『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

死の家の記録 P005―P048(1回目の校正完了)

死の家の記録
フョードル・ミハイロヴィッチドストエフスキー
米川正夫

                                                                                                            • -

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)懐《ふところ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)競争場|裡《り》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
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(例)[#3字下げ]序詞[#「序詞」は中見出し]

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(例)〔Je hai:s ces brigands.〕
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https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

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[#3字下げ]序詞[#「序詞」は中見出し]序詞

 シベリヤの遠隔な地方、曠野と山と人跡未踏の森の間で、ときたま小さな町に行きあうことがある。人口は千か、たかだか二千くらい、木造のみすぼらしい町で、教会が二つ、――ひとつは町の中に、ひとつは墓地にあって、町というよりはモスクワ郊外の気のきいた村に似ている。そこには普通、郡警察署長や、地方判事や、その他あらゆる尉官級の官吏がじゅうぶんに配置されている。概してシベリヤは気候が寒いのに似ず、勤務員の懐《ふところ》はきわめて暖いのだ。そこに住んでいるのは単純な人たちばかりで、自由主義的な思想などいだいていず、風習は何百年という歳月によって聖化され、昔のままがっちりしている。当然のことながら、シベリヤの貴族という役割を演じている官吏は、生え抜きのシベリヤっ子ともいうべき地の者か、さもなければ、破格に支給される俸給の額や、二倍の旅費や、誘惑にみちた将来の希望などに釣られて、ロシヤから――それも主として首都からやって来る連中が大部分を占めている。その中でも、人生の謎を解くことのできるものは、ほとんどつねにシベリヤに残って、よろこんでそこに根を生やす。そして、後年豊かなうまい実を結ぶのである。ところが、それと違って、人生の謎を解く術《すべ》を知らぬ軽はずみな連中は、まもなくシベリヤに厭気《いやけ》がさして、なんだってこんなところへ来たんだろうと、くさくさしながら自問する。彼らは所定の三年という勤務期限を一日千秋の思いで勤め上げ、任満ちるとともにさっそく転任の運動をはじめ、シベリヤをののしりあざ笑いながら故国《くに》へ帰って行くのである。けれど、それは間違っている。シベリヤでは勤務のほうばかりでなく、多くの点において、けっこうらくな暮らしができるのである。気候も申し分ないし、もてなしずきな金持ちの商人もたくさんあり、ごく裕福な異民族も少なくない。お嬢さんたちは薔薇《ばら》のように咲き誇っていて、しかもこのうえなしというほど品行がよい。野禽は町の往来を飛び交わして、自分のほうから猟師の銃先《つつさき》へやって来る。シャンパンはむやみやたらに飲めるし、イクラすじこ)ときたら驚嘆すべきものである。野の収穫は場所によると内地の十五倍からあり……一般にいって、神の祝福を受けた土地である。ただそれをじょうずに利用さえすればよいのだ。シベリヤの人はまた利用の方法を心得ている。
 わたしの心に消しがたい記憶を残した愛すべき住民の住んでいる、そうした楽しい、自分に満足しきっている小さな町のひとつで、わたしはアレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフという流刑囚に会った。生まれはロシヤの貴族であり地主であったが、のちに自分の妻を殺害したため第二類の徒刑囚となり、法に定められた十年の刑期を勤め上げると、K町で人知れずつつましやかに流人として余生を送っていたのである。がんらい彼はさる郊外の村を居住地として指定されたのだけれども、子供たちにものを教えて生活のたつきが得られるために、町なかに住んでいるのであった。シベリヤの町々ではよく流刑囚あがりの教師に出会う。土地の者はこのような人たちを爪弾《つまはじ》きなどしない。彼らが主として教えているのは、人生の競争場|裡《り》で必須のものとされているフランス語で、シベリヤのこうした辺鄙《へんぴ》な地方の住民たちは、もしこのような人たちがいなかったら、フランス語のフの字も知らなかったに相違ない。わたしがはじめてゴリャンチコフに会ったのは、イヴァン・イヴァーノヴィチ・グヴォーズジコフという、相当の官等まで勤め上げた、客あしらいのいい老官吏の家であった。彼はそれぞれ年配のちがった娘を五人もっていたが、五人ながら末を楽しみにされていた。ゴリャンチコフは一回銀貨三十コペイカで、週に四度ずつ彼らに出稽古をしていた。わたしは彼の外貌にひどく興味をいだかされたのである。それはなみはずれて青い顔をしたやせぎすの男で、年は三十五ばかり、まだ老人というわけではないが、小がらで、ひ弱そうであった。みなりはヨーロッパふうで、いつもなかなかきちんとしていた。もしこちらから話をしかけると、彼は度はずれに注意ぶかくひたと相手の顔を見つめ、いかめしく慇懃《いんぎん》な態度でそのひと言ひと言を聞きすます、その様子は、まるで難問題でも持ちかけられたか、それとも何か秘密でも探り出されようとでもしているかのごとく、その言葉の意味にじっと思いをひそめている、とでもいったようなあんばいであった。そのあげくのはてに、簡単明瞭な返事をするのだが、その返事もひと言ひと言を衡《はかり》にでもかけるように、慎重をきわめているので、こちらは急になぜか間が悪くなって、やがて会話が終わると、かえってやれやれと思うほどである。わたしはその時すぐグヴォーズジコフに彼のことをいろいろとたずねたところ、ゴリャンチコフは一点非の打ちどころのない謹厳な生活をしている、もしそうでなかったら、家の娘たちの先生に頼みはしなかったはずだ、が、おそろしく人づきの悪い男で、世間から身をかくすようにしている、ずばぬけて博学で、たくさん本を読んでいるが、非常に口数が少なく、概してこの男とうちとけた話をするのは、かなり骨が折れる、とのことであった。なかには彼をまぎれもない気ちがいだと断言するものもあったが、そのくせ正直なところ、それはさしてやかましくいうほどの欠点ではないと考えていた。町の有力者の多くは、どんなにでもしてゴリャンチコフを手なずけようという腹をもっていた。彼も請願書を書くなりなんなりしたら、むしろ人のためになるくらいであった。世間では、彼はかならずロシヤにれっきとした親戚を持っているに相違ない、それもおそらくぴいぴい連中とはことが違うだろうと想像していたが、彼はかたくなにも流謫《るたく》の生活を始めるそもそもから、親類縁者との関係をいっさい断ってしまった。ひと口にいえば、われとわが身を害《そこ》なうようなことをしているのだ。のみならず、この町ではだれもかれもが彼の身の上を知っていた、彼が妻を殺したことを、――しかも結婚したすぐその年に嫉妬の凶行を演じて、みずから自首して出た(そのためにかなり刑が軽くなったのだ)、ということを知っていた。こうした犯罪はつねに不幸と見なされて、同情されるものである。が、それやこれやの事情を無視して、この変人は強情に世間の人を避け、子供たちを教えに行く時のほかは人前に顔を出さなかった。
 わたしははじめこの男にかくべつ注意もしなかったが、自分ながらなぜとも知れず、だんだんと彼に興味をいだくようになった。何かしら謎めいたところが彼の中にあったのである。彼とうちとけて話すなどというのは思いもよらぬことだった。もちろん、わたしがたずねることに対しては、いつも返事をしてくれたばかりか、むしろそれが第一の義務ででもあるようなふうつきさえして見せたが、その答えを聞いたあとで、わたしはこのうえ彼と言葉を交わすのが妙に重荷のように感じられるのであった。またそういう会話のあとで、彼の顔にはいつも何か苦しそうな、疲れたような表情が浮かんだものである。今でも覚えているが、ある美しい夏の晩に、わたしは彼と連れだってグヴォーズジコフの家を出た。その時ふと思いついて、ちょっとうちへ寄って一服して行かないかと彼を誘ってみた。彼の顔にどんな驚愕の色が浮かんだかは、言葉につくせるものでない。彼はすっかりまごついてしまって、何か辻褄《つじつま》の合わぬことをぶつぶついい出したが、とつぜんわたしに毒々しい一|瞥《べつ》を投げると、通りの反対がわへ駆けだして行った。わたしは度胆を抜かれたほどである。それ以来というもの、彼はわたしに出会うたびに、なんとなくおびえたような目つきでわたしを眺めるようになった。しかし、わたしは兜《かぶと》を脱がなかった。何か彼のほうへ心ひかれるものがあったのだ。で、ひと月ばかりたって、わたしはだしぬけにひょっこり自分からゴリャンチコフの住居へ立ち寄った。もちろん、わたしのやりかたは、ばかげた不躾《ぶしつ》けなものであった。彼は町の一番はずれに住んでいる町人の老婆の家に間借りしていた。そこには肺病を患っている娘がいて、その娘にはまた私生児《ててなしご》が一人あった、十歳になるかわいい朗かな女の子である。わたしが入って行った時、ゴリャンチコフはこの女の子といっしょにテーブルに向かって、読みかたを教えているところであった。わたしの姿を見ると、彼はまるで犯罪の現場でもおさえられたように、すっかりへどもどしてしまった。まったくとほうにくれた様子で椅子からおどりあがり、目を皿のようにして、わたしを見つめるのであった。やがて、わたしたちは席についた。彼はじっと穴のあくほど、わたしの眼《まな》ざしに注意を払っていたが、それはわたしの視線の一つ一つに何か特別の秘密な意味でもありはしないかと、疑っているようなふうであった。こいつは気ちがいに近いほど猜疑《さいぎ》心が強いのだな、とわたしは悟った。彼はほとんど、『いったい、もうそろそろ帰ってくれるのかい?』ときかんばかりの目つきで、さも憎々しげにわたしをにらんでいた。わたしはこの町のことや、最新のニュースなどを話しだしたが、彼はどこまでも押し黙って、意地の悪いにたにた笑いをするだけであった。とどのつまり、彼はだれでも知っているきわめてありふれた町のニュースを知らないばかりか、それを知ろうという興味さえ持っていないことがわかった。それから、わたしはこの地方およびその需要について語り始めた。彼は無言のままわたしの話を聞き、なんともいえぬ妙な目つきでわたしの顔を眺めていたので、とうとうわたしもこんな話をしている自分に気がさして来た。しかし、わたしは新刊の書物や雑誌であやうく彼をそそのかすところであった。ちょうどわたしは郵便局で受け取ったばかりのを手に持っていたので、まだページも切ってないやつを彼に読まないかと勧めた。相手はむさぼるような視線をちらとそのほうへ投げたが、たちまち思い直して、暇がないからと断わった。いよいよ別れを告げて外へ出た時、わたしは何か堪えがたい重石《おもし》が心から取りのけられたような気がした。できるだけ世間から遠ざかるのを最も重要な目的としている人に付きまつわろうとしたのが、恥ずかしくなって来たのみならず、なみはずれて愚かな行為であるように思われた。が、しかしできてしまったことだ。彼のところでは、書物などまるで目に入らなかったことをわたしは覚えている。してみると、彼が多読家だといううわさはうそに違いない。けれども、二度ばかり夜ふけて彼の部屋のそばを通りかかった時、窓にあかりが射しているのに気がついた。こんな夜明け近くまでテーブルに向かって、いったい何をしているのだろう? 書きものでもしているのではあるまいか? そうとすれば、何を書いているのだ?
 さる事情があって、わたしは三月《みつき》ばかりこの町を離れていた。もう冬になって帰って来ると、その秋ゴリャンチコフが死んだという知らせを聞いた。孤独の中に目をつぶって、医者さえ一度も呼ばなかったとのことである。町の人は彼のことなどほとんど忘れていた。彼の部屋は空いたままだった。わたしはさっそく家主の主婦《かみ》さんに渡りをつけた。亡くなった間借り人はおもに何をしていたのか、何か書きものでもしていたのではないか、ということを探り出すためである。二十コペイカの鼻薬で、老婆は故人の死後に残った書類を籠にいっぱい持って来た。老婆は手帳二冊だけ自分が費《つか》ってしまったと白状した。それは仏頂面《ぶっちょうづら》をした無口な婆さんなので、その口から何か筋道の立ったことを聞き出すなどというのは、ちょっとむずかしそうであった。死んだ間借り人のことについても、かくべつ事新しい話は何もできなかった。老婆の言葉によると、彼はほとんどいつも何ひとつせず、幾月も幾月も本を開くことがなく、ペンも手に取ろうとしなかった。そのかわり、夜じゅう部屋の中を歩きまわって、たえず何やら考えこみ、どうかするとひとり言をいうのであった。彼はこの家の孫娘をとてもかわいがって、ことにその名をカーチャと知って以来、とくにこの子をいとおしむようになった。そして聖カチェリーナの日にはかならず教会へまいって、だれかの供養を営むとのことであった。客というものがいやでたまらず、外へ出るのは子供たちを教えに行く時だけであった。家主の老婆が週に一度ずつ、ほんのすこしでも部屋を掃除しようと思ってはいって行くと、それにさえ白い目を向けて、まる三年のあいだひと言も彼女に口をきいたことがないという。わたしはカーチャに、先生を覚えているかときいてみた。少女は黙ってわたしの顔を眺めていたが、やがてくるりと壁のほうへ向いて、しくしく泣き出した。してみると、あの男でも、だれにもせよ人に愛情をいだかすことができたわけである。
 わたしは彼の書いたものを持って帰って、一日がかりで択《え》り分けた。そのうちの四分の三は、なんの内容もないただの反古《ほご》か生徒の習字の類であった。が、中に、かなりどっしりとした手帳が一冊あった。一面にびっしり細かく書きつけてあったけれど、未完のままで、おそらく作者自身が投げ出して忘れてしまったものであろう。それはまとまりのないものではあったが、ゴリャンチコフが体験した、十年間の徒刑生活の記録であった。この記録はところどころ、何かしら別の物語や奇妙な恐ろしい追憶で中断されていた。それらはまるで何かに強制されでもしたように、統一もなく痙攣的に書きつけたものであった。わたしはこれらの断片を数回読み返した末、これは発狂状態で書かれたものに相違ないと確信した。しかし徒刑の記録、――彼自身が原稿のどこかでいっている言葉をかりると『死の家の幾場景』は、わたしの目から見て、まんざら興味のないものでもないように思われた。これまで知られなかったぜんぜん新しい世界、ある種の事実の奇怪さ、亡びた人々に関する二、三の特殊な観察、――これらは強くわたしの心をひきつけたので、なかには好奇の念をいだきながら読んだ個所さえあった。しかし、わたしの考えが誤っているかもしれないのはもちろんである。まず試みに二、三の章を選び出してみよう、是非の判断は読者にお任せするとして……

[#1字下げ]第一部[#「第一部」は大見出し]


[#3字下げ]1 死の家[#「1 死の家」は中見出し]

 わたしたちの獄舎は要塞のはずれ、土塁のすぐ際《きわ》に建っていた。たまたま、何か目に入るものはあるまいかと、墻《かき》の隙間から外の世界をのぞいて見ると、――目に入るものとては空のはしっこと、プリヤン草の生い茂った土塁と、その上を夜も昼も行きつ戻りつしている歩哨の姿ばかりである。そこで、こんなことを考える、こうして幾年も月日は過ぎてゆくが、自分はいつも同じように墻の隙間越しに外をのぞいては、依然たる土塁と、相も変わらぬ歩哨と、同じような空のはしっこ、――それも監獄の上にある空ではなく、遠い自由な別世界の空のはしっこを見て暮らすことだろう、と。まず大きな庭を想像してみたまえ、長さは二百歩で幅は百五十歩、周囲は不等辺六角形の高い墻でとり囲まれている。墻というのは真っ直ぐに深く土中に埋められた先の尖った杙《うい》(パーリャといわれるもの)であって、それが角と角をしっかりたがいに寄せ合わされ、そのうえ貫《ぬき》板で横に結ばれている。これが獄舎の外囲いなのである。この囲いの一方に堅固な門がある。いつも閉めきりで、いつも夜昼歩哨にまもられている。この門が開かれるのは、ただ囚徒を労役に出すとき上官の命令があった場合にかぎる。門の外には晴ればれした自由な娑婆があって、つねに変わらぬ人々が住んでいるのだ。けれども、囲いのこちらがわではこの世界のことを、まるで何か実現されることのない昔|噺《ばなし》のように想像している。そこはまったく何物にもたとえようのない一種特別の世界である。そこには自分自身の掟があり、自分自身の服装があり、自分自身の風俗習慣があって、いわばこの世ながらの死の家である。したがって、生活もほかのどこにも見られないものであり、人間も特殊なものであった。さてこの特殊な一隅をわたしはこれから描き出そうと思うのである。
 外囲いの中へ入ると、その中にいくつかの建物が目に入るだろう。広い内庭の両側には、長細い平家建てのバラックが二棟並んでいる。これが監獄である。その中に囚人たちが等級別に分類されて住んでいるのだ。囲いの奥のほうにもうひとつ同じようなバラックが建っている。これは炊事場で、二班に分けられている。そのさきにさらにひとつの棟があって、そこに窖《あなぐら》、倉庫、物置きなどがひとつ屋根の下に同居しているのだ。庭の中心は空地で、かなり大きな坦々とした広場になっている。囚人たちはここに整列して、朝と、正午と、晩に点呼を受ける。そのほか、看守の猜疑《さいぎ》心の程度と、彼らが敏速に人数調べをする手ぎわのいかんに応じて、なお数回やられることがある。周囲にも、建物と墻壁《じょうへき》の間に、まだかなり広い空地が残っている。この建物の陰になったところで、どちらかといえばつきあい嫌いで陰気な性分の囚人たちが、労役の休み時間に人目を避けて歩きまわりながら、好んで自分一人のもの思いに耽るのだ。そうした休み時間に彼らに落ち合うと、わたしはその烙印を捺《お》されたにがりきった顔をしげしげと眺めては、何を彼らが考えているのか想像してみるのが好きだった。一人の流刑囚は、暇さえあれば杙《パーリャ》の数を読むのを楽しい日課にしていた。杙の数は千五百ほどであったが、彼はすっかり覚え込んで、それぞれ目印をつけていた。杙《パーリャ》の一本一本が彼にとっては毎日の日であって、彼はその日その日を一本ずつの《パーリャ》で数えていき、こうして数え残した杙の数によって、彼は刑期満ちるまでなお幾日獄中にとどまっていなければならぬかを、一目瞭然と見てとることができた。六角形の一辺を数え終わった時には、彼は心からよろこんだものである。まだ幾年も幾年も待たなければならなかったけれども、監獄の中にいると忍耐というものを学びとる時間にはことかかなかった。
 わたしは一度、二十年も懲役で暮らした後、やっと自由な世界へ出て行く一人の囚人が、仲間のものと別れを告げるありさまを見たことがある。彼がはじめて監獄へ入って来た時には、まだ年が若くって、自分の犯した罪のことも刑罰のことも考えないような暢気《のんき》者だった、そういうことを覚えている連中もそこにはいたのである。ところが、今は気むずかしげな沈んだ顔つきをした、胡麻塩頭の老人となって出て行くのである。彼は無言のままわたしたちの六つの監房をまわって歩いた。一つ一つの監房へ入るたびに、彼は聖像に礼拝をし、さてそれから低く腰をかがめて仲間の者たちに挨拶しながら、どうか悪く思わないでくれと頼むのであった。またこんなことも覚えている、ある時、もと裕福なシベリヤの百姓であった一人の囚人が、門のところへ呼ばれて行った。その半年ほど前に、彼は以前の女房がほかへ嫁《かたづ》いたという知らせを受け取って、ひどくしょげ込んだものである。ところが今、その女房が自分で監獄へやって来て、彼を呼び出し、贈り物をしたのである。彼らは二分ばかり話をし、二人ともひと泣き泣いて、永久に袂を分かった。わたしは彼が監房へ帰って来た時の顔を見た……まったく、ここでは忍耐を学ぶことができた。
 黄昏《たそがれ》になると、わたしたちはみんな監房へ入れられて、ひ と晩じゅうその中に閉じこめられるのであった。わたしはいつも外からこの監房へ入って行くのがつらかった。それは獣脂《あぶら》蝋燭にぼんやり照らされ、息のつまりそうな悪臭にみち満ちた、天井の低い、細長い、むんむんするような部屋であった。今となって思えば、どうしてわたしは十年間もその中で暮らせたものか、われながら不思議でならない。わたしの寝台は板を三枚ならべたもので、これがわたしの領分のすべてだった。そうした寝板の上に、わたしたちの監房だけでも、三十人からの人間が陣取っていた。冬は早くから閉じこめられるので、みんなが寝つくまでには、ものの四時間も辛抱して待たなければならなかった。それまでは、騒々しい物音、わんわんというような人声、高笑い、罵詈雑言《ばりぞうごん》、鎖の響き、人いきれ、煤煙《ばいえん》、剃り落とされた頭、烙印を捺された顔、ぼろぼろの着物、何もかも屈辱と悪名を背負ったものばかり……さても、人間の生活力の強さ! 人間はいかなることにも馴れる動物である、わたしはこれこそ人間にとって最上の定義だと思う。
 わたしたちの監獄には全部で二百五十人ほど収容されていた、――この数字はほとんど不変のものであった。新しく入って来るものもあれば、刑期を終えて出て行くものもあり、また死ぬものもあった。そこにはどんな種類の人間でもいないものはなかった。ロシヤのあらゆる県、あらゆる地方が、そこにおのれの代表者を出していたように思う。異種族のものもいたし、コーカサスの山民で流刑にされて来ているものさえ幾人かいた。それがみな犯罪の程度、すなわち犯罪に対して決定された刑の年数によって分類されるのだ。おそらく、いかなる犯罪といえども、ここにその代表者を見いださぬようなものはあるまい。この監獄へ入っている連中で最も多数を占めているのは、一般民の範疇に属する懲役流刑囚《ススイリノ・カートルジヌイ》(囚徒自身の素朴な発音によれば重徴役囚《シーリノ・カートルジヌイ》)である。彼らはいっさいの権利を完全に剥奪されて、社会から切り離されてしまった犯罪者で、その詛《のろ》いを永久に証明するため、顔に烙印を捺されている。彼らは八年から十二年の刑期で懲役にやって来た後、どこかシベリヤの村々へ流人《るにん》として散らばって行くのであった。また軍籍に属する犯罪者もあったが、これは一般にロシヤの衛戍《えいじゅ》監獄内と同様、身分権を奪われてはいないのである。彼らは刑期が短く、満期になると元いたところへ帰って行く、つまりシベリヤの常備大隊へやられるのだ。こうした連中の多くはほとんど即座に再度の重罪を犯して、またぞろ監獄へ舞い戻って来る、しかも今度は短期でなく二十年くらい食らい込むのだ。この種類の連中は『常連』と呼ばれていた。が『常連』はそれでも完全にいっさいの権利を剥奪されるわけではなかった。最後にもうひとつ、最も恐ろしい犯罪者の特別な部類があった。それは主として軍人で、しかもかなり多数にのぼっていた。彼らは『特別監』と呼ばれていた。この種の犯人はロシヤ全国からここへ送られて来たものである。彼らはみずから終身組と称して、自分の刑期をさえ知らなかった。法律に従えば、彼らの労役は普通の二倍にも三倍にもならなければならなかった。シベリヤに最重懲役囚の収容所が開かれるまで、彼らはこの監獄に置かれていたのである。「おめえたちにゃ期限があるが、おれたちゃ際限なしの懲役よ」と彼らはほかの囚人にいっていた。その後、わたしの聞いたところによれば、この特別監というのは廃止になったそうである。そのほか、わたしのいた要塞では一般民という制度もなくなって、ぜんぶ共通に衛戍監獄の制度がしかれた。それと同時に、長官も更迭したのはもちろんである。だから、わたしがいま書いているのは、とうの昔に過ぎ去った古い話なのだ……
 それはもはや久しい前のことで、今では何もかも夢のような思いがする。わたしは監獄へ入った時のことを覚えている。それは一月の、とある夕方であった。もう暗くなりかかる時分で、囚人たちは労役から帰って、点呼を受ける用意をしていた。大きな口髭を生やした下士がついに扉をあけて、わたしをこの奇怪な家へ入れた。その中でわたしはあの長い年月を過ごし、実際に経験しなかったら似寄りの観念さえ得られなかったろうと思われるような体験を、味わわなければならなかったのである。たとえば、十年間の徒刑生活のあいだに、一分一刻もただの独りきりになれないということが、いかばかり恐ろしく悩ましいものであるかを、想像することもできなかったに相違ない。労役に出ると、いつも警護兵がついている。監房へ帰ると、二百人の仲間といっしょである。一度も、ついぞ一度も独りでいることはない! もっとも、わたしが慣れなければならなかったのは、まだまだこれしきのことではなかったのだ!
 ここには、ふとしたことで人を殺したものもいれば、人殺しを職業《しょうばい》にしているものもいた。強盗もいれば、強盗の首領《かしら》もいた。ただの巾着切りやごろつき、――拾い専門のやつか、さもなくば掻っ払いの類。それから、なんのためにこんなところへ来たのか、見当のつかないような連中もいた。しかし、一人一人のものが、まるで二日酔いのようにどんよりした重苦しい身の上話を持っているのであった。概して、彼らは自分の過去を多く語らず、そうした話を好まなかった、そして、あきらかに昔のことを考えまいと努めているらしかった。この連中のうちで、わたしは陽気な殺人犯さえ見受けた。あまり陽気で、ついぞ一度ももの思いに沈んだことがないので、彼らはいまだかつて良心の呵責《かしゃく》などというものを知らないに相違ないと、賭けでもしたくなるくらいであった。しかし、一方には、ほとんどいつも陰気そうな顔をして、黙りこくった連中もいた。概して自分の身の上話などするものはあまりなく、他人に対する好奇心はここでは流行《はや》らなかった、そういうものはここの習慣《しきたり》にないことで、お取り上げにならないのだ。ただときおり、だれかが所在なさにしゃべり出しても、ほかの者は冷淡な陰気くさい顔をして聞いているだけである。ここではだれにもせよ、人の度胆を抜くなどということはできない。「おれたちは読み書きのできる、もののわかった人間なんだぜ!」と彼らはよく何か妙な自己満足の調子で言いいいした。今でも覚えているが、あるとき一人の強盗が酔いに乗じて(監獄の中でも、時には酒をあおることができたので)、五つになる男の子を殺したときの模様をしゃべり出した。はじめ玩具《おもちゃ》で釣り出して、どこかの空き納屋《なや》へおびき込み、そこでやっつけたというのである。それまで彼の冗談を笑って聞いていた監房全体のものが、このときいっせいに叫び声を上げた。で、強盗はやむなく口をつぐんだ。監房の一同が叫び声を上げたのは、義憤のためでなく、そんなこと[#「そんなこと」に傍点]をしゃべる必要がない[#「必要がない」に傍点]からである、そんなこと[#「そんなこと」に傍点]はしゃべるものではないからである。
 ついでにいっておくが、彼らはまったく読み書きのできる連中であった、しかも、転意ではなく文字どおりにそうなのである。たしかに彼らの過半数は読み書きができた。ロシヤの民衆が大勢あつまっている場所で、いい加減に二百五十人だけ分けてみて、その中の半分が読み書きのできる人間だった、というようなところが、どこかほかにあるだろうか? その後わたしは、だれかがこうした報告資料を基として、教育は民衆を滅ぼすという結論を抽《ひ》き出したのを耳にしたが、それは間違いだ。そこにはまったく別な原因がある、もっとも、教育が民衆のうぬぼれを助長するという点には、同意しないわけにいかない。が、それはすこしも欠点ではないのだ。
 囚人たちは服装によって、それぞれの部類に分かたれていた。あるものは、上着の片方が暗褐色で片方が灰色をしており、ズボンも片足が灰色で片足が暗褐色であった。一度、労役に出ていると、パン売りの小娘が囚人たちのそばへ来て、長いことわたしをまじまじ見ていたが、だしぬけに大きな声で笑い出した。「まあ、なんてみっともない恰好だろう!」と彼女は叫んだ。「鼠色のラシャも足りなけりゃ、黒いラシャも足りなかったんだわ!」なかには上着ぜんたいが灰色のラシャでできていて、ただ袖だけが暗褐色というようなのもあった。頭の剃りかたもまちまちで、頭蓋に沿って縦に半分剃られているのもあれば、横半分剃り落とされているのもあった。
 この不思議な家族の全体は、ひと目見ただけで、なにかしら明瞭な共通点をもっていた。いつとはなく、ほかの一同に君臨するようになった、きわめて個性のきわだった独創的な連中でさえもが、監獄ぜんたいの調子に従おうと努めていた。概括的にいっておくが、ここの連中はだれもかれも、――際限なしにはしゃいで、みんなからばかにされている少数の例外を除いて、気むずかしい羨望家《やっかみや》で、やたらに虚栄心が強く、法螺《ほら》ふきの怒りん坊で、極端な形式まであった。何物にも驚かないということが最高の徳とされていた。いかにして外見上冷静を保つかということで、みんな夢中になっていた。しかし、このうえもなく傲慢な顔つきが電光石火の迅《はや》さであきれるほど小心翼々たる表情に変わることも珍しくなかった。なかにはほんとうの強者も幾人かいた。彼らは単純率直で、うわべを繕《つくろ》ったりなどしなかった。けれども、不思議なことには、こうしたほんとうの強者の中に、病的といっていいほど極端に虚栄心のつよい連中が二、三あった。おおむね、みえと体裁が第一になっていたのである。大多数のものは堕落しきって、おそろしく卑劣になっていた。中傷と陰口は絶え間がなかった。それは地獄であった。闇の世界であった。しかし、監獄の内規や固定した習慣に反抗するような勇気のあるものは、一人もなかった。だれもかれもそれに従っていた。なかには図抜けてきわだった性格の人間もいて、つとめてそれに従おうとしながらも、なかなか骨の折れる様子であったが、それでも結局ついていくのであった。娑婆《しゃば》であまり向こう見ずをやり過ぎてはめをはずしてしまい、ついには無我夢中で自分でもなんのためやらわからず、泥に酔った鮒《ふな》のような気持ちで犯罪を重ねて来た、そういう連中も監獄へやって来た。それらの犯罪はしばしば、極端にあおり立てられた虚栄心の結果に過ぎないのだ。しかし、こういう手合いも、監獄へ入るまでは、付近の村々町々の恐怖の対象であったにもかかわらず、ここではたちまち取っちめられてしまうのであった。新参者はじっと様子を見ているうちに、こいつはお門《かど》違いのところへ飛び込んだぞ、ここではもうだれの度胆を抜くこともできそうにない、と早くも見て取って、いつともなくおとなしくなり、一般の調子に従うのであった。
 この一般の調子というのは、うわべから見ると一種特別な品位なのであって、獄内の住人にはほとんど洩れなくそれが滲み込んでいる。事実そのとおりで、懲役人とか既決囚とかいう称呼は、なにか官等、それももりっぱな名誉ある官等のようになっていた。羞恥とか悔悟とかは毛筋ほどもないのだ! もっとも一種外面的な恭順はあった、いわば表向きの妙に落ちつき澄ました理屈っぽい態度である。「おれたちは一生を棒に振った人間だ」と彼らはいうのであった。「娑婆にいる時まともな暮らしができなかったので、今じゃ緑の街([#割り注]各自笞を手にして二列に並んだ兵士たちの間を裸で通って、その一人一人から笞を受ける刑を指す[#割り注終わり])を通って兵隊を点検しなくちゃならねえのだ」とか、「おやじやおふくろのいうことを聞かなかった罰で、今じゃ太鼓の皮のいうことを聞かなけりゃならない」とか、「鍬で土を耕《おこ》すのをきらったもんだから、今じゃ槌で石割りだ」とかいった調子である。これらの文句は教訓の形でも、ありふれた諺《ことわざ》といった体裁でも、ちょっとした捨台詞《すてぜりふ》といった調子でも、よく口に出されるけれど、まじめにいわれることは決してない。それはみな単なる言葉に過ぎないのだ。心のうちでしみじみと自分の非道を意識したものが、彼らの中に一人でもいたかどうかおぼつかない。こころみに、だれか徒刑囚以外のものが囚人に向かって、その犯罪を責めののしってみるがいい(もっとも、犯罪人を責めるということはロシヤ精神にないことだが)、際限なしに悪口雑言を浴びせかけられるだろう。また彼らはだれもかれもなんという悪口の名人であったか! 彼らの悪口は洗練された芸術的なものであった。悪口は彼らによっては学術にまで高められていた。彼らは侮辱的な言葉よりもむしろ侮辱的な意味で、精神で、理念で勝ちを制しようと努めていた、――そのほうがずっと洗練されていて、毒が強いのである。絶え間のない争いは彼らの間にこの学術をいやが上に発達させたのである。この連中はすべて強制されて働くのであるから、したがってなまけものであり、したがって堕落していくのだ。よしんば以前堕落していなかったにもせよ、徒刑場で堕落していくのだ。彼らはすべてみずから好んでここへ集まったのではないから、みんなおたがいに他人同士であった。
「おれたちをひとつに集めるまでにゃ、悪魔の野郎、草鞋《わらじ》を三足もはき切ったこったろうよ!」と彼らは自分たちのことをそういっていた。だから中傷、詭計、裏長屋の女房のような告げ口、羨望、口喧嘩、敵意などは、いつでもこの地獄のような生活の中で第一位を占めていた。どんな裏長屋の女房でも、ここの殺人犯のあるものほど、女の腐ったみたいになることはしょせん不可能であろう。くり返していうが、彼らの中にも強者はいた。一生涯破壊と命令に慣れた、鍛え上げられて恐れを知らぬ性格の持ち主もいた。人々はこれらの者を自然なんとなく尊敬していたし、彼ら自身も多くの場合、自分の名声を非常に大切にしてはいたものの、概して他人の荷厄介にならないように心がけ、つまらぬ口喧嘩を避け、態度になみなみならぬ品位を見せ、万事につけて分別があり、いつも上官に対して従順であった。――それも服従の原則から出発したものでもなければ、義務の自覚から出たのでもなく、ただなんということなく互いの利益を意識して、一種の契約によったとでもいうような形である。もっとも、彼らに対しては慎重な態度をとっていた。忘れもせぬ、ある時こういったふうの囚人で、野獣のような行為をするので上司にも知られている、大胆不敵な、勇猛果敢な男が、なにかの罪を犯して刑罰に引き出された。それはある夏の日で、ちょうど休み時間であった。直接監獄の取り締まりをしている佐官が、みずから処罰に立ち会うために、門のすぐそばにある衛兵所まで出て来た。この少佐は囚徒たちにとって一種宿命的な存在であった。彼は一同を、ひと目見てもふるえあがるまでに仕込んだのである。気ちがいじみるほど厳酷で、囚徒たちにいわせると、「人に飛びかかって来る」のであった。彼らが何よりもおそれたのは、少佐の爛々《らんらん》たる山猫のような目で、それににらまれたが最後、何ひとつ隠すことができない。彼は見ずして見るといったような具合であった。獄内へ入って来ると、彼はたちまち向こうの隅で何をやっているかを、ちゃんと知ってしまうのだ。囚徒たちは彼を八方にらみと呼んでいた。彼のとった方法は間違ったものであった。彼は気ちがいじみた意地の悪いやりかたで、それでなくとも気の立っている連中の気を荒くするのであった。もし彼の上に、温厚で分別のある要塞司令官がいて、ときおり、彼の野蛮なやり口を緩和しなかったら、少佐はその取り締まりで何か大変な不祥事をひき起こしたにちがいない。どうして彼がことなく終わりを完《まっと》うすることができたか、わたしは合点がいかないほどである。彼は無事に達者で務めをひいた、もっとも、一度裁判にかけられたことはあったが。
 その囚人は、自分の名を呼ばれた時、さっと顔色を変えた。いつも彼は無言のまま思い切りよく笞《むち》の下に身を横たえて、無言のまま懲罰を忍び、刑が終わると哲学者然とした冷静な態度でこの不運に対しながら、けろりとして起きあがるのであった。もっとも、彼はいつも慎重に取り扱われていた。ところが、その時はなぜか自分は間違っていないと考えたのである。彼はさっと顔色を変え、監視の目を偸《ぬす》んで、イギリス製のよく切れる靴職用の小刀をすばやく袖の中に忍ばせた。小刀とかその他いっさいの刃物類は、獄内では堅く禁じられていたのである。しょっちゅう不意打ちに検査が行なわれたが、それがなかなか冗談事ではなく、懲罰も厳しかった。しかし、泥棒が何かとくに隠そうと決心したら、容易に見つけ出せるものではないし、小刀やその他の刃物類は獄内ではいつも欠かすことのできない必要品であったので、いくら検査をしても跡を断たなかった。没収されると、さっそく、かわりに新しいのが現われるというふうであった。獄内ぜんぶの囚徒は墻のほうへ駆け出して行って、息を殺しながら柵の隙間からのぞいていた。すべてのものは、きょうこそペトロフもおとなしく笞のもとへ身を横たえる気がないから、少佐はいよいよ年貢《ねんぐ》の納め時が来たのだ、ということを承知していた。けれども、いざという土壇場になってから、少佐は懲罰処分をほかの将校に頼んで、馬車に乗って帰ってしまったのである。「ありゃ神様が救けてくだすったのだ!」とあとで囚人たちはいい合った。ペトロフはどうかというと、彼は落ちつき払って処罰を受けた。少佐が行ってしまうと同時に、彼の憤怒も消えたのである。囚人というものはある程度まで従順で諦めのいいものである。が、そこには超えることのできない限度があるのだ。ついでにいっておくが、こうした気短かと癇癪《かんしゃく》の不可思議な爆発くらい、興味のある観物《みもの》はまたとありえないだろう。人はよく何年ものあいだ辛抱づよく忍従の生活をして、残忍このうえない刑罰を忍んでいたくせに、とつぜん、何かつまらない、ほとんど取るにも足らぬような些細なことで堪忍の緒を切らす。それは見方によると、気ちがいということさえできるほどである。またじっさい、気ちがい扱いにしているのだ。
 前にも述べたとおり、わたしは数年の間これらの人の間に交っていたが、毛筋ほども後悔のしるしや、自分の犯罪に対する苦しいもの思いなどを認めたことがない。彼らの大部分は内心自分のことを徹頭徹尾間違っていないと思いこんでいる。それは事実だ。もちろん、みえ、よからぬ前例、血気の勇、間違った廉恥《れんち》心などが、多くの点においてその原因となるのである。が一方から見ると、われこそはこれらの破滅しきった人々の魂を底の底まで究めつくして、世間の目からかくされている秘密を読み終わったと公言しうるものが、だれかはたしているだろうか? しかし、それにしても、あれだけの長い年月の間には、せめて何かを観察し把握して、こういった人々の魂の中に、心内の苦悶や懊悩《おうのう》を物語るような一点一画なりとも、捉えることができそうなはずである。ところが、そういうことがないのだ、ぜんぜんないのだ。それに犯罪というものは、外部から与えられた、レディメードの見方で、解釈することはできないので、その哲学は普通に考えられているよりは少々むずかしいものらしい。禁錮とか強制労役の制度とかいうものが、犯人を匡正することができないのはもちろんである。そんなものはただ犯人を罰して、こののち凶漢が社会の安寧を脅かすのを防ぐだけのことである。犯人そのものの心中には、禁錮にしても、このうえなく厳しい労役にしても、ただ憎悪と、禁制の快楽にたいする渇望と、恐るべき軽率な考えを助長するに過ぎない。わたしの確信するところでは、あのやかましくいわれている独房制度にしても、ただ表面だけの、人を欺くような、偽りの目的を達するまでのことである。それは人間から命の液汁を搾り取り、そのあとで精神的にかさかさになった半気ちがいのミイラを、矯正と悔悟の模範として世間へ披露するのだ。いうまでもなく、社会に反抗して立った犯人はその社会を憎み、ほとんどつねに自分のほうが正しくて、社会が悪いと思い込んでいる。のみならず、彼らはすでに社会から罰を受けたのだから、そのために自分の罪は浄《きよ》められ、勘定は棒引きになったものと考えている。そういう観念に立つと、結局、犯人そのものを無辜《むこ》こと認めなければならないようなことにもなりかねない。が、そういうふうに見方はいろいろあるけれども、世界はじまって以来、いつどこへ行こうとも、いかなる法律に照らして見ようとも、人間が人間であるかぎり、まぎれもなく犯罪と認められるような犯罪があることは、だれしも異存はないだろう。わたしはこのうえもなく不自然な犯罪、このうえもなく奇怪千万な殺人行為が、腹の底からほとばしり出るような、子供めくほど陽気な笑いの中で語られるのを聞いたが、こんなことは監獄の中だけである。わけても、ある父親殺しの話はわたしの頭にこびりついて離れない。それは貴族の出で、どこかに勤めてはいたけれども、六十になる父親にとって、いわば放蕩息子といったような形になっていた。彼は放埒三昧《ほうらつざんまい》に身を持ち崩し、借金で首がまわらなくなっていた。父親は彼に手綱《たづな》をつけるようにして、しきりに意見をしていた。ところが、父親は邸と農園をもっていたので、金があると目星をつけられていた。息子は遺産ほしさに父親を殺したのである。犯行は、ひと月たってようやく発覚した。当の犯人が警察へ、父親が行方知れずになったと訴え出たのである。そのひと月の間というもの、彼は放埒無慚の生活を送っていた。とどのつまり、警察は彼の留守に死体を発見した。裏庭に下水溜まりがはしからはしまでいっぱいに通っていて、板で蓋がしてあった。その溜めの中に死体がかくしてあったのだ。死体にはきちんと着物をきせてあったが、胡麻塩の頭は切り放され、胴体にくっ付けてあって、その首の下には枕が当てがわれていた。犯人は自白しなかったが、貴族の族籍と官等を奪われ、二十年の懲役ということで流刑に処せられた。わたしがいっしょに暮らしている間、彼はずっと浮き浮きとして上機嫌で通したものである。けっしてばかではなかったけれど、お話にならぬほど出たらめな、軽はずみで無分別な人間であった。わたしは彼にとくべつ惨酷なところがあろうとは、ついぞ一度も気づかなかった。囚人たちは彼をばかにしていたが、それはあえて彼の犯した犯罪のためではない、そんなことはだれも口に上すものもなかった、つまり彼が無考えで、われとわが身を処してゆくすべを知らないからであった。世間話のあいだにも彼はときどき父親のことを口にした。一度などは、自分の家族が遺伝的に健康な体格をしているという話から、「現におれの家のおやじさん[#「おれの家のおやじさん」に傍点]なぞは、亡くなるまでただの一度もからだの具合が悪いなんていったことがない」とわたしに向かって付け足したのである。こうした野獣同然の無感覚はありうべき話ではないので、これなどは特殊な例外的現象なのである。そこには何か組織上の欠陥というか、まだ科学の究めえない肉体および精神上の不具というか、そんなものが原因となっているのであって、単なる犯罪ではあるまい。わたしがこの犯罪を信じなかったのはもちろんである。が、その事件を詳細に知っているべきはずの、同じ町から来た連中が、この男のしたことを残らず話して聞かせてくれた。それで見ると、事実はあまりにも明明白々なので、わたしも信じないわけにいかなかった。
 同囚の人たちは、あるとき彼が夜中に、「そいつをつかまえろ、つかまえろ! 首を切り落とせ、首を、首を!………」と夢の中で叫んだのを耳にした。
 囚人はほとんどだれでも夜になると、夢にうなされて寝言をいった。罵詈雑言《ばりぞうごん》、泥棒仲間の隠語、庖丁、斧などが、夢の中でもっともしばしば、彼らの口上るのであった。「おれたちはたたきのめされた人間だ」と彼らは言いいいした。「おれたちは臓腑が引っちぎれてるんだから、それで夜中にわめき出すのさ」
 要塞の内部で定められた公の労役は、仕事ではなくて義務であった。囚人たちは自分に当てられた仕事をすますか、所定の労働時間を終えるかすると、獄舎へ帰ってゆく。みな労役を憎みきっていた。おのれの全能力をささげ、ありたけの知力を絞って打ち込むことのできるような、自分自身の特殊な仕事を持たなかったら、人間獄屋の中で生きていけるものではない。また、知能も発達していれば強烈な生活体験も持ち、これからさきも生きることを望んでいたものが、無理に社会から引き離され、人間なみな生活から絶縁されて、心にもなくこんなところへひと塊りに集められた人たちが、どうして自分の自由意志や好みにしたがって、真当《まっとう》な規則正しい生活に落ちつくことができようか! ただ無為に暮らすという原因だけでも、彼らが以前夢想だにもしなかったような、罪深い性質が生まれてくるかもしれないのだ。勤労ということをせず、法律によって認められた人なみの私有財産をも持たなかったら、人間は生きていけるものではない、それこそ堕落して、野獣に化してしまう。そういうわけで、監房内の人間はだれでも、自然の要求と一種の自衛の感情によって、自分の技能と仕事を持つようになるのであった。長い夏の日はほとんど終日おかみの労役でいっぱいいっぱいになるから、短い夜の間にはぐっすり寝る暇もあるかなしである。ところが、冬になると、囚人たちは規定にしたがって、薄暗くなりはじめるやいなや、さっそく監房の中に閉じこめられなければならなかった。冬の夜の長い退屈な時間など、何をしたらよいのだろう? そこでほとんどどの監房も、どの監房も、禁則を破って大きな工場になってしまうのだった。本来勤労や仕事が禁じられていたわけではなく、ただ獄内に道具類を置くことが厳重に禁じられていただけである。ところで、この道具がなかったら仕事もできるわけがない。が、それでもみんな内証で仕事をしていたし、役人たちも場合によっては、あまりやかましく目を光らせはしなかったらしい。囚人たちの多くは何ひとつ知らずに監獄に入って来るが、やがてほかの者から習いおぼえて、その後、放免されて出る時には、りっぱな一人前の職人になっているのであった。そこには長靴屋もいれば短靴屋もおり、仕立屋でも、指物師でも、金銀細工師でも、彫物師でも、鍍金師でも、なんでもいた。イサイ・ブムシュテインという一人のユダヤ人がいたが、これは宝石職人であると同時に高利貸でもあった。だれもみんなせっせと働いて、一コペイカ二コペイカの目腐れ金を稼いでいた。注文も町から来るのであった。金は「鋳造された自由」である。したがって、まったく自由を剥奪された人間にとっては、なみの十倍も尊いわけである。金がポケットの中でちゃらちゃらいってれば、よしんば使うことができなくても、彼らはすでになかば慰藉を与えられているというものだ。しかし、金はいつどこででも使うことができる、まして禁断の木の実はつねに倍して甘美なものである。監獄の中では酒すら手に入れることができた。たばこはいとも厳重に禁ぜられていたが、それでもみんなパイプを吹かしていた。金とたばこは壊血病その他の病を予防してくれた。しかも、仕事は彼らを犯罪から救ったのである。もし仕事がなかったなら、囚人たちはびんの中に入れられた蜘蛛《くも》のように、おたがい同士食い殺し合ったに相違ない。にもかかわらず、仕事も金も禁制になっていた。よく夜中に不時の捜索が行なわれて、禁制の品は根こそぎ没収されてしまう。金はずいぶん苦心してかくされたが、それでもどうかすると、検査官の目を逃れることができなかった。幾分はそれが原因となって、彼らは金を貯めておかないで、さっそく飲んでしまった。こういうわけで、獄内に酒が持ち込まれることになるのだ。捜索があるたびに、違犯者は財産ぜんぶなくしてしまったうえに、ひどい罰を受けるのがつねであった。けれども、捜索がすむと、すぐさまそのあとから不自由なものが補充されて、たちまち新しい品が姿を現わし、すべてが元々どおりになってしまうのであった。役人のほうもそのことを知っていたし、囚人たちも処罰に対して不平をいわなかった。もっとも、こうした生活はヴェスビオ火山の上に居をかまえた人間の暮らしにそっくりそのままであった。
 腕に職のないものはほかの方法で稼ぎをした。そのやり方にはかなり奇抜なものがあった。たとえば、あるものは仲買だけで稼ぎをしていたが、ときには意外千万なものが売買された、それこそ娑婆の世界では売ったり買ったりはおろか、商品と見なすことさえ、だれしも思いも寄らないような品物なのである。しかし、徒刑囚の世界はきめわて[#「きめわて」はママ]貧しいものだったから、ものを運転させる才覚も非凡なものであった。どうにもならないようなぼろっきれまでが相場を持っていて、何かの役に立つのであった。だれもが貧乏だったので、獄内では金も自由の世界とはまるで違った価値を持っていた。骨の折れるこみ入った仕事をしても、その報酬は、はした金であった。またあるものは高利貸をやっていい儲けをしていた。使い過ぎて一文なしになった囚人が、なけなしの品を高利貸のところへ持って行って、目の飛び出すような利息で幾枚かの銅銭を借りるのであった。もし期限内にその品を受け戻さないと、一刻の猶予も容赦もなしに売り飛ばされた。この高利貸商売は見る見るうちに繁昌して、ときどき点検を受けなければならない公給品、たとえばシャツとか、靴類とか、囚人にとっては一刻もなくてかなわぬ品々までが入質されるほどであった。しかし、そういうものを質草にした場合には、事態が妙な方向を取ることもあった。が、それはぜんぜん意想外なことでもないのだ。入質して金を受け取った男が、とかくの文句なしにいきなり自分たちの直接の長官になっている曹長のところへ行って、点検の際になくてはならぬ品を質に入れたと白状してしまう。すると、それらの品は上長官に報告もしないで高利貸の手から取り上げられ、もとへ返されるのであった。面白いことには、そんな場合、時としては喧嘩もなしにすんでしまうのであった。高利貸はものをいわず苦りきった顔をして、返すべきものを返してしまうばかりか、自分でもこんなことだろうと思っていた、といったような様子をしているのだ。おそらく彼は、自分も質を入れた男の立場になったら、それと同じことをしたに相違ないと、内心みずから認めざるを得なかったのだろう。といったわけで、あとでぃときに悪態を吐くことがあっても、べつだん悪意などはなく、ただ自分の気がすむように、といった程度に過ぎないのである。
 概して、だれもかれもがおたがい同士めちゃめちゃに盗み合った。たいてい一人一人のものが、公給品を保管するために鍵のかかる箱を持っていた。それは大っぴらに許されていたのだが、箱もなんのたしにもならなかった。そこにはどんなに巧妙な泥棒がいたかが、容易に想像できると思う。わたしにしんから敬服しきっていた(これはいささかの誇張もなしにいうことができる)一人の囚人が、わたしの手もとから聖書を盗み出したことがある。これは監獄内で持つことを許されていた唯一の書物である。彼はその日すぐわたしにこのことを自白したが、それも後悔の念に駆られたからではなく、わたしが長いことさがしているのを見て気の毒に思ったまでである。そのほか、酒を売ってたちまち金持ちになった酒屋たちがいた。この商売については、いつか特別に物語ることとしよう。それはかなり面白い話なのである。監房内には密輸入で食らい込んだ者もたくさんあった。だから、これほど検査や警固の厳しい中で、どうして獄内に酒が持ち込まれたのか、などとあきれることは毛頭ないのだ。ついでながら、密輸入はその性質上、なにか一種特別な犯罪になっていた。たとえば、ある密輸入者にとっては、金とか利益とかいうものが第二義的な役割しかつとめず、第二段の位置におかれているということを、はたして想像できるだろうか? ところが事実はまったくそのとおりなのだ。密輸入者は自分の情熱で仕事をし、それを天職と心得ている。彼らはいくぶん詩人なのである。いっさいのものを賭けて冒険をあえてし、恐るべき危険に向かって突進し、詭計を弄し、工夫を凝らし、たくみに難関をのがれるのである。時としては、一種の霊感によって行動することさえある。それは、博奕《ばくち》と同じくらい強烈な情熱である。わたしは監獄の中で、押出しは堂々としているけれども、静かな、おとなしい、つつましやかな、どうして監獄などへ入って来たか見当もつかないような一人の囚人を知っていた。この男はどこまでも人づきのいい毒気のないたちで、監房生活の間じゅう、だれともかつて喧嘩というものをしたことがない。ところが、西の方の国境からやって来た男で、密輸入のために食らい込んだのであるから、当然我慢しきれないで、酒の持ち込みを始めたのである。そのために、彼は何度処罰を受けたか知れないし、またその笞《むち》をどれほど恐れたか知れない! のみならず、酒の商売そのものがほんの爪の垢《あか》ほどの儲けにしかならなかったのである。酒でふところを肥やしたのはただ金主ばかりであった。ところが、この変人は、芸術のための芸術を愛していたのである。彼は女のような泣き虫で、罰を食らった後では、もういっさい酒の密売はしないと何度誓ったか知れはしない。どうかすると、まるひと月くらい雄々しくも自制しているが、とどのつまりはやっぱり持ち切れなくなる……こういった連中のおかげで、獄内では酒に不自由することがなかった……
 最後にもうひとつ、囚人を裕福にするというほどではないけれども、年じゅう絶えることのない、しかも功徳《くどく》になる収入の道があった。それは施しの金である。わが上流社会は、商人とか町人とか、その他一般に民衆が、いわゆる『不仕合わせな人たち』のためにどれだけ心を遣《つか》うかということに、いっこう理解を持っていない。施しはほとんどたえずあるけれど、たいていいつも黒パンか、白パンか、丸パンであって、金でくれることははるかにまれである。もしこういった施しがなかったら、多くの土地土地における囚人たち、ことに既決囚よりもずっと厳格に取り扱われている未決囚は、ひどく苦しいはめにおかれたに相違ない。施し物は宗教的な考えから、囚人たちの間に等分に分配される。もしみんなに行き渡るだけなかったら、丸パンなどは同じ量に切り分けられる。ときによると、六等分されることさえあって、一人一人の囚人が、かならず自分の分け前をもらうことになっている。わたしも自分がはじめて金の施しを受けたことを覚えている。それは監獄へ入ってから間もなくのことであった。わたしは警護兵に伴なわれて、ただ一人、朝の仕事から帰っていた。すると、向こうから母娘《おやこ》のものがやって来た。子供は十ばかりの女の子で、小さな天使のようにかわいかった。わたしは彼らを前に一度見たことがあった。母親は兵士の妻で、今は寡婦《かふ》になっていた。亭主は若い兵隊で、裁判にかけられている間に、衛戍病院の囚人室で死んでしまった。その時、わたしも同じ病院で病床についていたのだ。女房と娘は最後の別れにやって来た。二人ともずいぶん泣いたものである。わたしの姿を見ると、女の子は顔をあからめて、なにか母親にささやいた。母親はたちまち足をとめて、風呂敷包みの中から四分の一コペイカの銅貨をさがし出し、それを娘に渡した。女の子はいきなりわたしの跡を追って駆け出した。
「『不仕合わせなおじさん』さあ、このお金を取ってちょうだい、キリストさまのために!」と彼女はわたしの前へ駆け出して来て、金をわたしの手に押しつけるようにしながらこう叫んだ。わたしはその銅貨を受け取った。女の子はさも満足げな様子で母親のそばへ引っ返した。この銅貨をわたしは長いことしまっておいた。

[#3字下げ]2 最初の印象[#「2 最初の印象」は中見出し]

 最初の一か月、というより一般に監獄生活のはじめのころは、今でもわたしの記憶にまざまざと印象されている。その後、獄内で過ごした幾年かは、それにくらべると、はるかに漠然とした形でわたしの頭を掠《かす》めるばかりである。ある印象などはすっかり消え失せたり、雑然と交じり合ったりして、ひとつの重苦しい、単調な、息づまるような感じを残しているに過ぎない。
 が、徒刑生活の最初の数日に経験したことは、すべてがついきのうのことのように、今でもまざまざと目の前に浮かんで来る。それはまた当然そうあるべきなのだ。
 はっきり覚えているが、この生活に踏み込んだ第一歩から、わたしはそこに何ひとつ特に目を見はるような異常なもの、というよりむしろ意想外のものを発見しなかったような気がして、奇異の感に打たれたものである。それはなにもかも、わたしがシベリヤへ送られる途中、前途に待ちかまえている運命を推察しようと努めた時、わたしの想像裡に閃いたものばかりであった。しかし間もなく、このうえもなく奇怪千万な意外事や、このうえもなく醜悪な事実が数限りなく現われて、ほとんど一歩ごとにわたしの注意を引きとめるようになった。ようやくその後に、監獄生活というものをかなり長く体験した時、わたしははじめてこういう生活の異常さ、意外さを完全に理解したが、しかしそれでもますます驚きあきれるばかりであった。正直なところ、この驚異の念は長年にわたる徒刑生活の間じゅう、どこまでもわたしについてまわった。わたしはついにそれに慣れることができなかった。
 監獄に入った時のわたしの第一印象は、概していまわしいものであった。が、それにもかかわらず、不思議なことには、実際の監獄はわたしが道々心に想像したよりか、ずっと暮らしいいような感じがした。囚人たちは足|枷《かせ》こそ引きずってはいるものの、自由に獄内を歩きまわって、悪態をついたり、歌をうたったり、自分の稼ぎ仕事をしたり、パイプを吹かしたり、数こそわずかではあったけれども、酒を飲むものさえいた。中には夜な夜なカルタの勝負を始めるものもあった。仕事そのものさえも、早い話が、それほど苦しい懲役[#「懲役」に傍点]じみたようなものには毛頭思われなかった。だいぶたってから、わたしはやっと合点がいったが、この仕事の苦しさとか懲役[#「懲役」に傍点]らしさとかいうものは、骨が折れて、のべつ絶え間がないということよりも、むしろ笞に強制[#「強制」に傍点]されて義務的にしなければならない、という点に存するのである。自由の境涯にいる百姓は、おそらく比較にならないほど余計に働くかもしれない。ことに夏などは、どうかすると夜まで働くことがある。しかし、それでも彼らは自分のために働き、筋の通った目的があって働いているのだから、当人にとってなんの益にもならない労働を強制的にやらされている懲役人よりは、くらべものにならないほど楽《らく》なのである。一度こんな考えが、わたしの頭に浮かんだことがある。もしある人間に最も残忍な刑罰を加えて、極悪|無慚《むざん》な殺人犯でさえ慄然として、その刑の名前を聞いただけでぎょっとするような目にあわしてやろう、その人間を精神的に粉砕し抹殺しようと思ったら、その男に当てがう仕事を徹頭徹尾、完全に無益かつ無意味なものにすることによって、それで目的は達しられるだろう。たとえ現在の懲役の仕事が囚人にとって興味のない退屈なものであるにせよ、仕事それ自体は筋道が通っているのだ。囚人は煉瓦を作ったり、土を捐ったり、漆喰《しっくい》を塗ったり、家を建てたりしているのだから、これらの仕事にはちゃんと意味があり、目的がある。だから、懲役人はどうかするとそれに夢中にさえなり、すこしでもうまく、手早く、りっぱに仕上げようという気になる。ところが、たとえば、囚人にひとつの桶の水を別の桶に移し、またそれをもとの桶に戻すような仕事をさせたり、砂を搗《つ》かせたり、ひと山の土をひとつの場所から別の場所へ運び、それをまたもとの所へ積み直すような仕事をさせたら、囚人は幾日かの後に首を縊《くく》ってしまうか、それとも、ええ死んだってかまわない、ただこのような屈辱や、恥や、苦痛をのがれさえすればいいという気持ちで、数限りない犯罪をやってのけるに相違ないと思う。もちろんそのような刑罰は拷問となり、復讐と化して、なんら合理的な目的を達することができないから、したがって無意味なものとなってしまう。しかし、すべて強制的な労働にはこういった拷問、無意味、屈辱、羞恥が部分的にはかならず含まれているわけだから、懲役は、ほかならぬ強制的なものであるという点から見て、すべての自由労働にくらべると、比較にならぬほど苦しいものになって来るのである。
 もっとも、わたしが監獄へ入ったのは冬の十二月であったから、五倍もつらい夏の労役については、まだなんの観念も持っていなかった。冬の間は、わたしたちの要塞では概して公務労役は少なかった。囚人たちはイルトゥイシュ河へ官有の古|艀《はしけ》こわしに行ったり、作業場で働いたり、吹雪で官舎のまわりに堆《うず》高く積もった雪を掻きのけたり、雪花石膏を焼いたり、搗き砕いたり、そういったようなことをしたものである。冬の日は短いから、仕事はすぐに終わって、われわれ一同は早くから監房へ帰って来た。そうすると、たまたま何か自分の仕事でもないかぎり、ほとんど何もすることがないのであった。自分自身の仕事をしていた囚人は、ようやく全体の三分の一に過ぎなかったろう。そのほかの連中は、ただのらくらして、用もないのに、監房じゅうをうろつきまわったり、悪口をついたり、仲間同士の間で悪企みをしたり、騒動を引き起こしたり、いくらかでも金が手に入ると、へべれけに酔っぱらうのであった。夜になると、たった一枚しかない下着を賭けてカルタをする。それもこれもみんな何ひとつすることがなくて、ぶらぶらしている辛気《しんき》臭さから来るのである。のちになって、わたしは自由を奪われ強制労働をやらされるということ以外に、徒刑生活にはもうひとつ、おそらくほかの何よりも優る大きな苦しみがあることを悟った。それは強制的に共同生活をさせられる[#「強制的に共同生活をさせられる」に傍点]ことである。共同生活ということは、もちろんほかの所にもあるけれど、監獄へはだれしもいっしょに暮らしたくないような人間が入ってくるのだ。わたしは一人一人の徒刑囚がこの苦痛を味わっているものと確信する。もちろん、大部分は無意識に感じているに過ぎないだろうが。
 また同様に食物も、わたしの目にはかなりじゅうぶんのように思われた。囚人たちのいうところによれば、これだけの食べものはヨーロッパロシヤの懲治隊にもないとのことであった。わたしはその実否を判断するのはやめにしよう。わたし自身そちらのほうの経験がないのだから。そのうえ、多くの者は自分で自分の食べものを手に入れることができたのである。牛肉は一|斤《きん》二コペイカで、夏には三コペイカになるのであった。しかし、自分の食べものを備えておけるのは、いつも金を持っている連中に限られた。たいていの囚人は、お上《かみ》から当てがわれるものを食べていたのである。けれど、囚人たちは自分の食べものを自慢しながらも、ただパンのことだけを問題にして、パンをいちいち目方にかけず、みんなの分をいっしょに渡してもらえるのをありがたがっていた。この目方で配給されることを、彼らは何より恐れていた。めいめいの分をいちいち計って渡されたら、おそらく三分の一の人間は空腹をかかえていなければならなかったろう。ところが、共同で支給されると、みんなに行きわたるのであった。わたしたちのパンはどうしたものか特に味が好くて、それが町でも有名なくらいであった。それは監獄の竈《かまど》がうまくできているからだとされていた。肉入菜汁《シチイ》はひどく感服しなかった。それは共同の鍋で煮て、ほんのちょっと挽《ひ》き割り麦で味をつけたものであったが、ことに祭日以外の日には薄くて水っぽかった。その中に油虫がやたらに入っているのには、わたしもぎょっとしたほどである。が、囚人たちはそんなことなどいっこう平気なのである。
 最初の三日間、わたしは仕事に出なかった。だれでもはじめて入ったものはこんなふうにして、旅の疲れを休ましてもらうのである。しかし、翌日はさっそく足枷《あしかせ》をつけ直すために、監獄から出て行かなければならなかった。わたしの足枷は正式のものではなく、輪を繋いだようになっていて、囚人たちの言葉によると、『鳴りの悪いやつ』であった。それは外から見えるところにつけるのだ。監獄で正式とされている足枷は、労役に都合のいいようにできていて、ほとんど指ほどの太さのある四本の鉄の棒を、三つの輪でたがいに結び合わしたものである。それはズボンの下につけなければならなかった。真ん中の輪には皮紐が結びつけられていて、それがまたルバシカの上に締めた皮のバンドにとめられるようになっていた。
 はじめて監房で迎えた朝のことは、いまだに忘れられない。監獄の門ぎわにある衛兵所で起床の太鼓が鳴ると、それから十分ばかりして、衛兵下士官が監房の戸をあけ始める。人々はそろそろ目をさます。六分の一斤蝋燭のぼんやりしたあかりの中で、囚人たちは寒さにふるえながら、めいめいの寝板から起きあがる。たいていのものは黙り込んで、寝起きの仏頂面をしているのだ。彼らはあくびをしたり、のびをしたり、烙印を捺された額を皺《しわ》めたりして、十字を切っているものがあるかと思えば、早くも口喧嘩を始めたものもいる。人いきれでたまらなく息苦しい。扉をあけるが早いか、冷たい冬の空気がさっと流れ込んで、白い水蒸気が監房の中に、渦巻きひろがる。水桶のあたりには、囚人たちが押し合いへし合いしている。彼らは順々に柄杓《ひしゃく》を取って、口に水を含み、その水をはき出しては、顔や手を洗うのであった。水は前の晩から雑役夫が用意しておくのである。どの監房にも、仲間うちから規定にしたがって選み出した囚人がいて、これが監房内の雑用をすることになっていた。その囚人は雑役夫と呼ばれて、労役には出なかった。その仕事は監房内の掃除、寝板や床の雑巾がけ、便器の持ち込みや取り片づけのほか、日に二回新しい水を汲んで来ることであった。朝は洗面用、昼間は飲料用である。たったひとつしかない柄杓のことで、たちまち喧嘩が始まるのだ。
「なんだって出しゃばりやがるんだ、このかさっかき面め!」と、やせて背の低い、浅黒い気むずかしそうな顔をした、坊主頭になにか妙なでこぼこのある囚人が、もう一人のずんぐり肥った陽気な赤ら顔の男を突き飛ばしながら、ぶつくさいうのであった。
「なにどなりやがるんだ! 待ってもらいたきゃ、金を出すのが定式だ。てめえこそどこかへうせやがれ! まるで銅像よろしくそっくり返りゃがって。みんな見ろよ、この野郎まるでれんぎ(礼儀)もちゃほう(作法)もありゃしないんだからな」
 れんぎもちゃほうもという言葉は一種の効果を奏した。多くのものは笑い出した。陽気な肥っちょにとっては、それこそ思う壺だったのである。この男はあきらかに、監房内でわれから進んで道化の役を買って出ているらしかった。背の高い囚人は、深い侮蔑の色を現わして相手を眺めた。
「なんだ、このやくざな牝牛野郎め!」と彼はひとり言のようにいった。「監獄で白パンにありついたもんだから、ぶくぶく食い肥りゃがって、精進落ちまでにゃ豚の仔を十二匹も生むつもりで、喜んでやがるんだろう」
 肥っちょはとうとう本気に怒り出した。
「いったいてめえはどんなしろものでいる気なんだい?」と彼は不意に真っ赤になって叫んだ。
「そうとも、たしかにしろものだよ!」
「だから、どんなしろものかってえんだよう?」
「こういうしろものさ」
「こういうって、どんなもんだい?」
「どうもこうもありゃしねえ、ただこんなものさ」
「だからよ、いったいどんなのかってきいてるんじゃねえか?」
 二人はたがいに食い入るようににらみ合っていた。肥っちょは返答を待つ間に、双の拳を握りしめていた。今にもすぐ飛びかかって、ひと喧嘩やろうという身がまえである。わたしはほんとうに喧嘩が始まるものと思い込んでいた。わたしにしてみれば、こんなことはなにもかも珍しかったので、好奇の目を見はって眺めていた。が、のちになって知ったことだが、こういった場面はすべてごく罪のないものであり、ただみなを面白がらせるために、喜劇のようなつもりでわざとやってみるだけであって、ほんとうの喧嘩になったことはほとんど一度もない。これらはすべてかなり特徴のある事がらで、監獄内の気風をまざまざと現わしている。
 背の高い囚人は落ちつき払って堂々と立っていた。彼はみんなが自分のほうを見て、返事の仕方ひとつで赤恥をかくかどうかと、待ちかまえているのを感じた。だから、ここでひとつ頑張って、自分がほんとうにたいしたしろものであることを証明しなければならない。しかも、どんなにたいしたしろものであるかを証明する必要があるのだ。彼は、言葉に尽くされぬ軽蔑の色を浮かべて、相手を横目ににらんだが、侮辱の効果を強めるために、まるで虫けらでも見分けようとするもののように、肩越しにじろじろと見おろす恰好をしながら、ゆっくりとはっきりした調子でいった。
「カガンよ!([#割り注]意味のない、即席に考えつかれた出たらめの言葉[#割り注終わり])……」
 つまり自分はカガンというしろものだ、というわけなのだ。どっと崩れるばかりの高笑いが起こって、この囚人の頓知に敬意を表した。
「てめえはやくざものだ、カガンでもなんでもありゃしねえ!」
 自分のほうがあらゆる点でひけを取ったと感じたので、肥っちょは憤怒の極に達してわめき出した。
 しかし、喧嘩が本式になりかけるが早いか、人々は二人の元気ものをたちまち押えつけてしまった。
「なにをがあがあ騒ぎ立てやがるんだ!」と監房じゅうのものが彼らをどなりつけた。
「そんなにわめいて咽喉《のど》の皮を破るよかも、いっそつかみ合いをやったほうがよかろうぜ!」とだれかが隅のほうから叫んだ。
「なあに、今に見てろ、つかみ合いをおっ始めるから!」と応じる声が聞こえた。「おれたち仲間は元気がよくて、喧嘩っ早い連中だから、こっちが七人で相手が一人なら、びくびくなんかしやしねえよ……」
「いや、二人とか感心なものよ……一人はパンー斤のために監獄へほうり込まれるし、一人はまるで泥棒猫みてえに、百姓の女房のクリームを盗み食いして、笞をちょうだいしたんだからな」
「おい、おい、おい、もうたくさんだ」と廃兵がどなった。これは監房内の秩序を保つためにここにおかれているので、そのために片隅の特別な寝台で寝起きしているのであった。
「おい、みんな、水だ! ネリヴァード・ペトローヴィチのお目ざめだぜ! ネリヴァード・ペトローヴィチ兄貴に水だ!」
「兄貴……わしがてめえの兄貴なんかでたまるもんか! 一ルーブリがとこもいっしょに飲んだことはありゃしねえ、それを兄貴だなんて!」と廃兵は外套の袖に手を通しながらぼやいた。
 人々は点呼の支度にかかった。次第に夜が明けて来る。炊事場は黒山のような人だかりで、通り路もないほどであった。囚人たちは半外套を着、半々に布をはぎ合わせた帽子をかぶって、炊事番の一人が切っているパンのそばにひしめいていた。炊事番は囚人仲間から選ばれて、各炊事場二人ずつ出ることになっている。炊事場ぜんぶを通じてたったひとつしかないパンと肉切り用の庖丁は、この炊事番たちが預かることになっているのだ。
 半外套を着て帽子をかぶり、その上からバンドを締めて、すぐにも仕事に出られるように支度のできた囚人たちは、方方の隅々やテーブルのまわりに陣取った。なかにはクワス入りの椀を前に控えた連中もいた。このタワスの中にパンを細かく砕いたのを入れて、それをすするのであった。喧々囂々《けんけんごうごう》の声は耳を聾《ろう》するばかりであった。しかし、なかには片隅に引っ込んで、いかにも分別らしく小さな声で話しているものもあった。
「アントーヌイチ爺さん、今日は、よろしくおあがり!」と一人の若い囚人が、苦い顔をした歯抜けの囚人のそばに腰をおろして、こう話しかけた。
「ああ、ご機嫌よう、もしおまえがわしをからかっておるのでなければな」と相手は目をあげないで、歯のない土手でパンを噛もうと骨折りながら答えた。
「だってなあ、アントーヌイチ、おれはおめえが死んじまったのかと思ったんだもの、まったくよ」
「なあに、てめえのほうがさきに死ぬがいい、わしゃその後からな……」
 わたしは二人のそばに腰をおろした。わたしの右手にはしかつめらしい顔をした囚人が二人、おたがい同士自分の威厳を失うまいと努めながら、何やら話し合っていた。
「おれはだいじょうぶ、ひとにものを盗まれるなんて心配はありゃしねえ」と一人がいった。「おれはな、自分のほうからひょっとしてなにか盗みゃしねえかと、それがかえって心配なくれえだよ」
「ふむ、ところがおれなんか、もし人が素手でこのからだに触ったら、そいつきっと火傷するから」
「なんでそんなに火傷なんかさせることがあるんだ? やっぱり同じヴァルナーク([#割り注]シベリヤ流刑になった罪人を指す特殊な言葉[#割り注終わり])じゃねえか。なにしろ、おれたちにゃ、それよりほかに名前がねえんだからなあ……あの阿魔め、しとを裸にしやがって、ありがとうのひとつもいいやがらねえ。あのとき、おめえ、おれのなけなしの一コペイカ銅貨《だま》もすっ飛んでしまったよ。あいつ、二、三日前にやって来たんだが、あんなのと二人でどこへ行くとこがあると思う? 仕方がねえから、あのフェージカの悪党んとこへ無理に頼んで入れてもらったのさ。やつは町はずれにまだ家を一軒もってやがるんだ、穢《けが》らわしいジュウのソロモンから買ったんだよ。ほら、そのあとで首を縦って死んだ野郎よ」
「知ってるよ。あいつ一昨年《おととし》ごろ、この牢ん中で酒屋をしてやがったっけ、綽名《あだな》をグリーシュカといって、いんちき酒屋だったよ。先刻承知だあね」
「ほうら、知らねえじゃねえか。そいつは別のもぐり酒屋だよ」
「どうして別のだい! てめえなんか、てんから何も知りもしねえくせに! よし、それじゃおれがいくらでも証人を引っぱって来て見せらあ!」
「引っぱって来る! いってえ、きさまはどこの馬の骨だい、そしておれをだれだと思ってけつかるんだ?」
「だれもくそもあるもんか! それどころか、おりゃてめえをのしてやったことがあるじゃねえか、それを別に自慢もしねえでいりや、よくもいいやがった、だれだと思うなんて!」
「てめえがおれをのしたあ! へん、おれをのすようなやつはまだ生まれてもいねえし、前におれをのした野郎はもう土ん中にねていらあ」
「なんだ、この疫病神め!」
「てめえなんか、シベリヤの流行病《はやりやまい》にでも取っつかれるがいい!」
「てめえこそトルコ人の刀に突っ剌されてしまやがれ!……」
 といった調子で悪態のつき合いが始まるのだ。
「やれ、やれ、やれ! また騒ぎをおっぱじめやがった!」
とまわりのものが口々にどなり出す。「娑婆《しゃば》でまっとうな暮らしをするすべを知らなかったもんだから、ここで白パンにありついてうれしがっていやがるんだ……」
 こうして二人は取り鎮められるのだ。悪態をついたり『口喧嘩』をしたりすることは、べつに法度にはなっていない。それはすべてのものに取って、ある程度気晴らしになるからである。しかし、つかみ合いの喧嘩になることはめったになく、よくよくの場合でなければ取っ組み合いはやらない。つかみ合いの喧嘩は少佐に報告しなければならない。すると、取り調べが始まって、少佐自身がお神輿《みこし》をあげて来る、――要するに、みんなが都合の悪いことになるので、したがってほんとうの喧嘩はやらせない。それに、当人同士もどっちかといえば気晴らしのため、弁舌の練習のために悪口をたたくのである。自分で自分を欺くようなことさえ珍しくない。はじめはもの凄い勢いで猛り立ってやり出すので……今にも双方からおどりかかってつかみ合いを始めるに相違ないと思っていると、どうして、どうして、あるところまでいくと、あっさり別れてしまうのだ。最初、わたしはこういう有様を見聞きして、ひどく驚いたものである。わたしはここにわざと徒刑囚たちの最もありふれた会話を例に取って来た。はじめの間は、気晴らしのために悪口をつき合って、そこになにかの楽しみなり、愉快な練習なりを見いだすことができるということが、まるで想像できなかったのである。もっとも、そこにはまた虚栄心も手伝っていることを忘れてはならない。弁舌の達者な悪口家は人から尊敬された。彼らは役者のように拍手喝采を受けかねんばかりであった。
 わたしはもう前の晩から、みんながわたしを白い目で見ているのに気がついた。
 わたしは早くも幾人かの暗欝な眼《まな》ざしを身に感じた。かと思えば、その反対に、わたしが金を持って来たなと目星をつけて、わたしのまわりをうろうろしている囚人もあった。この連中はすぐにわたしの機嫌を取って、新しい足枷の付けかたを教えてくれたり、無論、金を取ってではあるが、お上から支給された品や、わたしが自分で監獄へ持って来た幾枚かの下着類をしまっておくために、錠前つきの箱を手に入れてくれたりした。そのくせ、あくる日にはさっそくそれをわたしの手もとから盗み出して、飲んでしまったものである。その中の一人は後日、心底からわたしに信服するようになったが、それでもおりさえあれば、わたしのものを盗み出すことをやめなかった。それはほとんど無意識に、まるで義務かなんぞのように、いとも平然とやってのけるので、腹を立てるわけにもいかないのだ。
 なかんずく、自分のお茶というものを持っていなければならないから、それにつけては急須を整えておいたらよかろうと教えてくれた。そして、当分の間ひとのものを損料借りにするように肝煎《きもい》りをし、炊事番を紹介してくれた。もし特別に何か食べたかったり、食料品を買い込みたいと思ったら、月に三十コペイカ出しさえすれば、炊事番がなんでもお好み次第にしてくれるというのである。……もちろん、彼らはわたしから金を借りた。一人一人のものが最初の一日のうちに、三度ずつも無心に来たものである。
 徒刑場では、概して貴族出のものを、敵意のこもった暗い目で眺めるものである。
 彼らはもはやいっさいの権利を剥奪されて、ほかの囚人たちとぜんぜん平等にされているにもかかわらず、囚徒たちはけっして彼らを自分の仲間とは認めない。それは意識的な先入見から生ずるのではなく、ほんとうに衷心《ちゅうしん》から無意識にそうなるのである。彼らはわたしたちの零落ぶりを好んで嘲笑していたくせに、心底からわたしたちを貴族と思い込んでいたのである。
「だめだよ、今じゃもうしようがねえ、諦めるさ! ピョートルも昔は馬車でモスクワじゅうを押しまわったもんだが、今じゃそのピョートルが繩をなってる始末だからな」云々と、さまざまな悪態を浴びせる。
 彼らは、わたしたちが、隠そう隠そうとしている苦しみを喜んで眺めているのだった。はじめのうち仕事に出てことにつらかったのは、わたしたちに彼らほどの力がなく、じゅうぶんに彼らの手伝いができなかったことである。いや、民衆の信頼を得て(とくにこの監獄の中にいる人々のような民衆の信頼を得て)彼らの愛を獲得するということほど、世にもむずかしいことはないのだ。
 この徒刑場にも貴族出のものが幾人かいた。第一は、五人ばかりのポーランド人である。彼らのことについてはいつか特別に語ることとしよう。徒刑囚たちはこのポーランド人を恐ろしくきらって、ロシヤの貴族出の囚人以上に憎んでいた。ポーランド人たちは(わたしはただ政治犯だけのことをいっているのだが)彼らに対して妙に皮肉な、人をばかにしたような悪丁寧な態度をとり、彼らとの交際を極度にさけ、囚人たちに対する嫌悪の念をまるで隠すことができなかった。こちらでもそれをちゃんと悟って、同じ態度で報いるのであった。
 わたしが二、三の徒刑囚の好意を贏《か》ちうるまでには、かれこれ二年、監獄で暮らさなければならなかった。が、とにかく彼らの大部分は、とどのつまりわたしを好きになって、「いい人間」として認めてくれるようになった。
 ロシヤ貴族の中から出て来たものは、わたしのほかに四人あった。一人は卑屈で陋劣《ろうれつ》な、すっかり堕落しきった男で、間諜と密告を商売にしていた。わたしは監獄へ入る前から、もうこの男のことを聞いていたので、最初の日からいっさいの交渉をたってしまった。もう一人は、わたしがすでにこの記録の中で述べておいた例の父親殺し、それからつぎはアキーム・アキームイチである。わたしはこのアキーム・アキームイチほどの変わりものをめったに見たことがない。彼はわたしの記憶に深く刻み込まれた。背が高くてやせぎすで、すこし知恵の足りない、ひどい無教育者のくせに、人なみはずれた理屈やで、ドイツ人のようにきちょうめんであった。囚人たちはいつも彼のことを笑っていたが、なかにはその喧嘩早い、口やかましい、わけのわからない性分を知って、かかり合いになるのを恐れていたくらいである。彼は、いきなりはじめから、みんなとざっくばらんな口をきき、悪口をついたり、つかみ合いの喧嘩までするのであった。その正直なことといったら、類がないほどであった。ちょっとでも不正を見つけると、自分に関係のないことでもすぐに絡んでいった。無邪気なことも無類で、たとえば、ほかの囚人たちと口喧嘩を始めると、ときどき相手を泥棒だといって責めつけ、盗みなんかしちゃいけないよと大まじめで説教する、といったような具合であった。彼は少尉補としてコーカサスで勤務していたことがある。わたしはこの男と入獄第一日に知り合いになったが、彼はさっそくわたしに自分の身の上話を聞かせた。コーカサスのある歩兵連隊で見習士官から勤務を始めたが、長いこと下積みの仕事をしたあげく、やっと少尉補に任官して、さる要塞の長官として赴任を命ぜられた。すると、近くに住んでいた帰順山民の公爵が、彼の要塞に火をつけて夜襲を企てた。が、その試みは失敗に終わった。アキーム・アキームイチは策略を用いて、主謀者がだれであるかさえ知らないようなふりをしていた。で、それは帰順しない山民どもの仕事ということにされてしまった。一か月ばかりたって、アキーム・アキームイチはその公爵を親しく自分の家へ招いた。相手は策略であるとは夢にも知らずやって来た。アキーム・アキームイチは自分の部隊を整列させ、衆人環視の中で公爵の罪状を挙げて糺弾し、要塞に放火するのがいかに恥ずべき行為であるかを説明して聞かせた。それと同時に、帰順した公爵は今後いかなる行動をとるべきかということについて、微に入り細を穿った教訓を長々とのべたのち、その結論として彼を銃刑に処し、その顛末を即刻詳細に上官へ報告した。この事件で彼は軍法会議に付せられ、死刑の宣告をうけたが減刑され、第二類の徒刑囚として、十二年の刑期でシベリヤの要塞へ送られた。彼は自分の行為が間違っていたことをじゅうぶんに自覚して、わたしに向かっても、そのことは公爵を銃刑にする前からよく承知していた、帰順した山民は法律によって裁判しなければならぬことはちゃんとわかっていたのだ、とこんなことを言いいいしたけれど、それにもかかわらず、彼は自分の罪状をほんとうに合点することがどうしてもできなかったのである。
「だって、考えてもみるがいい! なにぶんあいつはわしの要塞に火をつけたんだからな。いったいそんなことをされて、頭を下げてお礼でもいわなくちゃならないのかね?」と彼はわたしの反駁に答えながら、そういうのであった。
 が、囚人たちはアキーム・アキームイチの薄のろを笑いながらも、とにかくきちょうめんで器用なのに敬意を払っていた。
 およそアキーム・アキームイチの知らない手仕事というものはなかった。彼は指物師でもあれば靴屋でもあり、ペンキ屋でもあれば、鍍金師、錠前屋でもあった。しかも、それはすべて徒刑場へ来てから習い覚えたのである。彼はなにもかも独習でやってのけた。一度見れば、すぐできるのであった。彼はそのほかいろいろな箱、籠、提灯、玩具などを作って、それを町で売っていた。こういうわけで、彼はいつも小金を手に入れたが、さっそくそれで新しいシャツや、柔らかい枕や、折り畳みのできる藁蒲団を仕入れたりするのであった。わたしと同じ監房にいたので、わたしが徒刑場に入った当座は、なにくれとめんどうを見てくれた。
 監獄から労役に出るときには、囚人たちは衛兵所の前に二列に並んだ。囚人たちの前とうしろには装填した銃をかついだ警護の兵隊がついていた。そこへ工兵の将校と警護長と、幾人かの工兵下士の現場監督が出て来た。警護長は囚人の数を調べて班に分け、それぞれの仕事場へさし向けるのであった。
 わたしはほかの囚人たちといっしょに工兵の作業場へおもむいた。それはさまざまな材料を一面に積んである、大きな庭にたてられた低い石造家屋であった。その中には鍛冶場、錠前工場、指物工場、ペンキ塗り場などがあった。アキーム・アキームイチはここへかよってペンキエ工場で働き、オリーヴ油を煮たり、塗料を調合したり、テーブルやそのほかの家具類を胡桃《くるみ》材まがいに仕上げたりした。
 足枷をつけかえてもらうのを待ちながら、わたしはアキーム・アキームイチを相手に、監獄の第一印象を話した。
「そうなんだよ、やつらは貴族を好かないんだよ」と彼はいった。「そのうえ、政治犯ときたらなおさらで、取って食っても飽き足らないくらいなのさ。それも無理のない話で、第一、きみたちはあいつらとは似ても似つかない別の人間なんだからなあ。第二には、やつらは以前、農奴でなけりゃ兵隊だったのだから、やつらがきみたちを好きになれるかどうか、考えてもわかるじゃないか。ここは、まったくの話が、住みにくいところさ。だがロシヤの懲治隊の中はもっとつらいぜ。現におれたちの仲間にも、あっちからきた連中がいるが、ここの監獄をやたら無性に褒めちぎって、まるで地獄から極楽へ引っ越したようにいってやがる。それもべつに仕事がつらいっていうわけじゃない。なんでもあっちじゃ、第一類となると、上官も軍人は一人もいないそうだ。すくなくとも、おれたちのほうとは遣りかたが違うって話だ。あちらじゃ流刑囚が自分の小さな家を持って、それに住むことができるそうだよ。もっとも、おれは自分で入っていたわけじゃないが、そういう話なのさ。頭も剃られないし、囚人服も着て歩かないそうだが、しかし、ここのようにお仕着せを着て、頭を剃っているのも悪くないよ。なんといってもこのほうがきまりがついて、見た目にも気持ちがいいからな。ところが、みんなはこいつが気に食わないんだ。第一、やつらを見るがいい、ひどいならずものの寄り合いだからな! 少年兵あがりがいるかと思えば、チェルケス人がいるし、分離派宗徒がいるかと思えば、かわいい女房子供を国に残してきたという正教の百姓もおり、ユダヤ人がいるかと思えばジプシイもいるし、そのほかどこの馬の骨ともわからん野郎もいる。こんなのがみんな、いやでも応でもひとつところに寝起きして同じ鍋のものを食い、同じ寝板の上で寝なくちゃならないんだ。それに、何もかも不自由だらけで、ひと切れでも余計に食べたいと思ったら、盗み食いをしなけりゃならず、一コペイカ二コペイカの金でも、長靴の胴にかくさなくちゃならんちゅう始末だ。それに、明けても暮れても監獄、監獄で、ほかになんにもありゃしない……だから、いつとはなしに、ばかなことも考えるようになるのさ」
 しかし、そんなことはわたしも知っていた。わたしがとくに聞きたかったのは、例の少佐のことであった。アキーム・アキームイチはべつに隠し立てもしないで、話して聞かせてくれたが、忘れもしない、わたしの受けた印象はたいして愉快なものではなかった。
 しかしまだ二年間というもの、わたしは彼の監督のもとに暮らさなければならぬ運命を背負っていた。彼について、アキーム・アキームイチが話して聞かせたことは、いちいちほんとうだということがわかったけれども、ただ違うところは、現実の印象のほうが、ただの話から受けた印象より、つねに強烈な点であった。それは恐るべき人間であった。というのは、このような人間が二百人からのものに対して、ほとんど無限の権力をもって君臨していたからである。個人としては、彼はただ頭に締め括《くく》りのない、意地の悪い男というだけのことであった。彼は囚人たちを自然おのれの仇のように見なしていたので、その点にまず彼の重大な誤りが存していたのだ。なるほど多少の才能はあったが、彼の持っているものは何もかも、優れた点までが妙にひねこびれた形をとっているように思われた。自制心のない腹黒なこの男は、どうかすると、夜中に監房へ闖入《ちんにゅう》して来て、もし囚人が左枕で寝たり、仰向きに寝たりしているのを見ると、翌朝さっそく懲罰処分にしたものである。「わしの命令したとおり右枕で寝ろ」というわけなのだ。獄内では彼を憎んで、疫病神《やくびょうがみ》のように恐れていた。その顔つきも、どす赤く、見るから毒々しそうであった。彼が自分の従卒のフェージカにすっかりまるめ込まれているのは、だれもがみんな知っていた。彼が何よりもかわいがっていたのは、むく犬のトレゾルカで、このトレゾルカが病気した時などは、悲しみのあまり気も狂わんばかりであった。人の話によると、彼はまるで親身の子供ででもあるように、このむく犬をだいて慟哭《どうこく》したということである。いつもの癖で、取っ組み合いせんばかりの勢いで一人の獣医を追い出したが、監獄の中に図抜けて治療のうまい素人獣医がいるということをフェージカの口から聞いて、さっそくその男を呼び寄せた。
「助けてくれ! もしトレゾルカを癒したら、金はいくらでもくれてやる!」と彼は囚人に叫んだ。
 それはシベリヤ生まれの狡猾な悪賢い百姓で、じっさいいい腕を持った獣医だったが、ずぶの土百姓であった。
「おれはトレゾルカを見ると」と彼はその後、仲間の囚人たちに話して聞かせた。もっとも、それは少佐のところへ往診に行ってからだいぶたって、みんなこの一件を忘れてしまったころである。「見ると、犬の畜生め、長いすの上に白い羽枕を敷いて寝ているでねえか。ひと目見ると、炎症だってことがわかったから、血を取ってさえやりゃ犬の命は助かる、とこう腹ん中で思ったよ、まったくおら、ほんとのことをいってるんだ! でも、ひょっと癒すことができねえで、畜生がくたばっちまったらどうなるだべ、とこう腹の中で考えたもんだから、おれこういってやった。少佐殿、こりゃもうだめだ、手おくれでごぜえます、もしきのうかおとといか、ちょうどこの時刻に呼んでくださったなら、犬の命も助かったに相違ねえけんど、いまとなっちゃだめでがす、手遅れでごぜえます……」
 こうしてトレゾルカは死んでしまった。
 わたしはみんながこの少佐を殺そうとした話を詳しく聞いた。この監獄に一人の囚人がいた。もうここに三、四年住んでいて、ふだんから行状がおとなしいので知られていた。またほとんどだれともついぞ口をきいたことがないのも、人の目についていた。そういうわけで、彼はまるで阿呆扱いにされていた。字が読めるので、最後の一年間は聖書ばかり読み耽って、昼も夜も手放したことがなかった。一同が寝静まったころ、彼は真夜中に起き出して、教会用の蝋燭をともし、暖炉の上へはいあがって本を開くと、そのまま朝まで読み続けるのであった。ある日、彼は下士のところへ行って、仕事に出るのはいやだといいきった。報告を聞いた少佐は、かんかんになって腹を立て、すぐさま自身かけつけて来た。その囚人はあらかじめ用意しておいた煉瓦を持って彼に飛びかかったが、まんまと仕損じてしまった。彼は逮捕され、裁判にかけられ、処刑された。すべては手っ取り早くすんでしまった。三日ののち、彼は病院で死んだ。臨終の時、自分はべつにだれも憎んではいない、ただ苦しみたかったばかりなのだ、といった。そのくせ、彼はべつに分離派宗徒に属しているわけでもなかった。監房内では尊敬の念をいだきながら、ときおり彼の思い出話をした。
 やっとわたしは足枷を付け替えられた。そのうちに、作業場へは幾人かのパン売り女があとからあとからと姿を現わした。なかには、まだほんの小さな子供もまじっていた。一人前になるまで、彼らはたいていパンを売って歩くのだった。母親が焼くと、娘が売るというふうなのである。年ごろになっても、彼女らは相変わらずやって来たが、そのころにはもうパンなど持っていないのだ。ほとんどいつもそういう習慣《ならわし》になっていた。もう子供といえないような娘もまじっていた。パンは二コペイカなので、囚人たちはたいていみんなそれを買った。
 わたしは、一人の囚人がにこにこ笑いながら、パン売り女とふざけているのに気がついた。それはもう胡麻塩頭をしてはいたけれども、顔の色のあかあかとした指物師であった。女たちがやって来るちょっと前に、彼は紅金巾《べにかなきん》の切れを頸に巻いたのである。一人の肥ったひどい痘痕面《あばた》の女房が、彼の仕事台の上に籠を載せた。二人の間に話が始まった。
「おめえ、どうしてきのうあすこへ来なかったんだい?」とその囚人は、脂《やに》さがったような微笑を浮かべて聞いた。
「あら、あんなことを! わたしや行ったんだけど、おまえさんたちがすっぽかしたんじゃないか」と、蓮っ葉な女房が答えた。
「おれたちみんな呼ばれちゃったのさ。でなけりゃ、きっと約束の場所にいたんだがなあ……おとといはおまえたちの仲間がみんなおれんとこへやって来たぜ」
「だれとだれさ?」
「マリヤーシカも来たし、ハヴローシカも来たし、チェクンダも、ドゥヴグロショーヴァヤも来たよ……」
「あれはなんのことだね?」とわたしはアキーム・アキームイチにたずねた。「まさか?………」
「よくあるやつさ」と彼は控えめに双の目を伏せて答えた。彼はなみはずれて童貞家だったのである。
 そういうことはもちろんあるにはあったが、きわめてまれで、大変な困難のともなう仕事であった。概していうと、自由を剥奪された生活にあっては、自然そうした要求を感じるのはいうまでもないことながら、しかしそれよりも、たとえば一杯やったほうがよい、という仲間のほうが多かった。女に近寄るということは、容易な業ではなかった。まず時と場所を選び、条件を決め、逢引きの約束をして、二人きりになる機会を求めるのだが、それがきわめて困難なのであった。それよりもなお大変なのは、警護の兵隊をまるめ込むことだった。概して、比較的の話ではあるが、底なしに金をつかわなければならなかった。にもかかわらず、わたしはその後ときどき、こうした濡れ場の目撃者になる機会があった。いまでも覚えているが、ある夏の日のこと、わたしたちが三人でイルトゥイシュの河べりにある小屋の中で、何かの石を焼く竃《かま》を焚いていた。その時の警護兵は親切な人たちであった。やがてその中に、囚人たちのいわゆる『だるま』が二人あらわれた。
「おい、いったいどこにしけ込んでいたんだい? ズヴェルコフんとこじゃねえかな?」と前から待ちくたびれていた一人の囚人が、こういって女たちを出迎えた。彼女らはこの男のところへやって来たのである。
「わたしがしけ込んでたっていうのかい? なあに、わたしがあの人のところにいたよりか、竿のさきにとまった鵲《かささぎ》のほうが、よっぽど長いことおみこしを据えていたよ」と一人の娘が浮き浮きした調子で答えた。
 それはこの世にまたと二人あるまいと思われるほど小汚い娘であった。これがすなわちチェクンダなのである。この女といっしょに来たのはドゥヴグロショーヴァヤ[#割り注]二コペイカ銅貨二枚の女という意味である[#割り注終わり])で、これはもうお話のほかだった。
「おまえさんとはしばらくあわなかったな」と色男はドゥヴグロショーヴァヤに向かって、言葉を続けた。「どうしたんだい、なんだかやせたようじゃないか?」
「そうかもしれないわ。もとわたしはとても肥っていたけれども、今じゃまるで針でも呑んだみたいだわ」
「相変わらず兵隊どもを相手にふざけてるんだろう!」
「いいえ、それはみんなどこかの意地わるが、あんたの耳にそんなことを吹き込んだのよ。でも、何も隠すことはいりゃしない! よしんば一文なしになったって、兵隊さんをかわいがってやりたいわ!」
「おまえら、あんなやつなんか吹っ飛ばして、おれたちをかわいがってくれや。おれたちにゃ金もあるし……」
 この場面を完全に仕上げるためには、頭を剃られて、足枷を引きずり、左右色のちがう囚人服を着て、兵隊に警護されているこの色男の風貌を想像してもらえばじゅうぶんだろう。
 わたしはアキーム・アキームイチと別れると、もう監獄へ帰ってもいいということがわかったので、警護の兵士を促して、帰途についた。もうみんなそろそろ集まって来るところだった。真っさきに作業から帰って来るのは、請負仕事をしている連中だった。囚人たちを一生懸命に働かせる唯一の方法は、ほかでもない請負仕事を与えることである。時とすると、この請負仕事はとほうもなく大がかりなこともあったが、それでも強制労働を食事の太鼓が鳴るまでのべつやらせるよりもはるかに短い、半分くらいの時間で仕上げてしまうのである。請負仕事を片づけると、囚人たちは大きな顔をして帰って来られるので、だれもそれを引き留めるものはなかった。
 食事はぜんぶいっしょではなく、早く帰って来たもの勝ちにすませて行った。それに、炊事場もみんなを一時に収容することはできなかったのだ。わたしは肉入菜汁《シチイ》を味わってみたが、不慣れのせいで喉を通らなかったので、勝手にお茶を入れて飲んだ。わたしたちは食卓の端に陣取っていた。わたしの相手になっていたのは、同様に貴族出の仲間の一人であった。
 囚人たちは入って来たり、出て行ったりしていた。が、それでも場所はゆったりしていた。まだ全部は集まってはいなかったのである。五人ばかりのひと組が、大きなテーブルをひとつ特別に占領していた。炊事番は彼らのために肉入菜汁《シチイ》を椀に二杯ついで、焼魚を盛った大きな土鍋をテーブルの上に据えた。彼らは何かのお祝いをしているらしく、自分の注文したご馳走を食べているのだった。彼らはわたしたちのほうをじろじろにらんだ。そこヘー人のポーランド人が入って来て、わたしたちと並んで腰をかけた。
「おれあ家を空けていたけれど、何もかもすっかり知ってるぞ!」と一人の背の高い囚人が、炊事場に入って来て、そこに居合わす一同をじろりと見まわしながら、大きな声でどなった。
 彼は年のころ五十がらみ、筋ばってやせた男であった。その顔には何かずるそうな、同時に陽気なところがあった。とくに目立つのは、垂れ気味になった厚い下唇で、それが彼の顔に何やらひどく滑稽な感じを与えていた。
「よう、ご機嫌よう! なんだっておれに挨拶をしねえんだ? 同じクールスクの仲間のくせに!」と彼は特別注文の料理を食っている連中のそばに腰をおろして、付け加えた。「よろしくおあがり! さあ、お客に来たんだ、よろしく頼むぜ」
「ところがな、兄弟、おいらはクールスクのもんじゃねえよ」
「じゃ、タンボフのもんかい?」
「なあに、タンボフのもんでもありゃしねえ、おれたちはな、何もおまえにゆすられるような筋はありゃしねえ。それよか、もっと金持ちの野郎のところへ行って無心するがいい」
「おれあきょう腹がぺこぺこでな、胃の腑《ふ》がぐうぐういってやがるんだ。いったいそいつはどこにいるんだ、その金持ちの野郎はよ?」
「そら、あのガージンは金持ちじゃねえか、やつのところへ行きな」
 「兄弟衆、きょうガージンの野郎は大散財をやってるぜ、腰を据えて呑み出しやがったから、財布の底をはたいちまう気だぜ」
「二十ルーブリぐらいは持ってやがるはずだ」ともう一人が口を入れた。「酒屋になると、うめえもんだな、兄弟」
「どうだ、ご馳走してくれねえのかい? ふん、それじゃお上のくだされ物でもすするとしべえか」
「おい、おめえあそこへ行って、茶でも振るまってもらえよ。そら、旦那がたが召し上がってござるじゃねえか」 
「旦那がたたあなんのこったい、ここにゃ旦那なんてものはありゃしねえ。今となっちゃ、こちとらと似たり寄ったりの手合いばかりだ」と片隅にすわっていた一人の囚人が、陰気な調子で口を切った。それまで彼はひと言もものをいわなかったのである。
「茶を腹いっぺえ飲むのも悪くねえが、ご無心するのも気がさすでな。おれたちだって、一寸の虫にも五分の魂だ!」と厚い唇をした囚人が、人の好さそうな目つきで、わたしたちのほうを見ながらいった。
「もしなんなら、ご馳走するよ」とわたしはその囚人を招きながらいった。「お望みかね?」
「お望みかって? これがお望みでなくって、どうするもんか!」彼はわたしたちのテーブルに近寄った。
「ちぇっ、家じゃ草鞋《わらじ》で菜汁《シチイ》をすすってやがったくせに、ここで茶なんてものを覚えやがった。旦那がたの飲み物をほしがるなんて」と陰気な囚人がいった。
「いったいここじゃだれもお茶を飲まないのかね?」とわたしはたずねた。が、彼はもったいぶって返事もしてくれなかった。
「ほら、丸パンを持って来た。こうなったら丸パンもご馳走になりてえもんで」
 丸パンが持ち込まれた。一人の若い囚人がひとかかえ持って来て、それを監獄じゅうに売り歩いているのだった。パン売り女は彼に一割分だけのパンを提供するので、その口銭が目当てなのであった。
「丸パン、丸パン!」と彼は炊事場へ入って来て叫んだ。「モスクワ式の熱い焼きたて! おれあ自分で食いてえんだが、それにや金がいるんでな。さあ、みなの衆、たった一つでおしまいだ。ほんとうに母親《おふくろ》の腹から生まれたやつは買いなよ」
 この母親の愛を思い起こさす言葉は一同を笑わせた。いくつかのパンが売れた。「ときに、どうだね、兄弟」と彼はいった。「きょうはガージンのやつが、とことんまで酔っぱらうっていうじゃねえか! いやはや! なんてえ時にそんなことを考え出しやがったんだ。運わるく八方にらみがやって来るかも知れねえのに」
「だれか隠してやるだろう。どうだい、ぐでんぐでんかい?」
「お話になりゃしねえ! 酒癖の悪い野郎で、みんなにからんで来やがるんだ」
「ふむ、それじゃ、とどのつまりは喧嘩さわぎだな……」
「あれはだれのことをいっているんです?」とわたしは隣にすわっているポーランド人に問いかけた。
「あれはガージンっていう囚人のことですよ。ここで酒の商売をやってるんですが、いい加減稼ぎためると、さっそくそいつを飲んじまうんです。残忍で凶暴なやつですが、しらふの時はおとなしいんです。ところが、酔っぱらうと、すっかり本性を現わして、刃物を持って人に飛びかかったりする始末なんで。そういう時には、思いきって懲らしめてやるんですがね」
「懲らしめるって、どんなにして?」
「十人ばかりの囚人がかかって行って、やつが気を失うまでこっぴどくぶんなぐる、つまり半死半生の目にあわせるんですな。そうやっておいて、やつを寝板の上に寝かせて、上から半外套をかけてやる」
「だって、そんなことをしたら、殺してしまうかもしれないじゃありませんか?」
「ほかの者ならまいってしまうかもしれないけれども、やつに限ってそんなことはありません。なにしろめっぽう力持ちで、この監獄じゅうでだれよりもいちばん強いでしょう。それに、じつに頑丈な体格をしているんでね。だから翌朝になると、もうすっかりもとのからだになってるんですよ」
「ところで、もうひとつおたずねしますが」と、わたしはポーランド人に質問を続けた。「わたしはお茶を飲んでいるが、あの連中だって現にご同様、特別注文の料理を食べている。それなのにあの連中はなんだか、このお茶を羨ましがっている様子だが、これは全体どうしたわけでしょう?」
「それはお茶のせいじゃありませんよ」とポーランド人は答えた。「つまりあなたが貴族出身で、やつらとまるで違っているものだから、それで業《ごう》を煮やしているんです。やつらの中には、あなたに喧嘩を売りたがっている連中がたくさんいますよ。やつらはあなたを侮辱してやろう、恥をかかしてやろうと思って、うずうずしているんですよ。これからまだあなたはここで、いろいろいやな思いをしなけりゃなりませんよ。ここはわれわれのような人間にとっては、じつに住みにくいところですね。われわれはあらゆる点でだれよりも苦しい目を見るんです。こいつに慣れきってしまうには、万事につけて無関心でいることが必要ですよ。あなたはまだ一度や二度でなく、やれお茶を飲んだとか、やれ特別な料理を取ったとかいって、悪口を聞かされたり、不愉快な思いをさせられたりすることでしょうよ。そのくせここでは、ずいぶん大勢のものが、かなりしょっちゅう特別注文の料理を食べるし、なかにはしじゅうお茶を飲む連中もいるんですがね。やつらはかまわなくっても、あなたはいけないんですよ」
 そういって、彼は立ちあがり、食卓を離れた。それからわずか数分の後、彼の予言が的中したのである。

[#3字下げ]3 最初の印象(つづき)[#「3 最初の印象(つづき)」は中見出し]

 M――ツキイ(わたしと話していたポーランド人)が出て行くやいなや、へべれけに酔っぱらったガージンが炊事場に乱入した。
 白昼、しかもみんなが仕事に出なければならない平常《ただ》の日に、いつ監獄へやって来るかわからない厳格な要塞司令官、一歩も獄舎から離れず囚人たちを監督している下士官、衛兵、廃兵、ひと口にいえば、ありとあらゆるこうした厳重な監視を無視して、囚人が酒に呑んだくれているということは、わたしの脳裡にできあがっていた囚人生活の概念を完全に混乱させてしまったのである。徒刑場へ入った当座、まるで謎のように思われたこれらの事実をすっかり明瞭に会得するまでには、わたしもかなり長い監獄生活をしなければならなかった。
 囚人はいつも自分の仕事を持っていて、この仕事が徒刑生活の自然な要求であるということ、またそうした要求以外に、囚人が熱情的な愛で金銭を愛し、それを何よりも尊いもの、ほとんど自由に匹敵するほど尊いものとしていること、したがってポケットの中で金がじゃらついてさえいれば、囚人はもうそれで慰藉を感ずること、これらはすでに述べたとおりである。その反対に金がなくなると、彼らはたちまちしょげて、沈みがちで不安になり、元気をなくしてしまう。そうなると、泥棒でもなんでもやってのけ、ただ金さえ手に入れればいいという気持ちになるのだ。ところが、金は獄内で非常な貴重品であるにもかかわらず、運よくそれを手に入れた男の懐《ふところ》にいつまでも納まっているようなことはけっしてない。第一、盗まれたり没収されたりしないように、うまくしまっておくということがむずかしかった。不時の点検の時、もし少佐が金を見つけたら、即座に取り上げてしまう。あるいは、少佐もこの金を囚人の食物の改善に使ったのかもしれないが、とにかく金はぜんぶ彼の手に届けられた。しかし、それよりも盗まれる場合のほうが多かった。まったくだれ一人信用のできるものはいないのだ。のちになって、わたしたちの監房では絶対安全に保管する方法を発見した。ほかでもない、かつてヴェトコーフツイと呼ばれていたスタロドゥボフ村からわたしたちの監房へ入って来た旧信派の老人に、金を預かってもらうのであった……話が本題からはずれることにはなるけれども、わたしはこの老人についてひと口、話をしないではいられない。
 それは年ごろ六十ばかりの、小さな胡麻塩頭の爺さんであった。ひと目見た時から、彼はわたしに強い印象を与えた。ほかの囚人とはまるで似かよったところがないのだ。その眼ざしには何かしら落ちつき澄ました静かなものがあって、今でも覚えているが、わたしは一種特別な満足の情をいだきながら、こまかい放射状の皺に包まれた晴れやかなあかるい目を、じっと眺めていたものである。わたしはしばしば彼と話をしたが、こんな善良で心の優しい人間に出会ったことは、わたしの生涯でも珍しいくらいであった。彼は非常に重大な犯罪でここへ送られて来たのである。スタロドゥボフの旧信派の間に、改宗者が現われるようになった。政府は極力それを奨励して、なお今後とも残りの強情な連中を正教に改宗させるため、あらゆる努力をそそぎ始めたのである。老人はその他の信仰気ちがいといっしょになって、彼自身の言葉をかりると、「教えのために闘おう」と決心した。そのおり正教派の教会の建築が始まったので、彼らはそれを焼いてしまった。老人は主謀者の一人として懲役に送られたのである。彼は富裕な町人で、商売をやっていた。家には妻子が残っていたが、彼は雄々しくも流刑地に向かって出発した。信仰のために目がくらんでいたので、これも「教えのための苦しみだ」と思い込んでいたからである。この男としばらくいっしょに暮らした人は、このつつましやかな、子供のようにおとなしい人間が、どうして謀叛《むほん》じみた真似をすることができたのだろうと、われともなしに疑問をいだかずにはいられない。わたしはいくたびか「信仰について」彼と話し合ってみた。彼は自分の信念を一歩も譲らなかったが、その反駁にはけっしてなんらの悪意も憎悪もまじっていなかった。にもかかわらず、彼は教会を焼き払って、その事実を否定しようとしないのだ。どうやら彼は日ごろの信念上、自分の所行と、そのために受けた「苦しみ」を、当然、りっぱな行為と見なしているらしかった。しかし、わたしはどんなに彼を観察し研究してみても、そこに虚栄心とか傲慢とかいうものを毛筋ほども認めることができなかった。わたしたちの監獄には、ほかにもまだ旧信派の連中がいた、その大部分はシベリヤ生まれであった。彼らはなかなか頭のある人たちで、狡猾《こうかつ》で、本もずいぶん読んでおり、もの知りで、自己流とはいいながら、ずいぶん弁口の達者な連中であった。みんな高慢で、腕っぱしが強く、悪知恵があって、どこまでも人を容れようとしなかった。ところが、この老人はまるで別な人間であった。本を読んでいる点では、彼ら以上であったかもしれないが、老人は議論など避けるように避けるようにしていた。このうえもなく人づきあいのいい性質で、陽気で、よく笑った。それも徒刑囚独特の下品な、皮肉な笑いかたではなく、明るい穏やかな笑いかたで、その中には子供っぽい単純さが多分にあって、なんだかその胡麻塩の髪に格別ふさわしいのであった。これはわたしの考え違いかもしれないが、笑いかたで人がらが知れるような感じがする。だれにもせよ、今までまるで知らない人にはじめて出会って、その人の笑い声が気持ちよく思われたら、それは良い人間だと大胆にいいきることができる。老人は監獄の中で一同の尊敬を集めていたが、いささかもそれを鼻にかけるようなことはなかった。囚人たちは彼をおじいさんと呼んで、一度もこの老人を侮辱などしなかった。彼が同宗の仲間たちにどれだけの勢力を持つことができたか、わたしは多少ながらうかがい知った。しかし、表面毅然たる態度で徒刑生活に堪えていってはいたけれども、その内部には癒やすことのできない深い憂愁が潜んでいて、彼はそれを人々の目から隠そうと努めていたのである。わたしは彼と同じ監房に暮らしていた。ある時、夜中の二時過ぎにふと目をさますと、静かな忍び泣きの声が耳に入った。老人は暖炉の上にすわって(それは以前少佐を殺そうとした男が、聖書に読み耽って、夜な夜な祈りをささげていたあの暖炉である)、自分の写した本で祈祷を上げているのであった。彼は泣いていた。ときおり、「主よ、われを見すてたもうな! 主よ、われに力を与えたまえ! わしの小さい子供たち、わしのかわいい子供たち、わしらはもう二度と逢うことはあるまい!」という小声がわたしの耳に入った。わたしがどんな悲しい気持ちになったかは、言葉に尽くすこともできない。つまりこの老人に、ほとんどすべての囚人たちがぼつぼつと、自分の金を預けるようになったのである。徒刑場ではほとんどだれもが泥棒だった。けれども、なぜかすべての囚人たちは、この老人ならけっして盗むはずはないと信じ切ったのである、彼が預かった金をどこかへ隠したのは、だれもが承知していた。が、それはどんな人間にも探し出せない秘密の場所なのであった。後日、彼はわたしと二、三のポーランド人にその秘密をうち明けた。柵の杙の一本に、見たところ他の部分にしっかりくっついているらしい節があった。しかし、その節は引き抜くことができて、その跡に大きな空洞《うつろ》ができるのであった。おじいさんはそこへ金をかくして、それからまた節を嵌《は》めておいたので、だれもこんりんざいさがし出すことができなかった。
 が、わたしはすっかり横道に入ってしまった。わたしはなぜ囚人のふところに金がじっと納まっていないか、というところまで話したわけだ。しかし、金をしまっておくことがむずかしいということ以外、徒刑生活には無量の懊悩《おうのう》がある。囚人は本来の性質からいって、はなはだしく自由を渇望する存在であり、また社会上の位置からいって、このうえもなく軽はずみな無秩序の人間であるから、自然の道理として、不意に、「こんかぎり羽をひろげて」財布の底をはたき、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをやって、せめて一刻なりと憂を忘れたいという要求に引かれるものである。じっさい、彼らのあるものが、時とすると数か月の間、背中を伸ばす暇もないほど働き続けて、それで儲けた金をただの一日で洗いざらいはたき上げ、またこの次の散財を楽しみに何か月も何か月もこつこつと働くのを見ると、不思議な気持ちがするくらいである。彼らの多くは新しいものを身につけることを好んだ。しかも、それはかならず決まった型からはずれた物に限っていた、規定にはずれた黒のズボンとか、袖無し外套とか、短上着《シビルカ》といったようなたぐいである。それから、更紗《さらさ》のルバシカと真鋳《しんちゅう》金具のついたバンドもさかんに行なわれた。祭日にはそれらのものを着用に及んで、着飾った連中は晴れの姿を世間様に見てもらうために、かならず監房じゅうを練り歩くのだ。いい着物を着た連中の自己満足は子供くさいほどであったが、いったいに囚人は多くの点でまったく子供同然であった。もっとも、そういういい着物もなんだか急に持ち主の手から消えてしまった。どうかすると、その晩のうちに質に入れられたり、二束三文でたたき売られたりするのであった。とはいうものの、こうした大散財は、だんだんと順を踏んで運ばれて行くのであった。たいていは祭日とか、または当人の命名日とかに持って行くようにしていた。命名日にあたる当の囚人は、朝起きると聖像に蝋燭を上げてお祈りをする。それから晴れ着をきこんでご馳走を注文するのだ。牛肉や肴が買い込まれ、シベリヤふうの肉入り団子が作られる。当人は牡牛のようにたらふくたべるが、たいていは一人きりで、仲間を招待してご馳走をわかち合うことはめったにない。そのあとで酒が出る。命名日のご当人はへべれけになるまできこし召すと、かならず自分は酔っぱらっているのだ、『散財している』のだということをみんなに見せつけて、一同の尊敬を獲得しようというのである。どこへ行ってもロシヤの民衆は、酔っぱらいに対してある同情をいだいているのが感じられる。ところが監獄の中となると、散財している人間には尊敬さえ払うのだ。獄内の散財には一種の貴族主義ともいうべきものがあった。興に乗じた囚人はかならず音楽を雇った。この監獄には脱走兵のポーランド人が一人いた。すこぶるいやなやつだったけれど、ヴァイオリンが弾けて楽器を自分で持っていた。――それが彼の全財産なのだった。彼は手に職が何もなかったので、ただ酔っぱらいに雇われて、陽気なダンスものを弾くのを商売にしていた。彼の職務は、酔っぱらった主人の跡を一歩も離れずに監房から監房へついて歩き、精いっぱいのこぎりの目立てをやることであった。彼の顔には倦怠と憂愁の色が浮かぶことがしばしばあった。けれども、「おい、弾かんか、金を取ったんじゃねえか!」という一喝にあうと、またぞろのこぎりの目立てを始めなければならないのであった。囚人は散財を始める時、よしんばへべれけに酔い潰れても、かならずほかのものが気をつけていて、いい加減のとき寝かしてくれる。もし役人が姿を現わしたら、いつもどこかへ隠してくれるということを、固く信じてさしつかえないのであった。しかも、それはいっさい欲気ぬきですることなのであった。一方、下士にしても、獄内の秩序を取り締まるために住み込んでいる廃兵にしても、同様平然としてすましていることができた。酔っぱらいが乱暴狼藉を働く気づかいはなかったからである。監房じゅうのものが彼に目をつけていて、もし騒いだり暴れたりしはじめたら、すぐにみんながかりで取り鎮めるか、あるいは手っ取り早く縛り上げてしまうのだ。こういうわけで、監獄の下役人たちは見て見ないふりをしていたのみならず、そんなことを目にいれるのをいやがってさえいた。彼らは、酒を許さなかったら、かえって始末が悪い、ということをよく知っていたのである。だが、酒はそもそもどこから手に入れるのか?
 獄内の酒は、いわゆる酒屋に売ってもらうのであった。酒屋は何人かいて、その商売は年じゅう休みなく、しかもうまくいっていた。そのくせ、散財は金がかかるし、囚人は金を手に入れるのがむずかしいから、酒を飲んで『散財する』連中は概して数が少なかったのだ。この商売はかなり奇抜な方法で始められ、次第に発展して、最後の解決がつくのであった。たとえば、ある囚人が手に職も持っていず、働くのもいやだけれど(そういった人間がよくあった)、しかし金がほしいと仮定しよう。しかも、その人間は辛抱気がなく、濡れ手で粟の儲けがしたいのだ。彼は手はじめにいくらかの金があるので、酒の商売をしようと腹を決める。これは度胸もいれば非常な冒険を要する仕事なのだ。そのためには、背中を笞で引っぱたかれたうえ、一度に元も子もなくしてしまうおそれがある。しかし、酒屋はそれを承知で始めるのだ。はじめは元手が少ないから、最初の一回は自分で獄内へ酒を持ち込み、もちろん有利にそれをさばく。この経験を二度三度とくり返して、もし役人の手に引っかからなかったら、商売はたちまちうけに入って来る。そのときはじめて、酒屋は大がかりにほんとうの商売を始めるのだ。自分が事業主にも資本家にもなって、手先や助手をかかえるようになる。そうすれば、危険ははるかに少なくなって、儲けはますます大きくなる。助手たちが彼に代わって危険を一身に引き受けるからである。
 監獄の中にはどんな時でも、最後の一コペイカまで酒と博奕にすってしまって、手に職もなく、ぼろぼろの着物をきて、みじめな恰好をしているけれども、ある程度、大胆で度胸の据わった人間がたくさんいるものだ。こういう連中の元手として無事に残っているものは、たったひとつ自分の背中だけである。これはまだ何かの役に立つかもしれないので、一文なしになった道楽者は、この最後の資本にものをいわせようと決心する。彼は事業主のところへ行って、獄内へ酒を持ち込む仕事に雇われる。手広くやっている酒屋は、そういう下働きを幾人か抱《かか》えているのだ。監獄の外にはまたこんな人間がどこかにいる、――兵隊か、町人か、ときには娘っ子のこともあるが、獄内の事業主の金で、一定の手数料、しかもかなり少なからぬ手数料を取って、酒場で酒を仕込み、囚人たちが労役に行く方面で、どこか秘密の場所にかくしておくのである。この請負人がほとんどつねにまずウォートカのきき酒をして、自分の飲み減らした分だけ、遠慮会釈なしに水をさしておくのである。しろものがよかろうと悪かろうと、囚人の身分ではあまり選り好みができるものではない。それに、自分の金が全部ふいになってしまわないで、どんなものにもせよ、とにかくウォートカと名のつくものが手に入っただけでも、ありがたいとしなければならない。この請負人のところへ、前もって獄内の酒屋から通牒のしてある持ち込みがかりが、牛の腸を持ってやって来る。この牛の腸はすっかりはじめに洗い上げて、それから水をいっぱい入れておく。そうすれば腸ははじめのままの湿り気と弾力性を失わないで、やがてそのうちにウォートカを運ぶのに都合のいい容れ物になる。腸にウォートカを満たすと、囚人はそれを自分のからだに巻きつける。それには、なるべく一番の隠しどころを選ぶのだ。もちろん、このさい、密輸入者のすばしっこさと、泥棒式の悪知恵が発揮される。彼の信用はもう多少傷ものになっているのだから、うまく警護兵や衛兵をごまかさなくてはならない。またまんまと、ごまかしおおせるのだ。腕のいい泥棒にかかると、たまたま新兵あがりの警護兵などは、いつも決まって見のがしてしまう。いうまでもなく、警護兵の人となりはあらかじめ研究しておくのだし、そのうえ、仕事をする時や場所なども頭に入れておくのである。たとえば、暖炉職人の囚人が暖炉の上へはいあがったとすれば、そこで何をしていようと、だれの目にも入りはしない。まさか警護兵が、そのあとからはいあがるわけにはいかないではないか。監獄に近づくと、彼は万一の場合の用意に、十五コペイカか二十コペイカの銀貨を手に握って、門ぎわで上等兵を待ち受ける。労役から帰ってきた囚人はだれでも、衛兵所の上等兵に綿密な検査を受け、からだじゅう探りまわされたあげく、やっと監獄の門をあけてもらえるのだ。酒の持ち込みがかりは概して、自分のからだのある部分は遠慮してあんまり綿密に探りはしないだろうと、そこに望みをかけるのだ。しかし、どうかすると、曲者の上等兵などは、そういう場所にまで手を伸ばして酒を探り当てる。そうなったら、最後の手段に訴えるより仕方がない。密輸入者は警護兵に見つからないように、手に隠していた銀貨を黙って上等兵に握らせる。こういった危ない綱渡りで首尾よく関所を抜けて、獄内へ酒を持ち込むこともあるが、ときにはこの綱渡りが失敗すると、その時は自分の最後の元手、つまり背中で始末をつけなければならないことになる。事件は少佐に報告され、例の元手はぶんなぐられる、しかも小っぴどくぶんなぐられて、酒はお上に取りあげられる。こうして、密輸入者は事業主の名を口外せず、何もかも自分一人で引き受けるのだ。ここでちょっと断わっておくが、べつに密告をいまわしい所業と考えるからではなく、要するに、密告などすれば自分のためにならないから、というだけのことである。どっちみち自分は笞で打たれるのだ、二人いっしょに打たれたら、せめてもの心やりにはなるだろうが、しかし、事業主はまだ自分にとって必要なのだ。もっとも、昔からのしきたりとかねてからの契約で、よしんば背中を笞で引っぱたかれても、持ち込みがかりは事業主から一コペイカももらえないことになっているのだ。
 一般に密告ということについていえば、これはおおむねさかんに行なわれている。監獄では密告しても、いっこう他人から軽蔑されず、密告を憤慨するなどということは、夢にも考えられないくらいである。人々は密告者を毛嫌いせず、彼らと友だちづきあいを続けていくので、よしんば密告はいむべき行為であると説いて聞かせても、獄内ではまるで呑み込んでもらえないだろう。わたしがいっさいの交渉を断ってしまった、身持ちの悪い、卑劣な、貴族出の囚人などは、少佐の従卒をしているフェージカと親交を結んで、彼のためにスパイの役を勤めていた。フェージカのほうは、彼の口から聞き込んだ囚人の動静を逐一、少佐に報告するのであった。わたしたちの仲間ではみんながそれを知っていたけれども、かつてだれ一人としてこのやくざ者を制裁するものはおろか、咎め立てひとつしようとする者がなかった。
 しかし、わたしはまたわき道へそれた。酒が無事に持ち込まれることもたびたびあったのは、いうまでもない。そのとき事業主は運びこまれた腸を受け取って、金を払い、それから計算を始める。勘定してみると、その商品は滅法高いものについていることがわかる。そこですこし儲けを増すために、彼はそれをもう一度ほかの容れ物に移して、さらに半分がた水を割る。こうしてすっかり準備を整えて、買い手を待っているのである。やがて次の祭日に、どうかすると平日でさえも、買い手がやって来る。それは数か月も水車場の牛のように働いて、目腐れ金を貯め込み、前からちゃんと決めておいた日に残らず飲んでしまうことにしていた囚人である。この日たるや、いよいよ実現されるずっと前から、この哀れな苦行者の夢に浮かび、仕事の間の幸福な空想に描かれ、その魅力をもって監獄生活の退屈な明け暮れに、彼の気力を支えて来たものである。ついに楽しい日の曙が束の空に輝きはじめる。金は稼ぎ貯められて、没収もされねば盗まれもしなかった。彼はそれを酒屋のところへ持って行く。酒屋ははじめ、なるたけ生一本の酒を売る、というのは、たった二度しか水を割らない酒のことである。しかし、びんから酒をつぐにしたがって、減った分だけさっさと水を足しておく。だから一杯の酒は、酒場で売っているのより、五倍も六倍も高くつくのだ。こういう酒で酩酊《めいてい》するのは、何杯盃を重ねて、どれだけ金を払わなければならないか、およそ想像することができよう。しかし、長く酒から離れて、前々から禁酒を続けていた囚人は、かなり早く酔いがまわって、普通は有り金を残らずはたいてしまうまで飲みつづけるのである。金がなくなると、今度は新調の衣類が持ち出される。酒屋は同時に高利貸でもあるのだ。まず新しく作った私有品が持ち込まれるが、そのうちに古いぼろにも手をつけ、最後は官給品にまで及ぶのである。いよいよぼろ屑一つ残さず飲みつくすと、酔いどれはぶっ倒れて寝てしまう。あくる朝は、かならず割れるように痛い頭をかかえて目をさまし、たったひと口でいいから迎え酒を飲ましてくれと酒屋に哀願するが、結局それは無駄な話である。彼は悄然として自分の不仕合わせを忍びながら、その日からさっそく仕事にかかり、永遠に去って二度と返らぬ幸福な酒宴の日を夢見ながら、また腰を伸ばす暇もなく何か月も何か月も働き続ける。そして、すこしずつ元気を取り戻して、まだ遠いさきのことではあるが、やがていつかは順番のまわって来る次の幸福な日を、待望しはじめるのだ。
 酒屋のほうはといえば、こうしてついに何十ルーブリという大金を儲けると、彼は最後にもう一度酒を仕入れる。が、今度はもう水を割らない。なぜなら、それは自分の飲みしろだからである。もう売るのはたくさんだ。そろそろ自分でお祭り騒ぎをしてもいいころだ! やがて散財がはじまり、酒、料理、音楽、ということになる。なにしろ、元手が大きいから、手近な下役人までが買収される。どうかすると、このどんちゃん騒ぎが二、三日も続くことがある。仕込んだ酒が間もなく飲み尽くされるのは当然な話なので、そのとき散財の当人は、早くも自分を待ち受けているほかの酒屋へ行って、財布の底をはたくまで飲み続けるのだ。ほかの囚人たちは、ずいぶんこうした酔っぱらいを庇うようにしているけれども、ときには少佐とか、衛兵将校とかいう上官の目に触れることがある。すると、衛兵所へ引っぱられて、もし金を身につけていれば残らず没収され、あげくのはてに笞刑を食らう。当人はぶるっとひとつ身ぶるいして監獄へ帰り、二、三日すると、また酒屋商売に取りかかるのだ。こういう道楽者の中には、――もちろん、金持ちでなければならないが、――異性のことを空想する者もある。彼らはときどき大枚の金を払って買収した警護兵と同行で、労役のかわりにどこか場末のほうへ内証で出かけて行く。町はずれの淋しい場所に何か曖昧な家があって、そこで大盤ぶるまいの酒宴を始め、まったく莫大な金をまき散らすのだ。金さえ出せば囚人だって振られることはない。警護兵のほうは用意周到にあらかじめ目星をつけておくのである。普通こういった警護兵は、ご自分からして行く行くは監獄住まいの候補者なのだ。とはいえ、金の力をかりればなんでもできる道理で、こういった道行きもほとんど秘密にすんでしまう。一言つけ加えておくが、こういう場合はごくまれにしかない、これはなにしろ非常に金がかかることなので、好きもの連中はまったく安全な別の方法を選ぶのである。
 まだわたしが監獄生活を始めたばかりのころから、なみはずれた美少年の若い囚人が、とくにわたしの好奇心を呼びさました。名をシロートキンといった。彼は多くの点でかなり謎めいた存在であった。何よりも第一、わたしはその美貌に感心した。年は二十三を越してはいなかったらしい。彼は特別監房、つまり無期徒刑囚の監房にいたので、したがって最も重大な軍籍犯というわけであった。もの静かなおとなしい男で、あまり口数をきかず、めったに笑うこともなかった。目は空色をして、輪郭も整っており、顔は浄《きよ》らかで優しく、髪は薄い亜麻色をしていた。半分剃り落とされた頭さえ、あまりその顔を醜く見せなかった。それほど彼は美少年だったのである。何ひとつ手に職を持っていなかったけれども、金はぽっちりずつながら、しょっちゅう手に入れていた。彼は目に見えてなまけ者で、いつもだらしのない恰好をしていた。たまにだれかが彼にいい着物をきせて、ときには赤いルバシカなどくれてやると、シロートキンはいかにもその新調の着物がうれしそうな様子で、監房という監房を歩きまわって、見せびらかしたものである。彼は酒も飲まなければカルタ遊びもせず、ほとんどだれとも喧嘩をしたことがない。よく両手をポケットへ突っ込んで、つつましやかな、もの思わしげな様子で、監房の裏を歩きまわっていたものである。彼にどんな考えごとがあるのか、それはちょっと想像が困難である。ときおり、もの好き半分に声をかけて、何か彼に問いかけると、彼はさっそく返事をするばかりか、妙に囚人らしくもなく、丁寧な口のききかたをする。が、いつも簡単な話しぶりで口数が少ない。しかも、その目つきは十ぐらいな子供のようなのだ。金ができると、彼は何か必要な物を買うでもなければ、上着を修繕にやるでもなく、新しい靴をこさえもしないで、丸パンや生姜《しょうが》餅を買ってむしゃむしゃ食べてしまう、――まるで七つかそこいらの子供みたいである。「おい、シロートキン!」と囚人たちがよくそういったものである。「おまえはカザンの孤児《シロタ》だな!」労役のない時間には、たいていよその監房をぶらついている。ほとんどみなが自分のかせぎ仕事をしているのに、彼だけはなんにもすることがないのだ。他人が何か話しかけると(ほとんどいつもからかい半分なのだ、みんなこの少年とその仲間をよくからかったものである)、彼はひと言も口をきかないで、くるりと背中を向け、ほかの監房へ行ってしまう。でもどうかしてあまり笑いぐさにされると、顔をあからめることもある。わたしはしょっちゅう心の中で、このおとなしい単純な人間がどうして監獄へ入ったのかと考えたものである。ある時わたしは病院の囚人病室に寝ていたことがある。シロートキンもやはり病室でわたしのそばに寝ていた。とある夕方、わたしはこの男と話し込んだ。彼はふとしたはずみで感興に乗り、話のついでに自分が兵隊にやられた時のこと、母親が見送りながら泣いたこと、兵営生活のつらかったことなどを物語った。彼はそれにつけ加えて、そこではだれもかれもやたらに怒りっぽくて、やかましい連中ばかりだし、上官はほとんど年じゅう自分のすることに不満がっていたから、兵営生活はどうしても我慢ができなかったといった。
「それで結局どうなったの?」とわたしはたずねた。「なんだってこんなところへ来ることになったんだね? おまけに、特別監房なんかへ……ああ、シロートキン、おまえは孤児《シロタ》だね!」
「じつは、あっしはね、アレクサンドル・ペトローヴィチ、大隊にいたのは、たった一年きりです。ここへやって来たわけは、中隊長のグリゴーリイ・ペトローヴィチを殺したからなんで」
「その話はぼくも聞いたが、シロートキン、どうもほんとうにならないんだよ。だって、おまえに人が殺せるもんかね」
「ついはずみでそんなことになってしまったんですよ、アレクサンドル・ペトローヴィチ。どうもあんまりつらくて、やりきれなくなったもんだから」
「だって、ほかの兵隊はどんなふうに暮らしているんだい? もちろん、はじめはつらいに決まっているが、そのうちだんだん慣れて、結局りっぱな兵隊さんになれるんだよ。おまえはきっとお母さんに甘やかされて、十八になるまで、生姜餅とおっぱいで育てられたんだろう」
「おっかさんはまったくのところ、とてもあっしをかわいがってくれました。あっしが兵隊に取られた時、おっかさんはあとでどっと床について、それきり起きられなかったということだっけ。……そのうちに、とうとう兵隊生活がつらくってたまらなくなったんです。隊長はあっしをきらって、箸のあげおろしにも罰を食わす、――しかも、どうしてかっていうと、なんのわけもないんで。あっしはみんなのいうとおりになって、きちょうめんな暮らしをしていたんですからね。酒も飲まなけりゃ、借金をしたこともありません。まったくのところ、アレクサンドル・ペトローヴィチ、この借金をするってやつは、よくないこってすものね。どっちを向いて見ても、血も涙もない連中ばかりで、声を出して泣く場所だってありゃしない。だから、よくどこかの隅っこへ行って、そこで思う存分泣いたものです。さて一度歩哨に立たされました。もう夜でしたが、哨舎のそばの鉄砲置き場のわきで歩哨をやらされました。ちょうど秋のことで、風がごうごう吹いて、一寸先も見えないような闇夜でした。すると、あっしはなんともかともいえないほど味気なくなって来ました! あっしは鉄砲を足もとへおろして、銃剣をはずしてそばへ置き、右の靴をぬいで、銃口を胸に当てがって、その上にからだをのしかけ、足の親指で引金を下ろしたんです。ところが、不発ときやがった! あっしはよく鉄砲を改めて、火門を掃除し、新しい火薬を填《つ》めて、珪石《けいせき》を削り直し、また胸に当てがったものです。ところが、どうでしょう、火薬はぱっと光ったけど、弾はやっぱり出ないじゃありませんか。これはいったいどうしたことだろう! と考えました。あっしは諦めて長靴をはき、もともとどおり銃剣を付けて、黙ってこつこつ歩きまわっていました。その時あっしは例のことをやっつけようと腹を決めたんです。たとえどんな所でもかまうもんか、ただこの兵隊生活さえ脱け出されれば、という気だったんです。三十分ばかりすると、中隊長がやって来ました。これが巡察長を勤めていたんです。来るといきなり、『いったいぜんたいそんな歩哨の立ちかたというものがあるか!』とどなりつけたもんです。あっしはやにわに鉄砲を取り直して、銃口の辺までずぶりと銃剣をやつのからだに突き通してやりました。そこで四千露里の道中をして、この特別監房へ入ったわけなんで……」
 彼の話はうそではなかった。もしそうでなかったら、どうして特別監房などへ送りつけるわけがあろう? ありふれた犯罪なら、ずっと罰が軽いはずである。もっとも、特別監房の仲間では、シロートキンだけが水ぎわだって美男子だった。この監獄に十五人もいたほかの仲間はどうかといえば、揃いも揃って、見ても変な気がするくらいのものであった。二、三人はそれでもどうやら我慢のできるご面相をしていたが、そのほかの連中と来たらどれもこれも間の抜けた、みっともない顔をして、だらしのない身なりをしているのであった。なかには白髪頭のものさえいた。もし事情が許すならば、わたしはいつかこの仲間のことをさらに詳しく物語ろう。シロートキンはしょっちゅうガージンとねんごろにしていた。このガージンというのは本章の発端になった男で、へべれけに酔っぱらって炊事場へ闖入《ちんにゅう》したために、わたしが最初いだいていた監獄生活の概念を混乱させた例の囚人である。
 このガージンは恐るべきしろものであった。彼は一同の者に悩ましいほど不気味な印象を与えた。わたしはいつも彼を見ると、これ以上獰猛《どうもう》な妖怪じみた存在は、またとほかにないだろうという気がした。かつてトボリスクで、さまざまな悪業で天下に名を知られたカーメネフという強盗を見たし、その後、兵営を脱走した未決囚で、恐ろしい殺人犯をおかしたソコロフをも見たことがある。が、それらのうち、だれ一人として、ガージンほどいとわしい印象を与えたものはないのである。わたしはどうかすると、人間くらいの大きさをした巨大な蜘蛛《くも》を眼前に見る思いがした。彼はダッタン人で、ものすごい腕力をそなえ、獄内でも一番の力持ちであった。丈は中背よりちょっと高く、ヘラクレスそこのけの体格をして、釣合いの取れないほど大きなみっともない頭をしていた。歩く時はすこし猫背になって、上目づかいにあたりを見まわすのだ。獄内では、彼のことで奇怪なうわさが行なわれていた。彼が兵隊あがりであることはだれでも知っていた。うそかほんとか知らないが、囚人たちの間では彼のことを、