囚たちはそれぞれ分類される。『ミハイロフ』は流刑居住に、『スシーロフ』は厳重な警護つきで特別監に送られる。こうなってしまったら、もうなんと抗議しても追っつかない。それにまた、じっさいどうして証明することができよう? こんな訴訟事件は、何年ひっぱられるかわかりゃしない! のみならず、何か彼のために有利な証拠が出て来るだろうか? 最後に証人をどこで見つけようというのだ? よしんば見つかったにもせよ、白《しら》を切るに決まっている。こうして、いっさいの結果として残るのは、スシーロフが銀貨一ルーブリと赤いルバシカと取っ替えこで、特別監へ来たという事実である。
 囚人たちはスシーロフを笑っていたが、それも、身替わりになったということではなく(もっとも、楽な仕事から苦しい仕事に変わった者に対しては、すべてへまなことをしたばか者に対する場合と同様、概して軽蔑の念をいだいていたものだが)、そのお礼に赤いルバシカと、銀貨一ルーブリしかもらわなかった、という点を笑ったのである。相場があまりばかげて安すぎるからである。普通身替わりの相場は、比較的の話ではあるが、ずっと高いことになっていた。ときには数十ルーブリで取引きされることもある。けれど、スシーロフはあまり意気地がなく、一人前の人間として扱われないほどつまらない存在なので、なんだかこの男を笑いものにする気にもならないのであった。
 わたしはスシーロフと長いこと、かれこれ二、三年暮らしていた。そのうちに、彼はだんだんとわたしに対してなみなみならぬ愛情をいだくようになった。わたしはそれに気づかずにはいられなかった。で、わたしのほうでもすっかり彼に馴染《なじ》んでしまった。けれど、ある時、――わたしはわれながらゆるしがたいことだと思っているが、彼がわたしから金を取っておきながら、わたしの頼んだことをしてくれなかったので、わたしは惨酷にも彼に向かって、『おい、スシーロフ、おまえは金だけ取っておいて、仕事はやってくれないんだね』といったものである。スシーロフは口をつぐんで、わたしの用事を足しに駆け出したが、なんだか急にふさぎこんでしまった。それから二日ばかり経った。わたしはまさかこれがわたしの言葉のせいではあるまいと思っていた。その時分、アントン・ヴァシーリエフという一人の囚人が、二コペイカか三コペイカの貸金をしつこく彼から請求しているのを、わたしはちゃんと知っていた。おそらく、彼は金がなくって困っているくせに、わたしに無心するのを遠慮していたのだろう。三日めに、わたしは彼に言葉をかけた。『スシーロフ、きみはアントン・ヴァシーリエフに返す金をわたしに借りたいと思っているんだろう! さあ、これを持って行きなさい』その時、わたしは寝板の上にすわっていたし、スシーロフはわたしの前に立っていた。わたしが自分のほうから金を提供したばかりか、彼の困っていることをちゃんと察してやったので、彼はひどくびっくりしたらしい。まして、最近わたしからあまりたくさん金をもらい過ぎたと考えていたので、このうえもらえようなどとは夢にも考えていなかったのである。彼はじっと金を眺め、それからわたしの顔を見たと思うと、不意にくるりと背を向けて外へ出てしまった。それにはわたしもひどく面くらった。わたしは彼の跡を追って行き、監房の裹でその姿を見つけた。彼はうしろ向きになって、監獄の柵のかたわらにたたずみ、杙に頭をぴったり押し当て、その上に片肘をついているのであった。
「スシーロフ、どうしたんだね?」とわたしはたずねた。彼はわたしの顔を見ようともしなかった。驚き入ったことには、彼は今にも泣き出しそうな様子なのであった。
「あなた、アレクサンドル・ペトローヴィチ……」と彼はそっぽを向こうとしながら、途切れ途切れの声でいい出した。
「わっしゃ……金のために……なにするなんて思われちゃ……わ……わっしゃ……えーえ!」
 といったかと思うと、彼は額をこつんと杙にぶっつけるほどの勢いでまた柵のほうへ振り向くと、わっとばかりしゃくり上げて泣き出した!………わたしは監獄の中で人が泣くのをはじめて見た。やっとのことでわたしは彼を慰めた。それ以来、彼は、もしこういういいかたができるとすれば、さらに熱心にわたしの用をつとめ、『わたしの身のまわりに気をつける』ようになった。しかし、ほとんど目にもとまらぬほど微妙な徴候から推して、彼の心はなんとしても、あの咎め立てをゆるすことができないのだ、とこうわたしは結論した。ところが、ほかの連中は、彼を嘲笑し、おりさえあれば皮肉をいってからかい、時には手ひどく罵倒するのであったが、彼はそういう連中と穏やかに仲よく暮らして、けっして腹を立てるようなことはなかった。じっさい、長年つきあった仲でさえも、人をほんとうに見分けるのはきわめて困難なものである!
 こういうわけで、懲役生活というものは、ほんのひと目見ただけでは、後にわかって来たような真の姿で、わたしの目に映ずるはずがなかった。そこで、わたしもいったことだが、あんなに貪るように注意を緊張させて眺めても、つい鼻のさきにあることを見分けられなかった場合が多いのである。はじめの間、比較的大きな、くっきり際立った現象が、わたしの目を見はらしたのは当然である。しかし、それすらも、わたしの受け入れかたが間違っていて、重苦しい、絶望的な、やるせない印象をわたしの心に残したばかりかもしれない。これをさらにいっそう助長したのはA―フとの邂逅であった。これは、わたしよりちょっと前にこの監獄に来た囚人であったが、わたしの入獄当初、とくににがにがしい印象を与えて、わたしを悩ましたものである。もっとも、わたしはこの監獄へ到着する前から、ここでA―フに会うということを知っていた。彼はわたしにとって苦しいこの最初の時期を毒し、わたしの心の悩みを増したのである。この男のことを黙過するわけにはいかない。
 それは人間というものがどこまで堕落し、陋劣《ろうれつ》化することができるか、いかなる程度まで自己の内部にあるいっさいの道徳的感情を殺して、苦痛も悔恨も感ぜずにいられるものかということを示す、最もいまわしい実例である。A―フが貴族出の若い男であって、要塞参謀の従卒フェージカと親しくなり、獄内に起こるいっさいのことをこの少佐に告げ口したことは、もう前にひと口いっておいた。ここで簡単に彼の身の上を述べておこう。彼はどこの学校も卒業せず、その放蕩ぶりにあきれ果てた肉親の人々とモスクワで喧嘩別れをして、ペテルブルグへやって来た。そして、金がほしさに、ある卑怯な密告をやってのけることに腹を決めた。つまり、粗野で淫蕩な本能に対する飽くことなき渇望を、即座に癒そうと思って、十人の人の血を売ることに決心したのである。ペテルブルグとその喫茶店やメシチャンスカヤ街(昔、魔窟として知られた三つの街の名)などに誘惑された彼は、肉体の享楽にすっかり自制心を失って、もともとばかな人間ではなかったのに、気ちがいめいた無意味な仕事を決行する気になったのである。彼は間もなく正体を暴露された。罪もない人々をその密告の巻き添えにしたり、他人を欺いたりしたために、十年のシベリヤ流刑を宣告され、わたしたちの監獄へやって来たのである。彼はまだごく若い身空で、その生涯はようやく始まったばかりであった。ちょっと考えると、このような恐ろしい運命の転変は彼の心を打ち、その本性をよびさまして、転落途上に踏みとどまるなり、方向転換をさせるなりしそうなものであった。ところが、彼はいささかの当惑もなく自分の新しい運命を受け入れ、それに対してなんらの嫌悪の念を感じるでもなく、精神的に憤りを覚えもせず、何ひとつ驚きもしなかった。ただ困るのは、喫茶店や三つのメシチャンスカヤに別れて、働かなくてはならないということぐらいのものだった。彼の目から見ると、徒刑囚という名はいっそう彼の手足を自由にして、もっとひどい陋劣な、けがらわしいことをやらしてくれるもののように思われた。『徒刑囚はなんといったって、徒刑囚に違いないんだから、徒刑囚になった以上、もう卑劣なことをしたって恥ずかしくない』これが文字どおり彼の意見であった。わたしはまれに見る現象として、このけがらわしい男のことを思い起こすのである。わたしは数年の間、人殺しや、放蕩者や、札つきの悪党の間にまじって暮らして来たが、このA―フほど道徳的に堕落しきった、放蕩無慚な、厚顔卑劣な人間には、今までかつて出会ったことがないと、はっきり断言できるのである。わたしたちの仲間には、貴族出身の親殺しが一人いた。この男のことはもはや話しておいたが、この男でさえA―フよりは潔白で人間らしいということを、多くの点から見、多くの事実に照らして確信したほどである。わたしの監獄生活の始終を通じて、A―フはわたしの目から見ると、歯と胃の腑をもった肉の塊かなんぞのように思われた。それはこのうぇもなく粗野な、野獣のような肉体的享楽に対して、飽くことを知らぬ貪欲さを備えており、そうした欲望のうちで最も気まぐれな、いうに足らぬほどの小さな一部分を満足させるためには、冷然と落ちつき払って人を斬ったり殺したり、その他ありとあらゆることを平気でやってのけるのだ。ただ犯跡をくらましさえすればよいのである。わたしはけっして誇張などしていない。わたしはA―フをよく見きわめたのだ。それは、人間の肉体的な一面が内部的になんらの規準、なんらの法則にも抑制されなかった場合どこまで行きつくか。ということを示す一つの実例であった。彼が絶え間なく浮かべている嘲けるような微笑を見ると、わたしは胸がむかむかして来た。これは一個の怪物であった、道徳上のカジモト([#割り注]ユーゴー著『ノートルダム・ド・パリ』に現われる傴僂の矮人[#割り注終わり])であった。そのうえに、彼が狡猾で、知恵があり、男前がよくて、いくらか教育さえも身につけており、才能を持っている、というようなことを付け加えてみるがいい。いや、こんな男が世の中にいるよりは、むしろ火事のほうがましである。疫病や飢饉のほうがましである。前にも述べたとおり、監獄内では何もかもが頽廃しきっていたので、スパイや密告がさかんに行なわれていたが、囚人たちはいっこうそれに腹を立てないのであった。それどころか、みんなはA―フと非常に親しくして、わたしたちに対するのとはくらべものにならないほど、隔てのない態度を取っていた。しかも、酔っぱらいの少佐が彼に愛顧を示していたことは、人々の目から見て、彼に一種の価値と重みを与えたのである。ある時、何かのついでに。彼は肖像画が描けると少佐に広言をはいた(囚人たちに向かっては、彼は近衛の中尉だったといいふらしたものである)。少佐は、彼を自分の家へ仕事によこすように要求した。もちろん、少佐の肖像を描くためである。そのとき、彼は従卒のフェージカと昵懇《じっこん》になったが、これは自分の主人になみなみならぬ勢力を持っており、したがって、獄内のすべての者に対して権力を握っていたのである。A―フは少佐自身の要求で、わたしたちのスパイをしたにもかかわらず、少佐は酔っぱらって彼の頬っぺたをぶんなぐる時など、彼をつかまえて犬とか、告げ口野郎とかいってののしったものである。どうかすると、というよりむしろ頻繁に、少佐は彼をぶんなぐったすぐ後で椅子に腰をかけ、肖像画を続けろと命ずるのであった。わが少佐はどうやら本気になって、A―フがうわさに聞いたことのあるブルューロフにも劣らぬほどの、えらい画描きだと思い込んでいたらしいが、それでも、彼の横面をひっぱたく権利があると確信していた。なぜなら、相手はよしんば芸術家であるにもせよ、現在、徒刑囚に相違ないし、そっちがブルューロフの十倍からえらいにもせよ、こっちはなんといっても上官なんだから、したがって、なんでも好きなようにすることができるのだ、こういったような気持ちなのである。とにかく、彼はA―フに自分の長靴を脱がせたり、寝台から便器を運び出させたりしていたくせに、A―フが大画家であるという考えを長い間すてかねていた。肖像画は果てしもなく続いて、一年になんなんとした。ついに少佐は一杯食わされたと悟った。肖像画は完成するどころか、かえって一日一日と自分に似なくなるのを、はっきり確かめると、かんかんになって腹を立て、画家をさんざんなぐったあげく、罰として監獄へ送り返し、人夫仕事をさせるように命じた。A―フはいかにもそれが残念な様子であった。暢気に過ごした日々や、少佐の食卓からちょうだいしたおあまりや、親友のフェージカや、彼と二人で少佐の家の台所で考え出した楽しみの数々が、なかなかに諦めきれないのであった。すくなくとも、少佐はA―フを遠ざけるとともに、Mという囚人を目の敵にするのをやめてしまった。A―フはこの囚人のことをたえず讒訴《ざんそ》していたが、それはこういうことである。A―フが入獄したとき、Mはたった一人ぼっちでくよくよしていた。彼はほかの囚人たちとなんの共通点もなく、恐怖と嫌悪の念をもって彼らを眺め、彼らの中に妥協点を見分けるだけの力がなく、いっさい人づき合いをしないでいたのである。ほかの連中も同様に、憎悪をもって彼にむくいた。概して、Mのような人の獄内における立場は恐ろしいものであった。MはA―フが投獄された原因を知らないでいた。むしろその反対に、A―フは相手がどんな人間かということを察すると、すぐさまMに向かって、自分が流刑になった理由は密告などとはまったく反対のものであって、Mとほとんど同じ理由によるものだといって相手を信じこませた。Mは自分に仲間ができ、親友が現われたことをひどく喜んだ。彼はA―フの入獄当時、さぞ苦しいだろうといって、いろいろ彼のめんどうをみ、慰めの言葉をかけ、なけなしの金をやり、ご馳走を食べさせ、なくてはかなわぬ品物さえ分けてやった。しかし、A―フはたちまち彼を憎みはじめた。というのは、相手が潔白な人間で、すべて卑劣な行為を恐怖の目をもって眺めるというふうで、自分とはまるっきり似ても似つかない人間だからである。で、Mが以前おりおりの世間話に監獄仲間や少佐についていったことを、A―フは大急ぎで機会を見て、要塞参謀に残らず伝えてしまったのである。少佐はそのためにおそろしくMを憎んで、虐待しはじめた。もし要塞司令官が楫《かじ》を取らなかったら、一大事に立ちいたったかもしれないほどである。その後、Mが彼の卑劣な行為を知った時にも、A―フはいささかも狼狽する色がなかったばかりか、かえって彼と顔を合わせ、冷笑の目で相手を眺めるのが愉快そうなくらいであった。あきらかに、彼にとっては、それが享楽になるらしかった。Mなどは自分で幾度も、それをわたしに指摘したくらいである。この卑劣な人非人は、その後ある囚人と一人の警護兵といっしょに脱走を試みたが、その話は後まわしにしよう。彼ははじめのうち、わたしが彼の経歴を知らないと思って、一生懸命、わたしに取り入ろうとした。くり返していうが、彼は入獄当時のわたしの生活を毒して、いちだんと憂欝なものにしたのである。わたしは自分が転落して来て、いつの間にかそのまっただ中におかれた世界の恐るべき陋劣さと、卑屈さにぎょっとしてしまった。わたしは、ここでは何もかもが同じように陋劣で、卑屈なのに相違ないと思った。が、それは間違いであった。わたしはA―フを標準にして、すべての人を律しようとしたのだ。
 わたしはこの三日間、憂愁に閉ざされながら獄内を歩きまわったり、寝板の上に横になったりしていた。またアキーム・アキームイチの教えてくれた信用のできる囚人に、官から支給された布《きれ》でシャツを縫わしたり(もちろん、仕立て賃を払うのだが、それはシャツ一枚について何コペイカというようなものであった)、同じくアキーム・アキームイチのたっての勧めにしたがって、折り畳みのできる煎餅のように薄い敷蒲団(毛氈くずを布で包んだもの)と、羊毛をつめた枕を注文した。この枕は不慣れなために、ひどく固いように思われた。アキーム・アキームイチはわたしのために、こうした品々を整えるのに、やっきとなって心配したばかりか、自分でもひと役買って出て、古い官給品のラシャの切れっ端で、手ずから掛蒲団を縫ってくれた。それは、着古した上着やズボンを、ほかの囚人たちから集めて、それを継《は》ぎ合わしたものである。官給品は、一定の期限が過ぎると、当の囚人のものとなった。すると、たちまち監獄内で売買されるのであった。どんなに着古したものでも、とにかく、いくらかの値段で手離す望みがあったのだ。わたしはそういったすべてのことに、はじめのうちひどく驚いたものである。概して、これはわたしが民衆とぶっつかった最初の時期なのである。わたし自身も忽然として、彼らと同じ下層民、彼らと同じ囚人になったのだ。彼らの習慣、概念、意見、風習、それらのものも同様に、わたしのものとなったようなあんばいである。心底からそれらのものをわかち合っていたわけではないが、すくなくとも形式から見たところでも、法律からいってもそうだったのである。わたしは前にそうしたことを夢にも知らず、何ひとつうわさにも聞いたことがないかのように、びっくりもすればまごつきもした。そのくせ、ちゃんと知ってもいたし、話にも聞いていたのである。が、現実というものは、知識や風説などとは、まったく別な印象を与えるものである。たとえば、古い着破った衣類などが、やはり商品として通用するなどということを、前にわたしは一度でも考えたであろうか? ところが、現にわたしはそうしたぼろきれで掛蒲団を作ったではないか! 囚人服に指定されたラシャが、どんな種類のものであったか、判定することは容易でない。見たところそれはまったくラシャに似ていた。厚い兵隊用のラシャである。が、ほんのちょっと着ているうちに、まるで網みたいになってしまって、癪にさわるほどびりびり破れるのであった。もっとも、ラシャの服は一年の期限で支給されたが、その期間だけどうにか持ちこたえていくのは、骨の折れる仕事であった。囚人はしじゅう労働をして重いものを担ぐのだから、服はじき磨り切れて、べりべりと裂けてしまう。毛皮外套は三年間ということで支給されたが、たいていその期開じゅう着物にもなったり、掛蒲団にもなったり、敷物にもなったりしながら、どうやら満足でいるのであった。毛皮外套は丈夫だったとはいうものの、三年の終わりごろになると、つまり、期限の切れる時分になると、ただのきれで継ぎ当てをした毛皮外套を着ているのを見かける場合も、珍しくはなかった。それほどひどく着古されていても、一定の期限が満ちると、四十コペイカぐらいで売り買いされた。あまり傷《いた》まないでいるものだったら、六十コペイカか七十コペイカにさえなることがあった。それは、監獄内ではなかなかの大金なのである。
 ところで、金は、――このことはもう前にいったが、――監獄内ではすばらしい意義と、力をもっているのであった。徒刑に来て、たといいくらかの金でも持っている囚人は、無一文のものより十倍も苦しみが少なかった、それはきっぱり断言ができるのである。もっとも、無一文の囚人でも、ご同様、官給品で万事保証されているのだから、なにも金など持つ必要などないではないか、と当局の人たちは考えている。が、またしてもくり返していう、もし囚人が自分の金をもつ可能性をことごとく奪われてしまったら、彼らは気が狂うか、蠅のように死んでしまうか(あらゆる点で生活を保証されているにもかかわらず)、さもなければ、前後未曾有の悪事を働きはじめるに相違ない。あるものは憂愁に堪えかねての結果であり、あるものは一刻も早く刑罰をうけてわれとわが身を滅ぼすか、あるいは『自分の運を変える』か(これは監獄内の術語である)、二つに一つという気持ちになるからである。囚人はほとんど血の汗を流しながら、わずかなはした金を手に入れたり、またそれを手に入れるために、ひととおりならぬ奸計をめぐらし、しばしば窃盗や詐欺さえも働くことをいとわないくせに、子供のように無考えに分別もなく金を浪費するが、それはけっして彼らが金を大切にしない証拠にはならない。一見したところ、そういう感じがするけれども、囚人は金に対しては、理性のくらむほどめちゃめちゃに貪欲なものである。なるほど散財の時など湯水のように金をまき散らしはするが、それは金よりさらに一段尊いと信じているもののためにまき散らすのである。では、何が囚人にとって金よりさらに尊いのか? それは自由である、さもなくば、自由を思うなにかはかない、夢みたいなものである。囚人は非常な空想家である。このことはまたあとでちょっと語ろうと思うが、話のついでに、ひとついっておきたいことがある。わたしは二十年[#「二十年」に傍点]の刑期で流刑に処せられた人たちを見たことがあるが、彼らは、ほかならぬわたしに向かって、たとえばこんなことを落ちつき払っていうのである。『まあ、すこし辛抱して、もし運があって、刑期を終えたら、その時は……』こういう話を他人ははたしてほんとうにするだろうか? 『囚人』という言葉は、自由のない人間を意味するのだが、金を使う時には、彼らはもはや自分の意志[#「自分の意志」に傍点]で行動するわけである。よしんばどんなに烙印を捺され、足枷をはめられ、見るも憎らしい監獄の柵に自由の世界から押し隔てられて、檻の中のけだもの同然に閉じこめられていようとも、彼らは厳に禁ぜられている享楽、すなわち酒を手に入れることもできれば、ちょいとくらい女を抱くこともでき、ときには(これはいつでもというわけにはいかないけれども)、いちばん手ぢかな役人である廃兵どころか、下士官までも買収して、囚人が法律や規則を破るのを見て見ぬふりをさしておくこともできる。なおそのほか、買収したうえ、役人たちにから威張りをして見せることさえできるのだ。ところで、囚人はこのから威張りというやつが大好きなのである。つまり、自分は見かけよりもずっと余計に意志と権力があるということを、ほんの一時なりとも[#「一時なりとも」に傍点]仲間の前で見せつけたり、自分自身に信じさせたりしたいのである。要するに、思う存分飲んで騒ぎ、暴れまわり、だれか他人をめちゃめちゃにやっつけて、自分はこういうことがなんでもできる、こんなことは『おれたちの胸三寸にあるのだ』ということを証明したいのだ。つまり、貧乏人が夢にも考えられないようなことを、自分で自分に信じさせることができるのである。ついでながら、しらふの時でさえも、から威張りや、自慢や、幻のようにはかないものではあるが、自分をえらく見せようとする、滑稽で、無邪気な傾向が、囚人たちの間に見受けられるのも、あるいはこのためかもしれない。最後にもうひとつ、こうした散財さわぎにはそれ自身危険が伴なう。してみると、そこにはなにかしら生活の幻影がある、はるか遠いものながら、自由の幻影がある。ところで、自由を得るためには、人間いかなる価をも惜しみはしない。どんな百万長者であろうとを、繩で首を締められたら、ただひと吸いの空気のために、数百万の財産をぜんぶ投げ出さない者はないだろう。
 ある囚人が、何年もの間おとなしい模範的な生活をして来て、その方正な品行のため囚人頭にさえ抜擢されながら、不意にぜんぜんこれという動機もなく、――まるで魔物にでも憑《つ》かれたように悪ふざけを始め、酔っぱらい騒ぎをやり、乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いて、時としては、いきなり刑法に触れるような犯罪をしたり、あるいは上長官に対してあからさまに不敬を働いたり、人殺しをしたり、強姦したりなどすることがあって、当局の人たちを驚かすものである。みんなそれを見てあきれているが、だれよりもそんなことをしそうにない男に、この思いがけない爆発が起こった原因は、ほかでもない、痙攣に達するほど悩ましい個性の発現であり、自分自身というものに憧れる本能的な悩みであり、おのれの卑しめられた個性を発揮しようという欲望であるかもしれない。それが忽然と現われて、憎悪と、狂憤と、理性の没却と、発作、痙攣にまで達したのである。それは、おそらく生きながら墓の中に葬られた人間が、ふと生き返って棺の蓋をたたきながら、自分の努力はしょせん徒労に終わるということを、理性でははっきり承知しながら、蓋を押しのけようともがいているのにも譬《たと》えられよう。しかし、この場合、問題は理性どころの話でなく、要するに、痙攣なのである。なおそのほか、囚人が自分勝手に個性を発揮することは、ほとんどいかなる場合でも罪悪と見なされているので、そうなってみれば、大きく発揮しようと小さく発揮しようと、当人にとっては当然五十歩百歩である、こういうことも頭に入れておかなければならない。酔っぱらって騒ぐなら、うんと騒ぐ、冒険をやるなら大きく出て、人殺しでもなんでもやってのけるのだ。ただ皮切りさえしてしまえばいいので、やがて酔いがまわると、もう止めることさえできなくなってしまう! こういうわけで、そこまで行かせないように百方手を尽くすのが一番だ。そうすれば、みんなが静かに落ちついていられる。
 まさにその通りである。が、それにはどうしたらいいのか?

[#3字下げ]6 最初のひと月(つづき)[#「6 最初のひと月(つづき)」は中見出し]

 わたしは入獄の時いくらかの金を持っていた。没収される恐れがあったので、手には少々ばかりしか持っていなかったが、万一の場合のためにかくしておいた。というのは、監獄へも持ちこむことのできる福音書の表紙の中に、幾ルーブリか貼り込んでおいたのである。この金を貼り込んだ書物をわたしに贈ってくれたのは、トボリスクに住んでいる人たちであった。彼らは同じく流刑の苦しみをなめたばかりでなく、すでに数十年の歳月をもって自分の刑期を数えているので、久しい前から、すべての不幸な人々を、自分の同胞のように考え慣れているのであった。シベリヤには、まったく私利私欲を離れて『不幸な人々』を兄弟のように世話して、あたかも生みの子ででもあるかのごとく同情し心痛することを、自分の生涯の神聖な使命としているかのように見える人々が、ほとんどつねに幾人かいて、いかなる時でも絶えることがない。わたしはここで簡単に、あるひとつの邂逅《かいこう》を思い起こさずにはいられない。わたしたちの監獄のある町に、一人の婦人が住んでいた。ナスターシヤ・イヴァーノヴナという寡婦である。もちろん、わたしたちはだれ一人として在獄中は、彼女と親しく知り合うわけにはいかなかった。彼女は流刑囚の力になることを、生涯の使命としていたらしかったが、だれよりもいちばんわたしたちのことを心配してくれた。彼女の家庭内にも何か似よりの不幸があったのか、それとも彼女の胸にとってとくに親しいかけ替えのない人が、同じような犯罪で苦しんだのか、いずれにしても、彼女はできるだけのことをわたしたちのためにするのを、何かとくべつ幸福なことでもあるように思っていた。彼女はもちろん、たいしたことはできなかった。きわめて貧しい身の上だったのである。けれども、わたしたちは獄内に閉じこめられていながら、自分たちに信頼しきっている友が監獄の外にあるのだと感じていた。さまざまな心尽くしの中にも、彼女はわたしたちの待ち焦れていた消息をよく知らせてくれた。わたしは出獄して、よその町へ行くとき、ちょっと彼女の家へ立ち寄って、親しく彼女と相知ることができた。彼女は、町はずれに住んでいる近い親戚のもとに身を寄せていた。若くもなければ年寄りでもなく、きれいでもなければ醜くもなかった。それどころか、利口なのか、また教育があるのか、それさえわからないのであった。ただ彼女の一挙一動で目に映るのは、底の知れない善良さであった。わたしたちの気に入るようにしたい、わたしたちをすこしでも楽にしてやりたい、ぜひとも何か気持ちのいいことをしてやりたいという、やむにやまれぬ願望であった。それがことごとく、彼女の静かな優しい目つきの中に見えているのだ。わたしは監房の仲間といっしょに、ほとんどひと晩、彼女のもとで過ごした。彼女は一心にわたしたちの目を見つめて、わたしたちが笑えばともに笑い、わたしたちのいうことなら、なんでも大急ぎで相槌を打つのであった。そして、何はなくともあり合わせのもので、わたしたちをもてなそうと気をもんだ。お茶、前菜《ザクースカ》、なにかしら甘いものが出た。もし彼女に何千ルーブリという金があったら、ただわたしたちをもっと喜ばせ、監獄に残った仲間を楽にしてやることができるという、ただそれだけの意味で喜んだに相違ない。別れるときに、彼女はたばこ入れを持ち出して、わたしたちにひとつずつ記念として贈ってくれた。そのたばこ入れは、彼女がボール紙を貼って作ったものである(その手ぎわがどんなふうであったかは、いわぬが花であろう)、その上から、ちょうど小学校の算術帳の表紙に使うような色紙をべったり貼ってあった(もしかすると、ほんとうに何かの算術帳を使ったのかもしれない)。二つのたばこ入れは、きれいに見せるために、金紙でつくった笹べりをぐるりに貼りつけてあった。これはおそらく、彼女がわざわざ店へ買いに行ったものだろう。「あなたがたはそうしてたばこをお喫いになるんですから、これでもひょっとしたらお役に立つかもしれませんものね」と彼女はまるで、自分の贈り物を詫びでもするように、おずおずといった……ある人たちの説にしたがえば(わたしは自分で聞きもしたし読みもした)、同胞に対する最高の愛は、同時に最大のエゴイズムでもあるというが、いったいそこにどんなエゴイズムがあるのか、ほとほと合点がいかない。
 わたしは入獄のさいにけっして、大金を持参していたわけではないが、囚人の中のある人たちの行為に、心底から腹を立てる気にはなれなかった。彼らはわたしの監獄生活のほとんど最初の数時間に、早くもわたしをだまして、このうえもない無邪気な態度で、一度ならず二度三度、なかには五度くらいも金を借りに来たものである。しかし、ただひとつ正直に打ちあけるが、こういう無邪気な狡知をいだいた人たちが一人の例外もなく、わたしをおめでたい間抜け扱いにしていたらしい、しかも、なぜかというと、わたしが四度でも五度でも彼らに金をやったからである、それがわたしにはいまいましくてたまらなかった。彼らはまさしく、わたしが彼らのごまかしや奸策に、まんまと乗ったような気がしたに相違ない。だから、もしわたしがあべこべにぽんとはねつけて、彼らを追っ払ってしまったら、彼らはずっとわたしを尊敬するようになったろうと確信する。しかし、わたしはどんなにいまいましく思っても、やはり断わることができなかった。わたしがいまいましく思ったのは、ほかでもない、その最初の数日の間、監獄内でこれらの人々に対してどういう立場をとったものか、というより、どんな立場をとるべきであるかを、一生懸命、まじめに考えていたわたし自身なのである。わたしは、この環境がすべて、自分にとって新しいものであること、自分がまったくの暗闇に置かれていること、暗闇の中では長い年月を暮らすわけにいかないということを、感じもすれば理解もしていたので、それに対する準備をしなければならなかった。もちろん、わたしはまず第一に、内部の感情と良心が命令するとおり、率直に行動しなければならないと決心した。しかし、わたしはそれが単なる箴言《しんげん》に過ぎないのであって、自分の行く手には、なんといっても、意想外きわまる実践が現われるに相違ないことを承知していた。
 こういうわけで、前にも述べたとおり、主としてアキーム・アキームイチの指導によって、獄内にちゃんと落ちつくために、いろいろ細かい心遣いもし、またそのおかげでいくらか気が紛れたにもかかわらず、心を噛むような恐ろしい憂愁が、いよいよわたしを苦しめるのであった。『死の家だ!』わたしはときおり日暮れがたに、監房の入り口階段の上から、監獄の狭い内庭を大儀そうにぶらつきまわっている囚人たちを見ながら、こう独りごちた。彼らはもう仕事から帰って来て、監房から炊事場へ、炊事場から監房へと、あちこちしているのであった。彼らの様子にじっと見入りながら、わたしはその顔つきや動作によって、これはそもそもどういう人間なのか、またどんな性格を持っているのか、それを突きとめようと努力した。わたしの前をうろつきまわっている囚人たちは、額に八の字を寄せている連中か、さもなくばあまり度はずれに陽気な手合いであった(この二つの種類が、最も多く獄内に見受けられたが、それがほとんど徒刑囚の特徴なのである)。彼らは悪態をつき合ったり、あるいはただ話を交わしたりしていたが、なかにはたった一人きりで、何かもの思いにでも沈んでいるように、静かにゆるゆると散歩しているものもあった。またあるものは、疲れきった興味のなさそうな様子をしているし、あるものは(こんなところでさえも!)帽子を横っちょにかぶり、毛皮外套を肩に羽織り、人を食ったずるそうな目つきをし、厚かましいあざ笑いを浮かべながら、高慢ちきな、えらそうな様子をしている。これがすべておれの環境なのだ、おれのいまの世界なのだ、――いやでも応でもこの中で暮らさなければならないのだ……と、わたしは考えた。
 わたしは、アキーム・アキームイチにいろいろとたずねて、彼らのことをくわしく知ろうとこころみた。わたしは一人きりになりたくなかったので、このんでこの男といっしょに茶を飲んだものである。ついでにいっておくが、このはじめのころには、お茶がわたしにとって唯一の食物だったのである。アキーム・アキームイチは、お茶によばれると辞退しないで、一時Mから借りたおかしげな形をした、手製の、小さなブリキのサモワールを自分で沸かしてくれた。アキーム・アキームイチはたいていコップに一杯しか飲まなかった(彼はコップもいくつか持っていたのである)。黙って行儀よく飲んでしまうと、礼をいって返し、すぐさまわたしの掛蒲団の仕上げに取りかかった。しかし、わたしの知りたいと思うことを、何ひとつ知らせることができなかったばかりか、なんのためにわたしが自分たちに近い徒刑囚たちの性格について、これほど特殊な興味をいだくかというわけを、理解することさえできなかった。そして、わたしの記憶にいつまでも残っている、妙にずるそうな微笑さえ浮かべながら、わたしの言葉を聞いていたものである。いや、これはどうやら人にたずねたりしないで、自分で体験しなければならないらしい、とわたしは思った。
 四日めに、このまえわたしが足枷を付け替えに行った時と同じように、囚人たちは朝早く、監獄の門際にある衛兵所の前の広場で二列に整列した。その前とうしろには、兵士らが弾丸を装填して、銃剣をつけた鉄砲をかついで整列した。前列の連中は、囚人たちのほうに向いていた。彼らは、囚人が逃げ出そうとしたときに発砲する権利を持っていた。が、せっぱつまった必要がないのに火蓋を切ったら、その発砲に対して責任を問われるのだ。徒刑囚たちが公然と一揆を起こした場合にも同様である。しかし、だれがおおっぴらに逃げ出したりするものか! そこへ指導官の工兵将校と、同じく工兵の下士と兵隊が幾人か現われ、現場監督が出て来る。点呼がすむと、裁縫工場へ行くひと組の囚人は、真っ先に出発する。工兵の将校や下士たちは、この組には関係がない。彼らはもともと監獄のために働いて、囚人たちの仕着せを縫うのであった。つづいて各工場へ行く組が出発し、そのあとから、普通の荒仕事に行く連中の番になるのだ。ほかの二十人ばかりの囚人の中にまじって、わたしも出かけることになった。要塞の外を流れている凍った河に、二艘の官有の艀《はしけ》があった。もう用に立たなくなったので、せめて古材木でも無駄にしまいというわけで、それを解体しなければならないのであった。ただし、この古材木は、見受けたところ、たいした値打ちがないというより、ほとんどなんの値打ちもなさそうであった。薪は町でごく安く売っていたし、森はまわりにいくらでもあった。こんなところへさし向けるのは、ただ囚人たちが手をつかねて、ぼんやりしていないために過ぎないので、囚人たち自身もそれをよく承知していた。こういう仕事にかかる時には、彼らはいつも気のない、だらけた様子をしていた。ところが、仕事そのものが筋道の通った意味のあるものだと、――とくに願い出て請負仕事にしてもらえるような時には、話はまったく別であった。そうなると、彼らはさながら何か魂でも吹き込まれたようになって、そのためになんの利益があるというわけでもないのに、すこしも早くりっぱに仕上げようと精根を尽くすのである。わたしはそれを自分で見た。そういう時には、なんとなく自尊心さえも手伝うのであった。が、ほんとうの必要というよりも、むしろ形式のために当てがわれる今のような仕事になると、請負制度にしてもらうわけにいかないで、午前十一時に帰還の太鼓が鳴るまで、ずっと働きとおさなければならない。それは暖い霧の立ちこめた日で、ほとんど雪が溶けんばかりであった。わたしたちの一隊は、かすかに鎖の音を立てながら、要塞外の河岸へおもむいた。鎖は着物の下へかくされてはいたけれども、やはり一歩ごとに細く鋭い金属性の音を洩らすのであった。二、三人の者が別れて、兵器庫へ必要な道具を取りに行った。わたしはみんなといっしょに歩いて行ったが、なんとなく元気づいたようにさえ思われた。いったい労役とはどんなものか、一刻も早く見、かつ知りたかったのである。囚人の労役とはどんなことをするのだろう? また自分は生まれてはじめての労働を、どんなふうにやるだろう?
 わたしは細かいことまで詳しく覚えている。途中で、わたしたちはあご鬚を生やしたある町人に出会った。彼は立ちどまって、ポケットに手を突っ込んだ。わたしたちの組の中から、さっそく一人の囚人が列を離れて、帽子を脱ぎ、喜捨――五コペイカの金を受け取ると、身軽に仲間のほうへ引き返した。町人は十字を切ってそのまままた歩みを続けた。この五コペイカはその朝のうちに早くも丸パンに換えられ、わたしたちの仲間ぜんたいに等分されてしまった。
 この囚人の一団は、概して気むずかしい口数の少ない連中と、つまらなそうな張りのない顔をした連中と、大儀そうに仲間同士でしゃべり合っている連中と、この三種に分かれていた。なかに一人、なにやらおそろしくうれしそうな様子で、陽気に歌などうたい、ひと足ごとに足枷をがちゃがちゃ鳴らしながら、道々ほとんど踊り出さんばかりであった。それはあまり背の高くない肉づきのいい囚人で、わたしが入獄した最初の朝、顔を洗う時に相手の男が口から出まかせに自分のことをカガンだなどと生意気なことをいったのに腹を立てて、水のそばで喧嘩をおっぱじめた当人なのである。このやけにはしゃぎ出した男は、スクラートフとよばれていた。最後に、彼は何か侠《いな》せな歌をうたい出したが、わたしはその中の囃子の文句を覚えている。

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わしのいぬ間に嫁が来た
わしは水車場《こなば》で稼いでた
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 あいにくバラライカのないのが、もの足りないくらいなものである。彼の桁はずれに陽気な気分は、もちろん、すぐさま仲間のあるものに憤慨の念をよびさまし、ほとんど侮辱にさえとられかねまじい有様だった。
「唸り出しやがった!」と一人の囚人が、非難をこめてこういったが、そのくせ、この男にはなんの関係もないのであった。
「狼は歌をひとつきゃ知らねえが、やつはそれを覚えて来やがったのさ、あの猫背野郎がよ!」と陰気仲間の一人が、小ロシヤ訛りでいい出した。
「おれはまあ、猫背だってかまやあしねえが」とスクラートフはさっそくやり返した。「おめえはお国のポルタワで、小麦団子《ガルーシカ》([#割り注]小ロシアの国民的食物[#割り注終わり])を喉に引っかけて、あやうく死に損いやがったじゃねえか」
「うそつけ! てめえこそ何を食ってやがったんだ! 草鞋で菜汁をすすっていやがったくせに」
「ところが、今じゃ、鬼に鉄砲玉でも食らわしてもらってるような面をしてけつからあ」ともう一人が口を出した。
「おれはな、兄弟、ほんとうのところ華奢に育って来た人間でな」とスグラートフは、まるで自分が華奢に育ったのを後悔でもするように軽い溜め息をついて、とくにだれということなしに、みんなのほうを向いて答えた。「まだほんの餓鬼《がき》の時分から、ロンドン舶来の白パンや黒梅なんかで煽《おだ》てられて来たものだからな(つまり育てられて来たことなのである。スクラートフは、わざと言葉を訛らすくせがあった)、だからおれの血を分けた兄弟たちは、今でもモスクワに店を持っていて、素通り横町で風をあきなってらあな、大金持ちの商人でな」
「じゃ、おめえはなんの商売をしていたい?」
「そりゃ種々さまざまなことをやって来たよ。つまり、その時よ、兄弟、おれがはじめて二百もらったなあ……」
「そりゃいってえ二百ルーブリかね?」と一人、好奇心の強いのが、そういう金高を耳にすると、ぶるっと身震いさえしながら言葉尻を押えた。
「いんや、ちがうよ、ルーブリじゃねえ、笞だよ。ルカ、おい、ルカ!」
「ルカなんていうのは人によりけりで、てめえなんかルカ・クジミッチ様と呼ばなきゃなんねえだ」と鼻の尖った、小がらなやせた囚人が、いやいや返事をした。
「そんなら、ルカ・クジミッチ、いまいましいが仕方がねえ」
「ルカ・クジミッチなんていうなあ、人によりけりだ、てめえなんかおじさんと呼ぶのが当たり前だ」
「ちえっ、てめえなんかおじさんもくそもあるもんか、口をきいてやるのももってえねえくれえだ! いい話をしてやろうと思ってたんだがなあ。さて、そこでな、兄弟、そういうわけで、おれあモスクワにも長くいられなかったのさ。とうとう、おしめえに、笞を十五くらって、おっぽり出されてしまったよ。で、おらあ……」
「いってえ、なんでおっぽり出されたんだい?」と、正直にその話を聞いていた一人の男が、こうさえぎった。
「女郎屋へ行っちゃいけねえ、おみきを飲んじゃいけねえ、博奕を打っちゃいけねえ、とこう来やがったのさ。それで、おれあモスクワで、ほんとうに金を貯める暇がなかったのさ。そのじつ、金持ちになりたくって、なりたくってたまらなかったんだけどなあ。どんなに金持ちになりたかったか、とても口にいえるもんじゃねえ」
 多くの者はきゃっきゃっと笑った。スクラトトフは頼まれもしないのに、気むずかしやの仲間を浮き立たしてやるのを自分の義務と心得ている陽気者、というより、むしろ道化《どうけ》の一人らしかった。が、もちろん、その駄賃には、悪口以外てんで何ひとつもらえるものではなかった。彼は特殊な注目に値いするタイプに属していたが、これについてはまた話す時があるかもしれない。
「なあに、いまだって、黒貂《くろてん》のかわりに、てめえをぶち殺すことだってできるよ」とルカ・クジミッチが口を入れた。「なにしろ、着てるものだけでも、百ルーブリがとこあるからな」
 スクラートフはすっかり着古して、いたるところ継ぎ剥ぎだらけの、古色蒼然たる毛皮外套を着ていた。彼はかなり平然たる様子をしながらも、注意ぶかくそれを上から下まで見まわした。
「そのかわり、頭が高くつくぜ、兄弟、頭がよ!」と彼は答えた。「モスクワとおさらばをする時にも、頭がおれといっしょについて来てくれるのが、せめてもの慰めだったよ。さよなら、モスクワ、気ままに暮らさしてくれてありがとう、笞を食らわしてくれたことも礼をいうよ! 小気味よくぴしぴしとやってくれたなあ! おい、おめえ、おれの毛皮外套を、なにもそうじろじろ見ることはありゃしねえ……」
「それじゃ、てめえの頭でも見ろっていうのけえ?」
「なに、野郎のその頭だって、自分のものじゃありゃしねえ、施しもんだあ」とルカがまたからんで来た。「ほかの囚人といっしょにここへ来る時、チュメンでお慈悲に恵んでもらったのよ」
「おめえ、なにかい、スクラートフ、腕に職でもあったのかい?」
「なんの、職なんかあるもんかい! ただの案内役だったのさ、片輪の手引きをしたり、やつらの小銭を運んだりしてよ」と仏頂面をした一人がいった。「野郎の職てえのはそれくらいが関の山だ」
「おらあほんとのとこ、長靴を縫ってみようと思ってな」とスクラートフは、皮肉な半畳には耳をかさないでこう答えた。「やっと一足だけ縫い上げたよ」
「どうだ、買い手はあったかい?」
「ああ、どうやら神様も恐れなけりゃ、親父もお袋も眼中にねえって野郎が、一人舞い込みやがって、神様の罰でとうとう買って行ったよ」
 スクラートフのまわりにいた者は、だれもかれも腹をかかえて笑いころげた。
「それからあとでもう一度、ここへ来てから仕事をやったよ」とスクラートフは、やたらに落ちつき払って言葉を続けた。「中尉のスチェパン・フョードルイチ・ポモールツェフの靴に、表革を縫いつけてやったんだ」
「それで、どうだったい、気に入ったかね?」
「いや、兄弟、お気に入らねえのさ。ひどい雷さまを落とされて、おまけに尻を膝でうんと蹴上げられたよ。そのものすごい怒りようったらなかったぜ。ああ、おらあ自分の一生にだまされたんだ、懲役人の暮らしなんて、こんなはずじゃなかったのに!」


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やがてしばらく待ってるうちに
アクリーナの亭主が外へ出た……
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 と、だしぬけに彼はまたもや声たかだかと歌い出して、おどりあがるように足拍子をふみ出した。
「ちょっ、だらしねえ野郎だ!」とわたしのそばを歩いていた小ロシヤ人が、毒々しそうな侮辱の表情で横目ににらみながらぶつぶついった。
「役立たずの野郎よ!」ともう一人が、断案を下すようなまじめな調子でいった。
 わたしはなぜみんながスクラートフに腹を立てるのか、ふつふつ合点がいかなかった。概して、陽気な連中はだれもかれも一様に、多少軽蔑されたような具合でいるのに、わたしは最初の数日から早くも気がついたが、それはいったいどういうわけだろう? 小ロシヤ人をはじめ、その他の連中の怒りっぽさは、彼らの性質なのだろう、とわたしは思っていた。しかし、それは性質ではなかった。スクラートフに控えめなところがなく、表面を取り繕った厳めしげな品格というものがないので、そのために腹を立てたのである(この見せかけの品位を自慢するということは、監獄じゅうの全部の者がペダンチスムに近いほどしみ込んでいる風習であった)、ひと口にいえば、この男が囚人たちのいいぐさによると、『役立たずの人間』であるがために、みんな憤慨するのであった。しかし、陽気な連中でもみながみなまで、スクラートフやそれに似寄りの連中のように、他人から怒られたり、こっぴどく扱われたりするわけではなかった。それは個人個人のおのれを持する態度いかんによるのであって、人がよいばかりで工夫のない人間は、すぐばかにされるのであった。これにはわたしも一驚を吃したほどである。ところが、陽気な連中のなかにも、うまく相手に食ってかかって、なかなかひけを取らないようなものもいた。そういった人間は、自然ほかの者から尊敬された。いまこの一団の囚人の中にも、こういった鼻っ柱の強い男が一人いた。がんらい、すこぶる陽気な、愛嬌のいい男であったが、わたしがこの男のそうした一面を知ったのは、ずっとのちのことである。押し出しのいい、堂々とした体格で、頬に大きな疣《いぼ》があって、ひどく剽軽《ひょうきん》な顔つきをしていたが、それでもなかなかいい男前で、気働きのあるらしい人間であった。彼はもと土工兵隊に勤めていたので、土工兵と呼ばれていた。いまは特別監に収容されている。この男のことは、またさきでいろいろ話さなければならない。
 もっとも、『まじめな連中』でもみながみな、小ロシヤ人のように怒りっぽくて、他人が浮かれるのを憤慨してばかりいるわけではない。監獄には第一の優位と、各種の知識と、頓知と、意気地と、才知を狙っている連中が幾人かいた。それらの多くは、じじつ、利口で意地のある人間だったので、自分たちの狙ったものをほんとうに獲得するのであった。つまり、第一の優位と、仲間の者に対する精神的影響を、まんまと手に入れるのだ。こうした利口者たちは、おたがいの間では概してかたき同士で、その一人一人が大勢の敵を持っていた。その他の囚人たちに対しては、威厳のある態度をとり、寛大なふうさえ見せるのであった。無用の争論などは始めようとせず、上官の気受けもよく、仕事の時には監督然とした様子をしているし、たとえば、歌をうたったからといって、人に絡んでいくような者は一人もいない。そんなつまらないことにかかずらうのは沽券《こけん》にかかわる、といったわけである。わたしの在監中、みんなじつに丁寧にあしらってくれたけれど、あまり口数をきかなかった。これもやはり、品位を守ろうという気持ちから出たものらしい。これらの人々についても、いずれくわしく話す機会があろう。
 やがて河の岸についた。下を見ると、河の中に一艘の古い艀《はしけ》が凍りついていた。これを取りこわさなくてはならないのだ。河の向こう岸には、曠野が蒼然とひろがっていた。愛想もこそもない荒涼とした景色である。わたしはみんながいきなり仕事に飛びかかるものと思っていたが、そんなことはだれ一人考えていないのであった。なかには、河岸《かし》に転がっている丸太の上に、悠然と腰をおろすものもあった。ほとんどだれもが、長靴の中からたばこ入れを引っぱり出した。一斤三コペイカで葉のまま市場で売っている土地出来のたばこが、刻んで入れてあるのだ。それから、小さな手製の楊《やなぎ》の吸い口のついた短いパイプが取り出される。やがてパイプをぷかぷか吹かしはじめる。警護兵はわたしたちをぐるりと取り巻いて、さもさも退屈そうな様子で見張りをはじめた。
「この艀をぶっこわすなんて、いってえだれが考えだしたんだ?」と一人のものがだれにいうともなく、独り言のようにつぶやいた。「こっぱでもほしくなったのかな」
「おれたちを怖がらねえ連中が考え出したのよ」ともう一人がいった。
「あの百姓どもはどこへ練って行くのかな?」
 と、はじめに口を切った男が、しばらく黙っていたのち、前の問いに返事をしたのには、もちろん、耳もかさないで、真新しい雪の上を一列に連なってどこかへ歩いて行く百姓の群を、はるかに指さしながら、こうたずねた。一同はもの憂げにそのほうに顔を向けて、所在ないままに、この一群を笑いぐさにしはじめた。一番うしろからついて行く一人の百姓は、長細い筒形の百姓帽子をかぶった頭を横にかしげ、いとも滑稽な様子で両手をひろげながら、よちよちと歩いていた。その姿が白い雪の上に、はっきり完全に浮き出していた。
 「おい、ペトローヴィチ兄哥《あにい》、どうだろう、あのよちよちしている恰好はあ!」と一人が百姓訛りを真似ながらいった。ここに注意すべきは、自分たちが大半百姓出のくせに、概して、百姓をいくらか見くだすようにしていたことである。
「どうだみんな、一番うしろの奴さんは、まるで大根でも植えるような恰好をして歩いてるじゃねえか」
「あれは頭の固いやつで、金をしこたま持っていやがるに相違ねえ」とまた別の一人がいった。
 一同は笑い出したが、やはり妙に大儀そうな笑いかたであった。かれこれしているうちに、パン売りが一人やって来た。さばけた元気のいい女房である。
 この女から先ほどの喜捨の五コペイカで丸パンを買い、その場でみんなきちんと分けた。
 監獄の中でパンを売っている若者が、二十ばかり仕入れたが、おまけのパンのことで、いつも決まっているように二つでなく、三つにしろといって強《こわ》談判を始めた。けれども、パン売り女はうんといわなかった。
「ふむ、それじゃ、あれはよこさねえのか?」
「このうえ何をくれっていうのさ?」
「そら、例の鼠も食わねえしろものよ」
「ちょっ、この助平野郎!」と女房は黄色い声で叫ぶと、きゃっきゃっ笑い出した。
 やっと現場監督の下士が、笞を持って姿を現わした。
「やい、なんだってのうのうとすわり込んでいるんだ? 仕事を始めろ!」
「そんなことをいったって、イヴァン・マトヴェーイチ、請負いにしておくんなさいよ」と『頭領《かしら》気取り』でいる連中の一人が、のろのろとおみこしを上げながらいった。
「じゃ、なぜさっき組割りの時そういわなかったんだ? 艀をばらせよ、それが請負仕事だ」
 とどのつまり、一同はしぶしぶ腰を上げて、不承不承に足を引きずりながら、河へ下りて行った。このひと組の中には、すぐさま幾人か『監督』が現われた。すくなくとも、口先だけではたしかにそうであった。よく聞いてみると、艀は出たらめにぶちこわすのではなく、できるだけ木材を害《そこ》なわないようにしなければならない、とのことであった。ことに、木釘で舟底に打ちつけられている継ぎ目なしの縦丸太は、いっそう大事にしなければならなかった。――時間を食う退屈な仕事である。
「ほら、まず何よりもさきに、この丸太を引っぺがさなくちゃならねえんだ。さあ、かかろうぜ、みんな!」と、今までだんまりでいた口数の少ない静かな若者が、監督や頭領気取りの仲間ではなく、平の人夫のくせに慨を入れた。そして、身を屈めて、太い丸太を両手にかかえて、人が手伝ってくれるのを待っていた。しかし、だれもこの男に手を貸そうとはしなかった。
「へん、それを持ち上げる気なのけえ! おめえなんかに持ち上げられるもんか、おめえの祖父さんの熊公が手伝いに来たって、それだって持ち上げられやしねえ!」とだれかが歯と歯の間から押し出すようにぼやいた。
「じゃ、兄弟、いったいどこから手をつけたらいいんだい? おりあさっぱりわかんねえ……」と出しゃばり者は面食らって、丸太から手を離し、立ちあがりながらいった。
「この仕事がよ、何から何までやってしまえるもんじゃねえ……なにを出しゃばりやがるんだ?」
「三羽の鶏に餌をやるのさえ、満足にできねえくせに、一人前の面をして、真っ先に飛び出すなんて……このおっちょこちょいめ!」
「なあに、兄弟、おれあ別に……」と度胆を抜かれた若者はいいわけをした。「おれはただ、その……」
「おい、どうしたんだ、きさまたちは袋でもかぶせてもらいたいというのか? それとも、冬まで囲《かこ》っておくように、塩漬けにでもしてほしいのか?」と監督の下士は、どこから仕事に手をつけていいかわからないでぼんやりしている二十人の一団を、困ったものだというような目つきで眺めながら、またこうどなった。「さあ、始めろ! 早く!」
「早く早くたって、これより早くはできっこねえよ、イヴァン・マトヴェーイチ」
「だって、きさまはなんにもしておらんじゃないか! おいサヴェーリエフ! 饒舌漢《ラズガヴォール》・ペトローヴィチ! おれはきさまにいってるんだぞ、何をぼんやり突っ立って、油を売ってやがるんだ!………始めろ!」
「でも、おれ一人で何かできるっていうだ?………」
「いっそ請負仕事にしておくんなせえ、イヴァン・マトヴェーイチ」
「請負仕事はだめだというたじゃないか。艀をすっかりばらしてしまったら、家へ帰ってもよろしい。さあ、始めろ!」
 一同はやっと仕事に取りかかったが、さも気が乗らないようにだらけきって、手ぎわの悪いやりかただった。この頑丈な元気盛りの労働者の一同が、どこから手をつけたらいいかわからないで、まごつききっているらしい様子を見ると、いまいましい気持ちがして来るくらいだった。ようやく一番小さな縦材の取りはずしにかかるが早いか、もろくも折れてしまうのであった。「しとりでに折れやがるんで」というのは監督に対するいいわけだった。してみると、こんな仕事ぶりではだめなのであって、なんとか別のやりかたでなければならない理屈だ。ほかのやりかたといって、どういうふうにしたらいいのか、それについて、長いこと囚人たちの間で相談が続けられた。それが次第に悪口のつき合いになり、騒ぎが大きくなりそうな気配になったのは、いうまでもない……監督はまたもやどなりつけて、鞭を振りまわした。けれど、縱材はまた折れてしまった。とどのつまり、手斧が足りないし、それにまだ何かの道具を持って来なければならない、ということがわかった。そこでさっそく、二人の若者に護衛をつけて、要塞へ道具を取りにやった。それを待っている間、ほかの連中は悠々と艀の上に腰をおろし、めいめいパイプを取り出して、またぞろ一服やり始めた。
 監督はとうとうぺっと唾をはいた。
「ちぇっ、きさまたちにかかったらいつ仕事が始まるかわかりゃしない! やれやれ困った連中だ!」と彼は怒りっぽい声でぼやきながら、手をひとつ振って、鞭を振りまわしながら、要塞のほうへ行ってしまった。
 一時間ばかり経つと、指導官がやって来た。落ちつき払った態度で、囚人たちのいいぶんを聞き終わると、縱材をもう四本取り出すことを請負いにしてやるといったが、ただし折らないで、完全に取り出さなければならない、そのうえに、艀をあらまし分解してしまわなければならない、そうしたら、はじめて家へ帰ってもよろしいと申し渡した。この請負いは大仕事であったが、しかし、いやはや、みんながそれに取りかかった意気込みは、たいしたものであった! 今までの大儀そうな様子はどこへ行ったのか、とほうに暮れたような顔つきはどこへ隠れたのか! 手斧が丁々と響き出して、木釘は片っ端から抜かれていった。そのほかの連中は、太い棒を下に当てがって、五人ばかり一時にそれをこじ上げながら、元気に手ぎわよく縱材をはずしにかかった。わたしの驚き入ったことには、縱材は今度はすこしも傷をつけられないで、きれいにそっくり取り出されたのである。仕事はどんどん捗《はか》がいった。みんながとつぜん、目に見えて利口になったような具合である。よけいな口はすこしもたたかず、悪口も飛び出さず、一人一人のものが、自分のいうべきこと、なすべきこと、立つべきところ、注意すべきことを、ちゃんと呑み込んでいるのであった。太鼓の鳴るちょうど三十分前に、請負仕事は片づいた。囚人たちは疲れてはいたものの、すっかり満足しきって家路についた。そのくせ、定めの時間より、わずか三十分かそこいら儲けたばかりなのである。しかし、自分のことについていうと、わたしは一つの特質的な事実を認めた。仕事の間にわたしがみんなの手伝いをしようと思って、どこへ顔を突っこんでも、わたしはいたるところ邪魔者なのであった。どこへ行っても、ほとんどどなりつけんばかりの勢いで、追い払われるのであった。
 ご当人からしていちばん役に立たない働き手、ほんのすこしでもはきはきしてもののわかったほかの囚人たちの前へ出ると、ぐうの音も出ないような、屑の屑とされているやくざ者でさえ、わたしがそのそばに立ちどまると、邪魔になると称して、どなりつける権利があるように心得ていた。最後に元気のいい囚人が、むきつけにぞんざいな調子でいった。
「どこへ出しゃばりなさるんだ、あっちへ行っていなせえ! 頼まれもしねえのに、何も出しゃばることはありゃしねえ」
「袋の中の鼠だな!」ともう一人はさっそくひき取った。
「それよりおめえ、お布施箱でも持って」とさらに一人がいった。「お堂を建てる金を集めるなり、お香を立てる金を寄せるなりするがいいや。こんなところでおまえのすることは何もありゃしねえ」
 わたしは一人離れて、立っていなければならなかった。が、みんなせっせと慟いているのに、一人ぽつんと立っているのは妙に気がとがめた。けれども、わたしがほんとうに群を離れて艀の端に立った時、いきなりみんながわめき立てるのであった。
「やれやれ、なんていう働き手をおっつけられたもんだ。あんな男といっしょに何ができるもんでえ? なんにもできっこなしよ!」
 これらはもちろん、わざというのであった。それがみんなの気晴らしになるからである。もとの貴族にから威張りをしてみずにはいられなかったので、彼らはもちろん、好機逸すべからずとしたのである。
 前にもすでにいったとおり、わたしが監獄へ入るとき何よりも第一に、自分はどういう態度をとるべきか、これらの人人に対して、おのれをいかなる立場に置くべきかと自問したのは、今になってみると、まことにもっともな次第である。わたしはもうその時から、きょう労役で体験したような衝突が、これからしばしば起こるだろうと予感したのである。しかし、たとえどんな衝突があるにもせよ、そのころすでにある程度まで考えておいた行動計画を変更しまいと決心した。わたしは、その計画の正しいことを知っていたのだ。ほかでもない、できるだけ率直な独立不羈の態度をとって、とくに彼らと接近したいという努力を毛筋ほども見せまい、しかし、彼ら自身が接近を望むなら、それを斥《しりぞ》けもしまい、と決心したのである。彼らの威嚇や憎悪を露おそれることなく、なるべくそれに気がつかないようなふりをすることだ。またある二、三の点では、けっして彼らと接近せず、彼らの習慣やしきたりのあるものをいたずらに大目には見まい。――ひと口にいえば、みずから求めて、完全に彼らの仲間入りをしないことだ。もしそんなことをしたら、彼らのほうがまず第一にわたしを軽蔑するだろうということを、ひと目見るなり推察してしまった。とはいえ、彼らの考えかたからいくと(わたしもそれを後日、正確に知ったのだが)、わたしはなんといっても、彼らの前で自分の貴族出身であることを忘れないようにして、それを大切にして見せなければならない。つまり、お上品らしくかまえて、気取ったり、彼らを毛ぎらいしたり、なんでもかでも鼻の先であしらったりして、白手《ベルロチカ》の本領を発揮しなければならないのであった。彼らは貴族なるものを、まさしくそのようなものと解していたのである。もちろん、わたしのそうしたやりかたをののしりはするだろうが、それにしても、腹の中では尊敬の念をいだくに相違ない。しかし、そういう役割はわたしには不向きであった。わたしは彼らの考えているような貴族ではけっしてなかった。そのかわり、自分の教養と思想の形態を貶《おと》しめるような譲歩は、断じてしまいと決心した。もしわたしが彼らに取り入ろうとして、彼らにへつらったり相槌を打ったり、馴れ馴れしい態度をとったり、彼らの好感をかちうるために、彼らのさまざまな『性情』に迎合するような真似をしたら、彼らはわたしが恐怖と臆病心のためにそういうことをするのだと思って、たちまちわたしに侮蔑の態度をとるだろう。A―フはわたしの手本にはならなかった。彼は少佐のところへ出入りしていたので、かえってみんなが彼を怖がっていた。また一方からいうと、わたしはポーランド人たちのように、人を寄せつけない冷やかな礼儀の面をかぶって、彼らを敬遠したくもなかった。ところが、今こそはっきりわかったけれど、彼らはわたしがお上品らしくかまえたり、気取ったりしないで、みんなといっしょに働こうとしたために、わたしを軽蔑しているのである。後日、彼らがわたしに関する意見を一変しなければならないのを、間違いなく見抜いてはいたものの、いま彼らがわたしを軽蔑する権利を持っているかのような態度をとり、わたしのことを労役のとき、彼らに取り入ろうとしたのだと思い込んでいる、こう考えると、わたしは情けなくてたまらなかった。
 午後の仕事を終わって、わたしがへとへとに疲れて監房へ帰って来ると、恐ろしい憂愁のとりこになった。『これからさき、まだこんなふうな日が幾千日続くのだろう』とわたしは考えた。『いつもいつも同じような日が!』
 もう黄昏《たそがれ》近いころ、わたしはただ一人、無言のまま監房の裏手の柵に沿って、さまよい歩いていた。と、不意にわたしのほうへまっすぐに走って来るシャーリックの姿が見えた。シャーリックは、よく中隊の犬、砲兵隊の犬、騎兵隊の犬というのがあるように、わたしたちの監獄の犬であった。もういつとも知れぬころから、この監獄に住んでいて、だれのものともつかず、みんなを自分の主人と思って、炊事場の余りもので養われていた。それはかなり大きな白と黒の斑犬《ぶち》で、利口そうな目をし、ふさふさとした尾を持った、まだあまり年をとっていない番犬であった。かつてだれ一人この犬を撫でてやる者もなく、ついぞ目をくれようとする者もなかった。わたしは入獄の当日からこの犬を撫でいたわって、自分の手からパンをくれてやった。わたしが撫でてやると、じっとおとなしく立って、やさしくわたしの顔を眺めながら、満足したという印に、そっとしっぽを振った。さていまシャーリックは、長年の間にはじめて、彼を愛撫してやろうなどという気を起こしたこのわたしを、しばらく見かけないでいたので、方々かけまわって、大勢の人の間にわたしをさがしていたが、監獄の裏でようやくわたしを見つけると、甲高い鳴き声を立ててわたしのほうへ飛んで来た。わたしは、どうしたことかわれながらわからないが、その犬の頸を両手にかかえて接吻しはじめた。犬は両の前足をわたしの肩へかけて、わたしの顔をぺろぺろ舐めだした。『ああ、これこそ運命が送ってくれた友達だ!』とわたしは考えた。それからというもの、入獄当時の重苦しい陰欝な日々に、わたしは労役から帰って来ると、どこへも入らないうちに、まず監房の裏手へ急いだ。わたしの前のほうを、シャーリックがぴょんぴょん跳ねまわって、うれしそうに甲高い声を立てながら走っているのだ。わたしはその頸を抱きしめて、幾度も幾度も接吻した。すると何かしら甘いような、同時に悩ましいまでに苦い感情が、わたしの心を締めつけるのであった。いまでも覚えているが、わたしは自分で自分の苦痛を誇りでもするように考えた、――いまこの広い世界にわたしを愛し、わたしに懐いてくれる唯一の生きもの、わたしにとってかけ替えのない友達は、この忠犬シャーリックを措いてほかにないのだ、こう思うと、わたしは愉快でさえあった。

[#3字下げ]7 新しい知人たち――ペトロフ[#「7 新しい知人たち――ペトロフ」は中見出し]

 しかし、時は経っていった。そしてわたしもすこしずつこの生活になれて来た。日を経るにしたがって、わたしの新しい生活の家常茶飯が、だんだんとわたしをまごつかさなくなった。さまざまな出来事、周囲の状況、人々、――すべてがなんとなく目になれて来た。この生活と妥協することは不可能だったが、それをば成就されたひとつの事実としてみとめる時機は、とっくに来ていたのだ。わたしはまだ心に残っているすべての疑惑をできるだけ奥深く秘めようとした。もはや監獄の中を、とほうに暮れたように歩きまわることもしなければ、自分の憂愁を表面に現わすこともしなかった。囚人たちの荒々しい好奇心に満ちた視線も、さほど頻繁にわたしのほうへそそがれなくなり、前ほどわざとらしい高慢の色を浮かべて、わたしの跡を追いまわさなくなった。わたし自身もどうやら彼らの目になれたらしい。わたしはそれを非常にうれしく思った。もうわたしは獄内をわが家のように歩きまわった。寝板の上の自分の場所もちゃんとわかった。そして一生かかっても馴染《なじ》めないだろうと思われたことにさえ、どうやら慣れてしまったほどである。毎週一度ずつ規則正しく、わたしは頭を半分剃ってもらいに行った。土曜日ごとにわたしたちは休み時間を狙って、そのために監獄から衛兵所へ順番に呼び出された(そのとき剃らなかった者は、自分でその責任を負うことになっていた)。そこでは大隊付きの理髪師たちが、わたしたちの頭に冷たい石鹸を塗りたくって、まるで合わせてない剃刀で容赦なくがりがりやるので、わたしは今でさえこの拷問のことを思い出すたびに、体じゅうが鳥肌になる。しかし、間もなくそれをのがれる途が発見された。アキーム・アキームイチが一人の囚人を教えてくれたが、それは一コペイカ出せば、だれでも自分の剃刀で剃ってくれて、それを自分の商売にしている軍籍囚だった。囚人の中でも、お上から当てがわれる理髪師《とこや》を敬遠して、彼のところへ出かけて行く者がたくさんあった。そのくせ、彼らはけっしてきゃしゃな連中ではないのである。この囚人床屋は少佐[#「少佐」に傍点]とよばれていたが、なぜかそのわけは知らない。また彼のどこが少佐を連想させたのか、これも同様になんとも申しかねる。いまこれを書いていると、この少佐の姿が目の前に浮かんで来る。背の高い、やせぎすの、むっつりした、かなり頭の鈍い男で、いつも自分の仕事に没頭して、手にはかならず革砥《かわと》を持ち、砥ぎ減らしてしまった禿《ち》び剃刀を、昼となく夜となくその上に当てていた。彼はあきらかに、自分の仕事を生涯の使命と心得て、それにすっかり打ち込んでいるようなふうであった。じっさい、彼は剃刀がちゃんとしていて、そこへだれか剃ってもらいに来る者があると、このうえもなく大満悦なのであった。彼のところへ行くと、石鹸は温いし、手は軽く動くし、剃刀の当たりはビロードのようであった。彼は見るからに自分の芸術を楽しみ、それを誇りとしている様子で、儲けた金を受け取るのでも、まったくのところ問題は芸術であって、一コペイカ二コペイカのはした銭ではない、とでもいったような無造作な態度であった。ある時A―フが、監獄内のことを要塞参謀の少佐[#「少佐」に傍点]に密告する時、この囚人床屋の名を口にしながら、うっかり彼のことを少佐と呼んで、要塞参謀からしたたかな目にあったものである。要塞参謀はかんかんに腹を立てて、ものすごい形相で食ってかかった。「やい、畜生、きさまは少佐がいったいどういうものか、知っとるか?」と彼は自己一流のやりかたで、A―フの成敗をしながら、口角泡を飛ばして叫んだ。「少佐がどういうものか、それをきさまは心得とるのか! とんでもない、どこの馬の骨とも知れん懲役人の畜生をつかまえて、わしの目の前で、現在、このわしを前に据えて、よくも少佐などといえたもんだ!………」こんな人間とうまくばつを合わしていくことができたのは、ただA―フだけであった。
 わたしは監獄生活の第一日から、早くも自由ということを空想し始めた。自分の獄中生活がいつ終わるかを、種々さまざまな形で予想して見るのが、わたしの最も楽しい仕事になった。これよりほかのことは何ひとつ考えられないほどであった。おそらく、だれでも一定の期間自由を奪われた人は、これと同じだろうと確信する。囚人たちがわたしと同じように考えたり、予想したりしたかどうかは知らないが、彼らの希望のいだきかたが驚くばかり軽はずみなのには、そもそもの第一歩からいちじるしくわたしの目についた。自由を奪われた禁錮囚の希望は、ほんとうの生活をしている人間の希望とは、まったく別種のものである。自由な人間ももちろん、希望を持っている(たとえば運命の転換とか、何かの計画の遂行とかである)、しかし彼は生活している。行動している、つまり、ほんものの生活が、完全に彼をその渦巻の中に巻き込んでいるのだ。ところが、幽閉されている人間はわけが違う。彼らにもかりに生活があるとしよう、――監獄生活、懲役生活があるに相違ない。しかし、その懲役人がだれであるにもせよ、その刑期がどれだけの長さであるにもせよ、自分の運命を何か確然とした決定的なものと見なすことは断じてできない、本能的にできない、それを現実生活の一部として受け取ることができないのである。すべての囚人は、自分が今わが家[#「わが家」に傍点]にいるのではなく、いわば客にでも来ているように感じるのだ。彼らは二十年をまるで二年ぐらいに考え、五十になって監獄を出た時でも、現在三十五の自分と同じように元気な人間でいるだろうと、心底から思い込んでいるのだ。『まだもうすこし生きているんだ!』と考えて、いっさいの疑念や、その他のいまわしい想念を、かたくなに追い退けようとする。無期流刑にあっている特別監の囚人でさえ、どうかすると何かの拍子で、とつぜんピーテル([#割り注]ペテルブルグの俗称[#割り注終わり])から、ネルチンスクの鉱山へ移して、刑期を定めることという命令が来るかもしれない、などと当てにするものである。そうなるとしめたものだ。第一、ネルチンスクまでは道中がほとんど半年もかかるし、囚人隊にまじって護送されるのは、監獄の中よりどれだけいいか知れやしない! それから、ネルチンスクで刑期を終わる、その時は……と白髪のまじった人間までが、どうかすると、こんな胸算用をするものである。
 わたしはトボリスクで、壁に鎖で縛りつけられた囚人たちを見た。彼らは、かれこれ一サージェン([#割り注]約二・一メートル[#割り注終わり])ばかりの鎖をつけられていた。すぐそのそばに寝台があるのだ。それはもうシベリヤへ来てから犯した、なみはずれて恐ろしい犯罪のために、こういう憂き目を見ているのである。五年こ